ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第56回)

2019-12-30 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(1)概観
 フランス・コミューン革命は、1870年から翌年にかけて、パリを中心に労働者階級を主体とする革命的自治体政府コミューンが各地に設立された一連の革命的事象を指している。通常は71年3月、パリに設立されたコミューンに代表させて「パリ・コミューン」と指称されることが多い。
 実際のところ、同様のコミューンはマルセイユやリヨンなど南仏を含む他の都市にも設立され、パリ一都市だけの革命ではなかったが、結局、過去の革命のように全国総体の革命には進展しないまま挫折したため、圧倒的な中心であったパリに代表させて「パリ・コミューン」と指称されるようである。しかし、本稿ではより広く「フランス・コミューン革命」と呼ぶことにする。
 この革命は、第二次欧州連続革命の一環でもあった1848年二月革命からおよそ20年後に起きている。この間、欧州では大きな社会変動が起きていた。すなわち、フランスをはじめ欧州主要国では産業革命が一層進展し、農業中心社会から労働社会への転換が生じていた。それに伴い、労働者が国内にとどまらず、国境を越えた階級的凝集性を示し、国際労働者協会(第一インターナショナル)のような国際労働運動も勃興していた。
 そうした状況下、世界歴史上初の労働者階級主体による革命的蜂起がフランス・コミューン革命である、と一応は言える。しかし、「一応」という留保が必要なのは、コミューン革命で革命的基軸となったのはまさにコミューンであって、この時点では労働者党のような階級政党はまだ形成されていなかったからである。
 マルクスとエンゲルスは1848年の第二次欧州連続革命の渦中で有名な『共産党宣言』を取り急いで発表したが、共産党という政党は実際には存在していなかったし、共産主義者というものも、それを自称する者はいても、社会的にはまだ認知されていなかった。
 思想的な面でフランス・コミューン革命に最も影響を与えたのは、マルクスとは対立していたジョセフ・プルードンのアナーキズムであった。その後、アナーキズムに塗り込められた暴力のイメージとは裏腹に、プルードンのアナーキズムは互助思想を基本とした非暴力・平和主義であった。
 プルードン自身は革命に先立って1865年に世を去ったため、コミューン革命に参加することはなかったが、プルードン思想は革命前の第二帝政時代の労働運動においてマルクスをはるかにしのぐ影響力を持っていたから、コミューン革命においてもプルードン主義者は大きな役割を果たした。そのため、コミューン革命は、後のロシア十月革命のように、明確な社会主義革命という性格を持たなかった。
 また、革命の方法論的な特徴としても、この革命はまさにコミューンという地方自治政府を主軸としていたため、各地のコミューン間の連携という点では不十分なものがあり、後でも述べるように、あえてパリをいったん放棄して地方から順次鎮圧していくという反革命派の戦略的術中にはまり込んでしまった。そのような方法論的失敗は、この革命を短期間で挫折させる要因となった。
 そのため、フランス・コミューン革命はむしろ革命鎮圧作戦の手本として後世に残ってしまったが、コミューン革命が示した綱領は19世紀末以降の労働運動、革命運動に影響力を保ち、仮にもフランス・コミューン革命が長期的な成功を収めていれば、その後の世界歴史の進路は大きく変わることになったかもしれない。

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貨幣経済史黒書(連載第33回)

2019-12-29 | 〆貨幣経済史黒書

File32:アジア通貨危機&ロシア金融危機

 20世紀最後の1990年代は、社会主義超大国ソ連の解体に伴う新生ロシアの「ショック療法」による経済破綻、それまで世界第二位の資本主義経済大国日本のバブル経済崩壊に起因する「失われた10年」と、二つの主要国が大きく揺らぐ一方、アジアの新興諸国にとっては、資本主義的高度成長の時代であった。
 とはいえ、これら後発の新興諸国は歴史的時間をかけて醸成された資本市場という土台を欠いたまま、欧米や日本など先発諸国からの外資導入と輸出に依存した他力本願の成長であり、本質的に蜃気楼的な「成長」であった。一方で、これら新興国通貨に対する過大評価が横行した。言わば、実体経済の力量を越えた通貨価値バブルの状態である。
 これに目を付けた欧米の投機的なヘッジファンドが空売りを仕掛け、短期的な利益を狙った。当時、新興諸国が採用していたドルとの固定相場制はヘッジファンドには有利な制度であったが、仕掛けられた側には買い支えの余力なく、変動相場制の緊急導入でしのいだため、自国通貨が急落することになる。
 こうした典型的な経緯をたどったのが当時伸び盛りのタイであり、実際、タイ通貨バーツが1997年7月から暴落したことを契機に、影響が周辺諸国や香港、韓国にまで及び、広域での通貨危機事象に発展した。アジア通貨危機と呼ばれる現象である。震源地タイのほか、波及国の中では韓国への影響が大きく、デフォルト危機に陥り、IMFの救済を要請する事態となった。
 また、インドネシアでも、為替介入を契機に自国通貨ルピアの下落が起き、金融危機とインフレ―ションに見舞われ、IMFの救済を仰いだが、ここではこれを機に当時のスハルト長期独裁体制への反発が高まり、民衆革命による体制崩壊にまで進んだことが特徴である。
 興味深いことに、中国は当時、社会主義市場経済の名のもとに共産党の指導による資本主義の導入という曲芸の最中であったが、外資導入、内資移動ともに政府の統制管理下に置く社会主義計画経済の名残を残していたことが幸いし、直接的な影響を受けず、人民元の切り下げといった緊急措置も見送られた。一方、中国への返還間近にあった香港は、英国統治下で独自の金融的発展を遂げていたため、打撃を免れず、明暗が分かれた。
 アジア通貨危機はさらに、「ショック療法」中のロシアにも間接的に波及した。アジア通貨危機が発生した97年はロシアの「ショック療法」の仕上げ時期にあったところへ、アジア通貨危機の影響を受け、新興国への不安が広がり、同じ新興国とみなされていたロシア投資の引き上げが相次いだ。
 ロシア通貨ルーブルの下落はすでに始まっていたが、同時に深刻な財政危機にあったロシア政府が1998年8月に国債の90日間デフォルトを宣言するに至り、ロシア通貨ルーブルは暴落した。ロシアの商業銀行各国にはルーブルを米ドルに両替しようとする預金者が殺到し、一種の取り付け騒ぎとなり、経営破綻した。
 ちなみに、この時、アメリカの新興ヘッジファンド会社ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)も破綻している。この会社は高度な金融工学を利用して、リスクの高いレバリッジ取引で高額な投資利益を上げることを目的に、マイロン・ショールズとロバート・マートンという二人のノーベル経済学賞受賞者も協力して、94年に業務を開始した鳴り物入りの投資会社であった。
 ショールズとマートンは、共同開発者フィッシャー・ブラックの名も取ってブラック–ショールズ方程式と呼ばれる金融工学分野での業績を理由に、皮肉にも、アジア通貨危機が発生した1997年度ノーベル経済学賞共同受賞者となった人物である。
 LTCMはハイリスクなロシア国債にも投資しており、得意の金融工学計算に基づきその債務不履行確率を100万年に3回などと算出していたが、政府のデフォルト宣言の政治的性格を看過し、当てが外れた。また投資行動に関する行動経済学的知見にも欠けていたとみえ、アジア通貨危機に由来する投資家のロシア逃避という事態も予見できなかった。
 LTCM社は設立から数年とはいえ、ロシア金融危機時点ですでに1000億USドルを運用するまでに急成長しており、その経営破綻は金融市場に悪影響を与え、恐慌を誘発する恐れも危惧されたため、スタートアップ企業にしては異例なことに、アメリカ政府の仲介で多国籍の救済融資シンジゲートが立ち上げられた。しかし、再建には至らず、最終的に2000年に清算され、ロングタームの社名とは裏腹にわずか6年のショートタームで終焉したのだった。
 こうして、アジアに発してロシアをも巻き込み、さらにブラジルなど中南米にも一部波及した20世紀最後の通貨危機は、世紀末以降の金融市場のグローバルな拡大と、そこに絡む誰も正確な構造を理解できないと言われるブラックボックスと化した金融工学商品という組み合わせは、貨幣経済の新段階を象徴するとともに、10年後の世界大不況の予兆現象でもあることには、まだ気づかれていなかった。

