里山悠々録

里山の家と暮らし、田んぼや畑、そして水墨画のことなどを記録していきます

フキノトウが採り頃に

2022年02月28日 | 山菜

フキノトウを採りました。
フキノトウは春を告げる山菜と言えるでしょうか。
今年は厳冬。先週は2日連続で真冬日を記録するなど繰り返し寒波が襲来しています。
今年は遅れることは確実と思っていました。
ここ2、3日急に気温が上がったので様子を見に行ってきました。
我が家の田んぼの土手です。結構出ています。
群生と言うほどではないものの、それなりにまとまって出ています。


例年なら2月20日頃には出始めるので、数日の遅れといったところでしょうか。
厳冬と言ってもそれほどは遅れないものです。
朝の8時半頃でしたが、霜が降りてまだ土や草が凍っていました。


この土手は南向きのため他より早い可能性はあります。
これはすでに開き始まっていました。


この脇は水路で、補修をした際、泥上げをしました。そこから生え出したものもあります。


フキノトウは面白い。
地下茎からまず地上に蕾を出し、それからトウが生長して花が咲きます。
その後から葉っぱが地上に伸びてきます。


大概の植物はまず葉っぱが伸び、ある程度大きくなったところで最後にトウが伸び出し、花が付きます。まるで逆さま。
昔、我が家ではフキノトウを食べる習慣はなかったように思います。
ですから、意識してフキノトウを採るということはありませんでした。
かつて県北部で仕事をしていた折り、たまたま「ばっけ味噌」をご馳走になったことがあります。
「ばっけ」とはフキノトウのこと。それまでは「ばっけ」も「ばっけ味噌」も知りませんでした。
「ばっけ味噌」はフキノトウと味噌を和えたもので、これが独特の風味で美味しい。
もっとも、我が家ではせいぜい天ぷら程度ですが。
フキノトウの採り頃は短い。苞葉が開いて中の花が見える前の蕾のうちです。


これくらいまで。


左のはぎりぎり、右のはまだ硬く早い。


20数個持ち帰りました。


凍害で葉先が黒変しているのが気になりますが、今年はしょうがないでしょう。
ささやかな早春の香りを味わいました。
当地のような寒冷地でも確実に春に向かっていることを知らせてくれます。


我が家に残る一通の古文書(後)

2022年02月27日 | いえ

前日からの続き。
我が家に、何故一通の古文書が300年近くもの間残されていたのかを考えてみます。


まず古文書にある百姓久三郎と水呑久右衛門の関係についてです。
久三郎から久右衛門に石高の一部を譲渡することによって久右衛門は新たに百姓になった訳です。
そして、水呑久右衛門を別家にしていることからみると、二人には血縁があったと考えるのが相当です。


この古文書は土地の権利と身分を証明するものとして扱われてきたと思われます。
それが故に、長い年月大事に保管されてきたのでしょう。
とうの昔に意味をなさなくなった古文書ですが、今日まで破棄せず残されてきた訳です。
3年ほど前、我が家の過去帳を作る際、家系を詳細に調べました。


父は当家の6代目と明記されているので、小生は7代目に間違いありません。
残されていた位牌や戸籍謄本などから2代目以降は明確に分りました。
問題は初代。
残されていた最も古い位牌から嘉永5年(1852年)没の人に間違いないと推測できました。


位牌には行年、俗名が明記されていませんでしたが、後に幸い墓石から判読でき、行年78歳、俗名久次と分りました。


ちなみに相方とみられる人は慶応4年(1868年)没で行年77歳、俗名は判読できませんでした。
2代目の没年は明治12年(1879年)で行年66歳、初代没後27年です。


ところで、江戸時代、一般庶民は公式な苗字(名字)即ち姓を持たないのが普通でした。
姓を持つことができたのは特別な名士だけだったと考えられます。
それが、明治初期に戸籍法や平民苗字制度が制定され、一般庶民も姓を持つようになります。
大概はその時点で○○家が誕生したと思われます。
当然、我が家も2代目の時代に現在の苗字を名乗り○○家となったのでしょう。
そして、我が家ではその時の先代をもって、初代としたものと推測されます。
我が家には、かつて古い墓地がありましたが、墓碑の多くは風化し読み取れなくなっていました。
それは現在の墓地に集約され、中にはっきり天明年間(1780年代)と分る墓碑があります。


