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近代科学の政治経済史(連載最終回)

2023-08-31 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力(続き)

ヒトゲノム計画と政治権力
 近年における生命科学の集大成は、2003年に完了が宣言されたヒトゲノム計画(Human Genome Project:以下、HGP)である(ただし、完全解読は2022年)。これに関する一般的な解説は略するが、HGPは当初、アメリカ政府主導で公的資金により、1990年から開始された一大科学プロジェクトであった。
 ちなみに、アメリカ政府にあっても特にエネルギー省が中心となったことは注目される。合衆国エネルギー省は核開発も任務とし、民生から軍事にまたがる総合的な科学行政及び研究機関であり、そうした機関がHGPにも手を伸ばしたことは、HGPには軍事的な関心も抱かれていたことを示唆する。
 HGPには後にイギリス、フランス、ドイツ、日本、中国も加わり、世界の主要国の参加を経てスピーディに推進されていき、2000年6月には、当時のビル・クリントン米国大統領とトニー・ブレア英国首相によってヒトゲノムの草案が完成したことが高らかに表明される。
 大国首脳によるこうした科学的声明は異例であるが、なぜ世界の主要国が難解な科学研究計画にこれほど前のめりになったのか。疾病に対する遺伝子治療への寄与の期待が強調されるが、それだけとは考えにくい。
 人間の設計図とも言われるゲノムを政治権力が掌握することは、人間の創造そのものに国家が関与できる可能性を秘める。こうした言わば「ゲノム権力」は究極の生権力とも言えるからこそ、主要国が特段の関心を示したのであろう。

ゲノム政治経済の誕生:新たなリヴァイアサン
 政府関与の公共HGPに対して、純粋に商業系の計画として、セレラ・ジェノミクス社によるHGPも存在した。分子生物学者クレイグ・ヴェンターが創立した生命科学資本であるセレラ社はより効率的かつ迅速にゲノムデータを得られるショットガン・シーケンシング法という新技術で、有料ゲノムデータベースの構築を狙った。
 ただ、セレラ社が商業目的で解読したゲノム配列のデータを秘匿していたことは公共HGPからの批判と反発を招き、同社は方針の撤回を余儀なくされた。とはいえ、セレラ社は商業目的でのゲノム利用の可能性を示した。ヒトゲノムは潜在的な経済的利益であり、「ゲノム資本」の可能性は開かれている。
 その点、セレラ社創業者ヴェンターは自身、ノーベル賞受賞者であるハミルトン・スミスとともに、生物種として初めてインフルエンザ菌(ウイルスではない)を対象とした全ゲノム解読を成功させた実績を持つ遺伝子工学者にして実業家という人物であり、経営者自身に高度な科学的知識を要するゲノム資本の象徴である。
 さらに、ゲノム権力とゲノム資本は資本主義を介して容易に融合し、「ゲノム政治経済」を形成し得る。こうしたゲノム政治経済は、生命科学の時代の新たなリヴァイアサンと言えるかもしれない。しかし、観念にすぎない生命倫理は、大きな潜在的実利を生む怪物的なゲノム政治経済に対する強力な縛りとはならないだろう。

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近代科学の政治経済史(連載第65回)

2023-07-25 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力(続き)

生命科学資本の興隆
 生命科学は当初、生命現象に対するより精緻で純粋な知的探求の試みであったが、間もなくその経済的な実用性が明らかになってくると、資本との結びつきを強めていくようになり、生命科学資本と呼ぶべき新たな資本を誕生させた。
 その最初の実例は、医薬資本の興隆である。これは当然、近代的な医薬学の発達と関連している。製薬と薬剤の販売は古来、商業活動の一環として行われてきており、19世紀には、欧米の資本主義国で、今日まで存続する多くの製薬資本の母体会社の設立が相次いだが、製薬は当時の重厚長大型資本主義経済の中ではまだマイナー分野であった。
 そうした中で、近代的な医薬学、中でも感染症学の発展は、抗生物質(抗生剤)をはじめとし、従来は打つ手なしであった感染症に対抗する薬剤の開発の契機となった。これは新興の製薬会社にとっても、マイナーな製薬会社から医薬資本へと飛躍する動因であった。
 一方、分子遺伝学の誕生は文学的創造の世界でしかなかった遺伝子工学を現実の実用科学として成立させた。中でも遺伝子組み換え技術の開発は食糧生産の在り方に変革をもたらし、そうした技術を保有する食糧農業資本の発達をもたらした。
 食糧農業資本は、とりわけ第三世界での農業経営にも関与し、従来の家族経営的農業を資本主義的に再編し、世界の農業を支配する力を蓄積する農業資本として確立されてきている。
 遺伝子工学は翻って医薬学においても変革をもたらし、1980年代以降、インスリンや成長ホルモン、さらにはワクチンなどにも遺伝子組み換え技術が応用されるようになり、種々の遺伝子組み換え製剤を生み出している。
 こうした生命科学の実用的発達はバイオテクノロジーと総称される先端技術を確立したが、そうした生命現象の機微に深く立ち入る科学技術を生命科学資本が保有し、営利目的で駆使することの危険性も増しており、生命倫理的規制の必要性が高まっている。
 特に、後述するゲノムプロジェクトの完成により、より自由自在な遺伝子改変を可能とするゲノム編集技術が開発され、操作的に新たな生命を誕生させることが可能となったことは、生命科学が倫理的な極限域に達したことを示している。

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近代科学の政治経済史(連載第64回)

2023-06-17 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力(続き)

