ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載補遺1)

2019-10-31 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(1)概観
 18世紀フランス革命と、それが終息した後、反動的なウィーン体制に対する反作用として勃発する1820年以降の欧州第一次連続革命との間をつなぐ時間軸の中に位置するのが、スウェーデンにおける1809年の立憲革命である。
 スウェーデンでは、スウェーデン帝国主義を象徴する絶対君主であったプファルツ朝カール12世が没した後、ホルシュタイン‐ゴットルプ朝への王朝交代に伴い、中世的な身分制議会の権限が増し、君主権が形骸化する中、「自由の時代」と呼ばれる一時代を迎えていた。
 この時代の1766年には、世界に先駆けて出版自由法が制定され、神学的言論を除いて検閲が廃止されるなど、アメリカ独立革命やフランス革命にも先行して、近代的な自由主義が花開いていた。その経済的土台は、なお中世の身分制に基づき、農民階級の政治参加は制限されていたが、この時代のスウェーデンは立憲君主制へと向かっていた。
 これを転覆したのが、ホルシュタイン‐ゴットルプ朝二代目のグスタフ3世であった。彼は1772年、自ら宮廷クーデタ―を起こして全権を握り、「自由の時代」の諸成果を覆す改悪に乗り出したのであった。彼の治世中、1789年にはフランス革命が勃発するが、これに対しては反革命派の急先鋒となり、同年に連合及び保安法を制定して、再び絶対君主制への反動化を明確にした。
 グスタフ3世は1792年に元近衛士官により暗殺されたが、彼の反革命反動政策は息子のグスタフ4世に継承され、親子二代にわたる反動統治はフランス革命に並行する全期間中続いたが、1809年に突然終了した。この年、反動統治に不満を持った貴族・軍人らが革命的に決起し、グスタフ4世を拘束、廃位に追い込んだからである。
 この立憲革命後に制定された新たな統治法(憲法)は三権分立に基づく近代的な立憲君主制を志向する内容のもので、同時代の大陸欧州では、ナポレオン帝政に変質していたフランスを含め、先駆的であった、他の大陸欧州諸国が来る連続革命で目指したものをスウェーデンは先取りしていたとも言える。
 もっとも、グスタフ4世に代わって王位に就いたカール13世でホルシュタイン‐ゴットルプ朝が断絶した後、スウェーデン王に招聘されたナポレオン配下のフランス軍人ベルナドット改めカール14世は保守的で、真の立憲君主制の確立は、彼の子孫が歴代王となるベルナドッテ朝の下で、19世紀を通じて漸進的になされていく。

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近代革命の社会力学(連載第35回)

2019-10-30 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(6)南北分裂から再統一へ  
 ハイチ独立革命は1804年のデサリーヌの皇帝即位(ジャック1世)により終結したという見方もあるが、帝政がジャック1世の暗殺により短命に終わったことで、革命は再起動されたと言える。しかし、この再起動プロセスは、分裂と内戦含みのものとなった。  
 ジャック1世暗殺の真の黒幕はいまだに明らかでないが、混血ムラートの指導者となっていたアレクサンドル・ペションと黒人奴隷出自で元はデサリーヌ配下の将軍だったアンリ・クリストフが共謀したと見られている。  
 しかし、この二人は人種的な相違に加え、思想的にも共和制支持者だったペションに対し、クリストフは王制支持者という超えられない隔たりがあり、統一国家を構築し合う関係ではなかった。  
 結果として、ペションは従来からのムラート本拠地である南部に共和体制を樹立する一方、クリストフは革命発祥地もある北部に自らを王(アンリ1世)とする君主制を樹立した。こうして、帝政崩壊後のハイチは南北に異なる二つの政体に分裂してしまった。  
 南部共和国はペションが大統領として10年以上統治したが、彼は当初こそ民主主義を支持したものの、長期政権となる中で独裁的になっていた。その集大成となる1816年憲法は、形式上二院制を採用するが、議会の権限を制約し、終身大統領ペションに強大な権限を集中させるというお世辞にも民主的とは言えない内容だった。  
 ただ、土地改革に関しては進歩的で、帰農した革命軍兵士に土地を分配して好評を得たが、結果としてハイチ経済の土台であるプランテーションが機能しなくなり、経済的には損失を招いた。  
 一方、北部君主制は帝政の縮小版のようなものであった。もっとも、クリストフも当初は共和制を維持したが、1811年に国王アンリ1世として即位し、君主制に移行した。この北ハイチ王国はトゥーサンの暫定自治体制を君主制に変更したようなもので、カトリック以外の宗教を禁ずる一方、白人の土地所有を禁止しなかった。  
 アンリ1世はフランス流の貴族制を創設し、世襲王制の確立を目指したことによる贅沢趣向と、フランスが再侵攻してくるという強迫観念から、住民を動員した宮殿や城塞の建設に走り、反発を招いた。君臨者のストレスにさらされた彼は、1820年、自殺に至った。  
 南部共和国でも、1818年にペションが病死し、後継者としてやはりムラート出身の軍人ジャン・ピエール・ボワイエが立っていた。一方、アンリ王の王太子アンリ2世は年少のうえ、父王の死後、即位前に反対派の手により殺害された。  
 こうして北部王国が自壊したことで、ボワイエ率いる南部共和国が北部王国を無血のうちに合併し、ようやく統一共和国が樹立された。この後、ボワイエが新たな革命で追放された1843年まで長期政権を維持することになる。これにより、18世紀末に始まったハイチ独立革命のプロセスはようやく完結したと言える。
 とはいえ、フランスはなおもハイチ独立を正式に認めず、代償として賠償金の支払いをハイチ政府に請求し続け、ハイチもこれに応じざるを得なかったため、この「独立債務」が統一ハイチの経済発展を阻害する最大要因となった。  
 それとともに、革命を収束させた統一ハイチの樹立がムラート主導で行なわれたことで、以後はムラートが政治経済上の支配層となり、黒人層との階級格差構造を形成するとともに、革命軍を母体とする軍部の政治力が強大化し、頻繁なクーデターによる政情不安が恒常化していった。

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近代革命の社会力学(連載第34回)

