ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第195回)

2021-01-30 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(3)アルバニア・レジスタンス革命

〈3‐1〉レジスタンス組織の結成
 アルバニアは、長くオスマン・トルコ帝国の支配を受けた後、1912年に独立を果たしたが、ドイツ人の君主を招聘した君主制(公国)が失敗し、無政府状態が続いた末、1925年に有力な地主貴族出身の政治家アフメド・ゾグーが大統領となり、共和体制を樹立した。
 ゾグーは28年、自ら国王ゾグー1世を称し即位して王国を建て、専制により伝統的な氏族社会を転換する近代化と安定をもたらすも、1939年、「地中海帝国」(我らの海)の野望を抱くイタリアのムッソリーニ・ファシスト政権の侵攻を受けて瓦解、ゾグーは海外亡命し、イタリアの占領下に置かれた。
 ここから先の展開はユーゴスラヴィアと類似し、共産系と反共系の二つのレジスタンス組織が立ち上がった。いずれもユーゴのパルティザンの結成と同年1942年のことであるが、アルバニアではイタリアの占領から三年が過ぎていた。
 共産系レジスタンスは、アルバニア共産党を主体とする民族反ファシスト解放運動(LANÇ)である。アルバニア共産党の結党はユーゴより遅れ、レジスタンス結成前年の1941年であったが、共産党及びLANÇはユーゴのパルティザンの支援を受け、高い戦闘能力と士気を維持した。
 その指導者は教師出身のエンヴェル・ホジャとスペイン内戦に参加した経験を持つメフメット・シェフーの両者であり、最終的に、この二人がレジスタンス革命成功後、新たな社会主義体制のそれぞれナンバー1とナンバー2の地位に就くことになる。
 一方、反共系レジスタンスは民族戦線を名乗り、こちらはアリ・ケルチラとミドハト・フラシェリという二人のベテラン保守政治家に率いられていた。このレジスタンスはアルバニア民族主義を掲げ、ファシズムとコミュニズム双方に反対する比較的リベラルなグループであり、地主階級と農民階級の支持を受けていた。
 このように、アルバニアはユーゴのような多民族社会ではないため、民族ではなく、イデオロギーによってレジスタンス組織が分岐した点では、フランスと類似している。
 しかし、反共系の民族戦線は一時的にLANÇと共闘しながら、最後までレジスタンスを貫けず、ナチスドイツの傀儡政権・枢軸勢力に協力し、LANÇと敵対するようになった点では、ユーゴのセルビア民族主義系レジスタンス組織チェトニクと同様の道を辿ったのである。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第2回)

2021-01-28 | 南アフリカ憲法照覧

第一章 建国条項

 南ア憲法第一章は建国条項と題して、国の成り立ちに関わる総則的な条項が収められている。単なる総則ではなく、あえて建国条項としたのは、アパルトヘイト廃止後の新生国家の建国を画する憲法という性格を強調するためと考えられる。

南アフリカ共和国

第1条

南アフリカ共和国は、以下の価値によって建国された一個の主権的民主国家である。

 (a) 人間の尊厳、平等の達成及び人権と自由の前進

 (b) 非人種主義及び非性差主義

 (c) 憲法の最高法規性及び法の支配

 (d) 説明責任、応答性及び公開性を確保するべく、成人の普通選挙権、全国共通の選挙人登録、通常選挙及び複数政党制による民主的政府

 第1条は国の基本原理に関する規定である。全体として複数政党制民主国家の標準的な基本原理がそろっているが、a項で人間の尊厳を筆頭原理としつつ、b項で二大差別事象である人種差別と性差別の根底にある人種主義・性差主義の否認を特に明示しているのは、反差別を建国基盤とする新生南アの特色である。

憲法の最高法規性

第2条

この憲法は共和国の最高法規にして、これに反する法又は行為は無効であり、これによって課せられた義務は履行されなければならない。

 日本国憲法にも見られる憲法の最高法規性を宣言する規定が建国条項の二番目に来ているのは、立憲主義を特に重視する趣旨と考えられる。

市民権

第3条

1 南アフリカ共和国市民権は、共通に存在する。

2 すべての市民は―

 (a) 等しく市民権に由来する権利、特権及び利益を保障される。

 (b) 等しく市民権に由来する義務及び責任に服する。

3 市民権の得喪及び回復は、国の法律で定めなければならない。

 共通かつ平等の市民権に関する条項である。アパルトヘイト体制下では有色人種が法的にも劣等市民として差別的に取り扱われたことを否定する意義があり、これも南ア的な特色である。

国歌

第4条

共和国国歌は、大統領の布告によって定められる。

国旗

第5条

共和国国旗は、附則第1条に描写されるとおり、黒、金、緑、白、赤及び青である。

 第4条及び第5条は国歌・国旗に関する規定である。多くの場合、憲法の末尾に置かれる国家儀礼に関する規定が建国条項に含まれるのも、新生国家を強調する趣旨であろうか。ただし、内容はごく事務的で、ナショナリズムに傾斜してはいない。

言語

第6条

1 共和国の公用語は、ペディ語、ソト語、ツワナ語、スワティ語、ベンダ語、ツォンガ語、アフリカーンス語、英語、ンデベレ語、コーサ語及びズールー語である。

2 我が人民の土着語の使用と地位が歴史的に縮小していることにかんがみ、国はこれらの言語の地位を向上させ、かつその使用を推進するための実際的かつ積極的な手段を講じなければならない。

3 (a) 中央政府及び州政府は、使用慣習、実際性、費用、地域の状況並びに需要及び国民全体または関連する州民の選好とのバランスを考慮に入れつつ、統治目的のためにいずれか特定の公用語を使用するものとする。ただし、中央政府及び各州政府は、少なくとも二つの公用語を使用しなければならない。

  (b) 地方自治体は、住民の言語の使用慣習と選好を考慮に入れなければならない。

4 中央政府及び州政府は、立法またはその他の手段により、その公用語の使用を規制し、かつ監督しなければならない。第二項の規定を損なうことなく、すべての公用語は等しく尊重され、対等に扱われなければならない。

5 国の法律によって設置された全南アフリカ言語局は―

 (a) 次の言語の発展と使用のための諸条件を推進し、かつ創造しなければならない。

  (ⅰ) すべての公用語

  (ⅱ) コイ語、ナマ語及びサン語

  (ⅲ) 手話

 (b) 次の言語の尊重を推進し、かつ保証しなければならない。

  (ⅰ) ドイツ語、ギリシャ語、グジャラティ語、ヒンディー語、ポルトガル語、タミル語、テルグ語及びウルドゥー語を含む南アフリカの地域社会で共通的に使用されるすべての言語

  (ⅱ) 南アフリカで宗教的な目的で使用されるアラビア語、ヘブライ語、サンスクリット語及びその他の言語

 憲法第1章で最も詳細な条項がこの言語条項である。ここには多民族・多言語のアフリカ的な社会現実を踏まえ、徹底した多言語主義政策が新生国家の支柱であることが示されている。
 そのために、旧アパルトヘイト体制の公用語であった白人のアフリカーンス語を含む11もの言語が公用語に指定されているほか、公用語外の言語についても保護が図られている。ただし、グローバル化の中で、公用語としては英語の比重が圧倒的に高くなっているようである。
 とはいえ、これほど詳細に憲法で多言語主義を定める例は珍しく、中でも第5項b第ⅲ号で手話も保護されるべき言語に数えられていることは先進的である。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第1回)

2021-01-27 | 南アフリカ憲法照覧

 南アフリカ共和国(南ア)は人種差別体制アパルトヘイトの廃止以後、実質上別の国に生まれ変わった。そのような体制変動の象徴となっているのが、1996年に制定された現行憲法(96年憲法)である。この96年憲法では不正の体制であったアパルトヘイトの清算と反差別を基軸とする新生南ア国家の基本原則が詳細に規定されている。
 その意味で、この憲法は南アの独異な歴史を色濃く反映した法典である。内容的にはブルジョワ民主憲法の系譜に属するが、特に平等権と社会権に重きを置く社会民主主義色の強い憲法であり、ブルジョワ民主憲法の限界内では先進的な憲法の最新例の一つと言える。一方で、伝統的な部族指導者にも憲法の範囲内で一定の役割を保障するなど、アフリカ的な特色も備えている。
 構成上は前文と全14章243条の本文から成り、憲法典としては長大な部類に属するが、これは細目的な事項についても法律に一任せず、憲法に明記して立憲体制を貫徹しようとする意図の表れであり、白人政権のもとで恣意的な権力行使がなされたことへの反省に基づいていると考えられる。
 以下の訳文は、南ア政府公式ウェブサイトに掲載されている英語版正文をもとにした筆者の私訳である。

前文

 前文は96年憲法の制定経緯や趣旨を説明する部分と、複数の公用語で神の加護を祈願する祝詞的な部分とに分かれるが、ここでは前者のみを訳出する。この部分では、過去の不正な人種差別体制の清算と、平等かつ公正で全人種を包摂する民主国家の建設を目的として新憲法が制定された経緯が簡潔に記されている。
 特に第五段の「多様性の中の統一」という止揚的な理念が96年憲法の支柱であり、そのためにも、過去のアパルトヘイト体制との決別を謳いつつ、直前の第四段では「我が国の建設と発展のために働いた者」として、おそらくは共和国の土台を築いた旧体制の白人先駆者―アパルトヘイトの構築者でもあった―に対しても一定の敬意を表しているのだとも読める。
 この前文には平和主義への言及がない点を除けば、日本の昭和憲法前文ともオーバーラップする趣きがあるが、これは両者が制定時期こそ半世紀の隔たりがあれど、ともに旧体制の清算と過去の反省を主要なモチーフとして制定された―反省的憲法―であることに由来する共通点であろう。

我ら南アフリカ人民は
我が過去の不正を認識し、
我が国において正義と自由を求めて苦悩した者たちの栄誉をたたえ、
我が国の建設と発展のために働いた者たちを敬い、
南アフリカがそこに住まい、我が多様性の中に統一されたすべての者に属するものと信ずる。
我らは、それゆえに、自由に選挙された代表者を通じて、以下の目的のためにこの憲法を採択する。すなわち―

 過去の分断を癒し、民主的価値、社会的公正及び基本的人権に基づく社会を創設すること
 政府が人民の意志に基づき、すべての市民が等しく法によって保護される民主的かつ透明な社会の基礎を置くこと
 すべての市民の生活の質を改善し、各人の可能性を解き放つこと
 国際社会のうちに主権国家としてふさわしい地位を確保し得る統一的かつ民主的な南アフリカを建設すること

神よ、わが国民を守り給え。

神よ、南アフリカを祝福し給え。

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近代革命の社会力学(連載第194回)

2021-01-25 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐4〉自主管理社会主義への道
 ナチスドイツに対するレジスタンス革命によって成立した新生ユーゴスラヴィアには自主独立の精神が埋め込まれており、そのことが新体制の性格にも強く反映された。そうした新生ユーゴスラヴィアの真に革命的な点は、その政治体制よりも、「自主管理社会主義」と呼ばれる独自の経済体制にあった。
 それは、共産党の指導下、中央で策定された経済計画に従い、国有企業が定められた生産目標を達成するべく生産活動を展開する集産主義的なソ連型のシステムとは対照的に、労働者評議会をベースに労働者自身が管理する企業体を通じて、一定の競争関係の中で生産活動を行うシステムであった。
 なお、ユーゴでは、農業分野でも、ソ連のような大規模な集団化はなされず、農民は再分配された一定面積の農地を所有でき、残余の農地は協同組合や農業企業などが所有するという独自の混合経済体制が追求された。農民の自主経営の割合が高い点では、農業まで含めて「自主管理」と呼べなくはないが、通常は、非農業分野の生産管理体制に限局される用語である。
 そうした意味での自主管理体制においては、資本主義企業に特徴的な経営者と労働者の乖離及び後者の前者への従属、従って労働搾取が構造化されることとは対照的に、経営者は企業の所有者に相当する労働者が公募し、選任することになるため、経営者が労働者に雇われる形となり、労働搾取の余地は封じられるとされた。
 自主管理企業では、職場単位で構成される自主管理組織をベースに、直接選挙による意思決定機関として労働者評議会が設置され、そうした評議会の連合組織として企業体が運営されるという徹底したボトムアップ型の組織運営がなされた。
 このような自主管理システムは必ずしもユーゴの新発明というわけではなく、遡ればロシア革命の初期にも労働者による生産管理として現れていたが、ここでは最終的に権力を掌握したボリシェヴィキの集産主義的な経済思想と合わず、制度として発展する前に摘み取られてしまった。
 その後、スペイン・アナーキスト革命の中でも、アナーキスト系の思想に基づき同種の社会実験が地方的になされたが、こちらも中央の人民戦線政府の経済政策と合わず、反革命派との内戦が激化する中で、解体されていった。
 これに対して、ユーゴの自主管理社会主義は、確立された体制下で、より本格的かつ持続的に構築されたのであった。このシステムの構築に当たり、理論上は、最高指導者チトーよりも、スロヴェニアの経済学者でレジスタンス運動家‎でもあったエドヴァルド・カルデルジの貢献が大きかった。
 一方で、当初は親ソ派だったチトーがソ連の独裁者スターリンと対立してソ連から離反し、東西冷戦の中で、いずれの陣営にも属さない非同盟諸国運動の旗手に転じていったことも、ソ連型社会主義に対抗して独自の社会主義体制を構築する上での政治的な契機となった。
 その結果として、ソ連共産党に睨まれたユーゴ共産党が1948年、ソ連主導の国際共産主義組織コミンフォルムを除名されて以降、ユーゴは東西いずれの陣営からも集団安全保障を期待することができなくなり、全土的な自主防衛政策を必要とした。
 そのため、自主管理組織は同時に民間防衛組織を兼ねており、武器・弾薬等の確保・貯蔵に加え、戦時にはパルティザン兵士の動員と、連邦正規軍との連絡・調整なども可能な有事体制が常時確保され、軍事的な組織をも兼ねていた。自主管理は、レジスタンスの予備的な継続でもあったわけである。
 こうした自主管理社会主義は、1963年のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国への国名変更を経て、経済危機に際して連邦末期1990年代初頭に抜本的な市場経済化改革がなされるまで維持されていた。
 しかし、計画経済によらない自主管理社会主義は、自主管理企業間の競争の余地を認めるという点で市場経済への予行演習のようなものでもあり、経営者の専業化に伴う自主管理の形骸化の進行とともに、最終的には事実上の資本主義に合流し、チトーの没後、ユーゴの崩壊と運命を共にすることになる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第24回)

2021-01-24 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第5章 経済計画の細目

(1)生態学的持続可能性ノルマ
 持続可能的計画経済の出発点は、地球全域での経済計画の策定である。その際、世界経済計画の前提部を成すのは、生態学的持続可能性目標である。この点で、旧ソ連型の経済開発を最優先とする開発計画経済においては、経済計画の前提部に生産ノルマとなる目標値が提示されていたこととは対照的である。
 こうした生態学的持続可能性目標は、単なる環境保護政策の目標ではなく、具体的な各次経済計画の前提的な規準を成すという意味で、各次経済計画全体を規定する規範的な性質を持ったノルマである。従って、生態学的持続可能性は規範的な数値として各次経済計画の冒頭で明示される。
 その具体的な項目構成としては、さしあたり、以下のものが考えられるが、環境科学の研究の進展に応じて、さらに新たな項目が追加されたり、各項目ごとの指標が細分化または精密化されるといった改良的変更が加わる可能性を排除しない。

①気候変動:温室効果ガス排出指標
②オゾン層破壊:オゾン層破壊物質消費指数
③富栄養化:水圏及び土壌への窒素・リン排出量
④酸性化:酸性化物質排出指標
⑤有害物質状態:重金属・有機化合物排出量
⑥都市域大気状態:都市域の硫黄酸化物・窒素酸化物・揮発性有機化合物排出量
⑦水資源:水資源利用強度(採取量/利用可能資源量)
⑧水産資源:漁獲量
⑨森林資源:森林資源利用強度(実伐採量/生産能力)
⑩土壌劣化(浸食/砂漠化):農業への潜在的及び現実的な土地の利用量
⑪各種廃棄物:一般廃棄物、産業廃棄物、有害廃棄物、核廃棄物の各排出量
⑫生物多様性:多様性保護区面積、絶滅危惧種等の生息回復目標個体数

 実際の世界経済計画では、これらの各項目指標の3か年ごとの規範的目標数値が提示されることになる。従って、例えば、気候変動項目に関しても、現行の国際的な目標数値のように、遠大な長期目標として示されるのでなく、向こう3か年ごとの温室効果ガス排出規制目標が規範的に示されることになる。

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近代革命の社会力学(連載第193回)

2021-01-22 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐3〉ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国
 1945年5月にナチスドイツが降伏すると、パルティザンによる権力の掌握は容易であった。すでに、有力なライバルとなるはずだった反共レジスタンス組織のチェトニクは枢軸側に事実上寝返り、レジスタンスから離脱しており、パルティザンはライバル組織が存在しない状態だったからである。
 チェトニク指導者のドラジャ・ミハイロヴィチは、パルティザンによる建国後、他の枢軸国傀儡体制の幹部らとともに、新政権による追及を受け、戦犯として裁かれ、処刑された。
 旧ユーゴ国王ペータル2世は終戦後も帰国を許されず、第二回人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)が公約していた君主制の将来をめぐる国民投票も反故にされたため、新ユーゴスラヴィア連邦の建国後、アメリカへ移住し、王政復古運動の中心となるだけの求心力もなかった。
 そうしたことから、先にAVNOJで決議されていた内容に沿って、1945年11月の建国宣言を受け、翌46年1月には、制憲議会選挙を経て、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニアの六つの共和国から成るユーゴスラヴィア連邦人民共和国が正式に発足した。
 このような主権を持たない民族別共和国によって構成される連邦という体制は、ソヴィエト連邦とも類似する新しいタイプの連邦国家であったが、実際のところ、各連邦構成共和国内が多民族的なモザイク構成となっており、単純な民族別構成ではなかった。
 その点、パルティザンの時代には枢軸国という共通の敵と戦う大義のもとに団結できていたが、レジスタンスが完了し、建国という段階に入ると、民族の違いが意識されるようになり、連邦の統一は困難となりかねなかった。そのため、連邦全体の統一を維持するためには、結局のところ、民族主義を封じ込めるほかはなかった。
 そうした封じ込めに関しては、チトーというカリスマ性を持った指導者の存在そのものが大きな力となった。チトーは父方がクロアチア系、母方はスロヴェニア系と、まさに自身が多民族国家を体現する存在であった。その一方、ユーゴ域内で相対的な最大勢力であるセルビア人出自でなかったことは、セルビア人の覇権主義を警戒する他民族に安心感を与える有利な立場にあった。
 チトーはAVNOJ会議で決定されていたとおり、新生ユーゴ連邦の初代首相に就任したが、建国プロセスが一段落した1953年には大統領に就任、その後、終身大統領となり、死去する1980年まで一貫してユーゴの最高指導者であり続けた。
 もっとも、彼の存在一つで民族主義を完封できたわけではなく、裏ではソ連のKGBに類似した政治警察・国家保安庁が全土に監視網を敷き、民族主義的な活動の抑圧的な取締りに当たっていたことは否定できない事実である。
 こうした反民族主義的な体制を保証する組織的な担保となったのは、共産党であった。ユーゴ共産党は1945年11月の制憲議会選挙で、反共政党がボイコットする中、友党と人民戦線を組んで勝利し政権を獲得、その後は、事実上の一党支配体制に移行した。
 1952年以降は、一党支配の統制を若干緩めるべく、共産主義者同盟と改称して、連邦全体の統一的な政治組織として再編されたが、チトー没後も1990年まで実質的な共産党が統治の中心にあったことに変わりない。
 このような人為的に構制された多民族の交錯する連邦体制はカリスマのチトーが死去すると、間もなく民族主義の再現前によって揺らぎ初め、1990年代におけるソ連・東欧圏社会主義体制の連続革命的な崩壊潮流の中、連邦護持派セルビアとの凄惨な内戦を経て、完全に解体される運命にあった。

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アメリカン・ファシズムの中絶

2021-01-21 | 時評

トランプ大統領に同調し、昨年度の大統領選挙が「盗まれた」と主張するトランプ支持者による連邦議事堂乱入事件という珍騒動の余波が続く中、トランプが一期のみでとりあえずはおとなしくホワイトハウスを退去したことは、彼が体現したアメリカン・ファシズムが「中絶」されたことを意味している。

ここでの「中絶」には、二義ある。一つは、産出の阻止である。とはいえ、過去四年間でかなりの大きさに育ったファシズム胎児の掻爬となったため、母体であるアメリカ社会に大きな副作用も起こしている。乱入事件はそのハイライトと言ってよい。

いまだにバイデンを正当な新大統領と認めない者が、共和党支持者の多数を占める。このような選挙結果に対する認識をめぐる分断は、アメリカが誇ってきた選挙政治の終わりの始まりを象徴している。

もう一つの意味は、中断である。大統領自身がお別れビデオ・メッセージで、「我々の運動は始まったばかり」と意味深長に語ったように、2024年大統領選挙での返り咲きへ向けたトランプ復権運動は続く可能性がある。

その間、アメリカン・ファシズムはトランプとともにいったん下野し、民間でより組織化される可能性もあるだろう。今後、バイデン政権下でも、トランプ支持者の騒乱は続く恐れがある。それに対抗して、バイデン政権が警察的抑圧を強めれば、警察国家化がいっそう進展することにもなり、アメリカが誇る「自由」は侵食されていくだろう。

いずれにせよ、アメリカン・ファシズムはひとまず「中絶」されたことに変わりないが、なぜそうなったのか、トランプ大統領の再選失敗の要因や如何に。技術的な選挙戦術論を離れて、ファシズム運動の観点から振り返ると、要するに、トランプはヒトラーになり切れなかったということである。具体的には(以下、箇条文では主語の「トランプは」を省略)━

 共和党の精神的な乗っ取りには成功したが、組織的には完全に私物化できなかった。これは、一元的な党首と集権的な組織を持たず、政治クラブに近いアメリカ的な政党の特質のせいでもある。その点、議席もないマイナー政党に過ぎなかったナチ党を乗っ取ったヒトラーとは対照的。

 ナチス親衛隊のような忠実かつ有能な武装組織を創設しなかった。雑多な親衛集団による議事堂乱入のお粗末な失敗はそのせいであるが、これではまるで失敗に終わった初期ナチスのミュンヘン一揆のよう。ミュンヘン一揆はナチスの選挙参加方針以前の無謀な戦術だったが、トランプ親衛集団は大統領選挙での敗退後に一揆を起こすという勘違いをして自滅、今後、トランプ自身が扇動容疑で弾劾または刑事訴追もされかねないリスクを背負うことに。

 現行憲法の廃棄、少なくとも修正に踏み込まなかった。ワイマール憲法下の首相に就任した直後に共産主義者による議事堂放火テロ事件をでっちあげ、それを口実に非常事態令を敷き、民主的なワイマール憲法を廃棄、全権委任法を導入したヒトラーとは対照的に、独裁を許さない18世紀の三権分立憲法を保持したままであった。

 家族を頼らなかったヒトラーとは対照的に、長く携わった同族企業のやり方を持ち込み、娘夫婦や息子のような家族に頼ったため、才覚ある参謀も周囲に集まらなかった。

アメリカン・ファシズムの継続と復活があり得るかどうかは、さしあたり、有罪となれば大統領職を含む連邦公職就任権を剥奪される可能性のある二度目の上院弾劾裁判をトランプ前大統領が乗り切れるかどうかにかかる。

しかし、歴史上初となる弾劾が成立して、連邦公職就任権が剥奪されても、トランプ支持者をいっそう激高・結束させ、事実上の後継者となる「第二のトランプ」が、彼の家族を含めた周辺、あるいは外部からも現れる危険性はある。それほどに、アメリカン・ファシズムの土壌は大きく育っている。

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近代革命の社会力学(連載第192回)

