ザ・コミュニスト

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持続可能的計画経済論(連載第12回)

2018-05-29 | 〆持続可能的計画経済論

第3章 持続可能的計画経済の概要

(4)持続可能的経済計画の実際〈2〉
 前回言及した持続可能的経済計画とは基幹産業分野を中心とした計画(生産計画A)であるが、これは見方を変えれば非食糧分野の計画である。これに対し、食糧生産の軸となる農漁業分野に関する計画(生産計画B)は別立てとなる。
 計画経済下の農(漁)業は、しばしば「集団化」というキーワードで表される。これもソ連の半強制的な協同組合化のイメージから誤解されがちであるが、本来、この語は伝統的な家族経営でも、資本による「集約化」でもなく、農漁業を公的な生産組織によって統一的に運営することを意味する。その意味では、「統合化」と言い換えた方が妥当であろう。
 その生産組織の具体的な概要については次章に回すとして、計画Bはとりわけ自然環境条件に強く規定される農漁業分野について、環境規準(及び安全規準)に基づき、持続可能な農漁業を追求するための全土共通計画と定義づけることができる。
 この点でも、ソ連式農(漁)業における「集団化」が―資本主義的な「集約化」と同様に―専ら生産効率の向上を志向していたのとは異なり、持続可能的計画経済下における「統合化」は、環境的持続可能性の保持を主目的としている点の相違は重要である。
 従って、ここでの計画は生産量の需給調節にとどまらず、農業分野では循環型農法の統一的採用、林業や漁業分野では乱伐・乱獲防止のための綿密な選別的数量規制にも及ぶことになる。 
 計画Bは一次産品に関わる計画であるが、現代生活では加工食品の生産も欠かせない。こうした加工食品を中心とする日用必需品消費に関わる分野にも、計画経済は及ぶ。この消費関連分野の計画(消費計画)は、食品を含めた日用品の公平な供給の調節を図る分配計画としての意義を持つ。
 こうした消費計画は、地産地消を徹底するためにも、全土共通計画である計画A及び計画Bとは異なり、地方的な単位で分権的に実施されるべきものである(詳細は次章で述べる)。
 その手法は基本的に一般計画と同様であるが、異なるのは大災害や疫病の大流行に備えた余剰生産が行われることである。こうした災害備蓄を計算に入れ、需要を超過する供給計画が立てられる。
 ところで、消費計画の中でも医薬品の生産については、その性質上通常の食品生産とは異なり、全く別立ての計画が必要である。この製薬計画は全土共通計画(生産計画C)として、中立的な治験・安全性検証機関とも連動しながら、実施される。

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持続可能的計画経済論(連載第11回)

2018-05-28 | 〆持続可能的計画経済論

第3章 持続可能的計画経済の概要

(3)持続可能的経済計画の実際〈1〉
 前回まで持続可能的計画経済の概要を論じたが、その内実がどのようなものになるかということが、計画経済の実際の成否を決する。
 まず貨幣経済が廃止されていることは、大前提である。以前に論じたとおり、真の計画経済は本質上アナーキーである貨幣経済とは両立しないからであった。 
 そのうえで、計画の中核は需要見通しに沿った供給計画となる。この限りでは、旧ソ連式計画経済の技法でもあった「物財バランス」はなお有効である。
 しかし、重要な相違点は需給計画が各種の環境規準によって制約されることである。すなわち、経済計画には環境アセスメントが予め包含されている。従って、ここでの「物財バランス」とは単にインプット・アウトプットの調節にとどまらず、エネルギー消費や廃棄・再利用のプロセスまで含めた循環的な収支となる。
 とすると、持続可能的計画経済は主として生産の量的な調節を目的とする「物財バランス」にとどまらず、環境的持続可能性に適合するエネルギー資源の選択、生産方法や生産品構造の規制にも及ぶ質的な「環境バランス」も組み合わされなければならず、そのためには、環境指標を織り込んだ新たな数理経済学の開発も必要となろう。  
 このように環境規準で規律される計画経済の期間的スパンは、3か年を軸とした中期的なものであるべきである。なぜなら、地球環境は可変的であり、絶対確実な長期予測を許さないからである。従って、3か年の限度内でも環境観測に基づいて常時検証し、随時計画内容の修正が可能とされなければならない。
 また貨幣経済廃止という条件下での経済計画にあっては、当然にも金銭的な収益計画ではなく、何時間で何をどれだけ生産できるかという労働時間の配分計画の形を取ることになる。この点でも、貨幣経済を残した条件下での旧ソ連式計画経済が収益で計量する個別企業の経営計画に近い面があったのとは異なり、物質的生産の価値尺度として労働時間に着目したマルクス経済学の視座がより活かされることになる。
 こうした持続可能的計画経済の対象範囲は基本的に環境的高負荷分野ということになるが、それは基幹産業分野に運輸、電機などが加わる程度で、さほど広いものではない。運輸や電機などの分野では、物財バランスより環境バランスに重点が置かれるだろう。また農漁業や消費に関わる分野は、一般計画とは別立ての計画となる(次回詳述する)。
 その余の分野は計画経済の対象から外れ、自由交換経済に委ねられる。これはいわゆる「闇経済」ではなく、れっきとした合法的な経済活動である(禁制品の取引は当然違法である)。ただし貨幣経済は廃止されているから、物々交換経済となる。その限りで、市場経済的要素も残される。 
 要するに、持続可能的計画経済とは交換経済との混合体制である。しかし、これは経済混乱のもととなる中途半端な「修正主義」や「折衷主義」ではなく、必要な限りでの計画的かつ柔軟な経済運営を導くポリシーミックスである。

