ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第60回)

2023-04-28 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

情報資本の無限拡大と過剰情報化社会
 元来、情報科学はあらゆる科学の中で最も進歩のスピードが速いとともに、理論性以上に実用性の高さゆえに、資本との親和性も高度である。成否は別としても、多くの情報科学者/技術者が自らの創案したテクノロジ―を商品化する起業資本家を兼ねてきたゆえんである。
 そうした情報科学の進歩と情報資本の相乗的な拡大は、インターネットの汎用化が始まった1990年代後半以降、加速度的に高まり、21世紀に入ると、その動きは無限化していった。とりわけ、ブロードバンドによるインターネットの大衆的普及は決定的であった。こうして急激に拡大した情報資本は、それ自体が独自の三次元産業分類に服する。
 第一次情報産業は、コンピュータそのもの(部品を含む)の開発・製造に関わる製造業分野であり、一般産業分類上は第二次産業に分類される。情報資本はまずコンピュータの開発・製造から始まったことから、第一次となるのである。
 第二次情報産業は、コンピュータソフトの開発のように情報産業の知的基盤に関わる生産に従事する産業であり、一般産業分類では農業に代表される第一次産業に匹敵する分野である。一般の産業分類とは異なり、製造業分野より後発であるため、第二次となる。
 第三次情報産業は、コンピュータ及びコンピュータソフトを利用して種々の情報サービスを提供する産業であり、これは一般産業分類上も第三次産業に含まれる。
 インターネットの大衆的普及に伴い、ほぼ無限的に拡大しているのが第三次分野である。21世紀最初の四半世紀を通過する現時点で情報産業の中心を成しているのは、この第三次分野だと言ってよい。
 この分野は情報そのものの生産と流通に関わるため、その無限拡大は社会に個々人が適切に処理し切れないほど過剰な情報をもたらし、言わば情報洪水の状態を引き起こしている。こうした過剰情報化社会は、人類が20世紀以前の歴史上は経験したことにない事態である。
 それは個人情報の流通・交換を仲介するソーシャルネットワーキングサービスのように、誰でも簡単に情報の発受信が可能になるという利便性の影で、個人情報の意図しない拡散を制御できないという個人情報危機、また虚偽情報の意図的拡散による大衆操作の日常化をもたらしている。
 情報資本は総資本の中でもとりわけ専門技術性が高く、その進化のスピードもあまりに速いため、適切な規制が困難であり、事実上は原初的な自由放任経済の中に置かれている。
 情報科学自体も次章で見る生命科学におけるような倫理的規制に無関心であることも、如上の深刻な社会的危機を助長していると言える。21世紀の折り返し点を迎える2050年までの次の四半世紀では、こうした社会危機の解決が世界的な課題となるべきはずである。

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近代科学の政治経済史(連載第59回)

2023-04-24 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

コンピュータネットワークの開発と高度情報社会
 コンピュータが単なる電子計算機を脱してより総合的な情報装置に昇華される重要な契機は、データを分割して送信するパケット交換によるコンピュータネットワーク、すなわちパケット通信網の開発であった
 そうしたパケット通信網の世界初例は、アメリカの国防総省高等研究計画局(旧略称ARPA)が主導して開発し、1969年から運用開始したアーパネット(ARPANET)である。その開発目的には諸説あるが、高等研究計画局は軍から独立した組織ながら軍事技術の開発を担う機関であるので、軍事通信技術としての利用が想定されていたことは否定できない。
 このようなコンピュータネットワークの理論構想は1960年代前半に高等研究計画局に在籍した心理学者・情報科学者ジョゼフ・リックライダーが提唱したタイムシェアリングシステム論(複数ユーザーが一台のコンピュータを同時利用するシステム)に源流があるが、パケット交換の理論構想はアメリカの情報科学者ポール・バランとイギリスの情報科学者ドナルド・デービスが別個に提唱した。
 ARPANETはこうした二つの理論を統合しつつ、ARPAの電子技術者ローレンス・ロバーツが中心となって開発した画期的なコンピュータネットワークであり、今日のインターネットの(直接的ではないが)祖型とみなされるシステムであった。
 今日のインターネットに直結する情報技術として複数のテクストを相互に結びつけるハイパーテクストの理論は情報科学者ではなく、アメリカの社会学者テッド・ネルソンが提唱したものであるが、情報技術としての実用化には長期間を要し、1989年に欧州原子核研究機構の情報科学者ティム・バーナーズ‐リーによって開発されたワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が決定的となった。
 一方、コンピュータネットワークとしては1986年にアメリカの連邦機関の一つである全米科学財団が開発した全米科学財団ネットワーク(NSFNet)が台頭し、先行のARPANETは1983年に軍事部門を分離したものの次第に陳腐化し、1990年に運用を終了した。
 1970年代に現れたインターネットの概念は、1986年にアメリカ政府の支援のもとにインターネット技術の標準化団体としてインターネット技術タスクフォースが設立されて以来、定着した。
 さらに、インターネットの普及を促進した商用利用に関しては1989年に設立されたアメリカ企業PSINetが先駆者であり、これを皮切りにインターネットの商用利用が拡大進んだ。1990年代にアナログ電話回線を通じてインターネット接続サービスを提供できる高速デジタルデータ通信技術としてADSLが開発されたことは、その後のインターネットの大衆的普及に決定的な役割を果たした。
 こうしたコンピュータネットワークの開発・発展によってコンピュータが相互に接続された情報通信機器として進化することとなり、電子化された情報が国境を超えて高速でやりとりされる高度情報社会が形成されていく。

