ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第33回)

2019-04-30 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(6)効率的かつ公平な医療が提供される

◇地域圏中心の医療制度
 年金不安と並んで、資本主義的福祉国家の揺らぎを象徴するのが、医療へのアクセスが悪化する医療難である。医療難は医療費の公的負担率の高い国にとっては共通の不安材料である。一方、公財政力が乏しい低開発国では、そもそも公的医療を普及させること自体ができず、無医療が常態となる。
 医療難/無医療問題も、種々の技術的な要因はともかくとして、根源的には医療財政、つまりはまたしてもカネの問題である。医療難をどうにか立て直すには、公的医療の患者負担率の引き上げ―つまりは“慈悲診療”ならぬ“自費診療”への転化―や医療保険料の増額によって、低所得者・貧困者を医療から遠ざけるほかない。結果として、無医療に等しくなる。
 これに対して、およそ財源という不安定要素から解放される共産主義社会では、より効率的かつ公平な医療制度が提供されるだろう。共産主義的医療のあり方にもいろいろの制度が考えられるが、例えば次のようになろう。
 まず、医療の柱である地域医療の最前線は市町村の過重負担とならないよう市町村ではなく、より広い中間自治体である地域圏が担う。このレベルで地域医療の拠点となる公立病院を運営するほか、過疎地では公立診療所も開設する。一方、従来からの私立病院・診療所も、地域圏レベルの登録医療機関として公的監督の下に診療活動を行う(ただし、開業医の資格条件や私立病院の医療の質に対する監督はより厳しいものとなろう)。
 また負担の重い救急分野も、財源の心配をすることなく、地域圏の拠点病院すべてに「たらい回し」ならぬ「ふるい分け」が可能な、充実したスタッフを擁する救急部門を設置して対応することができるであろう。
 これに対して、特定の疾患に対するより高度な治療や通常の病院では対応できない難病の治療・研究に関しては、広域自治体である地方圏/準領域圏ないしは領域圏の専門的な病院の役割に集約される。

◇医師の計画配置
 一方、医療難/無医療の原因でもあり結果でもある医師の偏在問題についても、共産主義は大いに解決してくれるはずである。共産主義的医療では、医師の計画配置がごく当然の施策となるからである。
 すなわち、特別に高度な知識・技能を持つ特定専門医を除き、一般の医師をまずは地方圏ごとに登録したうえで、各地域圏の医療ニーズに応じてバランスよく各病院に配置し、過不足が生じないようにする。
 また、私立病院の医師や極めて厳格な資格認定のうえに認可される開業医にも原則的に非常勤もしくは嘱託の地域圏医療公務員の地位を兼ねさせ、必要に応じて地域圏の医師配置計画に組み入れる。共産主義社会では私立病院・開業医も収益事業ではなくなりボランティア化されることから、公立病院・診療所との違いも相対化されていき、その公共的な性格がより鮮明・高度なものとなるのである。

◇保健所・薬局の役割
 貨幣経済が廃される共産主義社会にあっては、どの医療機関でも(私立病院・診療所も含めて)患者の医療費負担ということはそもそもあり得ない。その結果、公的医療保険のような補助制度も一切必要なくなる。これなら公的医療保険制度を嫌悪する保守派米国民も大喜びするに違いない。
 このような無償供給原則は他のすべての財・サービスの場合と同じである。しかし、そのような“医療天国”になったら病院という病院に患者が殺到しかねないという懸念があるかもしれない。
 その点、共産主義的医療では、保健所(保健センター)が疾病の予防という観点から、健康相談を通じた初期的診断や生活習慣上の助言を行なう総合的な予防的サービスを提供することで、軽症者の病院殺到を防ぐ防波堤となるだろう。
 さらに、薬局も、資本主義下におけるような薬のスーパーマーケットではなく、軽症例に対する一定の診断と処方も行なうまさしく薬の局として機能するようになるだろう。それは、薬剤師が医師から独立した調剤専門家として確立され直すことによって実現する。

◇科学的かつ公正な製薬
 ここで医療制度と切っても切れない関係にある薬剤開発の問題について触れておきたい。資本主義経済の下で、薬剤開発が巨大な製薬資本の手に握られていることは周知の世界的現象である。その結果、どういうことが起きているか。
 一つは製薬資本による医療支配である。すなわち臨床試験という名の人体実験を通じて新薬による治療を医療界に押し付けている。
 本来、薬剤の臨床試験は中立的かつ科学的、人道的に行われるべきであるが、実際は製薬資本から研究上の資金提供を受けている医学者らが実質的なお抱えの形で協力しているため、その結論はしばしば製薬資本有利に「操作」さえされる。甚だしきは、「新薬開発のために新疾患名を創作する」という本末転倒まで行われる。
 結果として、効果の疑わしい薬剤や害のある薬剤までが事情を知らない善意の一般医師によっても処方されるようになる。そこから重大な薬害が発生しても、製薬資本は容易なことでは法的責任を取ろうとしない。 
 これに対し、共産主義の下では第2章でも言及したように、製薬は社会的所有企業たる生産事業機構の一つである「製薬事業機構」が一括して担い、一般の経済計画とは別途、計画的に行われていく。臨床試験は事業機構とは全く別個独立の試験機関が科学的に厳密かつ人道的な方法で実施するほか、あらゆる薬剤の副反応を監視し、製造中止などの強力な規制権限を持つ薬剤監視機関も設置される。
 最終的な形では、世界的なレベルで薬剤事業を統合し、今日の世界保健機関(WHO)のような専門機関の監督を受けながら世界標準の製薬と薬剤の頒布―当然にも無償―がコントロールされることになる。このことによって、今日エイズ禍に悩むアフリカ諸国など後発国におけるエイズ治療薬の低額頒布が製薬資本の特許の壁によって阻まれている問題も解決を見るであろう。

コメント

共産論(連載第32回)

2019-04-29 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(5)環境‐福祉住宅が実現する

◇家賃orローンからの解放
 資本主義社会において住宅は福祉の問題としては認識されておらず、それはもっぱら所有の問題、もっと言えばステータスの問題として扱われてきた。
 その結果、持てる者=住宅所有者/家主、持たざる者=借家人/野宿生活者という階級格差が最も露骨に立ち現れるのが住宅問題なのであるが、この住宅階級構造の中では、持たざる者は家賃の支払いに苦しんでいるばかりでなく、持てる者もしばしば住宅ローンの返済に悩んでいる。持てる者も持たざる者も、「住む」という人間の生存の根幹部分を巡り、債務者という受動的な地位に立たされ、呻吟しているのだ。
 特に借家人の地位は従属的である。借家人は、家主に生存そのものを支配されており、その社会的立場は弱いから、地域コミュニティーでも主体的な地位を獲得できず、賃貸住宅の増加はそうした地域コミュニティー自体の弱化・解体にもつながってきた。
 その点、すでに第2章でも先取りしたとおり、貨幣経済が廃される共産主義社会では、当然にも貨幣で家賃を支払う賃貸住宅という制度は存立の余地がない。このことによって、世界中で膨大な数の人々が借家人という不安定な地位から解放される。これもまた、かなり大きな社会革命と言えるのではないだろうか。
 同時に、貨幣経済の廃止は住宅ローンのような悪制にも終止符を打つ。これまた、一つの朗報ではないだろうか。

◇公営住宅供給の充実
 それでは、共産主義的住宅政策とはいかなるものか。まず、暮らしに関わる生活関連行政の拠点である市町村が公営住宅供給の中心主体となる。
 資本主義下の公営住宅は低所得者向けの低家賃賃貸住宅ものがもっぱらであるが、共産主義的公営住宅はより一般向けのものであり、入居条件に特段の制限はなく、入居期間も無制限、相続も原則として認められる。またこうした一般向け住宅とは別に、前節で見たような高齢者向けケア付き住宅や障碍者向けサポート付き住宅の供給も促進されるだろう。(※)
  なお、共産主義社会でも個人の住宅所有が許されることは第2章で見たとおりである。ただ、共産主義社会における持ち家は住宅ディベロッパーによって既製品的に供給されるのではなく、各自が専門の建築士に依頼し設計してもらう注文生産方式に変わるであろう(もちろん自作も可能である)。住宅建設も大工の職人組合的な組織が担うようになり、伝統的職人世界の復権も見られるに違いない。

