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天皇の誕生・目次

2013-06-07 | 〆天皇の誕生―日本古代史異論―

本連載は終了致しました。下記目次各ページ(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

プロローグ p1

第一章 三人の「神冠天皇」 p2 p3
(1)二人の「初代天皇」
(2)崇神天皇と応神天皇
(3)応神天皇と八幡神
(4)応神天皇と神功皇后

第二章 「神武東征」の新解釈 p4 p5 p6 p7 p8
(1)「神武東征」の出発地
(2)天孫族の出自
(3)天孫族の渡来
(4)二系統の天孫族
(5)「神武天皇」の分割

第三章 4世紀の倭 p9 p10 p11 p12 p13
(1)邪馬台国の解体
(2)加耶人の世紀
(3)畿内加耶系王権
(4)伊都国の服属
(5)百済の接近

第四章 伊都勢力とイヅモ p14 p15 p16 p17 p18
(1)イヅモの由来
(2)伊都勢力の由来と大移動
(3)イソタケルと出雲西部勢力
(4)出雲東部勢力の興隆

第五章 「倭の五王」の新解釈 p19 p20 p21
(1)「讃」と「珍」の遣使
(2)「珍」と「済」の関係
(3)「済」と「興」の正体
(4)「武」の解明

第六章 「昆支朝」の成立 p22 p23 p24 p25 p26
(1)「昆支=応神」仮説
(2)「昆支朝」成立の経緯
(3)旧王家の運命
(4)昆支大王と倭の自立化
(5)昆支大王の宗教改革

第七章 「昆支朝」の継承と発展 p27 p28 p29 p30 p31  
(1)男弟大王への継承
(2)出雲平定と磐井戦争
(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王

第七章ノ二 続・「昆支朝」の継承と発展 p32 p33 p34
(4)列島征服事業
(5)行政=経済改革
(6)二つの任那問題

第八章 「蘇我朝」の五十年 p35 p36 p37 p38 p39
(1)蘇我氏の出自
(2)昆支朝の斜陽化
(3)蘇我革命体制
(4)聖徳太子の実像
(5)王位継承抗争と蘇我入鹿

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」 P40 p41 p42
(1)政変までの経緯
(2)真の政変首謀者
(3)政変の真相
(4)改新的復古

第十章 天智天皇と天武天皇 p43 p44 p45 p46
(1)孝徳時代の中大兄
(2)前期天智政権
(3)後期天智政権
(4)天武天皇の実像

第十一章 持統女帝の役割 p47 p48 p49 p50 p51
(1)生い立ち
(2)権力への道のり
(3)歴史‐神話の創造
(4)複雑な歴史観
(5)最初のフェミニスト
(6)「天皇」の制度的確立

エピローグ p52

コメント

天皇の誕生(連載最終回)

2013-05-05 | 〆天皇の誕生―日本古代史異論―

エピローグ

 本連載では「国、皆王を称し、世世統を伝う」(『後漢書』倭国伝)という状況の中、朝鮮半島の加耶にルーツを持つ勢力が九州を経由して畿内に建てた一地域王権が、やがて百済系渡来人勢力に簒奪された後、曲折を経て全国的王朝に発展し、天皇制という独自の君主制を確立するまでのプロセスを順次追ってきた。
 最後に改めて総整理の意味を込め、天皇制確立までのプロセスをやや図式化して示してみることにしたい。


[一]地域王権時代(4世紀中頃‐477年頃)

 遅くとも4世紀前葉に九州北部へ渡来してきた加耶系移住民が東遷して畿内の在地諸勢力を糾合して建てた地域王権の時代。王権の構造は氏族連合体的なもので、王権は弱かった。
 この王朝は4世紀末から百済と修好するようになるが、5世紀に入ると高句麗対策の思惑から百済によって侯国化され、その統制を受けるようになった。461年には百済王弟・昆支が総督格で派遣されてくる。

[二]昆支朝創始・発展期(477年頃‐571年)

 475年、高句麗の侵攻を受けて百済王都・漢城が陥落した後の477年頃、昆支が本国百済の関与と支持基盤の河内閥(主として百済系渡来人勢力)の支援の下、クーデターで畿内王権の王位に就き、新王朝を開く(昆支朝)。倭国王昆支は「武」名義で中国の南朝宋に遣使した。
 昆支朝の王号は「大王」(和訓はオオキミ)で、旧加耶系王権時代の氏族連合体構造はいったん揚棄され、王権が強化された。昆支大王(応神天皇)の後、男弟大王(継体天皇)、クーデター(辛亥の変)を経て獲加多支鹵大王(欽明天皇)と三代約90年に及んだ王朝創始・発展期には支配領域が大幅に拡大され、部民制を軸とする大王中心の中央・地方支配体制が整備された。

