ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第51回)

2015-06-30 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(3)

 利潤率の傾向的低下法則は、あくまでも「傾向」に過ぎないとはいえ、マルクスによれば、資本主義経済を特徴付ける一つの法則である。前回は、この法則を反対方向に作用させる諸要因について見たが、今回はこの法則が作用した際に発生し得る矛盾現象についてである。

利潤率の低下と加速的蓄積とは、両方とも生産力の発展を表わしているかぎりでは、同じ過程の別々の表現でしかない。蓄積はまた、それにつれて大規模な労働の蓄積が行なわれ、したがってまた資本構成の高度化が生ずるかぎりでは、利潤率の低下を促進する。他方、利潤率の低下はまた、小資本家たちからの収奪によって、また最後に残った直接生産者たちからもまだなにか取り上げるものがあればそれを取り上げることによって、資本の集積と集中とを促進する。これによって、他方では蓄積も、その率は利潤率とともに下がるとはいえ、量から見れば促進されるのである。

 利潤率法則に関する復習的なまとめである。利潤率低下と資本蓄積とが矛盾内在的にコインの表裏関係にあることはこの法則の本質であり、これこそが資本主義的矛盾現象の出発点である。

一方、総資本の増殖率すなわち利潤率が資本主義的生産の刺激であるかぎりでは(資本の増殖は資本主義的生産の唯一の目的なのだから)、利潤率の低下は新たな独立資本の形成を緩慢にし、したがって資本主義的生産過程の発展を脅かすものとして現われる。

 これは、上述したような内在的矛盾が次第に資本主義的生産過程の発展そのものにとって脅威となるという矛盾現象である。言い換えれば、「資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである」。この理は、第一巻でも、資本による資本の収奪を経て、資本主義の最後の鐘が鳴るという終末論的な資本主義崩壊論として示されていた。
 ただ、現実の資本主義経済においては、マルクス自身「もしも求心力と並んで対抗的な諸傾向が絶えず繰り返し集中排除的に作用しないならば、やがて資本主義的生産を崩壊させてしまうであろう」と指摘するとおり、独占禁止法の法的制約の下、規制緩和により独立資本の新興が刺激されるため、利潤率の低下が新たな独立資本の形成を緩慢にするとは限らない。このことは、現代資本主義において、無数の新興企業が日々誕生していることからも裏付けられる。
 マルクスも、利潤率低下→資本主義崩壊という単純図式を描いていたわけではなく、「過程の第二幕」として、次のような社会の消費力の限界という過程を付加する。

・・・社会の消費力は絶対的な生産力によっても絶対的な消費力によっても規定されてはいない。そうではなく、敵対的な分配関係を基礎とする消費力によって規定されているのであって、これによって社会の大衆の消費は、ただ多かれ少なかれ狭い限界のなかでしか変動しない最低限に引き下げられているのである。

 資本主義的分配関係は、資本対労働の敵対関係の中での搾取を介して成立することから、一般労働者大衆の消費力は常に最低限度に抑制されている。

社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則なのであって、それは、生産方法そのものの不断の革命、つねにこれと結びついている既存資本の減価、一般的な競争戦、没落の脅威のもとでただ存続するだけの手段として生産を改良し生産規模を拡大することの必要によって、与えられているのである。

 これを逆読みすれば、生産方法の不断の革命、すなわち技術革新こそ資本主義存続の条件であり、実際これまでの資本主義はそうした不断の技術革新により自己を保存してきた。

ところが、生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人口過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。

 晩期資本主義では、こうした生産力のグローバルな拡大と大衆の消費力の限界との矛盾現象が拡大している。これがストレートに資本主義の崩壊につながるというわけではないとしても、資本主義の内部的矛盾を促進し、その体力を弱める方向に働くであろう。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(26)

2015-06-28 | 〆リベラリストとの対話

24:共産主義的教育について②

コミュニスト:前回の対論で、私の教育論には「資本主義社会=知識階級制」という先入見があるようだと指摘されましたね。

リベラリスト:はい。実際、『共産論』の中で、「発達した資本主義社会の実情はと言えば、それは高度の知識分業化を前提に、各界に各種スペシャリストが配され、こうした知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードするという形で成り立っている。ここから、一種の知識階級制のようなものが発展してくる。すなわち知識獲得競争に勝ち残った者が社会の指導エリート階級となり、負けた者は被指導階級となる」というドグマを立てておられますね。

コミュニスト:たしかにそうです。しかし、それは私の観念的なドグマでなく、真実ではありませんか。

リベラリスト:「知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードする」というのは「知識人・専門家」に対する過大評価だと思います。あるいは一般大衆の間にそういう意識があるかもしれませんが、それは真実ではありません。

コミュニスト:そうでしょうか。では、無学歴者が社会をリードすることができていますか。

リベラリスト:残念ながら、私の祖国アメリカではそうなっていません。ただ、これはアメリカ社会特有の知識格差問題でもありますので、資本主義社会全般には妥当しないでしょう。

コミュニスト:私はそのように地域限局的には考えません。日本も含め、形は違えど、資本主義社会は資本制企業経営陣を含めた知識人・専門家主導社会です。だからこそ、親たちも子に学歴をつけさせようと必死になるのです。

リベラリスト:だからといって、大学制度を「知識階級制」の牙城とみなして解体するというあなたの議論は極端過ぎます。むしろ、大学の門戸開放をこそ図るべきです。

コミュニスト:世界一を誇るアメリカのエリート教育を修了したあなたにとって、大学は人生そのものかもしれません。しかし大学の門戸開放は無理です。大学は、特別に選抜された者だけが入学を許される高等教育―階級教育―の場だからです。

リベラリスト:それは悲観的に過ぎますね。もっとも、あなたは大学に代えて多目的大学校なる制度を提案しておいでです。私の感じでは、この制度はアメリカにあるコミュニティー・カレッジを想起させますが、これは大学とは本質的に異なる教養的なカレッジです。

コミュニスト:それこそ、共産主義的教育の萌芽だと思います。全員に等しく開かれた生涯教育機関として、大いに参考になります。

リベラリスト:あなたはその一方で、高度専門職学院なる制度も提案され、医療者や法曹等の高度専門職の養成機関にしようとしています。これは、ある種のエリート教育の場になるのではないでしょうか。

コミュニスト:高度専門職=エリートではありません。実際、専門職学院に進学できるのは、芸術やスポーツの分野を除き、一定期間の就労経験を持つ者、日本流に言えば「社会人」です。学業成績だけに依拠した特別選抜教育の場ではないのです。

リベラリスト:その制度も、アメリカのメディカルスクールやロースクールにやや似ているようですが、これらは四年制大学を修了していることが入学要件です。労働者から医師へ、というコースは現実的にも無理ではないでしょうか。

