ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産教育論(連載第39回)

2019-02-27 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(5)経営学院
 貨幣経済を廃した計画経済を軸とする共産主義社会における企業経営は、資本主義社会におけるそれとは全く異質的なものとなるため、企業経営に必要なノウハウも異なったものとなる。
 すなわち、もはや商品の生産・販売を通じて利潤の拡大を目指す経営術ではなく、企業種別や業容により程度の差はあれ、環境的持続可能性に配慮しつつ、公益の増進を目的とする経営術が要請される。また、労働者の経営参加や自主管理が基本となるため、労働と経営の区別も相対的ないし相互的なものに変化する。
 そうした共産主義的な企業経営に必要な知見とノウハウを専門的に教育するのが、経営学院である。企業経営者には特段の資格や免許の制度はないが、経営学院の修了者は経営に関して高度の適格性を持った者として社会的に認知される。
 こうした狭義の企業経営のほかに、公益性の高い共産主義的企業活動において比重が高まる企業監査業務に必要な知見とノウハウの教育も経営学院の第二の任務となる。
 さらに、環境的持続可能性に配慮された計画経済(持続可能的計画経済)の実務において重要な裏方支援業務を果たす公的資格としての「環境経済調査士」(拙稿参照)の養成が、経営学院の第三の任務に加わる。ここで養成された「環境経済調査士」は経済計画の合議機関である経済計画会議の事務局に配置されるほか、各企業の環境影響調査部門や環境監査役などの任務にも広く起用される。
 経営学院の経営・監査コースの入学要件は、少なくとも一つの企業体で、一定年数以上、管理職としての業務経験を持ち、当該企業から推薦を受けた者に限られる。ただし、環境経済調査士の養成コースではこのような要件は課せられず、より広く何らかの就労経験があれば足りる。
 なお、経営学院も、教育活動に必要な経営学その他の基礎的な学科に関する研究活動も併せて行い、学術研究センターとしての機能を持つ点では、他の専門職学院と同様である。

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共産教育論(連載第38回)

2019-02-26 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(4)法学院
 法曹の養成を任務とする法学院は、医歯薬系学院と並んで専門職学院の代表例の一つである。共産主義社会における法曹は、『共産法の体系』の中で論じるように(拙稿参照)、法的紛争の解決を主任務とする法務士と公的な証明を主任務とする公証人とに分かれるが、いずれも法学院を通じてのみ養成される。
 すなわち、両職ともに、試験のみで職務資格が付与されることはなく、法学院での所要単位取得を証明する修了証書が必須であり、それが資格試験の受験条件となるということである。そのような共通性において、法務士と公証人の資格は対等的であり、両者間に階級的優劣差は存在せず、職務内容の相違があるにすぎない。
 法学院の修業年限は3年とし、修了者は法務士または公証人の資格試験を受験することになる。ただし、法務士試験は二段階に分かれるため、まずは初級段階試験に合格したうえ、所定の年数は法務士補として就業する。
 法学院の主要任務は法曹の養成にあるが、その養成に必要な各種法律学の研究活動をも任務とし、部分的には学術研究センターと同様の機能を持つ点は、医歯薬系学院と同様である。また、法学院は座学のみならず、周辺地域の認定法律事務所や公証人役場に研修委託することによって、学生の実地教育を行なう。

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共産教育論(連載第37回)

2019-02-25 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(3)医歯薬系学院
 生涯教育の一環として位置づけられる高度専門職学院は、各種専門職ごとに多数あり得、そのすべてを列挙することはできないが、本節以下では、主要なものに絞って各論的に概観しておきたい。
 まずは、広義の医療に関わる医歯薬系学院である。医歯薬系学院は、高度専門職学院の中でも典型的に高度な専門性を有するゆえに、高度専門職学院の代表例となる。
 個別的に見れば、医師/歯科医師を養成する医学院/歯学院をはじめ、薬剤師を養成する薬学院、さらには看護師を養成する看護学院もこの系統に含まれる。なお、獣医師を養成する獣医学院も対象は動物であるが、この系統の類型に含め得るだろう。
 これらの医歯薬系学院はすべて同格であり、学院の種別間に優劣関係はない。例えば、医学院を頂点に、他の学院はその劣位にあるというわけではない。従って、薬学院や看護学院も医学院と同格的であるから、そこで養成される各医療専門職間にも階級的優劣差はなく、職務内容の相違があるにすぎない。
 医歯薬系学院の修学年限も、すべて同等である。その場合、短期集中教育を旨とする高度専門職学院の修学年限はおおむね3年であるが、医歯薬系学院については、その専門性の高さから一律に4年とすることも一考に値するであろう。
 医歯薬系学院の主要任務がそれぞれの分野における高度専門職の養成にあることは言うまでもないが、その養成に必要な学科の研究活動も任務とするため、部分的には学術研究センターと同様の機能を持つ。例えば、医学院であれば、臨床医学はもちろん、基礎医学分野や社会医学分野の研究活動も行なう。
 しかし、医学院(歯学院も同様)は教育・研究用の付属病院を持たず、周辺地域の認定外部病院に研修委託することによって、学生の実地教育を行なう。従って、付属病院を頂点とする学閥ネットワークが形成されることはなく、教育・研究を担う医学院と医療の実務を担う病院網は別個独立である。
 なお、医療系専門職として、検査技師や各種の療法士のような医療技術職もあるが、医師の指示に基づき特定の医療技術のみを提供するこれらの専門職の養成は高度専門職学院ではなく、専門技能学校で行なわれる。