生命科学革命①:近代遺伝学の成立
 生命科学が本格的に進展するに当たって、遺伝学の果たした役割は画期的であった。遺伝現象は近代科学の成立以前から漠然と知られてはいたものの、近代科学的な実験を通じて遺伝現象を解明したのはグレゴール・ヨハン・メンデルであった。
 彼は司祭が本職で、科学者としてはほぼ独学であったという点では地動説のコペルニクスに似た経歴の持ち主であるが、やはりコペルニクス同様、生前にその研究成果が広く知られることなく、評価が確立されたのは、没後のことであった。
 従って、遺伝学が成立したのもメンデル没後ということになる。その端緒は1900年にオランダ、ドイツ、オーストリア三国の三人の学者により、個別かつほぼ同時にメンデルが再発見されたことによる。これ以降、メンデルが「遺伝粒子」として漠然と把握していた概念が「遺伝子」として整理され、今日では人口にも膾炙する用語として確立された。さらに、遺伝子が染色体という生体物質上にあることも定理となった。
 ただ、初期の遺伝学は純粋理論的な性格が強く、まだその産業的な応用可能性については理解されていなかったが、メンデル自身も有名なエンドウ豆の交配実験を通じて遺伝学の法則を発見したように、遺伝学には実用性の芽が秘められていた。

生命科学革命②:分子生物学の誕生
 近代的な遺伝学の成立に続き、生命科学における第二の、かつ決定的な革命となったのは、19世紀に興隆した微生物学をいっそう微細化した分子生物学の誕生である。これには、1940乃至50年代における遺伝学上の二つの大発見が寄与している。
 一つは、DNAの発見である。これは、カナダとアメリカの三人の学者の業績である。彼らは共同研究により、遺伝子の化学的実体が当初想定されていたタンパク質ではなく、デオキシリボ核酸(DNA)であることを実験によって示した。
 三学者の名にちなみアベリー-マクロード-マッカーティの実験と呼ばれる1944年のこの実験は、1952年にアルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスによって行われた実験により更新され、DNAが遺伝物質であることが確証された。
 さらに、1953年には、アメリカのジェームス・ワトソンとイギリスのフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見して、遺伝がDNAの複製によることや塩基配列が遺伝情報を担うことなどが理論的に解明された。このようなミクロなレベルで生命の再生産過程が解明されたことは、生命現象を分子レベルで研究する分子生物学の確立を促すことになった。
 今日の生命科学はその細分化された分野を問わず、分子生物学の知見と方法論なくしては考えられなくなっており、遺伝学もまたDNAを踏まえた分子遺伝学として発展していくこととなった。
 ちなみに、1951年には、アメリカのSF作家ジャック・ウィリアムスンが遺伝子工学という用語を初めて提唱している。その当時は、二重らせんの発見前で、遺伝子操作技術などはまだ知られていなかったが、ウィリアムソンの文学的創造は間もなく現実のものとなり、生命科学の産業的応用への道が拓かれる。

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近代科学の政治経済史(連載第63回)

2023-05-27 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力(続き)

近代医薬学の発達と生命科学
 医学と薬学は近代科学成立以前からの古い歴史を持ち、元来は医師や薬師の施療経験にのみ基づく職人的知見であった。そうした伝統的な医薬学は世界各地の各民族間に存在してきたが、近代科学の勃興は医薬学のあり方にも決定的な変革を引き起こした。
 ここでも、顕微鏡の発明と微生物学の発達は画期的であった。微生物の概念は顕微鏡の祖国であるオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックによって導入されたが、本格的な微生物学はフランスのルイ・パスツールに始まる。パスツールの強みは、元来は化学専攻で、化学的な素養の上に生物学を築いたことにある。そこから、化学と生物学を融合した生化学という新分野が開拓された。
 パスツールまた、医師・生理学者のクロード・ベルナールとともに、ワインなど飲料の低温殺菌法としてパスチャライゼーションを開発するなど、産業的な応用性の高い研究も行い、細菌学の実用性を高めた。
 こうした細菌学、広くは感染症学の発達は、近代的な医学の発達を強く後押しした。その点、明治維新後、西洋医学を取り急ぎ導入した日本が輩出した国際的な医学者の多くも細菌学者あるいは感染症学者であったことは偶然ではない。
 また、近代的な生理学の発達も、生物の臓器の形状や構造を外部から観察するにとどまる解剖学を超え、臓器や神経系の機能をより精緻に解析することを可能にし、病気の原因に遡る病理学に基づいた新しい医学の誕生を促した。
 他方、薬学の分野でも、細菌学、広くは感染症学の発達は、それまで伝統的な薬学では限界のあった感染症の治療で多くのブレークスルーを成し遂げた。パスツールの狂犬病ワクチン治療や北里柴三郎の破傷風血清療法、パウル・エーリッヒと秦佐八郎の梅毒治療薬サルバルサンの開発などは、初期の近代薬学の重要な成果である。
 かくして、近代的な医薬学は病気の治療という実践的な使命を担いつつ、経験と勘に依存せず、生物学とともに、科学的な思考を通じて生命現象に迫るもう一つのアプローチを提供することにより、実用性の高い生命科学の誕生と発展を促進したと言える。

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近代科学の政治経済史(連載第62回)

2023-05-15 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力

有機体に関する科学である生物学は物理学と並び古い歴史を持つ科学であるが、20世紀以降、その発展は著しく、情報科学と並び、近年最も応用的な進歩を遂げている科学分野である。それは医薬学の発展ともリンクしつつ、経済的には生命現象そのものを人為的に操作する技術を備えた生命科学資本のような新規の資本を生み出すとともに、政治的にも生命現象をそのものを管理する生権力の可能性を高め、人間を含めた生物の存在性そのものに根源的な影響を及ぼしている。