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奴隷の世界歴史(連載第50回)

2018-05-27 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制④:インド/ペルシャ
 古代インド文明は、インダス文明時代とそれが何らかの要因で滅亡した後に移住してきたアーリア人によるアーリア文明に大別できるが、インダス文明時代の社会構造については不明な点が多い。君主の存在を示すような壮麗な宮殿や大規模墳墓は検出されないことから、比較的平等な都市国家型文明だったと推察されている。
 とはいえ、都市国家でも古代ギリシャのように奴隷制に依存した社会は存在したのであり、インダス文明都市も奴隷制に支えられていた可能性がないわけではない。しかし、古代ギリシャのように、奴隷の姿が明確に描かれた出土品は未発見である。
 インダス文明滅亡後に現れたアーリア文明の段階に関しては、以前の記事で言及したように、緩やかな奴隷制を伴っていた。仏典にも奴隷への言及がかなりあり、ブッダに仕える奴隷の存在も示唆されているほどである。いまだ出自不詳のインダス文明人に比べ、アーリア人は階層的な社会構造を好んだことが窺える。
 古代アーリア人は第二波としてイランにも移住してペルシャ人をはじめとする様々な種族に分かれ、中でもペルシャ人が古代国家の担い手として台頭してくるが、興味深いことには、ペルシャでは奴隷制が組織的に行なわれた形跡が見られない。
 古代ペルシャ文明の集大成とも言えるアケメネス朝にあっても、奴隷はごく少数にとどまり、多くは王朝に反攻した周辺諸部族を奴隷化したものであった。実質的な王朝創始者キュロス1世は、非戦闘員の奴隷を廃止したとされる。その実態については慎重な検証を要するが、奴隷制廃止としては最も先駆的な開明策と言える。
 キュロス2世はメソポタミアを武力で統一すると同時に、ユダヤ人のバビロン捕囚を解放するなど、寛大lな解放者としての側面を有し、古代の統治者としては異例の人物でもあった。
 アケメネス朝は古代ギリシャにたびたび征服・干渉戦争をしかけたことから、この戦争は民主制対専制の争いとみなされることも多いが、こと奴隷制に関しては「民主制」のギリシャ世界のほうがはるかに後進的であったのだ。
 とはいえ、アケメネス朝が滅び、数百年を経て成立したササン朝ペルシャの時代になると、明白に立法化された奴隷制が存在するようになるので、非奴隷制的なペルシャ文明社会は紀元前の古代国家の時代に限定され、時代が下って後退的変化が生じたことも興味深い。

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持続可能的計画経済論(連載第10回)