コミュニスト:よくぞ言ってくれました。まさに、それこそ知識階級制と知識共産制の分かれ目なのです。知識共産制に基づく教育は、労働者から医師へのコースを普通に可能とします。

リベラリスト:揚げ足を取られましたか。たしかに、そういう華麗な転進が可能な社会は一つの理想ではあるでしょう。知識人・専門家の出身階層を広げる努力は資本主義社会の下でも怠るべきではないという限りでは、同意することができます。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第8回)

2015-06-27 | 〆近未来日本2050年

二 国防治安国家体制Ⅰ(続き)

集団的安全保障体制
 2015年現在は国論を二分する重大問題となっている集団的安保法制であるが、2050年になると、こうした集団的安保は国是として確立されているだろう。すなわち、防衛軍は「永遠の同盟」である日米同盟に基づき、日米共同防衛の要として機能している。
 この点で、戦前の帝国主義時代との相違がある。戦前の軍国ファッショ体制は軍部を中心に単独行動主義的に大陸侵略を推進したが、議会制ファシズムの時代には侵略より防衛が基軸である。その意味でも、前回述べた「敵からの防御」という理念がより強く出てくる。
 ここで、第二次大戦以来表向きは反ファシズムを掲げる米国が日本の議会制ファシズム体制と同盟を続けるかという疑問も浮かぶが、米国は忠実な同盟国の政治体制には基本的に干渉しない傾向を持つので、日本の議会制ファシズムも民主的な最低基準を満たす選挙によって成立している限り、黙認するだろう。
 ところで、2015年時点での安保法制は、まだ憲法9条の枠内という論理でつじつまを合わせていたため、言葉だけとはいえ、要件や方法に制約が付けられていたが、2050年の集団的安保体制にあっては、すでに9条も削除されており、憲法そのものに集団的安保の原則規定が存在しているため、すべての制約が取り払われている。
 そのため、日本の安全保障に直接影響しない事態に対しても、日米同盟に基づき、防衛軍を派遣でき、なおかつ戦闘参加も合憲的である。実際、防衛軍部隊は米軍とともに紛争地域での戦闘にも参加しており、戦死者も出しているだろう。
 これに対し、政府は戦死者を「愛国殉職者」として顕彰し、靖国神社へ合祀する愛国者法を制定して、反戦ムードの高まりを抑えている。なお、その法的位置づけに議論のあった靖国神社は愛国者法に基づき、内閣府の外郭団体として定着している。

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近未来日本2050年(連載第7回)

2015-06-26 | 〆近未来日本2050年

二 国防治安国家体制Ⅰ

防衛軍の確立
 ファシズム体制に共通する政策面の特徴として、国防と治安に圧倒的な重心が置かれることが挙げられる。ファシズムにあっては恒常的な国家的危機が強調され、危機にある主権国家と国民社会を内外の敵から防御するということが、国是となるからである。
 こうした「国防治安国家体制」は、議会制ファシズムの体制でも変わりはない。とりわけ、軍が軸となる。戦後日本が長く憲法9条と同居させてきた自衛隊は、ファシズム移行前に実現していた憲法改正を経て防衛軍に昇格しているが、2050年になると、防衛軍はいっそう再編強化され、確立されている。
 防衛軍の基本構成は自衛隊時代から引き継いだ陸上防衛軍・海上防衛軍・航空防衛軍の三軍種を中核としながらも、有事には海上保安庁を指揮下に組み入れることができるなど、その権限は強化されるだろう。 
 ただし、議会制ファシズムは基本的に文民政権であるから、防衛軍が直接に政治権力を行使することこそないが、制服組代表者の防衛軍統合参謀長は閣僚に準じて国家安全保障会議にも正式メンバーとして参加し、安全保障政策上も大きな発言力を持つであろう。
 戦後の文民統制の枠組みは維持されるものの、議会制ファシズムの体制では従来の官僚に代わって軍人からファシスト与党議員に転進する者が増加し、軍出身政治家の割合が高まることからも、文民統制の制度は形骸化していき、言わば軍民融合のような新システムが現われる。
 ちなみに、適齢者一律の義務徴兵制は軍務の専門技術化に伴い導入されないが、高校生や大学生の適格者に対する指名任官制が導入される一方で、防衛大学校に付属の中高一貫校が設置され、幹部士官候補生の早期培養教育が徹底されるだろう。
 さらに、一般的な公立学校においても、「防衛教育」が指導要領上規定され、中学生の防衛施設見学が義務付けられるほか、高校生・大学生向けには任意の短期体験入隊制度が公式に用意されるなど、防衛軍は教育面でも存在感を増している。

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晩期資本論(連載第50回)

2015-06-17 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(2)

 マルクスの利潤率法則については、その内容どおりの利潤率の低下現象が実証されないという批判が向けられている。この点、マルクス自身も現実の経済現象においては、法則どおりに運ばない諸原因が関与することを認めていた。

そこには反対に作用する諸影響が働いていて、それらが一般的法則の作用と交錯してそれを無効にし、そしてこの一般的法則に単に一つの傾向でしかないという性格を与えているにちがいないのであって、それだからこそわれわれも一般的利潤率の低下を傾向的低下と呼んできたのである。

 つまり、この法則はあくまでも「傾向法則」でしかないという形で、法則性を緩めている。マルクスはこのように法則の反対作用因となるものとして、①労働搾取度の増強②労働力の価値以下への引下げ③不変資本の諸要素の低廉化④相対的過剰人口⑤貿易の五つを挙げている。

・・・剰余価値率を高くするその同じ原因が・・・・・、与えられた一資本の充用する労働力を減少させる方向に作用するのだから、この同じ原因はまた利潤率を低下させる方向に作用すると同時にこの低下の運動を緩慢にする方向に作用するのである。

 第一の労働搾取度の増強である。マルクスは具体例として、一人の労働者に以前の三人分の労働が可能な事情の下、合理的には以前の二人分の労働が押し付けられたとして、その者が二人分の労働を提供する限りでは剰余価値率は上昇するが、三人分は提供しないから、剰余価値量は減少することを指摘している。つまり、利潤率低下をもたらす可変資本の相対的な減少が、剰余価値率の上昇により緩和され、制限されていることになる。すると、資本戦略的には、労働搾取度の増強が利潤率低下を食い止める有力な手段となる。

 なお、第二の労働力の価値以下への労賃の引下げについては、「資本の一般的分析には関係のないことで、この著作では取り扱われない競争の叙述に属することだから」という理由で、詳論は割愛されている。

・・・可変資本に比べて不変資本の量を増大させるのと同じ発展が、労働の生産力の増大によって不変資本の諸要素の価値を減少させるのであり、したがってまた、不変資本の価値は絶えず増大するにしてもそれが不変資本の物量すなわち同量の労働力によって動かされる生産手段の物量と同じ割合で増加することを妨げるのである。