2019-10-29 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(5)帝政とその崩壊  
 ハイチ革命は、本国のフランス革命と完全に連動していたわけではなかったが、刻々と揺れ動くフランス革命のプロセスの影響は受けざるを得なかった。特にナポレオンの権力掌握とその反動化政策は、ハイチ革命にとっても大きな分岐点となる。  革命を収束させてハイチ暫定自治体制の総督に就任していたトゥーサン・ルーヴェルチュールは、当初ナポレオンに忠誠を誓い、ナポレオンもいったんはトゥーサンの地位を承認したのであるが、ナポレオンは奴隷制の復活を目論み、元来収益力が高かった海外植民地サン‐ドマングの奪回を計画した。  
 そこで、ナポレオンは1801年、妹の夫である軍人シャルル・ルクレールを司令官とする遠征軍を送り込み、サン‐ドマング占領作戦を開始した。これに対して、自治政府側は対抗できず、トゥーサンは奴隷制廃止の維持を条件に引退を申し出るが、懐疑的なルクレールはトゥーサンを捕らえ、フランスに送還した。  
 ジュラ山脈の要塞監獄に投獄されたトゥーサンは、すでに60歳を超えていたと見られる年齢に加え、寒冷な気候と拷問により獄死してしまう。こうして、ハイチ革命はナポレオンの反動政策のために、再び振り出しに戻ってしまった。  
 この危機を救ったのは、黒人奴隷出自でトゥーサン配下の将軍だったジャン‐ジャック・デサリーヌである。デサリーヌは革命が生み出した複雑な人物であり、その立場を情勢によって変更する機会主義者でもあった。
 彼は当初トゥーサンの指導する革命軍で名将として頭角を現したが、フランス遠征軍が侵攻してくると、フランス軍が連携していたムラート勢力に寝返ってしまった。このことがトゥーサンの暫定自治政府崩壊につながった。  
 しかし、フランスが奴隷制復活の動きを見せると、デサリーヌがムラートと共同の革命軍を再組織てフランス軍に対して反撃し、1803年末までにフランス軍を打ち破り、自治を回復したのである。そればかりでなく、新指導者デサリーヌのもとで今度は完全な独立を宣言した。ハイチ(アイティ)の国名も、この時に付せられた。
 問題は、独立ハイチの政体である。デサリーヌは当初、トゥーサンにならい終身総督を名乗ったが、野心家の彼はこれに満足せず、ナポレオンを真似て皇帝即位を宣言し、帝政を導入した。こうして、ハイチ革命は完全な共和制を経ることなく、帝政に収斂したのである。
 1805年の帝政憲法は、奴隷制復活を阻止するため、白人の土地所有を禁止するのみならず、人種差別を終わらせるため、帝国民を黒人に限り、白人の公民権を原則的に認めないという強硬な内容であった。例外はナポレオンの遠征軍に編入・派遣されながら、黒人の革命軍に共感して寝返り、永住を望んだポーランド兵たちであった。  
 そうした「革命功労白人」という稀有の例外はあったものの、デサリーヌ帝政は、総体として、白人やムラートへの差別という「逆差別」を生み出す矛盾を抱え込んだのである。  
 憲法的排除に先立ち、皇帝即位前のデサリーヌは、白人を大量処刑する民族浄化政策をも実行していた。これはロベスピエールのように内部の敵を粛清することは異なり、旧支配層への報復という形ではあるが、やはり恐怖政治の一種であった。  
 社会経済政策的には、奴隷制を廃止しつつ、新生独立国家の経済的土台を支えるため、プランテーションの再編を試み、一般の黒人たちに兵士か農業労働者のいずれかの選択を迫る農業軍国主義と評される新政策を推進した。この施策は、奴隷制とは異なるが、農業労働者の境遇は奴隷に近く、別の形での奴隷制の復活に等しい面もあった。
 しかし、こうしたジャック1世の強権的な統治には、不満が高まる。特に逆差別的な黒人至上主義には、彼の権力掌握に協力したムラート層が反発した。この反発エネルギーは1806年、ジャック1世暗殺の陰謀に結実した。彼の死により、帝政はわずか二年で崩壊する。

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近代革命の社会力学(連載第33回)

2019-10-28 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(4)フランス革命への呼応と暫定自治  
 ハイチ独立革命の初動では、黒人奴隷の間に定着したハイチ・ブードゥー教が大きな役割を果たしたわけであるが、実際に革命のプロセスが開始されると、ブードゥー教は背後に退き、本国フランス革命に触発された別の流れが生じる。  
 実際のところ、このような流れは1791年の武装蜂起の前から、中間層のムラートたちによって開始されていた。かれらはフランス革命後、本国革命政府に対し、まずは白人の血も引くムラートに白人と同等の権利を認めるよう求めたが、植民地当局はこれを拒否し、ムラートの権利要求を弾圧した。  
 このことも、91年の武装蜂起を誘発する一因となった。この頃に台頭したのが、有識奴隷のトゥーサン・ルーヴェルチュールである。彼は当初こそ白人農園主に従順な立場にいたが、反乱の拡大を見てこれに加わると、すぐに頭角を現し、かなり粗野だった奴隷反乱軍に訓練を施して革命軍に鍛え上げた。  
 トゥーサンは組織力にも優れ、ムラートや一部進歩派の白人とも連携しながら、北部一帯を制圧することに成功した。しかし、南部はムラートが陣取り、沿岸部は英国が横槍を入れる形で軍事介入し、占領していた。一方で、イスパニオラ島東部を植民地として持つスペインも波及を恐れて介入するという複雑な情勢下にあった。
 そうした中、92年に新たに着任したジロンド派のソントナ弁務官(総督)は、革命軍の軍事的勝利を条件に、奴隷制廃止を認めた。これを受けて、トゥーサンを事実上の指導者とする革命軍は、英国やスペインを撃退した。  
 とはいえ、南部にはアンドレ・リゴーを指導者とするムラートが半独立状態にあった。トゥーサンは1799年の軍事作戦により、この南部ムラート勢力を破り、サン‐ドマング全域の支配をようやく確立した。  
 しかし、トゥーサンをトップとするハイチ革命政府の立場はまだ不安定で、流動的であった。フランスも完全にサン‐ドマングから手を引いたわけではなく、フランスでの革命が現在進行中という情勢不安の中、サン‐ドマングの地位も宙吊りになっていたのだ。
 そうした中、トゥーサンは外交手腕も発揮する。流動的なフランスは脇に置き、英米との貿易協定という経済的利益を優先したのである。幸い、独立したばかりのアメリカはサン‐ドマングの革命に好意的で、特にハミルトン財務長官は後ろ盾のようになっていた。  
 トゥーサンは生まれたばかりのサン‐ドマング革命体制の経済基盤として、プランテーションの再建は必須と考えたため、逃亡し、または追放されていた白人農園主を呼び戻し、革命軍の黒人兵士たちを労働者として雇い入れることを認めた。  
 こうして内政外交面で一定の区切りがつくと、トゥーサンは東部のスペイン植民地(サントドミンゴ)に侵攻してこれを征服、ついにイスパニオラ島全島の支配権を確立した。こうして、世紀の変わった1801年、トゥーサンは初の自治憲法を制定する。
 しかし、この憲法ではトゥーサンを終身総督としたうえで、後継者(5年任期)を自ら指名でき、自由選挙による議会制度も容認しないなどの権威主義的な側面は、後のハイチ憲法にも影響を残した。  
 もちろん奴隷制は廃止されるも、プランテーション制を維持するため、奴隷に代わる小作農の移動の自由を制限するといった封建的な要素を残し、人権面でも先進的とは言い難く、カトリックを事実上の国教とした点も含め、フランス革命下の憲法より保守的・後退的な内容となった。  
 政体としても、いまだフランスの自治領という地位を脱しておらず、この1801年憲法体制は暫定的な性格が強いものであった。総体的に見て、ハイチ革命は立憲革命という点では弱さがあり、このことが完全な独立国家となった後も、ハイチの生来的な宿弊として付いて回ることになる。

