ザ・コミュニスト

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遅れてきた緑の党

2012-07-29 | 時評

28日、日本で史上初めてとなる反原発環境政党・緑の党が結成された。欧州発の新しい政治潮流とはいえ、欧州に遅れることおよそ30年。きっかけとなったのは、間違いなく原発大事故であろう。

ただ、日本版緑の党が議会政党として成功・定着するかについては、いくつかの懸念がある。

まずは結党のタイミングである。大飯原発再稼動が大問題となっている渦中であるのは時宜に適っている。しかし、五輪期間中でメディアが五輪一色になるこの時期、平時でさえ無視されがちな小政党の動向がますます無視される懸念がある。

第二は選挙戦略。予定では2013年参院選で本格参入し、年内にも想定される衆院選では他団体・政党と連携して東京の比例区で候補を擁立するにとどめるという。しかし、13年の本格参入では原発事故から時間が経過しており、ホットなインパクトに欠ける恐れがある。

第三は党の基盤となる環境社会運動の分裂状況。緑の党が最も成功を収めているドイツでは多数の環境社会運動が横につながって結党し、党勢拡大にもつなげてきた。緑の党が環境社会運動のプラットフォームとしても機能している。ところが、日本ではあらゆる社会運動で観察されるバラバラの「蛸壺状況」が環境社会運動にも見られ、なかなか横につながれず、党の基盤が固まらない恐れがある。

第四は近年の日本政治で顕著な右傾化の進展。「維新の会」ブームに見られるように、大政党に支配された議会政治の行き詰まりの中で、欧州でも観察される極右政党が大衆的人気を集める情況がかの地以上に強まっているのだ。元来、緑の党は社会党(社民党)や共産党に並ぶ左派の座標系にある。その左派の座標系が現代日本では極端なほど先細っている中、緑の党がどこまで浸透するか。

最悪、緑の党自身が集票戦略上、右派の座標系に引き寄せられる危険すらある。実際、人気の高い石原東京都知事や維新の会も表面上「環境」の旗を掲げている中では、日本版緑の党がある種の「環境右派連合」に吸収される恐れもなしとしない。

第五は―無事、議会進出を果たしたとして―大政党との連立による理念後退の危険である。これは実際、社会民主主義政党との連立政権を経験したドイツとフランスの緑の党では起きていることである。元来、緑の党は資本主義の枠内での環境改革政党である点に限界があるわけだが、それが「現実主義」の大政党と連立を組むことで、いっそう現状保守的な「緑の資本主義」に傾斜してしまう恐れがあるのだ。

もっとも、保守二大政党化が進んだ日本では現状、緑の党の連立相手としてふさわしい大政党は見当たらない。しかし、緑の党が「権力への意志」を明確にすれば、保守系大政党との連立可能性も出てくるが、そうした場合の理念後退はドイツ・フランスのカウンターパートの比ではすまないだろう。

「権力への意志」を封じ、「万年野党」に徹することができるかどうかが日本版緑の党の課題となる。ただその場合、議員立法や質疑時間の厳格な制限といった小政党に不利な議会運営の壁が立ちはだかるだろう。

これらの懸念を乗り越えて日本版緑の党が成功すれば、滅びゆく議会政治に小さな清風を巻き起こす可能性はある。そこに、外野席からささやかな期待をしておきたい。

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マルクス/レーニン小伝(連載第6回)

2012-07-26 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(2)新聞編集者として(続き)

経済論争への関与
 『ライン新聞』編集主幹としてマルクスが当面したのはもはや抽象的な哲学問題ではなく、現実の経済問題であった。
 最初は木材窃盗取締法をめぐる論争である。これは当時、ライン州では貧農が周辺の森林の木材や枯枝を収集し薪にして生計を補うことが慣習となっていたところ、森林所有者の利益を代弁する州議会が無断で森林に立ち入って木材や枯木を収集する行為も木材窃盗罪に該当するとして刑事罰や民事賠償の対象とすることを決めたことをめぐって、マルクスがこれを厳しく批判する論陣を張った一件である。
 彼はこの木材窃盗取締法が貧民の生活を犠牲にしつつ森林所有者の利益を守ろうとする悪法であり、それは人間の権利を尊重するのでなく木を物神として崇拝するに等しいものだと喝破した。そして貧民の木材・枯木収集は実定法に反する行為であっても、本来の法正義に合致する正当な慣習的権利であるとして、その回復を要求したのである。
 この問題の実質はまさに有産階級と無産階級の利害衝突を背景とする経済問題であるが、法律問題の衣を被っていることから、マルクスは彼本来の専攻であった法学の観点から、まるで貧民側弁護士の弁論のような調子で論陣を張ったわけだが、この一件はマルクスがやがて経済学研究に自己のフィールドを移していくうえで最初のきっかけとなる強い印象を残したことは間違いない。
 ここには、彼が後に商品という近代的物象に関して析出した「物神崇拝」のモチーフが、商品とも交錯する「所有権」という近代的法観念に絡めて早くも提示されているのである。
 続いてモーゼル農民問題では、マルクスの郷里にも近いモーゼル地方の伝統的なぶどう酒栽培農民が不況で窮乏し、重税にあえいでいる状況が放置されていることを訴える通信員の論説について、ライン州当局が事実の歪曲と政府誹謗を理由に訂正を要求してきたことに対し、マルクスは具体的な資料に基づいて記事を擁護するとともに、官僚的な行政の無策を厳しく批判した。
 このモーゼル農民問題は先の木材窃盗問題ほど理論的な問題を含んではいない代わりに州当局との衝突という政治問題を引き起こしたため、『ライン新聞』の先行きに暗雲が立ち込めることとなった。
 この他、マルクスは「土地所有の細分化」や「自由貿易と保護関税」など今日でもアクチュアリティーを持ち得るような種々の経済論争に取り組む中で、自身の法学的‐哲学的な素養だけでは解くことのできない経済問題の困難さを認識するようになる。

「自由人たち」との対立
 なかなか有能なマルクス編集主幹の下、『ライン新聞』は部数を伸ばしていったが、モーゼル農民問題以来、当局の監視と検閲も強まってきた。
 一方、ライバル紙『アルゲマイネ・ツァイトゥング』からは、共産主義的偏向との非難攻撃を受けるようになっていた。これにはたしかに理由があった。実際、ベルリンを中心に活動し『ライン新聞』にも寄稿していたかつてのドクトル・クラブの仲間たち―マルクスの言う「自由人たち」―の間では当時フランスで流行していた共産主義思想の影響を受けた者たちが、マルクスに言わせれば「独自の深い内容でなく、ほしいままの過激でしかも安直な形式」の原稿を送りつけるようになっていた。こうした原稿は検閲にもひっかかりやすく、マルクスを悩ませていた。
 もっとも、当時はマルクス自身まだ共産主義者になっておらず、せいぜい左派色の強い自由主義者といった線にとどまっていたから、共産主義には共感できずにいた。というよりも、後年マルクス自身が率直に認めたように、当時のマルクスの素養ではフランスを中心に隆盛となっていた社会主義・共産主義の新しい思潮そのものについても、当否の判断を下すことができなかったのだ。
 そうした公私の事情から、編集主幹マルクスは「自由人たち」の原稿を大量にボツにせざるを得なかった。そして、それは当然にも「自由人たち」との対立を招かざるを得なかった。
 もっとも、「自由人たち」の中ではマルクスにとって格別の存在であったバウアーは自身決して共産主義に接近することはなかったが、結局マルクスはバウアーとも不和に陥ってしまった。その一方で、かつてハレ大学講師で南部の青年ヘーゲル学派のリーダー格でもあったアーノルト・ルーゲとの交流は深まっていく。

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マルクス/レーニン小伝(連載第5回)

2012-07-25 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第2章 共産主義者への道

私が1844年の夏にマルクスをパリに訪ねた時、理論上のあらゆる分野で二人の意見が完全に一致していることが明らかとなった。
―盟友フリードリヒ・エンゲルス


(1)17歳の職業観

ギムナジウム卒業論文
 マルクスは17歳の時、ギムナジウムの卒業論文として『職業選択に関する一青年の考察』という小論を残しているが、この中には将来のマルクスを予示させる論点が二つ含まれている。
 一つは職業選択における社会的規定性である。すなわち神によって人類及び自己自身を高めるよう定められている人間には職業選択の自由があるとはいえ、それは既存の社会的諸関係によって制約されているという。従って、誰もが自らにふさわしいと思う職を全く自由に選択できるというわけではない━。
 より一般化すれば、自由に先立つ社会構造という問題を17歳のマルクスはまだ十分に分節化しないままに意識はしていたのだ。ここには無制限の“個人の自由”といった観念論をもてあそぶブルジョワ自由主義と対決する後年のマルクスを彷彿とさせるものがある。
 実際、少数民族ユダヤ系とはいえ、プロテスタントの裕福な中産知識階級の出自という相当に有利な条件に恵まれながら、当時のプロイセンにおける政治反動という状況下で、政治的抑圧と社会的排除の標的とされた青年ヘーゲル学派に属することとなるマルクスが志望の大学教員の職に就ける余地は封じられるのである。
 第二は、人類の福祉と自己自身の完成の両立という論点である。マルクスによれば、これこそが職業選択の規準となるべきものである。つまり社会的に規定される職業選択に際しても、他人の奴隷的道具となったり、徒に自己の利益や名誉を追い求めるのでもなく、人類の福祉に奉仕することを通じて自己自身を高め完成させることができるような職を選択しなければいけない━。
 ここには自己の利益・名誉を追求するあまりに人類の福祉をないがしろにしたり(=個人主義)、逆に人類の福祉を偏重するあまりに自己放棄を強いたりする(=全体主義)のでなく、後にエンゲルスとの共著『共産党宣言』で「一人一人の自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件である」と簡潔に定式化される新しい共産主義思想の萌芽が、職業選択という若者らしい関心に絡めて未だ素朴な形で表現されていると言える。
 以上のような内容を持つ17歳のマルクスの小論をいささか深読みするならば、そこからは「共産主義の無産知識人」という後年のマルクス像がうっすらと浮かび上がってくるのではないだろうか。

(2)新聞編集者として

『ライン新聞』への就職
 哲学博士マルクスは、当時のプロイセンの政治情勢の下では結局、大学教員の道を断念せざるを得なかった。就職浪人である。しかし別の方角からチャンスがめぐってきた。
 折りしも1840年に即位したプロイセンの新国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世は、政治的ポーズとはいえ検閲の緩和をはじめとする限定的な民主化措置を打ち出したことから、ライン地方の新興ブルジョワジーの間でかれら自身の利害を代弁するような新しい新聞を創刊しようという動きが生じたのだ。これが1842年1月1日、ケルンで創刊された『ライン新聞』である。
 この新聞の創刊はヘーゲル左派で共産主義的傾向を持つモーゼス・ヘスを中心に進められていたが、編集主幹にはヘスから相談を受けたマルクスの推薦もあり、ドクトル・クラブ時代の仲間でバウアーの義弟にも当たるアドルフ・ルーテンベルクが就任した。
 ボン大学講師を免職された後、浪人としてボンにとどまっていたバウアーらと再び合流していたマルクスも編集部員として誘われたが、ジャーナリストは視野に入れていなかった彼はこの誘いを固辞しつつ、寄稿者となることは承諾した。こうして中途半端ながらも、マルクスはとりあえずフリーランスの著述家として半歩を踏み出したのだった。
 ところが、ほどなくして編集主幹ルーテンベルクがその任に堪えないことが判明し、解任されたため、後任には前任者を推薦した手前、マルクス自身が就くことになった。弱冠24歳の編集主幹である。

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マルクス/レーニン小伝(連載第4回)

2012-07-19 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第1章 人格形成期

(4)古代唯物論研究

博士論文執筆
 青年ヘーゲル学派への参画を通じて、マルクスは哲学研究者・大学教員の道を志望するようになっていた。そのための資格要件として、哲学博士号の取得が必要であった。そこで、マルクスは1839年から博士論文の執筆に取りかかる。
 彼が選んだテーマはヘレニズム期の古代哲学、特にエピクロス派、ストア派、懐疑派の研究であった。これはバウアーらの示唆によるもので、「自己意識」をキーワードとする青年ヘーゲル学派にとって古代ギリシャ末のポリス解体期に現れたこれら哲学思潮が通有する個人主義的自己意識―わけても「快楽主義」の祖であるエピクロス派―は導きの糸たり得たからである。
 ただ、マルクスが博士論文『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違』で取り上げたのは、そうした自己意識云々よりはエピクロスと彼が継承したデモクリトスの唯物論との比較研究であった。これを見ると、マルクスの唯物論への関心はすでにこの頃から芽生えていたようである。
 「笑う人」の異名を持つデモクリトスは原子論の祖で、宇宙の一切のものをアトム(原子)なる分割不能な微粒子の運動法則の結果として説明しようとした点で、元祖唯物論者とも言える人物であった。デモクリトスの原子論は、極めて原初的な把握の仕方においてではあるが、今日の物理学における素粒子論の遠い先駆けをも成していた。
 これに対して、デモクリトスのおよそ一世紀後に出るエピクロスはデモクリトスの原子論を継承しつつも、万物をアトムの必然的な運動法則で説明することに反対し、アトムの運動の中には不規則な逸脱もあることを主張した。ここから、人間の行為における苦痛からの不規則な逸脱としての快楽(アタラキシア)をもって人生の目的とみなす快楽主義の倫理学も導かれるのである。
 エピクロスはそう考えることで、必然には還元できない自由や偶然の領域を認めつつ、社会的活動からは身を引いて、個人的な快楽―エピクロスの本意からすれば「平静」とでも訳すほうが的確と思われる―に身を委ねるべきことを説くのである。
 前記博士論文において、マルクスはともに唯物論者としてのデモクリトスとエピクロスを比較検討する中で、エピクロスに軍配を上げている。これは、唯物論者にして革命家ともなった後年のマルクスからすると意外な感じを受ける。
 しかし、このことは当時のマルクスがまだ青年ヘーゲル学派の「自己意識の哲学」の影響下にあったためというだけでなく、マルクスの思想形成にあっては終生「自己意識」―ひいてはヒューマニズム―が通奏低音のように鳴り響き続けていくことを予感させるものであった。もっとも、その通奏低音は次第次第に弱くなっていき、最終的にはかなり純度の高い唯物論に到達するのではあるが。

博士号取得と「卒業」
 マルクスは1841年、執筆に二年半を費やした博士論文を完成させた。問題は提出先であった。この頃、在籍するベルリン大学では大きな異変が起きていた。ベルリン大学創設にも尽力し、ヘーゲル学派全般に好意的であったプロイセンの文部大臣が死去し、後任の保守的な新大臣は大学から自由主義的傾向の教員を追放する方針をとり、ヘーゲル学派排除のためドイツ・ロマン主義の大御所哲学者シェリングをベルリン大学に招聘したのだ。
 一方、ドクトル・クラブにおけるマルクスの「恩師」にして同志でもあったバウアーが39年にボン大学へ転出していたこともあり、結局マルクスは論文をベルリン大学でなく、イェ-ナ大学へ提出することになった。このイェーナ大学もかつてヘーゲルが教鞭を取ったことのあるヘーゲルゆかりの大学であった。
 その結果、彼は41年4月、同大学哲学部から無事博士号を取得する。ボン大学入学時からベルリン大学転学を経ておよそ五年半、23歳になろうとしていた。これでマルクスの学業は修了したわけであるが、結局彼はベルリン大学法学部をまともに卒業することはなく、畑違いの哲学の道に逸れたうえ、在籍していない他大学を「卒業」したのであった。まさにエピクロスの不規則逸脱運動のようであった。
 ちなみに、41年には先のフォイエルバッハが『キリスト教の本質』を出し、バウアーもヘーゲル哲学を無神論とみなすよりラディカルな『無神論者・反キリスト者ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』なる書を公刊した。青年ヘーゲル学派はとみに急進化する一方、プロイセン当局は締め付けを強めた。その結果、バウアーは42年、ボン大学講師を免職されてしまう。同様の運命が、首尾よく博士号を取得したばかりのマルクスにも降りかかってくることは避けられそうになかった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第3回)

2012-07-18 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第1章 人格形成期

(3)ヘーゲル哲学との出会い

ベルリン大学転学
 先に述べたように、マルクスは父の意向でボン大学からより著名で都会的なベルリン大学に転学させられた。学部は同じ法学部。父としてはこれで息子が改心し、法律の勉学に力を入れて取り組むようになることを期待したのであろうが、かえって逆効果であった。カールがトリーアから遠く離れたベルリンで始めたことと言えば、婚約者イェニーに相変わらずロマンチックな詩を書き送ることと、畑違いの哲学の勉強であった。
 とりわけ、後者はマルクスの知的道程においては決定的な意味を持った。その点で、彼は父の転学命令に感謝しなければならなかっただろう。
 彼が特に傾倒したのは、当時まだ一世を風靡していたヘーゲル哲学である。ヘーゲルは奇しくもマルクスが生まれた1818年にベルリン大学教授に着任していたが、31年にコレラで急逝したため、36年にベルリンへやってきたマルクスがヘーゲル教授の講義を聴くことはかなわなかった。しかし当時はまだヘーゲルが没して5年ほどで、ベルリン大学はヘーゲル学派の一大拠点であったのだった。
 ベルリン大学時代のマルクスは法学の講義にはほとんど出ずに、ヘーゲル哲学を中心とした哲学の独習にいそしんだのであるが、どうやらヘーゲルには初めから違和感を覚えたらしく、ヘーゲルの精緻な弁証法的思考に敬服しつつも、彼に言わせればヘーゲル哲学の「グロテスクでごっつい」調子にはついていけないものも感じていた。
 大学の講義には出なかったとはいえ、徹夜の勉学を重ねたマルクスは間もなく健康を損ね、転地療養する羽目となる。一方、ベルリンでも態度が改まらないどころか、畑違いの方向に流れていく息子の将来を案じ、腹も立てていた父ハインリヒは、マルクスが20歳になって間もない38年5月に没した。
 マルクスは父の死を表向き深刻に受け止めながらも、これで彼に弁護士を継がせようとする父の意志から解放されたこともたしかであった。マルクスにとって、最初の「解放闘争」の終了である。

「青年ヘーゲル学派」への参画
 マルクスは転地療養から間もなく、ベルリン大学の若手教員や学生が結成していた思想グループ「ドクトル・クラブ」に参加する。これは思想家マルクスにとって初めの一歩となる画期的な出来事であった。
 このグループは気鋭の同大学講師ブルーノ・バウアーが指導する進歩的な思想グループで、ヘーゲル哲学から出発しながらも、その現状保守的な性格を批判・超克していこうとする点で、ヘーゲルの教えを忠実に護っていこうとする「ヘーゲル右派」や、中立的で哲学史に重点を置く「ヘーゲル中央派」に対して、「ヘーゲル左派」とも呼ばれ、また「青年ヘーゲル派」とも称される当時のドイツ哲学界では最前衛のグループであった。
 彼らは世界の一切を精神(理性)の自己展開的プロセスとしてとらえるヘーゲルの弁証法が、結局はその精神の本質をキリスト教に求め、なおかつ精神の最高の完成態を国家に見出そうとすることで、ウィーン体制下の反動政治を正当化する結果となっていることを批判し、より主体的な類的人間としての「自己意識」によってキリスト教と現存プロイセン国家を乗り超えていく自由主義的な哲学を構築しようと努めていた。
 こうした志向性を持つグループに、トリーアのフランス的自由主義の風土で育ったマルクスが飛び込んでいったのは自然な流れであった。元来怜悧な無類の論争家であるマルクスは、後から参加しながらグループ内でたちまち頭角を現し、リーダーのバウアーからも頼りにされる中心的な存在となっていった。
 ただ、「青年ヘーゲル学派」が共有する「自己意識の哲学」はなお唯心論的な傾向を免れておらず、後年のマルクスの強固な唯物論的思考とは距離がある。しかし大学時代のマルクスは、さしあたりまだ完全な意味での唯物論者とはなっていなかった。
 とはいえ、彼が最も影響を受けたのはバウアーではなく、間もなく反響を呼ぶ宗教批判書『キリスト教の本質』を著すヘーゲル学派内でも最年長かつ最も唯物論的傾向を示していたルートヴィヒ・フォイエルバッハであった。人間が自らの苦悩や願望などの投影として自ら造り上げた神なるものに束縛され、かえって生きた現実としての人間性を喪失してしまう自己疎外を喝破したこの控えめな哲学者こそ、17歳の時のギムナジウム卒業論文では「人間も神によって人類及び自己自身を高めるように定められている」と記していたマルクスを唯物論へ導いたのであった。

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日本共産党の成功的失敗

2012-07-15 | 時評

一般社会ではほとんど関心事とはなるまいが、今日は日本共産党の結党90周年記念日である。共産党批評は本来、結党100周年で書いたほうがよさそうだが、共産党はあと10年持つにしても、当ブログの10年後は保証されていないため、予めここで書き遺しておきたい。

戦前治安維持法下の非合法時代から90年の命脈を保つ日本共産党は、同種政党では世界で最も成功を収めた党である。その秘訣は、ソ連邦解体前の早期に革命政党から議会政党へ転向したことにある。議会制―及びその下部構造としての資本主義経済―への順応という党略では、旧イタリア共産党に代表されるユーロ・コミュニズム路線とも重なる。

だが、イタリア共産党はすでに中道政党・民主党に吸収され、消滅しているのに対し、依然独自の議会政党として中央・地方に根を張っている日本共産党は、ある意味で旧ユーロ・コミュニズムを超えている。 

だが、そうした輝かしい成功と同時に、同党は革命的共産主義政党としては既に失敗している。もはや日本共産党に共産主義的なところは何もない。2004年の最新綱領でも「社会主義・共産主義の社会をめざして」と題して最後に付け足し的に―それも社会主義と共産主義があいまいな連語にくくられて―共産主義社会の建設が謳われてはいるが、それは具体性を持たないいつとも知れぬ遠い未来のぼやけた願望にすぎない。

現存日本共産党は実質上、資本主義とも共存する社会民主主義の路線内にある。その点では、旧社会党系の社会民主党と競合するが、現存日本共産党は現存社民党よりはるかに成功した「社民党」である。

辛辣にたとえれば、日本共産党は「歌を忘れたカナリア」である。よく言えば、「他人の歌を歌うようになったカナリア」であろうか。いずれにせよ、現存日本共産党は真のコミュニストにとってはもはや魅力に欠ける既成政党群の一つにすぎない。

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マルクス/レーニン小伝(連載第2回)

2012-07-13 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第1章 人格形成期

(2)進歩‐保守的な恋愛

将来の妻イェニー
 「マルクスの恋愛」などというテーマは、後年の謹厳そうな唯物論者マルクス像には似つかわしくないようにも思えるが、このテーマはマルクスを理解するうえで意外に重要な手がかりとなる。
 マルクスの理論と実践にとって、やがて共同研究者兼同志となるエンゲルスとの盟友関係は不可欠の要素であったが、カールと妻イェニーとの夫婦関係も前者と同程度か、ある意味ではそれ以上にマルクスの思想家・革命家としての人生において決定的な重要性を持った。
 その将来の妻イェニーはトリーアの地元貴族ヴェストファーレン家の出で、彼女の父ルートヴィヒも町の有力者であった。マルクス家とは近所同士であり、そのためにカールの姉ゾフィーと親しかったイェニーもカールとは幼なじみであった。
 イェニーの父ルートヴィヒは貴族階級ながらトリーアの風土を反映した啓蒙主義者であり、身分差や民族籍を越えてマルクス家と親しく交流し、マルクスも幼い頃からヴェストファーレン家に出入りしてルートヴィヒから知的な薫陶を受けていたのである。
 このような家庭に育ったイェニーもリベラルな気風の持ち主であったようで、後年カールと結婚した後、ほどなくして無産知識人となるカールを終生支え続け、何人もの子どもを抱えて外国でのどん底生活を共にするだけの覚悟も備えた女性であった。

18歳の婚約
 カールと4歳年長のイェニーがいつ頃から親密になったのかは明らかでないが、ボン大学から一時帰省した18歳のカールからの唐突な婚約申し込みにイェニーが応じたことからすると、早くから交際関係はあったように見える。
 それにしても、この婚約はいかにリベラルなトリーアの土地柄とはいえ、まだ封建道徳が色濃く残っていた当時のドイツではいささか大胆なものではあった。まず自由恋愛ということ自体が、富裕な有産階級の間では一般的ではなく、ともすれば不道徳とみなされかねない時代であった。
 それに加え、身分差も問題であった。かなり裕福ではあっても中産階級のマルクス家と田舎貴族とはいえ一応貴族階級に属するヴェストファーレン家とでは家格の違いがあり、事実ヴェストファーレン家では家長ルートヴィヒを除くと、カールとイェニーの婚約は歓迎されなかったようである。
 ただ、肝心なルートヴィヒの承諾が得られたのは、彼が幼年時代から知るカールの才覚を高く評価していたからにほかならなかった。もっともルートヴィヒとて後年のカールの活動を予測していたら、婚約に承諾を与えたかどうか疑わしいのではあるが。
 また二人の年齢差に関しても、男性優位が常識であった時代、妻が年長となる結婚は王侯貴族同士の政略婚のような場合を除いてはいささか常識破りなものであった。
 このようにマルクスの恋愛には進歩的な面がいくつもあったが、一方でそこには古典的なロマンスの要素も認められた。
 婚約当時のカールはまだ大学生で、しかもボン大学での「不良」ぶりを見かねた父により遠方のベルリン大学へ転学させられてしまったため、結婚どころではなかった。そこで婚約後のふたりは、カールがベルリンから郷里で結婚の日を待つイェニーに宛てて愛の詩をせっせと書き送り、イェニーはそれを読んでは涙にむせぶといったもどかしい“遠距離恋愛”の関係となった。
 こういう純愛的関係は、ふたりが婚約から7年後にようやく結婚にたどりついた後も変わらず、カールとイェニーのマルクス夫妻は終生連れ添い、乳児のうちに亡くした子を含めて6人の子をもうけ、共に裕福な家庭に育った者同士としては考えられないほどのどん底生活の中にあっても、家庭的幸福は享受し続けたのだった。
 マルクスのこうした進歩‐保守的な恋愛とその結果としての結婚生活は、彼が―決して女性差別主義者ではなかったが―自覚的なフェミニストとなることはなかったことを説明する手がかりとなるかもしれない。その点では、法律婚制度そのものに否定的で、自らひとりの労働者階級の女性と事実婚を実践し、子も残さなかった盟友エンゲルスが近代フェミニズムの先覚者となったのとは対照的であった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第1回)

