ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産教育論(連載第1回)

2019-05-11 | 〆共産教育論

序説

 もとより、いかなる社会も単に生産のような物質的営為の反復継続だけで維持していけるわけではなく、社会を支える担い手たる人間の育成をも不可欠とする。その点で、教育は当該社会の将来の担い手を育成し、社会を維持していくうえで不可欠の精神的営為である。
 そのため、いかなる社会も何らかの教育制度または慣習を備えている。文明を受け入れず、伝統的な生活様式を固守し続けるいわゆる未接触部族の非制度的な社会ですら、子どもを教育するための慣習的過程は備えている。それは、文明社会において文明を維持継承していくための教育課程が法令上制度化されていることを常とするのと並行的な関係にある。
 文明社会における制度的教育の中心は今日、その主義を問わず、学校制度に代表されるようになっている。学校という制度をおよそ備えない文明社会は存在しないと言ってよいであろう。教育と言えば学校を想起するのが、文明人の常識である。
 中でも、現代世界においては資本主義を基調とする社会がますます多数を占めるに至っているところ、資本主義社会における教育は、子どもが貨幣を基軸とする市場経済の担い手となるべく、貨幣収入を稼得するための職業へ結びつける制度を中核としている。
 その中心にあるのが、通常は有償で提供される学校教育制度である。もっとも、義務教育を無償とする政策が趨勢となっており、教育制度そのものは必ずしも資本主義的原理で貫かれているわけではないけれども、資本主義教育制度の最終目標が子どもを資本主義社会に適応させることにあることは言うまでもない。
 筆者が当ブログの核となる『共産論』において構想提示した共産主義社会もまた文明社会の一つの範型であるから、そこにおける教育課程は制度的に整備されるが、資本主義社会における教育制度とは自ずから異なるものとなるであろう。その概要については、『共産論』第6章にて示したところであったが、共産主義社会の全体像を示すという連載の性質上、個々の制度について詳述することはできなかった。
 そこで、その点を補充するべく、当連載は共産主義社会における教育制度のありようを集中的に論じることを目的とする。その際、当連載では既存の諸制度との具体的な比較対照を通じて、異同を浮き彫りにし、精確な理解の一助となるように心がけるつもりである。

コメント

共産教育論(連載第2回)

2019-05-10 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(1)共産主義と教育
 
共産主義と教育は、資本主義と教育よりも不幸な関係にある。というのも、共産主義と教育を少しでも結びつけようとすれば、歴史的に悪名高い旧ソ連やその亜流諸体制下で行なわれていた―現在も一部残存している―ような思想洗脳的イデオロギー教育が想起されてしまうからである。
 本連載のタイトルを決定するに際して、「共産主義教育論」とするかどうかで悩まされたのもそれゆえであった。しかし、このタイトルが不穏なイメージを醸し出すのも、「共産主義」という用語に塗りつけられてしまったいまだ容易に拭い去ることのできないネガティブなイメージのなせるわざである以上、これを回避することとした。
 そこで、「主義」という語を除去して「共産教育論」としたわけであるが、ここで意味するのは前回序説でも示唆したとおり、「共産主義社会における教育制度のありよう」ということに尽き、共産主義のイデオロギー教育という含意はない。その点で、旧ソ連をはじめ、「共産主義」を公称してきた諸体制、とりわけ共産党支配体制におけるイデオロギー教育とは何らの関係もない。
 これらの諸体制におけるイデオロギー教育が、共産党ないしはその亜流政党による権威主義的支配を支えるための思想教育という位置づけを持っていたことは明らかである。このような「共産主義教育」は真の意味での教育の名に値しないものであって、支配政党による宣伝活動の一環である。
 「共産教育論」として提示するのは、このような似非教育論ではなく、共産主義社会における教育とはどのようなものであり得るかという観点からの教育論である。それは現在多くの諸国で実施されているような「資本主義社会における教育」を論じることと全く並行的な関係にある。言わば「資本教育論」に対するものとしての、「共産教育論」である。
 もっとも、資本主義にせよ、共産主義にせよ、社会を成り立たせる基本原理を子どもたちに体得させることは教育の基本であるから、イデオロギー性を完全に除去することも不可能である。資本主義社会における教育は共産主義に対立する資本主義のイデオロギーから完全に自由になれないことと同様である。
 そうした前提の下、「共産教育論」の特徴を総括的に挙げるとすれば、共産主義社会=貨幣と国家という概念・制度を持たない社会の担い手たるにふさわしい知識素養及び人格を形成するための教育ということになる。すなわち、貨幣交換を行なうことなく生産・消費活動が継続され、国家という概念なくして社会運営がなされていく社会の担い手を育成するための論である。
 この簡易な総括からも、すでに具体的な教育理念をいくつか抽出することができるが、それらが本章次節以下で見ていく共産教育論の土台を成す基本理念となり、次章以下で見る教育諸制度はそれらの理念を実現するための最適な手段方法として展開されていくこととなるであろう。