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貨幣経済史黒書(連載第26回)

2019-10-27 | 〆貨幣経済史黒書

File25:オイルショック

 資源史の観点から見ると、第二次世界大戦後は「石油の時代」と言える。当初、石油利権を独占していたのは、七つの石油開発多国籍資本であった。この寡占企業体による国際カルテル体制下で原油価格は安定し、石油の取引と供給は円滑に行なわれていた。
 石油資本寡占体制の恩恵を最も受けたのは、第二次大戦の戦禍からの復興とそれに続く高度経済成長の資源的土台として石油をフル活用した欧州や日本であった。他方、産油諸国はほとんどが新興の途上国であったが、かれらの分け前は利権の半分程度という状況で、経済開発の土台としては不充分であった。
 ところが、1950年代以降、中東で新たな油田が続々と発見・開発されると、石油の供給過剰が生じ、国際石油資本は原油公示価格の引下げを一方的に決定した。このような非対称・不平等な石油市場に対し、産油諸国の反発は高まり、1960年、産油諸国による利権防衛機構として石油輸出国機構(OPEC)が結成された。  
 OPECはさしあたって、国際石油資本との協議を通じて原油価格を有利に決定する権利を獲得したが、産油国はそれだけでは満足せず、石油掘削権の獲得から、さらに社会主義的な指向のもとに油田そのものの国有化へと向かい始めた。  
 こうした流れの渦中、1973年にイスラエル‐アラブ諸国間で第四次中東戦争が勃発した。これを機に、OPECはまず原油価格の70パーセント引き上げ、続いて減産と禁輸、さらなる130パーセントにも及ぶ第二弾の原油価格引き上げという連続措置を打ち出した。  
 これは経済情勢を考慮した対応というよりも、多分にしてイスラエル支持の欧米諸国への制裁という政治的意図に基づく政治的措置であった。ついに、石油は政治の道具と化したのであった。  
 こうして惹起された石油価格の暴騰と逼迫は、オイルショックと呼ばれる国際的なインフレーション危機を惹起した。とりわけ、日本では「狂乱物価」と評されるような異常なインフレーションへ向かった。  
 すなわち、1974年には消費者物価指数で上昇率23.2パーセントを記録するとともに、物資不足の風評によるトイレットペーパー等の買占め騒動という経済心理パニックまで付随した。戦後日本では初となるある種の恐慌現象であった。  
 日本の突出したインフレの要因がオイルショックによるものかどうかは経済専門家の間で論争されたが、いずれにせよ、マクロ的にも、日本はオイルショックを機に戦後初のマイナス成長を記録し、ニクソンショックと合わせ、奇跡とも評された戦後の高度経済成長を終焉させる画期点となったのである。  
 世界的に見ても、1970年代は、ニクソンショックによる「ブレトンウッズ体制」の終焉に加え、オイルショックがもたらした石油資本寡占体制の終焉は、戦後の相対的に安定した国際貨幣経済にとっての大きな分岐点であった。
 一方、OPEC諸国にとって、オイルショックはオイルチャンスとなり、これ以降、預金通貨の形で獲得された潤沢なオイルマネーを戦略的に投資し、遅ればせながらの高度経済成長を達成する契機となったのである。  
 ちなみに、1979年には自身OPEC原加盟国でもあるイランでの革命を機に、第二次オイルショックを惹起している。このように、オイルショック現象とは、人為的(政治的)な要因で引き起こされる現代的経済危機の中でも最もマイナス影響の強いものと言える。

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世界共同体憲章試案(連載補遺)

2019-10-27 | 〆世界共同体憲章試案

第9章 持続可能なエネルギー

〈再生可能エネルギー条約〉

【第38条】

世界共同体は、条約をもって、各構成主体が生態学的に持続可能なエネルギーの開発と普及を推進することを義務付ける。

[注釈]
 世界共同体の主要な設立目的として、地球環境の生態学的な持続可能性ということがある。その最大の具体化は地球規模での計画経済の確立にあるが、この持続可能的計画経済の基盤となるのは再生可能エネルギー技術の開発及び普及である。これを各領域圏の自主政策に委ねるのではなく、世共総体で取り組むため、条約を締結する。

〈世界再生可能エネルギー機関〉

【第39条】

1.世界共同体は、生態学的に持続可能な再生可能エネルギー技術の開発と普及を目的として、世界再生可能エネルギー機関を設立する。

2.前項の機関は、総会の共同管理機関とする。

[注釈]
 前条の条約を実行的に履行するべく、総会共同管理機関として、世界再生可能エネルギー機関が設立される。

【第40条】

前条の機関は、次の任務を有する。

① 世界経済計画機関と連携し、再生可能エネルギー技術に関する適宜の情報提供及び技術支援を行うこと。
② 世界共同体構成主体における再生可能エネルギー技術の適切な導入及び運用を支援すること。
③ 世界の学術研究機関と提携し、再生可能エネルギー技術の開発及び実用の恒常的な進展に尽くすこと。

[注釈]
 特記なし。

〈脱原子力条約〉

【第41条】

世界共同体は、条約をもって、各構成主体が適切なプロセスを経て原子力エネルギーの利用から脱することを義務付ける。

【第42条】

1.世界共同体は、原子力の利用を脱するための技術を開発し、及び世界における脱原子力のプロセスを支援し、監督することを目的として、世界脱原子力機関を設立する。

2.第39条第2項の規定は、前項の機関にも準用する

[注釈]
 再生可能エネルギーの開発・普及は、再生不能エネルギーの集大成である原子力利用からの脱却と不可分である。しかし、脱原子力はそれ自体に高度な技術と歴史的な時間を要することであるので、再生可能エネルギー機関とは別途、専門機関を必要とする。

