第5章 日本の農民反乱
(4)近世農民一揆
徳川幕藩体制は、豊臣政権が先鞭をつけた身分の固定化を継承し、より厳しい身分制度を確立した。農村も再編され、自治的な惣村は消滅したが、城下町のような都市と異なり、完全な統制下には置かれなかった。
すなわち村請のような連帯責任制とともに、村役人による半自治制が維持され、庄屋のような豪農は農村指導者として強い権力を持った。そうした中で、江戸時代は百姓一揆が頻発する時代となり、一面では、百姓一揆の歴史であった。江戸時代初期から幕末直前あたりにかけ、長い百姓一揆事案のリストが作成できるほどである。
その多くは天領ではなく、藩領での一揆であった。徳川幕府は多くの配下大名に領地を細切れに安堵することで領主の政治経済力を分散抑制する策を採ったため、慢性的財政難から増税搾取に走る中小藩が少なくなく、百姓一揆を誘発したのである。
例外として、冷害に苦しむ東北地方北部の盛岡藩は広大な領地を持ちながら、不作による飢饉を契機とする百姓一揆が頻発し、江戸時代を通じて全国有数の一揆多発藩であった。米の石高制を全国一律に適用し、稲作基盤の領主制に執着した幕藩体制の矛盾が現れた悲劇である。
江戸時代の長大な一揆事案のリストを一定の視点から分類すれば、義民直訴型と民衆蜂起型の二種を区別することができる。前者の最も著名な例は、佐倉藩の佐倉惣五郎による直訴事件である。彼は半ば伝説化されているが、これら義民は豪農である庄屋・名主層から出て、農村代表者としてあえて死罪を覚悟で直訴に及んだものであり、みな郷土の英雄として語り継がれている人物たちである。
こうした義民直訴は江戸時代の比較的初期(17世紀後半期)に集中している。これは中世以来の惣村的な気風が近世農村にも残されていたことの証しであるが、その後下火となったのは、各藩で村役人クラスの懐柔・統制を強化し、貧農と富農を階級的に分断して農村の管理を引き締めたためかもしれない。
これに対し、民衆蜂起型の百姓一揆は江戸時代の全体を通じて頻発している。一揆の大半はこのタイプと言ってよい。江戸時代最初期の島原の乱も、純然たる百姓一揆とは言えないが、当時の島原藩主松倉氏のキリシタン弾圧とともに苛烈な農民搾取が蜂起の大きな契機となっており、乱を鎮圧した幕府でさえ、時の藩主松倉勝家をある種の戦犯として現役大名級に対しては唯一例外の斬首刑に処したほどであった。
典型的な百姓一揆を誘発したのは、江戸時代中期における幕府主導の年貢増徴政策と農民の強訴・逃亡禁止策だった。これにより、一般農民は農奴的立場に置かれ始めた。そうした中で幕閣を巻き込む騒動に発展したのが、美濃郡上藩で宝暦年間に発生した郡上一揆であった。
この時期には、江戸近郊の幕府天領でも、農民の伝馬(運輸)賦役強化に反発して発生した中山道伝馬騒動、やはり天領の飛騨国で発生した大原騒動などの大規模一揆が発生し、騒然としていた。19世紀に入ると、天保の大飢饉を契機とする大小の一揆が頻発するが、やはり重要な天領である甲斐国で大規模な一揆・天保騒動が発生する。
こうして一揆は藩内規模のものから次第に幕府膝元の天領下にも拡大していくことになるが、これは幕末に向け、幕府権力の弱体化が進んでいたことと軌を一にしていたものと思われる。