コメント

共産教育論(連載第3回)

2019-05-09 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(2)教育の公共性
 古い時代ほど、教育は子どもの親の私事に委ねられていた。その結果、子どもに十分な教育を施すことのできる財力を持つ階層の親の下に出生し養育されたか否か、という子どもにとっては全くの偶然性が子どもの教育の決定的要素であった。
 実際のところ、今日でも高等教育と呼ばれる上級教育課程への進学は、多くの場合、親の資力いかんに依存するところが大きい。特に純度の高い資本主義社会では、公教育ですら、高等教育課程を有償サービスとして購買しなければならないから、親の資力=教育資本は決定的要素である。
 それに対して、共産主義社会における子どもの教育は、第一次的に社会がこれを担う。教育は将来の社会の担い手の育成という重要な営為であるからして、社会の共同事業としてこれを展開することは、まさに共産的な方法である。簡単な標語で言い換えるなら、子どもは社会が育てるということになる。
 もっとも、今日の発達した資本主義社会においても公教育の制度は導入されており、その限りでは社会が子どもを育てている一面は認められるが、徹底されておらず、ほとんどの場合、親の資力に依存する私教育と並存しており、特に高等教育課程は多くが私教育に委ねられているのが一般である。
 こうした中途半端な公私混在状況は、その当否が十分に論議されないまま、教育におけるある種の社会通念と化して放置されているところであるが、共産主義社会はそうした状況を放置せず、正面から解決することを目指し、教育の公共性を徹底するのである。
 このことは、親の養育責任の放棄を容認するものではない。養親を含めた法律上の親は、社会から子どもの教育への協力を託された受託者として、公教育課程の子どもを保護する義務を負う。その義務を懈怠することは、犯罪行為として取り締まられる。
 また、後で具体的に見るように、親による私教育の余地も完全に封じられるわけではなく、課外教育体系の中で適切な私教育を与える権利は保障される。ただし、子どもの適性と自由意志に基づかない私教育の強制は、ある種の虐待とみなされる可能性はある。
 このように、共産主義的公教育は、私教育を封殺して教育を全面的に公の統制下に置くことなく、教育責任を担う社会から委託された親の教育の義務を前提としつつ、一定の教育の自由を担保するという柔軟な構造を持つものと言えるであろう。

コメント

共産教育論(連載第4回)

2019-05-08 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(3)知の共産化
 現代では、多くの諸国で出生に基づく身分階級制は消滅し、それに代わり学歴に基づいて社会的な立ち位置が決定される社会に移行しつつある。いわゆる学歴社会である。このような社会編制は出生時の身分でなく、成長期の「努力」に応じて社会的ステータスが決せられる「民主的」なあり方だとみなされがちである。
 しかし、前回も指摘したとおり、最終学歴を飾る高等教育課程は親の資力に依存するところが大きい限り、学歴社会の前提には、有産階級の親の下に出生したか否かという偶然性の要素が大きく横たわることは明らかである。ただ、それが外見上は「努力」により勝ち得た学歴に基づく「民主的」な知識階級制として発現するというだけのことである。
 資本主義社会において知は所有されるものであり、それは知的所有権のようなあからさまな所有権としてのみならず、子どもの教育に充分な私財を投入できる有識階級によって、学歴という非物質的な資本の形態でも集団的に所有されている。その結果、有識者と非有識者の階級格差―知識階級制―が生じる。
 しかし、高度情報社会を迎えた今日、非有識者も高度な知にアクセスすることが可能となった一方、有識階級が基盤としてきた大学制度の過剰な拡大増殖により、「大卒」学歴の価値下落―学歴インフレーション―が生じ、知識階級制は揺らいでいる。
 その点、共産主義社会における知は、社会全般によって、究極的には人類全般によって共産され、共有されるものであるから、学歴という資本形態は廃される。その結果、教育制度上も、初等教育‐(中等教育)‐高等教育といった階級的な段階制を採らないのである。とりわけ、今日世界中で高等教育の中心機関として定着している大学という制度が存在しないことは大きな特色となる。
 こうした言説から、かつて1970年代のカンボジア共産党独裁体制下で断行された知識人虐殺のような帰結を想定するなら、それは誤解である。真の共産主義社会における教育は、知識人を抹殺するのではなく、社会成員全般を知的に啓発することを目指すのである。
 その具体的な制度体系は後に述べるが、共産主義的な教育制度は義務的かつ段階を分けない一貫的な基礎教育課程と、生涯にわたる継続的または補充的教育を可能とする生涯教育とに大別される。かつ、この両課程は初等‐高等というような上下の階層関係になく、目的を異にする教育の種別にすぎない。
 従ってまた、基礎教育課程内部及び基礎教育課程と生涯教育課程の間に入学試験による選抜という関門プロセスは介在せず、誰でも、いつでも両教育課程にアクセスすることが可能となる。ただし、生涯教育課程に組み込まれた一部高度専門職教育課程には入学選抜があるが、それとて試験によるものではない。

コメント

共産教育論(連載第5回)

2019-04-23 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(4)脱学校化
 教育をめぐっては、古い時代からの社会通念と化した常識が多々存在するが、中でも最大級のものは学校制度であろう。つまり、正規の教育は必ず学校制度を通じて提供されるというものである。ここでいう学校とは、専従教員という人的資源と常設校舎という物的資源とを備えた学校のことである。
 このような学校制度は、生徒を一箇所に収容し、一斉に同等の授業を行なうことには適しており、一見して「平等」な教育を可能とするかに見えるが、実のところ、学習速度の個人差を無視し、学習速度の速い子どもには退屈を、遅い子どもには苦痛を強いる不平等な教育であると同時に、生徒の自発性を抑制する受身的な教育となる。
 さらには、子どもの領分における差別行為としてのいじめや児童性暴力をはじめ、人格形成に長期的な悪影響を及ぼす成長期におけるトラウマ体験の多くが学校制度の内部で起きていることも無視できず、このような弊害を重視するなら、既存の学校制度は子どもにとって有害環境であるとさえ言える。
 それにもかかわらず、既存の学校制度の是非が疑われることはほとんどなく、学校制度は社会的に当然視され続けている。しかし、高度情報社会の到来は、こうした社会通念に疑問符を付する好機でもある。インターネットを通じた遠隔通信システムの発達は、学校制度のあり方を根本から変える可能性を持つからである。 
 すでに通信教育システムは一部で導入・普及が進んでいるが、それらは正規の学校制度の補完的な教育もしくは正規の学校制度からはみ出した生徒を対象とする補充的な教育システムの領域にとどまっており、正規の学校制度そのものを通信教育に転換するという大胆な試みはなされていない。
 資本主義社会でそのような教育革命を実現するとなれば、必要な通信インフラ整備のために膨大な支出を伴うことは必至であるから、おそらくそこまでは踏み切れないであろう。その点、貨幣経済から解放される共産主義社会ではコスト問題に制約されることなく、大規模な通信教育化を実現することが可能となる。
 そればかりか、前回見たような上下の階層を持たない完全一貫制の基礎教育課程は、子どもたちが各自のペースに応じて自発的に学習し、知的な創造性を広げることを旨とするから、既存の学校制度よりは、個別的な遠隔通信教育システムに適している。
 そのように、専従教員も常設校舎も持たない純粋な通信教育システムであっても、前々回見たように、教育の公共性が貫かれるならば、それをなお「学校」―サイバー学校―と呼ぶことは許されるかもしれないが、私たちが通常想定する学校とは大きく異なるため、こうした純粋の通信教育システムへの革命的移行は、「脱学校化」と呼ぶほうが適切であろう。

コメント

共産教育論(連載第6回)

2019-04-22 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(5)内発性教育
 (1)でも触れたように、共産主義と教育を結びつけるとき、どうしても洗脳教育のような外部強制的な教育を想起してしまいがちであるが、本来の共産教育とは決してそのようなものではなく、むしろそれとは正反対に、内発性を重視した教育を志向するものである。
 本来的な意味での共産主義社会は、一部の知識人主導の知識階級制ではなく、一人一人がそれぞれの経験を踏まえた知者であり得るような社会であるからして、そこにおける教育も既存の権威的な知識体系を暗記し、習得することではなく、一人一人が経験的かつ独自に思考しつつ、知を共産し、共有することが目指される。
 そのためにも、教育は外部強制的でなく、内発的な知的探求を軸としたものとなるのである。これをここでは「内発性教育」と呼ぶが、もう少し具体的に言い換えれば、「構想力‐独創性教育」ということになるだろう。
 もっとも、こうした教育理念の革新は、資本主義社会においても提唱されることがある。しかし、貨幣交換を軸に成り立つ資本主義社会における教育の目標は、資本家/経営者としてか、労働者としてかは別としても、貨幣を稼ぎ出す能力の習得ということに尽きるから、特段の構想力や独創性を必要とするものではない。
 構想力‐独創性は、貨幣交換をしない社会、それゆえに労働もまた内発的な関心と意欲を動機として実践されるような共産主義社会においてこそ、より本質的に必要とされるであろう。
 そうした教育は、教師が黒板の前で大勢の生徒を前に一方的に教えを垂れる伝統的な講義形式ではなく、生徒が自宅ないし自習スペースで各自のペースに合わせて学べる通信制教育により適合している。そうした観点からも、前回見た脱学校化は共産教育における重要な支柱となる。
 実際の教育メソッドに関しては、改めて後の章で詳しく見ることにするが、伝統的な教育が教師によって与えられた問いの答えに生徒が到達することを目標とする「正解発見型」であるのに対し、内発性教育では生徒自らが独自に問いを立て、教師は生徒がその答えを探求することを適切に助力する「問題探求型」となる。
 結果として、内発性教育は教師と生徒の伝統的な関係性にも革命的な変化をもたらすことになる。それは上下関係で規律された師弟関係から、より近水平的な斜めの関係性になるであろう。そのことは、教師のあり方や養成法にも社会通念を覆す大きな変革をもたらすはずである。

コメント

共産教育論(連載第7回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(6)社会性教育
 共産主義社会=無階級社会という定式も根強い。ここで言う「階級」とは通常、有産階級/無産階級といった財産による経済的な階級、またはそれとほぼ相同的な資本家/労働者階級といった社会的な階級を指している。
 真の共産主義社会は貨幣経済によらないのであるから、貨幣の持ち高に応じて所属階級が決定される上掲のような意味での経済的‐社会的階級制が存在し得ないことは明らかである。
 その代わり、貨幣経済によらずして生産活動が行なわれ、かつ民衆自身によって社会運営がなされる共産主義社会では、資本主義社会とは比較にならないほどの緊密な社会的協力関係を必要とする。
 従って、真の共産主義社会は、狭い意味での階級制にとどまらず、―党幹部‐一般党員‐非党員といった政治的な「階級」も含め―、人種/民族、障碍、性別/性的指向、容姿等々、およそ人をその属性によって等級的に差別しない社会、すなわち非差別社会である。
 そのような社会が単なる理想郷でなく、現実の社会として形成されるためには、社会成員に高度な社会性が備わっていなければならない。
 一般に社会性と言うと、集団への帰属や協調といったことが想起される。しかし、そのような集団主義的な強制的社会性は共産主義社会のそれとは異質である。共産主義社会における社会性とは、集団的ではなく、むしろ多様な属性を持つ社会成員相互の尊重のうえに成り立つ内発的で自然な社会性のことである。
 そのような意味での社会性の前提には、反差別という倫理感覚が不可欠である。そこで、共産教育における社会性教育の軸として、反差別教育が据えられる必要があるのである。反差別教育とは、単に理知的な倫理観として「人を差別してはならない」ということにとどまらず、無意識的なレベルでも人を差別しないという習慣が自然に体得されるような教育である。
 このような教育は、物心ついてからの学習ではすでに手遅れであって、まだ事物の弁別がつかない早幼児期から開始される必要がある。具体的には、基礎教育課程前の保育段階から、反差別教育が実施される。
 ちなみに、共産教育における教育課程としての保育と資本主義社会における福祉サービスとしての保育とは、同語であっても内容上大きな相違点があるが、これに関しては次の章で改めて見ていくことにしたい。