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共産論(連載第12回)

2019-02-23 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(4)新しい生産組織が生まれる(続)

◇農業生産機構
 共産主義は工業偏重の資本主義的生産体制を是正して、第一次産業、特に農業の比重を回復する。ただ、農業分野については、依然として大土地所有制の下で貧農が搾取されている諸国は別として、大土地所有制の解体と農地解放が進展した諸国にあっても、自営的な農家が代々継承してきた農地を耕作する形態が根強く残り、マルクスが『資本論』第三巻で理論上想定したような借地農業資本による資本主義的農業経営はあまり普及しているとは言えない。
 しかし、自営的農業は元来経営基盤が弱いことに加え、後継者不足やグローバル化の中での「市場開放」圧力によって、存亡の危機に立たされつつある。このままいけば、いずれ世界の農業は遺伝子組み換え技術で武装した農業食糧資本による直接的または借地農業資本のような間接的形態の商業的大規模経営に委ねられることになろう。
 これに対して、共産主義的農業は―後述するように農地を含む全土地を「土地管理機構」に集中することを前提として―生産事業機構の特例である「農業生産機構」が一元的・集約的に運営する
 農業生産機構は、多くの工業化諸国のように農地そのものが縮退している所では、商業の廃止に伴って吐き出される商業用地を新たに農地として開墾しつつ―あるいは先進的な工場栽培技術を用いて―、環境と健康に配慮された農法に従った持続可能な農産体制を確立するであろう。
 農業生産機構の内部構造については前述した生産事業機構に関する原則がほぼ妥当するが、農業生産機構の労働者に相当するのは、一般事務職を別とすれば各農場で農作業に当たる農務員である。従来農家を営んできた人々は、希望に応じて機構農場の管理者(農務員の指導監督に当たる一種の現地管理職)として農業生産機構に雇用される。
 なお、林業や漁業についても、農業に準じて「林業生産機構」、「漁業生産機構」といった生産事業機構を通じた共同化を考えることができる。特に漁業に関しては、水産資源の有限性を考慮しつつ、生物多様性に配慮された計画漁業を推進する必要がある。また林業も同様に森林資源の保護に配慮された計画植樹・伐採が要請される。そうした点では、林業、漁業分野の生産活動は農業以上に環境配慮的な手法による共同化に適していると言えるだろう。(※)

※林業及び畜産は農業とも隣接しており、兼業経営も可能であることから、農業を含めた三分野を包括する「農林畜産機構」を設立することも一考に値する。

◇消費事業組合
 これまで見てきた種々の生産組織はいずれも物やサービスの生産そのものに関わる事業体であったが、消費についても一種の「生産組織」を考えることができる。それが「消費事業組合」である。
 現代資本主義の下での消費は今日、ますますスーパーマーケット(=超市場)というすぐれて資本主義的な名辞を冠された巨大小売資本に制圧され、衣食に関わる日用消費財のほとんどすべてをスーパーマーケットで調達することが慣習化している。それによって我々は「便利」という殺し文句と引き換えに、画一的な消費財の受動的な「消費機械」にさせられている。
 これに対して、共産主義的な消費事業組合は、現在は政治的な郷土愛主義の隠れ蓑にすぎない「地産地消」を基本的経済原則とするため、地方ごと―第4章で見る「地方圏」(日本を例にとれば、近畿地方圏とか東北地方圏など)の単位―に設立される特殊な流通組織(サービス生産組織)である。
 各地方の消費事業組合は、先述の農業生産機構をはじめ、安全性と信頼性が確認された他の消費財生産組織とネットワークを結び、組合直営の物品供給所を通じて無償で各種消費財を供給する。この組合直営の物品供給所は新たに設立するほか、既存のスーパーマーケットやコンビニエンスストアを接収・転換する方法によってもよいだろう。
 消費事業組合はその管轄地方圏の住民(例えば、上例の近畿消費事業組合であれば近畿地方圏の住民)を自動的加入の組合員とする特殊な事業体であり、組合員総会(組合員の中から抽選で選ばれた総会代議者で構成する)がその最高議決機関となる。
 一方、先述した生産協同組合とは異なり、消費者が組合員となる消費事業組合にあっては職員(労働者)=組合員という図式は成り立たないため、組合員総会とは別個に労働者代表役会が常置される必要がある。
 なお、消費事業組合は「組合」とはいえ、自主管理企業とは異質であるため、その内部構造については、生産協同組合ではなく、より大規模な生産企業法人のそれに準ずる。