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世界共同体憲章試案(連載第21回)

2019-12-27 | 〆世界共同体憲章試案

〈航空宇宙警備隊〉

【第81条】

1.世界共同体は、地球上の防空及び宇宙空間の警戒探査を目的とする常備武力として、航空宇宙警備隊を組織する。

2.航空宇宙警備隊は、平和理事会の監督下に司令委員会を通じて運用される。司令委員会は、運用本部を指揮監督する。

3.司令委員は、7の理事領域圏及び3の副理事領域圏から各一名ずつ平和理事会がこれを選任する。運用本部長は、司令委員会の推薦に基づき、平和理事会がこれを任命する。

[注釈]
 航空宇宙警備隊は、平和維持巡視隊とは異なり、防空及び宇宙空間の警戒探査に特化した航空専門武力である。軍隊の軍種では空軍に近いが、むしろ旧ソ連が軍の一部門として保有していた防空軍に近い防衛航空武力の性格を持つ。とはいえ、これも軍隊そのものではなく、平和維持巡視隊と同系の世界共同体直属常設武装組織である。ただし、平和維持巡視隊とは、司令委員会の構成が異なる。

【第82条】

1.航空宇宙警備隊は、常時、地球上の大気圏の内外を監視するシステムを運用する。

2.航空宇宙警備隊の出動は、平和理事会の決定に基づいて行われる。

3.汎域圏全権代表者会議は、必要と認める場合、平和理事会に対して、航空宇宙警備隊の出動を要請することができる。ただし、特に緊急を要する場合は、全権代表者会議の決定に基づいて出動させることができる。

[注釈]
 航空宇宙警備隊は、平和維持巡視隊のように、個別の紛争案件ごとに出動するのではなく、レーダー監視のような日々の常時監視活動と何らかの事態が生じた際の機動的な対処を任務とするため、事前の運用指針に基づかない即時対応を基本とする。

【第83条】

1.平和理事会は、平和維持活動のために必要と認めるときは、航空宇宙警備隊の部隊を参加させることができる。

2.前項の場合、平和維持活動に参加する航空宇宙警備隊の部隊は、平和維持巡視隊の一部に編入され、平和維持巡視隊運用本部の司令に服する。

[注釈]
 平和維持巡視隊は航空武力を保有しないため、平和維持活動において防空の必要があるときは、航空宇宙警備隊の部隊を編入することができる。

【第84条】

1.航空宇宙警備隊の部隊編成の詳細については、別に定める組織規程により定める。

2.航空宇宙警備隊の基地は、予め世界共同体と協定を締結した領域圏内に設置される。

[注釈]
 特記なし。

【第85条】

航空宇宙警備隊の武装要員は、総定員20万人を超えない範囲内とする。その他、武装要員の募集方法、訓練及び指揮系統並びに調達に関する事項については、第78条及び第79条の規定を準用する。

[注釈]
 要員募集や訓練、指揮系統に関する事項は、おおむね平和維持巡視隊に準拠するが、総定員は平和維持巡視隊より少ない20万人を上限とする。

【第86条】

1.航空宇宙警備隊は、次の場合に限り、標的飛翔体を無力化するための武力行使をすることができる。

① 大気圏外を含む地球上空の飛翔体が、地上への攻撃(武力を用いない攻撃を含む。以下、同じ)を開始した場合
② 大気圏外を含む地球上空の飛翔体が、地上への攻撃を意図していることが明らかな場合
③ 大気圏外を含む地球上空の飛翔体が、他の飛翔体に衝突し、または墜落する危険が差し迫っている場合

2.前項に定める無力化するための武力行使には、撃墜を含む。ただし、飛翔体に人その他の生命体が搭乗していると認められる場合は、撃墜することについて平和理事会の承認を要する。この承認の決議は、持ち回りによることができる。

[注釈]
 航空宇宙警備隊の任務は、名称通り、警戒活動であり、武力行使は緊急性の高い場合に限られる。その場合、飛翔体の撃墜という究極の手段も採り得るが、何らかの生命体が搭乗する飛翔体を撃墜すれば、多数の死傷者が出ることも想定されるため、平和理事会の承認決議を条件とする。

【第87条】

航空宇宙警備隊は、必要に応じ、世界共同体宇宙機関と連携して活動する

[注釈]
 世界共同体宇宙機関は主として宇宙空間の研究調査を目的とする学術機関であり、航空宇宙警備隊とは任務・組織編制を全く異にするが、両者の活動対象は重なるため、情報の共有など必要に応じて連携して活動する。

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世界共同体憲章試案(連載第20回)

2019-12-26 | 〆世界共同体憲章試案

第13章 平和維持及び航空宇宙警戒

〈平和維持巡視隊〉

【第75条】

1.世界共同体は、武力紛争を防止し、恒久平和を確保するための常備武力として平和維持巡視隊を組織する。

2.平和維持巡視隊は、平和理事会の監督下に司令委員会を通じて運用される。司令委員会は、運用本部を指揮監督する。

3.司令委員は、平和理事会の理事領域圏から各一名ずつ平和理事会がこれを選任する。運用本部長は、司令委員会の推薦に基づき、平和理事会がこれを任命する。

[注釈]
 世界共同体は、構成領域圏に常備武力を保持することを禁ずる一方で、武力紛争の防止任務に特化した必要最小限度の民際常備武力として、平和維持巡視隊を保持する。常備組織である点で、案件ごとに組織される現行国際連合の平和維持軍とは異なる。

【第76条】

1.平和維持巡視隊の派遣は、個別の案件ごとに平和理事会が策定し、総会が承認した運用指針に基づいて、これを行う。

2.平和維持巡視隊の活動方法及び権限は、各運用指針においてこれを定める。

3.汎域圏全権代表者会議は、必要と認める場合、平和理事会に対して、平和維持巡視隊の派遣を要請することができる。

[注釈]
 特記なし。

【第77条】

1.平和維持巡視隊は、地上部隊及び海上部隊から構成される。その他部隊編成の詳細については、別に定める組織規程により定める。

2.平和維持巡視隊の駐屯地は、予め世界共同体と協定を締結した領域圏内に設置される。

3.平和維持巡視隊は、運用上の必要に応じて、世界共同体航空宇宙警備隊及び各領域圏の沿岸警備隊と連携して活動する。

[注釈]
 平和維持巡視隊は基本的に地上武力であるが、海上での臨検や人員・物資輸送などの活動を展開するため、海上武力も保持する。平時維持巡視隊は常備武装組織である以上、予め世界共同体と協定を締結した領域圏内の定まった駐屯地に分駐する。