コメント

共産教育論(連載最終回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度 

(5)「大学」の自治  
 民衆会議教育委員会は教育制度全般の立案・施行に関わるから、基礎教育課程のみならず、生涯教育課程をも所管する。しかし、生涯教育課程は基礎教育課程に比べても、成人を対象としたより自主的な学修を旨とするから、「大学の自治」のような原理による制度的な自主性の保障が必要である。  
 ただ、知識階級制をベースとしない共産主義的な教育課程にはいわゆる大学制度は存在しない。従って、論理的には「大学の自治」なる原理も存在しないはずである。とはいえ、生涯教育を担う中心的な二つの教育機関、すなわち多目的大学校及び専門職学院の内実は「大学」に近い。  
 しかし、いずれの教育機関も「大学」とは異なり、教授を頂点とした職階制に支配されない。教員はすべて同格的であり、教員としての身分に上下関係はない。また大学のように学部に分岐することもないため、学部長のような中間管理職も存在しない。  
 ただし、専門職学院は専門系統ごとに複数の学科に分かれることが多いため、各学科を束ねる学科長のような中間管理職が置かれる。一方、多様な講座が開設される多目的大学校は講座系統ごとに緩やかな学群を構成するのみで、学群ごとに中間管理職が置かれることもない。  
 多目的大学校も専門職学院も、その基本的な内部組織は共通する。すなわち教員会、一般職員会、学生会の三組織が常置される。一般職員会と学生会は任意団体としての自治会ではなく、教員会と同格的な正式の内部組織である。  
 教員会は常勤教員全員を自動的会員、非常勤教員のうち希望者を準会員とする組織で、教員会長たる常勤教員が自動的に学長となる。一般職員会と学生会は代議人で構成される代議機関であるが、それぞれの利害に関わる事項に関しては内部組織において教員会と同格であり、教員会がすべてにおいて支配権を持つものではない。 
 学内の最高意思決定は、上記三組織の代表者三名から成る代表者会で行なわれる。この決定には民衆会議も介入することはできない。私立の専門職学院の場合は、経営母体となる学校法人が存在するが、学校法人の理事会といえども、代表者会の決定に介入することは許されない。  
 このような意味で、多目的大学校と専門職学院には高度な自治が保障されることになる。これは形式的な意味での「大学の自治」ではないが、実質的・機能的な意味では大人が学ぶ「大学」の自治と呼ぶことができるだろう。それによって、二つの生涯教育機関は外部の干渉から護られるのである。

コメント

共産教育論(連載第50回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(4)基礎教育教材開発機構  
 基礎教育教材開発機構(以下、教材機構と略す)は世界共同体専門機関である世界教育科学文化機関のガイドラインに準拠しつつ、各領域圏ごとに統一的な教材を開発・発行する民衆会議の専門機関である。言わば、公式の教科書発行機構である。  
 前節でも触れたように、教材機構は民衆会議の監督を受ける専門機関であるが、連合領域圏にあっては、教材機構を連合を構成する準領域圏民衆会議の専門機関として分権的に位置づけることも選択できる。いずれにせよ、教材機構は教育行政体系に組み込まれ、その運営委員(複数)は民衆会議教育委員会によって任免されるが、専門機関として独立性を有するから、民衆会議は教材の内容に関して介入することはできない。  
 一方、現場の教員は同機構が正式に発行した教材のみを使用しなければならず、民間発行にかかる教材や個人で作成した教材を用いてはならない。このような縛りは一見すると統制的だが、市民社会の担い手として共通的な素養の涵養を目的とする基礎教育課程においては、どの教員に付いたかにより生徒間に教育内容のばらつきが生じてはならないので、教材の統一が徹底されるのである。  
 こうした教材作成の唯一的な中枢機関として、教材機構は各科目ごとに教材開発グループを組織し、教材作成者には教員としての十分な経験を持つ者がそのつど選任される。つまり、教材作成者はその初版及び改訂版の作成ごとに選任され、同一人物が継続的に作成することはない。教材内容の惰性化を避けるためである。  
 ちなみに、教材作成者は必ず教員経験者でなければならず、研究者を充てることはできない。基礎教育課程の教材は研究素材ではないから、教員経験のある者が作成することが最もふさわしいからである。研究者の正当な役割は監修業務にある。  
 すなわち教材作成者が作成した各科目教材の素案は、当該科目に関連する熟練した研究者の入念な監修を経て、現時点での学問的な知見に照らして適格な内容を備えているかどうかのチェックを受けなければならない。その目的のため、各科目ごとに専門研究者から成る監修委員会が設置され、監修業務を担う。
 こうして専門研究者の監修に基づき、必要な補正が加えられたうえで教材が完成し、発行される。なお、以前述べたとおり、基礎教育課程の科目の多くが通信制で提供されるので、教材のほとんどは紙書籍ではなく、電子書籍やその他の電子文書の形で末端提供されることになる。