※これら公営住宅の日常的な管理運営は、大規模な市や町にあっては最小自治単位としての街区に委託して分権的な運営を図ることも一考に値する。

◇環境と福祉の交差
 ところで、住宅問題とは環境と福祉とが交差する領域でもある。その意味で、理想の住宅とは環境的持続可能性に配慮された設計(住宅の周辺環境も含めて)と高齢者や障碍者にとっても住みやすいユニバーサル設計とが組み合わさった「環境‐福祉住宅」だと言ってよい。
 このようなことは効率と高機能が優先されがちな資本主義的住宅ではスローガンにとどまり、容易に実現し難いことであろう。共産主義はそうした環境‐福祉住宅の建設を高度に促進する。
 例えば、公営住宅については入居者の状態いかんを問わず例外なく標準的なユニバーサルデザイン設計が施される―このことは老人ホームや障碍者施設を解体する脱施設化の物理的条件でもある―ばかりでなく、同時に省エネ住宅の供給、特に既存公営住宅の省エネ・リフォームを一大プロジェクトとして実施するほか、住宅周辺の緑地公園化も推進する。
 また、しばしば資本主義的近代化の象徴とみなされる高層住宅化は、歴史的景観という文化的な環境を害しがちであることから、共産主義的住宅政策では、新規建設の場合は可能な限り中・低層化が図られるであろう。そのために新たに必要とされる宅地は土地管理機関の管理下に移された旧商業用地や旧資本企業が所有していた遊休地等を再利用した宅地開発によってまかなわれる。
 このようにして、共産主義は資本主義の下では巨額財源を必要とする環境‐福祉住宅プロジェクトも難なく実現するが、これまた「財源なき福祉」ならではの芸当だと言える。

コメント

共産論(連載第31回)

2019-04-26 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(4)名実ともにユニバーサルデザインが進む

◇脱施設化
 近年、資本主義社会でもバリアフリーが理念としては高調されるが、完全バリアフリー=ユニバーサル・デザインはここでもやはり財源=カネがボトルネックとなってなかなか進展しない。貨幣経済ではなく、財源に拘束されない共産主義は、この問題もさほど難なくクリアするであろう。
 そもそも共産主義的都市計画ではユニバーサルデザインが内在化され、公共的な場所・建造物はすべてユニバーサルデザインを義務付けられ、ユニバーサルデザイン住宅の建設も推進される。しかし、このような物理的ユニバーサルデザインがどれほど進んでも障碍者が施設に収容され、見えない鎖でつながれていて街中へ繰り出せないのでは意味がない。
 その点、労働力としては非能率とみなされる障碍者は施設で「保護」するという発想の強い資本主義社会では、各種の障碍者施設や病院より施設に近い精神病院のような隔離的な諸制度を発達させてきた。しかし、共産主義社会はこうした施設の撤廃を高度に実現する。
 高度な脱施設化(施設解体)を進めるためには、その前提的な受け皿として在宅地域ケアを整備する必要があることは高齢者の場合と同様である。この点、障碍者のケアには高齢者のケアと共通する部分も多いので、前回述べた公共介護ステーションで対応可能な人々にはそれで対応し、対応し切れない人々(例えば精神障碍者)は障碍者専門サービスで対応することができる。

◇障碍者主体の生産事業体
 障碍者の場合は、ケアの問題ばかりでなく、社会参加の保障、特に働く場所の確保が必要である。現状では、障碍者も自立的に生計を立てようとすれば賃労働に従事する必要があるが、壁は厚い。その特性に応じて様々な配慮が不可欠な障碍者は通常の労働者のように賃奴として搾取することが難しいため、資本企業にとっては労働力としての魅力に乏しいことがその原因である。
 これに対して、共産主義的労働は、第3章で詳しく見たように、無償の労働である。それは社会的協力としての労働であるから、障碍者も障碍者なりの力量とペースで働く場を見出すことがずっとしやすくなるのである。
 また資本主義の下では利潤追求競争に乗り切れない障碍者向け授産施設のような事業体も、単なる「授産」を超えて障碍者主体の自主的な生産事業体として立ち行く可能性が拓かれる。
 この点でも、交換価値中心でなく使用価値中心の共産主義社会は本質的に“障碍者にやさしい”経済システムであり得るし、共産主義社会において中小規模の主流的な生産組織となる生産協同組合も、営利性を持たない点で障碍者自身による生産プロジェクトを展開するうえで株式会社形態よりも適していると言えよう。

◇「反差別」と心のバリアフリー
 バリアフリー化政策においては物理的なバリアフリーも土台として重要であるが、より根源的な次元で重要なことは、一般社会に潜在化する障碍者排斥的な心のバリアを撤廃すること、言わば心のバリアフリー化である。それなくしては脱施設化も幻と終わるだろうからである。
 この心のバリアフリー化に至っては、もはや共産主義云々とは直接に関係のない、人間社会にとって普遍的な課題であるように思われるかもしれない。しかし必ずしもそうではない。
 共産主義的社会道徳の柱は「反差別」である。共産主義社会は、すでに再三述べてきたように、社会的協力=助け合いを本旨とする以上、異質の者を排斥・隔離することは社会の根本法則に反するのである。
 そこで、次章で改めて述べるように、基礎教育(義務教育)の早い段階から、障害児と非障害児の交流・統合教育を活発に進め、障碍者を社会の対等な成員として迎え入れる意識を早期から養うための教育が強力に行われることになる。

コメント

共産論(連載第30回)

2019-04-25 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(3)充足的な介護システムが完備する

◇介護の公共化
 高度資本主義社会は長寿社会とほぼ重なっている。しかし長寿社会は同時に、要介護老人の増大とその介護負担が社会にのしかかる社会でもある。一方で、人手も限られた少人数の核家族にすべての介護責任は負い切れない。
 そこで、資本主義は介護をサービス商品化することにより、介護サービスを営利性の強い介護事業者の手に委ねる方向へ進んでいく。結果、介護サービスの受益は応益負担化するとともに、介護労働は搾取性の強い過密労働となるというように、資本主義の特徴が介護分野にも顕著に発現してくる。
 共産主義はそうした方向性とは異なり、介護を公共的なサービスとして確立しつつ、柔軟なニーズに対応した介護システムを構築するだろう。具体的には在宅ケアが高度に充実するが、「在宅」といっても、文字どおりの自宅に限らず、介護士や看護師が常駐する高齢者向けの公的なケア付き公共住宅が数多く用意され、随時無償で入居することができるようになる。
 このように「在宅」の概念が拡張されることにより、高度な共助に基づく在宅介護の仕組みが構築され、いわゆる老人ホームのような典型的な施設介護は不要となり、在宅か施設かといったカテゴリー分類は相対化されることになる。

◇介護と医療の融合
 共産主義的介護の最前線は、地域医療と異なり、生活関連行政の拠点である市町村のレベルで担われる。具体的には、市町村の地区ごとに公共介護ステーションが設置される。ここには、ホームヘルパーのほか、訪問看護師や老人医療に精通した往診専門の医師も駐在して介護と医療を融合することを可能にする。
 介護希望者は医師の的確な診断と助言に基づいて自らの望むケアのメニューを選択することができる。この介護ステーションは24時間対応制で、夜間でも必要に応じてヘルパーや看護師の派遣を求めることができるし、本人や家族の要望に応じた通所デイケア機能も備えたワンストップ型のものとなるだろう。
 一方、多重的な疾患を抱え、完全看護が必要であるとか、ケアの困難な進行した認知症の患者などは地方圏が運営する病院型の長期療養所へ無償で入院することができる。
 さらに、公共サービスではまかない切れない民間の介護ボランティア組織による特色あるサービス提供も排除しないが、それらも市町村に登録され、公的な監督を受けることになる。