2018-05-22 | 〆持続可能的計画経済論

第3章 持続可能的計画経済の概要

(2)非官僚的計画
 持続可能的計画経済は、その観点のみならず、手法の点でもソ連式計画経済とは異質のものである。すなわち、それはソ連式のような行政主導の官僚的計画ではなく、生産企業体自身による自主的な共同計画の手法を採る。
 その点で、「自主管理社会主義」と呼ばれた旧ユーゴスラビアの制度に類似するが、旧ユーゴの場合、各生産企業体を労働者自身が管理運営するという「自主管理」に重点があり、全体計画に関しては二次的な関心しか置かれていなかったため、それは事実上個別生産企業体の独立採算と一定の競争関係をもたらし、市場経済への近接を示していたのであった。
 これに対し、持続可能的計画経済において想定される自主的な共同計画は、全体計画を生産企業体が共同して策定・運用していくという「共同管理」に重点が置かれるのである。
 こうした生産企業体による共同計画の策定機関としては、各生産企業体の計画担当者で構成する「経済計画会議」(以下、計画会議と略す)のような代表機関が想定される。
 その計画は、内容的には環境的持続可能性に立脚するものであるから、計画会議は経済計画に必要な環境経済学的分析の高度な機能をも擁し、計画策定を主導していくことになるだろう。従って、この機関には行政機関におけるような官僚は存在しない代わりに、専従職員として環境経済調査士が所属する。
 環境経済調査士とは、環境学的な観点から経済分析・予測をする専門職であり、経済学と環境学が融合されて初めて成り立つ新しい専門職である。言わば、エコロジスト+エコノミスト=エコロノミストである。
 資本主義経済下でも「環境経済学」という新分野が誕生しているが、市場経済を絶対前提とする資本主義経済学の中では周縁的な領域にとどまっている。しかし、持続可能的計画経済にあっては環境経済学が機軸的知見となり、それに照応した実務職も誕生する。
 となると、環境経済調査士が計画会議を動かす準官僚的な存在と化すのではないかとの懸念もあり得るが、かれらの役割はあくまでも経済計画に資する調査分析に限局され、実際の計画策定は計画会議の審議の場で公開討議に付され、議決されるから、この機関は旧ソ連の国家計画委員会のような行政機関よりも議会に近いものと言える。
 こうした自主的共同計画は旧ソ連式国家計画に比して、格段に生産現場の判断に立脚した柔軟かつ分析的な知見をも反映した現実的な計画となると見込まれる。
 さらに、持続可能的計画経済は地球環境の持続可能性に立脚する以上、究極的には全世界的な規模で実施されなければ完結しない。こうした言わばグローバルな経済計画についても、各生産分野ごとの世界的な連合組織が自主的に策定・運営するシステムが想定されなければならないのであるが、その詳細については改めて後述する。

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持続可能的計画経済論(連載第9回)

2018-05-21 | 〆持続可能的計画経済論

第3章 持続可能的計画経済の概要

(1)環境規準と計画経済
 前章で見たような数々の欠陥を抱えたソ連式計画経済に対し、ここで提唱する新たな計画経済はソ連式計画経済とは全く異なる観点と手法で行われるものである。
 まず観点という面から言えば、新しい計画経済は環境的持続可能性に視座を置く。つまり地球環境の可及的な持続性を目指す計画経済である。その意味で、「持続可能的計画経済」と命名される。
 持続可能的計画経済とは、計画的な環境政策にとどまらず、環境的持続可能性に関する指標を規範的な基準として計画される経済であって、それは計画経済の一つの類型である。簡略に言えば、環境規準に基づく計画経済―環境計画経済―である。
 このような環境指標に規律される計画経済は経済開発に圧倒的な重心を置いていたソ連式計画経済―言わば開発計画経済―では論外のことであり、結果として、ソ連式計画経済は開発優先政策による資源の浪費・消耗による環境破壊を引き起こしたのであった。
 その意味では、持続可能的計画経済はソ連式計画経済を反面教師としつつ、ソ連邦解体後、高まってきた地球環境保護の潮流に合致した新しい計画経済のあり方として浮上してくるべきものである。
 現時点ではこうした持続可能的計画経済を現実の政策として採用している国は(筆者の知る限り)存在せず、最も先進的な環境政策を提起する緑の党やその周辺の環境保護運動にあっても、計画経済の提唱には踏み込まず、市場経済を受容したうえでの環境政策の推進を主張するにとどまっていることがほとんどである。
 これはちょうど市場経済を維持したまま福祉政策でこれを補充する修正資本主義としての社会民主主義とパラレルな関係にもあり―しばしば重なり合う―、修正資本主義としての環境主義理念の表れでもあるが、その限界性はすでに人為的気候変動のような国際的課題への取り組みが顕著に前進しないことにはっきりと現れているのである。
 地球環境上の諸問題を根本的に解決するためには、環境規準によって生産活動を量と質の両面から体系的に規律する必要があり、それを可能とするための計画経済こそが、ここでの持続可能的計画経済にほかならない。

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貨幣経済史黒書(連載第12回)