2021-01-20 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐2〉パルティザンの政治組織化と解放
 ユーゴのパルティザンは小規模なゲリラ組織として出発しながら、たちまちにして大規模な軍事組織に成長したが、その背景には、前回見たような民族主義によらない横断的な組織作りの巧みさとともに、英米、ソ連をはじめとする連合国の幅広い支援も受けられたことがある。
 その点、明確に共産主義を理念としながら、反共の英米の支援まで受けられたのは、反共レジスタンスのチェトニクの立場が動揺的で、枢軸国側に寝返る危険があった反面、パルティザンは一貫しており、短期間で数十万の兵員を擁する士気の高い軍事組織に成長し、戦果を上げていたという既成事実があった。
 実際、結成の翌年には早くも兵員20万人余に達し、戦争末期の45年になると80万を超えるまでに膨張し、海軍や空軍まで備えた統合的な正規軍に近い状態に達していた。
 そのため、ドイツ軍の侵略にさらされていたイギリスやソ連が自国の防衛に忙殺され、軍事的な援護が後手に回っていた中でも、パルティザンはほぼ自力で戦闘を継続することができるだけの能力を保有していた。
 こうした軍事組織としてのパルティザンやその作戦の展開について詳述することは本連載の目的から逸れるので、割愛するが、革命という観点からは、パルティザンのもう一つの特質として、単なるレジスタンスの軍事組織にとどまらず、早い段階から政治的な組織化にも取り組んでいたことが注目される。
 そうしたパルティザンの政治組織として、1942年に、ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)が設立された。これは反ファシズムの政治闘争組織であるとともに、実質上はパルティザン指導者チトーが主宰し、非共産党員も広く結集して開催されたある種の建国準備会議であった。
 そうした広範性を反映して、会議では共産主義の理念が前面に出されず、私有財産の擁護や経済活動の自由など、ブルジョワ的な自由主義が謳われていた。
 このことは、後の共産党主導の新国家樹立から遡って考えれば、非共産党員にも配慮した煙幕とも言える内容であったが、新生ユーゴがソ連型社会主義とは異なる自主管理による「自由な」社会主義体制に進んだことからすると、あながち政治的な偽装とも言い切れない。
 いずれにせよ、AVNOJは一回性のものではなく、まだレジスタンスが継続していた1943年に第二回会合が開催され、そこではAVNOJを暫定的な最高機関とすること、そのうえで、ユーゴスラヴィアを主要な民族別に六つの共和国から成る連邦国家として再建すること、チトーを元帥兼首相とすることなどが決議された。
 さらに、在英のユーゴ王国亡命政府の廃止と、君主制の将来について国民投票で決することも決議され、旧ユーゴ王国との決別が示されたため、君主制の帰趨は国民投票に委ねるとしながらも、この時点で共和革命が成ったとみなすことができる。
 ここでいち早く、戦後の新生ユーゴ連邦の骨格が示され、しかも、チトーが軍及び行政の長に就くことが示されたことからは、チトーとパルティザンが単なるレジスタンスを超えて、明確に革命を志向していたことが見て取れる。
 とはいえ、レジスタンスはまだ完了しておらず、この後、1944年5月にはチトーが在所する司令部をドイツ軍が攻撃し、拘束されかけたところを間一髪でイタリアに脱出するという危険な一幕もあった。
 しかし、44年10月、ソ連軍との共同作戦として展開されたセルビアのベオグラード進撃により同地を解放したのを契機に、最終攻勢に転じ、45年5月、第二次大戦における欧州戦線全体でも最後の戦闘となったスロヴェニアのポリヤナの戦いに勝利して、レジスタンスは完了したのである。

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近代革命の社会力学(連載第191回)

2021-01-18 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐1〉パルティザンの結成
 第二次大戦前のユーゴスラヴィア(以下、ユーゴと略す)は、第一次大戦を契機とする革命によりオーストリア‐ハンガリー帝国が解体されたことを受け、オーストリア支配下にあった南スラブ系諸民族が結集し、先にオスマン・トルコ帝国から独立を果たしていたセルビアのカラジョルジェヴィチ王家を君主とする王国として成立した新興の多民族国家であった。
 ユーゴ王国では、第二次大戦に当たり、時の若年の国王ペータル2世と親類の摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチの間で、いずれの陣営に参加するかで対立が生じ、いったんは枢軸国参加を主張したパヴレが勝利し、ナチスドイツと同盟を結んだものの、間もなく反枢軸派のクーデターでパヴレは失権し、ペータルの親政が開始された。
 ペータル親政政権は安全保障上、ナチスドイツとの同盟維持策を採ったが、これを信用せず、バルカン半島への版図拡大を目論むドイツはユーゴ侵攻作戦を断行、反撃できないユーゴ政府は、1941年4月に降伏した。その結果、ユーゴ王国は解体され、セルビア地域はドイツ傀儡の「セルビア救国政府」に、クロアチア地域はイタリアとドイツを後ろ盾とする衛星国家「クロアチア独立国」に分割された。
 このような亡国状況の中、1941年中に、二つの反枢軸武装抵抗組織が立ち上がる。その一つはユーゴ共産党を主力とするパルティザン(国民解放軍・ユーゴスラヴィアパルティザン分隊)、今一つはセルビア民族主義のチェトニク(ユーゴスラヴィア軍チェトニク分隊)であった。
 前者の母体となったユーゴ共産党は、ロシア革命の影響下、ユーゴ王国成立直後の1919年に結成されたものの、王国体制から危険視され、1921年に非合法化されて以降、地下活動を強いられていたところ、亡国状況の中、クロアチア人出自のヨシップ・ブロズ・チトーという傑出した指導者を得て、パルティザンを通じたレジスタンスを開始する。
 パルティザンは反ファシズム・共産主義のイデオロギーで統一され、民族主義を排していたことが利点となり、複雑な民族構成を持つユーゴにありながら、結束の固いレジスタンスとして急成長し、最後までレジスタンスを貫くことができた。
 一方のチェトニクは、セルビア民族主義者ドラジャ・ミハイロヴィチを指導者とするセルビア人の民族主義抵抗運動であり、在英のユーゴ王国亡命政府と結び、王国復活を目標とする反共レジスタンス組織であった。
 その点では、フランス・レジスタンスにおける自由フランス軍と類似した立場にあったが、自由フランス軍が民族でなく、ブルジョワ保守主義のイデオロギーと社会階級によっていたのに対し、チェトニクは明確にセルビア民族主義により、セルビア人の組織に偏っていた点に限界があった
 そうした組織の性格から、パルティザンとは敵対的であり、亡命政府及び連合国の支援を受けながら、枢軸勢力と戦うよりパルティザンと戦うことのほうが多いありさまであった。最終的には、枢軸勢力及び傀儡のセルビア救国政府との協力関係に転じたことで、そもそもレジスタンス組織としての性格を喪失し、レジスタンスから脱落していったのである。

