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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

竹松小6年生 発掘に挑戦

2012年07月20日 | インポート
平成24年7月20日の毎日新聞県内総合ページの中の見出しのタイトル。

以下は、その全文。


竹松小6年生 発掘に挑戦!

大村市の竹松遺跡で近くの竹松小学校の6年生138人が18日、発掘調査体験をした。

竹松遺跡は、新幹線長崎ルート建設を前に県教育庁新幹線文化財調査事務所が14年度までの予定で調査している。
これまでに縄文院時代から室町時代にかけての中国製陶磁器や建物の柱穴などの遺物、遺構が出土している。

調査体験は、同事務所と市教委が、郷土の歴史を学んでもらおうと企画した。

真夏の太陽が照りつける中、子供たちは、汗をぬぐいながら削り鎌などを使って発掘に挑戦。
「初めてやったけど楽しい」と、友達と協力しながら表土を削り取っていた。
今西望乃さんは「青白い中国の茶わんのかけらを見つけました」と笑顔で話していた。

[ 武内靖広 ]

発掘体験状況を撮影した写真あり。


以上は、毎日新聞の記事の全文。



平成24年7月11日(水)の午前9時45分から10時45分までの1時間程度、竹松小学校の生徒さんたちが、遺跡の発掘体験に訪れるという事の説明が、事前に、私たち大村市竹松遺跡のアルバイト発掘作業員に対してなされていた。

残念ながら、その日は雨模様のために、竹松小学校の生徒さんたちの遺跡発掘体験は中止となり、1週間後に実施される予定だという案内がされていた。

そして1週間後の平成24年7月18日に、竹松小学校6年の生徒さんたちの遺跡発掘体験は実施された。

生徒さんたちを3班に分けて、休憩棟の中での説明、発掘現場への移動、発掘体験という流れで、3つの班が入れ替わりながら実施された。

テレビ局や新聞社の取材もあり、作業員の方たちから借りた削り鎌で、マンツーマン方式で、楽しそうに真剣に遺跡発掘体験をしていた。

予定としては10時45分頃までとなってはいたが、最後の班が発掘体験を終えて、帰路に着いたのは、11時を10分ほど回っていた。

きっと、もう少し長い時間、発掘体験をしたいと思った生徒さんたちが多かったのではないだろうかと勝手に思った。


新聞記事を読んで、竹松遺跡のアルバイト作業員として働かせてもらっている考古学のド素人として、素朴な疑問を持ってしまった。

新聞記事の中の「青白い中国の茶わんのかけらを見つけました」という生徒さんのコメントから、その素朴な疑問を持ってしまった。

事前の説明で中国製の茶わんのかけらが出土していることや、茶わんのかけらを掘り出した時に、調査員の人からそのかけらについての説明を受けたものと思われるが、その「中国製の茶わん」という文言に対して、私は素朴な疑問を持ってしまった。

それは、考古学的な考察の手法について、どのような手順でそれがなされるのかという疑問。

一般的には、発掘などによって、その存在が確認される事によって、確認された事象が考古学的な定説になってきているものと思われる。

私が疑問に思うのは、発掘された遺物の時代(年代)特定と、ある時代に、そのような技術が日本には存在していなかったとする根拠は何かという事。

まず、発掘された遺物の時代(年代)の特定について。

土の層ごとの年代は、土の科学的な分析によって知る事が出来るのだろうという事までは理解できる。

しかし、その土層から出土したからといって、その出土物が使用されていた年代が、その土層の年代と同一のものであると言えるのだろうかということである。

具体的には、土器や陶磁器の「かけら」などに関して、例えば裸足で生活していた時代やあまり頑丈ではない素材で作られた履物を履いて生活していた時代があったとすれば、土器や陶器などを割ってしまった場合においては、その破片にて怪我をしないように、集落の周辺に、土中に穴を掘って埋めていたのではあるまいかなどと思ってしまう。

そして、そのようにする事が、その地域の生活の知恵として流布されて一般的になっていたのではあるまいか、などと勝手に想像を膨らませてしまっている。

仮に、もしもそうであったのだとすれば、その人たちが生活していた年代よりも前の年代の土層から、かけらなどの遺物は出土することもあるのかも知れないと、ド素人としては思ってしまうのです。

