戦時中、我が家で『さくら天然色』というフィルムの箱があったから、フィルムメーカーの「小西六」(現・コニカミノルタ)すでに研究をしていたらしい。
戦後、外国から総天然色映画として『風と共に去りぬ』『虹を掴む男』『赤い靴』『天国への階段』など、すばらしい色彩で、圧倒されました。これらは、いずれもテクニカラー方式で、赤担当、緑担当、青担当の3本の白黒フィルムで撮影され、染料で染めて天然色としました。総天然色という名前がどうもということになり、以後、カラー映画といわれるようになりました。
写真のほうでは、最初、リバーサルフィルムが発売されました。国産では、オリエンタルフィルムで感度がASA6と低い感度で、明るい青天の下で絞りF2.8 1/100秒ぐらいの露出でしたから、明るい広角レンズ35mmがはやりました。そのうちASA12になり、ASA25になりましたが、やはりカラーフィルムは感度が低いというのが相場でした。
カラー映画の最初は松竹の『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子…)、第2作が『夏子の冒険』(角梨枝子…)で、フジカラー(リバーサル?)でした。次に大映の時代劇『地獄門』はコダックのネガポジ方式で1本のフィルムですから、大がかりなカメラもいらず、素直な発色でした。その後、日本のカラー映画はこの方式になりました。しかし、ASA32と感度が低かったです。
写真のカラーフィルムも感度がどんどん上昇して、ASA400が標準となり、ASA800,ASA1600のものも現われました。
近頃のデジタルカメラは、スイッチひとつで、ASA1600,ASA3200,ASA6400と変えられて、次の駒から普通のASA100に戻せるのは、便利なものです。
戦後、外国から総天然色映画として『風と共に去りぬ』『虹を掴む男』『赤い靴』『天国への階段』など、すばらしい色彩で、圧倒されました。これらは、いずれもテクニカラー方式で、赤担当、緑担当、青担当の3本の白黒フィルムで撮影され、染料で染めて天然色としました。総天然色という名前がどうもということになり、以後、カラー映画といわれるようになりました。
写真のほうでは、最初、リバーサルフィルムが発売されました。国産では、オリエンタルフィルムで感度がASA6と低い感度で、明るい青天の下で絞りF2.8 1/100秒ぐらいの露出でしたから、明るい広角レンズ35mmがはやりました。そのうちASA12になり、ASA25になりましたが、やはりカラーフィルムは感度が低いというのが相場でした。
カラー映画の最初は松竹の『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子…)、第2作が『夏子の冒険』(角梨枝子…)で、フジカラー(リバーサル?)でした。次に大映の時代劇『地獄門』はコダックのネガポジ方式で1本のフィルムですから、大がかりなカメラもいらず、素直な発色でした。その後、日本のカラー映画はこの方式になりました。しかし、ASA32と感度が低かったです。
写真のカラーフィルムも感度がどんどん上昇して、ASA400が標準となり、ASA800,ASA1600のものも現われました。
近頃のデジタルカメラは、スイッチひとつで、ASA1600,ASA3200,ASA6400と変えられて、次の駒から普通のASA100に戻せるのは、便利なものです。