怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「大人の友情」河合隼雄

2014-11-22 08:08:12 | 
久しぶりの河合隼雄先生の本です。

友人とはいるようでいないようで、友人とは「夜中の12時に、自動車のトランクに死体を入れて持ってきて、どうしようかといった時、黙って話に乗ってくれる人だ」という定義なら、私には友人はいないかな。深い信頼関係に結ばれ、話に乗って何とかしようという姿勢を感じる前に、すぐに警察に通報されておしまいのような気がする。私自身そんな話が来ても乗りたくない。
でもそこまでいかなくても、馬が合い、好きな時も嫌いなときもあるのだけど、信頼関係を育んできた友人はいる(と自分だけかもしれないけれど思っている)。
賢い人には友がいないという諺があるが、計算づくではなく損得抜きにお互いの存在を認め合えれば、人間はどれほど安定しておられるのか。
ただお互いの関係を共有すればするほどその距離感は難しい。一心同体だと思ってもすぐに破局してしまうこともある。相手とともにいる、あるいは「あの人がいる」と想うだけで「ほっとする」ような関係こそが友情の根本なのでしょう。
この本では、実際の人間関係では、中原中也と小林秀雄、野上弥生子と田辺元、さらに小説では「走れメロス」のメロスとセリヌンティウスの心の動き、夏目漱石の「坊っちゃん」の坊ちゃんと山嵐、「心」の先生とKの関係などなど、いろいろな例を出して考察している。
友情とは難しいもので、友人の悲しみには同調するのに、喜びに対しては思いがけない嫉妬が動きはじめることがある。また、慰めあって互いに安心してしまうと、結果的に現状を打開して行動することを妨げ成長の足枷になってしまうこともある。
ましてやそこに女性が絡むと悲劇になる場合もある。「心」の先生とK、小林秀雄と中原中也、いずれもお互いを同一視し合っていたことによる悲劇で、本当は小林秀雄と中原中也は愛し合っていて奪われた恋人はたまたまそこに居合わせただけとの解釈は面白いけどそれでは間に立つ女性の立場はないですね。
友情も同一視や理想化をする強さが大切ではなくて、常に裏切りの可能性を持つ関係を認めながら「やっぱり、ええやつやな」と感じるぐらいの深さが大切なのかもしれません。
ところでこの本では、男と女の間に友情はあるのか、同性愛、中高年の茶飲み友達などにも考察が及んでいます。
当たり前ですが人間にとって恋愛感情というのは非常に強くて、相当な友人関係と思っても恋愛関係の前にはすぐに破壊されてしまうことが往々にしてあります。それでも男女間であろうと心の関係がだんだんと深まってゆくとき、体を通じることなく心の関係として深まってゆくということは可能であると言っていますが、そこには慎重で抑制力のある名人芸のような態度が必要でしょう。
同性愛について言うと、「心」の先生とKは同性愛関係と呼んでも差し支えないけど、それは性愛を伴うものでないと言われるとふ~んとなってしまいます。夏目漱石はそんなこと意識していたのでしょうか。最近でこそ公然とカミングアウトされますが、以前はほぼ犯罪でしたよね。友情の背後にはエロスやセックスが働くことは認めざるを得ないのですが、心がときめいても必ず身体反応が伴うものではない。また心がときめかなくても深く静かに永続する友情もある。
茶飲み友達の考察でも出てくるが、日常行為の中で積み重ねられた愛は切っても切れぬ強さが長続きする。夫婦であれ恋人であれ、それが永続するためには友情を支えとするものであるし、深い思慮と抑制が永続する深く輝く関係へと導く。そしてその背後には何らかの断念の構図がある。
う~ん、まだまだ人間ができていない私は深い思慮も抑制もなく、ひたすら煩悶するしかありません。
友情とはなんて言い出すと青臭い感じですが、現代のイライラ、ぎすぎすした人間関係に潤いを与えてくれる大切なことで、友と友を結ぶ存在としての「たましい」などということに、少しでも思いを致すことによって、現代人の生活はもっと豊かで、幸福なものになるのでは、というのはいかにも河合隼雄先生らしい結びです。
この本は「論座」に連載されていたものをまとめたもので、友情を縦糸に、人との付き合い、贈り物のむつかしさ、男女間の恋愛と友情、裏切り、碁仇とか多岐にわたった事柄が考察してあります。いつもの河合節が全開ですが、それだけに楽しんで読むことができました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする