前回までで本論は完結していますが、まだ積み残されている大きな宿題として、国家主権という大問題があります。
国際社会から死刑廃止の勧告を受けたとき、多くの死刑存置国が持ち出す抗弁は、「死刑は国家主権に属する」というものです。要するに、国際社会は国内問題に対して干渉するな、というわけです。
日本政府のお得意は、第13話で見たように「国内世論」ですが、これも実質的には「死刑の存廃は国家が把握する国民世論の動向で決まる」という含みから、やはり死刑を国家主権の問題として主張しようとする議論の亜種なのです。
死刑廃止論者が言うのも妙ですが、こうした死刑=主権説には一理あります。というのも、合法的に人を殺す権利は国家主権の名においてしか認められ得ない特権であり、伝統的にも合法的に人を殺す権利こそ、まさに主人の権利たる主‐権の最重要の内容であったからです。この理は、国家の主人が国王から国民に変更されても基本的に変わっていません。
こうした国家主権の内容を成す合法的な殺人権の対内的な作用が死刑であるとすれば、それと対になる対外的な作用が戦争です。
こういう視点で世界を見渡してみると、今日「死刑廃止の伝道師」といった観のある欧州(EU)は、死刑を放棄したけれども戦争は放棄していません。一方、米国のように死刑も戦争も共に放棄していない諸国も残されています。
日本はと言えば、憲法上戦争は放棄していますが、死刑を放棄していないことは周知のとおりです。もし日本が死刑も放棄してしまったら、国家主権を丸ごと捨てるに等しいことではないか━。大衆レベルとは別に、日本が国家として死刑存置に執着する本当の理由は、そんなところにあるのかもしれません。
もっとも、日本の場合、憲法上交戦権の放棄及び潜在的な戦力を含むあらゆる戦力の不保持という徹底した形で戦争放棄が宣言されていながら、実際上は自衛隊という形で事実上の戦力を保有していますし、将来の改憲によってはっきりと再軍備が認められる可能性もありますから、日本の「戦争放棄」とはあくまでもカッコ付きのものではありますが。
実際のところ、戦争も死刑も放棄した国はまだ一部の小国にとどまっているのが実情です(北欧アイスランドや中米コスタリカなど)。
死刑廃止を揺り戻しなく本源的に定着させるためには、国家主権という政治的‐法的観念にメスを入れる必要があるでしょう。逆に、国家主権をことさらに高調する思想にあっては、たいてい死刑制度も強く肯定される傾向が認められます。
この議論は単なる死刑の存廃を超えて、国家の存廃という大問題に発展するので、ささやかな本連載ではもはや論じ切れません。この点、読者の皆様においてもお考えいただくことを願って、連載を終えます。(了)
全面的死刑執行停止(モラトリアム)の後に、国連死刑廃止条約を批准したうえで、死刑廃止のための国内法改正を進めていくことができる。
今回は、これまでのまとめの意味も込めて、死刑廃止へ向けた実際のプロセスをどう進めていくことができるかを詳論します。
ただ単に死刑廃止!と叫んでも、明日突然死刑を廃止することなどできるものではありません。従って、政府の世論調査の中で、死刑廃止を支持する人に対して、「死刑をすぐに全面的に廃止する」ことの是非を追加質問しているのは無意味です。
死刑廃止は、インスタント食品のように「すぐに」できるようなものではなく、死刑制度の全廃という最終的なゴールへ向けた一つの政治的プロセスですから、そのプロセスに数十年あるいはそれ以上かかる国もあれば、数年でやってのける国もあるというように、各国における現実の死刑廃止過程は実に様々です。
こうした死刑廃止のプロセスとしては、初めから国内法の改正プロセスを開始するやり方と、死刑廃止を定める国際条約の批准を通じて国内法の改正プロセスへつなげるやり方とがあります。
この点、日本のような国連加盟国に関する限り、現在では国連死刑廃止条約(以下、本稿では単に「条約」ということがある)がすでに批准待ちの状態にありますから、この条約の批准を通じて死刑廃止のプロセスを進めていけば、一つの国際法的な手続きに従って死刑廃止へたどりつくことができます。
このように、条約の批准を通じた死刑廃止には、死刑廃止のプロセスを単純明快にすることができる―従って、廃止までの時間を短縮することもできる―という点でメリットがあります。
同時に、条約の批准から入っていく方法には、死刑廃止を純粋の国内刑事政策の問題でなく、国際的な人権外交課題として処理できるというメリットもあります。
純粋の国内刑事政策として死刑を廃止することが容易でない国では、死刑廃止を自国の信用がかかった国際的な人権協力に関わる外交課題と位置づけることによって、国内的にも合意形成を目指す道が開かれるのです。
しかし、条約批准を通じた死刑廃止のメリットとしてより重要なのは、死刑廃止がひとまず実現した後の安易な死刑復活を阻止することができるということです。
少なからぬ死刑廃止国で、重大凶悪事件の発生をきっかけとして死刑廃止反対派が死刑復活を企てる例が見られます。こうした死刑復活動議を阻止するための方法として、ドイツのように自国の憲法に死刑廃止の明文規定を置くことも考えられますが、日本のように憲法改正の要件が厳格な国ではこうした規定の新設も困難です。
そこで、条約を批准しておけば、法体系上条約は国内法よりも優位するため、条約に違反する死刑復活動議自体が出しづらくなります。それでも死刑復活を強行するならば、前に指摘した憲法98条2項が定める批准済み条約の誠実遵守義務に違反することにもなりますから、安易な死刑復活を阻止しやすくなるわけです。
以上のような次第で、日本の場合には条約の批准を通じた死刑廃止の方法が特に推奨されるのです。では、その場合、具体的にどのようなプロセスを踏んで死刑廃止を導くことができるのか、順を追って検討していきます(実際の手順は時々の政治情勢等により若干前後する可能性はあります)。
ステップ1:内閣による条約批准方針の決定
憲法上、条約の締結は内閣の権限とされています(73条3号)。従って、条約の批准に関してはまず内閣が主導することが必要となります。とりわけ、内閣の首班である内閣総理大臣が自らの施政方針として条約批准を明確に打ち出すことです。
ただ、日本の議院内閣制の下では総理大臣が単独で施政方針を決定することは事実上無理であり、政権与党(連立の場合は与党連合)で事前に条約批准を公約か公約に準じた重要政策として決定しておくことは必須の政治的手続きでしょう。
その際に、一つ検討しておくべき点があります。それは、第5話でも触れた戦時の軍事的重大犯罪に対する例外的死刑存置を定める条約2条を留保すべきかどうかという問題です。
この点、日本では戦争放棄をうたった憲法9条の存在から、そもそも「戦時」という状況は想定されておらず、実際にも今日の日本の法体系は「平時」と「戦時」を明確に分けていません。
ただ、かねてより刑法上、日本国に対する武力行使を想定した外患誘致罪(82条)と外患援助罪(83条)という二つの死刑相当犯罪があり、この二罪は実質的に見て条約で留保される戦時の軍事的重大犯罪に該当するのではないかとの指摘もあります。
そのうえに、2000年代に入っていわゆる有事法制が整備され、実質上「戦時」を意味する「有事」の概念が法体系上も認知されたことで、先の二つの刑法規定と合わせて、有事における例外的死刑存置を留保すべきであるという考え方もあり得るところです。
しかし、第5話でも言及したように、戦時(有事)における死刑制度は平時以上に濫用の危険が高いこと、とりわけ緊急性に名を借りた司法上の適正手続保障の制限が正当化されやすく、不公正な裁判に基づく死刑判決が乱発されるおそれがあります。
加えて、有事における例外的な死刑存置は元来憲法との矛盾性が厳しく指摘されてきた有事法制の強制的性格をいっそう強める結果となることも懸念されます。
こうしたことから、日本の場合、条約上の留保はせずに、原則どおり全面的死刑廃止を選択して条約を批准すべきものと考えられます。
ステップ2:内閣による条約署名(または加入)
条約の締結方法には、「署名‐批准」という正攻法のほかに、署名を省略していきなり「加入」してしまう方法もあります。
前者は、まず第一段階として条約に署名した後、しばらく時間を置いて正式な批准の手続に進むものですが、死刑廃止条約に関してはこの正攻法を採ることがベターではあるでしょう。
というのも、日本の裁判所は長きにわたって死刑判決を出し続けており、とりわけ2000年頃を境にして地裁レベルでの死刑判決が急増し始めたうえに訴訟促進策が推進された結果、上告審までの期間が短縮され、2004年頃からは最高裁レベルの確定死刑判決も急増したことから、2007年3月には死刑確定者数がついに100人の大台に乗り、以後も100人前後で推移し続けているのです。
こういう状況では何よりもまず、次のステップ3に見るような全面的死刑執行停止措置から入っていかざるを得ず、一定の時間的なゆとりを作り出すためにも「署名‐批准」方式を選択したほうがよいわけです。
もっとも、日本の内閣は一般に短命であることから、何代もの内閣をまたいで条約批准の方針を継承することには困難が伴うとすれば、いきなり加入するという電撃的方法も一考に値します。しかし、以下の議論では正攻法に従い「署名‐批准」の方法を採ることを前提にしていきます。
ステップ3:全面的死刑執行停止措置
すでに言及してきたように、日本の法制度上死刑執行命令は内閣でなく、内閣の一員である法務大臣の権限です。従って、条約批准の方針を決めた内閣の法務大臣であれば、方針決定後、自らの政治判断で全面的に死刑執行を停止するはずです。こうした合理的理由のある死刑執行停止は法務大臣の死刑執行命令の権限中に含み込まれていると解し得ることを第11話で論じました。
しかし、これはあくまでも大臣の政治判断に基づく暫定的な措置であって、内閣による条約署名後は内閣の責任において正式な全面的死刑執行停止措置(以下、単に「モラトリアム」という)を講じる必要があります。
この正式なモラトリアムの方法としては法律を制定するのが最も明確ではありますが、法案提出・国会審議に手間取ることも十分に予想され、条約署名に伴う一種の応急措置としてはふさわしくありません。
そこで、内閣の政令に基づいてモラトリアムを実施することが妥当と考えられます。これは要するに、過去の死刑確定者はもちろん、新規の死刑確定者についてもおよそ死刑執行を凍結するという内容の政令です。
もっとも、条約が最終的に批准され、発効したときは、締約国は条約に基づいて直接にモラトリアムの義務を負うことになるため、結局、この政令は条約が発効するまでの間の時限的なものということになります。
ステップ4:国会による条約批准の事前承認
憲法73条は、条約の締結に関しては、これを内閣の権限としながらも、但し書きで、「但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。」と定め、原則として国会の事前承認を要求しています。
この規定上、例外的に事後承認で足りる場合の「時宜」とは事前承認をとりつけるいとまもないほどに緊急的な事情のあることと解されていますが、死刑廃止条約に関してそうした事情は見出しにくいので、原則どおりに事前承認案件となるでしょう。
この点に関連して、死刑廃止条約は生命倫理に関わる内容を含むことから、その事前承認決議に際して、各党は党所属議員に対していわゆる党議拘束を外すべきかどうかが問題とされる可能性があります。
たしかに、死刑廃止条約は生命倫理に関わる内容を含んでいるとはいえ、例えば脳死臓器移植法のような純粋の生命倫理問題とは根本的に異なり、人権外交上の重要な懸案事項であるうえに、国内刑事政策の変更を要する効力を持つことからして、少なくとも政権与党(連立の場合は連立各党)は党議拘束を外すべきでないと考えられます。
これに対して、野党の対応は野党の判断に委ねてよいと思われます。党として条約の批准に正面から反対するという対応で臨む場合は党議拘束をかけることになるでしょう。
さて、仮に国会の事前承認が得られなかった場合は、署名だけで批准できない状態が続きますが、その場合、内閣は将来の承認に向けて鋭意努力を継続することになります。
ただ、日本国憲法上、国会の事前承認が得られない典型的な場合は、参議院で与野党逆転のいわゆる「ねじれ」が生じているため、参議院が批准を承認しないケースですが、こうした場合、憲法は法律案とは異なり、両院協議会を開いても意見が一致しないときは、衆議院の議決を国会の議決とすると定めています(61条・60条2項)。
このように、憲法上、条約の承認案件については、法律案よりも緩い要件の下に「衆議院の優越」が認められていることも、条約批准を通じた死刑廃止のプロセスを進める方法のメリットに付け加えることができるでしょう。
ステップ5:内閣による条約批准
国会の事前承認が得られた場合、いよいよ内閣は条約批准の手続きに入ります。そして、然る後に、条約が日本国について発効すれば、条約締結の手続きは完了です。これによって、日本国も晴れて条約の締約国となります。
締約国になると、条約に基づいてまずはモラトリアムの義務を負いますが、ここで署名の段階で導入されていたモラトリアム政令は廃止され、直接に条約に基づくモラトリアムに切り替わることになります。
このモラトリアムを定めた条約1条1項は特別な国内法によらずして条約が即、国内法としての効力を有する自力執行条項とされているため、改めてモラトリアムを規定した法律を用意する必要はありません。
ステップ6:死刑廃止のための国内法令の改正
条約締約国となると、モラトリアムとともに、死刑廃止のために必要なあらゆる措置(以下、これを「死刑廃止措置」という)をとる義務を負います。
その最大のものは、言うまでもなく、死刑廃止のための国内法令の改正です。現行法上、死刑は刑法にはじまって刑事訴訟法その他多くの法令にそれを前提とする規定が置かれており、一個の死刑法体系を形作っていますから、刑法改正はもちろんのこと、他の関連法令全般の改正が必要となります。
これはかなり大がかりな作業であり、内閣による種々の改正法案の作成・提出から、国会での審議・可決に至るまで、一定以上の時間がかかります。
それと並んで、第11話で提唱したような仮釈放付き終身刑の新装を行う場合は、別途刑法をはじめ関連法令の改正が必要となります。ただ、この作業は条約上義務付けられた死刑廃止措置に含まれない任意の法改正ですから、あえて必要がないとの判断であれば何も手当てする必要はありません。
ステップ7:全死刑確定者に対する政令恩赦
死刑廃止措置がすべて完了した後、死刑廃止過程の最後に位置するのが、この政令恩赦です。ここまで、モラトリアムによって全死刑確定者に対する死刑執行が凍結されていたとはいえ、かれらはまだ死刑確定者の地位を保っています。死刑が廃止されても、それだけでは廃止前に確定した死刑判決は効力を失わないため、政令による一斉恩赦が必要となるわけです。
この恩赦は特定の者に対する個別恩赦とは異なり、恩赦に値する個別的な事情が認められるか否かを問わず、政策的に実施される一斉恩赦です。具体的には、仮釈放付き終身刑が新装された場合は全死刑確定者を当該刑に恩赦減刑することになりますが、そうでなければ、死刑に代わって最高刑に昇格する現行無期懲役刑に恩赦減刑します。
ここで一つ波紋を呼ぶ問題が生じる可能性があります。それは、例のオウム真理教教団の教祖・松本智津夫以下、旧教団幹部の死刑確定者に対する死刑執行がなお未了であった場合、彼らまで含めた一斉恩赦は少なからぬ反発を呼ぶであろうということです。あるいは、彼らの死刑執行は完了していたとしても、オウム事件に匹敵するような大事件の死刑確定者が存在していれば同様の事態が生じ得ます。
かといって、こうした超弩級重大事件の死刑確定者だけを条約批准前に“駆け込み執行”するというようなやり方はあまりにも政治的であり、不公正です。従って、社会の反発はあっても、オウム幹部らや彼らに匹敵するような他事件の死刑確定者も含めて恩赦対象とせざるを得ません。
ここで、同様の事例として、アジアの西端に位置するトルコにおける死刑廃止過程が参考になります。トルコは、2004年に全面的な死刑廃止国となったのですが、それは政府発表で3万人という犠牲を出したテロ組織の指導者アブドラ・オジャランという超重大死刑囚を抱える中で実現されたのでした。
一般世論においても、政界においても、オジャランへの死刑執行を求める声は根強かったのですが、欧州連合(EU)への加盟を宿願とするトルコは加盟条件である死刑廃止を満たす必要があったことから、結局、裁判所の判決でオジャランを改めて終身刑に減刑したうえで、欧州人権条約の批准を通じて死刑廃止へ踏み切ったのです。
このような判決による減刑という方法は実質上恩赦に近い政治的な司法判断に基づくもので、日本の司法制度上は無理な対応ですが、こうしたトルコの経験から言えることは、死刑廃止を外交上の課題として受け止めることによって、オウム事件の比ではない犠牲を出したテロ事件の最高首謀者を実質恩赦して死刑廃止に至ることも決して不可能ではないということです。
トルコはアジア西端にあってEU加盟を宿願とするという特殊事情も手伝ったとはいえ、日本とも歴史的な友好関係にあるこの国の死刑廃止過程は、アジアの東端に位置しつつ欧州評議会のオブザーバー国という名誉ある地位を与えられている日本にとっても大いに参照すべき先例と言えるのではないでしょうか。
死刑廃止は死刑存置を望む国民世論に反し、ひいては民主主義を損なうものではないか?