また、古文書に記されている屋敷名は現在の地名と一致します。


久右衛門なる人物が別家として新百姓になったことがこの古文書の肝で、この人が我が家の実質的始祖だった可能性が極めて高い。
そうでなければ長い間この古文書が保管されているはずがありません。
ただし、苗字を持たなかったため○○家とはならなかった。
おそらく昔は専ら屋号が使われ、△△の久右衛門と呼ばれていたのではないか。
この辺りでは、今でも屋号が日常的に使われます。
明治初期に苗字制度が出たことで我が○○家が誕生。時の先代を初代としたと結論づけました。
我が家初代の没年嘉永5年(1852年)と実質的始祖が新百姓になった元文元年(1736年)では110年余りのブランクがあります。
古文書の久右衛門家の構成は4世代となっています。


この中で一番若い4世代目の孫太なる子は享保20年(1735年)で2歳。
我が家初代久次の生まれたのは逆算すると1775年でこの間にも40余年のブランクがあります。
つまり、我が家の実質的始祖と思われる久右衛門までは初代からさらに数代遡り、そもそもは水呑と呼ばれる貧農であった。
これがこの古文書から紐解く小生の結論です。
以上は、父からの言い伝えなども全くなく小生だけの推測です。
なお、今日、我が家の本家とおぼしき家は存在しません。
江戸時代、士農工商の身分制度が厳格にあり、農は最上位の士に支配されていました。
農は人間の生存に最も必要な食を担うため形式だけは2番目に位置づけられていました。
工はもの作りで生存に欠かせず3番目、商はものを動かす商売で形式上は最下位の位置づけ。
しかし、金がものを言う世ともなって豪商が生まれ、実際の地位は逆転、商が上位で時には商が士を支配することも。
現代はと言うと、彼の地のように未だ士(軍隊)が力で支配する国はあるものの、大方は士は政に変化。
物事の最後は全て政治が決めると公言する方もいる。正しいかどうかは別物らしい。
農工商はどんなものだろう。
さらに全く新しい分野ITが加わりました。
GAFAはじめ人間の生存には最も遠いはずの産業が跋扈し、支配しようとしています。


我が家に残る一通の古文書(前)

2022年02月26日 | いえ

しばらくぶりに「いえ」に関わることを記録に留めます。
我が家に一通の古文書が残されています。
この存在を知ったのは、27年前に父が亡くなった直後。
登記簿謄本などとともに残されていたものです。
このような古ぼけた紙袋の中に、もう一通の文書とともに入っていました。


この古文書について、父から聞かされてことは一度もありません。
亡くなる前は長く病床にあり念頭にもなかったろうと思います。
当時、チラッとは確認したものの簡単には判読できないため、長らく放置していました。
少々じっくりと見ることとなったのは、勤め人稼業から解放された後。
我が家の位牌を過去帳に替えようとした際、改めて見直すこととなりました。
小生には完全には判読できませんが、推測も含めて解釈しました。
これが1枚目。


享保20年(1735年)3月付けの、藩内家臣横山某から奈良坂・梅沢某宛てのもの。
百姓久三郎の田畑の一部を水呑久右衛門に譲り、新たに百姓としたいと願いが出ているので処理するようにといった主旨でしょうか。
2枚目。


願い出の内容が書かれています。
百姓久三郎から水呑久右衛門に田畑の一部合わせて690文分を譲渡するとあります。
さらに久右衛門を別家として新しく屋敷を設けた旨書かれているようです。
ここには久三郎屋敷に当地集落名が記載されています。
3枚目。


久右衛門の家族構成は4世代の6人に下人が2人で計8人。
本人が78歳とは少々驚きですが、家長とはそのようなものでしょうか。
譲渡の趣旨とその見届け人についても書かれているようです。
4枚目。


譲渡人久三郎、譲受人久右衛門(新百姓願人)双方と見届け人の親戚、組頭、肝煎の署名捺印。
享保20年閏3月付けで堀内某宛の願い出になっています。
5枚目。


元文元年(1736年)10月に決裁が終わり認められたと解釈できるでしょうか。
この古文書は享保、元文年間ですから江戸中期のものです。
少々、調べてみると士農工商の時代、農即ち百姓にもランクがあって上は庄屋、名主と言った豪農から、一般の百姓、そして下は下人まで存在していました。
藩主から土地を与えられ年貢を納めるものだけが、百姓として認められていたのです。
水呑百姓(みずのみびゃくしょう)は、今でも蔑みの言葉で用いられることがあります。
名の通り、貧しくて水しか呑めないような百姓を指す、江戸時代の貧農のことです。
我が家に残る古文書には単に水呑と記されています。
水呑百姓は石高(田畑)を所有していないため年貢を納める必要はありません。
しかし、村の構成員とは認められず、発言権もない低い身分でした。
小さな百姓の次男や三男は水呑として生きていかざるを得なかったのかもしれません。
然らば、何故この古文書が我が家に残っているかです。
それは明日。