◇「おふたりさま」老後モデル
 核家族化の結果、独居老人が増加していく中で、充足した介護システムの完備など非現実な夢物語だという声も聞こえてきそうである。そこで、近年は非婚率の高まりにも対応して、自己完結的な「おひとりさま」老後モデルを推奨するような議論も聞かれる。
 これは一見社会的現実に即した議論のようであるが、介護サービスも商品化された資本主義社会の現実にあっては、しょせんそれは単身で生きることを明確な主義とし、なおかつ老後の単身生活の資となり得る年金収入や資産、頼れる人脈とを十分に備えたプチ・ブルジョワ以上の有産階級向け老後モデルにほかならない。
 プロレタリア階級の「おひとりさま」老後生活の厳しさは、いわゆる「孤独死」問題が象徴している。プロレタリア階級の「おひとりさま」は「無縁仏さま」予備軍である。
 その点、第3章で見たように、共産主義社会における公証パートナーシップ制度は独身高齢者同士のパートナー関係にも利用しやすい制度であるから、この制度が普及すれば「おひとりさま」ならぬ「おふたりさま」の高齢世帯の増加が見込めるかもしれない。その点でも、「婚姻家族からパートナーシップへ」という家族モデルの変容は重要である。
 もちろん、共産主義的な共助に基づく公共的な介護システムは単身者にとっても有益なものとなるだろう。その点、各街区に設置される社会事業評議会は独居高齢者を管轄街区内の社会サービス計画における重点的な対象として、サービス網に組み込むことになる。

コメント

共産教育論(連載第5回)

2019-04-23 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(4)脱学校化
 教育をめぐっては、古い時代からの社会通念と化した常識が多々存在するが、中でも最大級のものは学校制度であろう。つまり、正規の教育は必ず学校制度を通じて提供されるというものである。ここでいう学校とは、専従教員という人的資源と常設校舎という物的資源とを備えた学校のことである。
 このような学校制度は、生徒を一箇所に収容し、一斉に同等の授業を行なうことには適しており、一見して「平等」な教育を可能とするかに見えるが、実のところ、学習速度の個人差を無視し、学習速度の速い子どもには退屈を、遅い子どもには苦痛を強いる不平等な教育であると同時に、生徒の自発性を抑制する受身的な教育となる。
 さらには、子どもの領分における差別行為としてのいじめや児童性暴力をはじめ、人格形成に長期的な悪影響を及ぼす成長期におけるトラウマ体験の多くが学校制度の内部で起きていることも無視できず、このような弊害を重視するなら、既存の学校制度は子どもにとって有害環境であるとさえ言える。
 それにもかかわらず、既存の学校制度の是非が疑われることはほとんどなく、学校制度は社会的に当然視され続けている。しかし、高度情報社会の到来は、こうした社会通念に疑問符を付する好機でもある。インターネットを通じた遠隔通信システムの発達は、学校制度のあり方を根本から変える可能性を持つからである。 
 すでに通信教育システムは一部で導入・普及が進んでいるが、それらは正規の学校制度の補完的な教育もしくは正規の学校制度からはみ出した生徒を対象とする補充的な教育システムの領域にとどまっており、正規の学校制度そのものを通信教育に転換するという大胆な試みはなされていない。
 資本主義社会でそのような教育革命を実現するとなれば、必要な通信インフラ整備のために膨大な支出を伴うことは必至であるから、おそらくそこまでは踏み切れないであろう。その点、貨幣経済から解放される共産主義社会ではコスト問題に制約されることなく、大規模な通信教育化を実現することが可能となる。
 そればかりか、前回見たような上下の階層を持たない完全一貫制の基礎教育課程は、子どもたちが各自のペースに応じて自発的に学習し、知的な創造性を広げることを旨とするから、既存の学校制度よりは、個別的な遠隔通信教育システムに適している。
 そのように、専従教員も常設校舎も持たない純粋な通信教育システムであっても、前々回見たように、教育の公共性が貫かれるならば、それをなお「学校」―サイバー学校―と呼ぶことは許されるかもしれないが、私たちが通常想定する学校とは大きく異なるため、こうした純粋の通信教育システムへの革命的移行は、「脱学校化」と呼ぶほうが適切であろう。

コメント

共産教育論(連載第6回)

2019-04-22 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(5)内発性教育
 (1)でも触れたように、共産主義と教育を結びつけるとき、どうしても洗脳教育のような外部強制的な教育を想起してしまいがちであるが、本来の共産教育とは決してそのようなものではなく、むしろそれとは正反対に、内発性を重視した教育を志向するものである。
 本来的な意味での共産主義社会は、一部の知識人主導の知識階級制ではなく、一人一人がそれぞれの経験を踏まえた知者であり得るような社会であるからして、そこにおける教育も既存の権威的な知識体系を暗記し、習得することではなく、一人一人が経験的かつ独自に思考しつつ、知を共産し、共有することが目指される。
 そのためにも、教育は外部強制的でなく、内発的な知的探求を軸としたものとなるのである。これをここでは「内発性教育」と呼ぶが、もう少し具体的に言い換えれば、「構想力‐独創性教育」ということになるだろう。
 もっとも、こうした教育理念の革新は、資本主義社会においても提唱されることがある。しかし、貨幣交換を軸に成り立つ資本主義社会における教育の目標は、資本家/経営者としてか、労働者としてかは別としても、貨幣を稼ぎ出す能力の習得ということに尽きるから、特段の構想力や独創性を必要とするものではない。
 構想力‐独創性は、貨幣交換をしない社会、それゆえに労働もまた内発的な関心と意欲を動機として実践されるような共産主義社会においてこそ、より本質的に必要とされるであろう。
 そうした教育は、教師が黒板の前で大勢の生徒を前に一方的に教えを垂れる伝統的な講義形式ではなく、生徒が自宅ないし自習スペースで各自のペースに合わせて学べる通信制教育により適合している。そうした観点からも、前回見た脱学校化は共産教育における重要な支柱となる。
 実際の教育メソッドに関しては、改めて後の章で詳しく見ることにするが、伝統的な教育が教師によって与えられた問いの答えに生徒が到達することを目標とする「正解発見型」であるのに対し、内発性教育では生徒自らが独自に問いを立て、教師は生徒がその答えを探求することを適切に助力する「問題探求型」となる。
 結果として、内発性教育は教師と生徒の伝統的な関係性にも革命的な変化をもたらすことになる。それは上下関係で規律された師弟関係から、より近水平的な斜めの関係性になるであろう。そのことは、教師のあり方や養成法にも社会通念を覆す大きな変革をもたらすはずである。

コメント

共産論(連載第29回)

2019-04-19 | 〆共産論[増訂版]