「国民世論」は、日本政府が国連をはじめとする国際社会からの死刑廃止勧告に対して、決まって持ち出す論拠として定着しています。ここで言う「国民世論」とは、政府が自ら定期的に実施してきた死刑存廃に関する世論調査結果のことを指しています。
その直近のもの(本稿執筆現在)は、すでに一部ご紹介した2009年度実施の「基本的法制度に関する世論調査」に収められた調査で、そこでは死刑制度を支持する人が85.6パーセントと過去最高に上ったとされています。
政府による同種の調査は、1956年以来2019年まで11回実施されていますが、その結果を順に示すと次のとおりです(数字はパーセンテージ。カッコ内は廃止を支持する回答の割合)。
56年 65.0(18.0)
67年 70.5(16.0)
75年 56.9(20.7)
80年 62.3(14.3)
89年 66.5(15.7)
94年 73.8(13.6)
99年 79.3(8.8)
04年 81.4(6.0)
09年 85.6(5.7)
14年 80.3(9・7)
19年 80.8(9.0)
さて、こうして数値を並べてみて特徴的なのは、75年に死刑存置の回答が50パーセント台と過去最低を記録した後(逆に、廃止の回答は過去最高の20パーセント台)、おおむね80年を境に死刑存置の回答が回を追うごとにグングン上昇していって、2000年代に入り、ついに80パーセント超え(逆に、死刑廃止の回答は99年から一桁台に激減)を記録したことです。このまま“順調”に行けば、「死刑支持率」が90パーセントを超えるのも時間の問題かという観もあります。
この間の世界の情勢をみると、ちょうど1980年の国連総会に、当時の旧西独などが中心となって死刑廃止条約案が初めて上程され、国連レベルでの死刑廃止論議が本格化しています。この動きが89年の国連死刑廃止条約に結実し、今日に至っているわけです。
ところが、日本の世論調査では全く正反対に、1980年を境に、「死刑支持率」が急上昇し始め、「国民の圧倒的な大多数が死刑に賛成している以上は、死刑を廃止することはできない」ということが事実上の公理にまで至ってしまっているのです。
しかし、ここで不可解なのは、なぜ国際社会で死刑廃止への流れができ始めた1980年以降になって、日本の世論はまるでそれに逆らうかのような反転現象を示してきたのだろうかということです。日本人は、生来的に「死刑愛好」のサディスティックな(?)民族なのでしょうか。
決してそうではない証拠に、75年度世論調査では死刑存置の回答は6割を切っていたのでした。この70年代前半から中頃という時期には連合赤軍事件とか連続企業爆破事件など、後に主犯者の死刑が確定したテロ、リンチ事件も相次いで発生し、80年代以降よりもずっと殺伐としていました。
実は、80年代以降の国際社会における死刑廃止の流れに最も頑強に抵抗してきたのは、一般国民ではなく、法確証イデオロギーで固まった法務省及び死刑を体制維持の道具として利用してきた政権与党であったのです。
先の世論調査結果の数値はこうした国策とあまりにも見事に一致しているので、さほど疑い深くない人でも、世論調査ならぬ「世論操作」の疑いを抱いてしまうのではないでしょうか。
この点、先の世論調査結果の推移をよく見ると、94年度調査が一つの転機となっていることがわかります。この調査は89年の国連死刑廃止条約採択後最初のもので、なおかつこの調査で死刑存置の回答がその時点での過去最高を記録しているのです。
このような調査結果が出た一つの要因として、質問方法を変更したことが考えられます。それ以前の調査では、おおむね「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見に賛成か反対か」という質問を立てていたのですが、94年度調査では新たに「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」のいずれかを選択させる方法を採用しています。そして、先の73.8パーセントという数値は、このうち「場合によっては死刑もやむを得ない」を選択した人の割合であったのです。
しかし、「場合によっては死刑もやむを得ない」というのは、ストレートに「死刑を支持する」ということとは明らかに違います。それはまず、「場合によっては」という形であいまいな限定句が付されています。ここで「場合」とは果たして有事とか治安が悪化した時といった状況的限定のことなのか、それとも殺人罪といった罪種的限定のことなのか全く不明ですから、厳密には回答不能な選択肢です。
そのうえに、「やむを得ない」というのも、積極的に支持することとは異なり、「良くないけれどもやむを得ない」という含みのある消極的な容認の論理にすぎません。
要するに、73.8パーセントという数値はあいまいな限定付きの死刑容認論の割合を示したものにすぎず、積極的な死刑存置論の割合を示したものではなかったのです。そして、94年以降の調査ではいずれも同様の質問形式が踏襲されており、2004年度調査で初めて80パーセントの大台に乗ったのも、このあいまいな「限定付き死刑容認論」の数値でした。
ところが一方では、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた人に「将来も死刑を廃止しない方がよいと思うか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思うか」という追加質問を向けてもいます。その結果、09年度調査では「将来も死刑を廃止しない」と答えた人の割合が60.8パーセント、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と答えた人の割合が34.2パーセントとされています。
この「将来も死刑を廃止しない」という回答こそ、真の意味での死刑存置論なのですから、この数値をこそ前面に出すべきで、これと「将来的には、死刑を廃止してもよい」という「将来的死刑廃止論」の回答―ここでも、「状況が変われば」というあいまいな限定句が問題ですが―をひっくるめて、先のあいまいな「死刑容認論」の数値をはじくのはミス・リーディングです。こういう統計処理をすれば、当然大きな数値が表示されるわけです。
日本政府はこうして自ら実施する世論調査の質問方法や統計処理を細工することによって、水増しされた数値をもって、死刑廃止を勧告する国際社会に対する反論材料としてきているのです。
とはいえ、死刑廃止条約が採択された89年以降はきっちり5年ごとに実施しているこのような「世論調査戦略」とでも呼ぶべき日本政府の企ては国連に受け入れられておらず、かえって「人権の保障と人権の基準は、世論調査によって決定されるものではない」と一蹴されてしまっています。
それでも、国内的には毎回の世論調査で水増しされた数値がメディアを通じて公表されるつど、数字は一人歩きし、死刑廃止は一部少数の私見にすぎないという空気が醸成されていきます。
それによって、死刑制度に疑問を感じていた人も自信を失ってしまい、しだいに「やむを得ない」の方へ同調していくのです。死刑制度に関する政府世論調査とは、国内的にはそうした同調圧力の手段でもあり、回を追うごとに「やむを得ない」の割合が上昇していくのはその結果でもあると考えられます。
この点、フランスの社会学者ピエール・ブルデューによれば「世論調査の根本的効果とは、全員一致の世論があるという理念を作り出し、その結果、ある政策を正当化し、基礎づけ、可能にする力の諸関係を強化すること」だといいます。
日本における死刑存廃に関する政府世論調査はまさに、死刑存置に関して全員一致に近い世論があるという理念を作り出し、死刑存置政策を正当化し、基礎づけ、可能にする力の諸関係を強化することを目的とし、それ自体が死刑存置政策の一環に組み込まれた手段と言っても過言でないでしょう。
もちろん、世論調査のすべてがこのような政策の手段なのではなく、特定の問題に関するその時々の一般社会における意見分布状況を見るうえで有益な資料となる場合もあります。
しかし、そのためには、政府から独立した専門の中立的な世論調査機関が正当な方法で公正に実施した調査であることが条件です。この点では、特定の問題について独自の社論を持つ新聞社、免許を通じて政府ともつながりのあるテレビ局の世論調査も中立性や独立性の点で、また専門性の点でも十分でありません。
また、調査が公正であるためには、回答者が的確に回答するうえで必要な重要情報が予め与えられる必要があります。死刑問題では、とりわけ国連死刑廃止条約や世界における死刑廃止・執行停止の動向です。日頃、死刑廃止をめぐる国際報道自体がないに等しい中で、こうした情報はほとんど知られていませんが、死刑廃止が国際関心事となった今日、死刑の存廃を的確に判断するうえで、こうした前提情報は必須です。
そこで、世論調査の質問の中でも、例えば、条約の存在と内容を簡単に説明したうえで、条約についての知/不知を問う前提質問を置くといった方法が採られるべきでしょう。
さて、そのように適切な世論調査が改めてなされたとして、どういう結果が出るかといえば、やはり過半数は「死刑存置に賛成」ということになると予測できます。なぜなら従来、死刑廃止国のほとんどがそうであったのであり、この点で日本だけが例外であると予測できるいかなる理由もないからです。
例えば、西欧では最も遅くまで死刑を存置していたフランスで1981年に死刑が廃止された際の民間世論調査では62パーセントが死刑存続に賛成と出ていましたし、これより先、1969年に通常犯罪につき原則的に死刑を廃止したイギリスでも当時の民間世論調査で実に85パーセントが死刑存続に賛成と出ていたのでした。
こうした結果にもかかわらず、当時のイギリスやフランスの議会は死刑廃止法案を可決したのです。では、これらの諸国の国会議員たちは国民世論に反する暴挙を犯したのでしょうか。
これは民主主義の理解のしかたに関わる問題ですが、議会を中心とする代議制民主主義にあっては、何よりも議会(国会)の決定こそが国民的最高意思決定とみなされることは言うまでもありません。
そのときに、「議会の決定は国民世論と合致していなければならない」ということは一般論・原則論としてはそのとおりでしょうが、このことは、議会の決定ないしそれを導く個々の議員の表決がその時々の国民世論に拘束されるべきことを意味していません。
この点、ドイツ憲法には「ドイツ連邦議会議員は、・・・・全国民の代表者であって、委託及び指令に拘束されることなく、その良心にのみ従う。」といういわゆる自由委任原則をうたった規定があります。日本国憲法にはこれほど明確な規定は見られないものの、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」(43条1項)という国会の組織構成を定めた規定が同時に自由委任をうたったものと理解されています。
もちろん、この自由委任とは全くの白紙委任ではないのですが、国会議員は国民世論との合致をめざしながらも、その時々の世論に拘束されることなく、言わば将来の世論を見越して、または世論の変化を期待して行動することが許されているということが、この自由委任原則の最も正当な意味です。
この点で、先のイギリスで国民の圧倒的多数が死刑存続に賛成というデータが公表される中で死刑の原則的廃止に踏み切った当時の所管大臣、ジェームズ・キャラハン内相(後に首相)が「議会は時に世論に先行して行動し、それを指導しなければならないことがある」という趣旨のコメントを残しているのは、まさに如上のような自由委任の理念を政治的に表現したものと言えます。
この「将来の世論の先取り」ということこそが、当座の国民世論に反してでも議会が死刑廃止を決断する最大の正当化理由となります。
そして、このことには現実的な根拠もあります。前述したように、1981年の死刑廃止当時の民間世論調査で62パーセントが死刑存続に賛成していたフランスで、死刑廃止からちょうど25周年の2006年に同じ調査機関が実施した世論調査によると、死刑復活に反対が52パーセント、賛成が42パーセントと逆転し、過半数の人が死刑廃止を支持するようになってきているのです。
とはいえ、死刑廃止から四半世紀を経てもなお四割を超えるフランス人が死刑復活を求めていることも事実で、これは一般大衆の間ではいかに応報観念とか犯罪抑止力への信頼が根強く残されているかを示唆しています。
しかし、フランスの経験から言えることは、死刑廃止に関する限り、「世論は後からついて来る」ということです。「世論が反対するから」ということを、少なくとも国民代表である国会議員は死刑廃止を先送りすることの言い訳にすることはできません。そういう言い訳は、何ら選挙を経ておらず、従って国民代表を名乗る資格のない政府官僚にこそふさわしいものなのです。
死刑制度は日本も含むアジア地域の文化的な価値に根ざすもので、死刑廃止は専ら西欧的な価値観の押し付けではないか?