 第三の不変資本の低廉化である。マルクスはこの具体例として、当時欧州の紡績労働者一人が機械化工場で加工する綿花の量は欧州の旧紡績職人一人が加工していた量に比べて著しく大しているが、加工される綿花の価値はその量に比例して増大してはいないことを挙げている。つまり、この場合も、利潤率低下をもたらす可変資本の相対的減少が食い止められていることになる。資本戦略的に言えば、技術革新による労働生産力の増大は利潤率低下を食い止める手段であり、これは産業技術が高度に進んだ晩期資本主義において、利潤率法則が実証し難い最大の要因であろう。

・・・新たな生産部門、特にまた奢侈消費のための部門が開かれ、これらの部門は、ちょうどあの相対的な、しばしば他の生産部門での不変資本の優勢のために遊離した過剰人口を基礎として取り入れ、それ自身は再び生きている労働という要素の優勢にもとづき、それから後にはじめてだんだん他の生産部門と同じ経路をたどって行く。どちらの場合にも可変資本は総資本のなかで大きな割合を占めており、労賃は平均よりも低く、したがってこのような生産部門では剰余価値率も剰余価値量も異常に高くなっている。

 第四の相対的過剰人口である。過剰労働力が吸収される生産部門は先に述べた第一の労働搾取度の増強と第二の労賃の価値以下への引下げが同時に行われるような領域であるため、こうした部門の発達は平均的利潤率の低下に対しては反対に作用する。この点、晩期資本主義では奢侈消費のためのサービス産業が高度に発達し、多くの過剰労働人口を劣悪な労働条件の下に吸収しており、また製造業など伝統的な生産部門でも非正規労働力の増加減少が見られる。これも、資本総体での利潤率低下への対抗戦略とも言えるだろう。

貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値を高くし不変資本の価値を低くするからである。

 第五は貿易である。こうした貿易の中でも、植民地貿易が先進的な本国と発展度の低い植民地における労働搾取度の格差を利用して高い利潤率を達成することが指摘されている。植民地支配が基本的に終焉した現代にあっても、先進国‐途上国間の貿易では途上国への生産拠点の移転という戦略を伴いつつ、利潤率の低下が食い止められる。

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晩期資本論(連載第49回)

2015-06-16 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(1)

・・・・・資本構成の漸次的変化が、単に個々の生産部面で起きるだけでなく、多かれ少なかれすべての生産部面で、または少なくとも決定的な生産部面で起きるということ、つまり、この変化が一定の社会に属する総資本の有機的平均構成の変化を含んでいるということを仮定すれば、このように可変資本に比べて不変資本がだんだんに増大してゆくということの結果は、剰余価値率すなわち資本による労働の搾取度が変わらないかぎり、必ず一般的利潤率の漸次的低下ということにならざるをえないのである。

 有名な「利潤率の傾向的低下法則」(以下、利潤率法則という)である。資本制企業は利潤率の向上を目指して日々企業努力をするはずであるが、それにもかかわらず、否、それゆえに利潤率は低下していくという。このような自己矛盾が生じる要因は、「不変資本の物量が増すのにつれて、同じ割合ではないとはいえ、不変資本の価値量も、したがってまた総資本の価値量も増してゆくからである」。すなわち―

資本主義的生産は、不変資本に比べての可変資本の相対的減少の進展につれて、総資本のますます高くなる有機的構成を生みだすのであって、その直接の結果は、労働の搾取度が変わらない場合には、またそれが高くなる場合にさえも、剰余価値率は、絶えず下がってゆく一般的利潤率に表わされるということである。

 このような総資本の有機的構成の高度化は、資本制企業が日々邁進している労働生産性の向上の結果であり、「この発展は、まさに、機械や固定資本一般をますます多く充用することによってますます多くの原料や補助材料を同じ数の労働者が同じ時間で、すなわちより少ない労働で生産物に転化させるということに現われるのである。このような不変資本の価値量の増大━といってもそれは不変資本を素材的に構成する現実の使用価値量の増大を表わすにはほど遠いものであるが━には、生産物がますます安くなるということが対応する」。まとめれば、労働生産性の向上による安売りが、利潤率の傾向的低下の要因を成す。

だから、一般的利潤率の漸進的な低下の傾向は、ただ、労働の社会的生産力の発展の進行を表わす資本主義的生産様式に特有な表現でしかないのである。

 マルクスによれば、「資本主義的生産にとってこの法則は大きな重要性があるのであって、アダム・スミス以来のいろいろな学派のあいだの相違はこの解決のための試みの相違にあるとも言えるのである」。しかし、マルクスの見るところ、資本構成の高度化の矛盾という点に着目しない「従来の経済学がこの謎の解決に一度も成功しなかったということも、少しも謎ではなくなるのである」。
 
・・・・資本によって充用される労働者の数、つまり資本によって動かされる労働の絶対量、したがって資本によって生産される利潤の絶対量は、利潤率の進行的低下にもかかわらず、増大することができるし、またますます増大して行くことができるのである。ただそれができるだけではない。資本主義的生産の基礎の上では━一時的な変動を別とすれば━そうならなければならないのである。

 利潤率法則の補充法則である。利潤率低下と絶対的利潤量の増加が同時発現するというのも一見矛盾的であるが、利潤率の低下をもたらす可変資本の相対的な減少は、剰余労働の絶対量の増大とは両立的であるし、不変資本=生産手段の増大は労働者人口の増加をもたらす。ここで、第一巻で論じられた相対的過剰人口論とつながってくる。すなわち━

・・・一方では、労賃を引き上げることによって、したがって、労働者の子女を減らし滅ぼす諸影響を緩和し結婚を容易にすることによって、しだいに労働者人口を増加させるであろうが、しかし、他方では、相対的剰余価値をつくりだす諸方法(機械の採用や改良)を充用することによって、もっとずっと急速に人為的な相対的過剰人口をつくりだし、これがまた━というのは資本主義的生産では貧困が人口を生むのだから━現実の急速な人口増殖の温室になるのである。

 ここで二つの方向性が示されているが、晩期資本主義の現代では、圧倒的に後者の「相対的剰余価値をつくりだす諸方法」による労働者の相対的過剰化が進んでいるが、その結果として労働者の非婚・少子化が進行し、将来的には労働者の絶対的過少人口が懸念されることから、第一の労賃の引き上げも検討せざるを得なくなってくる。しかし、労賃の上昇高騰は新たな恐慌の要因ともなるが、この件は利潤率法則の「内的矛盾」として後に議論される。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(25)