生物学から生命科学へ

 生物学という経験的学問は、古代ギリシャはアリストテレスの『動物誌』以来の古い歴史を持つとはいえ、同書は今日的に見て多くの誤謬を含む思弁的な思考の域を出ておらず、近代的な経験科学としての生物学が成立したのは、他の近代科学分野と同様に17世紀のことである。
 中でも、オランダで発明された顕微鏡は画期的な道具となり、物理学者でもあったロバート・フックが顕微鏡を用いて細胞という生命体の最小単位を発見、さらにオランダの商人かつ生物学者でもあったアントニ・ファン・レーウェンフックが微生物を発見したことは近代生物学の本格的な幕開けとなった。
 顕微鏡により従来は肉眼でマクロな形態しか把握できなかった生命体について、肉眼では捉え切れない微生物や一般生物の細胞などの微視的な生命現象を捉えることができるようになったことは、近代生物学の発展を強く促した。
 19世紀後半には、マクロな分野でもダーウィンの進化論が台頭し、宗教的に大きな反駁を呼びつつも、通説として定着していった。一方、ミクロな分野では画期的なメンデルの遺伝学が誕生したが、この両者は遺伝的進化の理論として結合していく。
 20世紀以降には、電子顕微鏡の発明により、生命現象に対する微視的解明はさらに精緻を極めるようになり、分子生物学のような超ミクロな生物学も発展する。これは遺伝学とも結びついて、分子遺伝学の発達、ひいてはゲノム解読にも至る。
 このようにして、当初は生物の素朴な観察に始まった生物学は、次第に生命現象そのものを微視的に解明する生命科学へと発展を遂げていった。それに伴い、生命現象を人工的に操作するような政治経済的に利用価値の高い技術も誕生し、人間存在、ひいては生物界全体にも不穏な影響を及ぼしつつある。

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近代科学の政治経済史(連載第61回)

2023-05-08 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

国家の情報化と高度監視社会
 20世紀末以降における情報科学のビッグバンと表現してもよい急激的な発達は、国家の統治にも高度な情報化をもたらしている。それは国家統治のあらゆる分野に及んでいるが、中でも軍事と保安の分野で特に高度である。
 軍事に関しては、伝統的な戦術が高度に情報技術化され、無人攻撃機のように、爆撃を無人で実施するような戦術の革新現象が顕著に見られる。こうした無人兵器は広義の軍用ロボットであり、今後は軍用ロボットの作戦投入はいっそう拡大するだろう。
 それにとどまらず、ハッキング等の電子技術を通じた敵国のインフラストラクチャーの破壊・攪乱など電子工作自体を戦争の手段とするサイバー戦争、及びそれを専門とするサイバー軍という新たな戦争手段も登場してきた。
 こうした戦争の高度情報化は、かつての人海戦術的な陸戦のように大量の戦死者を出すことを避けて、目的や標的を限定した戦争を可能にしてはいるが、戦争の概念を拡大することにより、かえって国家に戦争の効率的な選択肢を与える結果となっている。
 また軍事と密接に関連する諜報活動に関しても、かつては生身の人間たるスパイを使った情報の盗取工作が主体であったところ、情報技術が高度化した今日では、ハッキングや偽情報の拡散等の電子工作活動が主体となりつつある。
 市民的自由を脅かす国家による情報科学のより集中的な活用は、保安分野で進行している。ここで言う保安は犯罪の抑止や摘発、テロリズム対策を含めた広い意味での治安政策であるが、こうした分野でも、電子技術を通じた個人のセンシティブ情報収集技術や行動追跡技術、さらには監視カメラ網の全般化と結びついた顔認識技術などが開発されてきている。
 こうした保安の高度情報化は、自由主義を標榜する諸国でも2010年代以降、急速に進行し、「自由」を形骸させているが、一方で、従来からの管理統制国家では、ネット検閲(選択的通信遮断)のような新たな統制手段が発達し、電子的な管理統制を強めている。
 軍事や保安面での高度情報化は、「国家からの自由」の古典的な概念を形骸化させ、体制の形態を問わず、高度監視社会という世界共通の潮流を作り出す要因となっている。
 他方で、国のサービスの受給や投票などを電子的に処理する電子政府化も進んでおり、国民に便益を与えている面もあるが、これらは国民の側の電子化への対応力とも相関するため、全面的な電子政府化は至難である。
 情報科学/技術は今後とも日進月歩の進化を続けるであろうが、国家がその成果をどこまで、どのように活用すべきかについての議論は後手に回っている。しかし、自由の形骸化を阻止するためには、そうした国家の情報倫理も問われる必要がある。

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近代科学の政治経済史(連載第60回)

2023-04-28 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

情報資本の無限拡大と過剰情報化社会
 元来、情報科学はあらゆる科学の中で最も進歩のスピードが速いとともに、理論性以上に実用性の高さゆえに、資本との親和性も高度である。成否は別としても、多くの情報科学者/技術者が自らの創案したテクノロジ―を商品化する起業資本家を兼ねてきたゆえんである。
 そうした情報科学の進歩と情報資本の相乗的な拡大は、インターネットの汎用化が始まった1990年代後半以降、加速度的に高まり、21世紀に入ると、その動きは無限化していった。とりわけ、ブロードバンドによるインターネットの大衆的普及は決定的であった。こうして急激に拡大した情報資本は、それ自体が独自の三次元産業分類に服する。
 第一次情報産業は、コンピュータそのもの(部品を含む)の開発・製造に関わる製造業分野であり、一般産業分類上は第二次産業に分類される。情報資本はまずコンピュータの開発・製造から始まったことから、第一次となるのである。
 第二次情報産業は、コンピュータソフトの開発のように情報産業の知的基盤に関わる生産に従事する産業であり、一般産業分類では農業に代表される第一次産業に匹敵する分野である。一般の産業分類とは異なり、製造業分野より後発であるため、第二次となる。
 第三次情報産業は、コンピュータ及びコンピュータソフトを利用して種々の情報サービスを提供する産業であり、これは一般産業分類上も第三次産業に含まれる。
 インターネットの大衆的普及に伴い、ほぼ無限的に拡大しているのが第三次分野である。21世紀最初の四半世紀を通過する現時点で情報産業の中心を成しているのは、この第三次分野だと言ってよい。
 この分野は情報そのものの生産と流通に関わるため、その無限拡大は社会に個々人が適切に処理し切れないほど過剰な情報をもたらし、言わば情報洪水の状態を引き起こしている。こうした過剰情報化社会は、人類が20世紀以前の歴史上は経験したことにない事態である。
 それは個人情報の流通・交換を仲介するソーシャルネットワーキングサービスのように、誰でも簡単に情報の発受信が可能になるという利便性の影で、個人情報の意図しない拡散を制御できないという個人情報危機、また虚偽情報の意図的拡散による大衆操作の日常化をもたらしている。
 情報資本は総資本の中でもとりわけ専門技術性が高く、その進化のスピードもあまりに速いため、適切な規制が困難であり、事実上は原初的な自由放任経済の中に置かれている。
 情報科学自体も次章で見る生命科学におけるような倫理的規制に無関心であることも、如上の深刻な社会的危機を助長していると言える。21世紀の折り返し点を迎える2050年までの次の四半世紀では、こうした社会危機の解決が世界的な課題となるべきはずである。

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近代科学の政治経済史(連載第59回)

2023-04-24 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

コンピュータネットワークの開発と高度情報社会
 コンピュータが単なる電子計算機を脱してより総合的な情報装置に昇華される重要な契機は、データを分割して送信するパケット交換によるコンピュータネットワーク、すなわちパケット通信網の開発であった
 そうしたパケット通信網の世界初例は、アメリカの国防総省高等研究計画局(旧略称ARPA)が主導して開発し、1969年から運用開始したアーパネット(ARPANET)である。その開発目的には諸説あるが、高等研究計画局は軍から独立した組織ながら軍事技術の開発を担う機関であるので、軍事通信技術としての利用が想定されていたことは否定できない。
 このようなコンピュータネットワークの理論構想は1960年代前半に高等研究計画局に在籍した心理学者・情報科学者ジョゼフ・リックライダーが提唱したタイムシェアリングシステム論(複数ユーザーが一台のコンピュータを同時利用するシステム)に源流があるが、パケット交換の理論構想はアメリカの情報科学者ポール・バランとイギリスの情報科学者ドナルド・デービスが別個に提唱した。
 ARPANETはこうした二つの理論を統合しつつ、ARPAの電子技術者ローレンス・ロバーツが中心となって開発した画期的なコンピュータネットワークであり、今日のインターネットの(直接的ではないが)祖型とみなされるシステムであった。
 今日のインターネットに直結する情報技術として複数のテクストを相互に結びつけるハイパーテクストの理論は情報科学者ではなく、アメリカの社会学者テッド・ネルソンが提唱したものであるが、情報技術としての実用化には長期間を要し、1989年に欧州原子核研究機構の情報科学者ティム・バーナーズ‐リーによって開発されたワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が決定的となった。
 一方、コンピュータネットワークとしては1986年にアメリカの連邦機関の一つである全米科学財団が開発した全米科学財団ネットワーク(NSFNet)が台頭し、先行のARPANETは1983年に軍事部門を分離したものの次第に陳腐化し、1990年に運用を終了した。
 1970年代に現れたインターネットの概念は、1986年にアメリカ政府の支援のもとにインターネット技術の標準化団体としてインターネット技術タスクフォースが設立されて以来、定着した。
 さらに、インターネットの普及を促進した商用利用に関しては1989年に設立されたアメリカ企業PSINetが先駆者であり、これを皮切りにインターネットの商用利用が拡大進んだ。1990年代にアナログ電話回線を通じてインターネット接続サービスを提供できる高速デジタルデータ通信技術としてADSLが開発されたことは、その後のインターネットの大衆的普及に決定的な役割を果たした。
 こうしたコンピュータネットワークの開発・発展によってコンピュータが相互に接続された情報通信機器として進化することとなり、電子化された情報が国境を超えて高速でやりとりされる高度情報社会が形成されていく。

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近代科学の政治経済史(連載第58回)