2018-05-20 | 〆貨幣経済史黒書

File11:建国期アメリカの金融恐慌

 貨幣経済において最も恐るべき事象は、その名も恐慌である。ブリタニカ百科事典によれば、恐慌とは「景気循環の好況局面における過大な設備投資が不況局面の出発点において設備過剰をもたらし、生産と消費の間に大きな不均衡が起り、商品の過剰生産が一般化して価格が暴落し、企業倒産や失業が大規模に発生して生産、雇用、所得が急激かつ大幅に減少する現象」と定義されている。
 しかし、このような典型的に定義づけられる生産恐慌も、貨幣経済下ではそれ単独というよりは金融恐慌に関連づけられて生起することが多い。こうした金融恐慌は、18世紀末に建国されたアメリカ合衆国では建国当初から継起する経済事象となった。アメリカの歴史とは、一面で恐慌の歴史と言っても過言でない。
 アメリカでは建国間もない1790年代から、二つの金融恐慌を相次いで経験した。当初より自由放任的な資本主義をイデオロギーとして建国されたアメリカは、先住民から侵奪した広大な土地を開拓しつつ、急速な殖産興業によって旧宗主・英国に猛追している状況にあった。
 最初の恐慌は1792年の3月から4月にかけて発生した。これは、設立されたばかりの合衆国銀行による規律を欠いた金融緩和と一部投資家たちによる債務証券や銀行株の高騰を狙った投機が招いたある種のバブル的な信用恐慌であった。こうした投資家たちの債務不履行を契機に、証券市場の暴落、銀行取付騒ぎが続いた。まさにパニックを起こした合衆国銀行による急激な金融引き締めも恐慌を促進した。
 幸いにも、この時は合衆国銀行産みの親でもある有能な初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンが迅速に介入、市中銀行に多額の通貨を投入して証券を購入させる公開市場操作を行なって短期間で沈静化させることに成功した。
 今一つは、ハミルトン長官退任直後に起きたより深刻な96‐97年の信用恐慌である。これは直接には土地投機バブルの崩壊によって発生した。建国当初、西部を中心に広大な未開拓地を抱えるアメリカは土地投機の草刈場であり、まだ建設中だった首都ワシントンもその舞台となった。
 1796年に土地バブルの崩壊に伴う不動産市場の暴落が起きたのに続き、翌年には海を越えた英国銀行がナポレオンによる英国侵攻危機の中、硬貨払い停止措置を取ったことはアメリカの投資家の破産を促進し、アメリカに深刻なデフレーションを引き起こした。
 余波は世紀をまたいで1800年初頭まで続き、東部に形成されつつあった多くの企業の倒産が相次いだ。その影響は、零細商店主や賃金労働者にも及んだ。連邦議会は対策として、アメリカ史上初となる1800年連邦破産法を制定した。この法律により、破産者を投獄する習慣に代え、破産を民事的に処理する契機となったことは一つの前進ではあった。
 こうしたアメリカ建国当初の金融危機は自由放任経済の無規律さや反連邦的なイデオロギーによる中央銀行制度や統一的銀行システムの不備といった特殊アメリカ的要因に加え、危機管理的な金融政策の未発達―ハミルトンが垣間見せたとはいえ―という当時の時代状況も影響していたであろう。ともあれ、19世紀のアメリカは急速な経済成長の影で以後も数々の金融恐慌に見舞われることとなる。

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持続可能的計画経済論(連載第8回)

2018-05-15 | 〆持続可能的計画経済論

第2章 ソ連式計画経済批判

(4)政策的欠陥
 ソ連経済は、大戦をはさんでスターリン政権時代に高度経済成長を遂げた。ソ連式計画経済の全盛期は独裁者スターリンの時代であったと言ってよい。その政策的な秘訣が、徹底した重工業及び軍需産業傾斜政策であった。
 ソ連では、マルクスが『資本論』の中で資本主義の分析に用いた生産財生産に係る第一部門と消費財生産に係る第二部門という産業区分を援用して、生産財(資本財)をAグループ財、消費財をBグループ財と区分したうえ―この分類自体大雑把だが―、Aグループ財の生産を最優先したのであった。これに米国に対抗して軍事大国化を目指す先軍政治的な政策が加わり、軍需産業の成長が導かれた。
 こうした初期の成功の秘訣が、後期になると政策的な欠陥として発現してきた。傾斜政策の中で劣位に置かれた消費財生産は大衆の暮らしにとっては最重要部門であって、経済成長に見合った生活の豊かさを実現するうえで鍵となるはずであったが、ソ連では1953年のスターリン死後にようやくテコ入れが始まった。
 しかしこうした部門でも国営企業が生産主体となったため、西側でしばしば揶揄されたように靴まで国営工場で製造されるという状態で、品質も粗悪であった。そのうえ、前節でも述べたような計画の杜撰さによる需要‐供給のアンバランスや物資横領などの腐敗によって流通が停滞・混乱し、末端の国営商店での品薄状態が恒常化する結果となり、批判的論者をして「不足の経済」と命名されるまでになった。
 結局、ソ連経済の後期になると、良質な消費財は石油危機による石油価格高騰を利用して獲得した外貨を投入し、西側資本主義諸国からの輸入品で補充するほかなくなった。
 一方、傾斜政策のゆえにソ連経済の強みでもあったはずのAグループ財に関しても、計画経済は主として量的な拡大生産に重点を置いていたため技術革新が進まず、老朽化した工場設備が更新されないまま使用され続ける状態であり、生産効率も悪化していった。
 こうした結果、総体としてソ連経済は資本主義的な過剰生産状態には陥らなかったものの、傾斜政策による産業間のアンバランスと質的革新を軽視した量的拡大政策による生産性の低下という欠陥を内蔵させることになった。
 ソ連は冷戦時代、ライバルの市場経済大国・米国に追いつき、追い越すことを目指していたが、結局のところ、どうにか米国と肩を並べることができたのは、核開発と宇宙開発に象徴される軍需産業分野だけであった。
 ソ連終末期のゴルバチョフ政権による「改革」は、市場経済原理の中途半端な政策的導入により、ソ連式計画経済の本質的欠陥を増悪させ、いっそう不足の経済に拍車をかけ、体制崩壊を早める契機となった。
 これは、ソ連式計画経済の模倣から始めつつ、ソ連よりいち早く市場経済化を野心的に進め、最終的には事実上計画経済と決別した共産党中国との明暗を分けたポイントでもあったと言える。