 第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(2)年金も生活保護も必要なくなる

◇年金制度の不合理性
 福祉国家政策の柱とも言える公的老齢年金制度(以下、単に年金制度という)の揺らぎは、その影響が老後の貯蓄を十分に備えた一部富裕層を除くほぼ全国民の老後に及ぶため、福祉国家の揺らぎの中でも特に深刻なものの一つである。
 しかし、元来高齢化率が現在ほど高くなく、平均寿命も相応な限度内だった時代の産物である年金制度が少子高齢・長寿時代に揺らぐのは必然であって、年金はこの先も安泰だという政府のどんな約束も虚ろに響く。年金制度の合理性を疑うことはタブーに近いところもあるが、この制度は決して無条件に合理的な制度であると言えないことはたしかである。
 そもそも労働者を一定年齢で強制的に退職・失業させておいて年金生活に追い込むのは形式的にすぎるシステムである。60歳を過ぎてもまだ壮健で働く意欲に満ちた人もいるし、60歳を過ぎて新たな職に挑戦する「老新人」がいても不都合はない。
 しかし、資本主義の下では、老いた労働者は労働力としての有用性に欠けるものとみなされる。高齢労働者を強制的に退職させる方法としては一律的な定年制を適用する方法と個別的に解雇する方法とがあるが、どちらにせよ資本企業としては搾取し甲斐のない生産性の低下した高齢労働力は排除してしまいたいことに変わりはない。

◇共産主義的老後生活
 これに対して、共産主義社会における老後生活は単純かつ自由である。定年制をはじめ、年齢のみを理由とする退職強制は年齢による不当な就労差別として法的に禁止されるから、労働者は各自が望む年齢まで働き続けることができる(ただし、第3章で論じたように、共産主義の初期には中核的労働世代に労働義務が課せられる可能性はある)。
 もし老齢を理由にリタイアする気になったら、ただ静かに去ればよいだけである。何度も述べたように貨幣経済が廃され、必要な財・サービスはすべて無償で取得できるのだから、引退に伴う生活不安は生じない。もしも介護が必要になれば、次節で見るように充実したケアが無償で受けられるし、重度化すればこれまた無償で長期療養ケアを受けることもできる。
 逆に、早期リタイヤすることも自由である。その点、資本主義的社会保障制度は、賃奴として用済みとなった老齢者向けのものに集中しがちであるから、早期リタイヤは超富裕層以外にとっては夢物語であり、若壮年の離職者は失業保険や生活保護に依存せざる得ないだろう。  
 共産主義社会ではそのような必要もない。貨幣がなくとも生計は立つのだから、そもそも生活保護のような救貧制度自体が不要であり、失業保険のようなつなぎの社会保障制度も不要である。極端に言えば、老いも若きも安心して失業できる。
 正しく構築され、運営される共産主義社会は貧困とは無縁である。労働と消費とが完全に分離される共産主義社会は本源的な福祉社会であって、あえて福祉の充実云々と大上段に構えることすらないのである。

◇社会事業評議会  
 上述したように、共産主義社会は年金や生活保護に象徴されるような金銭給付型の社会保障という特殊な窮乏化防止制度を必要としないとはいえ、共産主義社会にも介護をはじめ、非金銭的な社会サービスの体系は存在する。むしろ、貨幣経済が廃される共産主義社会では、そうした非金銭的な社会サービスこそが中心を占めることになるのである。  
 共産主義的社会サービスは要受給者側からの申請を待つ申請給付主義ではなく―申請給付主義とは例の財源という資本主義的限界に対応する受給抑制策の一つである―、要受給者の申請がなくとも本人が合理的な理由に基づき辞退するのでない限り、計画的に給付する計画給付主義を採る。  
 そのために、市町村自治体の街区ごとに地域の社会サービス計画を主管する公的機関として、社会事業評議会(以下、単に「評議会」という)が設置される。評議会は自ら直接に社会サービスを提供することはないが、担当街区内の社会サービス全般を包括的に束ねる。  
 具体的には、街区内の社会サービス要受給者の状況を常に把握し、毎年更新される社会事業計画を立案しつつ、要受給者が必要な時に必要なサービスを受給できるよう調整を図ることを任務とする。従って、評議会の議長は正式の資格を持ったソーシャルワーカー(社会事業調整士)でなければならず、評議員は街区内の福祉や医療分野の専門家や事業者代表が非常勤で委託される。   
 評議会には複数のソーシャルワーカーが配置され、要受給者からの相談を受けるほか、ボランティアの協力員からの情報に基づき、要受給者を発見し、必要なサービスの手配につなぐ積極的な活動も展開する。ちなみに、児童福祉に関しては、評議会とは別途、未成年者福祉センターが設置されるが、評議会は同センターとも連携し、子を持つ家族の保護を行なうこともある。

コメント

共産論(連載第28回)

2019-04-18 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

共産主義社会はその本質上、誰もが日常の衣食住や医療・介護にも不安を抱くことなく暮らしていくことのできる安心な福祉社会である。なぜそんなことが可能になるのか。


(1)財源なき福祉は絵空事ではない

◇福祉国家の矛盾
  はじめに確認しておくと、いわゆる福祉は決して共産主義の専売特許というわけでなく、よく理想化される北欧諸国のように、むしろ資本主義の枠内における労働者階級の窮乏化防止の意味合い―第1章で論じたように、それは厚化粧した資本主義の姿でもあった―が強いと言ってもよい。
 しかし、そうした資本主義的な福祉には一つの決定的な限界がある。それは福祉の担い手が国家であるということ―福祉国家―に由来する。国家は福祉財源を税収に依存する。つまりは福祉財源の大半を賃労働者、すなわちあの賃奴の所得に依存する。賃奴≒税奴たるゆえんであった。
 それでも、右肩上がりの高度成長・蓄積期で賃金上昇率も高い時期には国家の税収も伸び、安定した福祉政策を実行して賃奴たちの生活水準を引き上げてやる余力―しょせんそれは税金の還元サービスにすぎないのではあるが―も生まれる。理想化された北欧の「高度福祉国家」も、おおむね1970年代中ごろ―長くとっても1980年代―までの高度成長・蓄積期がその黄金時代であった。
 やがてオイルショックを契機に、先発資本主義諸国では黄金の“古き良き時代”が終わり、成長鈍化・グローバル競争の時代に入ってくると、労働者の賃金所得も伸び悩み、国家も税収不足に陥り始め、そこへ新自由主義=資本至上主義の「小さな政府」ドグマも介在して福祉国家は揺らぎ始める。
 このように、資本主義的福祉国家とは、大衆が経済成長・資本蓄積の恩恵に浴して福祉をさほど必要としないときには充実し、低成長・経済危機の時代にあって大衆が切実に福祉を必要とするときには行き詰まるという矛盾を抱えているものである。
 福祉国家再建の必要性が叫ばれることもあるが、財源の壁は厚い。増税が不可避であるが、資本主義国家はそうした場合、資本よりも労働に負担を転嫁する術を心得ているから、法人税増よりは消費税増のような「庶民増税」に手を着けること必定である。政府がそうした増税策をもってしてもまかなえないほどの財政赤字を抱えているとなれば、福祉国家の再建どころではない、国家そのものの存亡という危機にも直面する。

◇二つの「福祉社会」
 アメリカは個人の自由を最重視するイデオロギーから、福祉国家という概念の受容を拒否してきた。そのため、大恐慌に直面した1930年代のローズヴェルト政権が社会保障の制度を導入した際には、国民の社会契約そのものを見直すという含意から、ニューディール政策と称されることとなった。
 とはいえ、アメリカにおいて福祉国家は禁句であり、ニューディール政策施行後も、資本主義的な自助原則に変更はない。しかし、その反面、福祉サービスの多くを互助の精神に基づき、民間のボランティア団体や営利性を帯びた福祉事業体が担い、国家による福祉サービスの欠如を補っている。
 そうした点では、福祉国家という観念そのものを拒否する自助原則の米国は、互助的な民間サービス中心の、ある意味からすれば「共産主義的な」福祉を実践していると言えなくはない。
 しかし、それはあくまでも外面的な近似性にすぎず、その本質はむろん共産主義とは異なっている。アメリカの民間福祉は基本的に福祉サービスを富裕者の寄付や営利的な収益事業に委ねる福祉資本主義の実践にほかならない。
 これに対して、国家が廃止される共産主義社会の福祉は国家中心でないことは論理上当然としても、篤志的または営利的な民間福祉に丸投げするのでもない、言葉の真の意味での福祉社会を軸とするものとなる。
 具体的には、生活関連行政の中心を担う市町村と地域医療の拠点となる中間自治体としての地域圏が福祉の最前線として、ともども連携しながらサービスを提供していく。その点で公的福祉の性格は強いが、民間福祉をすべて公的に接収してしまうわけではない。
 共産主義社会では、民間福祉団体や民間病院はすべて無償ボランティア組織に純化される。これは、共産主義社会において賃労働制が廃止されることに伴う必然の結果である。それらの民間ボランティア組織は市町村または地域圏に登録され、その監督を受けながら各々特色あるサービスを無償で提供していくことになる。