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比較:影の警察国家(連載第30回)

2021-01-17 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐0:中央警察集合体

 イギリスの中央警察集合体はアメリカの連邦警察集合体に対応する国家レベルの警察機関群であるが、アメリカの肥大化した連邦警察集合体に比すれば、イギリスの中央警察集合体はなお小規模なものにとどまる。しかし、近年、保守党政権下で拡大傾向にあることは確かである。
 イギリスの場合、中央政府レベルにおける治安官庁は、内務省(Home Office)であり、中央警察集合体も内務省系統がその中核である。もっとも、イギリスでは依然として国家警察を擁しないため、いくつかの内務省所管機関の集合体の形で存在する。
 中でも近年の大きな変化として、イギリス版FBIとしての国家犯罪庁(National Crime Agency:NCA)の設置がある。ただし、人員や権限はFBIよりも限られており、発達途上の新機関である。
 内務省系機関として、より歴史が古いのは、国境警備や移民管理に関わる諸機関であるが、この分野でも、近年、移民取締りの効率を上げるために変更が加えられ、新たに内務大臣直属の国境警備隊である国境隊(Border Force)と移民執行局(Immigration Enforcement)とに分離された。
 また、国内諜報機関として歴史の古い保安庁(Security Service:通称MI5)も、国内治安情報の収集に関わることから、形式的ではあるが、内務大臣の管轄下にある。保安庁は本来、諜報機関であって、捜査機関ではないが、対テロ対策にも関わる近年は、中央警察集合体の一翼にもかかってきている。
 アメリカにおいて連邦警察集合体の中核を成す司法省に相当する中央省庁はイギリスには存在しないが、イングランド・ウェールズ法務総監(Her Majesty's Attorney General for England and Wales)が監督する中央捜査機関として、重大知能犯局(Serious Fraud Office:SFO)が存在する。時代的には、如上NCAよりも早い1987年設置の機関である。
 そのほか、中央警察集合体には、特別警察と呼ばれる三つの警察機関、すなわち、英国鉄道警察(British Transport Police)、民間原子力保安隊(Civil Nuclear Constabulary )、国防省警察(Ministry of Defence Police)が含まれる。
 これら三機関は、それぞれ運輸省、ビジネス・エネルギー・産業戦略省、国防省の管轄下にあり、組織としては別立てであるが、100人以上の死者を出した2015年のパリ同時多発テロ事件を受け、2016年には当時のメイ政権が如上三つの特別警察の狙撃要員を統合した4000人規模の新たな即応部隊の創設を打ち出した。
 本稿執筆時点で、この新組織に関する正式な発足の情報は得られていないが、「テロとの戦い」テーゼに対応して、中央警察集合体の統合を図る動きと見られる。これは、前回見た地方警察の統合運用と合わせ、イギリスの分散型警察国家における集権的な変容の動きとして注目される。

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近代革命の社会力学(連載第190回)

2021-01-15 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(1)概観
 第二次世界大戦では、参戦国が総力戦のため総動員体制を敷いたことから、外部的な戦争にすべての人的・物的資源が投入された反面、内爆的な革命の発生する余地はほぼなかったが、ドイツ・イタリアの枢軸国に占領されたバルカン半島では、レジスタンス勢力による枢軸勢力の撃退がそのまま国内の革命となり、レジスタンスを基盤とする新体制が樹立された例がある。
 その代表例がユーゴスラヴィアであるが、隣接するアルバニアも同様であった。ギリシャでも同様の流れが生じかけたが、ここでは反革命・保守派の反撃により、国を疲弊させる凄惨な内戦に進展した。
 レジスタンスはナチスドイツに占領されたフランスでも結成されたが、フランスでは、レジスタンスの中核となったのが後に大統領となるド・ゴール将軍率いる保守派の自由フランス軍であり、共産党のレジスタンスは第二勢力であったのに対し、バルカン半島諸国のレジスタンスの中核は共産党であった。
 そのため、フランスでは解放後、革命に進展することなく、第四共和国の議会制度が回復され、その下で、レジスタンスへの寄与が好感された共産党が一時的に第一党となるにとどまったが、バルカン半島では、レジスタンスの中核を共産党が担ったため、解放そのものが共産党の主導による社会主義革命となった。
 また、フランスのレジスタンスが米英軍を中核とする連合国軍によるバックアップなしには実現できなかったのに対して、バルカン半島のレジスタンスは、ソ連による限定的な援護はあったものの、ナショナリズムを理念とし、ほぼ自力で解放を達成したことも大きく異なり、これも革命へと転化し得た要因である。
 加えて、支援国ソ連の影響も限定的であったため、特にユーゴスラヴィアでは、共産党支配体制ながら、ソ連とは一線を画し、むしろ反ソ的な独自の社会主義体制に移行した。そのため、戦後、ソ連の占領下で、ソ連の衛星国家としての社会主義体制が樹立されていった中・東欧諸国とは大きく異なる展開を見せた。
 アルバニアの社会主義体制は1960年代までは親ソ派であったが、スターリンの死後、反スターリンの立場に転換したソ連との路線対立からソ連を離反し、親中国に立場を変えるも、その中国とも決裂して以後は、特異な鎖国状態に入った。
 一方、ギリシャのレジスタンス運動は、フランスに似て、共産党を中核としソ連の支援を受ける左派レジスタンスと、保守系の右派レジスタンスとに分裂していたところ、解放後、左派レジスタンスの革命に反対する右派レジスタンスとの間で内戦に進展したものである。
 ギリシャ内戦は第二次大戦後における東西冷戦の幕開けを画する重要な事変となり、米英が右派レジスタンスを、ソ連が左派レジスタンスをそれぞれ援護する最初の代理戦争の事例ともなった。最終的に右派が勝利したことで、内戦後、再建されたギリシャは東欧にあって西側陣営の飛び地的な衛星国家の役割を果たす複雑な地政学的地位に置かれることとなる。

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近代革命の社会力学(連載第189回)