2015-06-14 | 〆リベラリストとの対話

23:共産主義的教育について①

コミュニスト:今回から、個別政策をめぐる各論的な対論に入りますが、まず教育政策から始めたいというご要望でした。これは、いったいなぜですか。

リベラリスト:あなたの『共産論』における政策論で一番論争的なのは、教育の部分だと考えるからです。リベラリストから見て、承服しかねるところが多々あります。なかでも「(共産主義的教育においては)構想力と独創性が重視される」という言辞ですね。これは、まさに私どもが主唱する自由主義的教育の理念を横取りされたようなものです。

コミュニスト:つまり、共産主義的教育は統制的であり、構想力や独創性をむしろ奪うものだと理解されているわけですね。そうした誤解、と言って悪ければ先入見は世界中に行き渡っています。おそらく、旧ソ連や旧ソ連圏で行われていたような教育―十分検証されているとは言えませんが―を想定してのことでしょう。しかし、私が提唱する共産主義的教育はそれとは全く異なるものであることは、『共産論』に書きました。

リベラリスト:「知識資本制から知識共産制へ」というドグマティックな図式も提出されていますが、「知識共産制」という用語からは、構想力や独創性などはなかなかイメージできませんね。

コミュニスト:知識共産制というのは、簡単に言えば知識を独り占めしないという意味です。すなわち、知的財産権というような観念の対極にあるものです。一人一人が各自の構想力と独創性をもって産出した知的生産物を持ち寄って社会で共有し合うというような知のあり方であって、何らかの公式的な知識体系を画一的に教授するというようなものではないのです。

リベラリスト:「何らかの公式的な知識体系を画一的に教授する」ような教育法には、私も反対です。ただ、知的財産権は決して知の独占権ではなく、特定の知的生産物の創案者に優先権を与えつつ、それを社会で共用し合うというすぐれて実際的な観念ではないでしょうか。

コミュニスト:なぜ、創案者に優先権が与えられなければならないのでしょう。そもそも特定の知的生産物の創案者が誰なのか、明確に特定できるものでしょうか。その特定をめぐり、しばしば泥沼の法廷合戦が生じますが、大きな社会的ロスです。それはともかく、知識共産制は知的統制とは無縁のものだということは、何度でも強調します。

リベラリスト:まだよく腑に落ちないのですが、仮にそうだとして、あなたの言われる「知識資本制」はそれほど統制的でしょうか。

コミュニスト:統制という言い方はよくないかもしれませんが、知識資本制下の教育は、既成知識体系、それも資本にとって「役に立つ」知識の伝授に偏っていることは事実です。ありていに言えば、金儲けに関係する知識だけが仕込まれるわけで、その本質は資本主義・市場主義のイデオロギー統制教育なのです。

リベラリスト:その点、私も資本や市場を絶対視するような教育法の蔓延には懸念を持ちます。しかし、構想力や独創性は決して「知識共産制」のそれこそ特許ではなく、むしろ本来は自由主義的教育論のオリジナルだということは、言わせてもらいます。

コミュニスト:知的財産権の侵害というわけですか・・・。あなたの言われる自由主義的教育とは、おそらく伝統的なリベラルアーツ教育を念頭に置いているのでしょうが、私が言う意味での構想力や独創性は、そういう古典的な西洋エリート教育の理念とも異なります。

リベラリスト:どう異なりますか。

コミュニスト:それは『共産論』にも書いた「この(共産主義)社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるであろう。知識人・専門家任せでは動いていかないのが共産主義社会である。」という箇所を引用して、回答としましょう。

リベラリスト:その箇所は、ある種の「名言」だと思いますが、その前提には「資本主義社会=知識階級制」というあなたなりの先入見があるようですので、次回、これについて討論してみましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第6回)

2015-06-13 | 〆近未来日本2050年

一 政治社会構造(続き)

独裁者なきファシズム
 ファシズムと言うと、カリスマ的な独裁者の存在がイメージされる。政治理論的には、ファシズムの特徴として、こうした独裁的指導者の存在を要件とする見解が普通である。逆言すれば、独裁者なきファシズムはあり得ないということになる。しかし、議会制ファシズムに個人としての独裁者は必要なく、言わば集団的独裁の形態で成立する点に特徴がある。
 議会制ファシズムは、その名のとおり、議会制の枠組み内で発現するため、大衆の政治参加が排除されるわけではない。とはいえ、政権交替はなく、巨大与党の常勝支配が続くという限りでは、戦後の「55年体制」と類似する点もある。ただ、55年体制では万年野党と揶揄されながらも、対抗野党が存在していたのに対し、議会制ファシズムでは野党は断片化され、対抗力を持たない。
 その一方で、ファシスト与党の政治的動員力は相対的に強く、特に党の青年組織は娯楽的な要素を持たせた巧みな政治イベントを主催し、大学や高校にも浸透、選挙でもフル稼働する。これにより、18歳選挙権とあいまって、青年層の投票率は上昇し、議会選挙の投票率全般を押し上げるだろう。
 しかし、社会総体として、2050年の日本では超少子超高齢化が進み、人口も1億人を割り込んでいる。要介護高齢者が増大する中、在野の社会運動も低調となり、政府による政治的統制も加わり、大衆の動員解除状態が確定する。動員解除は、大衆教育においても国家主義が浸透し、体制批判的な活動への参加意欲が低下することによって、担保されるだろう。
 動員解除をもたらす政治的統制の一方で、私生活の自由は高度に保障され、政治的な発言・活動を控えて、私生活を満喫する風潮が広がる。市民はばらばらの個人として流動化し、烏合の衆と化す。そうした烏合の衆がファシスト政権与党という鷹によって管理されるような構図となる。
 そうした効率的な大衆管理を徹底するべく、行政権は大幅に強化され、執行権独裁というファシズムに共通する現象は発現してくる。結果として、行政権トップの総理大臣の指導性は高まり、集団的独裁制の「顔」としてのある種カリスマ性を帯びるため、実際、個人としても大衆的人気に依拠するタイプの総理大臣が輩出されやすくなるだろう。

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近未来日本2050年(連載第5回)

2015-06-12 | 〆近未来日本2050年

一 政治社会構造(続き)