◇無償の福祉
 このように言えば、果たして高度な福祉サービスがボランティア依存で実現するだろうかとの懐疑を招くかもしれない。しかし、福祉とは本来ボランティア精神を本旨とするものではなかっただろうか。
 もっとも、医師のような高度専門職までが無報酬のボランティア化されたのでは医師志望者が激減し、決定的な医師不足を招くのではないかとの懸念には一理あるかもしれない。
 なるほど今日の医師はその高収入が魅力となって多くの志望者を惹きつけている可能性もあるが、果たしてそれが医師という職本来の姿なのか。多くの非営利的な職能までもが儲け主義の準商人化されてしまう資本主義の下ではなかなか理解しにくいことではあるが、本来医師とは病気の治療と予防を専門とする公共的な職能のはずであった。
 これは次章の論題である教育とも関わることであるが、共産主義社会ではそうした公共的職能としての意識の高い者が医師であり得るような医学教育システムが導入されるであろう。
 いずれにせよ、共産主義的福祉は、公的福祉か民間福祉かを問わず、貨幣制度の廃止に由来する無償性に支えられた共助のシステムという特質を強く帯びるが、その最大の強みは財源―公共的な「資本」とも呼び得る―という不安定要素から解き放たれることであると言える。
 すなわち共産主義社会では、すべての福祉主体がカネの心配をせずして真に必要なサービスを十分に提供することを可能にする、そうした意味で「財源なき福祉」が絵空事でなく実現するわけである。

コメント

犯則と処遇(連載第44回)

2019-04-17 | 犯則と処遇

37 真実委員会について(下)―審議

 真実委員会の証拠調査が完了すると、証拠調査員は排除された証拠を除く全証拠及び信用度別に分類した証拠一覧表を真実委員会に提出する。これにより、真実委員会の審議が正式に開始される。

 真実委員会の制度では、起訴というプロセスを経ないため、公訴官(検察官)と被告人・弁護人が対峙するという当事者構造は存在しない。
 とはいえ、審議の効率を上げるためにも、審議の対象となる事件の内容を明らかにするべく、捜査機関―複数の機関が合同捜査した場合は主たる機関―は、事案摘要書を委員会及び被疑者側双方に提出しなければならない。  
 事案摘要書には事件の概要とともに、適用されるべき根拠法令を明記する。こうした摘要書を的確に起案するためにも、各捜査機関には法務部を常設し、法律家の資格を持つ専従職員を配置する必要がある。

 真実委員会の審議はこの事案摘要書―この書面自体は証拠書類として扱われない―及び証拠調査員の提出に係る証拠に基づいて行なわれるが、必要と認めれば、新たな証拠を追加したり、より詳しい鑑定を外部の専門家に委嘱し、独自に真相を明らかにすることもできる。  

 先に述べたように、真実委員会の審議は当事者対決構造を採らないから、被疑者その他当事者の出席を要しない。当事者といえども、真実委員会が証人として召喚した時のみ出席するのである。
 真実委員会は真実の解明に特化した司法機関であるから、召喚された証人は、真実委員長が特に許可した場合を除き、原則として証言を拒否することはできず、証言の拒否は司法侮辱行為として制裁される。

 真実委員会の具体的な審議は、真実委員が事案摘要書と証拠とを照らし合わせ、不明な点を究明するという形で進められていく。そのための証人尋問は委員長が主導し、必要に応じて他の真実委員も補充尋問を行なうことができる。

 真実委員会の審議は原則として公開で行なわれるが、性的事犯などではプライバシーの観点から当事者及び独立した有識者の傍聴人にのみ傍聴を制限する限定公開措置を採ることができる。少年事件の場合は、常に限定公開制とする。  

 審議は短期集中的に行い、裁判のように数年もかけることはない。最終的な審決を出すための合議は非公開で行なうが、その際は、証拠一覧表の信用度評価に基づかなければならない。例えば、信用度1のC級証拠をかさ上げして評価するようなことは許されない。  
 基本的にはS級及びA級証拠を主証拠としつつ、B級以下の証拠を補強証拠として真相を導くことになる。B級以下の証拠しか存在しない場合は、それらの総合評価によって解明できる限りでの真相を導かざるを得ない。

 真実委員会の審決は口頭及び書面で示されるが、裁判の判決とは異なり、単純に「有罪」「無罪」を決するものではないので、多数決によるのでなく、五人の委員の合議により到達した事実関係を報告書として記述する形式を取る。  
 とはいえ、単なる調査報告書ではないから、犯人に成立する犯則行為と根拠法令は明示しなければならないが、審議の結果、捜査機関の提出に係る事案摘要書とは異なる結論に達することはあり得る。

 犯人が特定できた場合は、その氏名を審決中で明示するが―実質上の「有罪」認定―、犯人を特定するに足りる証拠が見出せない場合は、犯人不詳としつつ、証拠上解明し得た限りでの真相を記述する。

 真実委員会の審決は現行刑事裁判のように刑罰を言い渡す判決ではなく、審議の結果到達した事実関係を決するものであるから、判決公判のような儀式的なプロセスはなく、特定の日時に被疑者、被害者、捜査機関の三者に対して審決書が交付され、かつ近日中に公式ウェブサイト上で審決書全文が公報される。

コメント

犯則と処遇(連載第43回)

2019-04-16 | 犯則と処遇

37 真実委員会について(上)―招集

 「犯則→処遇」体系における捜査手続きでは、捜査機関が捜査を完了した後、全証拠がいったん人身保護監の元へ送致される。
 そのうえで、人身保護監は証拠を全体的に検討するが、その際、前回見た捜査時効についても判断する。捜査時効を決定しない場合でも、なお証拠不十分と判断する場合は、捜査機関に対し追加捜査を命じ、差し戻すこともできる。
 差し戻さない場合、人身保護監は真実委員会を招集するかどうかを判断する。真実委員会とは、事件のつど招集される非常置の司法機関であり、その役割は犯則事件の真相解明と事実認定に限局され、処遇を言い渡すことはない。言わば、純粋の真相解明機関である。  

 真実委員会を招集するかどうかの基準として、被疑者がこれを求めている場合は必ず招集するが、被疑者が求めていない場合でも、事案の重大性や社会的関心の程度によっては人身保護監の裁量で招集することができる。
 真実委員会は真実委員として名簿に予め登録された中から選任される委員長を含む二名の法律家とくじで抽選される二名の一般市民、さらに当該事案の真相解明に適した法律以外の専門家一名を加えた計五名で構成される。これら真実委員の選任手続きは人身保護監が主導する。  

 この選任手続きが完了した後、審議開始前に証拠調査手続きが行なわれる。予備調査は、真実委員会に提出される証拠の整理を目的とし、常勤専従の証拠調査員によって主導される。この時、共犯者を含む全被疑者及びその法的代理人に全証拠が開示される。

 被疑者側は、証拠の収集過程に違法性を認める証拠(違法な取調べによる自白を含む)については、排除の申立てをすることができる。申立てを受けた証拠調査員は調査のうえ、申立ての理由ありと認めるときは、証拠適格を欠く証拠として当該証拠を排除する。

