ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第51回)

2013-01-17 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握(続き)

革命までの曲折
 4月デモは臨時政府とソヴィエトの妥協により収拾が図られた結果として、5月初めに臨時政府が改造され、非難の矢面に立ったミリュコーフ外相は辞任する代わりに、ソヴィエト側からメンシェヴィキ、エス・エル系の6人の「社会主義者大臣」が入閣し、第二次臨時政府(リヴォフ首相は留任)が発足した。
 これにより、言わばソヴィエトとの連立政権の形となり、従来の臨時政府‐ソヴィエトの並行権力構造が軟化する。これは以後、ソヴィエト側の保守化を導いたであろう。
 その最初の徴候は、6月に開催された第一回全ロシア労働者‐兵士代表ソヴィエト大会に表れた。この頃には全国に拡大され、305のソヴィエトから送られた1000人近い代議員が参加して開かれた記念すべきこの大会の席上、自身逓信大臣として入閣していたソヴィエトのツェレテリ議長(メンシェヴィキ)は、従来よりも明確に臨時政府への支持を訴え、臨時政府に代わって権力を掌握できるような政党は存在しないと言明した。
 この時、「そういう政党はある。我が党は権力掌握を拒まないし、いつでもその準備はできている」と会場から公然反論したのがレーニンであった。この大会でボリシェヴィキは全権力をソヴィエトへ移す宣言案を採択するよう提案していたのである。しかし、大会代議員のうちボリシェヴィキ系は105人にすぎず、勝敗は初めから決まっていた。
 とはいえ、この大会はレーニンの「4月テーゼ」に基づくボリシェヴィキの公然たる「政権奪取宣言」の場ともなったのである。
 一方、臨時政府側も次第に右傾化し、労働者・兵士への抑圧を強めていたことから、ボリシェヴィキはソヴィエト大会期間中の6月10日に労働者と兵士の統一的な平和的デモを計画した。ところが、メンシェヴィキとエス・エルが主導するソヴィエトはデモ禁止措置を打ち出し、違反者は反革命分子とみなすとまで通達したのである。レーニンはこうしたソヴィエトの保守化を前に慎重策をとり、デモの中止を決めた。
 これに対し、ソヴィエト側は6月18日に一種の官製デモを計画・実施した。当然ながら、デモ隊のスローガンの中心はメンシェヴィキなどの主張に沿って「制憲議会を通じて民主共和国へ!」といった穏健なものであった。
 これを見たボリシェヴィキはこのデモに飛び入り参加を決め、「全権力をソヴィエトへ!」のスローガンを対抗的に掲げてデモ行進した。デモ参加者の多くはむしろボリシェヴィキのスローガンになびき、このデモは不発に終わった6・10デモに代替する「ボリシェヴィキのデモ」に転化したのだった。ボリシェヴィキは事実上優位に立ったかに見えた。
 ところが7月に入り、再びボリシェヴィキを暗転させる事態が出来する。6月18日の官製デモの同日、臨時政府はドイツ軍に対する捨て身の大攻勢に出る。しかしこの無謀な作戦は大誤算であり、ドイツ軍の激しい反撃に遭い、かえって敗色濃厚となった。この新たな臨時政府の失策が兵士の大きな反発を招き、首都での武装デモに発展する。
 この武装反乱事件―政府はそう認識した―の口火を切ったのは、ペトログラードでも労働者街ヴィボルグ区に駐屯する第一機関銃連隊であった。かれらは先の大攻勢で前線へ送られることになっていたのである。
 兵士の反乱には労働者も合流して7月3日以降、デモは大規模化していった。デモ隊はボリシェヴィキに対しても行動を求めて突き上げた。保養中のフィンランドから急遽戻ったレーニンはしかし、動かなかった。
 この時点でのレーニンは、彼の想定する「第二の革命」の方法について平和的移行と武装蜂起とを天秤にかけていたのだ。当面の彼の判断は武装蜂起の機はいまだ熟さずというものであった。当時はまだ臨時政府の事態掌握力はなお強く、蜂起の成功見込みはないと分析していたからである。
 その代わり、レーニンは今度のデモを平和的なものへ誘導することに決めたが、7月4日のデモは参加者50万人ともされる大規模な武装デモとなってしまった。事態を憂慮した臨時政府は武装デモの禁止と反乱部隊の武装解除、関与者処罰の方針を示した。ネフスキー大通りでは政府軍部隊による発砲もあり、5日にボリシェヴィキはデモの中止を決めた。
 だが、臨時政府側はこの時からはっきりとボリシェヴィキを敵視し、弾圧に乗り出した。ボリシェヴィキの活動家多数が逮捕され、レーニンも21日には反逆及び武装反乱の罪で起訴された。反逆容疑というのは、かねてより反戦を唱える彼に対して向けられていた「ドイツのスパイ」という中傷にひっかけた根拠のないでっち上げであった。
 ただ、逮捕を見越したレーニンは5日には地下に潜伏し、12日以降はペトログラードから30キロ以上離れたラズリフ湖畔に変装して身を隠し、8月半ばになって今度は火夫に変装して機関車で国境を越えフィンランドへ逃亡するというまたしても007張りの逃避行を強いられたのであった。

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