2023-04-15 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

商用コンピュータの登場と情報資本の発展
 コンピュータの開発には軍事目的がちらついていたが、やがて1950年代以降になり、商業目的のコンピュータ開発の動きも現れた。その点、世界最初に商用投入されたコンピュータはイギリス発のレオ・ワン(LEO I)であった。
 これは元来、ケンブリッジ大学のチームが前回見たアメリカのエドバックの開発構想に触発され、エドバックに先行して開発した世界発の実用的なプログラム内蔵方式コンピュータとされるエドサック(EDSAC)をベースとする機種である。
 レオ・ワンは後継機種も開発されたが、製造元のレオ・コンピューターズはレストランチェーンのJ・リオンズ・アンド・カンパニーが設立したもので、情報資本としては持続せず、イングリッシュ・エレクトリックに買収されて以降、転々譲渡された。
 こうしてイギリスは商用コンピュータの先駆を成しながら伸びず、商用コンピュータ開発で初期の先導的な役割を果たしたのは、共にアメリカ資本であるレミントンランドとIBMである。
 先行のレミントンランドは1927年から1955年までの30年弱しか持続しなかった事務機器製造メーカーであるが(55年以降、二度の合併を経て現ユニシス社に継承)、1951年に汎用性を持つ商用コンピュータとして、ユニバック・ワン(UNIVAC I)を製造販売した。
 これは前回見たエニアック(ENIAC)の開発チームが設立した会社を買収して製造元となったものであった。UNIVAC Iは宣伝のため提携したCBSテレビの大統領選挙の結果予測に早速投入され、アイゼンハワーの当選予測を的中させて名を上げた。
 UNIVAC Iはそれまでデータの出入力に使用されていたパンチカードシステムに代えて磁気テープを使用した点でも画期的なものであり、これはIBMほか競合社の製品にも取り入れられていった。
 一方、IBMではアメリカ軍の気象予測用コンピュータ開発を極秘で進めていた。その結果、誕生したのがIBM 701である。これは事務的なデータ処理を高速で実行する中型コンピュータであったUNIVAC Iとは異なり、科学技術的な高度計算を実行するプログラム内蔵型大型コンピュータとして開発されたものであった。
 IBM701とUNIVAC Ⅰの後継機種は競合関係に立つ主力商品として、軍用のほか民間企業でも使用されるようになり、商用コンピュータ初期の代表的な商品として定着した。特に、IBM 701は同社最初のメインフレームとして後継機種の基本型となった。
 単なる製造元でなく、自身が研究開発企業でもあるIBMは1956年には高水準コンピュータ言語FORTRANを開発するなど、50年代から60年代にかけて商用コンピュータ開発の先導者であったが、それ以外にも、集積回路を開発したテキサス・インスツルメンツなど、広い意味の情報資本が大きく発展したのも1950年代のアメリカであり、この時代に今日まで続くアメリカ情報資本の繁栄の基礎が築かれたと言える。
 これと対照的なのが、同時代の冷戦下でアメリカと科学技術面でもしのぎを削っていたソ連である。ソ連における情報科学の状況に関しては以前に言及したが(拙稿)、民間資本が存在しなかったソ連のコンピュータ開発は極秘の国家プロジェクトとして、国立研究機関を拠点に開発が進められたため、更新性や互換性に欠ける結果となり、閉塞・停滞していった。
 最終的に、ソ連は独自開発をやめ、IBM製品の海賊版に依存するという安易な便法に走るようになったことで、結果的にIBMがソ連にも進出したに等しく、西側情報資本の技術力が敵対する東側にも及ぶ皮肉な結果となった。

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近代科学の政治経済史(連載第57回)

2023-04-10 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

電子計算機の発明と軍事の影
 電子計算機としてのコンピュータが発明されるためには、まず土台となる計算機の発達、とりくわけデジタル式計算機の開発に加え、電気を動力源とする電動機の発明が先行しなければならなかった。
 その詳しい発達過程を逐一追うことはここでの論題を外れるので省略するが、現代のコンピュータにつながる開発の源流はドイツとイギリス、アメリカにそれぞれ独立に存在した。しかも、そのいずれにも軍事の影が見え隠れしている。
 ドイツの潮流の中心人物はコンラート・ツーゼである。彼の本職は土木技術者であったが、第二次大戦前から独自にコンピュータの開発を進め、ナチ党員ではなかったが、ナチスの資金援助を得て、1941年に世界初の自動プログラム制御によるコンピュータ(Zuse Z3)を発明した。
 これは直接に軍事目的の研究開発ではなかったが、ナチスはツーゼの研究成果を誘導型の滑空爆弾技術に応用し、実戦使用したので、間接的には軍事的な研究成果となった。なお、ツーゼは戦後、世界初のコンピュータ企業を設立し、起業家としても情報資本の先駆けを示した。
 一方、イギリスでは数学者のアラン・チューリングがハードウェアとソフトウェアを備えた計算機の数学的仮想モデル(チューリング・マシン)を考案し、構想的な面でコンピュータの誕生を後押した。彼自身は実際にコンピュータを開発することはなかったが、理論面で情報科学の父と称されるゆえんである。
 なお、チューリングには第二次大戦中、英国政府の暗号学校でドイツが開発した暗号機エニグマによる暗号解読に貢献した軍事諜報分野での業績があり、ここにも軍事とのつながりが認められる。
 これとは別に、イギリスでは英国中央郵便本局研究所の研究チームがドイツの暗号文解読に特化した専用計算機コロッサス(Colossus)を開発した。コロッサスはまさに軍事的な目的で開発されたもので、用途も暗号解読に限定されていたが、デジタル式電子計算機としての性質を優に備えていた。
 さらに、アメリカでは陸軍弾道研究所の研究プロジェクトとして、ペンシルベニア大学を拠点に第二次大戦末期からエニアック(ENIAC)とエドバック(EDVAC)というコンピュータの開発が相次いで進められていた。特に後者のエドバックは二進法によるプログラム内蔵方式コンピュータという点で、今日のコンピュータの祖型とも言えるものである。
 このエドバックの理論構想をまとめたジョン・フォン・ノイマンは、ナチス政権を避けてアメリカに移住したユダヤ系の数学者・物理学者であり、コンピュータの父と目されている。彼はマンハッタン計画で原爆開発にも参加し、戦後もミサイル開発に寄与するなど、軍事科学者としての顔が濃厚であった。

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近代科学の政治経済史(連載第56回)

2023-04-04 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力

コンピュータの発明に端を発するコンピュータ科学としての情報科学は20世紀以降、最も日進月歩で進化を続けてきた科学分野であり、今日では他のすべての科学においても研究手段を提供する不可欠の科学である。情報科学はまた、情報という無形的価値を商品として生産し、もしくは販売する情報資本の台頭を促進した。さらに、国家権力の情報収集能力の高度化を促進し、情報管理社会を形成するとともに、兵器のハイテク化や軍事作戦の電子化においても情報科学の寄与は著しく、軍事科学としての性格も強めるなど、情報科学は政治経済の基盤として多彩な顔を持つようになってきた。