第5話で、欧州評議会議議員会議が同評議会オブザーバー国の日本(及び米国)に対して、オブザーバー資格の見直しに絡めた死刑廃止の強い要請をしたことをご紹介しました。その過程で評議会代表団が来日して死刑問題に関する準公式の国際会議が開催され、その席上、当時の森山眞弓法務大臣が波紋を呼ぶ発言をしました。
その要旨は、日本には「死んでお詫びする」という慣用句に表わされる罪悪に対する独特の感覚があるため、死刑制度は文化的にも根付いているというものでした。
この発言の内容自体は文化というよりも第7話で論じた贖罪に関わるものですから、大臣の発言は論点の取り違えとも言えます。実際、死をもって償うという感覚が日本独特のものとは限らない証拠に、米国コネティカット州で4人の少女を殺害した罪で死刑を執行された米国人男性は「私が殺した娘たちの遺族の痛みを止めるには私が死ぬしかない」というコメントを残しています(『年報・死刑廃止2006』(インパクト出版会)p227)。ニュアンスに差はあれ、これも「死んでお詫びする」という趣旨と理解できます。
むしろ、森山大臣の発言で注目したいのは、その内容より形式の点です。つまり、死刑廃止を求める西方からの政治的外圧―そう政府が認識したであろうもの―に対して、「日本独自の罪悪感」という文化相対主義の視点から死刑存置政策を正当化してみせようとしたことです。
このような態度は、従来からアジア諸国ではよく見られるものです。中東のイスラーム諸国がイスラーム教の聖典コーランの掟を援用して死刑存置を正当化するのはその典型です。例えば、アラビア半島南端のイスラーム教国オマーンは、国連死刑廃止条約案の審議過程で「死刑はイスラーム法の不可分の一部である以上、いかなる犠牲を払おうとも維持されなければならない」とまで力説していたほどです。
たしかに今日、死刑存置国の大半がアジアに集中し、毎年の死刑執行件数の大半を中国を筆頭とするアジア諸国でのそれが占めており、日本を含むアジア地域は地球上における「死刑ベルト地帯」を成しています。
それでは、死刑制度とはアジア的な文化価値に根ざすアジア固有の法文化の表れなのでしょうか。
歴史を振り返れば、全くそうではないことが直ちにわかります。今日、「死刑廃止の伝道師」といった観のある欧州諸国もすべて例外なくかつては死刑存置国であったという事実が、その何よりの証拠です。
しかも、それは決して遠い昔のことではなく、西欧でも死刑廃止が進展し始めたのはせいぜい第二次世界大戦後のことです。中でも、人権思想の祖国であるはずのフランスでは1981年まで死刑が存置されていました。東欧地域での死刑廃止に至っては、ちょうど国連死刑廃止条約が採択された1989年の「ベルリンの壁崩壊」をきっかけに社会主義独裁政権が次々と倒れた1990年代以降のことにすぎません。
ちなみに、世界で初めて死刑廃止を提起したのは、12世紀の南フランスに興ったキリスト教セクトのワルド派であると言われています。この派は「汝殺すなかれ」とか「敵を愛せ」といった寛容・慈愛を説く聖書の文言に依拠しつつ、死刑制度に異議を唱えたのですが、当時のキリスト教会主流はこうした考えに耳を貸そうとはしませんでした。それどころか、教会当局はワルド派のような異端派を弾圧するために残虐な死刑の適用もためらわなかったのでした。
しばしば死刑廃止はキリスト教精神に由来するもので、非キリスト教圏には浸透しにくいとも指摘されますが、実は今日でもローマ・カトリック教会は明確に死刑廃止を打ち出してはいません。例えば、1995年に出された当時の法皇ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」でも、死刑廃止の望ましさをにじませつつ、死刑はそれが「絶対的に必要な場合、すなわち他の手段では社会を守ることができない場合を除いては適用すべきでない」とする死刑限定論の立場にとどまっているのです。*2013年に就任した法王フランシスコは、より踏み込んで死刑廃止の必要性を明言しており、その影響が注目されます。
一方、死刑廃止は押し付けがましい西欧啓蒙思想の表れだとも言われます。たしかに、史上初めて世俗的な社会思想・刑法理論として死刑廃止を提唱したのはイタリアの啓蒙思想家・法学者のチェーザレ・ベッカリーアでした。
彼は有名な主著『犯罪と刑罰』(1764年)の中で、死刑廃止論を展開したのですが、彼の理論上の先駆者である啓蒙思想の祖ルソーはベッカリーアの主著の二年前に公刊したより有名な主著『社会契約論』の中で、「社会の法を侵害する悪人は、公衆の敵として、死によって(社会から)切り離されなければならない」と高調した強固な死刑擁護論者でもありました。このように、社会契約論を共有し合う西欧啓蒙思想家の間でさえ、死刑存廃の見解は分かれてきます。
さらに言えば、大量死刑政策を断行したナチス・ドイツは、同時代に同様の政策を採ったソ連のスターリン体制とともに、欧州の文化的土壌から立ち現れた凶悪な政治体制でもありました。
こうしてみると、死刑制度は決してアジア地域の専売特許的な文化ではなく、それを文化と呼ぶならば、歴史上死刑制度を持ったことのない国家はおそらく存在しないという意味で、全地球的な文化と呼ぶことさえできます。
全地球的な文化ということを言い換えれば、すなわち「文明」となるでしょう。死刑廃止へ招待しようという人間が死刑制度を「文明」と称賛するのかといぶかられるかもしれませんが、歴史的に見る限り、死刑制度は文明的進歩の証しでした。なぜなら、先史時代以来の血讐とかリンチ、あだ討ち等々の私的報復慣習に比べて、国家が司法制度を通じて犯罪事実を吟味したうえで、犯罪者を殺す死刑は格段に公正で、秩序立った方法であったからです。
しかし、その後、文明の時計が一回転して、今度は死刑制度を廃止することが文明的進歩の証しとされるようになってきたようです。その原動力となったのは、広い意味における「人権」の思想であると言ってよいと思われます。
ここで振り出しに戻って、結局、その「人権」とやらが西欧的な価値観念であって、アジア的価値観には適合しないという文化相対主義の反論に遭遇することになりそうです。
こうした反論には、たしかに「アジア的」と呼び得る一つの文化的な背景が潜んでいるように見えます。といっても、それは森山大臣が述べたような意味での「文化」ではなくして、より政治的な風土に関わる文化(政治文化)です。
日本を含むアジアに共通する政治文化があるとすれば、それは人権よりも国権を優先する権威主義的政治文化です。「欧化」著しいとされる日本でも、憲法上はなるほど明らかに西欧的な基本的人権の原理が打ち出されていながら、死刑制度を基本的人権の侵害とみなす意識は希薄で、ともすればかえって国家は死刑制度を通じて国民の安全を守ってくれているとして受容する傾向が強いのではないでしょうか。
第6話でも見たように、憲法の番人たる最高裁判所からして、憲法の人権条項を逆さに読んで、「憲法は明らかに社会防衛の手段としての死刑制度を是認している」と断じてしまう始末でした。
要するに、権威主義的政治文化とは、国民が国家に服従する代わりに、国家は国民を守ってやるという服従‐庇護の文化なのです。
ちなみに、「イスラーム」とはアラビア語で「服従」を意味するといいます。この場合の「服従」とは神(アッラー)への服従を指しており、国家への服従とは位相が異なるのですが、政治的な面ではアッラーに導かれたイスラーム共同体への服従と引き換えに庇護が与えられるとされる点で、これも権威主義的政治文化の亜種と言えるでしょう。
こうしたアジア型権威主義的政治文化は、素直に服従する者にとっては大変居心地良い褥を提供してくれる一方で、服従しようとしない者に対しては苛烈な抑圧の温床を作り出してきました。そのことは、程度の差はあれ、自由な言挙げの余地を狭め、市民の活発な言論と社会的行動を通じた内発的な民主主義の発展を自ら阻害する要因ともなっています。
このように自らにとっても有害な政治文化から脱却することは、日本も含めたアジア地域にとって共通の内発的な政治課題と言うべきではないでしょうか。
死刑廃止はそうした内発的な政治課題の中の代表的な個別課題と位置づけることが可能です。そう考えれば、西方からの死刑廃止の要請に対して「外圧」と消極的・被害的に反応するのではなく、内発的政治課題への一つの刺激と肯定的に受け止めたうえで、自ら率先して死刑廃止へのプロセスを進めていくべき時機が到来しつつあると認識してもよいと思われます。
ちなみに、東アジアではまだ死刑廃止国は出ていませんが、中国、(北)朝鮮、台湾、そして日本が死刑執行を継続する中、モンゴルは2012年に国連死刑廃止条約を批准しました。*モンゴルは、2017年に死刑廃止を実現しましたが、同年に就任したバトトルガ大統領が残酷な殺人等での死刑の一部復活を提起し、動向が注目されます。
韓国では10年以上にわたり死刑執行が停止されており、モラトリアムに入っています。こうして、死刑に関してはアジア地域でも最も保守的な東アジアでも死刑廃止へ向けた胎動は確実に始まっているのです。
死刑制度は、重大犯罪によって侵害された法秩序を回復し、維持していくために必要ではないか?
今回取り上げる議論は「法確証論」とも呼ばれますが、これは過去4回分で見てきた議論(応報・被害者感情・犯罪抑止力・社会防衛)とは異なり、一般大衆の間ではなじみが薄く、主として法律家・法学者の間でよく見られる議論です。
そして、これこそが、日本における死刑存置政策の牙城・法務省のイデオロギー的立場でもあると考えられます。実際、前にも触れた三年四ヶ月間の死刑執行休止状態の後、1993年3月に執行再開に踏み切った当時の後藤田正晴法務大臣は、最大の理由として「法秩序の維持」ということを強調していました。
このような議論の沿革は、ドイツ観念論の完成者ヘーゲルのまさに観念的な法理論にあります。その概略は次のようなことです。
犯罪とは法の否定であるところ、その法の否定を再度否定すること(否定の否定)が刑罰であり、そのことを通じて、犯罪によって侵害された法秩序を回復し、維持していくことができる。そうでなければ、法秩序は損なわれたままであり、まさに無法状態となってしまう。そして、犯罪者においても、自由な意思に基づいて法を否定することによって、自ら勝手な「法」(例えば、人を殺してよい)を作り出した以上は、その自ら作り出した「法」(人を殺してよい)に基づいて法益を剥奪されること(例えば、死刑によって生命を剥奪されること)に同意したも同然であるから、刑罰の発動は犯罪者の自由意思に基づくものである、云々。
このような抽象的なロジックにあっては、刑罰の犯罪抑止力や矯正上の効果があろうとなかろうと、また被害者感情がどうあろうと、とにかく法に基づく刑罰は法秩序維持のために発動されなければならないという形式論が打ち出されます。格言的に言い換えれば、「法は法である」「法は法のためにある」というトートロジーとなります。
これを死刑論議にあてはめると、「死刑制度は法秩序維持のために不可欠である」とか、「死刑執行は死刑制度が存在する限り、絶対的義務である」といった論理が導かれます。
従って、この法確証論からする死刑存置論は、被害者なき犯罪や殺人以外の犯罪を含めた全面的かつ恒久的な死刑存置論として展開され、最も強硬な死刑存置論を形成することになりがちです。そういう点からも、一定の柔軟さを残す大衆レベルの死刑存置論からは乖離しています。
こうした法確証論はどんなにロジカルに見えても、しょせんは内容空疎な観念論にすぎないのですが、ある意味ではこうした観念論こそ法律家の間では身につけるべき職業的スキルとなるのですから、法確証論的死刑存置論も法律家とともになお権威を保ち続けるでしょう。
ちなみに、かのヘーゲルは、刑罰は犯罪者にとって痛みとして感じられるようなものでなければならず、死刑に値するような殺人が行われたとしても、殺人犯が厭世気分から、死の準備をしたうえで殺人を実行したような場合、「殺人者の意志はすでに人生の外へと出ていて、死刑も痛みとは感じられないから」死刑を懲役刑に代えるのがよいと興味深い指摘もしています。要するに、例の“死刑願望者”のような者は死刑を科しても無意味であるから、懲役刑のほうがよいと言うのです。
してみると、ヘーゲルは少なくともゴリゴリの法確証論者とは一味違っていたと見てよいのではないでしょうか。
ところで、法確証論と関連して、法務大臣が個人的な信条から、法律上法務大臣の職務として定められている死刑執行命令を出さないことは許されるのかということが実際問題として論争の的とされてきました。
これは、すでに第2話でも見たように、日本の刑事訴訟法では、死刑執行命令が法務大臣一人の手に委ねられていることから生じてくる大きな問題です。
この点、過去の法務大臣の中には、仏教などの信仰に基づいて死刑執行命令を拒否した人がいると言われています。例の三年四ヶ月間の死刑執行休止期間中に在任した大臣の中にもそのような人がいたようです。
法確証論からすれば、死刑執行は死刑制度が存在する限り、絶対の義務であって、法務大臣が個人的な信条から執行をしないことは職務怠慢として強い非難に値することになるのでしょう。事実、93年3月に死刑執行再開を主導した前出後藤田大臣は、死刑執行の空白を作り出した前任者たちを非難し、「死刑執行をするつもりのない人は法務大臣に就任すべきでない」とまで断言したものです。
しかし、大臣のような政治職公務員にあっても、憲法19条の思想・良心の自由は当然保障されるのですから、大臣といえども自らの信条(信仰を含む)に反する職務を強制されるいわれはありません。従って、「死刑執行命令を出さない者は法務大臣に就任すべきではない」という後藤田発言は憲法無視の独断論です。
当然ながら、法務大臣は死刑執行だけを職務とする死刑執行役人ではないのであり、死刑執行命令は法務大臣の数ある職務の一つにすぎず、それもどちらかといえば例外的な職務なのですから、それを信条の上から拒否することが法務大臣としての適格性を全面的に失わせるとはとうてい言えません。
ただし、法務大臣は国務大臣の一人として、その職権の行使・不行使に関する説明責任を負っています。従って、在任中、死刑執行命令を出すつもりがないなら、その理由を説明すべき責任があります。そのときに自己の信条を理由とするなら、憲法上の根拠とともにその旨を明示すればよいのです。
そういう観点からすると、従来の法務大臣の中には、死刑執行命令を出さない理由を明確にしないまま去っていった人もいますが、このような「沈黙」はいささか問題でしょう。この点、一般市民であれば自己の信条を公にしない「沈黙の自由」も思想・良心の自由の一内容として保障されているわけですが、国務大臣のような政治職にあっては、「沈黙の自由」は公的な説明責任の観点から一定の制約を免れないということになるでしょう。
とはいえ、法務大臣が個人的な信条から死刑執行命令を出さずに去っていくことには、死刑廃止論の立場からも一つ懸念すべき点があるのです。それは、法務大臣が死刑執行命令を出さずにいると、その間にも死刑確定者は累積・滞留していため、次の大臣が積極的な死刑存置論者であったりすると、まるで“在庫一掃”とばかりに大量執行が断行されるという事態もあり得るという懸念です。実際、先の後藤田大臣による死刑執行再開時をはじめ、過去に幾度かそういうことが起きています。
もちろん、そのように突如として死刑執行件数を急増させるようなやり方も、大臣の恣意的な権力行使として批判されるべきですが、日本の死刑が法確証イデオロギーで固まる法務省を舞台としている限り、こうした事態は避けられないでしょう。
そこで、死刑廃止の考えを持つ法務大臣であれば、単に個人的に執行命令を拒否するにとどまらず、最低限、死刑執行モラトリアムを公式に提起すべきでしょうし、それこそ近時何かと喧伝される「政治主導」の真骨頂ではないでしょうか。
この点で、日本の法律は死刑執行を官僚としての検察官のトップである検事総長でなく、政治家としての国務大臣である法務大臣の権限に委ねているということの意味が重要です。
この権限は実際、当事者からの異議申し立ても許されず、司法的に何らコントロールされることのないスーパー権力であって、濫用の危険のある制度として、海外からも驚きをもって見られることがあるようです。
ただ、見方を変えれば、このことは死刑を自動的・機械的に執行するのではなく、政治家としての法務大臣の高度な政治判断に立って合理的な理由があれば死刑執行を凍結することをも容認する趣旨と考えることができるのです。例えば、国連による死刑廃止の人権勧告や全世界における全面的死刑執行停止を求める国連総会決議を受けて、国内における死刑執行モラトリアムを決断するような場合です。
こうした場合、法務大臣は内閣の一員として、総理大臣をはじめとする内閣の了解を得たうえで、死刑執行停止の理由を公に説明する責任を負うことはもちろんです。このような形の法律に基づかない死刑執行モラトリアムには法的拘束力はありませんが、少なくとも同じ内閣で法務大臣の交代があっても継続されるのが普通でしょうし、内閣が交代しても同一の政権政党であれば次の内閣にも継承されることが期待でき、先に示したような突然の大量執行という事態はとりあえず避けられるのです。
このようなけじめを持った死刑執行停止措置であれば、法務大臣の権限の中に黙示的ではあれ含み込まれているものと解し得るわけです。
こうして、憲法・法律の趣旨をよくよく検討していけば、死刑執行は法確証論が要求するほどに有無を言わさぬ絶対的なものではないことがおわかりになるでしょう。
死刑制度は矯正不能な犯罪者を淘汰し、社会を防衛するうえで必要ではないか?
