第1部 略
第4章 革命実践と死
(4)バクーニンとの対決
第一インターの分裂
第一インターの内部ではパリ・コミューンの前後からマルクス・エンゲルスを支持するグループとロシア出自の無政府主義者ミハイル・バクーニンを支持するグループとの間での対立が激化していた。
1814年生まれのバクーニンはロシア貴族の出自でマルクスとはほぼ同世代に当たり、マルクスもパリ時代から彼と交流を持っていた。バクーニンはまたマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』最初のロシア語訳者でもあった。
しかし二人の性格と思想は大きく異なり、マルクスが冷静な理論派であり、社会革命としてのプロレタリア革命の条件・時機と方法を慎重に見極めようとするのに対し、バクーニンは農民やルンペン・プロレタリアートによる一揆的な革命による国家の廃止を追求する主意主義的な直接行動派であったから、二人のそりが合うはずもなかった。
(2)で触れたバクーニンも参画した平和自由連盟への第一インターの参加をめぐる問題の背後にもマルクスとバクーニンの対立が見え隠れするが、第一インター内部では1869年のバーゼル大会でマルクス派とバクーニン派の対立が表面化した。そしてパリ・コミューン敗北後最初の大会となった第五回バーゼル大会では、ついにバクーニン派除名という事態となった。その理由はバクーニンらがセンターの支配または解体を策動しているというものであった。
マルクスは総評議会の会合には熱心に出席していたが、大会となると多忙や病気等を理由に初回からすべて欠席していたにもかかわらず、第五回に限ってはエンゲルスとともに初めて大会に乗り込み、バクーニン派除名決議の採択を主導したのであった。バクーニンと対決する彼の意気込みが感じられる行動である。
バクーニン派除名を決議した第五回大会は、同時に総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これはバクーニン派除名による第一インターの内部分裂を新天地アメリカで回復せんとの狙いによるものであったが、運動中心のヨーロッパを離れたことは第一インターの事実上の活動停止を意味するものにほかならなかった。
バクーニン批判草稿
バクーニンは第一インターを除名された直後の1873年、主著『国家と無政府』を公刊し、マルクス批判を展開した。これに対して、マルクスも74年から75年にかけて同書に全面的に反駁する草稿「バクーニンの著書『国家と無政府』摘要」を執筆したが、公刊するには至らなかった。しかし、この草稿は後期マルクスの国家理論・政治理論の到達点をかなり率直に示している点で重要である。
バクーニンによるマルクス批判の中心は要するに、マルクス理論に従いプロレタリアートが革命によって支配階級の地位に就いても、国家を廃止しないならば必ず抑圧は残るだろうという点にあった。これは国家の廃止を説く無政府主義者バクーニンにとってはごく当然の問題意識であった。
これに対するマルクスの回答は、プロレタリアートが支配階級となってもまだブルジョワ階級が闘争すべき相手として残存し、ブルジョワ的社会組織と経済的諸条件が存続している限りはそれらを力で除去せざるを得ず、そのために国家はなお必要であるというものであった。
これは前節末尾で留保しておいた問題、すなわちマルクスが「プロレタリアート独裁」と言うときの「独裁」とはいかなる意味かという問題に関連しているが、その答えは革命後の反革命反動に対処するための、言わば「防御的独裁」ということになるであろう。
かようなマルクスの認識はやはりパリ・コミューンの無残な敗北を目の当たりにした経験に基づくものであろうし、それはまた彼が執筆した第一インターの声明の中でも、全般に穏健的であったコミューンが実行した数少ない抑圧措置であるブルジョワ系新聞に対する発禁処分やパリ大司教以下人質60人余りに対する超法規的処刑をすら擁護してみせたゆえんでもあったであろう。
しかし、「プロレタリアート独裁」は永遠に続くわけではない。マルクスは75年に書いた論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」(通称「ゴータ綱領批判」)ではさらに一歩を進め、「プロレタリアートの革命的独裁」を現存資本主義社会と将来の共産主義社会との間の「革命的転化の時期」に対応する「政治的な過渡期」の国家形態と規定している。
マルクス的国家論
ではこうした「過渡期」を過ぎて共産主義社会に到達した暁に、国家はどうなるのか。これについては先のバクーニン批判草稿の中に一つの答えが示されている。
それによれば、階級支配が消滅する共産主義社会では今日の政治的な意味での国家はなくなる。つまり、(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るというのである。
言い換えれば、共産主義社会では階級支配の道具としての政治国家は廃止される。しかしおよそ国家が廃止されるのでないことは「ゴータ綱領批判」でも「共産主義社会の未来の国家制度」という言い方がなされ、「共産主義社会では国家制度はいかなる変化をたどるであろうか?言い換えれば、そこでは現在の国家の諸機能に類似したいかなる社会的諸機能が残るであろうか?」という問いが立てられていることからも明らかである。この自問に対する自答の一端が先のバクーニン批判草稿に示されていたわけである。
要するに政治国家としてのプロレタリアート独裁を通過した国家制度の到達点は、政治的性格を失った、言わば統治しない国家、しかも協同組合(生産協同組合)の現実的意志がそのまま国家意志でもあるような経済国家だというのがマルクスの所論である。このことは、若き日の『ドイツ・イデオロギー』の中ではより抽象的な形で「共産主義の編成は本質的に言って経済的なもの」と述べられていたところとも符合している。
しばしばマルクスは、その信奉者からも、拒否者からも、階級廃絶に伴う国家の死滅を説いたと喧伝されてきたが、決してそうではない。正しくは、統治機能を有しない協同組合連合的国家の形成を説いたのである。もちろん、そのような政治国家ならぬ経済国家というものが果たして現実に存立し得るかどうかという問題はまた別である。