指導層の特質
 2050年の日本を支配する「議会制ファシズム」における国家指導層は、どのような顔ぶれになるのだろうか。年代的には、現時点でおおむね10代後半から30代半ばくらいまでの青年層から輩出されることは、計算上確定的である。
 問題はかれらの価値観や行動様式であるが、それは現時点でのかれらの特質からおおよその推定が可能である。この世代の上限層は昭和末期の生まれであるが、物心ついたのは平成に入ってからであり、おおむね「平成初期世代」に当たる。
 世代的な価値観、行動様式を見るうえでまず重要なのは、受けた教育の内容である。平成初期世代は資本主義爛熟期、グローバル資本主義の時代に教育を受けた最初の世代である。少子化が進行した世代で、同輩数が少ないにもかかわらず、「競争」イデオロギーが注入された世代でもある。
 しかも、この世代の頃から、選別教育がいっそう進み、表向きは「平等教育」を標榜してきた公立校でも私立校にならった中高一貫エリート校のような早期選別制度の導入が公然化してきた。これら新興の公立エリート校が、2050年の国家指導層の有力な給源となる可能性は高い。そこで、こうした学校での教育内容は将来の指導層の価値観、行動様式に大きな影響を及ぼすであろう。
 この点で注目されるのは、これら公立エリート校は公権力主導で政策的に設立されているため、全般にリベラルで自由な気風が強い伝統的な私立系エリート校とは異なり、一部では国家主義的傾向の教科書の採択が進められ、それに沿った社会科教育が行われ始めていることである。これを通じて涵養された政治的価値観は、議会制ファシズムを支える思想的な基盤となるだろう。
 政策的に早期に選別され、「競争」を勝ち抜いた平成世代のエリート層は、昭和世代のエリート層に比べても弱者淘汰的な価値観及び行動原理を明確に体得しており、社会的弱者への共感はなく、むしろ反感が強い人間に成育されていくため、社会的平等やそれを目的とした社会政策には関心が薄い。
 一方で、共通的な娯楽としてオンラインゲームで育った世代でもあるかれらは、ほとんどのゲームにおいて定番的なモチーフとなっている戦争に対してもリアルな認識は持っておらず、ゲーム感覚でとらえるため、軍事的なものへの親近感も強い。これは、防衛力の追求を事とする体制構築への動因となるだろう。
 またこの世代は「電子世代」でもあり、コンピュータをはじめ電子機器の扱いには習熟しているため、電子的な監視システムに対しても、強い抵抗感は示さない。このことは、指導層として監視国家体制の構築に動く動因となり得る。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(24)

2015-06-07 | 〆リベラリストとの対話

22:非暴力平和革命について⑤

リベラリスト:あなたがしばしば参照するマルクスは、「資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める労働者階級が発達してくる」と指摘していますね。私はある意味、名言だと思います。21世紀の労働者階級は、相当過酷な労働条件に置かれている人たちですら、今や資本主義を「自明の自然法則」として受容し、暴力・非暴力を問わず、もはや共産主義革命など想定外のことと考えているのでは?

コミュニスト:私も、マルクスのその予言は出色だと思っています。ですが、だからといってマルクスは資本主義が永遠不滅なりとは考えず、労働者階級の革命的覚醒を確信していました。私も、マルクスの革命論とは違いますが、労働者階級を含めた民衆の革命的覚醒を控えめに確信しています。

リベラリスト:私は、そこまで楽観的にはなれないですね。いったいどのようなきっかけで「民衆」―私も含まれるのでしょうか―が革命的に覚醒するというのか、ちょっと想像がつきません。

コミュニスト:それは『共産論』でも書いたことですが、資本主義がもたらす社会的苦痛が持続し、限界に達した時です。具体的には、「環境危機の深刻化による健康不安や食糧難、生活難に加え、雇用不安・年金不安に伴う生活不安の恒常化、人間の社会性喪失の進行による地域コミュニティーの解体や家庭崩壊、それらを背景とする犯罪の増加といった状況が慢性化すること」と指摘しました。

リベラリスト:あなたは「2008年からの世界大不況のゆくえが一つの鍵を握るであろう」とも指摘されていますが、そうすると、今のところ、世界大不況を経ても、あなたの言われる「社会的苦痛」はまだ限界には達していないとお考えですか。

コミュニスト:どこまで苦痛の限界に耐え抜けるかという苦痛耐性は、身体の痛みと同様、個人差及び国民差がありますので、一概には言えないのですが、アメリカや日本では表見上・統計上の「景気回復」にもかかわらず、相当深刻になってきていると見ています。

リベラリスト:つまり、格差社会の進行ということですか。

コミュニスト:単なる「格差」の問題ではなく、「豊かさの中の貧困」が深く進行しています。意外に見落とされがちな指標に、子供の貧困率があります。将来の社会を担う子供の多くが貧困状態にあることは、将来の社会崩壊を導きます。アメリカと日本という資本主義の象徴国で子供の貧困率が高いことは、まさに象徴的なのです。

リベラリスト:すると、貧困の中で育った子供たちが、将来米日で共産主義革命の担い手となると?

コミュニスト:それほど単線的ではありませんが、かれらが根源的に覚醒すれば、革命の主要な担い手となる潜在的可能性はあるでしょう。

リベラリスト:でも、マルクスが言うように、かれらもまた「教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める」ようになるかもしれませんよ。私にはその可能性のほうが高いように思われます。

コミュニスト:かれらが資本主義的な「教育」を受けて、資本主義的な「伝統」や「慣習」を体得できれば、の話ですが、教育と貧困は反比例しますので、あなたが想定するほどうまくいくかどうかですね。

リベラリスト:なるほど、革命家にとっては、教育から脱落した青年たちは「オルグ」しやすいというわけですな。でも、マルクスをはじめ、歴史上の革命家たちは皆なぜか立派に高等教育を受けた知識人で、民衆からは遊離した存在ですよね。

コミュニスト:それはまさに共産党その他の政党組織を通じた従来型革命運動の限界性です。そもそも政党というブルジョワ・エリート政治の産物を再利用しても、別の形のエリート政治になってしまうのです。だからこそ、私は政党組織によらない民衆会議運動というものを提唱しています。

リベラリスト:なるほど、それなら教育のない青年たちを呼び込めると計算なさっているのですね。しかし、今日、学校教育の外にも、享楽という楽しいある種“教育”の場があり、革命よりそちらへ誘引されていく可能性もありますよね。

コミュニスト:たしかに、広い意味での娯楽産業資本は今日、資本主義の大きな産業部門を構成しており、大衆を革命より娯楽へ誘引していくある種の反革命機能を果たしていることはたしかです。これをどう乗り越えるかは、大きな課題ですが、一つの方法として革命運動自体に娯楽的要素を取り込むということが考えられます。

リベラリスト:「革命的テーマパーク」とか、「革命的アイドルグループ」の誕生ですか・・・。何だか、私も参加してみたくなってきました。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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未成年選挙権の深層

2015-06-04 | 時評

すべての公職選挙の選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法改正案が2日、衆議院の特別委員会で採決され、全会一致をもって可決された。共産党も基本的に賛成を表明しており、最終的に衆参両院で可決成立する公算は高い。

このように日本の選挙史上新たな画期となる改正案はほぼオール賛成の喝采で「粛々」と成立しそうな勢いであるが、疑義がないわけではない。憲法第15条第3項には、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」と定められているからである。