こうした社会防衛という考え方は、第6話で見た死刑=合憲論の最高裁大法廷判決の理由づけでも、「死刑の執行によって特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもって社会を防衛せんとした」云々と述べられていたところですし、個々の死刑判決中でも「被告人は矯正不能」という理由づけがしばしば添えられています。
ちなみに、たびたび引用する内閣府の2009年世論調査でも、死刑を容認する人の中で、「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」という理由を挙げる人が41.7パーセントに上っており、一般市民の間でも社会防衛論的な考え方がかなり浸透しているものと見られます。
このように「矯正不能犯罪者」というものが一定数社会に存在するという考え方を近代医学の装いの下に体系化したのが、19世紀イタリアの法医学者チェーザレ・ロンブローゾでした。彼は、隔世遺伝や変質による一定の身体的・精神的特徴を持ち、必然的に犯罪に陥る「生来性犯罪人」という概念を提出し、こうした人間を淘汰する悲しむべき方法として、死刑を勧めたのです。
ロンブローゾは、刑罰の第一の目的が社会防衛にあり、この観点から犯罪者の改善が刑罰の第二義的目的であるとする教育刑思想に立ちつつ、死刑を「生来性犯罪人」に対する例外的な“淘汰”の方法として指示しています。
こうしたロンブローゾの思想が、ちょうど同時代に風靡していた進化論的な“淘汰”の理論と符丁を合わせていることは明らかですが、彼の「生来性犯罪人説」は今日、すでに医学的・実証的な根拠を欠くものとして否定され、過去の学説となっています。
現代の社会防衛論はむしろ積極的に死刑を否定し、犯罪を犯した人に対する適切な矯正・更生プログラムに基づく社会復帰の支援を通じた社会防衛を志向するようになってきました。
この点、刑事政策専門家の国際的な会合である国際社会防衛会議は、国連よりも40年以上先駆け、第二次世界大戦直後の1947年の第一回会議でいち早く死刑廃止を決議しています。
この決議を知ってか知らずしてか、日本の憲法の番人はその翌年に、同じ社会防衛という名の下に「特殊な社会悪の根元を絶つ」死刑の合憲性を承認したのでした。
第4話でも論じたように、「特殊な社会悪」としての犯罪はその時代の社会構造の歪み・ひずみを温床として引き起こされる社会現象であるため、「社会悪の根元」は犯罪を犯した個人にあるわけでなく、社会そのものにあり、個人の犯罪はそうした社会構造の投影的表出にすぎないという考えは今日、刑事政策においても認められるようになっています。
従って、「特殊な社会悪の根元を絶つ」最も究極的な方法は、マルクスが示唆したように犯罪現象の温床を成す社会構造そのものを変革する社会革命ということになるでしょうが、さしあたっては犯罪を犯した人の改善・更生・社会復帰を支援していくことが目指されるのです。
とはいえ、やはりこの世には「矯正不能」のゆえに社会復帰が許されない犯罪者―言わば「モンスター犯罪者」―が存在するのではないか。そういう反問もあるかと思います。
しかし、一般に凶悪犯罪の再犯率は高くなく、例えば平成19年の『犯罪白書』のデータでは、殺人罪の再犯率(再び殺人罪を犯した再犯者の割合)はわずか0.9パーセントにすぎず、これは窃盗罪の28.9パーセントに比べて大きな差異があります。それでも、少数ではあれ、凶悪犯罪を繰り返す者がある限りは対策が必要ではないか━。
この問いは、いわゆる「死刑の代替刑」という論点にもつながっていきます。近年、死刑廃止運動の側からも「仮釈放の可能性のない終身刑」(以下、「仮釈放なき終身刑」という)を提唱し、これを死刑の代替刑とすることで死刑廃止への理解を得ようとする考えが有力化し、議員グループによる議案提出の動きもあります。
仮釈放なき終身刑は、恩赦されない限り、原則として生涯刑務所から出所することができないという刑罰ですから、社会復帰を許さないという点では死刑と同質的な部分を持ちます。そのため、死刑に準じた厳罰として死刑の代替刑にふさわしいと考えられているです。
現在の日本の刑罰体系上、死刑に次ぐ刑罰は無期懲役刑ですが、この刑にあっては最短で10年すると仮釈放の可能性が生じることから(刑法28条)、死刑の代替刑とするには軽すぎるということも、仮釈放なき終身刑を推奨する有力な理由として挙げられています。
しかし、筆者は日本においては仮釈放なき終身刑の必然性は存在しないものと考えています。理由は次のとおりです。
(一)現行無期刑(無期懲役刑及び無期禁錮刑の総称。以下同じ)の本質は「終身刑」であること。
現行無期刑は「無期」とはいうものの、実際は恩赦されない限り、刑の執行自体は受刑者の終身間続くものですから、実は「終身刑」なのです。ただし、仮釈放の可能性があることから、正確には「仮釈放の可能性のある終身刑(仮釈放付き終身刑)ということになります。
そのため、たとえ10年で仮釈放が付いたとしても、受刑者は原則として終身間保護観察下に置かれるほか、公民権も剥奪され、再犯はもちろん、遵守事項違反などがあれば、仮釈放が取り消され、再び収監されます。
これに対して、本来の「無期刑」とは「期限の定めのない刑」ということですから、これは遠い将来のいつか刑の執行は終了するが、いつ終了するかは決まっていない刑罰のことを意味しています。このような絶対的不定期刑は憲法に違反すると解されているため、現行刑罰体系上は存在しません。
実は、現行「無期刑」はネーミングを誤っているのであり、その本当の名前は「終身刑(終身懲役刑及び終身禁錮刑)」であるべきなのです。
もしも現行「無期刑」は仮釈放の可能性がある以上、「終身刑」ではないと考えるなら、それは誤りです。なぜなら、仮釈放とは文字どおり「仮」の釈放にすぎず、刑の執行の終了を意味していないからです。
この点、英語では終身刑のうち仮釈放付きのものをlife sentence with parole、仮釈放のないものをlife sentence without paroleとすっきりした対語で表現するので、大変わかりやすくなっています。
(二)現行刑法上の仮釈放は義務的なものではないこと。
現行刑法上の仮釈放はすべて行政官庁(地方更生保護委員会)による裁量(許可)に委ねられており、義務的なものではありません。従って、現行無期刑の下でも仮釈放の要件を満たしていながら、何らかの政策的理由から生涯仮釈放が許可されず、刑務所で生き続けるということも十分あり得るところです。
この点やや古いデータですが、1999年に内閣が国会議員の質問に対して開示した資料によると、同年4月1日現在で40年以上刑務所に収容されている無期刑受刑者が11人(最長は50年9ヶ月)に上っていました。
ですから、最短10年で仮釈放が付くというのは抽象的な可能性にすぎず、実際上は10年で仮釈放が付くようなことはまずありません。特に近年は無期懲役受刑者の仮釈放が全般的に厳格となり、そもそも仮釈放自体が許可されにくくなっているうえに、許可された場合でも平均収容年数は20年を超えるようになってきました。この点、平成21年度は6人しか仮釈放が付かず、しかも全員が25年を超えて収容されていた人たちです(うち1人は35年超)。
「無期懲役刑では10年で仮釈放が付くから軽すぎる」どころか、仮釈放の運用が厳格すぎるのではないかを心配しなければならないのが近年の状況です。
しかし、見方によっては、このような裁量的仮釈放の制度は受刑者の特性や改善の程度に合わせて弾力的に運用できるメリットがあるとも言えます。従って、例外的には存在するかもしれない「モンスター犯罪者」に関しては、改善が顕著に進まず、結果として生涯を刑務所で過ごしてもらわざるを得ないかもしれませんが、それはそれとしてやむを得ないことでしょう。
以上の理由に加えて、仮釈放なき終身刑を導入すべきでない次のような二つの追加理由があります。
(三)仮釈放なき終身刑は凶悪犯罪を誘発する危険があること。
現在でも、生活できず「刑務所に入りたい」との動機から犯罪を犯して自ら出頭・逮捕される人々が少なからずいます。仮釈放なき終身刑とは要するに、受刑者を生涯刑務所で世話することを意味していますから、現実社会で生きていけない人にとっては、厳しい統制を受ける刑務所生活に忍従してでも、“食事風呂付き”の終身生活保障の方が有り難いと感じられるでしょう。そういう狙いの下に、意図的に凶悪犯罪を犯して、仮釈放なき終身刑を自ら求める人が出現する可能性は十分あるのではないでしょうか。
死刑に関しても「死刑になりたい」との動機から凶悪犯罪を犯す“死刑願望者”が存在するわけですが、死刑にせよ、仮釈放なき終身刑にせよ、いわゆる“厳罰”は犯罪を抑止するどころか、誘発する逆効果の危険を伴っています。
死刑が「生きる意欲」を失った人を魅惑するとすれば、仮釈放なき終身刑は「生きる能力」を失った人にとって魅力的な選択肢となりかねないのです。
(四)国際人権規約(自由権規約)10条3項は、行刑の制度に矯正及び社会復帰を基本的な目的とする処遇を含むことを要請していること。
日本も批准済みの上記規約条項は「行刑の制度は、被拘禁者の矯正及び社会復帰を基本的な目的とする処遇を含むものとする。」と定め、「矯正及び社会復帰」を受刑者の基本権として裏から保障しています。
従って、初めから仮釈放の可能性を遮断してしまう終身刑は、「矯正及び社会復帰」という「基本的な目的」を欠く単なる保安目的の刑罰として上記規約条項に違反する疑いがあります。
この点、仮釈放なき終身刑を支持する見解の中には、恩赦の権利を保障しておけば足りるという主張もありますが、恩赦自体は行政権による政策的な刑の減免措置にすぎず、矯正プログラムや社会復帰のためのサポートなどを含まないため、それだけでは規約条項の「矯正及び社会復帰を「基本的な目的とする処遇」には当たらないと言うべきでしょう。
それでは死刑の代替刑はどうしてくれるのかとの反問があるかもしれませんが、実はこの問い自体が的外れのように思われます。なぜなら、生きると死ぬとは大違いですから、死を強制する刑罰は代替不能であり、死刑には文字どおりの代替刑は存在しないからです。そこで、正しい問いは「死刑廃止後の最高刑はどうあるべきか」と立てられるべきでしょう。
この答えは実はカンタンです。先に指摘したように、誤って名づけられている現行の「無期懲役刑」及び「無期禁錮刑」の名前を「終身懲役刑」及び「終身禁錮刑」(以下、両者を「終身刑」と総称する)に一括変更するだけでOKです。
そのうえに、最低限次の五点は改正を加えることが有益と考えられます。
第一点として、終身刑が乱発されないようにするために、自由刑の量刑は原則として期間が定まった通常の有期刑の範囲内で行い、終身刑は通常の有期刑の上限(現行法上は30年)をもってしても足りないほど加重すべき事情がある場合に限って科すべきものとすることを刑法総則の規定上明文で条件付けること。
第二点として、現行無期刑において仮釈放が可能な最短期間の10年という期間の定めはすでに空文化しているので、これを15年に引き上げること。
第三点として、再犯危険性が除去されない間の早まった仮釈放を防止するため、終身刑の仮釈放の要件として、現行の「改悛の状があること」に加え、「同種又は同等以上の犯罪を再び犯すおそれがないこと」を要求すること。
第四点として、終身刑の仮釈放の運用が硬直化しないよう、終身刑受刑者に対しては、15年を経過した時点から本人の申請がなくとも毎年定期的な仮釈放審査を義務づけること。
第五点として、仮釈放中の終身刑受刑者の改善が高度に進んだことが認められた場合は、恩赦による刑の終了措置を必要的なものとすること。
このようにして新装された終身刑(仮釈放付き終身刑)は、受刑者の矯正・社会復帰の権利と社会防衛の必要とをバランスする制度として十分信頼に値すると思われます。
死刑制度は重大犯罪を抑止し、治安を確保するうえで必要ではないか?
犯罪抑止力による死刑存置の理由づけは、かねてより最も科学的・実証的な理論とみなされて、学問的な論争の対象となってきたところです。
しかし、抑止力という術語について法令に定義規定があるわけではなく、それは決して一義的に明確な概念ではありません。一般的に、刑罰の犯罪抑止力とは刑罰の威嚇力によって犯罪の発生を未然に防止する社会心理的な強制力を意味しており、中でも死刑の犯罪抑止力とは死刑制度の持つ格別の威嚇力をもって重大犯罪を抑止する効力として、刑罰制度を通じた治安確保の要とみなされてきました。
とはいえ、この抑止力なるものの存在は、未確認飛行物体UFOの存在以上に確認の困難なものなのです。実際、死刑の犯罪抑止力の存在をいかにして調査・認識することができるのでしょうか。
よく行われるのは、死刑制度の運用状況と代表的な死刑相当犯罪である殺人罪の発生率の上下の相関関係を分析するというものです。しかし、ここで直ちに疑問なのは、「抑止力」という以上は死刑制度の恒常的な運用によって発生を防止することのできた殺人罪その他の死刑相当犯罪がどれだけあるかを検証するべきではないかということです。
殺人罪の発生率とは死刑制度の運用にもかかわらず殺人が発生してしまった抑止の失敗例のデータであって、そこから直接に死刑の犯罪抑止力を把握しようとするのは飛躍なのではないでしょうか。
要するに、死刑の犯罪抑止力を真に確認するためには、「起きてしまった殺人事件」の数ではなく、(死刑のおかげで)「起きなかった殺人事件」の数を調査するべきであるのです。
しかし、「起きなかった殺人事件」の数を調査するのは、事実上不可能なことでしょう。「起きなかった殺人事件」とは、何者かが殺人を思い立ったが計画・実行に至らなかったケースや殺人が計画されたが計画者が実行を見合わせたケースですが、こうした“挫折した殺人”は殺人予備罪などが成立する場合を除いては摘発対象とはならないため、警察・司法統計にも記録されないからです。
結局、抑止力とは、それを検証することも反証することもできない、その意味で科学性を欠きながら科学の装いが与えられている「疑似科学」に属する概念である疑いが強いのです。要するに、それは信じるか、信じないかという“信仰”と呼んで悪ければ信頼の対象でしかないのではないかと思われるわけです。
実際、死刑の犯罪抑止力の存在はひょっとするとUFO以上に信じられているようです。前出の2009年内閣府世論調査においても、「死刑を廃止すると凶悪犯罪が増える」と考える人の割合が62.3パーセントにものぼっているのです。
ただ、そのような抑止力に対する信頼に十分な根拠があるかどうかをアンケート調査方式による経験的データで検証してみることはできなくありません。例えば、「あなたは、死刑の恐怖から殺人罪や強盗殺人罪などの凶悪犯罪の計画または実行を思いとどまったことがあるか」といった質問を無作為抽出した多数の人に回答してもらう方法です。
実際のところ、皆様はどうでしょうか。少なくとも、筆者はこれまでの人生でそもそも凶悪犯罪を思い立った経験がないのですが、それは死刑の恐怖からということではなく、筆者の場合、凶悪犯罪へ赴く動機・情況がこれまでのところ全くなかったからでした。
裏を返せば、仮にそうした動機・情況が偶発的にでも生じた時には、自分も凶悪犯罪に走ってしまうのか、それとも死刑の恐怖から思い止まるのか。率直に言って、よくわかりません。
このように、実際「その時」に死刑の抑止力が作動するかどうかという問題は、“経験者”でなければよくわからないのですが、その点で一つ興味深い証言があります。1968年から69年にかけて連続4件の射殺事件を起こして死刑判決が確定し、獄中で作家活動も展開した永山則夫(1997年処刑)がこんなことを述懐しているのです。
「あの時期、後の二件は回避せるものであった。しかし、どうせ死刑になるという観念があれ等の事件を犯してしまった。「死刑になるという観念」それ故に惰走した。「死刑になるという観念」は凶悪犯を尚更、高段な凶悪犯罪に走らせてしまう、自暴自棄というのであろう。」(永山則夫『無知の涙』より)
「後の二件」とは、4件の連続殺人のうち後の2件を指しているのですが、その明らかに余分な追加犯行を死刑が存在しないがゆえにではなく、死刑が存在するがゆえに犯してしまったというのです。言い換えれば、死刑の恐怖どころか、「どうせ死刑になるという観念」から自暴自棄で突っ走ってしまったというわけです。
従って、彼はいささか逆説的に「凶悪犯行防止のために死刑は必要だが、凶悪犯となった人間にとって、凶悪犯行を再び行わないために死刑は無い方がよい」とも述べるのです。
永山が犯したような無謀で不可解な凶悪犯罪ほど、犯人は自暴自棄ないしは絶望に駆られており、死刑になることを覚悟し、あるいはそれを積極に“願望”さえしているもののようです。そういう場合には、死刑は抑止力になるどころか、永山の場合にそうであったように、逆効果的に犯罪誘発力となってしまうのです。
死刑制度が凶悪犯罪を誘発する━。これは、死刑制度にとって一大スキャンダルです。しかし、私どもはそういうスキャンダルの中でも最大級のものをすでに経験済みです。それが、オウム真理教教団が惹き起こした2件のサリン事件でした。この2件とは、1994年6月の松本サリン事件(8人死亡、660人負傷)と、翌95年3月の東京地下鉄サリン事件(12人死亡、3794人負傷)です。
第5話でもご紹介したように、日本では89年11月から三年四ヶ月間ほど死刑執行が休止し、93年3月に再開されています。そうすると、最初の松本サリン事件は93年3月の死刑執行再開から一年三ヵ月後、東京地下鉄サリン事件はほぼ二年後と、犯罪史上例を見ない2件の化学テロ事件は、死刑執行再開からわずか二年以内に相次いで発生しているのです。
ちなみに、オウム教団が凶悪化への最初の一歩を踏み出したきっかけとされる坂本堤弁護士一家殺害事件(教団に対して批判的な弁護活動を展開していた弁護士と妻子の三人を殺害した事件)は、89年11月に発生しているのですが、この月には1件死刑執行が行われています。
ここから、数々のオウム関連殺人事件の中でもとりわけ凶悪な三つの事件は、三年四ヶ月間の死刑執行休止期間中ではなく、その前後にまたがるように発生しているという皮肉な事実が浮かび上がります。わけても2件のサリン事件は、93年3月の死刑執行再開にあたかも誘引されるかのように、94年と95年に続発しています。これはまさにスキャンダルと呼ぶにふさわしい事態ではないでしょうか。
なぜこのようなことになったかを考えるに、オウムが現存法秩序を超越した特異な信仰と思考様式を持つカルト集団であったということもさりながら、孤独な単独犯であった永山とは違い、組織犯罪であり、しかも犯行声明を出して実行組織を誇示する政治的事件とも異なり、実行組織は容易に特定されまいとの自信の下に計画・実行に及んだことにもよるものと見られます。
従って、このケースは永山のような「どうせ死刑になる」との自暴自棄からの「惰走」とは異なり、犯行グループは特定されないゆえに「どうせ死刑にならない」との過信から敢行されたものとも考えられるわけです。
このように犯人は特定されまいとの過信から犯罪の実行に及ぶということは個人の単独犯でもあり得るところですが、こうした場合に死刑の抑止力は何ら期待できないどころか、かえって“死刑への挑戦”としての凶悪犯罪を誘発しかねないのです。
このようにして、オウム事件とは、死刑の犯罪抑止力に対する根拠なき信頼から私どもを目覚めさせるうえでも、極めて苦く、つらい教訓だったと言えるのではないでしょうか。
〔追記〕
より最近の事例として、2008年6月の秋葉原無差別殺傷事件(7人死亡、10人負傷)も、2007年頃から死刑執行人員が急増する最中に(07年9人、08年15人)発生しています。この事件の犯行当時20代被告人男性も孤独な非正規労働者で、類型的には上述の永山則夫型の「惰走」的犯行でした。奇しくも、永山事件初発からちょうど40年後に起きた事件でもあります。
死刑廃止は被害者感情を無視軽視するものではないか?