[三]昆支朝衰退期(571年‐593年)

 昆支朝全盛期を作った王朝三代目・獲加多支鹵大王の40年に及ぶ治世の後、その皇子らの代になると、弱体かつ短命な大王が続き、獲加多支鹵大王代に百済から伝来した仏教の扱いをめぐって政権内で崇仏派と排仏派の抗争が発生し、王権の基盤が揺らぐ。
 そうした中で、昆支大王が百済から呼び寄せた豪族・木刕満致を祖とする崇仏派の蘇我氏の実権が強まり、王朝史上初の大王暗殺に発展、昆支朝は危機に陥る。

[四]蘇我朝時代(593年‐645年)

 崇峻大王を暗殺した蘇我馬子が自ら大王に即位して以来、孫の入鹿に至るまで蘇我氏が大王家として支配した時代。ただし、馬子は獲加多支鹵大王の娘で姪に当たる豊御食炊屋姫(正史上の推古天皇)との共治体制を取り、馬子の最有力後継者・善徳(正史上の聖徳太子)の没後、後継争いに勝利した蝦夷は大王位に就かず、全権大臣にとどまったので、単独で大王位に就いたのは孫の入鹿のみである。
 明確な簒奪王朝であった蘇我朝の王号は従来からの「大王」に加え、「天足彦」(馬子)、「君大朗」(入鹿)など一定せず、本格的な「蘇我王朝」はついに完成しなかったが、全盛期の馬子大王時代には仏教を国教とし、大陸中国(隋)との「対等」外交を樹立し、大陸的な冠位制度を導入するなど、永続的な効果を持った政策も展開された革新の時を画した。

[五]昆支朝復権期(645年‐671年)

 昆支朝正統王家のメンバーとその支持勢力が、強権的な暴君であった蘇我入鹿大王とその父・蝦夷を暗殺した乙巳の変を経て、軽皇子が大王に即位し(孝徳天皇)、昆支朝を復活させた(後昆支朝)。
 後昆支朝は二度と王権を簒奪されないため、強力な大王至上制の確立を目指し、部民制解体・公民制への移行、氏族特権の剥奪、律令制の導入などを打ち出した。また、君号として従来の「大王」よりも超越的な「天皇」(和訓はスメラミコト)を案出した。
 この昆支朝復権期の途中で、王朝ルーツであった百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、倭によるレジスタンス支援も虚しく、百済は最終的に滅亡した。これを受けて、百済ルーツを離れた独自の国作りが目指され、天智天皇時代には新国号「日本」が用いられるようになった。

[六]天皇制確立期(672年‐701年)

 天智天皇死去後の後継者争いであった壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇后で後継者となった持統天皇によって、天皇の地位がイデオロギー的にも制度的にもいっそう強化され、「天皇制」として確立された時期。
 天皇は神の化身たる現御神となり、持統天皇の指導により天皇を中心とする国定の歴史・神話が創造された。持統時代には都城と律令も整備され、701年の大宝律令施行を経て、権威主義的な天皇制律令国家が姿を現した。


 このようにして誕生した律令の衣を纏った天皇は、やがてその制度的確立に尽力した藤原氏(その祖は4世紀初頭頃の加耶系渡来人)の摂関政治によって実権を奪われた後、上皇院政という形での短い復権期を経て、臣籍降下された皇族出身の武家平氏と源氏に相次いで実権を奪われる。
 その後、700年近くに及んだ武家支配下の長い斜陽の時代を耐え、明治維新による王政復古と近代憲法に根拠づけられた「近代的神権天皇制」という変則的な形での復権、そしてその体制下での帝国主義的君主を経て、敗戦に伴う政治的権能なき象徴天皇への転化と、時代ごとに役割・機能を変えつつ、天皇はなおも存在し続けている。
 このことを“連綿”と表現するならば、それは本家が完全に亡びた百済王家の分家が1500年以上にわたって倭国大王家→日本天皇家に姿を変えて“連綿”と続いていることを意味することになる。天皇家は姓を持たない日本で唯一の一族であるが、もし天皇家が姓を持つとすれば、それは旧百済王家と同じ「扶余」もしくは中国風一字名で「余」である。
 こうした天皇の誕生をめぐる歴史的深相を、日本人は、また韓国・朝鮮人はいかに受け止め得るであろうか━。これは本連載の主題を超えた「民族」という概念に関わる大きな問いかけである。(連載終了)

