十二 生命科学と生命科学資本・生権力(続き)
ヒトゲノム計画と政治権力
近年における生命科学の集大成は、2003年に完了が宣言されたヒトゲノム計画(Human Genome Project:以下、HGP)である(ただし、完全解読は2022年)。これに関する一般的な解説は略するが、HGPは当初、アメリカ政府主導で公的資金により、1990年から開始された一大科学プロジェクトであった。
ちなみに、アメリカ政府にあっても特にエネルギー省が中心となったことは注目される。合衆国エネルギー省は核開発も任務とし、民生から軍事にまたがる総合的な科学行政及び研究機関であり、そうした機関がHGPにも手を伸ばしたことは、HGPには軍事的な関心も抱かれていたことを示唆する。
HGPには後にイギリス、フランス、ドイツ、日本、中国も加わり、世界の主要国の参加を経てスピーディに推進されていき、2000年6月には、当時のビル・クリントン米国大統領とトニー・ブレア英国首相によってヒトゲノムの草案が完成したことが高らかに表明される。
大国首脳によるこうした科学的声明は異例であるが、なぜ世界の主要国が難解な科学研究計画にこれほど前のめりになったのか。疾病に対する遺伝子治療への寄与の期待が強調されるが、それだけとは考えにくい。
人間の設計図とも言われるゲノムを政治権力が掌握することは、人間の創造そのものに国家が関与できる可能性を秘める。こうした言わば「ゲノム権力」は究極の生権力とも言えるからこそ、主要国が特段の関心を示したのであろう。
ゲノム政治経済の誕生:新たなリヴァイアサン
政府関与の公共HGPに対して、純粋に商業系の計画として、セレラ・ジェノミクス社によるHGPも存在した。分子生物学者クレイグ・ヴェンターが創立した生命科学資本であるセレラ社はより効率的かつ迅速にゲノムデータを得られるショットガン・シーケンシング法という新技術で、有料ゲノムデータベースの構築を狙った。
ただ、セレラ社が商業目的で解読したゲノム配列のデータを秘匿していたことは公共HGPからの批判と反発を招き、同社は方針の撤回を余儀なくされた。とはいえ、セレラ社は商業目的でのゲノム利用の可能性を示した。ヒトゲノムは潜在的な経済的利益であり、「ゲノム資本」の可能性は開かれている。
その点、セレラ社創業者ヴェンターは自身、ノーベル賞受賞者であるハミルトン・スミスとともに、生物種として初めてインフルエンザ菌(ウイルスではない)を対象とした全ゲノム解読を成功させた実績を持つ遺伝子工学者にして実業家という人物であり、経営者自身に高度な科学的知識を要するゲノム資本の象徴である。
さらに、ゲノム権力とゲノム資本は資本主義を介して容易に融合し、「ゲノム政治経済」を形成し得る。こうしたゲノム政治経済は、生命科学の時代の新たなリヴァイアサンと言えるかもしれない。しかし、観念にすぎない生命倫理は、大きな潜在的実利を生む怪物的なゲノム政治経済に対する強力な縛りとはならないだろう。