コメント

共産教育論(連載第49回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(3)教育人事評議会と基礎教育センター  
 教育人事評議会(以下、人事評議会という)は、基礎教育課程教員の採用と配置を司る民衆会議教育委員会の合議体の下部機関である。人事評議会がどの圏域に属するかは、領域圏により異なる。一般的に言えば、小さな領域圏では領域圏、大きな領域圏では分権化され、地方圏または準領域圏となるだろう。  
 いずれにせよ、人事評議会は公正さを旨とする人事に関わることから、その個別の業務に関しては中立性を保持し、民衆会議による介入はいかなる形態であれ、許されない。  
 なお、人事評議会は教員の採用及び配置のみを司り、免許試験は教員免許試験管理機構が担当する。教員免許試験管理機構は統一的な教員免許試験の管理に特化した機関として、統合型領域圏では領域圏に、連合領域圏では準領域圏に属する。  
 一方、教員に対する懲戒処分は、人事評議会から独立した教員処分審査会の専権である。これも民衆会議下部機関の一つであるが、懲戒に当たる事実の認定と処分の決定という準司法的な任務を持つことから、審査官の過半数は法律家でなくてはならない。
 人事評議会によって採用された教員は、基礎教育センターに配置される。同センターは既存の教育制度で言えば学校に類似した施設であるが、教室を備えたいわゆる「学校」ではなく、原則的に通信制で提供される基礎教育の総合的なサポートセンターの性格を持つ。  
 基礎教育課程の教員はすべて科目分担制であるから、科目ごとにグループを形成する。各グループは所属教員から互選された一名の責任教員が統括し、センター全体はセンター長が統括する。センター長は校長に相当するような立場にあり、人事評議会の推薦に基づき民衆会議教育委員会が任期付きで任命する。  
 基礎教育センターの運営はセンター長と各科目グループの責任教員、事務系職員の代表者一名で構成する運営委員会によって行なわれる。運営委員会に加わらない一般の教員も、個別の案件ごとに委員会に出席し、意見を述べる権利を有する。  
 また各基礎教育センターは、当該センターの担当生徒の保護者の中から少なくとも三名、保護者以外の市民の中から少なくとも一名を外部委員として任命しなければならない。外部委員は常に運営委員会に出席し、意見を述べる権利を有する。

コメント

共産教育論(連載第48回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(2)領域圏内教育行政  
 世界共同体専門機関である世界教育科学文化機関の提示する規準に沿いつつ、各領域圏の実情に合った教育行政の要となるのは、民衆会議である。共産主義社会には政府機構が存在せず、行政機能もすべて民衆会議が直接所管するところ、教育行政もその例外ではない。  
 具体的には、領域圏民衆会議の常任委員会である教育委員会―名称は種々想定できるが、ここでは最も簡明な名称を採用する―が領域圏全体の教育行政の要となる。領域圏の民衆会議教育委員会は、領域圏内の教育制度全般の設計を担当するが、連邦型の連合領域圏では通常、教育制度は連合を構成する準領域圏の権限であるから、連合民衆会議の教育委員会の役割は限定され、準領域圏民衆会議の教育委員会が中心的な役割を担うであろう。  
 統合型領域圏にあっても、地方自治制度の下では、教育行政は地方圏が実務的な中心となる。このように、教育委員会は教育行政に関する権限を持つ各圏域の民衆会議に重層的に設置され、世界規準に準拠しつつ全体が有機的に機能していくことになる。  
 これら教育委員会はどの圏域のそれであっても、行政官庁としての教育委員会とは異なり、民衆会議の一委員会であると同時に、行政機関としての機能を併せ持っている。従って、教育委員長は教育担当閣僚ないし教育長のような地位にあると言える。  
 各圏域の教育委員会には、重要な下部機関ないし専門機関が置かれる。下部機関の代表例は、教員人事評議会と教員処分審査会である。前者は教員の採用と配置を司る機関であり、後者は教員の懲戒処分を決する機関である。
 専門機関の代表例としては、教員免許試験管理機構と基礎教育教材開発機構がある。前者は教員免許試験の作成及び実施を業務とする機構であり、後者は世界教育科学文化機関のガイドラインに準拠しつつ、領域圏ごとに統一的な教材を開発・発行する機関である(拙稿参照)。