 一方、証拠調査員は、証拠の信用性の度合いによって以下のような五段階のランク付けをし、信用度0の不適格証拠を排除したうえ、信用度別に整理された証拠一覧表を作成する。

○信用度4:S級証拠
ほぼ確実に個人を特定できる指紋やDNAなどの科学的証拠。

○信用度3:A級証拠
S級証拠以外の科学的証拠や精度の高い画像・映像証拠。

○信用度2:B級証拠
任意性が認められる被疑者の自白や信頼できる目撃証言、科学的証拠や画像・映像証拠以外の状況証拠で、事件との関連性が高度なもの。

○信用度1:C級証拠
B級証拠以外の状況証拠。

×信用度0:不適格証拠
伝聞証拠や被疑者の人格像に関する性格証拠、内容に整合性を欠く自白、不確実な目撃証言、プロトコルに従っていない科学的証拠。なお、違法に収集された証拠は、それ自体としては信用度が高くても、不適格証拠に準じて扱う。

 なお、証拠調査員は証拠の信用度の調査に必要な限りで、被疑者のほか、担当捜査員を含む証人を召喚し、聴取することができる。
 また、調査の結果、C級証拠しか見出せなかった場合は、真実委員会による審議不適事案として、人身保護監に報告しなければならない。報告を受けた人身保護監は、さらに検討のうえ、改めて捜査機関に捜査を継続するか、捜査を打ち切るかを勧告する。

コメント

犯則と処遇(連載第42回)

2019-04-15 | 犯則と処遇

36 時効について

 通常は捜査→訴追という流れを取る「犯罪→刑罰」体系では、公訴時効という概念により、そもそも捜査自体が実施されない場合がある。公訴時効制度を認めるどうかは政策の問題であり、一切認めないこと、あるいは殺人など一部の重罪に限り時効を認めないことも政策的裁量のうちである。  

 その点、「犯則→処遇」体系においては、そもそも捜査→訴追という流れが想定されないため、公訴時効なる概念も成り立たないことになる。とはいえ、あらゆる犯則行為を恒久的に百年・千年でも捜査し続けるということは現実的に不可能かつ無意味でもあるから、どこかで時間的なリミットを設ける必要はある。

 そのような捜査の時間的なリミットとして、「捜査時効」という制度が用意される。これは年月の経過により、犯則行為を立証するに足りる証拠が散逸し、あるいは経年劣化し、もはや真相解明ができない場合に認められるリミットである。  
 従って、捜査時効は犯則行為の発生から何年経過という年数で形式的に区切られるものではなく、捜査機関が収集した証拠の量と質とによって個別的に判断されるものである。そうした判断に基づき、捜査時効を宣言するのは人身保護監の役割である。

 すなわち、人身保護監は捜査を完了した捜査機関から送致を受けた全証拠について検討したうえで、長年月の経過により犯則行為を立証・解明するに足りる証拠がないと判断すれば、捜査時効を決定し、当該事案についての究明を打ち切ることになる。人身保護監による捜査時効の決定は確定的であり、その後に何らかの新証拠が発見されても覆されることはない。

 捜査時効には二つの例外がある。一つは被疑者が特定され、指名手配されている場合である。この場合は、被疑者の死亡が公式に確認されるまで、捜査時効にかかることはない。もう一つは、指紋またはDNA証拠のように、個人の同一性が高度な蓋然性をもって証明できる生体証拠が採取されている場合である。ただし、この場合は、当該生体証拠が犯人以外の別人のものでないことが確実であることを要する。

 こうした「捜査時効」とは別に、「処遇時効」という制度がある。処遇時効とは、犯人と特定された者に対して課せられる各種の処遇に関する時間的なリミットである。
 矯正と更生のための各種処遇は、犯行者に対して犯行時から時間をおかずに課することが最も効果的である。極端な例であるが、20歳の時に犯した犯則行為について、100歳の時に処遇を受けても、十分な効果は得られず、処遇を課すことに意味はない。

 そこで、処遇に関しても時間的なリミットが必要となるが、これも、犯行時から一定年数の経過により形式的に区切られるのではなく、当該犯行者に対する処遇の効果いかんにより、実質的に決定されるべきことである。  
  そうした実質的な処遇時効の判断と宣言は、後で見る矯正保護委員会の役割であるが、処遇時効の決定も確定的であり、決定後に覆されることはない。

コメント

共産論(連載第27回)

2019-04-12 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(6)裁かない司法制度が現れる

◇共産主義的司法制度
 三権分立論の祖にして自らもフランス革命前の世襲司法官であったモンテスキューは、司法権を“恐るべき権力”とみなし、「裁判権力とは言わば無」という象徴的な表現で司法権の徹底的な抑制を説いたのだが、ブルジョワ国家では文字どおりに裁判権力を無にすることはできないことを彼は知っていたからこそ、そう比喩的に説いたのだった。
 ブルジョワ国家で裁判権力を無にできないのは、資本主義的貨幣経済では個人にとっても企業体にとっても「資本」となる金にまつわる紛争が絶えることはあり得ないからにほかならない。実際、殺人のような生命に対する犯罪ですら、その動機ないし背景には金銭問題が絡んでいることが極めて多い。
 これに対して、貨幣経済が廃される共産主義社会では当然にも、金にまつわる紛争は皆無となる。とはいえ、およそ人間社会に紛争は付き物であるとすれば、紛争を公的に処理する司法権力の必要性自体はなくならないだろう。
 しかし、司法制度の内実は大きく変革される。すなわち、現在我々が当然のように受け入れている壇上から人を裁く裁判所という権威主義的な制度は 消え失せ、それに代えて、人を裁かない紛争処理制度が現れる。
 こうした共産主義的紛争処理制度―これを広い意味で共産主義的司法制度と呼ぶ―は、三権分立という発想を採らない民衆会議体制の下では、「独立」の権力ではなく、民衆会議が掌握する民衆主権の一内容ということになる。以下では、その一端を素描してみたい。

◇衡平委員と真実委員会
 共産主義的紛争処理制度の二大支柱は、衡平委員と真実委員会である。いずれであれ、裁判所のように「判決」という形で上から強制的な解決を与えるシステムではなく、より緩やかで仲裁的な解決を目指すシステムである。
 衡平委員とは民事・家事紛争に際して、紛争当事者の間に入って双方の主張を聞き取り、調停を行なう専門委員である。衡平委員は原則として単独で対応するが、複雑な事件では必要に応じて二名で担当することもできる。
 貨幣経済が廃される共産主義社会では当然にも金銭をめぐる紛争は消滅し、法的紛争の大半は家族・親族関係の家事紛争になると予測されるため、衡平委員のような制度は適合的なはずである。
 他方、真実委員会は犯罪―前回見たように、共産主義社会では反社会的な犯則行為として把握されるようになる―の真相解明に当たる合議制機関であり、捜査機関が捜査を遂げた後、後で述べる人身保護監による請求を経て招集される。機能としては、刑事裁判の真相解明に相当するが、刑事罰等の処分を下すことはなく、真相の解明・確定のみを行なうものである。(※)
 なお、衡平委員は法律家の中から各市町村ごとに任命される常勤職であり、真実委員はより広域の地域圏ごとに法律家のほか、当該事案にふさわしい有識者、代議員免許を有する一般市民の中から事案ごとに選任される非常勤職である。いずれも民衆会議によって任命される。
 任命権を持つ民衆会議は連合領域圏と統合領域圏では異なり、連合領域圏の場合は連合民衆会議と準領域圏民衆会議の双方が二元的に持つが、統合領域圏の場合は全土民衆会議とするか地方圏民衆会議とするかは任意でよいだろう。