機械式計算機の発明と数学の科学化

 情報科学における出発点であり、不可欠のツールでもあるコンピュータは元来、計算機(電子計算機)であったという事実がしばしば忘れられるほど、現代のコンピュータは単なる計算にとどまらない多様な機能を持つ総合的な電子機器に発展している。
 計算機の原点は算盤のような手動の計算器具であり、その歴史はメソポタミア文明時代に遡るというが、近代的な機械式計算機は17世紀フランスの哲学者にして数学者・物理学者でもあったブレーズ・パスカルの発明にかかるとされている。
 徴税官だった父親の税額計算業務の負担を軽減するための機械を製作しようとしたことがきっかけだったとも言われるパスカルの計算機は十進法を基本としており、歯車式のものであった。
 その後、ドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ライプニッツがパスカルの計算機の改良版を考案するとともに、現代の情報科学における基本的な記数法である0と1を用いた近代的な二進法を考案した。二進法の定着は20世紀を待つが、近代的記数法に関してはライプニッツを祖とする。
 パスカルやライプニッツの時代は近代的な科学の黎明期に当たっており、この時代に機械式計算機や近代的記数法の原点があることは偶然ではなく、数学が科学と結合し始めたことを示している。実際、パスカルは流体力学の「パスカルの原理」で名を残す物理学者でもあった。
 数学は科学にはるか遡る歴史を持ち、古代文明の時代に発するが、数的概念を扱う数学において不可欠な計算という行為をより合理的かつ迅速に実行する手段として高度な計算機の需要が生じたことが機械式計算機、さらには電子計算機の発明を導いたと言える。その意味では、情報科学とは数学の科学化、数理科学であると言うこともできる。
 もちろん、算盤のような伝統的な計算補助具を超える精巧な自動計算機を開発するには、機械工学や電子工学といった新しい科学技術の発展が必要であった。そのため、本格的な自動計算機の開発はそうした科学技術が発達し始めた19世紀以降のこととなる。

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近代科学の政治経済史(連載第55回)

2023-03-24 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙開発競争の終焉
 冷戦期における宇宙開発競争は、冷戦というある種の疑似的戦時下で、軍事目的を想定しつつ、東西陣営の体制が自国の優位性を誇るという体のものであったので、冷戦構造の動向に左右された。
 1970年代に米ソ間でいわゆる緊張緩和(いわゆる雪解け)が起こると、1975年には米ソ共同で宇宙船を飛行させるアポロ・ソユーズテスト計画が実施された。これは「雪解け」の象徴であるとともに、冷戦の終結へ向かう最初の芽となった。
 しかし、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻を機に、1980年代初頭にかけ、再び冷戦が再燃すると、アメリカはまさに宇宙空間を戦場化するスターウォーズ計画(正式名称・戦略防衛構想)を掲げたが、これは予算的にも技術的にも絵に描いた餅に終わった。
 一方、アメリカは1981年以降、再使用型宇宙往還機としてのスペースシャトルの開発に注力し、二度の搭乗員死亡事故を経験しながらも、数次にわたるスペースシャトルの往還を成功させた。
 このスペースシャトル計画は宇宙開発競争第二期における目玉であったが、1989年には米ソ両首脳による冷戦終結宣言がなされ、その二年後にソ連の解体という世界史上の激変が起きると、宇宙開発競争は失効し、東西の協調的な宇宙探査の仕組みが構築された。これが米露日欧加の五か国/地域共同運営による国際宇宙ステーション(ISS)である。
 居住可能な人工衛星である宇宙ステーションの構想と実用も元来はソ連が主導し、1971年のサリュート1号がその嚆矢となった(ただし、帰還中に3人の搭乗員が事故死)。その後も、この分野はソ連が先導し、国際宇宙ステーションでもソ連を継承したロシアが技術面で重要な役割を担ってきた。
 このような冷戦終結後の東西和解の状況は宇宙開発を再び非軍事的な学術的宇宙探査に戻す契機となり、国際宇宙ステーションも軍事施設ではなく、宇宙科学の研究スペースとしての機能を有している。
 もっとも、2022年のロシアのウクライナ侵攻を機に再び東西の対立緊張状況が生じる中、ロシアは国際宇宙ステーションからの撤退を表明した。この第二次冷戦の行方いかんでは、近年中国が宇宙開発に参入してきた状況と合わせ、再び宇宙開発競争時代が到来する可能性もある。

商業宇宙開発の始まり
 宇宙開発は必要な予算や技術から言っても、国家による直接投資によらなければ実行し難い分野であり、従来は本質的に国家プロジェクトであったが、2004年にスケールド・コンポジッツ社のスペースシップワンが民間企業初の有人宇宙飛行を成功させ、民間主導での宇宙開発の可能性が示された。
 そうした中、アメリカは2010年をもってスペースシャトル計画を終了し、低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託する方針を明らかにした。これは、国家主導での宇宙開発時代の終わりを象徴する方針転換であった。
 これに先立ち、NASAは2008年、ISSへの物資補給を民間企業に委ねる商業軌道輸送サービスに関する契約をスペースX社及びオービタル・サイエンシズ社と締結した。さらに、NASAはISSへの有人飛行を民間宇宙船に委ねる商業乗員輸送開発計画を開始し、2014年にスペースX社とボーイング社の宇宙船を選定した。
 このような宇宙開発の民営化は、商業宇宙開発という新たな事業の始まりを画している。技術面での民営化にとどまらず、宇宙旅行をビジネス化する試みとして、ヴァージン・グループ傘下のヴァージン・ギャラクティック社が2004年に設立され、宇宙旅行希望者の公募を開始するなど、宇宙空間が戦場ならぬ市場となる時代も到来した。
 ただし、こうした商業宇宙開発は技術的な面ではまだ発達途上にあり、如上の商業乗員輸送開発計画で選定された民間宇宙船(スペースX社のドラゴン2)が有人飛行に成功したのは2020年のことである。商業宇宙旅行も、現時点では巨額費用を負担できる富豪による短時間の宇宙体験にすぎない。
 商業宇宙開発は非軍事的な宇宙開発ではあるが、学術的な目的を離れたまさに開発プロジェクトであり、とりわけ娯楽観光目的での宇宙船の頻回な往還が実現すれば、環境面での負荷も懸念される。
 しかし、資本主義の進展に伴い、あらゆる科学技術が資本に商業利用されてきた歴史の中で、宇宙科学技術だけが例外ではいられないだろう。資本主義が存続する限り、商業宇宙開発を抑制することは至難である。特定の天体の個人や企業による私的所有という構想さえも出現するかもしれない。