この反問は、しばしば死刑廃止論に対する一種凶器的な(?)非難として突きつけられることもありますから、慎重にお答えしなければなりません。
まず、この反問の中で言われる「被害者感情」とは何かといえば、結局は復讐感情にほかならないでしょう。それはしばしば「区切り」とか「霊前報告」とかのオブラートに包まれた表現で語られることもありますが、直接に「復讐」という文言は使われていなくとも加害者の刑死が被害者(遺族)にとっての「区切り」となったり、「霊前報告」の対象となったりするのは、復讐感情の満足を示しているのですから、被害者感情を煎じ詰めれば復讐感情が抽出されてくるわけです。
従って、「被害者感情を無視軽視するものでは?」との反問は、特に「被害者のある犯罪」、なかでも復讐感情を掻き立てやすい殺人犯罪に妥当するものだと言えます。
ところが、日本に限らず、ほとんどの死刑存置国の法制上、殺人犯罪のみならず、そもそも「被害者のない犯罪」、被害者はあるが傷害ないし物損にとどまり、人命の喪失はない犯罪に対しても死刑が最高刑として与えられているのです。
例えば、日本法上は、「被害者のない犯罪」として内乱罪(刑法77条1項1号―首謀者の場合)、外患誘致罪(刑法81条)、外患援助罪(刑法82条)に死刑が定められています。これらの罪は「国家的法益に対する罪」とも呼ばれ、言わば国家そのものを被害者とするものですが、具体的な個人の被害者が存在しない政治犯罪に属します。
また人命の喪失を伴わない犯罪では、一般刑法上、いずれも現住建造物等に対する放火罪(刑法108条)、激発物破裂罪(刑法117条1項)、浸害罪(刑法119条)、特別刑法上は爆発物取締罰則上の爆発物使用罪(同法1条―他人に使用させた場合を含む)で死刑が与えられます。
さらに人命の喪失はあるが故意でなく、いわゆる結果的加重犯にとどまる場合でも最高で死刑となる罪も、一般刑法上及び特別刑法上合わせて8個あります(実際の量刑上、死刑が選択されることはめったにないが、被害者数が多いような場合に選択することが許されないわけではない)。
要するに、日本法上死刑が定められている合計19個もの罪のうち、実に15個は狭義の殺人犯罪以外の罪なのです。
死刑を廃止するとは、こうした殺人犯罪以外の罪における死刑も含めて一般的に死刑制度を廃止することを意味しており、もっぱら殺人犯罪の死刑だけを廃止するということではありませんから、被害者感情論を死刑の存廃の論議で持ち出すことは適切でないことがおわかりいただけるかと思います。
とりわけ、第3話でも触れた外患誘致罪は法定刑に死刑しかない日本法上唯一の絶対的死刑犯罪ですが(法律上酌量減軽の余地はあるが、外患誘致のように究極の国家反逆行為に酌量減軽が付くことはほとんど考えられない)、この日本で一番重い死刑犯罪が「被害者のない犯罪」であるというまぎれもない事実は、死刑制度と被害者感情との無縁性を如実に物語っています。
それならば、強盗殺人罪なども含む殺人犯罪に対する死刑だけを残して、他の罪における死刑は廃止する部分的死刑廃止ならば賛成できるという死刑存置論者がおられるかもしれません。
これも一つの妥協案ですが、日本ではそもそもそれすらも実現の兆しが見えないということに留意する必要があります。もしも死刑制度をもっぱら被害者感情の観点からとらえるならば、殺人犯罪に対する死刑だけを残す部分的死刑廃止くらいは実現して然るべきなのに、決してそうはならないということは、やはり死刑制度と被害者感情は直接に関係しないことを裏書きしているのではないでしょうか。
ところで、殺人犯罪に限って死刑を残すという提案ですが、これは殺人犯罪についてはなお死刑と被害者感情を直結しようとする発想に基づいているのでしょう。要するに、この場合の死刑には被害者の復讐感情を満たす働きが期待されているわけです。
しかし、死刑は一本の制度であって、各罪ごとに別の種類の死刑があるわけではありません。日本では刑の種類を定める刑法総則の9条で死刑が規定され、死刑執行方法については同法11条1項で絞首に一本化されています。これを受けて刑法各則及び特別刑法上の個別の罰条で死刑が最高刑として与えられるという構成をとっているのですから、殺人犯罪に対する死刑が他の罪における死刑とは異なる特殊な意義を担っているとの理解は成り立たないように思われます。
死刑は合わせて一本なのであって、たとえ殺人犯罪に対する死刑といえども、それは決して復讐の代行ではなくして、どこまでも国家が社会秩序維持の観点から科する刑事処分の一つにほかならないのです。
従って、殺人犯罪に対する死刑だけを特別に取り出して存置するという部分的死刑廃止は死刑制度の本質をなおとらえ損ねているように思われるのです。
それにしても、殺人犯罪を含めて死刑を全廃してしまったら、被害者(遺族)が復讐感情を満足させる機会を失ってしまい、大きな不満を残すのではないかとのご懸念があるでしょうか。
しかし心配はご無用です。日本には復讐そのものを禁ずる法律は存在しないのですから、被害者(遺族)は自らの手で復讐することができるのです。驚かれるでしょうか。しかし、これは事実です。
この点、いわゆる決闘に関しては「決闘罪ニ関スル件」という明治時代以来の古い禁令がありますが、「復讐罪」という規定はどこにもないのです。法は決闘と異なり、復讐そのものは何ら禁じていません。これは、決闘が封建的な遺習として禁止されなければならないのに対し、復讐は時代を超えて人間にとって普遍的な避け難い行動である―その点では自殺とも類似する―という事実に着目してのことと考えられます。
とはいっても、復讐の手段として殺人その他の犯罪行為を行えば処罰されることは当然ですが、それは復讐それ自体ではなく、復讐の手段の違法性が罪に問われるだけのことです(目的は手段を正当化しない)。
その場合、殺人等の犯罪行為の動機・目的が復讐にあったことは量刑上考慮すべき事情として検討されるでしょう。その結果、司法判断がどう出るかはよくわかりませんが、復讐の動機・目的は、少なくとも金銭目的などと比べれば情状酌量の余地ありとされる可能性は高く、具体的状況からしてその復讐行動が懊悩した末のやむにやまれぬものであったと認められるような場合は、法律上の酌量減軽が付く可能性もあると思われます。
一方、犯罪に当たらない方法で個人的に復讐するならば、それは何の罪にも問われないわけです(民事不法行為として損害賠償責任を問われる場合はあり得る)。
こういう次第で、法は復讐それ自体を何ら禁じていないのですから、「法は復讐を禁じている」という前提に立って「殺人犯罪に対する死刑は復讐の代行の意義を担う」とする理解も成り立ちません。
死刑に復讐感情の満足を求めるのは、被害者(遺族)個人の主観的な思い入れとしてはあり得ても、それは客観的な制度の現実・実態とは合致していないのです。
結局のところ、死刑の存廃を論ずるに当たって被害者感情を問題とすることが失当だったのであり、このような「論点」自体が本来存在し得ないものなのです。ところが、後に詳しく解析する内閣府の2009年度世論調査では、死刑を容認する理由のトップに「死刑を廃止すれば被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」が挙がっているのです。つまり最新の政府世論調査による限り、死刑を容認する日本人の多くは被害者感情論に立っているわけです。
しかし、先にも見たように、日本法上「被害者のない犯罪」や人命の喪失を伴わない犯罪についても死刑が定められているという事実を秘して、上記のような選択肢を与えて回答させる世論調査の手法はミス・リーディングであり、世論調査ならぬ「世論操作」の疑いを免れないところです。
死刑は重大犯罪を犯した者に贖罪を果たさせる方法として必要ではないか?
今回から先、第13話までは叙述の仕方を変え、今度は死刑存置論の側の代表的な論拠ないし反論に対してお答えするという形で検討を加えていきます。
そのトップを切るのは、応報論です。前回検討した最高裁大法廷判決では蛇足的理由付けの中で社会防衛が強調されていましたが、実際のところ死刑の理由付けの中で最も歴史が古く、かつ現在でもポピュラーなのは応報です。
ただ、応報といっても、ドイツの観念論哲学者カントのように、およそ人を殺した者には死刑を科さねばならないという絶対的応報の立場からの死刑存置論は現在ほとんど見られず、多くは一定の重大な犯罪、なかでも残酷な殺人犯罪を犯した者に対する応報として死刑を科すべきとする相対的応報の立場からの死刑存置論です。それだけに、第3話で問題としたように、どんな場合に死刑を適用すべきかという「基準」のあいまいさに悩まされ、差別性も生じてくるわけです。
その問題はさておくとしても、現代の大衆レベルの応報的死刑存置論のもう一つの特徴は、応報のための応報ではなく、罪を犯した者に贖罪を果たさせるという道義的な目的論が加わっているということにあります。
実際、内閣府が2009年に実施した死刑の存廃をめぐる世論調査の中でも、死刑を容認する理由として、「凶悪犯罪は命をもって償うべきだ」とする割合が次回扱う被害者感情論に次ぐ僅差で二位に挙がっていることは、こうした死刑=贖罪論が根強いことの表れです。
面白いことに、命をもってする償いという観念は血讐のような有史前・古代の習俗的法観念と連続性を持つもので、先のカントのように、そうした習俗的な要素を捨象した純粋性の応報論こそ「近代的」とも言えるのですが、大衆レベルでは依然として古来の習俗的法観念の記憶が残存しているのかもしれません。
ただ、別の角度から見れば、応報のための応報でなく、応報‐贖罪という形で応報観念に目的論的な修正を加えることは、それも一つの応報観念の相対化の方向性としてとらえることもできるでしょう。
しかし、一方では、このように刑罰に贖罪という目的論的意味づけを与えることが果たしてできるだろうかという大きな問題があります。贖罪とは本質的に道徳的行為ですから、良心の発露として自発的に行われてはじめて贖罪としての意味を持ち得るのではないでしょうか。
これに対して、刑罰とは国家が強制的に科する処分であって、日本の場合、死刑執行は刑訴法に基づいて法務大臣の命令によってのみ行われます。刑罰は有無を言わさず強制的に適用・執行されるものですから、嫌でも科せられるもので、そこには自発性が認められません。従って、刑罰に贖罪という道徳的意味を読み込むことは困難ではないかと思われるのです。
ただ、受刑者が刑罰を科せられること、とりわけ死刑を科せられることに同意し、あるいはそのことを“希望”するということさえ一部に見られます。このような場合、死刑執行は自殺的な意味を帯びてきます。死刑存置論者にとっては、このような死刑執行こそが“理想の処刑”ということになるのでしょうか。
しかし、死刑執行への同意とか希望はほとんどの場合、絶望の表れです。多くは元来自殺願望を持っていながらも自殺し切れず、代償的に凶悪犯罪に走り、自ら死刑を望むというパターンですが、このような場合には、死刑執行に贖罪の意味を認めることは無理でしょう。
もっとも、中には自らの犯罪を恥じ、真摯な償いとして死刑執行を受け入れたという“模範的”死刑囚の伝説もあります。しかし、その人の本当の心境が奈辺にあったか、確実に証言できる人はいません。
私見によると、贖罪としての死として意味を持ち得るのは自らの手による“死刑執行”、すなわち自殺の場合だけです。もちろん、常識的道徳論において、自殺はいかなる理由があれ正しくない行いとされています。それだから死刑で代用するというのもやはり無理で、自殺と死刑は相互に代替不能な全く別個の事象です。
ちなみに、贖罪の「贖」とは本来は賠償のことで、従って贖罪とは罪を物―貨幣経済の現代なら原則として金銭―で償うことを意味しています。しかし、犯罪の加害者の多くは低資力か無資力で、被害者側に高額な賠償金を支払う能力がありません。金で償えない貧乏人は命で償え!というならば、それはいささか階級司法的な発想のようでもあります。
興味深いのは、前出内閣府世論調査では、死刑廃止を支持する人の中でも、その理由として「(犯罪者を)生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」という理由がトップに挙がっていることです。
死刑廃止論者にあっても、大衆レベルではなお「償い」という観念を死刑存置論者と共有し合っているわけですが、「生きて償う」と「死んで償う」とでは、その「償い」の中身は全然違ってきます。「生きて償う」となれば金銭賠償が代表的ですが、それも現実には無理となると、あと「償い」として何が残るのでしょうか。
結局、「生きて償う」とは「償い」そのものよりは、いわゆる「更生」の領野へ視点移動することを意味せざるを得ないように思われます。
そういう観点からとらえ直してみると、元来20世紀以降の刑罰論にあっては、応報‐贖罪といった過去の行為への反作用だけで刑罰をとらえるのではなく、教育‐更生という未来志向的目的をより重視することが基調となっています。現代的刑罰にあって、この教育‐更生という目的志向性を完全に否定することはもはや許されないと言って過言でないと思います。
このことは、単に刑罰体系上懲役刑のように教育‐更生の目的をそれなりに含む刑罰が中核となっていれば足り、例外的にそうした目的を持たない刑罰を存置することは許されるというにとどまらず、すべての刑罰について教育‐更生の目的が含まれているべきことを要請します。
この点で、およそ教育‐更生の目的を否定する死刑は刑罰体系上居場所を持たないはずなのですが、実は辛うじて運用上、恩赦の制度を通じて死刑にも教育‐更生の目的とは言わないまでも、その要素を持たせることはできなくないのです。
恩赦は政治性も強い行政権による刑の事後的減免制度ですが、死刑確定者であっても改善の兆しが事後的に相当程度認められれば個別恩赦で無期懲役刑に減刑するといった措置を取ることは可能ですし、そうすべきものでもあります。
この場合、死刑確定者に対して直接に懲役受刑者のような矯正プログラムを課することはできませんが、自学自習や宗教教誨などを通じて自主的に改善を図ることは認められます。従って、死刑確定者に対する恩赦を積極的に活用するならば、その限りで死刑は運用上教育‐更生の要素を持ち得るわけです。
この点、国連の自由権規約6条4項は「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する。死刑に対する大赦、特赦又は減刑は、すべての場合に与えることができる。」と定め、死刑確定者に対する恩赦の権利性を強調しています。
ところが、日本における死刑囚に対する恩赦は1975年が最後で、以後30年以上にわたり一度もないとされますから、現在の日本政府は「死刑囚には恩赦を与えない」ということを慣例としているように見えます。このような慣例は、すでに批准済みの自由権規約に違反しています。第5話で見たように、批准した条約については憲法上誠実遵守義務がありますから、自由権規約の規定を順守しないことは自国の憲法にも違反するのです。
自由権規約の規定を順守し、死刑確定者の恩赦を十分に保障するためには、死刑判決確定からしばらくは確定者の改善状況を見るため、少なくとも二、三年は執行を控える必要があり、この面からも死刑確定後6ヶ月以内の執行を定める刑訴法の規定は不当なものと言わざるを得ません。
本来、改善ということに期間の制限などないはずですから、自由権規約の規定に忠実に死刑確定者に対する恩赦を「権利」として受け止めるならば、およそ死刑執行は事実上凍結せざるを得なくなるでしょう。
実際、第5話で指摘した死刑執行停止国の中には、死刑判決は出し続けながらも、死刑確定者を例外なくすべて一定期間経過後に恩赦減刑するという、日本政府とは全く正反対の慣例を持っている国もあります。
かくして、死刑確定者に対する恩赦の積極的な活用は、第2話で見た再審請求権の尊重と並んで、死刑廃止へのもう一つの道なのです。そうであるからこそ、死刑存置に固執する日本政府は死刑囚の恩赦に否定的であるのでしょうし、かの絶対的応報論のカントも恩赦制度そのものに批判的であったのでした。
死刑制度は日本国憲法にも違反すると解釈できる余地が十分にある
戦後間もない1948年の大法廷判決以来、日本の最高裁判所は60年以上にわたり、「死刑は憲法に違反しない」との立場を護持し続けています。
最高裁判所の裁判官は下級裁判所の裁判官とは異なり、たった一人でも反対意見を表示することが認められているのですが、過去60年あまり「死刑は憲法に違反する」との反対意見を出した裁判官はただの一人もいないという徹底ぶりです(本稿執筆時点)。