【第78条】

1.平和維持巡視隊の武装要員は、総定員50万人を超えない範囲内で、汎域圏ごとに人口に比例して割り当てられた定員の範囲内で、予め世界共同体と協定を締結した領域圏から募集される。

2.平和維持巡視隊の武装要員の訓練は、運用本部が管理する訓練センターにおいて実施される。

3.平和維持巡視隊の武装要員は階級呼称を持たず、その地位及び任務の内容によってのみ業務遂行上の指揮命令系統が規律される。

[注釈]
 平和維持巡視隊の要員は、総定員50万人を上限として、汎域圏ごとの人口比例的割り当ての範囲内で、要員供出の協定を締結した領域圏が供出する。例えば、汎アメリカ‐カリブ域圏に10万人割り当てられるとすれば、当該汎域圏に属する協定領域圏が、その数に達する要員を供出する。すべて任意の募集であり、徴兵に相当する制度は存在しない。

【第79条】

平和維持巡視隊の武器及びその他の物資の調達は、平和維持巡視隊の調達本部が担う。調達本部は、予め指定された企業体から必要な武器及びその他の物資を調達する。

[注釈]
 平和維持巡視隊は常備武装組織であるから、武器やその他の物資の調達も常置部門としての調達本部が指定企業体を通じて行う。

【第80条】

1.平和維持巡視隊による武力行使は、その業務遂行に必要な最小限度の範囲内で認められる。特に、対人的な加撃的武力行使は、要員または第三者の人身を保護するために必要不可欠な場合に限られる。

2.平和維持巡視隊の要員は、上級要員の法令または運用指針に違反する命令に服してはならない。

[注釈]
 平和維持巡視隊は軍隊ではないが、武装組織であるから、状況により武力行使が認められるが、それは必要最小限度でなくてはならず、特に相手方に人的損失をもたらす対人的な加撃的武力行使は、正当防衛状況が認められる場合に限られる。その点では軍隊よりも警察に近いと言える。
 一方、要員には上級要員に対する不当命令服従拒否が認められる。これは任意に行使できる権利ではなく、履行を要する義務である。従って、上級要員の不当命令を拒否せず、服従した要員も懲戒処分を免れないことになる。

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近代革命の社会力学(連載第55回)

2019-12-25 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(7)革命余波の諸状況
 第二次欧州連続革命では、主として1848年から49年にかけ、大陸欧州の主要国のほぼすべてで同時的な革命の波が生じたのであるが、明確に革命という形ではないものの、何らかの余波が及んだ諸国はさらに多い。中でも、デンマークでは、即位したばかりのオルデンブルク朝フレデリク7世に対して民主的憲法の要求が突き付けられた。
 デンマークは地政学上北欧に属しつつも、南部でドイツと接していることから、ドイツにおける革命の余波が及びやすかったと言える。これに対し、即位したばかりの王は、時代状況を読み、反革命の立場を採らず、要求を受諾し、立憲君主制への移行を決断したのだった。この変革は国王主導であっさりと無血で行われたが、しばしばデンマークにおける「三月革命」と称される。
 しかし、一方で、フレデリク7世がドイツ系住民の多い南部のシュレースヴィヒとホルシュタインの両公国のデンマーク帰属を鮮明にしたことへの反発として、ドイツ系住民による革命が起き、暫定政府が樹立された。フレデリクはこの動きを断固として抑圧したため、デンマークとドイツの間で戦争が発生することとなり、この衝突がドイツ側のフランクフルト国民議会の挫折を招いたことはすでに述べた。
 一方、英国ではこの時代、すでに大陸欧州に先駆けて立憲君主制は確立されていたが、普通選挙制は未だしであった。そこで、男子普通選挙制の導入を柱とした人民憲章の採択を求める「チャーティスト運動」が1830年代から独自に起きていたが、1848年の大陸での連続革命は運動を一層刺激し、高揚させた。
 これに対し、大陸からの革命の波及を恐れた政府は従来、おおむね静観・無視していた運動に対する弾圧に乗り出し、運動指導者の大半を検挙した。その結果、運動は終息に向かったが、一方では、大陸欧州に先駆けて社会主義的な主張を掲げる急進派を生み出すことにもなる。
 中東欧では、プロイセンでの革命に刺激される形で、1848年3月から5月にかけ、プロイセン領内のポズナン大公国で支配下にあったポーランド人の民族的蜂起があった。これはおよそ2万人に及ぶ民兵隊を組織しての大蜂起であったが、プロイセン軍の前に粉砕され、ポズナン大公国はポーゼン州に取って替えられ、かえって支配を強化された。
 ポーランド人と同じスラブ系住民の動向としては、オーストリアに従属していたボヘミアのプラハでも1848年6月、オーストリア領内のスラブ人によるスラブ人会議が招集された。これは独立を目指すというよりは、オーストリアを民族自治に基づく連合国家に変革することを目指す穏健なものだったが、プラハでの平和的デモにオーストリア当局が発砲したことを契機に短期で挫折した。
 また当時帝政ロシアの支配下にあったワラキア公国(ルーマニア南部)では、1848年6月、革命的結社フラツィアが主導する革命的蜂起により、帝政ロシア支配下で傀儡統治を行っていたビベスク公が退位し、独立を目指す臨時政府が樹立された。しかし、これもオスマン帝国と結んだロシアの共同軍事介入により崩壊した。
 こうして、第二次欧州連続革命の余波として発生した民族主義的な蜂起も、成功することはなかった。この時代のプロイセン、オーストリア、ロシアに代表される宗主国の軍事力は強大な一方、民族独立運動は未熟かつ弱体であり、宗主権力を打倒するだけの力量を擁していなかったからである。

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近代革命の社会力学(連載第54回)