※少年非行事案の処理に当たる少年委員の制度も想定されるが、ここでは割愛する。

◇矯正保護委員会
 共産主義社会における最も重要な変革の一つは、刑罰という制度が廃されることである。資本主義社会において犯罪の大多数を占める金銭絡みの犯罪全般が根絶されれば、なお残る少数の反社会的な犯則行為は刑罰をもって制裁されるべき罪悪というより療法的な対応で臨むべき一種の病理であるとの科学的な認識が民衆の間にも広く行き渡るだろうからである。そうなれば、刑罰制度に代わる新しい科学的な矯正処遇の諸制度も発達していくはずである。
 それに対応して、犯則行為者に対する矯正保護処遇を課する合議制機関として矯正保護委員会が置かれる。この制度は、先の真実委員会による解明を経て、犯則行為者に対して医学的・心理学的・社会学的な調査を経て最適の処遇を課することを目的とする。
 矯正保護委員会は矯正保護の専門的知見を有する三名の有識者で構成される。任命権を持つ民衆会議については、衡平委員・真実委員会に準じる。

◇護民監
 護民官とは古代ローマにおいて平民の権利利益を擁護することを重要な任務とした古い歴史を持つ公職であるが、裁判所なき共産主義的司法制度において新たにこれをよみがえらせることができる。
 ここでの新たな護民官は、現代的な基本的人権擁護・市民的権利の擁護を任務とする監督的司法職であり、そのような趣意から、政治職であった古代ローマの護民官とは区別して、「護民」の同音異字を充てる(ただし、これは漢語特有の語変換で、英語ならいずれもtribuneである)。
 護民監は、最も広範囲な権限を持つ一般護民監と、個別の専門分野を持つ専門護民監の二つの体系に分かれる。一般護民監は各圏域の民衆会議によって任命され、各民衆会議管轄下のあらゆる機関を対象とし、法令適用・法執行をめぐる不服・紛争の解決及び法令順守の監査にも当たる。
 専門護民監として最も主要なものは、人身保護に専従する人身保護監である。その最も重要な任務は犯則司法の分野で、身柄拘束令状や捜索差押令状、通信傍受、監視撮影等の監視令状等各種の強制捜査令状の発付とそれに付随する被疑者及び被害者の権利擁護、さらに前回見た真実委員会の招集や再審議請求などを中心的な職務とする。
 それ以外にも、私的か公的かを問わず、不法・不当な拘束状態にある人やその親族、第三者の請求に応じ、人身保護令状を発して直接に身柄を解放する任務も持つ。
 人身保護監は広域自治体である地方圏(連合型の場合は、準領域圏)の民衆会議が地域ごとに管轄を定めて任命するが、その職権行使は常に単独で、かつ民衆会議からも独立して行なう。
 その他、専門護民監には、中間自治体(郡)及び大都市ごとにそれぞれの民衆会議によって任命されるものとして、情報護民監、労働護民監、反差別護民監、子ども弁務監などがあり、民衆会議の政策により、必要に応じて新設、統廃合が可能である。

◇法理委員会
 あらゆる紛争処理のプロセスにおいて、該当する法令の解釈をめぐって争いが起きることもある。三権分立テーゼの下では、立法府が立法した法律の解釈を司法権に丸投げするという処理が常識化しているが、民衆会議体制はそのような非民主的・無責任な対処はせず、法令解釈に関する紛争を審理する機関として、各圏域民衆会議に設置される法理委員会がある。
 これは民衆会議の常任委員会の一つでありながら、憲章(憲法)を除く法令全般に関する最終的な有権解釈権を持つ専門委員会であり(※)、その委員は全員が法律家で構成され、民衆会議特別代議員の地位を持つ。特別代議員は民衆会議の審議に参加するが、票決権は持たないオブザーバー職である。

※憲章の解釈に関しては、憲章の改正問題を担当する特別委員会である憲章委員会が併せて行なう。そのため、憲章委員会の委員は一般代議員と憲章解釈を専門とする法律家から成る判事委員(特別代議員)に分かれる。

◇弾劾法廷
 裁判所制度を持たない共産主義的司法制度にあって、例外的な裁判所制度として、公務員に対する弾劾法廷の制度がある。
 その代表的なものは、民衆会議代議員及び民衆会議が任命する公職者の汚職、職権乱用等の非違行為を審理する特別法廷である。ただし、弾劾法廷の判決は刑罰ではなく、罷免や公民権停止・剥奪という形で示されるので、刑事裁判所よりは行政裁判所に近い性格を持つ。
 民衆会議弾劾法廷は事案ごとに各圏域民衆会議の決議に基づいて設置される非常置の法廷であり、捜査・訴追に当たる検事団及び判事団は民衆会議が任命する法律家で構成される。
 その他、弾劾法廷に属するものとして、公務員による人権侵害事案を審理する非常置の弾劾法廷として特別人権法廷や公務員及び公務員に準じる公人の汚職事案を審理する常置の公務員等汚職弾劾審判所があるが、これらの詳細もここでは割愛する。

コメント

共産論(連載第26回)

2019-04-11 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(5)警察制度は必要なくなる

◇犯罪の激減
 近世以降の国家制度においては、日常的な治安維持に専従する警察という制度が定番となった。警察=policeはまさに都市国家ポリスと同語源であり、直接にはフランス語で統治を意味する言葉であった。つまり国家統治を担保する強制権力が警察権であり、それを組織的に行使するのが警察機関である。
 その意味で国家と警察は相即不離の関係にあり、国家ある限り警察制度の需要もなくならないだろう。実際、警察は国家の護持そのものを存在理由としており、反国家的犯罪者の検挙を重要な任務としていることも世界共通である。
 とはいえ、国家という制度そのものが廃される共産主義社会では論理必然的に警察制度も必要なくなる、と短絡できるわけではない。警察機関の最も大きな役割が日常の犯罪取り締まりにあることも世界共通だからである。犯罪現象ある限り、警察制度の廃止は夢想として失笑されるであろう。
 しかし、共産主義社会では事情を大きく異にする。これまでにも述べてきたように、貨幣経済が廃される共産主義社会においては、少なくとも金にまつわる犯罪は絶滅する。そして、犯罪の大半に金が絡んでいるという事実を考えれば、金にまつわる犯罪の絶滅は治安情勢のまさしく革命的な向上を保証するであろうことは確実である。
 とすれば従来、ほとんど人類的常識となってきた警察制度の必要性にも疑問が呈されるであろう。少なくとも、重厚な物理力を備えた警察制度は必要なくなる。とはいえ、人間の哀しいさがとして、他人の権利を侵害する行為は共産主義社会でも根絶される見込みはなさそうである。
 しかし、そうした権利侵害行為はもはや道徳的な罪悪としての犯罪というよりは、反社会的な犯則行為として把握されることになるだろう。そうした犯則行為を取り締まる機関の必要性は否定されないが、それがもはや伝統的な警察制度である必要はなくなるのである。以下、そうした非警察的な取り締まりのあり方の一端を示してみよう。

◇警防団と捜査委員会
 犯罪の取り締まりは、多くの諸国で防犯から捜査まで警察が包括的に所管する体制が確立されつつつあるが、それにより警察が強大化し、程度差はあれ、警察国家化が進行している。これに対して、共産主義的な犯則の取り締りは、防犯と捜査を明確に分離する。
 そのために、地域社会の最前線で主として防犯活動に当たる民間組織として、警防団が設立される。警防団は市町村ごとに組織される民間の防犯組織であるが、単なる啓発団体ではなく、その要員は基幹職員を除き基本的に非常勤ながら警備任務に必要な技能を訓練された準専門職である。  
 警防団の活動は交番を通じて行なわれるが、警防団はあくまでも民間団体であるので、正式な捜査権限は持たず、基本的には巡回警邏活動と通報を受けての犯行現場への初動(即応対処を含む)、現行犯人の逮捕が任務となる。ただし、ごく軽微な犯則については事案調査と犯行者に対する訓戒の権限を持たせることは合理的であろう。
 一方、警防団からの連絡・通報を受けて正式捜査に従事する機関として、捜査委員会が設置される。これも警察という形態ではなく、非警察的かつコンパクトな専門捜査機関である。
 委員会という名称のとおり、捜査官から昇進した委員と外部委員から構成される合議機関である。委員会は個々の事案の捜査を指揮することはないが、捜査員の執務規準となる捜査規範の制定・改廃を主要任務とし、組織の改廃・新設や人事・懲戒を統括する。
 捜査委員会の本体は科学捜査や緊急介入を含む捜査活動に係る専門知識を持つ専任捜査員が主体となる捜査機関であり、警防団限りで処理される軽微事案を除く事件が発生した場合、上記警防団の初動を引き継いで正式捜査に当たることになる。この機関は、ある程度広域を所管すべく、地方圏(連合型の場合は準領域圏)の単位で設置されることが望ましい。(※)