もちろん、死刑が憲法に違反するか否かという憲法適合性の問題と、死刑が政策的に妥当かどうかという問題は論理上別問題ですから、死刑が憲法に違反しないからといって制度を廃止することが許されないというわけではありません。
しかし、「憲法の番人」がおよそ二世代、60年の長きにわたって死刑=合憲論を護持し続けていることの影響は大きく、死刑制度を固着させ、死刑廃止をおよそ論外のこととしてタブー化することを後押ししていると言っても過言ではないでしょう。
それにしても死刑=合憲論は果たして変更不能なほど自明な定理なのでしょうか。筆者は憲法学者ではありませんが、憲法学者ですら正面から取り組もうとしないこの問題に蛮勇を奮ってチャレンジしてみたいと思います。
その前に、今日に至るまで一貫してリーディング・ケースとなっている1948年大法廷判決の論理をまずは見ておきます。この判決の判断枠組み自体はなかなか理路整然としており、死刑制度の憲法適合性を判定するに当たって、(ア)死刑制度そのものの合憲性と(イ)死刑執行方法の合憲性とを分けて検討しています。
(ア)の死刑制度そのものの合憲性について、判決は次のように判示します。
「憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同条においては、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然に予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに、憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。」
要するに、憲法13条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」との文言、31条の「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」との文言を反対解釈すれば、「生命・・・・・・に対する権利といえども、公共の福祉に反するときは、国政の上で、最大の尊重を必要としない。」及び「何人も、法律の定める手続によれば、生命を奪はれ・・・・・・る。」となり、憲法が死刑制度を是認していることは明らかだというのです。従ってまた、死刑制度そのものが憲法36条で絶対に禁じられる「残虐な刑罰」に当たることもないとしています。
一方、(イ)の死刑の執行方法の合憲性については、次のように判示します。
「死刑といえども・・・・・・その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」
要するに、火あぶりやはりつけといった前近代的な死刑執行方法を復活させるようなこと―実際のところまずあり得ない―がない限り、現行法上の絞首刑は憲法に違反しないというのです。
以上のような大法廷判決の論理は一見してスキがないように見えます。しかし、必ずしもそうではありません。
まず、死刑制度そのものの合憲性について、判決は憲法13条と31条を単純に反対解釈して合憲の結論を導いていますが、基本的人権の保障に関わる規定をひっくり返して逆さに読み、かえって人権の制限・剥奪の根拠にすりかえてしまうというロジックが本末転倒なのです。
実は、判決もそのことに一抹の後ろめたさを感じたようで、「言葉をかえれば」として、次のような理由付けを急いで付け加えているのです。
「(憲法は)死刑の威嚇力によって一般予防をなし、死刑の執行によって特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもって社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられる。」
これは要するに、死刑制度を社会防衛上の必要から理由付けし、なおかつ社会防衛上の必要が個人の人権よりも優位すると断じたものです。
しかし、仮に憲法が死刑制度を是認しているとしても、死刑制度の存在理由―社会防衛以外にも、応報とか法確証とか様々の理由がある―について憲法は何も述べていないのですから、これは憲法の解釈から脱線した刑罰政策論になってしまっています。
しかも、上記理由付け後半の「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ」云々という部分は、判決が冒頭で自ら引用する憲法13条前段がまず個人の尊重、すなわち「個体に対する人道観」を上位規範として打ち出したうえで、同条後段で一定の場合に公共の福祉、すなわち「全体に対する人道観」による生命、自由等に対する権利の制限を是認するという構えを取っていることを逆さに解する、それ自体憲法に違反する解釈にほかなりません。
こうして、大法廷判決は余分な理由を付け加えることで、かえって語るに落ち、憲法に対する無理解をさらけ出してしまったようです。
ただ、大法廷判決のために弁護するとすれば、この判決は現行憲法とは反対に、まさに「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ」ていた旧明治憲法が事実上廃棄され、現行憲法が施行された翌年という早い時期に出されたもので、憲法の番人自身もまだ新憲法の解釈・適用に習熟しておらず、裁判官の頭の中から旧憲法的価値観が抜け切っていなかった時代の産物であるという事実は否定できません。
そうであればなおさら、そのような時代物の判例を60年以上も護持し続けることは適切でないのです。現行憲法の読み直しに基づく新しい判例の形成が是非とも望まれるところです。
とはいえ、今のところ死刑=違憲論の少数意見を示す気骨ある最高裁判事が見当たらないなら―しかし、なぜでしょう?―、一般市民が代行してしまおうというわけです。
その際、前記大法廷判決がとる(ア)死刑制度そのものの合憲性と(イ)死刑執行方法の合憲性とを分ける論理的な判断枠組みは一応これを借用することとします。そこで、まず(ア)の死刑制度そのものの合憲性を検討していきますが、ここでも大法廷判決にならって憲法13条から入ってみます。
この条項は、先に指摘したとおり、はじめに前段で「個人の尊重」をうたっています。個人の尊重とは個人の存在性に関わる身体・生命活動を基礎とする個人の幸福全般の尊重を意味しています。
それを受けて、後段では「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の「最大の尊重」を立法権とはじめとする国家権力に課しています。しかし、これには「公共の福祉に反しない限り」という限界が設けられていますから、裏を返せば「生命・・・・・・に対する国民の権利」の保障が「公共の福祉」に反するときは少なくとも「最大の尊重」は必要としないことになるわけです。
ここで注意すべきは、「最大の尊重」は必要としないとは、いきなり権利を剥奪してゼロにしてしまってよいことを意味しないということです。「最大」の反対は「無」ではありません。少なくとも「最大」でないということは「最小」かもしれないし、「大」かもしれないし、その度合いは問題となる権利の性質によりけりとなります。
この点、死刑制度との関わりで問題となる生命に対する権利は、他の全基本的人権の土台となる基本中の基本権です。人間は生きていなければ表現活動も経済活動もその他のいかなる活動もなし得ないのですから、これは当然の事理とも言えましょう。その意味で、生命に対する権利は人権の中で最も重要とされる表現の自由よりも重要な権利です。
そうすると、生命に対する権利の保障が公共の福祉に反する場合にあっても、この権利は国政上「最大の尊重」は無理でも「最大に近い尊重」は必要とすると解されます。従って、国家が個人の生命に対する権利を侵害することが憲法によって合憲とされるのは極めて例外的な場合に限られると言うべきです。
その具体的な判断基準としては、最も厳格な基準に従い、緊要な公共的利益に対する明白かつ現在の差し迫った危険を除去するために、国家が個人の生命を侵害する以外に適切な方法がないと認められるような場合を除いては、国家による生命の侵害が憲法上許容されることはないと考えるべきでしょう。
この基準に照らしてみると、死刑は社会秩序を脅かす極めて重大な犯罪に対して科せられる刑罰ではありますが、犯人に対して死刑が適用・執行される時点では通常、その重大な犯罪はすでに終了しており、社会秩序に対する明白かつ現在の差し迫った危険は消失しています。
もっとも、組織的なテロ事件などで、逮捕・起訴された組織リーダーの奪還を大義名分としてテロ活動が続いているというような場合は、なお社会秩序に対する明白かつ現在の差し迫った危険が継続していると言えるでしょう。
とはいえ、そうした場合にその組織リーダーを死刑に処する以外に適切な方法はないと言い切れるでしょうか。たしかに、その者に死刑を執行すればさしあたりリーダーの奪還というテロの大義名分は消滅しますが、その代わりにリーダーを処刑されたことに対する報復という新たな大義名分の下にテロが継続され、結局社会秩序に対する脅威はかえって増す恐れすらあります。
そう考えると、このようなケースにおいてさえ、死刑は先の合憲性基準を満たさないと解され、死刑は憲法13条に違反するという結論が導かれます。
このように、死刑制度そのものが憲法に違反すると解すると、次の死刑執行方法の合憲性という論点は検討する必要がなくなります。死刑制度が憲法に違反するとは、死刑の執行方法のいかんを問わず、死刑一般が憲法に違反し、存続の余地はないということにほかならないからです。
ここで、先の大法廷判決が挙げていた憲法31条は「法律の定める手続」による限り、刑罰として生命を奪うことも許容しているのだから、死刑が憲法13条に違反するとすれば憲法内部で矛盾が生ずることにならないか、との反問があるかもしれません。
しかし、同条はいわゆる適正手続き(デュー・プロセス)に関わる規定であって、文言上も「法律の定める(適正な)手続によらなければ」生命であれ、自由刑であれ、その他のいかなる刑罰であれ、科することが「できない」ということを国家に条件づけているのですから、大法廷判決のようにこの条項をもって憲法上許容された刑罰を例示した規定と読むのも、実は恣意的な反対解釈であったのです。
一方、死刑廃止に強い熱意を持つ方ならば、そもそも死刑制度一般が憲法36条で絶対に禁じられた「残虐な刑罰」に当たるのではないかとお考えかもしれません。
これはストレートで明快な解釈ですが、「残虐」という文言は限定的かつ感覚的ですから、絞首とか薬物注射とかの具体的な死刑執行方法を問わずに、死刑一般が「残虐」かどうかを一律に判断することは実際上困難なことのように思われます。
いずれにせよ、死刑=合憲論は決して永久不変の定理などではないのです。判例変更を促す被告人・弁護人の法廷弁論に期待が持たれるところです。
死刑廃止は確立されつつある国際法上の規範である
死刑廃止論の側からは、従来「死刑廃止は国際的潮流だ」ということがしばしば強調されてきました。たしかに、1990年代以降、死刑廃止国が増加し、それ以前は死刑廃止国といえばほとんどが西欧と南米に集中していたものが、東欧からアジア・アフリカ諸国にも広がりを見せ始めています。
しかし、その「潮流」なるものが単に流行のモードのようなものにとどまるならば、あえて流行に乗らないということも一つの流儀ですので、死刑廃止の積極的な理由とはならないでしょう。
では、この「潮流」とは何かといえば、それは死刑廃止が国際法の中に取り入れられ、国際法上の規範として確立されつつあることによって法的に促進されてきている「潮流」なのです。
そのきっかけをなしたのが、1989年の国連総会で採択され、91年に発効した「死刑の廃止をめざす市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」(以下、通称で「国連死刑廃止条約」という)でした。
この条約はこれより先、1966年の国連総会で採択され、76年に発効した(日本は79年に批准)「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下、単に「自由権規約」という)の改正法として採択されたもので、元来自由権規約では締約国に死刑廃止を直接に義務付けず、単に死刑の限定的なかつ公正な適用を義務付けるにとどまっていた態度を改め、議定書締約国に正面から死刑廃止を義務付けたところに意義があります。
ただ、自由権規約では死刑廃止を直接に義務付けていないとはいえ、6条2項で「死刑を廃止していない国においては」死刑を限定的かつ公正に適用すべきことを求め、なおかつ同条6項で「この条のいかなる規定も、この規約の締約国により死刑の廃止を遅らせ又は妨げるために援用されてはならない。」との注意規定を置き、すでに死刑廃止を意識した消極的死刑存置の立場を示していたのでした。
この点、国連死刑廃止条約の前文は、自由権規約6条が「その望ましさを強く示唆する文言で死刑廃止に言及している」と指摘しています。従って、ここから死刑廃止を明確にした選択議定書まではそう遠い距離でもなかったのです。
日本政府はこの条約の審議過程からイスラーム諸国などと並んで強く抵抗し、採択に際しても反対票を投じていますが、同条約は国連総会で賛成多数をもって採択されました。
ちなみに、日本では同条約が採択された89年から93年にかけて3年4ヶ月間ほど死刑執行が休止していたのですが、93年3月に執行を再開し、その後も国連からのたび重なる死刑廃止の勧告を拒否して、毎年死刑執行を継続する数少ない国の一つとなっていることは序文でも指摘したとおりです。
ところで、日本国憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と定めています。この規定によると、政府が締結していない国際法でも、「確立された国際法規」については誠実に遵守する義務があることになります。そこで、もし国連死刑廃止条約が憲法98条2項の「確立された国際法規」に当たるとすれば、日本政府が同条約を無視して死刑執行を続けることは自国の憲法にも違反することになります。
しかし、残念ながら、死刑廃止条約はまだ「確立された国際法規」には当たらないと解されます。同条約は発効から20年程度の比較的新しい条約であり、締約国数も2011年現在、まだ百の位に達していないからです。
とはいえ、全く未確立のマイナー条約かといえばそうではありません。すでに死刑廃止の原則ないし理念は国際法レベルでは撤回が考えられない重要な人権準則となっており、条約締約国数も年々増加してきています。
より注目すべきは、死刑存置国(米国の死刑存置州を含む)にあっても、長期間全面的に死刑執行を停止している国(死刑執行停止国)が増加していることです。こうした傾向は、序文でも触れたように、2007年以降、国連総会がほぼ連年で死刑執行停止を呼びかける決議を採択していることによってさらに促進されていくでしょう。
以上のような「潮流」からすると、死刑廃止条約はまだ完全な確立を見ていないものの、「確立されつつある国際法規」であるとは言えるところまで来ていると考えられます。従って、微妙ではありますが、完全に確立されていないからといって、条約を完全に無視してよいというわけにはいかないのです。
実際、日本はまぎれもなく国連加盟国であり、自由権規約締約国としても30年以上が経過しています。そうであれば、その同じ自由権規約の改正法としての意義を持つ死刑廃止条約についても、批准に向けた政治的・社会的な努力を継続すべき国際的な責務があると言えます。
従って、条約を批准するかどうかは各国の主権の問題に属するという、それ自体としては誤りでない原則論を金科玉条として条約を無視し、それに刃向かうかのように死刑執行を継続することは主権の濫用と言わざるを得ないように思われます。
では、ここで国連死刑廃止条約の内容を簡単に見ておきましょう(以下、阿部浩己教授訳による)。
まず条約の最大の特徴は、死刑廃止を二段階に分けていることです。すなわち「この選択議定書の締約国の管轄内にある何人も、死刑を執行されない。」と定める条約1条1項によると、締約国はまず第一段階として、その管轄内での死刑執行を全面的に停止すること(死刑執行モラトリアム)が義務付けられます。然る後に、第二段階として、同条2項で「各締約国は、その管轄内において死刑を廃止するために必要なあらゆる措置をとる。」ことが義務付けられるのです。こうした二段階方式は、条約締約国に即時の死刑廃止を求めるのではなく、死刑廃止へ向けたプロセスを促進することを求める趣旨です。