コメント

共産教育論(連載第47回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅸ 教育行政制度

(1)コスモポリタン教育行政  
 公教育が制度的に整備されるにつれ、教育は教師の個人的な営為を離れ、行政的に運営されるようになるが、共産主義的な教育行政は、その完成された段階においてはコスモポリタンな体系を取る。すなわち、教育行政の大元は地球全域を束ねる世界共同体である。  
 共産主義的教育は、前章までに見てきたように、特定の民族文化に則るのではなく、世界市民として普遍的に涵養されるべき素養の体得を目指して行なわれるため、世界共同体においてその基本的な規準やメソッドの開発と普及が図られなければならない。  
 もっとも、教育はその性質上、各民族文化から完全にこれを分離することは難しいのではあるが、共産主義的教育は民族文化に従属するのでなく、科学教育を中心として、民族的な相違を超えた普遍性を追求することを特色とするのである。  
 とはいえ、世界共同体が一元的な教育管理機関として全世界の教育を直接統制するというような集権主義的な教育行政は健全でも現実的でもないので、コスモポリタンな教育行政機関は世界共同体の内部機関ではなく、一定の独立性を持った専門機関として定立されることが望ましい。  
 その点、現行の国際連合専門機関の一つである国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、世界共同体の下でも、例えば「世界教育科学文化機関」として、その主要な機能を継承再編することができると考えられる。
 ただし、この新たに再編される専門機関は、より明確に教育行政機関としての性格を持ち、とりわけ基礎教育課程におけるカリキュラムや教材に関する世界規準を提示するという重要な役割を担うことになる。さらには、教員養成課程や教員免許制度のあり方などに関しても、同様である。  
 世界共同体を構成する各領域圏は、こうした世界規準に沿って、それぞれ自主的に領域圏内の教育行政を運営していくことになるが、専門機関では各領域圏の教育行政が世界規準に準拠しているかどうかにつき定期的に検証する独立視学官を派遣し、問題点があれば改善勧告することができる。  
 また専門機関は、教育制度の発展が遅れている領域圏に対しては、教育制度の設計を支援する教育弁務官と現場で実際にモデル教育に当たる教育指導員を派遣して、教育制度の整備普及を直接に援助するなど、国連時代よりも踏み込んだ実効的な教育援助を提供する。

コメント

共産教育論(連載第46回)

2019-04-09 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系 

(4)成年者向け私的学習組織  
 半日労働(4時間労働)が基本となる共産主義社会では、終日労働から解放された成年者の生涯教育の機会が実質的に保障されるが、Ⅵで見たように、そこでは多目的大学校と専門職学院が大きな役割を果たすことになる。
 このうち、すべてが公立の多目的大学校とは異なり、専門職学院には私立も認可されるが、専門職学院の認可基準は厳しく、カリキュラムや教員の配置に関する厳格な基準をクリアしなければならないため、私立の専門職学院といえども公的性格が強く、ここで言う私的学習組織には該当しない。 
 なお、学科試験は課さないものの、段階的な面接を通じた選抜的なアドミッションが行なわれる専門職学院の「受験」対策的な予備校が設立される可能性は否定されないが、それらは民間有志が運営する私塾的な組織にとどまる。
 一方、多目的大学校と専門職学院ではカバーし切れない種々の専門技能の習得に特化した学校としての専門技能学校にも認可基準はあるが、その基準は比較的緩やかで、設立・運営者の自由裁量の余地が広いため、これら専門技能学校は成年者向け私的学習組織の中心的なものとなるであろう。  
 それ以外の成年者向け私的学習組織としては、学術研究センターが研究活動の社会還元を目的として一般市民向けに設ける無料市民講座がある。この場合、センター自体が公立であっても、任意の市民講座は私塾のような私的学習組織の性格を持つ。  
 その他、民間人が各種文武の特技などを伝授するために私塾を設けることも自由であるが、これは未成年者向けの習い事を目的とする私的学習組織の成年者版のようなものとなるだろう。  
 ちなみに、政治思想の学習を目的とする政治塾のようなものもある種の私的学習組織として設立は自由であるが、社会に働きかける具体的な政治活動を伴う場合は、学習組織を超えた政治結社とみなされることになる。
 なお、共産主義社会に特有の代議制度である民衆会議の代議員免許試験対策の予備校のようなものが設立される可能性もあるが、緩やかな免許試験にすぎず、選抜試験ではないため、社会的ニーズは限定的であろう。