【第43条】

1.前条の機関は、世界共同体構成主体における脱原子力のプロセスを技術的に支援し、かつその履行状況を定期的に監査し、総会に報告しなければならない。

2.機関は、世界共同体構成主体が第41条の条約に違反している疑いがあるときは、いつでも査察することができる。

[注釈]
 脱原子力機関は、世界共同体構成主体における原子力発電所の廃炉や核廃棄物の処理などの技術的支援を行うほか、脱原子力のプロセスを監査・報告する任務、さらには条約に違反している疑いのある構成主体への査察の権限を持つ。

【第44条】

前条の機関は、核兵器廃絶のプロセスに関して、大量破壊兵器廃絶委員会と連携して、技術的な支援を行うものとする。

[注釈]
 世界脱原子力機関の任務は、基本的に原子力の非軍事的な利用からの脱却を支援・監督する機関であるが、核兵器廃絶という軍事的な脱原子力のプロセスに関しては、平和理事会下部機関の大量破壊兵器廃絶委員会(第39条第2項)と連携する。

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世界共同体憲章試案(連載第12回)

2019-10-26 | 〆世界共同体憲章試案

〈計画の発効及び実施〉

【第33条】

1.総会は、世界経済計画を可決した後、直ちにこれを汎域圏全権代表者会議に送付しなければならない。送付を受けた全権代表者会議は、三日以内に発効のための署名をしなければならない。

2.汎域圏代表会議が署名した世界経済計画は、署名した日の翌日に発効する。

[注釈]  
 世界経済計画は、総会による可決後、世界共同体執行機関の位置にある全権代表者会議の署名を得て、初めて正式に発効する。全権代表者会議は、この段階で署名を拒否することはできないため、署名は形式的な認証手続きである。

【第34条】

1.各汎域圏常任全権代表は、当該汎域圏に包摂される全領域圏に対し、発効した世界経済計画を実施する指令を発する。

2.世界共同体構成領域圏は、世界経済計画を準則的な指針として、各々の経済計画を策定しなければならない。

[注釈]  
 正式に発効した世界経済計画は、条約そのものではないが、単なる目標でもなく、全権代表者会議を構成する五人の常任全権代表の指令に基づく規範性を持った準則的な指針として構成領域圏を拘束する。よって、各構成領域圏は、世界経済計画に沿って各自の経済計画を策定しなければならない。

【第35条】

1.世界共同体構成領域圏は経済計画の策定に際し、世界経済計画機関の専門家委員会に対し、見解を求めることができる。

2.前項の規定に基づく専門家委員会の見解の提示は、公式文書をもって行なわなければならない。

[注釈]  
 世界経済計画機関は各領域圏の経済計画の策定に直接的に関与・干渉することはないが、見解の照会に対し公式文書をもって回答することを通じて、間接的に関与する。この見解は、言わば施行中の経済計画に関する世界経済機関による公式の解釈を示すものである。

【第36条】

1.世界経済計画機関は、三か年計画の二年次が終了した後、計画の実施状況を監査し、六か月以内にその結果を持続可能性理事会に報告しなければならない。

2.世界経済計画機関は、前項の目的を達成するため、監査委員会を設置する。

3.監査委員会は、監査を実施するのに必要と認める場合、各世界共同体構成領域圏の経済計画の実施状況を調査することができる。各構成領域圏は、この調査に協力しなければならない。

[注釈]  
 本条は、三か年計画の二年次終了時点における中間監査に関する規定である。これは過去二年間の計画実施状況を監査し、次期計画の策定にこれを生かす趣旨である。

【第37条】

1.世界経済計画機関は、三か年計画が終了した後、計画の実施状況を監査し、一年以内にその結果を持続可能性理事会に報告し、かつ公開しなければならない。

2.前条第2項及び第3項の規定は、前項の監査についても、これを準用する。

[注釈]  
 本条は、三か年計画の終了後の監査に関する規定である。公開の必要のない前条の中間監査に対し、終了した前次計画の実施状況の事後監査を通じた結果の正確な情報公開に意義がある。

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世界共同体憲章試案(連載第11回)

2019-10-25 | 〆世界共同体憲章試案

第8章 世界経済計画

〈世界経済計画機関〉

【第29条】

1.世界共同体は、生態学的な持続可能性を保障する地球規模での経済計画を策定するため、世界経済計画機関を設置する。

2.世界経済計画機関は、基幹的な各産業部門の世界組織の代表者及び汎域圏経済協調会議事務局長並びにその他所定の評議員で構成される上級評議会によって運営される。

3.上級評議会による機関運営を専門的に補助する内部組織として、専門家委員会を設置する。

[注釈]  
 世界共同体は、生態学的な持続可能性の保障を最大任務とする民際機構として、地球規模の経済計画を策定・運用する。その中核的機関となるのが、世界経済計画機関である。この機関は、官僚制行政機関ではなく、基幹産業部門の世界組織を主体とする合議制機関である。第2項の条約とは、本憲章とは別途定められる世界経済計画機関設置規程を指す。

【第30条】

1.世界経済計画機関は、世界経済計画の枠内で直轄自治圏の経済計画を立案するため、下部機関として、各直轄自治圏の代表者によって構成される直轄自治圏経済計画委員会を設置する。

2.直轄自治圏経済計画委員会は、直轄自治圏の経済計画の策定に当たり、専門家委員会に準じた地位及び権限を有する。

3.前二条の規定は、信託代行統治域圏の経済計画に準用する。

[注釈]  
 直轄自治圏はいずれも小規模な領域であり、各自個別に経済計画を立案することが困難であることから、世界経済計画機関が、直轄自治圏経済計画委員会を通じて直接に経済計画を立案する。なお、信託代行統治域圏も、信託統治が継続する間、世界強度体の直轄下に置かれるから、経済計画の立案も直轄自治圏に準ずる。

〈計画の策定及び議決〉

【第31条】

1.世界経済計画機関は、三年に一度、世界経済計画を策定する。この策定作業は、現行計画が終了する一年前に着手する。

2.世界経済計画は、世界的な環境予測を基本としながら、世界における需要と供給の見通しを考慮した世界的な生産の量的計画と生態学的な持続可能性を維持するに有益な生産方法の規制から成る全体計画と、各汎域圏ごとの環境状況及び人口を参酌した需要と供給の見通しを考慮した生産計画を定める地域計画の二部で構成される。