※捜査委員会は、小さな領域圏では領域圏の単位で設置することが合理的である。連合領域圏では、連合と準領域圏のレベルに二重に設置することになるだろう。また統合領域圏でも、中央に全土レベルの捜査や指名手配を管理する捜査共助機関を設置することは有益である。いずれの形態でも、地区ごとに支部が設置される。

◇交通安全本部と海上保安本部 
 多くの諸国で警察の権限となっている交通取り締りについては、交通秩序を維持し、自動車事故の処理・捜査を専門的に行なう機関として、地方圏(または準領域圏)の単位で交通警邏隊を統括する交通安全本部が設立される。
 また交通安全本部の海洋版と言える機関が、沿岸警備隊を統括する海上保安本部である。この機関は、海洋の一体性に鑑み、領域圏の単位で設置することが効率的であろう。(※)

※すでに見たように、共産化された世界において排他的な領海を有する主権国家は存在せず、地球上の全海域は基本的に世界共同体(世共)が管理権を持つが、各領域圏は世共との間で協定された所管海域を保持し、その海域の優先航行及び漁業権を保障される。

◇特殊捜査機関
 捜査委員会とは別に、特定の犯則事件の捜査に限局された専門捜査機関として、いくつかの特殊捜査機関が設置される。交通安全本部と海上保安本部も交通事犯に関してはそうした特殊捜査機関の一つであるが、それ以外に―
 例えば、無主物である土地に対する不法占拠や不法取引の摘発を専門的に行なう一種の経済捜査機関として、土地管理機構捜査部がある。これは、名称どおり土地管理機構という全土機関の一部門である(第13回を参照)。
 さらに、次回見るように、主として公務員の汚職行為を審理する一群の弾劾裁判の制度があり、この弾劾裁判にかかる事案を集中的に捜査し、弾劾法廷に訴追する機関としての弾劾検事団も特殊捜査機関の一環に包含される。これは事案ごとにそのつど設置される非常設型の捜査・訴追機関であり、弾劾検事は全員その都度任命された法律家で構成される。
 その他、各領域圏の実情に応じて、その他の特殊捜査機関を設置することは裁量の範囲内であるが、特殊捜査機関の数が増大しすぎることは、捜査機関同士での管轄争いなど無用の混乱の元となることが留意される。

コメント

共産教育論(連載第7回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(6)社会性教育
 共産主義社会=無階級社会という定式も根強い。ここで言う「階級」とは通常、有産階級/無産階級といった財産による経済的な階級、またはそれとほぼ相同的な資本家/労働者階級といった社会的な階級を指している。
 真の共産主義社会は貨幣経済によらないのであるから、貨幣の持ち高に応じて所属階級が決定される上掲のような意味での経済的‐社会的階級制が存在し得ないことは明らかである。
 その代わり、貨幣経済によらずして生産活動が行なわれ、かつ民衆自身によって社会運営がなされる共産主義社会では、資本主義社会とは比較にならないほどの緊密な社会的協力関係を必要とする。
 従って、真の共産主義社会は、狭い意味での階級制にとどまらず、―党幹部‐一般党員‐非党員といった政治的な「階級」も含め―、人種/民族、障碍、性別/性的指向、容姿等々、およそ人をその属性によって等級的に差別しない社会、すなわち非差別社会である。
 そのような社会が単なる理想郷でなく、現実の社会として形成されるためには、社会成員に高度な社会性が備わっていなければならない。
 一般に社会性と言うと、集団への帰属や協調といったことが想起される。しかし、そのような集団主義的な強制的社会性は共産主義社会のそれとは異質である。共産主義社会における社会性とは、集団的ではなく、むしろ多様な属性を持つ社会成員相互の尊重のうえに成り立つ内発的で自然な社会性のことである。
 そのような意味での社会性の前提には、反差別という倫理感覚が不可欠である。そこで、共産教育における社会性教育の軸として、反差別教育が据えられる必要があるのである。反差別教育とは、単に理知的な倫理観として「人を差別してはならない」ということにとどまらず、無意識的なレベルでも人を差別しないという習慣が自然に体得されるような教育である。
 このような教育は、物心ついてからの学習ではすでに手遅れであって、まだ事物の弁別がつかない早幼児期から開始される必要がある。具体的には、基礎教育課程前の保育段階から、反差別教育が実施される。
 ちなみに、共産教育における教育課程としての保育と資本主義社会における福祉サービスとしての保育とは、同語であっても内容上大きな相違点があるが、これに関しては次の章で改めて見ていくことにしたい。

コメント

共産教育論(連載最終回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度 

(5)「大学」の自治  
 民衆会議教育委員会は教育制度全般の立案・施行に関わるから、基礎教育課程のみならず、生涯教育課程をも所管する。しかし、生涯教育課程は基礎教育課程に比べても、成人を対象としたより自主的な学修を旨とするから、「大学の自治」のような原理による制度的な自主性の保障が必要である。  
 ただ、知識階級制をベースとしない共産主義的な教育課程にはいわゆる大学制度は存在しない。従って、論理的には「大学の自治」なる原理も存在しないはずである。とはいえ、生涯教育を担う中心的な二つの教育機関、すなわち多目的大学校及び専門職学院の内実は「大学」に近い。  
 しかし、いずれの教育機関も「大学」とは異なり、教授を頂点とした職階制に支配されない。教員はすべて同格的であり、教員としての身分に上下関係はない。また大学のように学部に分岐することもないため、学部長のような中間管理職も存在しない。  
 ただし、専門職学院は専門系統ごとに複数の学科に分かれることが多いため、各学科を束ねる学科長のような中間管理職が置かれる。一方、多様な講座が開設される多目的大学校は講座系統ごとに緩やかな学群を構成するのみで、学群ごとに中間管理職が置かれることもない。  
 多目的大学校も専門職学院も、その基本的な内部組織は共通する。すなわち教員会、一般職員会、学生会の三組織が常置される。一般職員会と学生会は任意団体としての自治会ではなく、教員会と同格的な正式の内部組織である。  
 教員会は常勤教員全員を自動的会員、非常勤教員のうち希望者を準会員とする組織で、教員会長たる常勤教員が自動的に学長となる。一般職員会と学生会は代議人で構成される代議機関であるが、それぞれの利害に関わる事項に関しては内部組織において教員会と同格であり、教員会がすべてにおいて支配権を持つものではない。 
 学内の最高意思決定は、上記三組織の代表者三名から成る代表者会で行なわれる。この決定には民衆会議も介入することはできない。私立の専門職学院の場合は、経営母体となる学校法人が存在するが、学校法人の理事会といえども、代表者会の決定に介入することは許されない。  
 このような意味で、多目的大学校と専門職学院には高度な自治が保障されることになる。これは形式的な意味での「大学の自治」ではないが、実質的・機能的な意味では大人が学ぶ「大学」の自治と呼ぶことができるだろう。それによって、二つの生涯教育機関は外部の干渉から護られるのである。

コメント