コメント

共産教育論(連載第45回)

2019-04-08 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系 

(3)未成年者向け私的学習組織  
 共産主義的な課外教育体系における未成年者向けの私的学習組織としては、いわゆる習い事の各種学習組織がある。広い意味では、前回見たスポーツクラブもそこに含まれるが、ここではスポーツ以外の学習組織を扱う。  
 このような私的学習組織は、習い事の数だけあり得るというほかないが、それらはいずれも民間人によって自由な形式で運営される。資本主義社会ではしばしばこうした私的学習組織も株式会社のような営利企業として法人格を有しているが、貨幣経済が存在しない共産主義社会では私的学習組織が営利企業化することはなく、法人格を持つこともない。  
 すなわち、こうした私的学習組織はすべてその運営者がボランティアで任意に指導する私塾のような性格のものであり(ただし、助手や職員を雇用する場合は、労働法の適用を受ける。)、学習者もまた自身の関心と適性に応じて任意に通学するだけである。   
 その点、発達した資本主義社会では労働者階級にも経済的な余裕が生じ、親の指示で子どもが多数の有償の習い事をさせられるような風潮が見られるが、共産主義社会ではそのような風潮には歯止めがかかるだろう。なぜなら、無償の私的学習組織は自ずとその数も限られるからである。反面、営利主義と無縁な限られた私的学習組織はその指導の質や熱意においては高いレベルが保証されるはずである。  
 一方、教科学習の補習を目的としたいわゆる学習塾のようなものは、そもそも社会的なニーズがほぼ存在しない。すでに見たように、共産主義的な13か年一貫制の基礎教育課程は通信制をベースとする個別教育を旨としており、集団的な学校教育に伴いがちな「落ちこぼれ」を生まないよう配慮されているからである。  
 なお、入学試験によって分断されず、かつ大学のような選抜的高等教育制度も持たない13か年一貫制の公教育制度において、受験指導に特化した受験予備校のような学習組織のニーズも存在しないことは明らかである。

コメント

共産教育論(連載第44回)

2019-03-26 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系

(2)スポーツクラブ  
 既存の学校制度においては、課外活動として各種のスポーツクラブ活動が展開されることが多い。このような学校スポーツ活動の存在とその比重は諸国によって様々であるが、資本主義社会は多くの営利的競技団を擁しながら、運営にコストのかかるスポーツ選手の育成の多くを学校スポーツ活動に負わせようとする傾向が見られる。結果として、スポーツの価値が学校教育で過大評価されがちである。  
 しかし、原則的に通信制で提供される共産主義社会の基礎教育課程には課外活動としてのスポーツクラブ活動も存在しない。基礎教育課程の必修科目である健康体育も、その項で述べたとおり、健康の維持増進を目的とした運動に焦点を当てたもので、個別の競技は扱わないのであった。  
 共産主義社会において個別の競技の技能を修得する競技体育に相当するものは、全面的に個人の関心と適性に基づき、純粋に課外教育体系に委ねられることになる。その点では、次項で見る私的学習組織と同様の扱いとなるが、純然たる趣味の習い事とは異なり、職業的なスポーツ選手の育成に関しては、相応の育成課程が用意されるであろう。
 その代表的なものとして、各種の職業競技団が直営する選手育成プログラムが想定される。これは競技団直営のスポーツクラブのようなもので、こうしたクラブの設立・運営に関しては特段の規制もない一方、それらは正規の教育機関として認可されるものでもなく、完全に私塾的な扱いとなる。  
 またアマチュアの各種競技団体が、アマチュア選手の育成プログラムを擁し、直営のスポーツクラブを設立・運営することも自由であるが、それらももちろん正規の教育機関とは別立てである。  
 このような運動系スポーツクラブ活動の他にも、将棋・囲碁・チェスなどのボードゲームやコンピューター・ゲームのような知的競技の選手を育成するクラブの設立さえも盛行するであろうが、いずれにしても、これらは私的な課外教育体系の一環であるから、基礎教育課程の施行や前回見た地域少年団活動の実施に抵触しない範囲内で、個人によって補充的に行なわれるものであることが留意される。

コメント