3.世界経済計画機関上級評議会は、専門家委員会が作成した計画草案を討議したうえ、正式の計画案を議決する。

4.上級評議会の議決は、出席した評議員の過半数の賛成による。

5.上級評議会が草案を否決する場合は、意見を付して専門家委員会に差し戻さなければならない。差し戻しを受けた専門家委員会は、直ちに修正案を作成し、上級評議会に提出しなければならない。

[注釈]  
 世界経済計画の策定に関する規定である。世界経済計画案は、三か年計画を基本とし、世界経済全体の計画案である全体計画と、全体計画の範囲内で五つの汎域圏ごとの個別的な計画案である地域計画の二部構成とする。直接的には、地域計画が各領域圏の経済計画の指針となる。

【第32条】

1.世界経済計画機関は、策定した計画案を七日以内に汎域圏全権代表者会議に提出し、その承認を受けなければならない。

2.全権代表者会議は、計画案を承認した後、三日以内に持続可能性理事会に送付しなければならない。

3.全権代表者会議は、計画案を承認しない場合、理由を付して世界経済計画機関に差し戻さなければならない。差し戻しを受けた世界経済計画機関は、直ちに計画の修正案を提出しなければならない。その手続きは、前二条の定めるところによる。

4.持続可能性理事会は、送付された計画案について、他の案件に先立って審議し、決定しなければならない。持続可能性理事会は、決定に際し、その職権により、計画案を修正することができる。

5.持続可能性理事会は、前項の規定によって決定した計画案を直ちに総会に提出し、議決を求めなければならない。

6.総会は計画案の修正を求めることができる。この場合、世界経済計画機関は、迅速に修正案を策定しなければならない。その後の手続きは、前五条の規定による。

[注釈]  
 世界経済計画機関が策定した計画案の民主的な議決手続きを定める規定である。図式的にまとめれば、全権代表者会議の承認→持続可能性理事会の決定→総会の可決という順になる。持続可能性理事会が可決した計画案の迅速な成立を保証するため、総会は計画案を全面的に否決することはできないが、修正を求めることはできる。

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近代革命の社会力学(連載第32回)

2019-10-23 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(3)革命の初動とブードゥー教  
 近代の入り口となる18世紀以前の近世期革命では、革命を起動させるうえで何らかの信仰が精神的な力動となるが、ハイチ革命の場合は、ブードゥー教であった。ブードゥーは、元来西アフリカの民間信仰で、当地から連行されてきた黒人奴隷がサン‐ドマングに持ち込んだものである。  
 本来のブードゥーは教義や教典もない、宗教というよりは古来の民間信仰であるが、サン‐ドマングでは、カトリック系の白人支配層がブードゥーを邪教として禁圧した。それでも、ブードゥーは過酷な奴隷生活を支える霊的な基盤として奴隷たちの間で生き続けるとともに、部分的にはカトリックとも習合し、独自の発展を示した。  
 こうして、言わばハイチ・ブードゥー教と呼ぶべき新たな宗教が成立した。特に、法外の存在であった逃亡奴隷集団マオゥンがハイチ・ブードゥー教の発展に寄与したと見られ、本来は組織性のない民間信仰であったブードゥー教に上級と下級の二階級を持つウンガンと呼ばれる司祭の制度も形成された。  
 ブードゥー教がハイチで政治性を帯びたのは、革命前の18世紀半ば頃、逃亡奴隷出自のウンガンであったフランソワ・マッカンダルが逃亡奴隷の組織化を主導した時である。元来マオゥンは白人農園を襲撃・略奪するアウトロー集団にすぎなかったが、マッカンダルはこれを政治性を備えた武装組織に発展させた。
 彼は農園の黒人奴隷たちともコンタクトを取り、逃亡奴隷と現役奴隷のネットワークを結成し、現役奴隷の協力・手引きのもと、農園を襲撃するのみならず、飲食物に毒を仕込んで白人農園主らを殺害するというテロ手法で数千人の白人を殺害した。  
 マッカンダルが革命を企図していたかどうかはわからないが、白人を殺害するために現役奴隷をも組織化した彼は、ある種の「革命」を夢見ていたのかもしれない。しかし、このようなテロ手法は長続きせず、当然にも事態を重視した植民地当局によって捕縛され、火刑に処せられた。  
 マッカンダルの処刑は1758年と記録されている。この時代、本国フランスでも革命はまだ30年先であり、マッカンダルの「革命」は時間的に早すぎたのだった。しかし、彼の記憶は残り、残党のマオゥンは散発的に武装活動を続けていた。  
 そうした中、フランス本国で革命が勃発する。しかし、サン‐ドマングの白人支配層は反革命派であったから呼応はしなかった。フランス革命の1789年から二年遅れで決起したのは、またもやブードゥー教ウンガンのデュティ・ブークマンに指導された奴隷たちであった。  
 ブークマンもマッカンダルと同様、マオゥンの指導者であったが、マッカンダルとの違いは、より戦略的であったことである。彼は1791年8月、ブードゥー教の儀式を大々的に挙行し、そこで奴隷たちの蜂起を雄弁に訴えたのである。反乱軍は、たちまち奴隷制農園が集中する北部全域を占領した。  
 植民地当局は11月にはブークマンを捕らえて処刑し、見せしめのため首をさらしたが、効果なく、奴隷反乱は全体規模のものに発展した。ハイチ革命の本格的な始まりである。革命の初動は、弾圧を生き抜いた“邪教”ブードゥー教の力によったのである。

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近代革命の社会力学(連載第31回)