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近代科学の政治経済史(連載第58回)

2023-04-15 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

商用コンピュータの登場と情報資本の発展
 コンピュータの開発には軍事目的がちらついていたが、やがて1950年代以降になり、商業目的のコンピュータ開発の動きも現れた。その点、世界最初に商用投入されたコンピュータはイギリス発のレオ・ワン(LEO I)であった。
 これは元来、ケンブリッジ大学のチームが前回見たアメリカのエドバックの開発構想に触発され、エドバックに先行して開発した世界発の実用的なプログラム内蔵方式コンピュータとされるエドサック(EDSAC)をベースとする機種である。
 レオ・ワンは後継機種も開発されたが、製造元のレオ・コンピューターズはレストランチェーンのJ・リオンズ・アンド・カンパニーが設立したもので、情報資本としては持続せず、イングリッシュ・エレクトリックに買収されて以降、転々譲渡された。
 こうしてイギリスは商用コンピュータの先駆を成しながら伸びず、商用コンピュータ開発で初期の先導的な役割を果たしたのは、共にアメリカ資本であるレミントンランドとIBMである。
 先行のレミントンランドは1927年から1955年までの30年弱しか持続しなかった事務機器製造メーカーであるが(55年以降、二度の合併を経て現ユニシス社に継承)、1951年に汎用性を持つ商用コンピュータとして、ユニバック・ワン(UNIVAC I)を製造販売した。
 これは前回見たエニアック(ENIAC)の開発チームが設立した会社を買収して製造元となったものであった。UNIVAC Iは宣伝のため提携したCBSテレビの大統領選挙の結果予測に早速投入され、アイゼンハワーの当選予測を的中させて名を上げた。
 UNIVAC Iはそれまでデータの出入力に使用されていたパンチカードシステムに代えて磁気テープを使用した点でも画期的なものであり、これはIBMほか競合社の製品にも取り入れられていった。
 一方、IBMではアメリカ軍の気象予測用コンピュータ開発を極秘で進めていた。その結果、誕生したのがIBM 701である。これは事務的なデータ処理を高速で実行する中型コンピュータであったUNIVAC Iとは異なり、科学技術的な高度計算を実行するプログラム内蔵型大型コンピュータとして開発されたものであった。
 IBM701とUNIVAC Ⅰの後継機種は競合関係に立つ主力商品として、軍用のほか民間企業でも使用されるようになり、商用コンピュータ初期の代表的な商品として定着した。特に、IBM 701は同社最初のメインフレームとして後継機種の基本型となった。
 単なる製造元でなく、自身が研究開発企業でもあるIBMは1956年には高水準コンピュータ言語FORTRANを開発するなど、50年代から60年代にかけて商用コンピュータ開発の先導者であったが、それ以外にも、集積回路を開発したテキサス・インスツルメンツなど、広い意味の情報資本が大きく発展したのも1950年代のアメリカであり、この時代に今日まで続くアメリカ情報資本の繁栄の基礎が築かれたと言える。
 これと対照的なのが、同時代の冷戦下でアメリカと科学技術面でもしのぎを削っていたソ連である。ソ連における情報科学の状況に関しては以前に言及したが(拙稿)、民間資本が存在しなかったソ連のコンピュータ開発は極秘の国家プロジェクトとして、国立研究機関を拠点に開発が進められたため、更新性や互換性に欠ける結果となり、閉塞・停滞していった。
 最終的に、ソ連は独自開発をやめ、IBM製品の海賊版に依存するという安易な便法に走るようになったことで、結果的にIBMがソ連にも進出したに等しく、西側情報資本の技術力が敵対する東側にも及ぶ皮肉な結果となった。

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近代科学の政治経済史(連載第57回)