もちろん、二段階といっても、第一段階の死刑執行モラトリアムを実現した後、長期間死刑廃止のために必要な措置をとらずに放置することは許されませんが、最終的な死刑廃止まで一定の時間的なゆとりを持たせることは認められるわけです。その点で、同条約は各国の実情にも配慮された内容となっています。
いくぶん論争の余地があるのは、条約2条で「戦時中に犯された軍事的性質を有する極めて重大な犯罪」に関しては戦時に死刑を適用することを例外的に許容していることです。この戦時の軍事的重大犯罪とは何を意味するかあいまいですが、例えば戦時のスパイ罪や反逆罪などがこれに該当するようです。
しかし、平時以上に死刑制度が濫用されやすい戦時におけるこうしたあいまいな要件による死刑の許容は、たとえ例外的とはいえ、条約の重大な問題点とみなされます。
ただし、この規定は条約批准時または加入時に特別の手続きに従って留保した場合に限って適用されるもので、留保しない限り、締約国は平時・戦時を問わず、あらゆる犯罪について死刑を廃止することが求められます。
従って、この条約2条の存在をもって、国際法上死刑廃止は要請されていないなどと強弁することはできません。たとえ同条項を留保するとしても、最も一般的な死刑相当犯罪である殺人罪に関しては死刑廃止が義務付けられている事実にも変わりありません。
ところで、日本が関わりを持つ死刑廃止条約がもう一本あります。それは「欧州人権及び基本的自由の保護条約」(以下、「欧州人権条約」と略す)です。欧州の一員ではない日本がなぜ欧州人権条約に関わりを持つかといえば、日本は1996年以来、米国などとともに欧州評議会のオブザーバー国に迎えられているからです。
欧州評議会とは、欧州連合(EU)とは別に、人権、民主主義、法の支配といった価値観の促進と加盟国間の協調拡大を目的として設立された1949年以来の歴史を持つ欧州の国際機関です。この評議会では1994年以来、死刑廃止を加盟条件として課していますが、それに伴い、オブザーバー国に対しても死刑廃止を要請するようになってきたのです。
かねて欧州人権条約では、欧州評議会が1982年に採択した第6議定書により死刑廃止を規定してきましたが、この議定書では「戦時又は差し迫った戦争の脅威があるとき」に犯された犯罪に対する死刑を存置しており、先の国連死刑廃止条約と類似の例外を許容しています。
しかし、2002年に改めて採択された同条約第13議定書では、戦時を含めたあらゆる状況下での死刑廃止を規定しました。これは国連の条約よりも進んだ画期的な全面的死刑廃止条約の到達点となっています。
これに先立つ2001年、欧州評議会議員会議は、同評議会オブザーバー国である日本と米国に対し、死刑執行の停止と死刑廃止に必要な段階的措置をとること、死刑囚監房の人権状況を改善することを要請し、2003年1月までに要求事項の著しい進展が見られなければ、同会議は両国のオブザーバー資格に異議を唱えるという決議をしたのです。
このような西方からの思わぬ要求を内政干渉とみなす向きもあり、事実、日本政府は強く反発したようですが、欧州評議会のオブザーバー国となっている以上、欧州からの申し入れを単純に内政干渉として片づけるわけにはいきません。
もちろん、日本は欧州人権条約を直接に批准すべき立場にはありませんが、欧州評議会のオブザーバー資格を返上するのでない以上、日本も欧州の言わば準メンバー国として欧州の人権政策に対する理解と協力を要請される立場にあります。従って、日本が欧州人権条約の趣旨を尊重して死刑廃止へ向けた努力を開始することは、欧州とのパートナーシップという自ら選択した外交政策の針路でもあるのです。
ちなみに、日本と同様に欧州評議会のオブザーバー国である中米のメキシコは、2005年に死刑を全面的に廃止しています。
以上のように、現在、日本ははっきりと当事者性を有する国連死刑廃止条約と、それに次ぐ準当事者性を有する欧州人権条約と二本の国際法に基づいて死刑廃止を勧告されるに至っています。
これまでのところ、日本政府は「国内世論」を楯に取って一切耳を貸さない強硬な態度を貫いていますが、そのことは国内的には何ら問題にされないとしても、国際的には日本国及び日本国民の信望を著しく損ねることになりかねないということを私どもは認識すべきではないでしょうか。
重大な犯罪ほど社会構造の歪み・ひずみがその温床となっており、犯人個人を死刑に処したところで問題の本質的な解決にはならない
死刑とは「犯罪者を人類の共同社会と生者の名簿から厳粛に抹消すること」(J・S・ミル)を意味していますが、このような死刑のコンセプトの根底には「社会は常に善であり、悪はすべて犯人の側にある」との考え方(社会性善説)が存在するものと思われます。
これは「責任」という観点からみると、社会の側に責任を認めず、罪を犯した個人に100パーセントの責任を負わせるという点では「社会無罪説」と呼ぶこともできるでしょう。
しかし、こうした社会性善説ないし社会無罪説は、犯罪現象の本質をとらえ損ねているように思えてなりません。
アリストテレスが言ったように、人間とは社会的動物ですから、社会と個人とは、概念上はともかく、現実には分離できないはずです。要するに「人間的本質は、その現実態においては、社会的諸関係の総体である」(マルクス)ということになります。言い換えれば、犯罪現象は社会構造の所産であって、各々の犯罪行為には各時代の社会構造が映し出されているものなのです。
現代的社会構造の中でも犯罪との関わりで最も中心的なものは、商品経済です。今日、贅沢品から日常の基本的な衣食住に関わる物品・サービスに至るまですべてが商品化され、貨幣と交換でなければ獲得できなくなっています。
そうなれば、カネのためには殺人さえも辞さないとの考えを助長していくことは必定です。実際、殺人犯罪にも多くの場合、カネがどこかに絡んでいます。強盗殺人は特にそうですが、保険金殺人、身代金目的誘拐殺人、借金をめぐるトラブルからの殺人等々・・・・。
そして、裁判所の量刑上もこうしたカネにまつわる利欲的な動機による殺人は重くなりがちです。特に強盗殺人罪(刑法240条)は法定刑に死刑と無期懲役刑しか持たない関係上、死刑の公算は高くなります。
より大きくみれば、商品‐貨幣交換経済、そしてそれの権化としての資本主義経済構造が利欲的犯罪の温床を形成しているのです。
一方、資本主義経済構造は個人の利己主義的欲望をエートスとして自己を保持しているわけですが、資本主義によって刺激される私利私欲は金銭的欲望のみならず、性の商品化現象とも絡んで、性的欲望のような非金銭的欲望にも及び、フェティッシュな性犯罪の温床を形成することにもなります。ちなみに性的目的の殺人、とりわけ若い女性や児童を被害者とするものは量刑上重くなりがちです。
また、資本主義経済構造と密接不可分なブルジョワ社会において進行する人間の原子化、社会的孤立化は、直接ではないにせよ、不可解な暴発的暴力犯罪の要因となることも指摘しなければなりません。
もっとも、1990年代半ばの日本社会を震撼させたオウム真理教教団による化学テロ事件(サリン事件)のようなものになると、社会構造云々とは無関係ではないか、という反論もおありかもしれません。
これは難問です。しかし、判決で言われたように、同事件は教団に対する民事裁判や刑事捜査を妨害するためのかく乱工作であったという表面的な説明にどれだけの人が納得できるでしょうか。
筆者はさしあたり、ブルジョワ社会における宗教の私事化傾向をめぐるマルクスの次のような指摘が―完全ではないにせよ―かなりの程度妥当すると考えています。
「いまや宗教は、ブルジョワ社会の精神、すなわち利己主義の領域、万人の万人に対する戦いの領域の精神となった。宗教はもはや共同性の本質でなく区別の本質である。宗教は共同体からの、自分と他の人間からの、人間の分離の表現となっている―宗教はもともとそのようなものだったのである。もはや宗教は、特殊な倒錯、私的妄想、気まぐれの抽象的な告白にすぎない。」(城塚登訳―訳文一部変更)
もちろん、こうした一般論に加えて、バブル経済崩壊に伴う高度経済成長時代の完全な終焉、それに引き続く「失われた十年」の只中に当たった90年代半ばという時期にオウムのような宗教反動勢力が台頭し、理科系高学歴者を含む多彩な青年層を惹きつけ、しかもその集団がテロリズムへと暴走していったことの関連が分析されなければなりませんが、オウム論は本連載の主題を超えるため、詳論は避けます。
ところで、このような犯罪と社会構造との関連を重視することは、個人の犯罪実行責任を否定することを意味していません。単純に「社会が悪い」として、犯罪を「社会のせい」にすることとは違います。
むしろ、個人が犯罪実行責任を負うべきことは否定されないまでも、100パーセントの責任を個人に押し付けるのではなく、社会も犯罪に対して相応の「責任」を引き受けるべきことを意味しているのです。
このことを標語的にまとめると、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」と表現することができます。言い換えれば、個人には犯罪実行責任があるが、社会には犯罪誘発責任があるということです。
前回指摘したとおり、重大な凶悪犯罪を犯した人ほど、苦難の人生を歩んできた社会的困難者であり、社会はどこかでその人のSOSを受信して救出し得べきであったのですが、かえって犯罪の方向へ背中を押してしまったのです。
もっとも、犯罪誘発「責任」といっても、社会そのものを罰することは不可能ですから、ここで言う「責任」とは、まず何よりも公的責任において罪を犯した人の矯正・更生を図ることです。これは要するに、死刑でなく矯正施設での矯正プログラムや出所後の更生のサポートを徹底して充実させることを意味しています。
犯罪誘発責任のもう一つの重要な内容は犯罪被害者に対する関係でも、社会は「責任」を負うべきであるということです。すなわち、社会は元来、犯罪の発生を防止する責務を負っていますが、それにもかかわらず犯罪を誘発して被害を引き起こしてしまったに対して「責任」を負わねばならないのです。
具体的には、犯罪被害者及びその家族・遺族に対する公的な補償、心身のケアなどの無償サポートといった施策を高度に充実させることです。死刑はしばしば「被害者のため」という目的論を伴うことがありますが、犯人を殺したところで、被害者側に生じた経済的・精神的被害の実質的な回復につながるわけではありません。
死刑によって犯人を人類社会から永久に抹消することは、結局、社会が上記のような犯罪誘発責任を果たすことを回避し、事件に永久にふたをしてしまうことにほかなりません。
オウム事件では、事件発生から20年近くを経て、すべての事案で最高首謀者と認定された教祖をはじめ、事件に関わった教団幹部らに次々と死刑判決が確定していっています。
当局としては、事件の主犯者級に対する「全員処刑」をもって、事件の“最終解決”としているように見えます。しかし、それによって得られるものは何なのでしょうか。よくよく考えてみる必要がありそうです。
ここで少々品の良くないたとえ話を披瀝してみたいと思います。題して「ゴキブリ理論」。
いま仮に皆様のお宅にゴキブリがよく出没するとします。そこで対策として大量の殺虫剤をまとめ買いしてかれらが顔を出したつど殺虫剤で殺してまわります。ご経験がおありかもしれません。こういう行動は果たして合理的なのでしょうか。
ゴキブリがあまりに多いとしたら、皆様のお宅がゴキブリの餌場と化しているのではないかと疑い、一度大掃除してそもそもゴキブリが大量発生しないようにする方が、殺虫剤を大量に使用するよりも合理的ではないでしょうか。
このたとえ話のゴキブリを「犯罪」に、皆様のお宅を「社会」に置き換えてみると、本稿で筆者が述べようとしたことのまとめとなります。
ところで、社会の「大掃除」の究極には、そもそも犯罪の温床となる社会構造そのものの変革、すなわち社会革命ということが視野に入ってきます。これについて多くを語ることはできませんが、ここでは再びマルクスの次のような提案を引いて締めくくっておきましょう。
「たくさんの犯罪者を処刑することによって、ただ新しい犯罪者を作り出す余地を与えるにすぎない死刑執行人をほめるかわりに、このような犯罪を培養する社会体制の変革についてとくと思案する必要がありはしないか?」(大月書店版全集訳)
死刑は一定の重大犯罪を犯したと認められた者を化し、人間としての存在価値を否定する究極の差別である
死刑を正当化する理由づけはいろいろありますが、究極的な決め手は一定の重大犯罪を犯したと認められた者を化し、一種の動物としてその人間的な存在価値を否定するところにあると考えられます。
この点、裁判所の死刑判決の中でもしばしば被告人を「鬼畜」呼ばわりしたり、もう少し穏やかに「人間性を欠く」と指弾したりすることがありますが、これこそが決定的な「死刑の理由」なのです。被告人が人間であるならば、やはり人間としての尊厳を認めてやらねばならないので、被告人を化して、害獣と同様に「殺処分」することを正当化するロジックを必要とするのです。
このように犯罪者を動物視する思想には西洋でも長い歴史があります。古くはアリストテレスが「悪人は動物よりも悪く、より有害である」と指摘し(動物以下!)、これを引き継いで、中世スコラ哲学の大家トマス・アクィナスも「人が彼の尊厳を保持する限り、人を殺すことはそれ自体として悪である。しかし、犯罪者を殺すことは、動物を殺すことと同様に、善であり得る」と断じます。
また、近代啓蒙思想の祖ジョン・ロックに至っても、「人間はライオンやトラなど野生の獣とともに社会を形成することもできないし、安全を確保することもできないのであり、こうした獣を殺してもよいように、犯罪者を殺すこともできるのである」と勇ましく書いています。
こうした思想に共通しているのは、人はある特定の犯罪を一度でも犯したことによって人間とはみなされなくなるという考え方です。これは要するに、罪を犯した人に対する差別の視線なのです。
「犯罪者」という日常語がすでに、犯罪を犯したということを一つの負のしるしとして、一般人と異なる何か特殊な個人であるとみなす差別一歩手前の表現になっているわけです。これにさらに「凶悪」という形容が加わって「凶悪犯罪者」となると、これはもはや人間ではない動物、あるいは動物以下の屑として人格を否定され、死を宣告されます。
それでも、実際、人間とは呼べないような所業をなす者は現実に存在するではないか、そのような者を鬼畜と断罪することがどうして“差別”なのだ、とお怒りになるでしょうか。
しかし、実際上、生きるに値しない鬼畜か、生きるに値する人間かを厳密に区別する基準はあるのでしょうか。
これは死刑か無期刑かの判断基準、すなわち死刑の適用基準としてかねてから議論になってきた問題とも関連してきますが、例の裁判員制度の下では、原則として死刑判決にも裁判員が関与しなければならなくなったため、死刑の適用基準は一般国民が直接に当面する問題となったのです。
この点、現行法上、外患誘致罪(刑法81条)という罪は法定刑に死刑しか持たない唯一の犯罪ですが、この場合は基準を云々するまでもなく、外患誘致の事実が認められる限り、自動的に死刑となるので極めて明快です。しかし、外患誘致とは「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させる」罪であって、内乱罪(刑法77条)と並ぶ一種の国家反逆行為ですから、これは凶悪犯というよりも国事犯として断罪されるものです。
これ以外の死刑相当犯罪では、死刑はすべて選択刑として与えられていますから、死刑の適用基準に悩まされることになります。例えば、最も代表的な殺人罪(刑法199条)では「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役刑に処する。」という簡単な規定があるだけですから、具体的にどんな場合に死刑を選択すべきか、規定上からは全くうかがいしれないのです。
そこで、最高裁は1983年の永山事件判決で「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害者感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地かも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」という“基準”を示しています。
しかし、これは死刑の適用にあたって考慮すべき要素をごった煮的に列挙しただけであって、各々の要素をどの程度どう考慮すべきか何も示していません。