2019-10-22 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(2)植民地サン‐ドマングの人種別階級構造  
 ハイチ独立革命前のフランス植民地サン‐ドマングは、フランスが1660年以降占領・入植し、アウクスブルク同盟戦争を終結させた1697年のライスワイク条約で、正式にフランス領と認められて以来、カリブ海地域におけるフランスの代表的な植民地として経営され、発展を見せていた。  
 フランス本国から移住・入植した白人は、この地で砂糖やコーヒーのプランテーションを営んで財を成した。労働力としては、奴隷貿易によって主に西アフリカから「輸入」された黒人奴隷が使役された。かれらは、ルイ14世時代に制定された黒人法によって、その権利を厳しく制約されていた。  
 こうした黒人奴隷は日々の重労働と劣悪な居住・衛生環境や奴隷主による虐待などにより、高い死亡率を示したが、そうした労働力の欠損を補って余りある奴隷が常時供給されていたため、本国でフランス革命が起きた1789年にはサン‐ドマング全域の黒人奴隷人口は50万人、カリブ海域の全黒人奴隷のおよそ半分という数であった。  
 すなわち、サン‐ドマングはカリブ海域全体でも最大規模の奴隷制植民地であり、実際フランス革命の頃には世界の砂糖のおよそ40パーセントを生産する世界最大級の砂糖生産基地に成長していた。  
 この植民地の階級構造は、人口の10パーセントに満たないものの、政治経済を掌握する少数白人を頂点に、白人が奴隷に産ませた非嫡出子に発する混血系ムラートが人口構成上は最小ながら自由身分の中間階級を形成し、最下層に人口の圧倒的多数を形成する黒人奴隷が位置するという人種別階級構造であった。  
 もっとも、黒人奴隷の中には主人によって一定の教育を施され、事務的な業務に携わる「有識奴隷」とでも言うべき範疇の者も少数含まれており、この中からトゥーサン・ルーヴェルチュールのようなハイチ革命の未来の指導者が現れた。有識奴隷には、法的に解放されて、「自由黒人」となるものも少なくなかった。  
 一方、かねてから農園を逃亡し、森に潜伏したマウォンと呼ばれる逃亡奴隷集団が存在していた。マウォンは、しばしばアジトを出て白人のプランテーション農園を襲撃したが、革命運動に発展するような知略も組織も欠いており、山賊的な一種のアウトロー集団にとどまっていた。  
 実際のところ、1789年時点で4万人ほどいたと見られる支配階級の白人の中でも農園経営の富裕層に属するのは主として肥沃な北部に居住するごく少数の貴族で、大半はプティ・ブラン(小白人)と呼ばれる庶民層であり、その中には日雇い労働者のような貧困層も含まれていた。  
 フランス革命が勃発した時、本国なら「第三身分」として革命の主体となったはずのプティ・ブランも本国から遠く離れたサン‐ドマングでは、革命に決起するような覚醒も凝集性も発揮しなかった。これは庶民とはいえ、最下層の黒人奴隷よりは優位にあったプティ・ブランと本国の第三身分の階級的布置の違いによるだろう。  
 他方、上述の有識奴隷層ないし自由黒人層とプティ・ブランはともに中産階級を形成しつつあり、両者が共闘して革命を起動するという可能性も想定できたが、サン‐ドマングの支配層は中産階級を抑圧搾取しなかったから、このような異人種間の共闘関係も生まれる余地はなかったのである。

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近代革命の社会力学(連載第30回)

2019-10-21 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(1)概観  
 ハイチ独立革命は、カリブ海イスパニオラ島西部のフランス植民地サン‐ドマングで18世紀末に勃発した黒人奴隷を主体とする独立運動を兼ねた革命である。独立運動の性格を持つ点では、アメリカ独立革命と類似しており、アメリカ‐カリブという広域内では、アメリカに次ぐ史上二番目の独立革命であった。  
 そして、独立運動という側面では、カリブ海域を含む中南米全域に及んでいたスペイン植民地の連続的な独立運動を触発し、広い意味でのラテンアメリカ解放の最初の力動となる役割も果たしている。その意味では、ハイチ独立革命は、北アメリカと南アメリカの独立をつなぐ中継の役割も担ったと言える。
 しかし、革命という側面では、ハイチ革命はアメリカ革命よりも、宗主国フランスにおける革命に触発された18世紀フランス革命の産物という側面が強かった。中でも、フランス革命の大きな成果の一つであった奴隷制廃止宣言が直接に影響している。  
 フランス革命は、その最初期に発せられた人権宣言において、人間の生来的な自由・平等を謳い、国民公会は1794年に植民地を含めた奴隷制廃止を明確にした。この点は、同様に人間の生来的な自由・平等を謳いながら、黒人奴隷制は温存するという自己矛盾を正さなかったアメリカ革命との大きな相違であった。  
 しかし、フランス革命は植民地そのものの放棄にまでは踏み込まなかったため、フランス革命が直接にサン‐ドマングの奴隷解放をもたらすことはなかった。それどころか、サン‐ドマングの白人支配層は、農園経営の基盤である奴隷制廃止には抵抗したため、サン‐ドマングの黒人奴隷たちは、自分たちの解放のために革命的な蜂起をしなければならなかった。  
 奴隷の蜂起というだけであれば、古代ローマの時代から世界各地で見られる現象であるが、反乱的な蜂起に終始せず、自主的な体制を確立する革命にまで至ったのは、歴史上もハイチ革命だけである。そうした「奴隷の革命」という点で、ハイチ独立革命は独異な異彩を放つ革命である。  
 ただ、立憲革命という観点では必ずしも成功せず、政体は共和制、帝政と揺れ動き、内戦を経て最終的に共和制に落ち着き、「世界最初の黒人共和国」となる栄誉を得たが、その後も政変が頻発し、専制政治がはびこる悪しき伝統を作り出してしまった。
 また、階級制の打破という点でも不徹底に終わり、革命過程で指導的な役割を果たした白人との混血ムラートが支配層として多数派黒人を抑圧・搾取する構造が作り出された。その結果、栄誉ある建国史を持ちながら、現在のハイチは西半球はもとより、世界でも最貧国の一つという不名誉な状況に置かれている。

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貨幣経済史黒書(連載第25回)