2021-01-13 | 〆近代革命の社会力学

二十七 コスタリカ常備軍廃止革命

(4)革命‐内戦と平和福祉国家の樹立
 ピカード政権による選挙結果の転覆という事態を受け、1948年3月、幅広い抗議行動が自然発生的に生じた。これをチャンスととらえたフィゲーレスは、配下のカリブ軍団をベースに国民解放軍を結成し、武装蜂起した。
 後に国民解放党として政党化される革命軍は、実際のところ、雑多な構成を持っており、反共右派から福祉国家に懐疑的な保守派、さらに福祉国家の進展を求める社会民主主義者まで含まれていた。
 他方、当時のコスタリカ政府軍にはわずか数百人の要員しかおらず、社会民主主義のピカード政権の支持基盤に入っていた共産主義者の民兵組織やニカラグアのソモサ反共独裁政権軍の援護さえ受けざるを得ないありさまであった。
 このように1948年革命の両陣営の構成にはイデオロギー的なねじれがあり、イデオロギー的な抗争よりも、派閥的な抗争に近い性格があった。ただ、大雑把に見れば、容共的な政権vs反共的な革命軍という対立図式である。そのため、革命軍は、珍しいことに、アメリカからの暗黙の支持を得ていた。
 革命は政権軍側の抵抗により内戦に転化したものの、政権軍は巻き返すだけの物量を持っておらず、44日間の戦闘の後、戦死者約2000人を出して革命軍の勝利に終わった。革命戦争としては比較的短期で終結したとはいえ、戦死者2000人は当時の人口100万人に満たなかった小国としては小さくない犠牲である。
 革命後の臨時政府となった第二共和国建国評議会を率いたフィゲーレスが最初にしたことが常備軍の廃止であり、それが革命の最大の成果となった背景にあったのも、こうした内戦の犠牲への反省と将来、軍部の政治介入による政情不安を防止するという目的からであった。
 ちなみに、フィゲーレスは思想的な面で、社会主義的な平和主義者であったイギリスのSF作家H.G.ウェルズの歴史書『歴史の概略』に影響されたことを明かしている。ウェルズは同時期に日本でも制定された新憲法の平和条項にも影響を与えたとされ、海を越えた二つの国での常備軍廃止政策をつなぐ糸ともなっている。
 建国評議会のその他の政策に関しては、銀行の国有化を除けば、特段急進的なところはなく、革命で打倒したカルデロン‐ピカード体制の福祉国家政策の集大成を行ったに過ぎなかった。一方で、カルデロン‐ピカード体制が支持基盤に組み込んでいた共産党その他の共産主義政党は禁圧され、反共政策が鮮明となった。
 このような反共‐平和福祉国家が革命後の第二共和国の基調となったことは、同時期に革命が進行中であったグアテマラとは対照的に、国内的な融和を担保し、かつアメリカからの支持も取り付けて、以後のコスタリカ情勢を中南米全体で最も安定化させることに寄与した。
 ちなみに、フィゲーレスは18か月に及ぶ建国評議会を解散して民政に復帰した後、1950年代と70年代の二度にわたり民選大統領を改めて務め、第二共和国の発展を見届けている。
 大統領在任中の1955年、ニカラグアとの国境紛争を背景に、同国のソモサ独裁体制に支援された反革命軍が侵攻してきた時、平和国家は試練を受けたが、警察部隊だけで反撃しつつ、発足間もない米州機構の仲介で停戦を導くことに成功した。
 一方、1959年のキューバ革命が成功し、共産党体制が現れると、フィゲーレスは中南米における反共的な左派政党の協力機関とするべく自ら設立した研究所の設立資金を通じて、アメリカのCIAと関わりを持ったことを後に認めた。
 こうした点で、1948年コスタリカ革命は、そのおよそ十年後に起きたキューバ革命と共産党支配体制に対抗する親米・反共民主化革命の範例として、アメリカにとっても容認できるモデルとなったことはたしかである。

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近代革命の社会力学(連載第188回)

2021-01-11 | 〆近代革命の社会力学

二十七 コスタリカ常備軍廃止革命

(3)カリブ軍団の結成と活動
 コスタリカの1948年革命を率いたのは、前回見たように、ホセ・フィゲーレス・フェレールであるが、この人物は中流階級に生まれ、自力で農園を買収し、中規模のコーヒー農園主兼ロープ工場主となったセルフ・メイドのブルジョワジーであった。
 このような人物は、当時のコスタリカ社会では保守勢力の中核的な支持層となるはずのところ、フィゲーレスは自らを「農園主社会主義者」と規定する社会主義者となり、当初は自己資金で労働者の医療や衣食住をまかなう一種の理想郷を営んでいた。その点では、いわゆる空想的社会主義からスタートしたと言える。
 やがて、現実政治と関わるうちに、彼は時のカルデロン大統領の汚職を公然と批判したため、弾圧され、メキシコへの亡命を強いられたが、カルデロンが退任した後、1944年に帰国すると、民主党を結党し、反体制運動を開始した。
 他方、第二次大戦後の1946年、カリブ地域を中心とする進歩的人士や革命家が結集し、当時、ドミニカ共和国、ニカラグアなど中米の親米独裁体制の打倒を目指す革命支援集団として、カリブ軍団(以下、軍団)が結成された。そのメンバーには、後にキューバ革命の指導者となるフィデル・カストロも含まれていた。
 実際のところ、軍団の最大の目標は、当時カリブ地域最凶レベルの独裁体制と目されていたドミニカ共和国のトルヒーヨ体制の打倒に置かれていたため、メンバーの多くは亡命ドミニカ人であり、活動資金も主にドミニカの実業家から出ていた。
 軍団は武装革命を目指して、第二次大戦の中古兵器を購入し、1947年には、当時のキューバのラモン・グラウ大統領の後援の下、実際にドミニカへの侵攻・革命を計画したが、事前に察知したアメリカ政府がグラウに圧力をかけ、未遂に終わった。
 この事件の後、当時のグアテマラ革新民政のアレヴァロ大統領が軍団の後援者となるが、そのために、軍団は共産主義に否定的なアレヴァロ色が強まり、反独裁・反共・反ソを基調路線とするようになった。
 軍団の次なる目標はニカラグアのソモサ独裁体制の打倒に向けられていたが、このような状況下で、フィゲーレスは軍団に接触し、アレヴァロに対し、コスタリカでの革命に対する支援を条件に、ニカラグアと隣接するコスタリカを軍団の拠点とすることを申し出たのであった。
 この取引が成立するや、フィゲーレスは早速、軍団の軍事訓練を開始するが、そのメンバ―の多くは実は亡命ニカラグア人であり、フィゲーレスが預かった軍団兵士は彼の傭兵に等しいものであった。
 こうしたことからも、フィゲーレスは早くから、コスタリカでの革命を構想していたことになるが、実際のところ、当時のコスタリカは汚職問題はともかく、政治的には中米において最も安定した民政が定着し、ドミニカやニカラグアとは政情が異なっており、革命の可能性は現実的ではなかった。
 しかも、外国人傭兵主力の貧弱な軍団だけで革命を起こすことは到底無理であったが、折しも、時のピカード政権がカルデロン前大統領の返り咲きを助けるため、1948年大統領選挙の結果を転覆するという暴挙に出たことが、革命のタイムリーな動因となった。