日頃は憲法に忠実な共産党もこの点をあまり問題にせず、「創立以来18歳選挙権実現を掲げてきており、さらに幅広い民意が議会に反映されることは議会制民主主義の発展につながる」という政治的な理由からあっさり賛成しているのは、いささか拍子抜けである。

もっとも、筆者もこの規定について、「普通選挙原則を定める第三項は選挙権を成年者に限っているように読めるが、未成年者の選挙権を禁止するほどの限定性はなく、公務員の選定・罷免をおよそ国民固有の権利と宣言する(第一五条)第一項の趣旨からすれば、選挙権の範囲を憲法が指示する以上に拡大することは憲法違反とはならないと解すべきであろう。」と緩やかな理解を示したことがある(拙稿参照)。

しかし同時に、「ただし、10代にも選挙権を拡大するなら、民法上の成人年齢を例えば18歳まで引き下げたうえで対応するのが、憲法上の疑義を残さない賢策であろう。」とも付け加えた。このように指摘したのは、選挙における投票行動は独立した判断力を前提とするからである。

たしかに10代でも18、19歳のような成人に近い年齢層は「準成人」とみなして選挙権を付与することにも十分理由はあると考えるが、選挙における政治判断は各自の良心に照らして独立に行うことが基本であるところ、法的行為能力がなく、保護者とまだ一体的な未成年者に独立した政治判断が可能かどうか疑問なしとしない。

特に日本式選挙の悪弊である組織動員選挙は未成年者に対してはマイナス効果が大きく、例えば保護者の事実上の指示で保護者が支援する候補者に投票するといった投票行動が常態化する恐れも排除できない。

今般の法改正は、従来10代の選挙権を認める国が主流化しており、世界の主要国で10代に選挙権を認めないのは日本だけといった国際比較のみが理由とは考えにくい。結論的には賛成に回った共産党が、今般改正の発端は2007年に成立した改憲国民投票法が改憲のための投票年齢を18歳としたことに連動していると指摘し、改憲政党だけで協議・発案した「経緯、動機」に疑義を示したのは示唆的である。

もっと穿った見方をすれば、与党やその他の保守系諸政党は近年の若年層の全般的な保守化傾向を見て取り、若者取り込み的な発想から、ある種のユーゲント組織の形成にもつながると計算し、従来ほとんどまともに議論されたことのなかった未成年選挙権の解禁を諸手を挙げて進めようとしているのではないか。

法案提出の「経緯、動機」の不純性を疑いながら、棄権でなく、賛成するという共産党にしても、すでに存在する傘下青年組織を通じた党員拡大につながることをひそかに期待しているのかもしれない。このように、今般の未成年選挙権解禁法案には、全政党挙げての若者すりより的な「動機」の不純性を感じ取ってしまう筆者なのである。

ちなみに、海外事情を言うならば、10代の選挙権を認める国の大半は成人年齢自体を10代としており、未成年に選挙権を与えている国は少数である。もし「純正な動機」から、10代に選挙権を拡大するならば、先に指摘したとおり、成人年齢自体を18歳に引き下げ、法的にも保護者からの独立性を保障する民法改正法案も併せて提出・審議すべきであろう。

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晩期資本論(連載第48回)

2015-06-03 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(7)

商品と貨幣とはどちらも交換価値と使用価値との統一物だとはいえ、すでに見たように(第一部第一章第三節)、売買ではこの二つの規定が二つの極に対極的に分かれて、商品(売り手)は使用価値を代表し、貨幣(買い手)は交換価値を代表することになる。商品が使用価値をもっており、したがってある社会的欲望をみたすということは、売りの一方の前提だった。他方の前提は、商品に含まれている労働量は社会的に必要な労働を表わしており、したがって商品の個別的価値(および、この前提のもとでは同じものであるが、販売価格)は商品の社会的価値と一致するということだった。

 マルクスは、ここで第一巻の原理に立ち戻りつつ、改めて事例をあげて考察し直すのであるが、最後にまとめて、「一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働の範囲が、みたされるべき社会的欲望の範囲に適合しており、したがって生産される商品量が不変な需要のもとでの再生産の普通の基準に適合しているならば、この商品はその市場価値で売られる。諸商品の価値どおりの交換または販売は、合理的なものであり、諸商品の均衡の自然的な法則である。」という法則を立てている。しかし―

一方の、ある社会的物品に費やされる社会的労働の総量、すなわち社会がその総労働力のうちからこの物品の生産に振り向ける可除部分、つまりこの物品の生産が総生産のなかで占める範囲と、他方の、社会がこの一定の物品によってみたされる欲望の充足を必要とする範囲のあいだには、少しも必然的な関連はないのであって、ただ偶然的な関連があるのみである。

 このように、現実の市場経済で原理的な価値法則が成立しないことは、マルクス自身、認めざるを得ない。興味深いことに、このすぐ後、マルクスはカッコ付き付言の形で、「ただ生産が社会の現実の予定的統制のもとにある場合にだけ、社会は、一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働時間の範囲とこの物品によってみたされるべき社会的欲望の範囲とのあいだの関連をつくりだすのである。」と、共産主義的生産様式では価値法則が現実的にも成立することを指摘しているが、この付言からすると、価値法則は『資本論』ならぬ『共産論』で説かれるべき経済法則ではないかとさえ思えてくる。
 結局、資本主義的生産様式において、価値法則は一つの原理的なモデルであって、現実の市場経済は、その法則からの偏差的状況が常態化している。よって、「この法則(価値法則)から出発して偏差を説明するべきであって、逆に偏差から法則そのものを説明してはならないのである。」とも釘が刺される。

需要と供給とは現実にはけっして一致しない。または、もし一致するとすれば、それは偶然であり、したがって科学的にはゼロとするべきであり、起きないものとみなすべきである。ところが、経済学では需要と供給が一致すると想定されるのである。なぜか?現象をその合法則的な姿、その概念に一致する姿で考察するためである。

 ここで批判されている現象を法則に合わせて説明しようとする本末転倒の「経済学」とは古典派経済学、とりわけ需要と供給の一致法則を説いたセイを念頭に置いた批判である。マルクスも需要供給関係を無視するものではないが、「需要供給関係は、一方ではただ市場価値からの市場価格の偏差を説明するだけであり、また他方ではただこの偏差の解消への、すなわち需要供給関係の作用の解消への傾向を説明するだけである。」と言われるように、マルクスにとっての需要供給関係は、価値法則からの偏差をもたらす要因でしかない。

