kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

第21回キトラ古墳壁画公開④「終末期古墳 キトラ古墳」

2021年10月31日 | 奈良・キトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画
今日は、第49回衆議院議員総選挙の投開票日です。
期待して○○さんに投票してきたので、当選して欲しいです!
そして・・・仮装姿で賑わうハロウィンの当日でした。


キトラ古墳 

四神館の地下1階で、キトラ古墳石室の原寸大レプリカなどを
見てからキトラ古墳に向かいました。


キトラ古墳壁画が浮き彫りにされたプレートから
図像を和紙に写し取る乾拓ができるそうです。


キトラ古墳の円墳が少し見えてきました。


キトラ古墳の復元模型があります。
キトラ古墳も高松塚古墳と同じくきれいな丸い円墳です。

特別史跡 キトラ古墳

7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されています。
古墳時代と呼ばれる時代の終わり頃です。

この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。

発掘調査中のキトラ古墳

天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が想像されています。


キトラ古墳は2段築成の小さな円墳で
東西にのびる丘陵の南斜面にありました。


発掘調査で、墳丘は下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mと判明。


石室内からは被葬者の人骨と歯牙も発見され
分析により50~60歳代の男性1体分とわかりました。

また、金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人のお墓であったことがわかっています。


墳丘面には全体に保護盛土を施し、南海地震などの被害で大きく崩落していた墳丘の南から南西側も盛土を施し、古代の地形に近づけているそうです。


キトラ古墳が遠くなりました。
高松塚古墳に続き、日本で2番目に発見された壁画古墳です。


古墳が発見された時から行きたかった「飛鳥時代の古墳」です。(^^♪

10月19日(火)
鬼の俎→鬼の雪隠→高松塚古墳壁画公開→高松塚壁画館→高松塚古墳
文武天皇陵→キトラ古墳壁画公開→四神館(地下展示室)→キトラ古墳

最後に、高松塚古墳とキトラ古墳の名前の由来
●高松塚古墳
江戸時代末に描かれた絵図には、古墳の上に大きな松の木が描かれていたので「高松塚」と呼ばれるようになったそうです。

●キトラ古墳
中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説。古墳の南側の地名「小字北浦(きたうら」がなまって「キトラ」になったという説。またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。


キトラ古墳壁画保存管理施設のホームページは・・・こちら
それでは、京都駅へ帰る「壺阪山駅」へ向かいます。

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