冬囲いした畑のハクサイを取り込む

2022年02月25日 | 畑:葉菜類

畑に置いたまま冬囲いしたハクサイを、全て取り込みました。
品種はトーホク種苗の中晩生種「郷秋85日」。
ハクサイは12月に2通りの方法で冬囲いしています。
半数は室内に取り込み、半数は外葉を縛り畑に置いたままにしました。


これまで主に中に囲ったハクサイを消費してきたので、畑のは数個穫ったのみです。
畑に置いたままにすると、次第に結球中で花芽が生長し、割れてきます。
今年はここに至っても気温が甚だ低く、そんなことはないと思いますが、このまま放置はできません。


偶然にも昨年と同日の取り込みとなりました。
昨年は今頃好天で、僅かに頭の割れ始めたものがありました。
これは多少頭が尖っているような気もしますが。


今回も、助っ人の応援がありました。
全て畑で枯れた外葉を外してから、作業場の下屋に運び込みました。


外葉は枚数が多くしっかりと縛っているので、大半問題はありませんでした。
しかし、凍害を受けた株も若干あり、外葉だけでなく内葉を少し剥いだものがあります。
割れ始めたものは全くありませんでした。


今年の天候では割れよりも凍害が問題だったようです。
殆どの株が大きな外葉を十分確保できたので、凍害は最小限で済みました。


4キロ級の大玉。


試しに一つを割ってみます。


ぎっしりと詰まっています。


黄芯系特有の表面から数枚で柔らかそうな黄葉です。
ぱっと見、肉眼では花芽が確認できませんでした。
間違いなく花芽はできているはずですが、酷寒で生長が遅れているようです。
株裏の芯に包丁の先を差し込み十字を入れ、トウが伸びないおまじない。


すぐ消費する数個以外は、新聞紙に包んで作業場の中に囲い直します。

こちらはすでに中に取り込んで囲っているハクサイ。


大玉が残っています。


包んだ新聞が濡れてきたので、包みを解き外葉を整理。


鮮度は殆ど変わりません。


包み直します。


新聞紙に包んだハクサイは逆さまにして保存します。


これも逆さまにすることでトウが生長しにくくなると言われます。
右6個は前から取り込んで囲っているハクサイ。
段ボール、新聞紙で覆いをし、終了です。


助っ人は4月一杯かかって消費すると言っていますが、どうでしょう。


再び厳しい寒波でナバナ「寒咲花菜」は苦しい

2022年02月24日 | 畑:花菜類

再び厳しい寒波に見舞われています。
一旦、寒さが緩んだかに見えましたが、ぶり返しました。
当地、この時期としては滅多にない二日連続の真冬日を記録しました。
降雪は回数は多いものの降雪量は1、2月トータルで30センチに満たず、例年の半分以下。
昨年も少雪でしたが、今年はさらに下回り異常に少ない。
同じ寒冷地でも、日本海側が大雪となっているのとは実に対照的です。
それだけ今年は冬型の気圧配置が多いと言うことでしょう。
当地方は雪がちらつき寒風吹きすさぶ気温の低い日が多くなっています。
ナバナ「寒咲花菜」を見ているとよく分ります。


苦しい姿になりました。凍害で終了した株が出ています。


それでも耐えている株があります。

ここに来て、個体差が大きくなってきました。


このくらい厳しい状況は過去になかったかもしれません。


収穫開始から3ヵ月以上経過しているので、すでにかなりの量を穫ってはいます。
ただし、今穫れているのは遅れ気味の側枝(子茎)。


普通ならこの1次側枝(子茎)からでた2次側枝(孫茎)が穫れていい。
これが、このように伸びきれず、変色しています。


例年なら今の時期になると春の陽気の日が結構あって、それで孫茎が伸び出します。
今年は真冬の天候が長く続いていると言うことです。今どきに連続の真冬日とは。
それでも花芽は健気。


このような状況下でも、それなりに穫れています。


寒さに当たった花菜はとりわけ美味しいので最後まで穫り続けます。
果たして孫茎が穫れるまで持つ株はいくらあるか。

こちらはアスパラ菜。


これほどの姿になったのを見ることはあまりありません。
暖冬の年には、この時期にもアスパラ菜を穫っていました。
今年の冬は本当に厳しい。