2019-12-24 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

〈6‐3〉共和革命から反革命へ
 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の戴冠拒否以降、立憲的な統一ドイツへの礎として期待されていたフランクフルト国民議会が頓挫すると、各領邦当局による反革命の動きが予見されたため、革命派は、憲法擁護を旗印として改めて革命のテコ入れとして第二波を起動しようとした。
 この革命第二波の局面は武力衝突に発展したため、「憲法戦役」とも称されるが、革命のプロセスとしては、当時のドイツ革命派の中では最も急進的だった共和主義者が主導した共和革命の段階と見ることができる。
 この第二波は各地で同時多発的に起きたが、先行したのはザクセンであった。ザクセンは、フランクフルト議会が発議した統一ドイツ憲法案を不承認とした反革命的な領邦の一つである。これに抗議する革命派が首都ドレスデンにて1849年5月3日に蜂起し、臨時政府の樹立を宣言した。
 ドレスデン蜂起の渦中、5月6日にはプロイセンのラインラント地方に属する工業都市エルバ―フェルトにて同様の革命的蜂起があった。ラインラントはプロイセンにおける産業革命の中心地として勃興中の地方であったが、それだけに近代的な労働者階級の形成も進んでいたことが、革命的蜂起の土台となった。
 エルバ―フェルト蜂起はすぐにラインラント地方の他の都市にも波及したが、最も組織化されていたのは、エルバ―フェルト蜂起であった。革命政府の樹立は宣言されなかったが、18世紀フランス革命にならって公安委員会が組織され、革命軍も結成されるなど、本格的な革命への動きが見られた。
 エルバ―フェルト蜂起は続いて、バーデンにも飛び火した。バーデンは前年の諸邦レベルの革命での先駆けとなった場所であるが、改めてこの地で革命の第二波が起こされたことになる。
 バーデンでは軍の一部が革命を支持したことから、時の大公レオポルトは亡命に追い込まれ、6月1日には革命派が共和国の樹立を宣言、臨時政府が設置されるに至った。一連のドイツにおける革命で君主が亡命したのは、バーデンだけである。
 バーデン革命はライン河を隔てて当時バイエルン領のプファルツに連動し、ここでも臨時政府が樹立された。こうして領邦の境界を越えてバーデン‐プファルツ革命連合が形成された。これを核に革命軍を各地に進軍させたうえ、フランクフルト国民議会を再起動させ、全ドイツ革命を成功させるという壮大な計画が立てられた。
 しかし、こうした革命第二波は結局のところ、成功しなかった。ザクセンのドレスデン蜂起はわずか6日にして当局によって鎮圧されたほか、ラインラント地方の革命もその主導勢力が中産階級であったため、革命の急進化を恐れて自ら活動を自粛するありさまであった。
 最も成功見込みがあったのは、バーデン‐プファルツ革命であり、ここでは最大時3万人に上る革命軍が組織されたが、それをもってしてもドイツ諸邦最強の軍隊を擁するプロイセンによる反革命反動を封じるだけの対抗力を持たなかった。革命政府は二月革命後のフランス第二共和国に軍事支援を求めたが、発足したばかりの不安定な共和国政府にその余裕はなかった。
 一方、プロイセン領内ではすでにフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が反転攻勢に出て、1848年末には保守的な欽定憲法を制定し、革命の火消しを済ませており、亡命したバーデン大公の救援要請を受け、革命鎮圧に着手していた。その結果、プロイセン軍は、1849年7月までに革命軍を打ち破った。
 前月には、議員の引き上げが続き、残部議会として形骸していたフランクフルト国民議会も、領邦国家の一つであるヴュルテンベルクの軍隊によって解散させられており、バーデン‐プファルツ革命の挫折をもって第二次欧州革命の一環としてのドイツにおける革命は終息した。
 中世以来の封建的な領邦国家の力が維持されていた19世紀半ばという時期に、統一ドイツの形成を一気に目指す共和革命という目標は時期尚早に過ぎ、むしろ軍事的に最強のプロイセンを頼った領邦国家の凝集性を高めることになり、これがおよそ20年後、プロイセン主導での統一ドイツ帝国の樹立を促進したのである。

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近代革命の社会力学(連載第53回)

2019-12-23 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(6)ドイツにおける革命

〈6‐1〉諸邦の革命
 1848年当時のドイツは連邦体とはいえ、旧神聖ローマ帝国を継承する形で、40近くに上る領邦の集まりであったため、「ドイツ革命」というような包括的な形で革命の余波が及ぶことはなかった。
 しかし、当時のドイツ諸邦はおしなべて旧態依然とした専制君主体制であり、良くてもせいぜい啓蒙専制君主による限定的な改革が行われるにとどまっていたため、革命の波をひとたび受ければ全ドイツに広がる可能性があった。
 諸邦で最初に革命の火ぶたが切られたのは、南西部の中小規模の領邦バーデンである。当時のバーデンはバーデン大公による実質的な君主制下にあったが、時の大公レオポルトは比較的リベラルで、他の諸邦に先駆けて上からの自由主義的改革に取り込んでいた。
 しかし、このような限定的改革がかえって革命を誘発する契機となり、1848年2月、マンハイムで最初の革命が勃発した。民衆会議(Volksversammlung)が設置され、自由主義的な権利章典の採択が要求された。さらに、3月1日には議事堂が革命派によって占拠された。
 革命は、諸邦中最大規模のプロイセンにも飛び火し、3月6日にベルリンで大規模なデモが発生、同月18日には国王への請願として自由主義的な改革が要求された。時の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は保守的な専制君主であったが、足元での革命的動向に慌て、要求を受諾する勅令を発した。
 しかし、デモ隊と軍隊の偶発的な衝突から予想外の市街戦に発展し、多数の死者を出す結果となった。これで国王が反革命に傾くことも予想されたが、かえって国王は民衆鎮撫策に出て、5月には初の普通・間接選挙に基づく民選議会が招集されるに至った。
 一方、南部の有力邦バイエルンでは、いささか変則的な経過をたどった。バイエルンでは、国王ルートヴィヒ1世のアイルランド生まれの愛妾ローラ・モンテスが政治介入し、自由主義的な改革に着手しようとしていたが、これが保守派を憤激させ、抗議デモが発生した。
 それと同時に、より自由主義的な改革を要求する学生のデモも同時発生し、3月6日にミュンヘンで最初の蜂起が起きる。こうした保革の要求が入り乱れる中、同月20日、ルートヴィヒは息子のマクシミリアンに譲位し、引退することとなった。ドイツにおける諸邦の革命で君主が退位したのは、これが唯一であった。

〈6‐2〉フランクフルト国民議会
 上述のような諸邦レベルの革命と並行して、ドイツ統一に向けた革命の動きも生じてきた。バーデンのハイデルベルクでドイツ国民議会の設立準備が開始されたことを契機に、1848年3月から4月にかけて、当時どの領邦にも属しない独立自由都市の地位を持っていたフランクフルトで、準備議会が招集された。
 準備議会は、「ドイツ国民の基本権と要求」と題する憲法案を採択した。言わば、ドイツにおける人権宣言に相当する憲法文書である。さらに、普通選挙法も制定され、48年4月から5月にかけて間接選挙による国民議会選挙が実施された。こうして、フランクフルト国民議会が始動する。
 その議員構成は、「教授議会」と半ば揶揄されたように、各領邦から選出された大学教授や法律家など中産知識階級が占めていた。また、準備議会が穏健な立憲君主義者を中心としていた経緯から、君主制を予定し、オーストリアの皇族ヨハン大公を暫定的な摂政に招聘するなど、保守的な傾向が強かった。
 とはいえ、そうした保守性からフランクフルト議会は当初、各領邦君主らからも支持を集めていたが、オーストリアをも包摂する統一ドイツの性格如何、宗派対立、穏健派と民定憲法を求める急進派の対立などを止揚することができなかったうえ、デンマークとの境界上にあるシュレースヴィヒ・ホルシュタインの領有をめぐるデンマークとの紛争が惹起されたことで、議会は立ち往生することになる。
 最終的な打撃となったのは、フランクフルト議会が統一ドイツの君主に予定したプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が戴冠を拒否したことである。彼は王権神授説の信奉者であり、「神の恩寵による帝冠」を望むも、「ドブの中からの帝冠」、すなわち彼の見るところドブに等しい議会からの帝冠は受けないとの立場であった。
 こうして、フランクフルト国民議会による統一ドイツ創出の可能性はついえた。新憲法案も29領邦の承認を得たのみで、プロイセンやバイエルンなどの有力邦やオーストリアは承認せず、選出議員を引き上げてしまったため、議会は有名無実化し、急速に崩壊に向かうことになった。