もちろん遺物自体の原材料などの科学的な分析によって、その遺物が製作された年代の特定が可能であろうという事は理解できます。

次に、ある時代に、そのような技術が日本には存在していなかったとする根拠は何かという事。

「青白い中国製の茶わんのかけら」という文言の中の「中国製の」というフレーズの根拠について疑問を持ってしまった。

はたして、過去のある年代において、「青白い茶わんのかけら」というのは、中国にしか製造できる技術はなかったのだろうかという事。

考古学的考察の中では、そのような技術が当時の日本にはなかったのだとする根拠はどこにあるのだろうか。

そのような技術があったのだとする根拠は、製作施設などの発見により明らかにされて、考古学上の定説となってはいるのだろうが、なかったとする根拠は何なのだろうか。

具体的に、私は以下の様な想像をしている。

陶器や磁器の製作施設は、山際や山中の、それに適した土が産出される近傍に存在していたのではあるまいかという事。

だから、遺跡の発掘が主として実施されるような集落の周辺から、かなり離れた距離の所に作陶などの施設は存在していたのではないのだろうかという事。

作陶に適した土を運搬する適当な運搬道具も無かっただろうし、運搬用の道路も無かったであろうから、陶磁器を窯でを焼くための燃料である薪の確保も出来る山中などの、作陶用の土が産出される近傍にそのような施設は存在していたのではなかろうかと想像するのです。

だとすれば、遺跡の発掘というエリア以外の場所で、そのような製作施設などは眠っている可能性が大きいのではなかろうか。

要するにそのような施設は、遺跡として発掘されることもなく、発見される事が無いままであろうと思われるのです。

ですから、そのような「青白い茶わん」の製作技術が、当時の日本にはなかったのだとする根拠はどこにあるのだろうかと思うのです。

様々な技術や学問は、必ずしも、よその地域から伝わってきたものであるとは言えない場合もあり、ある時期に別々の地域において、同時発生的に生まれたという事もあり得るのですから。

分かりやすい例を挙げるとすれば、西洋での微分、積分学と同じ発想を、ほぼ同時期に日本において、和算学者が確立していたという事などがあります。

そのような事柄に関する考古学的な考察の仕方について、私のようなド素人は興味を持ってしまうのです。

ド素人の興味に関しては以上なのですが、竹松遺跡の発掘体験に触発されて、発掘体験をした小学生の中に、考古学に興味を持ち、そのような関連学部を持つ大学への進学を目指して勉強をして遺跡発掘の調査員になりたいと思う人や、考古学者になりたいと思うような人が出てくるかもしれません。

ちょっとした出来事が、将来の職業に対する方向付けに繋がる場合もあるでしょうし、何といっても、連綿と続いてきている郷土の人たちの過去の生活様式などについての知識を得るための体験学習は、彼らにとっては、貴重で有意義な時間であったろうと私は思います。


豊田一喜


本日の付録(平成24年7月20日)

「雨のために作業が休みのために、結の浜にてアジゴ釣り」

朝の8時に出発、夕方の5時まで、諫早市飯森町の結の浜漁港の防波堤にてアジゴ釣り。

さびき仕掛けに、100均の店で買った移動式の浮きを付けてアジゴを釣ると、非常に釣りやすく、たくさん釣る事ができる事を体験した。

200円のアミ餌と、釣ったアジゴの切り身の餌と、友人から分けてもらったスナ虫の餌による本日の私の釣果。

アジゴ・・・・・・・・・166匹
コノシロの子・・・・・・3匹
アラカブの子・・・・・・4匹
クロの子・・・・・・・・・2匹
サバの子・・・・・・・・1匹
タイの子・・・・・・・・・1匹
ベラの子・・・・・・・・・2匹
カワハギの子・・・・・1匹
カタクチイワシ・・・・・8匹

Dsc00162

Dsc00164


釣った魚のはらわたとエラを取り出してから、全ての魚を2度揚げのから揚げにしてしまうまで、およそ4時間がかかった。

1日中を趣味のために費やした、とても楽しい日だった。


豊田一喜