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近代科学の政治経済史(連載第54回)

2023-03-21 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙開発競争の展開①
 ロケットによる宇宙探査で先行したのは、ナチス科学者を大量に引き抜いたアメリカではなく、ほぼ独自に研究開発を進めていたソ連であった。ソ連は1957年10月、人工衛星スプートニク1号を搭載したロケットの打ち上げに成功した。
 これを契機として、以後、ソ連・アメリカを軸とする抜きつ抜かれつの国策的な宇宙開発競争の時代が始まったと理解されている。ちなみに、この「宇宙開発」という術語はほぼ日本特有のもので、英語では「宇宙探査(space exploration)」とするのが通例である。
 しかし、スプートニク以後の宇宙をめぐる冷戦下の東西体制間競争は、単に学術的な関心からの「宇宙探査」という以上に、想定上の戦場を宇宙空間まで拡大するという軍事目的を視野に収めた「宇宙開発」と表現するほうが実態に合っているだろう。
 そうした宇宙開発競争の時代を大きく区分すれば、1957年のスプートニクの成功に始まり、1969年のアメリカによる有人宇宙船による月面着陸の成功という画期を境に、第一期と第二期に分けることができる。
 月面着陸以前の第一期は、ソ連が先行していた。その契機は如上スプートニクの打ち上げ成功であったが、これは「スプートニク計画」と銘打たれたソ連の開発研究政策の成果でもあった。
 この計画の技術的なベースとなったのはR-7と呼ばれるロケットで、これは当初、世界初の大陸間弾道ミサイルとして開発された兵器そのものであった。その開発初期には連行されたドイツ人科学者も関与したが、戦前からソ連の有力なロケット工学者であったセルゲイ・コロリョフが中心的な開発者となった。
 R-7は核弾頭も搭載できるミサイル兵器であると同時に、人工衛星を搭載すれば宇宙ロケットともなる軍民両用の便利な飛翔体であったので、人工衛星スプートニクの打ち上げに利用されたのであった。
 スプートニクの成功に続き、ソ連は有人宇宙飛行の実現に取り組んだ結果、まずは動物を宇宙船に搭乗させる実験を繰り返し、1960年のスプートニク5号で二匹の犬を宇宙へ送り帰還させることに成功した。
 これを受け、1961年には空軍士官ユーリー・ガガーリンが搭乗する宇宙船ボストーク1号の打ち上げと世界初の有人宇宙飛行を無事に成功させた。さらに、1965年には複数人が搭乗可能なボスホート2号の乗員が初の宇宙遊泳を成功させた。
 この時期のソ連はその全史の中でも最盛期に当たり、安定した体制の下、政治と科学を一体化し、国家総力を挙げた科学研究開発を推進した結果が宇宙開発での立て続く成功を導いたと言える。一方で、そうした国費の偏重的投入はソ連の衰退の始まりでもあった。

宇宙開発競争の展開②
 一方、宇宙開発競争第一期のアメリカは精彩を欠いていた。実際、1950年代半ばにはアメリカでも人工衛星打ち上げ計画が始動していたが、予算の問題からいったんは凍結され、進捗していなかった。
 実はそうした経緯を知ったソ連のコロリョフが自国の人工衛星打ち上げ計画を強く説いたことがスプートニクの成功につながったのであった。アメリカ側もソ連のスプートニクの成功に刺激され、その直後、1957年12月に初の人工衛星打ち上げを企画したが、無残な失敗に終わった。
「ヴァンガード計画」と銘打たれたアメリカによる一連の人工衛星打ち上げは以後、失敗の連続であり、この分野におけるアメリカの技術的な遅れが露呈された。冷戦時代における体制間競争でアメリカが最も屈辱を味わったのが、この時期である。
 「ヴァンガード計画」は海軍主導であったが、1958年2月には陸軍主導でエクスプローラー1号の打ち上げに成功したものの、スプートニクの二番煎じの観は否めなかった。焦慮したアメリカは1958年7月、宇宙開発研究の拠点として国家航空宇宙機構(NASA)を立ち上げた。
 この組織は連邦政府直轄機関であり、軍とは切り離された文民型の研究開発機関とした点でも画期的であり、兵器開発も担当する国営企業体である設計局(OKB)主導かつ徹底した秘密主義に基づいていたソ連の研究開発態勢とは好対照を成した。
 NASAにとって最初の重要な課題はソ連に先駆けて有人宇宙飛行を成功させることであり、そのためにいくつかの計画が立ち上がったが、結局のところ、ソ連に先を越される結果に終わった。
 そうした中、NASAは「アポロ計画」と銘打って、月への有人飛行を実現させるという壮大な計画に進んだ。これは当初SFまがいの遠大な企画とみなされ、進捗しなかったが、1961年に時のケネディ大統領が議会演説で「今後十年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という目標を明示したことで、にわかに現実の国策として定着する。
 こうした政治の後押しを受けつつ、1967年の記念すべきアポロ1号の火災死亡事故という犠牲を乗り越え、1969年11月、アポロ11号が有人での月面着陸を成功させた。ケネディー演説の目標十年より早い成功である。
 この成功は宇宙開発競争の主導権をアメリカが奪う契機となり、以後、国力の衰退とともに宇宙開発でも次第に精彩を欠いていくソ連を後目に、アメリカ主導による宇宙開発競争第二期が始まる。