・・・資本は、利潤率の低い部面から去って、より高い利潤をあげる別の部面に移っていく。このような不断の出入りによって、一口に言えば、利潤率があちらで下がったりこちらで上がったりするのにつれて資本がいろいろな部面に配分されるということによって、資本は、生産部面が違っても平均利潤が同じになるような、したがって価値が生産価格に転化するような需要供給関係をつくりだすのである。所与の国民的社会で資本主義の発展度が高ければ高いほど、すなわちその国の状態が資本主義的生産様式に適していればいるほど、資本は多かれ少なかれこのような平均化をなしとげるのである。

 ここで、マルクスは再び中位収斂化傾向を指摘し、こうした「不断の不均衡の不断の平均化」は①資本の可動性と②労働力移動の迅速性によりますます速まるとして、①と②の現象の前提を具体的に列挙している。
 すなわち①の前提としては、完全な商業の自由、独占の排除、信用制度の発達、資本家のもとへの種々の生産部面の従属、人口密度の高度化、②の前提としては、労働者の職域的・地理的移動制限法の撤廃、労働内容に対する労働者の無関心、単純労働への還元、労働者間の職業的偏見の消失、資本主義的生産様式への労働者の従属が挙げられている。
 こうした諸前提がすべて充足されているのは、まさに現代の晩期資本主義である。ということは、現代資本主義においてこそ、マルクスの言う平均化傾向は高度化していることになる。

平均価値での、すなわち両極の中間にある大量の商品の中位価値での商品の供給が普通の需要をみたす場合には、市場価値よりも低い個別的価値をもつ商品は特別剰余価値または超過利潤を実現するが、市場価値よりも高い個別的価値をもつ商品はそれ自身が含んでいる剰余価値の一部分を実現することができないのである。

 中位収斂化の中で、資本家が市場価値より低い個別的価値をもつ商品を市場価値で販売したときには、特別剰余価値としての超過利潤を取得することができる。これが優良資本の秘訣である。かくして、「市場価値(これについて述べたことは、必要な限定を加えれば、生産価格にもあてはまる)は、それぞれ特定の生産部面で最良の条件のもとで生産する人々の超過利潤を含んでいる」。

☆小括☆
以上、十では『資本論』第三巻の前提部に相当する第一篇「剰余価値の利潤への転化」及び第二篇「利潤の平均利潤への転化」の両篇を併せて、剰余価値と並ぶ『資本論』におけるキータームとなる利潤(率)の概念を見た。その立論は不安定かつ錯綜しているため、かつてマルクス経済学では種々の弥縫的な補足理論が提唱されてきたが、マルクス経済学の概説を目的としていない本連載では立ち入ることをしなかった。

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晩期資本論(連載第47回)

2015-06-02 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(6)

・・・・中位またはほぼ中位の構成をもつ資本にとっては、生産価格は価値と、また利潤はその資本が生産した剰余価値と、まったく一致するかまたはほぼ一致する。そのほかのすべての資本は、構成がどうであろうと、競争圧力のもので、これらの資本と平均化されようとする傾向がある。ところが、中位の構成をもつ資本は社会的平均資本と同じかまたはほぼ同じなのだから、すべての資本は、それら自身が生産する剰余価値がどれだけであろうと、この剰余価値のかわりに平均利潤をそれらの商品の価格によって実現しようとする。すなわち、生産価格を実現しようとする。

 このように、「中位状態を中心として規制される傾向」―中位収斂化傾向―を、マルクスの言葉でより簡潔に言い換えれば「生産価格を価値の単なる転化形態にする傾向、または利潤を剰余価値の単なる部分に転化させる傾向」ということになる。これは、とりもなおさず、資本家が生産物を価値どおりには交換し合わないことを意味するが、となると、第一巻に立ち戻って「諸商品がそれらの現実の価値どおりに交換されるということは、いったいどのようにして成り立っていたのであろうか?」という自問が生じる。

困難のすべては、商品が単純に商品として交換されないで、資本の生産物として交換され、資本は剰余価値総量のうちからそれぞれの大きさに比例してその分けまえを、またはそれぞれの大きさが同じならば同じ分けまえを要求するということによって、はいってくるのである。

 単純な商品交換社会とは、「労働者たち自身がめいめい生産手段をもっていて、自分たちの商品を互いに交換し合う」ような社会であり、このような社会で利潤率は度外視され、等労働量交換が成り立ち得るという。「それだから、価値どおりの、またはほぼ価値どおりの諸商品の交換は、資本主義的発展の一定の高さを必要とする生産価格での交換に比べれば、それよりもずっと低い段階を必要とするのである」。
 しかし、このように資本主義的発展段階論で説明するとなると、まさに「資本論」における基礎理論であったはずの等労働量交換理論が宙に浮くことになりかねない。ここは、『資本論』全巻を通じて、マルクス理論が最も破綻に接近する箇所である。

いろいろな生産部面の商品は互いに価値どおりに売られるという仮定が意味していることは、もちろん、ただ、商品の価値が重心となって商品の価格はこの重心をめぐって運動し、価格の不断の騰落はこの重心に平均化されるということだけである。さらにまた、いつでも市場価値―これについてはもっとあとで述べる―は、いろいろな生産者によって生産される個々の商品の個別的価値とは区別されなければならないであろう。

 ここで、マルクスは一転して、商品の価値を商品価格形成の重心という意義に薄めた上で、突如「市場価値」の概念を持ち出し、これを個々の商品の価値とは区別することによって、新たな説明を与えようとする。このように、追加概念を持ち出して基礎理論の等労働量交換論の位相をずらすのは立論として正当とは言えないように思われるが、この先、マルクスの議論は市場価値論へと遷移していく。

市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値とも見られるべきであろう。最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって、市場価値はそれ自身市場価格の中心なのである―といっても、市場価格は同じ種類の商品では同じなのであるが―。

 ここで、マルクスは、市場価値の意義について、主に二つの方向から定義らしきものを示している。一つは「一つの(生産)部面で生産される諸商品の平均価値」である。しかし、このような現実の生産諸条件を捨象した純粋平均値は理論値にすぎないので、結局、現実の市場価値は第二の「その部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値」ということになるだろう。ただし、需給状況の異変次第では、最悪または最良生産条件下での生産物が市場価値を規制する可能性も排除されていない。

同じ生産部門の、同じ種類の、そしてほぼ同じ品質の諸商品がその価値どおりに売られるためには、二つのことが必要である。
第一に、いろいろな個別的価値が一つの社会的価値に、前述の市場価値に、平均化されていなければならない。そして、そのためには、同じ種類の商品の生産者たちのあいだの競争が必要であり、また彼らが共通に彼らの商品を売りに出す一つの市場の存在が必要である。