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持続可能的計画経済論(連載第7回)

2018-05-14 | 〆持続可能的計画経済論

第2章 ソ連式計画経済批判

(3)本質的欠陥
 ソ連式計画経済は失敗した経済モデルであるということは、今日の定説となっている。しかし、それはソ連体制そのものが解体・消滅したことによる結果論的な定言命題であって、実際にどのような点でなぜ失敗したかの分析は十分に行われないまま、ソ連式計画経済の対照物とみなされる市場経済の正しさがこれまた論証抜きで絶対視されているのが実情である。
 たしかに、ソ連式計画経済はソ連体制が存続していた時代からすでに行き詰っていた。その原因は、逆説的ではあるが、それが真の計画経済ではなかったという点にこそあった。
 ソ連式計画経済は、「計画経済」というよりは、前回も見たとおり、激しい内戦からの戦後復興を目的とする国家資本主義過程で誕生した政府主導の「経済目標」に導かれた一種の統制経済であった。それはスターリン政権下で戦後復興が一段落し、経済開発・高度成長を目指した本格的な「5か年計画」が始動しても、本質的には変わらなかった。
 何より貨幣経済も存置されたままであった。従って、末端の消費財は商品として国営商店で販売されていたし、計画供給の中核となる生産財についても市場取引的な要素が残されていたのだった。
 ソ連における生産活動の中心を担った国営企業間には競争原理が働かなかったということが定説であるが、実際のところ、複雑な計画策定手続きの過程で国営企業間にある種の利権獲得競争があり、また個別企業は事実上の独立採算制を採り、1960年代の限定的な「経済改革」の結果、その傾向は増した。
 さらに労働は賃労働を基本とし、しかも―あらゆる資本家・経営者の理想である―出来高払い制が主流であり、マルクス的な意味での剰余価値の搾取は国営企業の形態内で厳然と残されていたのであった。表見上の低失業率にもかかわらず、実際は企業内に余剰人員を抱え、「社内失業者」が累積していた。
 要するに、ソ連式計画経済は、典型的な市場経済とはたしかに異質であるとしても、市場経済的要素が混在した国家主導の混合経済的なシステムであり、レーニンが暫定的な体制と考えていた国家資本主義が理論的に検証されることなく遷延的に発達したものだったと言える。
 他方で、ソ連式国家資本主義の本質は統制経済であったからこそ、統制経済に付き物の闇経済が発現した。これが厳正な企業監査システムの欠如ともあいまって国営企業幹部の腐敗を誘発し、物資横領・横流しのルートを通じた闇経済が組織犯罪的な地下経済として社会に根を張ることになった。
 それでも中央計画が精確に行われていればより持続的な成功を収めた可能性はあったが、ゴスプラン主導の計画は現場軽視ゆえに不正確な経済情報に基づく杜撰な机上プランとなったため、その理念である「物財バランス」自体が不首尾に終わり、需要‐供給のアンバランスが生じがちであった。そのためソ連経済に景気循環はないという公式説明にもかかわらず、資本主義の特徴である景気循環が存在した。
 かくして、ソ連式計画経済は構造上の本質的な欠陥を多々抱えていたために「計画経済」としては成功しなかった。その根本原因を簡単にまとめれば、本来計画経済が適応できない貨幣経済に計画経済を無理に接木しようとしたことにあったと言えよう。
 ただし、公平を期して言えば、ソ連式計画経済もその初期には低開発状態のロシアを新興工業国家へと急速に浮上させる開発経済の手法としては相当な成功を収めた事実は指摘しておかねばならない。しかし、一定まで成長した後の持続可能性には欠けていたのである。その背景には、次節で論じる政策的な欠陥も寄与していたと考えられる。

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奴隷の世界歴史(連載第49回)