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共産法の体系(連載第2回)

2019-12-22 | 〆共産法の体系[新訂版]

第1章 共産主義と法

(1)共産される法
 本連載では、「共産法」という語を用いるが、この語には「共産主義社会の法」の略語という形式的な意義のほかに、「共に産する法」という実質的な意義もある。つまり、共産主義社会にあっては、物質的な生産のみならず、法のような精神的な生産も協働的に行なわれることが含意されている。
 その点、資本主義社会におけるブルジョワ法は通常、国民代表機関を標榜する議会で制定され、政府によって執行される。このようなプロセスをもって民主主義と称されているが、議員の立法能力には限界があるため、実質上は法の制定も政府官僚が仕切っていることは公然の秘密である。
 そして、資本主義政府とは資本の利益確保を中心に動く利益共同体であるからして、そのような政府の手で制定される法も直接間接に資本の利益の擁護を第一の目的とし、市民の利益の擁護はせいぜい二次的な目的か、最悪は無視される。
 このような「法」は社会的に共有される規範=社会規範というより、国家が管理する規範=国家規範の性格を有する。その意味で、ブルジョワ法は市民にとっては疎遠な、上から強制される規則であるから、それは時として市民にとって敵対的であり、違背への欲望を掻き立てる障害物のように感じられることさえあるだろう。 
 これに対して、共産法は民衆が自分たちの住む社会の秩序を維持し、全市民の利益を公平に擁護するために、協働して制定する規範である。それは民衆が自主的に定め、共同管理する規範であり、まさしく「社会の」規範である。
 『共産論』でも示したとおり、共産主義社会では、民衆代表機関である民衆会議が立法機能を持ち、法を制定し、かつ自らがその下部機関を通じて法を適用する体制が採られるが、このプロセスを法理的にとらえ直せば、法の共産過程ということになる。
 ちなみに、法の適用は、ブルジョワ国家法ではまさしく国家が制定法を上から発動・強制する過程となるが、共産法における法の適用は、それ自体も個別的な法の運用の累積を通じた法の共産過程の一内容となる。
 こうした特性を持つ共産法は、ある意味では社会的な慣習の集積である慣習法に近似することになるが、序言でも指摘したとおり、共産主義社会は制定法を持たないアナーキーな社会ではなく、制定法によって統治される社会である。
 ただし、制定法の意義は相対化される。すなわち、制定法はコアな法的原則の集成となり、細目的な事柄は政策ガイドラインのような緩い規範性を持った指針によって柔軟に規律されるであろう。その限りでは、法律絶対の「法治主義」という観念は共産主義社会には妥当しない。

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共産法の体系(連載第1回)

2019-12-21 | 〆共産法の体系[新訂版]

新訂版まえがき

 当連載は2017年から18年にかけて第二版となる改訂版を公表したが、その後の再考の結果、より明快な形で法体系の構想を整理する必要が生じたため、ここに第三版となる新訂版を改めて連載することにした。
 改訂版と比べて全体構成に大きな変化はないが、「第6章 犯罪法の体系」の部分は「犯則法の体系」に、「第7章 司法法」は「争訟法の体系」に章題を改め、その内容もより整理される。この改訂に伴って、他の章の一部の記述が変更される。その他、用語や表現の一部がいくつか変更される。なお、以下の「序言」は初版以来、内容に大きな変化はないが、如上の改訂に伴い、記述の一部に変更が加わっている。


序言

 筆者は先行連載『共産論』の中で、共産主義的な法のあり方についても必要な限り言及してきたが、あり得べき共産主義社会の全体像を示すことを目的とする同連載では、具体的な形で共産法の体系を示すことはしていない。 
 その点、マルクスをはじめ、過去の共産主義者たちも、契約法と商法を中核とするブルジョワ資本主義法体系を批判することには熱心であったが、肝心の共産主義法体系について具体的な詳細を論じてはいないため、実際のところ、このテーマに関して参照に値する先行文献はほとんどないのが実情である。
 古典的な共産主義にとっては、あたかも共産社会では適切な慣習法が自生的に形成され、制定法による社会統制は不要であるかのごとしであった。その理由として、伝統的な共産主義はアナーキズムと鋭く対立しながらも、「国家の消滅」テーゼなど部分的にはアナーキズムの影響を受けており、その面から、法的な社会統制には消極的だったとも考えられる。
 一方、共産主義社会の建設を目指すと公称した旧ソ連においては、ロシア革命以降、独自の法体系の整備が進み、その最盛期には社会主義法体系の一つの範例を形成していた。しかし、それは旧ソ連体制の性格を反映して、一党支配体制を支える権威主義的な社会統制の道具という要素が強かった。
 本来目指されるべき共産社会は、民主的かつ合理的な制定法により社会秩序が維持されるべきものであるが、そうした共産法の具体的な法体系を構想することが本連載の目的となる。
 ここであらかじめ概観的に共産法の全体像を示すと━
 まず全法体系の頂点に立ち、最高規範としての位置づけを持つ法として、民衆会議憲章がある。次いで地球環境の持続可能性を確保するための環境規制を包括する環境法、さらに生産活動の組織と労働のあり方を規定する経済法、日常の市民生活に関わる法律関係を処理する市民法、法に違反する犯則行為に対して課せられる法的効果に関わる犯則法、最後に法的紛争処理に係る司法の諸手続きを定める争訟法である。
 以上の憲章、環境法、経済法、市民法、犯則法、争訟法が共産主義的基本六法を構成するのであるが、この時点で、憲法、民法、商法、刑法に、民事・刑事の両訴訟法を基本的なラインナップとするブルジョワ六法とはすでに相当異なることになる。
 なお、以後の連載においては、はじめに共産主義における法の意義や機能一般を総論的に概観したうえで、上記基本六法の各分野の検討を順次進める構成が採られる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第10回)