2012-07-12 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期

果たすべき課題も忘れ、諸々の知識の周りをうろつき回っているとは、全く情けない。
―父ハインリヒ・マルクス


(1)中産階級的出自

ユダヤ系中産階級
 本連載の主人公の一人カール・ハインリヒ・マルクスは、1818年5月5日、ハインリヒとヘンリエッテのマルクス夫妻の第三子として当時プロイセンの西端トリーアの町で生まれた。
 父方のマルクス家もオランダ出身の母方プレスブルク家も共にユダヤ系かつ代々ユダヤ教律法学者(ラビ)という家系であるが、父ハインリヒはむしろ西洋近代法の弁護士として町の有力者の一人であった。
 このようにマルクスの家系はかなり純度の高いユダヤ系ではあったが、一家はカールが生まれた頃にはプロイセンの支配的宗派であったプロテスタントに改宗していたのだった。当時トリーアの町はむしろカトリックが優勢であったのに、マルクス家があえてプロテスタントを選んだのは、大国化しつつあったプロテスタント系領邦国家プロイセンの中で少数派ユダヤ人が社会的に認知されるためには、プロテスタントへの改宗が有利であると考えられたためであろう。
 要するに、マルクス家は民族的解放よりも国民的同化の道を選んだのである。このことは、カールを含むマルクス家の子どもたちの将来にとっても有益な戦略となるはずであった。
 ただ、そうした一家の立身戦略というレベルを越えて、マルクス家がプロテスタントを選択したことには、一家のリベラルな気風という思想的背景もあったと思われる。特に父ハインリヒは決して急進的ではなく、むしろ保守的でさえあったが、フランス革命に傾倒するリベラリストでもあり、進歩的保守主義者とも言うべき知識人であった。従って、キリスト教への改宗に当たっても、反動的傾向を免れないカトリックより改革志向的なプロテスタントを選択したということは自然な流れでもあったろう。
 こうしてマルクスがリベラルな進歩的保守主義の気風を持つプロテスタントのユダヤ系中産階級家庭で育ったという事実は、彼の人格形成上も決定的な要素を成していくであろう。

トリーアの地政学
 マルクスの人格形成において、17歳までを過ごした出身地トリーアという町の地政学的特殊性も見逃せない。ライン地方でも西端のルクセンブルク国境にあるトリーアはフランス革命からナポレオン時代にかけて、フランスに占領された。その結果として、革命の精神が流入してきた。マルクス家のリベラルな気風もそうしたトリーアの町の特殊性と無縁ではあり得ない。特に1777年生まれの父ハインリヒにとっては、その人格形成期がフランス革命とナポレオンとともにあったと言ってよかった。
 しかし、ナポレオン失墜後のウィーン会議はそうした「自由の時代」を終わらせた。ウィーン会議の結果、トリーアはプロイセン領として編入されたが、その代償として反動的なプロイセン当局の支配下に置かれることとなった。マルクスが生まれた1818年はそうした「反動の時代」の初期に当たっていた。
 とはいえ、トリーア周辺のライン地方は元来、保守的なドイツの中にあっては自由な気風の強い土地柄であり、そこはやがて勃興してくるドイツ資本主義の中心地となるはずであった。トリーアの町自体も、古くからのモーゼルぶどう酒造りとともに、皮革工業や織物工業などで発展しつつあった。
 「反動の時代」にあっても、トリーアから自由な精神が完全に消えてしまったわけではなく、ドイツの中で最もフランス的と言われる町であり続けていたのだった。