2018-05-13 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代「文明」と奴隷制

古代「文明」と奴隷制③:中国
 従来、古代中国における最初の実在的な統一王朝とみなされてきた殷は、奴隷制に基盤を置く奴隷制社会と理解されてきたが、殷より遡ることが実証されつつある夏の時代の社会編成は不詳である。
 殷における奴隷の主たる給源は対外戦争で確保した捕虜であり、かれらを労役や軍務に徴用していた点では他地域の古代国家と大差ないが、殷ではその濃厚な祭政一致体制における宗教儀礼で欠かせない生贄や王侯の殉葬にも奴隷を供した点に特徴があった。
 その後、殷の奴隷制社会が後継の周王朝によって転換されたか、それとも春秋戦国時代まで継続されたかは歴史学的な論争点である。周王朝は一般に封建制社会と特徴付けられるが、これは王族を各地に封じたもので、西欧中世における奴隷制と区別された農奴制に基盤を置く領主制とは異なり、奴隷制とも両立し得る社会構制であったと言える。
 春秋戦国の分裂を止揚して全国統一に成功した秦は厳罰主義的な法治国家で、とりわけ男性犯罪者への宮刑を多用した。宮刑受刑者は、時に家族もろとも奴隷身分に落とされた。秦は万里の長城や始皇帝陵に代表されるような大規模建築事業を好んだが、これらの建設作業には農民のほか、奴隷が徴用されたと見られる。
 秦の時代には、後の奴婢制度の原型となる官奴と私属の区別が形成され、秦の政界実力者であった呂不韋などは私属奴隷を一万人も所有していたとされる。こうした社会編成は秦滅亡後の混乱を収拾して成立した漢王朝にも基本的に継承された。
 ちなみに、前漢7代武帝に仕え、匈奴対策で活躍した将軍・衛青は生母が奴隷出身という低い身分の出で、下級官吏の養父に引き取られた後も奴隷の扱いを受けていたとされる。姉が入内し武帝の皇后となったことで出世の機会をつかんだが、姉弟ともどもこのような幸運は稀であった。
 前漢末になると、豪商を含む上層階級が大量の私属奴隷を抱え込み、庶民の労働を奪う結果となったことから、12代哀帝は身分ごとに所有できる奴隷数の上限を定める規制策を導入した。
 その後、前漢を打倒して新を建てた王莽は奴隷制廃止・奴隷売買禁止という画期的な政策を導入したが、社会主義的な農地国有化や統制経済などと共に、当時としては革命的に過ぎた王莽の策は失敗し、新は短命に終わった。
 その後、後漢から三国時代、五胡十六国・南北朝時代をはさんで唐の成立に至る過程で、中国の奴隷制は律令体制の下、公式の奴隷制度たる奴婢制度として定在化していくのである。
 なお、五胡十六国時代に後趙を建国した石勒は中国史上唯一の奴隷出自皇帝と紹介されることもあるが、本来は匈奴系羯族の一族長家の生まれで、飢饉を機に出奔流浪し、一時奴隷となったに過ぎない。

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持続可能的計画経済論(連載第6回)

2018-05-08 | 〆持続可能的計画経済論

第2章 ソ連式計画経済批判

(2)国家計画経済
 内戦後の戦後復興の過程で誕生したゴスプランを中心とするソ連式計画経済の性格は、多分にして統制経済に近いものであったと言える。それはまた、同時に国家による行政主導の計画経済であった。この点で、第1章で見た協同組合連合会の共同計画を基本とするマルクスの計画経済論からは外れていたのであった。
 もっとも、レーニンは最晩年の論文の一つの中で、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を「文化革命」と呼んで後世に託してもいるが、それは行程も定かでない遠い将来のこととして事実上棚上げされていたのである。
 こうした性格の下に始動したソ連式計画経済は、レーニン早世後、後継者の椅子を射止めたスターリンの指導下で基本的な骨格が形成される。その最初の業績は、1928年に始まる第一次五か年計画であった。これ以降、経済計画の基本年単位は5年に定められ、五か年計画がソ連式計画経済の代名詞となる。
 その計画策定は、「物財バランス」という元来は科学の術語である物質収支:英語ではいずれもmaterial balanceという)に由来する技法に基づいていた。科学において物質収支とは、ある化学反応の系において単位時間にその系に投入される物質の量と系から得られる物質の量との均衡を意味する。
 計画経済にあっては、ある一定期間に投入される物財の量と生産される物財の量をバランスさせる技法とされる。それによって需要と供給とを均衡させ、市場経済にありがちな両者の不均衡から生じる不安定な景気循環を防止できるというのである。
 実際の計画策定は、支配政党たる共産党が国家を吸収・凌駕する形で党・国家が二元行政を展開するというソ連の政治制度を反映し、極めて複雑なプロセスで行われていた。特に共産党が国家を凌駕する存在であったソ連では、まず行政機関であるゴスプランの前に、共産党指導部が経済計画の基本方針を決定したうえ、それを連邦閣僚会議(内閣に相当)で詰めたうえ、ゴスプランに送付することになる。
 ゴスプランでの具体的なプラン策定は先の物財バランスを考慮した計画経済の中心を成すが、それはゴスプランを舞台にした他の経済官庁や経済専門家などの意見を交えた折衝の結果たる合意として現れた。
 だが、これで終わりではない。ゴスプランが策定した計画の範囲内で、今度は各産業界を統括する経済官庁が個別の生産目標を策定したうえで、所管する国営企業へ通達する。個別企業はそれに基づき個々の生産計画を作成し、再び所管官庁を通じてゴスプランに戻され、計画の修正案が策定される。
 そうしてまとめられた最終計画案が再び閣僚会議及び共産党指導部に送付されたうえ、最後に国会に相当する最高会議で承認され、立法化される。こうしてようやく五か年計画が施行される。
 ざっとこのような煩雑なプロセスを経て実施されるのがソ連式計画経済であったが、見てのとおり、官僚制的なセクショナリズムと上意下達の権威主義的なシステムによった行政主導の官僚主義的計画経済であって、これが一名「行政指令経済」と呼ばれたことには十分理由があったと言える。