2023-04-10 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

電子計算機の発明と軍事の影
 電子計算機としてのコンピュータが発明されるためには、まず土台となる計算機の発達、とりくわけデジタル式計算機の開発に加え、電気を動力源とする電動機の発明が先行しなければならなかった。
 その詳しい発達過程を逐一追うことはここでの論題を外れるので省略するが、現代のコンピュータにつながる開発の源流はドイツとイギリス、アメリカにそれぞれ独立に存在した。しかも、そのいずれにも軍事の影が見え隠れしている。
 ドイツの潮流の中心人物はコンラート・ツーゼである。彼の本職は土木技術者であったが、第二次大戦前から独自にコンピュータの開発を進め、ナチ党員ではなかったが、ナチスの資金援助を得て、1941年に世界初の自動プログラム制御によるコンピュータ(Zuse Z3)を発明した。
 これは直接に軍事目的の研究開発ではなかったが、ナチスはツーゼの研究成果を誘導型の滑空爆弾技術に応用し、実戦使用したので、間接的には軍事的な研究成果となった。なお、ツーゼは戦後、世界初のコンピュータ企業を設立し、起業家としても情報資本の先駆けを示した。
 一方、イギリスでは数学者のアラン・チューリングがハードウェアとソフトウェアを備えた計算機の数学的仮想モデル(チューリング・マシン)を考案し、構想的な面でコンピュータの誕生を後押した。彼自身は実際にコンピュータを開発することはなかったが、理論面で情報科学の父と称されるゆえんである。
 なお、チューリングには第二次大戦中、英国政府の暗号学校でドイツが開発した暗号機エニグマによる暗号解読に貢献した軍事諜報分野での業績があり、ここにも軍事とのつながりが認められる。
 これとは別に、イギリスでは英国中央郵便本局研究所の研究チームがドイツの暗号文解読に特化した専用計算機コロッサス(Colossus)を開発した。コロッサスはまさに軍事的な目的で開発されたもので、用途も暗号解読に限定されていたが、デジタル式電子計算機としての性質を優に備えていた。
 さらに、アメリカでは陸軍弾道研究所の研究プロジェクトとして、ペンシルベニア大学を拠点に第二次大戦末期からエニアック(ENIAC)とエドバック(EDVAC)というコンピュータの開発が相次いで進められていた。特に後者のエドバックは二進法によるプログラム内蔵方式コンピュータという点で、今日のコンピュータの祖型とも言えるものである。
 このエドバックの理論構想をまとめたジョン・フォン・ノイマンは、ナチス政権を避けてアメリカに移住したユダヤ系の数学者・物理学者であり、コンピュータの父と目されている。彼はマンハッタン計画で原爆開発にも参加し、戦後もミサイル開発に寄与するなど、軍事科学者としての顔が濃厚であった。

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近代科学の政治経済史(連載第56回)

2023-04-04 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力

コンピュータの発明に端を発するコンピュータ科学としての情報科学は20世紀以降、最も日進月歩で進化を続けてきた科学分野であり、今日では他のすべての科学においても研究手段を提供する不可欠の科学である。情報科学はまた、情報という無形的価値を商品として生産し、もしくは販売する情報資本の台頭を促進した。さらに、国家権力の情報収集能力の高度化を促進し、情報管理社会を形成するとともに、兵器のハイテク化や軍事作戦の電子化においても情報科学の寄与は著しく、軍事科学としての性格も強めるなど、情報科学は政治経済の基盤として多彩な顔を持つようになってきた。


機械式計算機の発明と数学の科学化

 情報科学における出発点であり、不可欠のツールでもあるコンピュータは元来、計算機(電子計算機)であったという事実がしばしば忘れられるほど、現代のコンピュータは単なる計算にとどまらない多様な機能を持つ総合的な電子機器に発展している。
 計算機の原点は算盤のような手動の計算器具であり、その歴史はメソポタミア文明時代に遡るというが、近代的な機械式計算機は17世紀フランスの哲学者にして数学者・物理学者でもあったブレーズ・パスカルの発明にかかるとされている。
 徴税官だった父親の税額計算業務の負担を軽減するための機械を製作しようとしたことがきっかけだったとも言われるパスカルの計算機は十進法を基本としており、歯車式のものであった。
 その後、ドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ライプニッツがパスカルの計算機の改良版を考案するとともに、現代の情報科学における基本的な記数法である0と1を用いた近代的な二進法を考案した。二進法の定着は20世紀を待つが、近代的記数法に関してはライプニッツを祖とする。
 パスカルやライプニッツの時代は近代的な科学の黎明期に当たっており、この時代に機械式計算機や近代的記数法の原点があることは偶然ではなく、数学が科学と結合し始めたことを示している。実際、パスカルは流体力学の「パスカルの原理」で名を残す物理学者でもあった。
 数学は科学にはるか遡る歴史を持ち、古代文明の時代に発するが、数的概念を扱う数学において不可欠な計算という行為をより合理的かつ迅速に実行する手段として高度な計算機の需要が生じたことが機械式計算機、さらには電子計算機の発明を導いたと言える。その意味では、情報科学とは数学の科学化、数理科学であると言うこともできる。
 もちろん、算盤のような伝統的な計算補助具を超える精巧な自動計算機を開発するには、機械工学や電子工学といった新しい科学技術の発展が必要であった。そのため、本格的な自動計算機の開発はそうした科学技術が発達し始めた19世紀以降のこととなる。

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