よく死刑廃止論に対して、「人を何人殺しても死刑にならないのは納得できない」との反論が寄せられますが、被害者の数だけが死刑の決定的基準ではないですし、その被害者数にしても、では何人殺せば死刑を適用すべきなのか明言できる人は裁判官を含めてまずいないのでしょう。
このようにあってなきがごときあいまいな“基準”でもって、「生きるに値しない者」(=死刑)と「生きるに値する者」(=無期刑)とを選別すること自体も差別にほかならないのではないでしょうか。
もっと徹底してあいまいな“基準”によって、人間を「生きるに値しない者」と「生きるに値する者」とに峻別する政策を極限まで追求したのはナチスでした。
ナチスは「健全な民族共同体」の夢を実現すべく、「生きるに値しない」と判断されたユダヤ人をはじめとする少数民族、障碍者、同性愛者などを絶滅しようと企図し、実際に実行しました。そのナチス体制が同時に、死刑制度を大幅に拡大強化し、大量処刑政策を採ったことは決して偶然ではありません。
ナチスは一つの極限的事例ではありますが、死刑とは国家が人を生きるに値するか/値しないかという観点から恣意的に選別する制度であるという点で、ナチ的なるものとの親和性を否定することはできません。
とはいえ、私どもは残酷な犯罪を犯したとされる人に非人間的なものを感じ取ってしまうことも事実です。これはいったいどうしてだろうかという疑問が長く筆者にまとわりついています。
この疑問を解くことは容易ではありませんが、その鍵をドイツの哲学者ニーチェのアフォリズム『人間的な、あまりに人間的な』の中に見出すことができます(以下、池尾健一訳による)。
ニーチェによると、「われわれの内部にいる野獣は欺かれたがる、道徳はわれわれがかの野獣に引き裂かれないための窮余の嘘である」というのです。すると、野獣―鬼畜と言い換えてもよいでしょう―は私どもの内部にも潜んでいるようです。それを「道徳」という名の欺瞞によって眠らせてあるのです。ニーチェは、そのような人間存在のありようを「超動物」と名づけます。
ところが、「今でも残酷であるような人々は、残存している以前の文化の諸段階とみなされなければならない」、「彼らは、われわれすべてが何者であったかを、われわれに示して、愕然とさせる」といいます。このように、「遅れたものとしての残酷な人間」を見せられると、「自己を何か高級なものと考え」ている「超動物」たるわれわれは、自己の内部で眠らされていた野獣の存在に気づかされて恐怖し、なおかつ「動物性のほうに近いままの段階に対して憎悪を感じ」るのです。
そうだとすると、残酷な犯罪が発生したときに社会に沸き起こる道徳的パニックも、単に他人に対する第三者的な糾弾なのではなく、自己の内部で太古以来眠らされていた「内なる鬼畜」を呼び覚まされることへの恐怖と、そこから生じた自己否定的な憎悪を本質とする現象ということになりそうです。そして、このような自己否定的な憎悪が残酷な犯罪を犯した者の鬼畜視という差別へとつながっていくのだとすると、ここには簡単に解きほぐすことのできない深層心理的なメカニズムが伏在していることになるでしょう。
ニーチェの言うような「超動物」なる問題系は、死刑廃止を人類普遍の法則に昇華させるうえで最大の難関となるのではないかと筆者は考えている次第です。
さしあたり私どもになし得ることは、犯罪の残酷さという事実に目を奪われることなく、そのような犯罪を犯した人が犯行に至るまでのプロセスをトータルに見る視座を持つことではないでしょうか。
鬼畜視の視線にあっては、人はある特定の日付に犯したとされる犯罪行為だけで「鬼畜」として記号化されてしまうのですが、どんな「鬼畜」にも問題となった犯行に至るまで十数年から数十年の人生があります。
その人生はたいてい経済的にも精神的にも苦難に満ちたものです。しかも、ほとんどの場合、虐待・放棄、反対に過保護・過干渉など親の不適切な育児・養育の犠牲者です。つまり、「鬼畜の所業」などと断罪されるような犯罪を犯した人は例外なく社会的困難者、言わば社会の迷子たちなのです。
こうした人たちは青少年期のどこかでSOSを発信していたはずなのですが、社会の側でそれを受信し損ねると、かれらは救出されないまま、糸の切れたタコのように軌道を外れてあらぬ方向へ飛んでいってしまいます。その行き着く先の中でも最悪のものが凶悪犯罪です。
この点、米国の著名な精神医学者カール・メニンガーがより一般化して、「長い間我慢してきた受身の状態、挫折感、無力感から抜け出すために、何かをしたいという絶望的な必要に迫られて犯罪は犯される」と指摘していることも参考になります。
このように、犯罪を犯した人を全人的に把握する視点に立ってみれば、多くの人は、残酷な犯罪を犯した者といえども「生きるに値しない鬼畜」と断ずることに一定のためらいを感じるようになるのではないでしょうか。
この点からみても、裁判員制度では裁判員の負担への配慮を口実に、平均して三日というような超短期審理が企図されているため、全人的な把握をする時間的余裕がなく、犯行の残酷さにとらわれた鬼畜視が促進され、ひいては死刑判決も増加しはしまいかという懸念があります。
このような懸念を払拭するためにも、死刑を求刑される可能性のある事件では、短期審理に拘泥せず、丁寧な審理を目指すべきことは、死刑を存置する現行法制の下では最低限度の要請であると考えます。
死刑制度は冤罪救済の最後の門である再審制度と本質的に両立しない
従来から、死刑廃止の重要な論拠の一つとして「死刑は冤罪の場合に取り返しがつかないことになる」ということが漠然と言われてきました。
しかし、これに対して、死刑存置論の側から「冤罪の可能性一般は死刑に限らず刑罰全般についてまわることであるから、それだけでは死刑廃止の理由にならない」と反論されています。
この反論は実はかみ合っていないのですが、かみ合わないのは「冤罪の場合に取り返しがつかない」という先の論拠に言葉足らずな面があるからです。つまり、ここで言う「取り返し」の意味が具体的に説明されていないのです。
そもそも冤罪とは何かということについて法的定義はありませんが、下級審で誤って真犯人でない人に有罪判決が下されても、それが確定するまでは上級審で救済される可能性が残されていますから、真の冤罪は誤った有罪判決が確定してしまったところから始まると言えます。こうした場合に冤罪救済の最後の門として死活的に重要なのが、誤った確定有罪判決を事後的に覆して無罪を確定させるための再審制度です。
再審制度はあらゆる受刑者に対して開かれており、もちろん無実を訴える死刑確定者も再審を請求することができます。ところが、死刑確定者には他の受刑者とは決定的に異なる困難が一つあります。すなわち、それは死刑の場合、ひとたび執行されれば受刑者は死んでしまうので、それこそ「取り返しがつかない」ということにほかなりません。
この点、刑事訴訟法は「再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない。」と定めています(刑訴法442条本文)。なぜこんな規定があるかと言えば、再審請求の段階では有罪判決がすでに確定してしまっていることが前提であるため、無実を訴える当人が再審の請求をしたというだけでは刑の執行を当然に停止することはできないからです。
このことは、懲役受刑者のように、刑の執行が刑務所内で本人存命の状態で行われる場合にはさほど問題を生じませんが、死刑の執行は即、死を意味しますから、再審の請求に刑の執行停止効がないと、再審請求後、裁判所の判断が出される前に執行された場合、冤罪救済のチャンスが永遠に失われてしまうわけです。
このような不条理を想定して、実は先の刑訴法の条項には「但し、管轄裁判所に対応する検察庁の検察官は、再審の請求についての裁判があるまで刑の執行を停止することができる。」という但し書きが付いています。このため、従来、死刑確定者が再審請求を出すと、検察官がこの権限を行使して刑の執行を停止することが慣例となっているようです。
しかし、これはあくまでも検察官の裁量による刑の執行停止ですから、1999年にはある死刑確定者が弁護士を通じて再審請求を出した直後に執行されてしまうという“事件”もありました。これはまさに不条理ですが、刑の執行停止が検察官の裁量である以上、再審請求直後の死刑執行も法には違反しないという二重の不条理があります。
このような“事件”が起きた背景として、法務・検察当局では、かねて再審請求が死刑執行を回避するための方便として利用されているのではないかとの警戒心を持っていることがあるようです。そういう可能性も絶対にゼロとは言えないにせよ、死刑囚の再審請求を牽制する目的で見せしめ的に再審請求中の死刑執行を断行したのだとすれば、再審制度を無にするおそれのある不当な権力行使と言わねばなりません。
ちなみに、無実を訴えている死刑囚に死刑が執行されてしまった後でも、遺族が本人の遺志を継いで再審を請求することもできますが(死後再審)、これは死後の名誉回復措置にすぎず、冤罪救済としての実質的意味を持ちません。
以上、長々と説明しましたが、はじめに戻って「死刑は冤罪の場合に取り返しがつかない」ということの意味は明確になったと思います。
ただ、そういう不条理が生じるのは先の刑訴法の規定が悪いのですから、死刑に限っては再審請求に刑の執行停止効を認める法改正をしてはどうかという提案もあり得るところです。
たしかにそういう法改正がなされれば、先のような再審請求中の死刑執行という不条理はひとまず防ぐことができます。しかし、それだけで「取り返しがつかない」という問題が解消するわけではありません。
再審を請求することができる場合というのは刑訴法で限定されており、中でも無実を訴えるにあたっては「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」と厳しく制限されています(刑訴法435条6号)。しかも、再審では請求人側に立証責任が課せられます。
この「明白性」と「新規性」の二要件をクリアするのがどれほど大変なことか。わけても、死刑確定者が身柄を拘置されたまま、執行の恐怖におびえつつ、この二要件を満たす証拠を発見・提出するのは至難の業です。そのうえ、刑訴法は一度再審請求が棄却された場合、同一の理由での再請求を許さないため(刑訴法447条2項)、通常最終的に無罪を勝ち取るには、別の証拠を提出しつつ何度も再審請求を出してそのつど棄却され、数回目にしてようやく再審開始決定に漕ぎ着けるのです。再審がしばしば「開かずの門」と呼ばれ、慨嘆されてきたゆえんです。しかも、苦労の末に再審開始決定を勝ち取っても、今度は検察側が異議を申し立て、上級審で覆されてしまうことさえあります。
従来、確定死刑判決が再審で逆転無罪となったケースは長らく4件でしたが、2024年に1件加わり、5件となります(免田〔めんだ〕事件、財田川〔さいたがわ〕事件、松山事件、島田事件、袴田事件)。しかし、いずれも死刑確定から最終的に再審で無罪が確定するまでに30乃至40年前後もかかっているありさまです。
本来からいけば、刑訴法上死刑執行は判決確定から6ヶ月以内に法務大臣の命令によって行うべきものとされていますが(475条1項及び2項本文)、この規定が実際上順守不能で守られたためしがないのは、もしこの規定を文字どおりに順守すれば、死刑囚の再審請求権を奪うに等しく、適正手続保障を定める憲法31条に違反する疑いも生じてくるからです。
従って、先の刑訴法475条2項後段も但し書きを置いて、再審の請求がされその手続きが終了するまでの期間は6ヶ月の期間に算入しないと定めているほどです。この規定からすると、再審の請求があったときは死刑執行を停止すべきことが示唆されているとも読めるのですが、明確でなく、結局は裁量の問題になります。
いずれにせよ、再審請求がたびたび棄却されると執行の可能性は高まってきます。先に紹介した再審請求直後の執行のケースでも、この死刑囚は過去六回の再審請求をすべて棄却されており、七回目の再審請求の直後に執行されているのですが、法務省ではそのようにたびたび同一の理由で再審請求が繰り返されていたことを執行の正当化理由として説明していたようです。
しかし、史上初めて死刑判決が再審で無罪に確定した免田事件の免田栄さんも六回目の再審請求でようやく無罪を獲得していますから、六回や七回の繰り返しは珍しくもないのです。
たとえ、再審請求に刑の執行停止効を認めたところで、再審請求が棄却されれば執行される可能性が復活する以上、死刑囚の再審請求権を守り通すには、結局死刑執行そのものを凍結してしまう以外にないのですが、これはもはや死刑制度の“死”を意味します。
このように、死刑制度はいかにしても再審制度と根本的に両立しないものなのです。
では、なぜ両制度は並び立たないのかということをもう一歩突っ込んで考えてみたいと思います。
死刑とは受刑者を殺して二度と「取り返しがつかない」ようにする刑罰ですから、受刑者はその罪状とされる犯罪を犯した真犯人に絶対間違いないことが大前提となります。こうした絶対的な判断は、証拠に基づく判断とは異質のものです。なぜなら、証拠に基づく判断とは、法廷に提出された証拠による限り、被告人が犯人である蓋然性が高いという確率的・可謬的な判断にほかならないからです。
それに対して、絶対的な判断は証拠よりもむしろ神や(しばしば神の化身ともされた)王のような無謬の絶対者の託宣なのです。実際、死刑が世界的にその全盛期にあった前近代以前の時代とは、神や王の名において裁判が行われていた時代でもあったわけです。「被告人を死刑に処す。」とは単なる司法判決にとどまらず、絶対に誤ることのない神や王の御意思であったのです。従って、それを事後的に覆す再審に付するようなこともあり得ませんでした。
再審とは、確定判決を事後的に覆すものですから、それは確定判決といえども絶対的ではないということを前提としています。なぜ絶対的ではないかといえば、近代司法は証拠に基づく裁判を本質としているからです。証拠に基づく裁判とは、前述したように、確率的・可謬的な判断を要素としており、しかもそれは神や王ならぬ裁判官という間違いも犯し得る一介の職能―場合によっては陪審員とか裁判員といった素人―の下す判断にすぎないからです。
一方で、死刑の全盛時代は自白がまさに「証拠の女王」として絶対的価値を与えられていた時代とも重なり、自白獲得のためには拷問も公式に許されていました。従って、死刑制度は自白偏重型の旧式な司法制度とも固く結ばれているのです。
これに対して、近代司法においては、自白を絶対視せず、物証を重視し、自白も証拠の一つとして物証を含めた総合評価の一要素としかみなしません。従って、被告人が完全に自白し、起訴事実を全面的に認めている場合であっても、その自白は証拠の一つにすぎず、彼/彼女が絶対に犯人に間違いないという判断はしないわけです。
実際、近年も法廷で全面的に起訴事実を認めて実刑判決を受け、刑務所で服役していた男性が出所後に真犯人の自白により無実と判明し、再審で無罪となった衝撃的事件が富山県下でありました。このケースは死刑でなく懲役刑相当の性犯罪であったため、男性は存命中に冤罪を晴らすことができたものの、もし死刑であったらすでに執行済みで彼はもはやこの世の人ではなかったわけです。
ちなみに、日本ではこれまでのところ、死刑執行後に真犯人が出現するなどして冤罪が明らかになったケースは確認されていませんが、それは政府が過去の事例を遡って公式に調査し確認したことがないというだけのことで、非公式には、執行済みのケースで冤罪の可能性が指摘されてきたものがいくつか存在します。
ともあれ、前近代の絶対主義的な司法の時代に花盛りであった死刑制度が証拠に基づく相対主義的な司法が確立された現代の再審制度と本質的に両立しないことは、こうして歴史的にも実証できることなのです。
あえて単純化すれば、死刑を取るか再審を取るか、二つに一つなのです。現代に生きる私どもは後者を取ることをためらう必要はないように思われます。
ちなみに、序文でも指摘した裁判員制度は法定刑に死刑を含む罪の裁判では原則として必ず適用されることとされています。しかも、裁判員が関与した一審判決は一般国民の意識が反映されていることを理由に、控訴審でも一審の判断を尊重するという運用指針が示されています。
そうすると、この制度の下での死刑判決に対しては事実上、控訴(及び上告)を原則的に認めないに等しいことになります。そのような運用の違憲性という問題も生じてくると思いますが、それをさておいても、今後、死刑判決の誤りを正す道は事実上、再審に限られていくという事態も予想されますから、死刑判決と再審判決の矛盾はいよいよ露わになってくることでしょう。