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持続可能的計画経済論(連載第5回)

2018-05-07 | 〆持続可能的計画経済論

第2章 ソ連式計画経済批判

(1)曖昧な始まり
 これまでのところ、歴史上本格的かつある程度持続的に実践された計画経済は、唯一ソ連式計画経済だけである。そのため、計画経済と言えば、特にことわりなくともソ連式計画経済を指すと言ってよい。それほど有名な経済政策ではあるが、実のところ、この政策は真に「計画経済」と呼ぶに値するか疑問のある出自を持つ。
 ソ連式計画経済は、そもそもその始まりが曖昧であった。ソ連式計画経済の指令機関である国家計画委員会(Gosplan:ゴスプラン)はロシア10月革命後の内戦・干渉戦が終結した直後、1921年2月に設立された。当然ながら、この時期、ソ連経済は戦乱によって破局的状態にあった。そうした戦後復興の切り札としてレーニン政権が打ち出したのが、いわゆる新経済政策(NEP:ネップ)であった。
 「新」と銘打たれているけれども、この政策は実際のところ、時限的に資本主義を復旧させて経済力の回復に充てるという趣旨であったから、共産主義を掲げる革命政権としてはあえて逆行的な施策を取り入れるレーニン流プラグマティズムの産物であった。
 とはいえ、全面的な市場経済化がなされたのではなく、市場化は手工業や農業分野を中心とし、外国貿易、重工業、通信・交通といった基幹分野は市場経済化から除外する混合経済政策ではあった。
 レーニンによれば、それは市場を野放しにするのではなく、国家が市場をコントロールする限りで、「国家資本主義」と呼ぶべき特殊な経済復興政策であった。
 そうした戦後混乱期に、一方で計画経済の主力となるゴスプランが設立されたのであった。しかし当初のゴスプランは諮問機関的なものにすぎず、ソ連の構成共和国ごとの経済計画の調整と連邦共通計画の作成という限定的な役割を持つにとどまったのである。
 そもそもレーニン政権が最初に打ち出した戦後復興計画はゴエルロ・プランと呼ばれた電化計画であり、その計画を担ったのは、ゴスプランではなく、ゴスプランよりも一年早く設立されたゴエルロ(Goelro)すなわちロシア国家電化委員会であった。レーニン政権は全土電化事業を戦後復興の土台とみなしており、当初はゴスプランもゴエルロの影に隠れていた。このゴエルロ・プランが後の五か年計画の原型になったとされている。
 こうした経緯を見ると、あたかも第二次世界大戦後の日本で、戦後復興を推進する指令機関として設立された経済安定本部を前身とし、2001年の行政機関統廃合まで存続した経済企画庁(経企庁)に類似している。
 資本主義を採る日本の経企庁は本格的な計画経済機関となることなく、最終的には統計・分析機関となり、その役割を終えたわけだが、ソ連の場合は国家資本主義の産物として発祥したゴスプランが国家計画機関として以後増強されていくという違いはある。しかし、ソ連式計画経済はこのように戦後復興の過程で、国家資本主義という特殊な経済政策の産物として始まったという歴史的な事実には十分留意される必要がある。

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マルクスは銅像を望まない

2018-05-06 | 時評

中国政府がカール・マルクス生誕200年を記念して、彼の郷里であるドイツのトリーア市にマルクスの銅像を贈呈したことが地元で紛議を呼んでいる。マルクスに関してはドイツでも賛否が絶えないだけに、予見された事態ではあるが、筆者はマルクスの銅像には賛成しかねる。

しかし、その理由は地元反対者が掲げる「マルクスは数百万人もの共産主義の犠牲者に対する間接的な責任がある」というようなことではない。このような理由付けは、冷戦時代の反共プロパガンダと何も変わらず、マルクスを読まずして否定する反共主義者の決まり文句に過ぎない。