2019-12-19 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(3)環境バランス②:数理モデル
 持続可能的計画経済において優先的な基準原理となる「環境バランス」における「制御」を数理的に実施するためのモデルの考案が、持続可能的計画経済を機能させるための鍵となることを前回述べたが、こうした数理モデルは、生産・流通・消費活動に伴う環境負荷を算出する方法と土地及び水域に着目した自然生態系に対する環境負荷を算出する方法とに大別できる。
 前者はさらに、生産部門ごとの環境負荷を算出する方法と、生産物の消費過程における環境負荷を算出する方法に分けることができるが、具体的な経済計画の策定において基軸となるのは、生産部門ごとの環境負荷の算出である。
 生産部門ごとと言っても、総合的な経済計画の策定に当たっては、各部門ごとの個別計算ではなく、個別生産部門の相互連関を考慮に入れた総合的な環境負荷計算が必要となる。その点では、産業連関表の利用が不可欠である。
 産業連関表は、ソ連出身の経済学者ワシリー・レオンチェフがマルクスの再生産表式をヒントに、各産業部門ごとの生産・流通過程における投入・産出構造を数量化された行列形式で表した相関図であり、資本主義市場経済おいては経済構造の把握、生産波及効果の計算などに利用されている。
 この産業連関表自体は、むしろ持続可能的計画経済における第二の基準原理である「物財バランス」を確定するうえで活用され得るものであるが、「環境バランス」を確定するうえでも、この表式を土台にしつつ、各部門ごとの環境負荷量を産出することができる。
 その点、日本の国立環境研究所が1990年代から開発してきた「産業連関表による環境負荷単位データ」は、400ほどの産業部門に分けた産業連関表をベースとしながら、各部門の単位生産活動(百万円相当)に伴い発生するエネルギー消費量やCO2などの温室効果ガス排出量等の環境負荷量を算出するというもので、環境バランス計算の基礎となり得る有力なモデルである。 
 一方、生産物の消費過程における環境負荷を算出する方法は、縦割り型の産業連関表ベースでは包括化されてとらえにくい生産物の消費・流通過程における横断的な環境負荷を算出するうえで有益である。
 その具体的な方法はさまざまあり得るが、これも日本の富士通研究所が提案する情報通信技術(ICT)を活用した環境負荷評価例として、①物の消費②人の移動③物の移動④オフィススペース⑤倉庫スペース⑥ICT・ネットワーク機器⑦ネットワークデータ通信の七つの環境影響要因に分けて、それぞれの環境負荷を算出する方法は一つの参考になるだろう。
 以上に対して、土地及び水域に着目した自然生態系に対する環境負荷を算出する方法は、人間が農業を含めた産業活動を継続するうえで不可欠な土地及び水域の利用を計画化するうえで必要とされるものである。
 この点に関しては、「ある特定の地域の経済活動、またはある特定の物質水準の生活を営む人々の消費活動を永続的に支えるために必要とされる生産可能な土地および水域面積の合計」と定義づけられた「エコロジカル・フットプリント(EF)」(生態足跡)が有力な手がかりとなり得る。
 EFは、如上の生産・流通・消費活動に伴う環境負荷を算出する方法と有機的に組み合わせる形で、EFが各土地及び水域ごとの生物学的生産量の限界内に収まるように計画化する際の指標数値となる。
 ちなみに、具体例として掲記した既存の算出モデルは、いずれも資本主義市場経済下での環境分析法として考案されたものであるから、現時点で、それらは資本主義市場経済を前提とした環境収支の分析用具にとどまっており、これらを計画経済に適用するに当たっては、さらなる応用が必要となるが、その詳細は第2部に回す。

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近代革命の社会力学(連載第52回)

2019-12-17 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(5)ハンガリー三月革命
 オーストリア三月革命は、当時オーストリアの支配下にあったハンガリーにおける革命とも密接に連動しており、両者は重層的な関係にある。時系列的には、ハンガリー革命がわずかに先行した。ただし、ハンガリー革命はオーストリア本国の革命とは異なり、自由主義革命としてよりも独立革命としての性格が濃厚であった。
 そのため、カリスマ的な革命指導者を欠いたオーストリアとは対照的に、ハンガリー革命では民族派議員コシュート・ラヨシュの役割が際立った。民主的な憲法の制定と諸民族の友愛を訴えたラヨシュの1848年3月の議会演説は反響を呼び、首都ペシュトで、「十二か条の要求」を掲げた大衆デモに発展したことが革命の初動である。
 この十二か条筆頭には「言論の自由」の要求が掲げられていたけれども、「ハンガリー兵による国土防衛、外国兵の撤退」のように独立につながる要求が包含されていたことは、オーストリア本国のみならず、ハンガリー域内に包摂されていた他民族の感情を損ねることになった。
 コシュート演説では諸民族の友愛が謳われていたとはいえ、ハンガリー革命の主眼がハンガリー人の独立に置かれていることは否定できず、このことが革命の成就にとっては障害となる。オーストリア本国はこうした民族対立を利用して、革命の鎮圧を図ることができたからである。
 オーストリア本国でも革命に同時直面したフェルディナント1世は、ハンガリーに対しても譲歩し、いったんは新たな自治政府の樹立に同意した。コシュートも財務大臣として入閣し、民主的改革を主導した。しかし、民族間対立を抑制できない状況を見て取ったフェルディナントはクロアチア人将軍ヨシップ・イェラチッチを派遣し、ハンガリー自治政府の解体を狙う。
 その結果、自治政府は瓦解したが、コシュートは東部の都市デブレツェンを拠点にハンガリー革命軍を組織して抵抗した。革命軍は一度はイェラチッチの鎮圧軍を破り、ウィーンの10月蜂起に呼応してウィーンに進撃する構えを見せるも、結局は敗退した。
 連携しようとしていたオーストリア三月革命も終息に向かう中、1849年4月、コシュートは改めてデブレツェンにてハンガリー独立・共和国樹立宣言を発し、革命を完遂する決意を示した。
 この時、オーストリア皇帝はフランツ・ヨーゼフ1世に交代したばかりで、まだ不安定であったため、反革命同盟国のロシアに援軍を求めた。こうして、ハンガリー革命軍はロシア軍と対決することとなった。
 この時、ハンガリー革命軍の指揮官として活躍したヨゼフ・ベムは元来ポーランド人で、第一次欧州連続革命の余波として1830年11月に起きたポーランド11月蜂起でも反乱軍側で活躍したベテランであった。しかし、彼も圧倒的なロシア軍には抵抗し切れず、最終的にオスマン帝国に敗走・亡命してイスラームに改宗、シリアのアレッポ総督の要職に就くという数奇な生涯を送った。
 粘り強く抵抗したハンガリー革命軍であったが、1849年8月にロシア軍に降伏したことをもって、ハンガリー革命も終息に向かった。オーストリアはハンガリー独立を決して容認しなかったが、1867年のオーストリア‐ハンガリー二重帝国の樹立に際しては、パートナー国ハンガリーの限定的な自治を承認したのである。

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近代革命の社会力学(連載第51回)