2019-10-20 | 〆貨幣経済史黒書

File24:ニクソンショック

 1929年世界大恐慌は、世界の主要国をブロック経済化の自己防衛に走らせ、結果として第二次世界大戦を惹起したが、その反省に基づき、終戦前の1944年、勝利を目前にした連合国は通貨金融会議を開催して戦後の新たな国際通貨秩序の構築を目指した。  
 会議の開催地であるアメリカ・ニューハンプシャー州ブレトンウッズにちなみ、「ブレトンウッズ体制」と呼ばれる新秩序は、アメリカドルを基軸通貨としつつ、金1オンス=35ドルという固定為替制度を通じて自由貿易を保障するという体制であった。
 こうした緩やかな管理通貨制度は、その国際実務機関として設立された国際通貨基金(IMF)及び世界銀行を通じて、世界経済の安定と敗戦諸国や新独立諸国の経済開発の局面で非常にうまく働いた。欧州や日本の戦後復興とそれに続く高度経済成長も、この体制の産物であった。  
 その点、第二次世界大戦後のおよそ四半世紀は、近代貨幣経済の短い幸せな時間だったと言える。実際、この期間には恐慌につながるような重大な金融危機は記録されていない。この安定期に終止符を打ったのが、1971年のいわゆるニクソンショックであった。
 時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンは、71年8月15日、突然声明を発し、金とドルの交換停止を軸とする8項目の新経済政策を提起した。金‐ドル交換停止以外の項目とは10%の輸入課徴金導入、物価・賃金の90日間凍結、設備投資免税の実施、7%の乗用車消費税の撤廃、所得税減税の繰上げ実施、47億ドルの歳出削減といった減税・緊縮策であった。  
 この一方的・恣意的な政策変更により、アメリカドルは信用失墜し、暴落した。ヨーロッパの主要為替市場は一週間閉鎖し、再開後も各国の為替相場は混乱した。これを機に主要国は固定相場制を離脱していったため、実質上「ブレトンウッズ体制」は崩壊したと受け止められた。  
 アメリカがこのような電撃的政策変更に出た背景としては、世界大戦に続く東西冷戦やその最悪の副産物でもあったベトナム戦争対応での軍備増強・戦費膨張により大幅な財政赤字を抱えて国際収支が悪化、大量のドルが海外に流出して金の準備量を超過した多額のドル紙幣の発行を余儀なくされ、金との交換を保証できなくなったことがあった。  
 要するに、「ブレトンウッズ体制」とは、多分にしてアメリカの好意によるアメリカドルの固定相場という恩恵によってもたらされた束の間の安定であって、アメリカが自国の事情によりこれを支えきれなくなった時、突如ピリオドを打たれたというわけである。  
 特に衝撃が大きかったのは、1ドル=360円という破格の恩恵的な固定相場で経済成長を支えてもらっていた日本である。ニクソンショックの主要な標的は日本であったとすら言われるゆえんである。日本はショック後の円の急騰を防ぐべく、慌てて大量ドル買いに出るが、8月末には断念してしまった。  
 ただ、ニクソンショックが「パニック(恐慌)」とならず、「ショック」で終わったのは、アメリカが71年末にドルの切り下げと各国の通貨調整を軸とする新たな「スミソニアン協定」を主導したためでもあるが、この暫定的な代替政策はパニックを防止したものの、通貨危機を誘発したため、73年には日本をはじめ、主要国は変動相場制に順次移行した。  
 これを正式に確認したのが、76年、ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会における「キングストン協定」である。以後、現在まで、変動相場制が続いているが、これにより為替相場の投機性が高まり、ひいては通貨・金融危機の頻発という事象が日常となる。  
 また、ニクソンショックは、主要国の政策という「見える手」が世界の貨幣経済を混乱させる人為的な経済危機という現代的な現象の先駆けでもあった。こうした人為的経済危機は、ニクソンショックに続くオイルショックでもより甚大な形で現れる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第5回)

2019-10-18 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第1章 環境と経済の関係性

(4)環境計画経済モデル  
 古典派環境経済学理論の限界を超克するためには、古典派環境経済学が前提する市場経済への固執を離れて、計画経済へと転換しなければならないが、計画経済といっても、三つの計画経済モデルを区別する必要がある。すなわち、均衡計画経済・開発計画経済・環境計画経済である。  
 初めの均衡計画経済モデルは、資本主義経済(広くは市場経済)がもたらす景気循環の不安定さと、物資分配の不平等さ、結果として生じる富の偏在という構造的な歪みを正すことを目指して、社会全体の需給計画に沿って経済活動を展開するモデルであり、計画経済の最も基本的な形態でもある。  
 このようなモデルはすべての計画経済モデルの基層にあるものであるが、その上に生産力の増大という目的を付加したモデルが、開発計画経済モデルである。これは、資本主義に対抗する形で、精緻な経済開発計画に基づき、生産力の増大を企図するもので、旧ソ連が一貫して追求していたモデルでもある。  
 開発計画経済モデルが生産力の増大を目指す点では、資本主義市場経済モデルと同様の方向性を持ち、言わばそのライバルとなるモデルであったが、周知のとおり、旧ソ連及び追随した同盟諸国では100年間持続することなく、挫折した。  
 このモデルは、いつしかその基層にある均衡計画経済モデルを忘れ、資本主義体制との競争的な経済開発にとりつかれた結果、資本主義に勝るとも劣らぬ環境破壊をもたらした末に、生産力の増大という究極目標においても、敗北したのである。  
 今、生態学的な持続可能性を保障するための計画経済モデルとして新たに構築されるべきものは、そのような持続可能性を喪失した開発計画経済モデルではなく、環境計画経済モデルである。ここで、用語の分節を行なうと、環境計画経済とは「環境‐計画経済」であって、「環境計画‐経済」ではない。  
 この区別は言葉遊びのように見えて、大きな実質的相違を示している。この件については次節で改めて述べるが、形式的な分節としては、「環境‐計画経済」とは、環境という要素と結合し、環境保護を究極的な目的とする計画経済モデルの謂いであって、環境保護の計画を外部的に伴った経済ではないということである。  
 後者の「環境計画‐経済」であれば、例えば国際連合にはまさに「国際連合環境計画(United Nations Environment Programme)」という国際機関が存在するごとく、環境保護のためのプログラムを外部的に取り込んだ経済体制全般を指すから、環境保護プログラムを伴う市場経済というものもあり得ることになる。  
 実際、種々の環境対策を取り込んできている現行の市場経済体制は、そうした「環境計画‐経済」を指向しているとも言えるのであるが、それでは生態学的持続可能性を真に保障することはできないのである。  
 そこで、「環境‐計画経済」モデルの出番となるわけだが、これは基層に冒頭で見た均衡計画経済モデルを置きながらも、旧ソ連におけるような開発計画経済モデルとは袂を分かち、経済開発よりも環境保全に目的を定めたモデルとなる。  
 さらに仔細に見れば、個々の環境保全策を経済計画の中に反映させる「環境保全的計画経済」にとどまることなく、生態学的な観点に立って環境規準を全体的に適用するのが当連載のタイトルでもある「生態学上持続可能的計画経済(略して「持続可能的計画経済」)」ということになる。 

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続・持続可能的計画経済論(連載第4回)