反共主義者が憎むべき「共産主義」だと信じ込んでいるものがいかに共産主義にあらざるものかは当ブログが折に触れて論じてきたところであるし、かれらが主として念頭に置く旧ソ連体制(及びその亜流体制)がマルクスの理論からの離反の産物であることもつとに論証したので繰り返さない(拙稿参照)。

マルクスの銅像に反対すべき理由は、マルクス自身そのような偶像化を望まないはずだからというものである。マルクスは、偶像化に象徴されるような教条主義から最も遠い思想家であった。そのことは、彼のほとんど常に断片的かつ未完成ゆえにそこから教条を抽出することは困難な著作群に少しでも触れればわかることである。

マルクスは生前、一部の人の間でしか知られないマイナーな思想家であった。彼を偶像に仕立てたのは後世の人々であり、特にソ連共産党であった。中国共産党もその一つであるが、現在の中国共産党はマルクスからほど遠い資本主義街道を驀進中である。ある意味では、現代中国にとって、マルクスはもはや銅像として飾られるべき歴史上の人物に過ぎないのかもしれない。

ソ連共産党が奉じていたマルクスの偶像はその体制解体とともに砕け散ったが、約30年の時を経て、今度はマルクスが事実上用済みとなった中国共産党の手によって再建されたうえ、郷里に送還されたと象徴的に解釈することができるかもしれない。

いずれにせよ、マルクス生誕200周年になすべきことは、マルクスの偶像化ではなく、マルクスの再読解を通じて彼の思想を改めて真の共産主義社会構築の一助として咀嚼することである。それは、マルクスを正しく埋葬し直すことでもあるのである。

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持続可能的計画経済論(連載第4回)

2018-05-01 | 〆持続可能的計画経済論

第1章 計画経済とは何か

(3)マルクスの計画経済論
 計画経済論というとマルクス主義を連想させることもいまだに多いが、実際のところマルクスの経済理論の中には、本格的な計画経済論が見当たらない。彼の主著『資本論』に代表されるマルクス経済論の圧倒的な中心は、資本主義経済体制の批判的解析に置かれていたからである。
 とはいえ、マルクスは間違いなく計画経済の支持者であった。そのことは、ごくわずかながらマルクスが残した片言から窺い知ることができる。例えば『資本論』第一巻筆頭の第一章に見える「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として、意識的・計画的な制御の下に置かれたとき、初めてその神秘のヴェールを脱ぐ」というひとことは、まさに計画経済の概略に言及したものである。
 もう少し具体化されたものとしては、晩年の論説『フランスの内乱』に見える「協同組合連合会が共同計画に従い全土的生産を調整し、もってかれら自身の制御下に置き、そうして資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的な痙攣とを終息させるべきであるとするならば・・・・・それが共産主義以外の・・・・・何ものであろうか」という言述も、より明確に共産主義=計画経済に言及したものである。
 この後者の言述で重要なことは、マルクスの想定していた計画経済は「協同組合連合会(の)共同計画」に基づくものだということである。この点で、ソ連式計画経済のような国家計画機関による経済計画に基づくいわゆる行政指令経済とは全く異なっている。
 元来マルクスは、共産主義社会をもって「合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合から成る一社会」と定義づけていた。
 マルクスは国家廃絶論とは一線を画していたが(拙論『マルクス/レーニン小伝』第1部第4章(4)参照)、マルクスが想定する共産主義経済社会は国家行政機関が主導するものではなく、その基礎単位は協同組合企業であって、経済計画もまたそうした協同組合企業自身の自主的な「共同計画」として策定・実施される構想となるのである。
 それでは、マルクス経済計画論では貨幣経済との関わりはどうとらえられていたか。これについてマルクスはいっそう明言を避けているが、やはり晩年の論文『ゴータ綱領批判』に見える「生産諸手段の共有を基礎とする協同組合的な社会の内部では、生産者たちはかれらの生産物を交換しない」という言述からして、交換経済の現代的形態である貨幣経済は予定されていないと考えられる。
 かくしてマルクス計画経済論の概略は非国家的かつ非貨幣経済的とまとめることができるが、このような理論枠組みはマルクス主義を公称したソ連式の国家的かつ貨幣経済的な計画経済政策とはむしろ対立的なものだとさえ言えるであろう。
  ソ連がマルクスとレーニンをつなげて「マルクス‐レーニン主義」という体制教義を標榜していたため、ソ連の旧制はすべてマルクスに淵源があり、従って、旧ソ連の失敗はマルクス理論の失敗を意味するという三段論法的な評価が世界的に定着することとなってしまった。
  しかし、国家計画委員会をはじめとするソ連の旧制はすべてレーニンとスターリンの時代に設計されたものであって、本来はマルクスと切り離して「レーニン‐スターリン主義」と呼ぶほうが正確である。計画経済を新たに構想するに当たっては、マルクスとソ連とを直結させない思考法が特に必要である。

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