「不良秀才」への道
 カールは12歳の時、トリーアの「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム」に入学する。ドイツ伝統のギムナジウム制度は大学進学のための予備課程を兼ねたエリート・コースであるから、カールへの父の期待は大きかったと思われる。
 しかも、このギムナジウムは当時のトリーアの気風を反映したリベラルな校風で知られ、マルクスの最初の知的な訓練がそうした校風の学校で施されたことは、彼の思想形成にも当然大きな影響を及ぼしているはずである。
 ちなみにマルクスのギムナジウムにおける卒業試験の成績は、「良」の物理を除いてすべて最高ランクの「優」というものであった。「秀才」と言ってよい成績ではあるが、ここで科学科目の物理の成績が今一歩であったのは、後年、思想家としてのマルクスが科学性を重視したことからすると意外に見える。このことはマルクス理論における「科学性」の内実を究明するうえで間接的な手がかりとなるかもしれない。
 ともあれ、17歳でギムナジウムを卒業したマルクスは、トリーアから地理的にも比較的近いボン大学の法学部へ進学する。法学部に入ったのは弁護士稼業を息子カールにも継いで欲しかった父の半ば命令であった。
 しかし、半強制的に進学させられた法学部は、マルクスにとって居心地のよい場所ではなかったようである。ボン大学在学中のマルクスは詩作に熱中する一方、借金にも手を出し、飲み騒いで大学から謹慎処分を受けたり、果てはケルンで禁制武器を携帯して裁判にかけられたり、と「不良」ぶりを発揮し始める。
 この時期、カールの将来像はまだはっきりしないが、少なくとも父の期待どおりに弁護士への道を無難に歩む見込みがなさそうであることだけははっきりしてきたのだった。

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アラブの遠い春

2012-07-01 | 時評

エジプトで史上初めてイスラム主義の大統領が直接選挙で誕生した。表面的に観察すれば、いわゆる「アラブの春」を経験した他のアラブ諸国に比べて、一足早く一定の民主化に到達したと評することもできる。

昨年の民衆デモを機に退陣に追い込まれたムバラク体制は、デモの直前までその友人であった欧米・日本のメディア上でステレオタイプに評されたような「独裁体制」というよりは、ムバラク前大統領の出身母体である軍部を権力基盤とする権威主義体制であった。そのうえ、歴史的に見れば、1952年エジプト共和革命とアラブ民族主義の英雄・ナセルの流れを汲む、ナセル体制の変節・堕落形態でもあった。

そのため、エジプトは他のアラブ諸国に比べれば、民主化移行が比較的しやすい条件を備えていた。とはいえ、ムスリム同胞団政権の発足をもって「アラブの春」の完成とみなすのは早計である。

まず何よりも、民衆運動とムバラク体制の間に割って入る形で漁夫の利を得た軍部勢力がなお居座っていることである。かれらは本来旧ムバラク体制とは一蓮托生であるはずだが、民衆デモに直面して、ムバラクと共倒れになることを避けるため、親分を見限って事実上のクーデターで軍部権益を確保する道を選んだのだ。

もう一つは、一応民主選挙によったとはいえ、政権に就いたのはイスラーム主義を掲げる勢力であることだ。かつては武装闘争路線を掲げたムスリム同胞団も現在は非暴力穏健路線であるが、共和革命以来、世俗性と近代化を掲げる体制下で抑圧されていたイスラーム圏の「保守本流」がここに至って台頭してきた事実に変わりない。

これにより、社会の保守・反動化が進み、イスラーム法に基づく別の種類の権威主義が立ち現れ、エジプトでは少なくないフェミニストを含む世俗近代主義者やキリスト教少数派への抑圧が強まる危険性は否定できない。これは真の民主化への障害要因となる。

ただ、「アラブの春」をめぐっては、中東を未開拓市場とみなし、自国資本の中東進出を後押ししようとする欧米が民主化運動支援にかこつけて介入する構えを露骨に示してもきた。そういう状況下では、欧米に受けのよい実務家タイプの候補者でなく、欧米に一定の不安を呼び起こすイスラーム主義者を大統領に選出したのは、かつて欧米資本の餌場として蹂躙された苦い歴史的経験を持つエジプト人にとって、欧米資本への防波堤を築くぎりぎりの選択であったかもしれない。

そうした現実判断はともあれ、アラブの民衆革命は全くもって未完である。各国で民衆デモを担った民主化運動も明確な未来ビジョンに欠け、「良い指導者」に国を託したいという委任民主主義の域を出ない運動である。言い換えれば、民衆自身が自ら政治を担う自己統治に自信を持っていない。

こういう「指導者探し」は選挙に基づく政党政治が根付いている自称先進諸国でも同様に見られる現象である。その意味では、エジプトの現状は決してアフリカ大陸の途上国の他人事ではない。選挙政治は世襲統治や独裁統治よりはましなものだが、選挙政治の実現をもって民主化は終わりなのではない。「その先」がまだある。

それは「指導者」に頼るのでない、自己統治の民主主義である。 

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