 ここで、マルクスは等労働量交換の理論と市場価値論とを接合するべく、競争と市場の媒介的な働きを重視している。特に競争に関しては、「いろいろな部面での諸資本の競争が、はじめて、いろいろな部面のいろいろな利潤率を平均化するような生産価格を生みだすのである。」とし、このことのためには「資本主義的生産様式のより高い発展が必要である。」と、改めて先の発展段階論とも結びつけている。

・・・・・・・諸商品の市場価格が市場価値と一致して、それより上がることによっても下がることによっても市場価値からかたよらないためには、いろいろな売り手が互いに加え合う圧力が十分に大きくて、社会的欲望の要求する商品量、すなわち社会が市場価値を支払うことのできる商品を市場に出させることができるということが必要である。

 ここでマルクスは、「「社会的欲望」、すなわち需要の原則を規制するものは、根本的には、いろいろな階級の相互間の関係によって、またそれぞれの階級の経済的状態によって、したがってまた特に第一には労賃にたいする剰余価値全体の割合によって、第二は剰余価値が分かれていくいろいろな部分(利潤、利子、地代、租税など)の割合によって、制約されている。」と社会学的に説かれる「社会的欲望」という主観的概念を持ち出し、市場価値と市場価格の偏差的な関係性を説明しようとしている。これもまた理論的破綻をフォローする追加概念である。

もし市場価値が下がれば、平均的に社会的欲望(ここではつねに支払能力ある欲望のことである)は増大して、ある限界のなかではより大きな商品量を吸収することができる。もし市場価値が上がれば、その商品にたいする社会的欲望は小さくなって、よりわずかな商品量が吸収される。それゆえ、需要供給が市場価格を調整するとすれば、またはむしろ市場価値からの市場価格の偏差を調整するとすれば、他方では市場価値が需要供給関係を、または需要供給の変動が市場価格を振動させる中心を調整するのである。

 この説明になると、労働価値説を放棄して、際どく限界効用説と交錯するかのような様相を呈する。しかしここでマルクスは今一度原点に立ち返り、労働価値説からの独自の需要供給論を展開し直そうとするのだが、これは次回に回される。

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晩期資本論(連載第46回)

2015-06-01 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(5)

別々の部面にある同じ大きさの諸投資にとっては、たとえ生産される価値や剰余価値がいかに違っていようとも、費用価格は同じである。このように費用価格は同じだということが諸投資の競争の基礎をなすのであり、この競争によって平均利潤が形成される。

 利潤率は個別資本によって、また産業部門によって異なり得るが、そうした個別的利潤率に対して、マルクスは平均利潤率(一般的利潤率)なる概念を定立する。その前提として、「生産部面の違う生産物でも、その生産に同じ大きさの資本部分が前貸しされていれば、これらの資本の有機的構成がどんなに違っていようとも、それらの生産物の費用価格は同じである」という費用価格同等法則から、諸投資(諸資本)の競争の基礎となる平均利潤を導出する。

・・・各々生産部面の異なる資本家たちは、自分の商品を売ることによってその商品の生産に消費された資本価値を回収するのではあるが、彼らは、彼ら自身の部面でこれらの商品の生産にさいして生産された剰余価値を、したがってまた利潤を手に入れるのではなく、ただ、すべての生産部面をひっくるめて社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値を、したがってまた利潤を手に入れるだけである。

 この「社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値」が平均利潤であり、さらに「均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値」の比率が平均利潤率(一般的利潤率)である。より公式的には、一般的利潤率とは、資本が総体として年間に算出する総剰余価値を、総体として投資される総資本価値で割って得られる平均率とされる。

・・・・いろいろな部面の資本家たちは、利潤が問題となるかぎりでは、一つの株式会社の単なる株主のようなものであって、この会社では利潤の分けまえが100ずつにたいして均等に分配されるのであり、したがって、それぞれの資本家にとってこの分けまえが違ってくるのは、ただ、各人がこの総企業に投じた資本の大きさに応じて、つまり総企業への彼の参加の割合、彼の持ち株数に応じて、違ってくるだけである。

 ここで、マルクスは資本制企業総体を一個の会社に見立てて、平均利潤(率)の概念を説明しようとしている。別の箇所では、より縮約して「それぞれの特定資本はただ総資本の一片とみなされるべきであり、それぞれの資本家は事実上総企業の株主とみなされるべきであって、この株主は自分の資本持ち分の大きさに比例して総利潤に参加する」とも言い換えている。
 このようにマルクスの「総利潤理論」は資本主義を総体的に把握・分析するには適しているが、無数の個別資本が錯綜する巨大なシステムと化した晩期資本主義の現状では、いささか木目の粗い視座となっている。現代では、この理論は「各生産部面の資本は、それぞれの大きさに比例して、社会的総資本によって労働者から搾り取られる総剰余価値の分けまえにあずからなければならない」という、より政治的に言い換えられた「総搾取」の理論に置換されて理解されるべきかもしれない。

与えられた労働搾取度のもとでは、今では、ある一つの特定生産部面で生産される剰余価値の量は、直接にそれぞれの特定生産部門のなかの資本家にとってよりも、社会的資本の総平均利潤にとってのほうが、したがって資本家階級一般にとってのほうが、より重要なのである。

 個々の資本制企業や業界での剰余価値量は、個々の企業や業界にとってよりも、資本家階級一般にとっての利害関係となるというわけである。ここで、マルクスは平均利潤の概念を通じて、明らかに階級闘争の背後にあるものを提示しようとしている。ところが―

いまや特定の諸生産部面のなかでの利潤と剰余価値とのあいだの―単に利潤率と剰余価値率とのあいだだけのではなく―現実の量的相違は、ここで自分を欺くことに特別な関心をもっている資本家にとってだけでなく、労働者にとっても、利潤の本性と源泉とをすっかり覆い隠してしまう。

 特定の生産部門での剰余価値量は平均利潤の規制に共同規定的に関与するが、その関与は個々の資本家の背後で進行するため、資本家の目には見えない。そればかりか、労働者の目にも見えない。その理論的な理由として、マルクスは「価値が生産価格に転化すれば、価値規定そのものの基礎は目に見えなくなってしまう」ことを指摘する。

いろいろな生産部面のいろいろな利潤率が平均されてこの平均がいろいろな生産部面の費用価格に加えられることによって成立する価格、これが生産価格である。

 すなわち、「商品の生産価格は、商品の費用価格・プラス・一般的利潤率にしたがって百分比的に費用価格に付け加えられる利潤、言い換えれば、商品の費用価格・プラス・平均利潤に等しい」。
 マルクスによれば、このように費用価格(c+v)の付加価値たる生産価格こそが商品生産物の現実の価格の基準となるのであるが、これによって生産物の等労働量交換を軸とする価値法則が隠蔽されてしまうことが説かれている。マルクスは、この生産価格論をさらに現実的・動態的な市場価値論を通じて練り上げていくが、これについては次回に回される。

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