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近代科学の政治経済史(連載第53回)

2023-03-15 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

冷戦と宇宙探査前夜
 観念的な宇宙探求が無人/有人での宇宙飛行を通じた現実的な宇宙探査に進展するのは、第二次大戦後を経た1950年代後半期のことである。その点、前回見たように、ロケット技術で先行していたナチスドイツは宇宙探査に進む前に敗戦・崩壊したため、ドイツはこの分野では脱落した。
 代わって、ナチスの科学者を引き抜いた戦勝国側、中でも米・ソ・仏三国がナチスのロケット技術を再利用する形で、宇宙探査に乗り出していく。これが後の宇宙開発競争時代の序章となる。
 その点、アメリカは要領の良いことに、大戦末期からドイツ人の優秀な科学者を大量に引き抜くペーパークリック作戦なるヘッドハント作戦を軍主導で実施し、戦後まで継続した。
 1600人以上の科学者を引き抜いたこの作戦を通じてフォン・ブラウンを中心としたドイツ人ロケット工学者の引き抜きをソ連に先んじて成功させたことは、後に国家航空宇宙機構(NASA)を立ち上げるアメリカが宇宙探査で世界をリードする上での知的な原始資本となった。
 アメリカがとりわけロケット工学分野でのヘッドハントに執心したのは、航空工学分野ではすでに世界をリードしていたアメリカも宇宙工学分野では未開拓の段階にあったことが意識されていたためと考えられる。
 他方、ソ連はフォン・ブラウンらの獲得では出し抜かれたものの、ある程度のドイツ人技術者を連行して協力させた。ただし、元来ソ連にはツィオルコフスキーの先駆的なロケット理論が存在し、これをベースとする独自の研究開発に進むが、そこには航空戦力でアメリカに出遅れていたソ連が宇宙空間に到達する新型兵器で対抗しようとする戦略的な意図も秘められていた。
 一方、フランスもV2ロケットに強い関心を示し、ドイツ人技術者を招いて同型ロケットの改良に取り組んだが、軍事色が強く、フランスが宇宙探査を本格化させるのは米ソに対して一歩遅れ、1960年代以降のことである。
 このように、宇宙探査にはその前夜から新型兵器の開発という軍需目的と学術目的とが混淆・交錯していたのであり、東西冷戦の始まりという大状況下で軍事・学術を含む東西の総力戦的な体制間競争が展開されていく中、宇宙探査が主要な競争分野に入ってきたことを示していた。

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近代科学の政治経済史(連載第52回)

2023-03-10 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

ドイツ宇宙旅行協会とロケット開発
 以前の稿でも触れたように、ナチスドイツはロケット開発の先駆者となったが、その契機は前回も見た宇宙旅行協会(以下、協会)の設立であった。1927年設立当初の協会は民間のロケット愛好家の任意団体にすぎなかったが、ここには後にV2ロケット開発に携わるフォン・ブラウンら有力な科学者も参加していた。
 そうしたことから、協会は単なる愛好者団体を超えて、民間でのロケット開発プロジェクトに進むことになったが、資金不足は否定のしようがなかったところ、1930年にドイツ軍の協力を仰ぐことに成功したことが転機となる。その結果、弾薬集積所跡地を借り、ロケット発射試験場を開設することができた。
 このベルリンロケット発射場は史上初のロケット発射場となり、1933年にかけて液体燃料ロケットの発射実験が多数回にわたり行われ、最大で1000メートル以上の打ち上げに成功した。
 この間、ドイツの軍備制限を規定していたベルサイユ条約がロケット開発の制限を想定していなかった抜け穴に着眼した陸軍兵器局が協会にロケット打ち上げ契約を持ちかけたが、これを巡る内部対立から協会は分裂した。
 結局、1933年に協会は事実上活動停止状態となったが、軍との協力に積極的だったフォン・ブラウンが陸軍兵器局に引き抜かれたことで、ドイツのロケット開発が陸軍主導で行われる契機となる。
 時はちょうどナチスの政権掌握と一致しており、ロケット開発は軍備増強を推進するナチスの政策にもマッチしていた。フォン・ブラウンは自身もナチ党員となり、1937年以降はペーネミュンデ陸軍兵器実験場の技術責任者としてドイツの新鋭兵器開発をリードした。
 ペーネミュンデ陸軍兵器実験場はロケット開発に特化した施設ではないが、航空兵器開発を専門とし、中でも最大プロジェクトであったロケット開発にはフォン・ブラウン他、多くの協会員が参画した。
 その結果完成されたのが、世界初の液体燃料ミサイルであるV2ロケットである。1940年には開発計画を察知したイギリス軍によってペーネミュンデ陸軍兵器実験場が爆撃を受けるという妨害も入ったが、1942年に三度目の発射実験で史上初めて宇宙空間まで到達する飛翔体となった。
 このように、ドイツのロケット開発は民間主導で始まり、ナチスの台頭を経て軍需分野に移行して、第二次大戦ではロケットが新型兵器として実戦投入されたのであった。これは厳密な意味での宇宙開発からは逸れたロケットの活用であったが、ナチスが存続していれば、先駆的な宇宙開発へ進んだ可能性はあったであろう。
 戦後、敗戦国ドイツのロケット技術に目を付けたアメリカとソ連、さらにはフランスもドイツ人科学者を免責して引き抜き、それぞれのロケット開発に協力させたことが戦後の宇宙開発競争の引き金ともなったのは皮肉である。

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