2019-12-16 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(4)オーストリア三月革命
 オーストリアは、ナポレオン帝政崩壊後の欧州において、反革命反動国際同盟ウィーン会議体制の心臓部とも言える場所であり、その実務的な中心人物がオーストリア宰相メッテルニヒであった。そのため、当然にも、国内では革命運動やその他の自由主義的運動を徹底的に抑圧していた。
 それでも、19世紀のマス・コミュニケーションの発達により、フランス二月革命の影響を排除することはできなくなっていた。さらに、強大な軍事力を維持するための財政圧迫に加え、また当時、欧州有数の金融中心地となりつつあったオーストリアでは、フランス二月革命が誘発した金融恐慌による経済的影響が革命の蠕動を促した。
 とはいえ、政治的抑圧が厳しいこともあり、革命の初動は言論の自由を求めるごく穏やかな改革請願であった。しかし、政府の対応が鈍いため、学生を中心とした勢力が議会へ押し寄せ、メッテルニヒ解任と憲法の制定を要求すると、これがウィーンにおける大規模な大衆デモに発展した。
 当時のオーストリア皇帝フェルディナント1世は生来病弱で、政務はメッテルニヒに依存仕切っていたが、革命の予兆を感じると、親政開始のチャンスと見てか、メッテルニヒを罷免したうえ、自ら行幸して言論の自由を公約するなど俄然主体的な動きを見せた。
 罷免されたメッテルニヒはロンドンに亡命したため、宮廷は強力な実務者を欠き、彼に代わる有力な後任者も見当たらない中、フェルディナントはおずおずとある程度民主的な憲法の制定に同意した。しかし、これは二院制議会と納税額に基づく制限的間接選挙を保障するという不十分なものであり、普通選挙を求める民衆の強い不満が再度大規模なデモに発展した。
 フェルディナントはもう一段譲歩し、普通選挙による制憲議会の設置を公約するが、革命の進展を恐れてウィーンを離れ、山間のティロル地方へ国内避難した。一方、革命勢力側も、フランスのようにいち早く共和制を宣言し、臨時政府を発足させるだけの凝集力と組織力を備えていなかったため、中途半端な対峙状況が続いた。
 この間、強大なオーストリア軍は帝国版図のイタリアやハンガリーで発生した革命的蜂起への対応に忙殺されていた。特にハンガリーの革命は大規模で、当初オーストリア軍は鎮圧に失敗し、敗退したほどであった。10月にはハンガリー革命を支持する学生や兵士、労働者らがウィーンで蜂起した。
 このウィーン10月蜂起は、1848年オーストリア革命におけるクライマックスの瞬間であった。革命勢力がオーストリア軍をウィーンから排除すると―この時、フォン・ラトゥール戦争大臣が惨殺されている―、フェルディナント1世は当時オーストリア版図の一部だったモラヴィア(現チェコ)へ再避難したため、革命は成功したかに見えた。
 これにより共和制が樹立されていれば、後世「オーストリア10月革命」と呼ばれていたはずであるが、そうはならなかった。軍はウィーンを撤退しつつも包囲し、反撃の機を窺っていた。10月末には傘下のクロアチア軍を加えて態勢を立て直した軍がウィーン砲撃を開始し、激戦の末、制圧した。
 11月には、鎮圧軍最高司令官を務めたヴィンディシュ‐グレーツを中心とする政府が革命派指導者を即決処刑したうえ、保守派貴族のシュヴァルツェンベルクをメッテルニヒの実質的な後任として首相兼外相に据えた。
 さらに12月には、優柔不断で子もいないフェルディナント1世を退位させ、王権神授説を信奉するフェルディナントの保守的な甥フランツ・ヨーゼフ(1世)を新帝に迎えた。
 これにより、三月革命の限定的な成果であった憲法も破棄され、「新絶対主義」と呼ばれる反動の時代に入る。フランツ・ヨーゼフは長命で、世紀をまたいで1916年まで在位したが、この間、1860年代にはイタリア版図喪失を機に、一定の自由主義を容認する政策に転換している。

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貨幣経済史黒書(連載第32回)

2019-12-15 | 〆貨幣経済史黒書

File31:国際通貨基金の禍

 国際通貨基金(IMF)は、第二次世界大戦後の国際金融の協調体制を構築するため、いわゆるブレトン‐ウッズ協定に基づき創設された国際機関である。この機関の創設に当たっては、イギリスの著名な経済学者メイナード・ケインズも寄与しているが、彼以上にアメリカの財政実務家でエコノミストのハリー・ホワイトの立案が大きな役割を果たしたため、ホワイトが事実上、IMFの産みの親に近い存在である。
 ホワイトは、後にソ連のスパイであったことが明らかとなる人物である。彼は心情的にソ連シンパであり、第二次大戦中はソ連の協力者として情報を提供していたとされる。
 ソ連は最終的にアメリカとともに連合国側に左袒したから、彼の行為は、戦後の米ソ冷戦期のスパイ活動とは異なり、必ずしも反逆的とは言えない。ホワイト自身、冷戦が本格化する前に、スパイであったことを暴露され、議会で追及された直後に死亡しているため、冷戦期のスパイ活動に関わることはなかった。
 ホワイトが心情的に親ソ派だったとしても、エコノミストとしてのホワイトはマネタリスト志向であり、そうした彼の経済イデオロギーはIMFにも継承されていると言える。発足当初のIMFはかつて金本位制が担っていた自動的な調節作用を、―まさに機関名が示すとおり―国際的な安定基金という機関的な統制力によって代替しようという趣旨から、国際金融秩序の回復と安定のかじ取り役という性格が強かった。
 IMFの性格が変質するのは、1971年のニクソン・ショックを契機にブレトン‐ウッズ体制が解体された後のことである。それまでのIMFは戦後復興機関の一環としての役割が強かったため、母体となったブレトン‐ウッズ体制の終焉とともに廃止されてもよかったところ、そうはならず、今度は新興資本主義国への融資という役割を生き残りの鍵としたのだ。
 このようなブレトン・ウッズ後のIMFの役割は、経営難企業のメインバンクとして融資を通じて経営再建に干渉する銀行の役割と似ている。こうした新IMF最初の顧客は、1980年代を通じて巨額の債務危機に苦しんだ中南米諸国であった。これらの破綻危機に瀕した諸国に対する救済的融資の条件として、緊縮財政や公企業の民営化、通貨切り下げなどを柱とする「構造調整」と称される財政政策を課すことが慣習化した。
 このようなIMF主導の融資スキームを「ワシントン・コンセンサス」と呼ぶ向きもあるが、そのような合意が明確に存在しているわけではなく、あくまでも慣習的に形成されたスキームにすぎない。それでも、ワシントンとの連動が示唆されるのは、IMFがアメリカ主導で創設され、本部もワシントンにあるため、同機関がアメリカ政府の別動隊とみなされているからである。
 いずれにせよ、「構造調整」は国際慣習として定着し、その後、1990年代には前回も見たソ連邦解体後のロシアの「ショック療法」において、史上最も大規模かつ過激に断行され、ハイパーインフレを引き起こしたことを記した。これは極例としても、IMFの「構造調整」スキームは、アジア、アフリカを含めた多くの新興国にも適用され、短期的な財政再建には成功しても、ただでさえ乏しい社会サービスの後退や貧富差の拡大を助長した。
 「構造調整」はその適用を受けなかったバブル崩壊後の日本のような国においても、経済イデオロギー的な枠組みとしては大いに影響を及ぼし、いわゆる「構造改革」の名のもとに類似した政策プログラムが独自に追求されるなど、IMFは潜在的にも大きな政策決定力を持つ。
 発足当初は加盟しなかったソ連をはじめとする東側の社会主義陣営も資本主義化して以来、続々と加盟したため、IMFは本年度末時点で世界の独立諸国のほぼすべてをカバーする189加盟国を擁する最大規模の巨大国際機関となっており、現代の国際貨幣経済システムにおいて専制的な支配力を行使している。雲の上にあるような一見優雅な国際機関だが、末端の生活を破綻させる禍をもたらす暗黒の存在―。それが、IMFである。

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世界共同体憲章試案(連載第19回)

2019-12-13 | 〆世界共同体憲章試案

〈司法理事会〉

【第69条】

1.司法理事会は、汎域圏司法委員会の審決に対する不服の審判を行う唯一かつ終審の機関である。

2.司法理事会は、上訴が行われたつど、もっぱら当該上訴案件を審理するために設置される。

3.司法理事会は、上訴案件の当事者が包摂されていない汎域圏に包摂される領域圏の中から、抽選により総会が選出した9の領域圏で構成される。

4.司法理事会の理事領域圏は、審理を担当する代表判事を各一名ずつ選任する。

[注釈]
 司法理事会は、汎域圏民衆会議司法委員会の審決に対する上訴がなされたつど上訴案件ごとに設置される点で、他の理事会とは大きく性格を異にする。従って、「〇〇案件に関する司法理事会」という形で、案件ごとに複数の理事会が並立することがあり得る。
 そのため、単一の事務局が常置され、各理事会の事務を管掌する。また、司法理事会の活動は司法審査であるため、実際の審理に当たるのは、専門家の中から理事領域圏が選任する判事である。

