怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

竹内宏「路地裏の経済学」と山代温泉ホテル百万石の盛衰

2023-12-09 14:41:49 | 
先日山代温泉へ行ってきました。
加賀温泉郷には、山中温泉、山中温泉、片山津温泉とあるのですが、私は片山津温泉と山中温泉は行った事があるのですが山代温泉は初めて。
山中温泉は渓谷沿いにあり、片山津温泉は柴山潟のほとりでどちらも風光明媚。対する山代温泉はどちらかと言えば田んぼの真ん中にある様な温泉でどちらかと言えば見劣りします。実際昭和30年代の年間客数では山中32万人、片山津24万人に対して山代温泉は8万人。
ところが昭和50年には山代温泉は山中、片山津を追い越し加賀温泉郷最大の温泉地になった。客数は145万人という急成長。
このあたりの詳細な事情をレポートしているのが、竹内宏のこの本の中の「温泉地の盛衰」。山代温泉に行くことになってこの本を思い出し、本棚の奥から出してきました。

この本は1979年10月に出版されていて、当時私は読んだ本にカードを挟んでおいていたのですが、それによると1979年12月に読了しているのですぐに買って読んだみたいです。今読んでも十分に通用する知見があり、面白くてすぐに全部読んでしまいました。山代温泉のホテル百万石についてだけでなく、現場の経済を熟知した議論が展開してあります。特にパチンコ業界の歴史については秀逸。ここからどういう展開が待っているのか、まだまだしぶとく生き残っている業界の現状をフォローしてみたいものですが、どうすればいいのか。
山代温泉に戻ると田舎のひなびた山代温泉の勃興をけん引してきたのは、ホテル百万石。経営者は旅館の跡継ぎの長男で彦根高商、一橋大学を出た吉田氏。父親が病に倒れて跡を継いだのだが、セールスポイントを作るために大規模な円形浴場を作り料理とサービスの向上に努める。その成功を元に山代温泉の中心から離れた田んぼの真ん中に大旅館を建設し「百万石」という屋号にした。
そこから一度火災に遭うのだが、再建に際し膨大な資金調達をして思いきったレイアウトにしている。要点は
1 廊下、広間、フロントを思い切って広げ、団体客、家族客、個人客を共に狙う。
2 個人客と団体客の棟を分け、高級客はまた別棟にする。
3 団体客を押し込んでも不満が出ないように各部屋ごとに小部屋を設け麻雀部屋にする(そう言えば先日泊まったゆのくに天翔にも麻雀部屋に最適の掘りごたつの小部屋がついていた)。
4 風呂は大きく日本一豪華に。
5 廊下沿いにところどころ小さな庭を造りリラックスできるように。
6 大庭園の中には夏の客用に大円形プールを作る。
ところで大きな失敗もあってブームが終わりつつあったボーリング場を作ってしまったのだが、そこはすぐ閉鎖となり、転んでもただでは起きないとばかりに600坪もの「お祭り広場」にしてしまう。このお祭り広場だ大ヒット。周りの屋台とかナイトクラブも繁盛して客単価を上げていく。
こうして百万石は稼働率70%を超すと言う全国有数の温泉旅館になった。稼働率も1室あたりの売り上げも全国平均の倍以上で、業界トップになった。百万石に引っ張られるように他の旅館も切磋琢磨して投資を行い、山代温泉は加賀温泉郷でトップになっていく。
この本を読んでから私も一度は「ホテル百万石」へ行ってみたいものだと思っていたのですが、生憎職場の旅行では行く機会がなく、名前が頭の片隅に残るだけで今日まで来ました。
今回どうなっていて値段は幾らぐらいかと調べてみたら、百万石は一度倒産していて経営者が変わっていました。団体旅行が減ってくる中で、成功体験が忘れられずに熱海に進出するなど強気の投資を進めたことが裏目に出たみたいです。因みに熱海に作ったホテルは今は星野リゾートの運営するリゾナーレ熱海になっています。
バブル崩壊以降、旅行は個人客が中心で、そう思うと私が働いていた頃からバスで行くような職場の団体旅行はなくなっていました。外国人観光客を取り込めればいいのでしょうけど、コロナ禍ではどこの旅館も本当に苦しかったでしょう。百万石は今の運営会社が給付金詐欺もしていたようで利用者の声には厳しい評価が並んでいました。窮すれば鈍すとしか言いようがありません。
そんなこんなでせっかく山代温泉に行ったのに「ゆのくに天翔」に泊って「百万石」には泊まらずでしたが、今はお祭り広場はどうなっているのか、どういう運営をしているのか知りたかった気もあります。
でも温泉街としては山中温泉の方が風情が合ってよさそうで、やっぱり今度行くなら山中温泉かな。今の年間客数はどういう順番になっているのでしょうか。
それにしてもバブル経済に乗って過剰融資にのめり込んでいった長銀を調査部長だった竹内さんは何ら警告を発せられなかったのか。経営陣は聞く耳もたなかったのか。経営陣には竹内さんが見ていた現場の経済が見えていなかったのでしょう。

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