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天皇の誕生(連載第1回)

2011-10-24 | 〆天皇の誕生―日本古代史異論―

プロローグ

 「天皇の誕生」というテーマは、正史・通説の立場からすれば、さしあたりは『古事記』(以下、『記』)及び『日本書紀』(以下、『書紀』)を参照のこと、と言うだけで済んでしまう。果たしてそれによると━
 天皇の祖は、皇祖神・天照大神の神勅によって高天原より日向に降臨した瓊瓊杵尊〔ニニギノミコト:以下、ニニギと略す〕であり、その三世孫になる彦火火出見〔ヒコホホデミ〕が大和に東遷し、在地勢力を征服して初代神武天皇として即位する。その後、累代にわたってすべてこの神武の子孫が連綿として皇位を継いでいる。こういうことになる。
 しかし、第26代継体天皇は第25代武烈天皇の近親者ではなく、第15代応神天皇の五世孫とされ、『記』及び『書紀』(以下、総称して『記紀』)の立場によっても継体朝は実質上新王朝と言ってよいのであるが―私見は本文で示すように異なる―、総体として神代から切れ目なく日本独自の土着的な王朝が続いているというのが、『記紀』の筋書きとなっている。
 今日ではさすがにこうした筋書きを鵜呑みにする学説は皆無であるが、戦前は「天皇制ファシズム」の核心思想として絶対の権威を持った皇国史観の史料的根拠として大いに利用されたところである。
 とはいえ、3世紀後半頃から4世紀初頭の早い時期から、後に天皇王朝となるヤマト王権がすでに成立しており、現皇室に至るまで連綿として実質的に同一の王朝が継続しているといった考え方の大枠は今日でも保持されている。
 特に近時は、『書紀』で第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命〔ヤマトトトビモモソヒメノミコト〕の墓と明記される箸墓〔はしはか〕を中国史書『魏志』に現れる有名な邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓と結論先取り的に推定した上で、箸墓の築造年代が最新の放射性炭素年代測定の結果、3世紀半ばと結論づけられたことから、箸墓が「卑弥呼陵」である可能性が高まり、従って邪馬台国畿内説が裏付けられたとみなして、邪馬台国をヤマト王権の前身勢力として天皇王朝前史に組み入れようとする見解が急速に有力化してきた。
 このような講壇考古学・史学の動向は、戦前の神話的な皇国史観に対して、科学的な考古学の衣をまとった新皇国史観と呼ぶべき実質を秘めており、本文で改めて批判的に検証していく。
 ここではさしあたり、古墳の年代と歴史的な「天皇の誕生」プロセスとは分離して考察されるべきではないかということを提起しておきたい。古墳の年代測定は科学技術を駆使して客観的に行われるべきことであるが、「天皇の誕生」プロセスは『記紀』の批判的読解(クリティカル・リーディング)を通じて探求されるべきことである。
 本連載はそうした試みの一つであるが、その結果として、正史・通説とは大いに異なるヘテロドクスな帰結に到達することとなった。このことは孤立を招くかもしれないが、本来言論の自由とは孤立を恐れず言挙げすることを意味したはずである。ただ、このような言挙げという所作は日本社会では好まれないことの一つであろう。
 しかし、『書紀』によると、ニニギが降臨を命ぜられた葦原中国〔あしはらのなかつくに:日本列島〕は騒がしく、「草木がみなよく物を言う」と評されている。ここで「草木」とは民衆を象徴しているとすれば、いにしえの日本民衆はよく言挙げしていたようである。それを言挙げしづらくさせてしまったのは、やはり「天皇の誕生」とも無関係ではないだろう。
 本連載は、日本におけるそうした“歴史のタブー”に独力で挑もうとした知的格闘の記録と言ってよいかもしれない。格闘の過程ではいささか脱線もあるかもしれないが、その点ご容赦いただければ幸いである。

〔注〕
『書紀』と『記』では人名や神名の表記・読みにも違いが見られるが、本連載では特に断りのない限り、『書紀』での表記・読みに従う。

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