【第70条】

第66条第2項の規定により平和理事会が直担する案件のうち、司法的解決が相当と認められる場合、司法理事会が設置される。この場合、前条第3項の規定を準用する。

[注釈]
 司法理事会は、世界共同体直担案件においては、第一審かつ終審機関として設置される。主として、案件が複数の汎域圏内の領域圏にまたがっており、一つの汎域圏内では対処できない場合の対応である。

【第71条】

司法理事会は、当事者たる領域圏以外で、当該案件を審理するに適した場所に設置される。その他、司法理事会の審理に関する細目的な事項は、司法理事会規程でこれを定める。

[注釈]
 司法理事会は、上訴のつど設置される非常置型の理事会であるため、常設の事務局は別として、審理の場所はそのつど全当事者にとって中立的な場所に定められる。

【第72条】

1.司法理事会の審決は終局的であって、すべての当事者はこれに服さなければならない。

2.当事者が司法理事会の審決に反する行動をとった場合、平和理事会は当事者に対して、審決に従うよう求めることができる。当事者がその要求に従わない場合、第5条に基づく措置を発動することができる。

[注釈]
 司法理事会の審決には終局性と強制力があるため、これに従わない当事者に対して、総会は権利及び特権の停止の制裁を科すことができる。

〈緊急調停及び平和工作〉

【第73条】

1.平和理事会は、第47条第1項の規定により、特に緊急的な解決を要すると判断した紛争案件については、緊急的な調停を行うことができる。

2.前項の目的を達するために、平和理事会は、適格性及び中立性を備えた専門家で構成される調停団を組織する。

3.緊急的な調停が決定された紛争の当事者は、調停が行われている間は、武力行使、敵対的政治宣伝、諜報活動その他すべての紛争行動を停止しなければならない。また、調停を妨害するいかなる行動もしてはならない。

[注釈]
 世界共同体体制下では、紛争は前条まで見たような司法的な解決に委ねられることが原則として確立されるため、本条のような緊急調停は例外的な対応となるが、すでに武力紛争が本格化しているなど、司法的解決を待ついとまがない緊急性の高い案件では緊急調停の対象となる。

【第74条】

1.平和理事会は、汎域圏司法委員会もしくは司法理事会の審決を履行するため、または前条による調停の効力を維持するため、平和構築、利害調整、施政支援その他必要な平和工作を紛争地で実施することができる。

2.前項の目的を達するために、平和理事会は、適格性を備えた工作団を組織する。

3.何人も、平和工作団の活動を妨害する行動をしてはならない。

[注釈]
 平和工作は、司法的解決や緊急調停を担保する仕上げの段階と言える。平和工作は一定程度の内政干渉にも及ぶため、国際連合体制では国家主権の観念に阻まれて実施することの難しい対応と言える。

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世界共同体憲章試案(連載第18回)

2019-12-12 | 〆世界共同体憲章試案

第12章 紛争の平和的解決

〈通則〉

【第64条】

1.世界共同体を構成する領域圏間または領域圏内の勢力間において、武力衝突に導くおそれのある紛争の発生を認識した場合、当事者たる領域圏は問題の発生を平和理事会及び総会並びに汎域圏全権代表者会議に通報しなければならない。

2.世界共同体に包摂されない領域主体は、自身を当事者とする武力衝突に導くおそれのある紛争の発生を認識した場合、この憲章の定める平和的解決の義務を当該紛争について予め受諾すれば、平和理事会及び総会に解決を要請することができる。

[注釈]
 世界共同体による平和的解決プロセスに入る端緒となる通報手続きである。世界共同体に包摂されない領域主体も、この憲章による平和的解決手続きに従う限り、解決を要請することができるというように、外部にも対してもオープンに開かれている。

【第65条】

1.前条の通報または要請を受けた平和理事会は、当該紛争が恒久平和を脅かしているかどうかを決定するために迅速に調査しなければならない。

2.その他、平和理事会は、いかなる紛争についても、また民際摩擦または紛争に導くおそれのあるいかなる事態についても、その紛争または事態の継続が恒久平和を脅かすおそれがあるかどうかを決定するために調査することができる。

[注釈]
 世界共同体による紛争解決は、当事者からの通報または要請を受けて、平和理事会が調査に着手することから始められる。他方、平和理事会は、職権によっても紛争の調査に着手できる(第2項)。

【第66条】

1.前条第1項の調査により、当該紛争が恒久平和を脅かしていると判断した場合、平和理事会はその解決を紛争当事者が包摂される汎域圏民衆会議に付託しなければならない。恒久平和を脅かすおそれがあると判断した場合は、その解決を汎域圏民衆会議に勧告することができる。

2.前条第1項の調査の結果、当該紛争が特に緊急的な解決を要すると判断した場合、または前項の規定によっても解決が困難な事情があると判断した場合、平和理事会は、当該紛争を直担案件に指定することができる。

[注釈]
 世界共同体における紛争解決の原則は、まず当該紛争が発生した汎域圏内での自律的な解決に委ねることである。例えば、アフリカでの紛争は、汎アフリカ‐南大西洋域圏での解決にまずは委ねられる。ただし、紛争内容が深刻で特に緊急性を要する場合や、複数の汎域圏にまたがるような紛争については、平和理事会の直担案件となる。

〈汎域圏による司法的解決〉

【第67条】

1.汎域圏民衆会議は、前条第一項の規定により付託され、または勧告された紛争の解決に当たるため、司法委員会(以下、「汎域圏司法委員会」という)を常置するものとする。

2.汎域圏司法委員会は、汎域圏に包摂される各領域圏から公平に選出された判事委員で構成されなければならない。その他汎域圏司法委員会の組織及び手続の細目については、各汎域圏の条約でこれを定める。

[注釈]
 各汎域圏には民際司法機関としての司法委員会が常置される。これは、現行国連制度で言えば、国際司法裁判所を地域的に分割したようなものと考えればよい。なお、「裁判所」という構制をとらないのは、民衆会議は司法権をも掌握する総合施政機関だからである。

【第68条】

1.汎域圏司法委員会は、平和理事会が第66条第1項の規定により紛争の解決を付託した場合、直ちに審理を開始しなければならない。

2.汎域圏司法委員会は、平和理事会が第66条第1項の規定により紛争の解決を勧告した場合、紛争当事者の少なくとも一つが正式に提訴することにより、審理を開始する。

3.汎域圏司法委員会の審決は、すべての紛争当事者を拘束する。審決に不服の当事者は、世界共同体司法理事会に上訴することができる。

[注釈]
 汎域圏司法委員会の審理は、平和理事会からの「付託」か「勧告」かで開始方法が異なり、「付託」なら即時に、「勧告」なら少なくとも一つの紛争当事者からの提訴を待って開始される。不服の際の上訴もできる。

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