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比較:影の警察国家(連載第29回)

2021-01-10 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

1‐4:地方警察の統合運用

 イギリスにおける分散型警察国家の中核にあるのが細分化された地方警察であるが、これの建前も近年変容し始め、統合運用に向けた動きが強まっている。
 以前の回で見たように、首都警察(日本語通称ロンドン警視庁)は従来から、ロンドンの地方警察であると同時に、全土的に活動する準国家警察的な地位を占めているが、それにとどまらず、首都警察を含めた全国の地方警察全体を統合運用する動きもある。
 その司令塔となるのが、全国警察長官評議会(National Police Chiefs' Council:NPCC)である。この組織は2015年、当時のキャメロン保守党政権下で、従前の警察本部長協会(Association of Chief Police Officers:ACPO)に代えて設立されたものである。
 ACPOが非営利企業体の形態であったのを改め、より公的な機関としての性格を強め、政府機関ではないが、国レベルを含めたほとんどの警察及び警察相当法執行機関の長及びその管理責任者で構成される合議体に再編したものである。
 イギリスにおける国レベルの治安官庁は内務省であるが、内務省に全警察機関を統合するという中央集権制を回避しつつ、運用のレベルで地方警察(及び中央警察集合体)を統合しようというイギリス式の方法と言える。
 NPCCの役割は、これら全国の警察機関、中でも地方警察がテロリズムや組織犯罪等の全国的な犯罪事案に対して共同で対処するための調整にある。NPCCの意思決定は警察本部長会議(Chief Constables' Council)が行うが、その下に種々の分野に分かれた調整委員会(coordination committees)が設置されている。
 NPCCの共同運用の中でも重要なものとして、各警察機関からの犯歴記録の照会に迅速に対応する犯歴記録室(Criminal Records Office)がある。また、銃器犯罪に関する情報集約のための全国弾道諜報部(National Ballistics Intelligence Service)も、NPCCの重要な共同運用である。
 さらに、以前に見た全国国内過激主義・騒乱諜報班(National Domestic Extremism and Disorder Unit)も、首都警察の担当部署と連携して運用される事実上の政治警察である。
 一方、「テロとの戦い」テーゼの直接的な反映として、全国テロ対策警察網(National Counter Terrorism Policing Network:NCTPN)が設置されている。これはテロ対策に特化した全国の警察機関の共同運用組織であり、政府及び如上のNPCCの共同管轄下にある。
 NCTPNは、スコットランドや北アイルランドを含め、全国の広域地方ごとにテロ対策班及び対テロ諜報班を配するまさに警察網であって、テロ対策に特化しつつも、運用面から全国の地方警察を統合したものであり、その限りでは事実上の国家警察の創設に一歩を踏み出したものとも言える。
 このように、近年のイギリスでは、分散型の地方警察を維持しながらも、統合運用を目的とした非政府組織を通じ、言わば脇道から影の警察国家化が進行しているとも言えるところである。

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比較:影の警察国家(連載第28回)

2021-01-08 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

1‐3:警察の武装化

 イギリスの警察の伝統的な特徴として、一般の制服警察官が武装しないという非武装主義がある。この伝統は現在でも北アイルランド警察を除き、基本的には維持されているものの、1960年代以後、徐々に見直しが進んできた。
 とはいえ、その見直しは全制服警察官を武装化するというストレートなやり方ではなく、狙撃専門部署を設置する専門分化の形で行われた。1960年代に首都警察に設置された銃火器班(Firearms Wing)はその嚆矢となり、これが他の地方警察にも模倣されていった。
 このような狙撃専門班は、イギリス警察の伝統が持ち込まれたアメリカにおいてSWATチームの創設が全米の自治体警察で進んだことと軌を一にしており、言わばイギリス版SWATチームの誕生である。
 1990年代に入ると、武装警察官が乗り込みパトロールを行う武装対処車両(Armed Response Vehicle:ARV)が導入された。これは事件発生の通報を受けずに、武装警察官が巡回することで銃器犯罪を防止し、かつ現行犯にも迅速に対処するという趣旨のもので、狙撃専門班より一歩踏み込んだ言わば武装監視活動である。
 このような武装化傾向は、「テロとの戦い」テーゼが定着した2000年代以降強化され、対テロ作戦の特別訓練を受けた選抜要員である対テロ特殊銃火器官(Counter Terrorist Specialist Firearms Officer)の制度が導入された。
 これは、従来、対テロ作戦を一種の軍事作戦とみなして軍の特殊部隊に委ねていたことを改め、警察によって実行できるようにすることを目的とするもので、言わば警察の準軍事化と言うべき新たな制度改正であった。
 こうした狙撃専門班は首都警察において最も発達しており、現時点では如上のARV車の運用とも合わせて、特殊銃火器指令部(Specialist Firearms Command)として包括されている。さらに、機動隊に相当する地域支援群(Territorial Support Group)にも狙撃手を配置して、SFCの補完部隊としている。
 ちなみに、近年、首都警察では各専門部署を作戦指令部(Operational Command Unit :OCU)と呼ばれる単位で組織するようになっている。例えば、殺人事件を筆頭とする重罪事件の捜査を担当する刑事部門も殺人及び重罪指令部(Homicide and Serious Crime Command)と称されるように、軍の指揮系統を思わせるcommandによって運用される。
 これは単に形式的な名称の問題ではなく、警察の準軍事化という新たな段階を示唆するものである。つまり、警察が総体として戦闘仕様に変更されつつあるということであり、それにより、強力な武力を擁する警察国家化が進行しているのである。

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