2019-10-17 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第1章 環境と経済の関係性

(3)古典派環境経済学の限界  
 環境予測という観点は、近年、古典派経済学においてもこれを無視することは退行的とみなされかねず、いくらかなりとも前進的な古典派経済学ならば、環境予測を取り込んだ経済学理論―古典派環境経済学―に赴かざるを得ない。  
 そうした古典派環境経済学理論の最大の特徴は、市場経済を自明のものとすることである。従って、例えば気候変動の主要因とみなされる二酸化炭素の規制対策にしても、排出権取引のようなランダムな市場原理に委ねようとする。  
 しかし、近年の環境予測では地球の平均気温の具体的な数値目標を示して対策を求めるようになっている。例えば、目下最新の気候変動枠組み条約であるパリ協定では、産業革命前と比べた世界の平均気温上昇を「2度未満」に抑えるとともに、平均気温上昇「1.5度以内」を目指すべきものとされる。
 排出権取引はあたかも需給調節を市場のランダムな取引に委ねる市場経済手法の環境版と言える構想であるが、このような無計画な方法では具体的な数値目標の達成は不可能であり、排出権という新商品を作り出すだけである。  
 古典派環境経済学の中でも、もう一歩進んだ理論にあっては、環境税のような間接的な生産規制の導入に踏む込もうとする。しかし、資本主義を前提とする限りは、資本企業の利潤を著しく低下させるような高税率を課すことはあり得ず、多くの資本企業は微温的な環境税を負担してでも、従来の生産体制を維持するだろう。
 その点、2006年に英国の経済学者ニコラス・スターンが英国政府の諮問に答えて提出した「スターン報告」は、環境予測モデルに基づき、エネルギー体系・技術全般の変革を提唱するもので、古典派環境経済学理論としては踏み込んだ内容となっている。
 その踏み込んだ内容ゆえに、政府答申を超えて国際的な指導文書としての影響力を持つ。同時に、環境経済学分野から初めてノーベル経済学賞(2018年度)を受賞したウィリアム・ノードハウスをはじめ、伝統的な環境経済学者からは多くの批判が向けられているが、ここでの問題関心からすれば、「スターン報告」は古典派の枠組みゆえに、少なくとも三つの限界を持つ。  
 まずは、大枠として、気候変動問題に関する政府諮問への答申という性格上やむを得ないことではあるが、環境問題の主題が気候変動に限局され、気候変動問題に還元できない生物多様性や有害産業廃棄物などの諸問題には及んでいないことである。
 その気候変動対策としても、導出される対策がエネルギー体系・技術の変革に限局され、生産の量的・質的管理には踏み込まないことである。これは計画経済を論外とする市場経済ベースの古典派経済学である限り、必然的な帰結である。  
 さらに、それが手法とする費用‐便益効果論の限界である。本質的に資本主義の利潤計算技法である費用‐便益効果では当然ながら、利潤を低下させる高コストな対策は排除されてしまう。また、それは環境倫理よりも経済計算、特に資本主義における最重要のマクロ経済指標であるGDPへの影響を優先する論理である。  
 古典派としてはかなり前進的な内容の「スターン報告」ですら、こうした限界を抱えるのは、まさに古典派環境経済学そのものの限界性の現れにほかならない。資本主義市場経済を前提とする限り、経済と環境を交差的に結合することはできない。

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近代革命の社会力学(連載第29回)

2019-10-15 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(10)反動化と帝政への変質  
 テルミドール9日のクーデター後の革命の軌道修正局面で、共和歴3年憲法に基づき1795年に樹立された総裁政府は中道的な集団指導制の不安定さを露呈し、復権してきた王党派や総裁政府に不満を募らせた急進派など左右両翼から挟撃されるような形で、たびたび政変にさらされた。
 その最初のものが、1796年5月、フランソワ・ノエル・バブーフに率いられた急進的な平等主義者あるいは共産主義者のクーデター計画であったが、これは密告により、未然に摘発された(いわゆる「バブーフの陰謀」)。
 続いて、1797年9月、総裁政府は、山岳派崩壊後に息を吹き返した王党派をクーデターで政府・議会から追放した(共和暦によるフリュクティドール18日クーデター)。
 これに成功しても、総裁政府は事実上の指導者バラスをはじめ、腐敗していたため、これに反発する共和派内部からの突き上げが激しくなったことから、今度はこれら反主流派を排除すべく、1798年5月にも政変が起こされた。  
 しかし、これで終わらず、1799年6月には反主流派が巻き返して、新たな政変を起こす。その中心となったのは、かのシエイエスであった。革命初動で第三身分の決起を促した功績を持つ彼は、恐怖政治期には逼塞して粛清を免れていたところ、1799年に総裁の一人に選ばれて政界復帰を果たしていた。  
 彼が主導した1799年6月政変は共和暦でプレリアール30日クーデターとも呼ばれる。これによって成立したプレリアール派政権は、謀略家フーシェを警察大臣に起用して復権しかけていた山岳派を弾圧し、急進派の排除を断行した。プレリアール派政権下で革命過程は反動化し、後退を始めた。  
 一方、対仏同盟による干渉戦争では、戦況が悪化していた。総裁政府は1798年に国民皆兵法を制定して総動員体制を築こうとするが、農民の反乱などで徴兵は功を奏さず、フランス軍は敗北を続ける。その隙を突く形で、国内でも王政復古派の反乱や策動が活発になっていた。  
 こうした内憂外患に対処すべく、シエイエスは軍人を引き入れて体制の強化を目論んだ。そこで注目したのが、革命戦争で活躍中の若き軍人ナポレオン・ボナパルトであった。シエイエスはナポレオンと組み、1799年11月、クーデターを起こして総裁政府を打倒した(共和暦によるブリュメール18日クーデター)。
 シエイエスの構想では当初、自らが大統領に近い「大選挙人」なる最高職に就くつもりであったが、野心的なナポレオンはこれを拒否し、自身を含む三人の統領から成る体制を速攻的に作り上げた。当初は三人の統領による合議制として発足した「統領政府」であったが、シエイエスを名誉職的な元老院議長に追いやると、ナポレオンが事実上の最高実力者となる。  
 この統領政府は形の上では先行の総裁政府の焼き直しに見えるが、実態はナポレオン中心の体制であり、ナポレオンは世紀をまたいで着々と自身への権力集中を進めていく。これが最終的に帝政へと進展していく過程で、18世紀フランス革命は正式に終焉したのである。  
 とはいえ、ナポレオン帝政も革命の産物ではあった。元来フランス人ですらなく、イタリアにルーツを持つ没落したコルシカ島貴族出身のナポレオンが最高権力の座に就けたのは、渡仏して革命戦争に参加し、軍功を上げたことが要因にほかならないからである。
 ナポレオン帝政下では、10年余りに及んだ長い革命下で混乱した経済の回復や近代的な法典の整備などの成果面とともに、革命で廃止された奴隷制すらが復活するなどの反革命反動が同居していたが、最終的には帝政崩壊を介してブルボン朝の復古を準備する力学が上回ったと言えるだろう。

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