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共産論(連載第11回)

2019-02-22 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(4)新たな生産組織が生まれる

◇社会的所有企業と自主管理企業
 商品‐貨幣交換を軸とする現代の資本主義社会で、商品生産の中心を担う生産組織が株式会社であることは周知のとおりである。株式会社とはその本質上、貨幣獲得を通じて資本蓄積を自己目的とする営利企業体であって、企業の実質的所有者である株主の利益を図ることを至上命令とする利益共同体でもある。
 資本主義は、このような個別企業体としての株式会社が各々の利潤計算に基づく経営計画に従って展開する商品の生産・販売活動の総体である。しかし、商品‐貨幣交換が廃される共産主義社会では株式会社の仕組みを維持することはできない。そこで共産主義社会にふさわしい新たな生産組織が生まれてくることになるであろうが、それはどのような組織であろうか。
 ここで念のために記しておくと、共産主義からしばしば連想される「国有企業」ではあり得ない。後に第4章で改めて論じるように、共産主義社会は国家という観念を持たないので、「国有」は論理的にもあり得ないからである。
 といって、共産主義的生産組織のあり方に絶対の公式があるわけではないが、さしあたりそれは「社会的所有企業」と「自主管理企業」の二種に大別できる。
 ここに「社会的所有企業」とは、社会の公器として社会的監督の下に置かれる公共性の強い企業体であり、平たく言えば「みんなの企業」ということである。「社会的所有」であることの証しとして、これらの企業は第4章で見る民衆代表機関(全土民衆会議)の監督を受ける。
 ただ、この社会的所有企業の対象業種はさほど広いものではなく、それはおおむね運輸、通信分野を含めた基幹産業と食糧に関わる農林水産、健康に関わる製薬などに限定される。そして、それは前節で概要を見た持続可能的計画経済の対象範囲と重なる。
 一方、「自主管理企業」とは生産労働者が結合して共通の事業目的を自主的に展開する企業であり、社会的監督を受けない一種の私企業であるが、株式会社に代表される資本主義的私企業とは異なり、経営と労働は分離せず、労働者自ら経営にも当たる点で「自主管理」と呼ばれる。
 その自主管理企業の対象業種は上述の社会的所有企業の対象業種以外のすべてという広い範囲に及ぶが、規模の点では「自主管理」が現実的に可能なのは最大でも職員1000人未満の中小企業に限られるであろう。

◇生産事業機構と生産協同組合
 以上の二つに大別された共産主義的生産組織を法的な観点から分類し直すと、それは「生産事業機構」と「生産協同組合」に対応する。
 このうち前者の「生産事業機構」は、上述した社会的所有企業に対応する法人組織である。具体的には例えば製鉄事業機構、電力事業機構、自動車工業機構等々のように各業種ごとに単一の統合的事業体として政策的に設立される法人企業組織である。これらの生産事業機構は、共同して経済計画を立案し、実施する計画経済の責任主体ともなる。
 これに対して、自主管理企業に対応する法人企業組織が「生産協同組合」である。これは前述したような職員(組合員)1000人未満の中小企業の法人形態であって、計画経済の対象範囲に属しない業種に関して自由に設立することができる。
 ただし、自主管理が困難な職員1000人以上の大企業に関しては、上述の生産事業機構と生産協同組合の中間的形態として「生産企業法人」を認める。これは社会的所有企業そのものではないが、次項で述べるように、その運営に関しては生産事業機構に準ずる構造を持つ大規模法人企業組織である。(※)
 一方、自主管理企業の中でも職員20人以下のような零細企業にあっては、内部運営に関する自由度の高い「協同労働グループ」といった小規模法人組織を認めることができるであろう。

※当ブログ上の先行する他連載等における記述では「生産事業法人」と表記している場合があるが、経済計画の適用対象たる「生産事業機構」と紛らわしくなるため、ここに改称する。従って、他連載等における記述もこのように読み替えられたい。

◇諸企業と内部構造
 ここで、以上の共産主義的企業組織の内部構造についてやや立ち入って見ておきたい。
 まず、社会的所有企業か自主管理企業かを問わず、共産主義企業には株式会社の株主に相当する個人的な企業所有者は存在しないため、最高議決機関としての株主総会のような機関も存在し得ない。
 この点、社会的所有企業としての生産事業機構の最高議決機関は「職員総会」である。ただ、生産事業機構のような大規模企業体では全職員参加型の総会は事実上困難であるから、職員総会のメンバーは職員の中から抽選または投票で選ばれた代議人(総会代議人)となる。
 一方、生産事業機構には株式会社の取締役会に相当する運営機関として「経営委員会」が設置され、その代表者たる「経営委員長」が最高経営責任を負う。経営委員及び経営委員長は一定の任期をもって職員総会で選任される。
 株式会社との大きな違いとして、職員総会に代わって常時経営委員会の活動を一般職員の視点から監視し、重要な案件に関する経営委員会の決定に対する同意/不同意の権限をも有する「労働者代表委員会」が常置されることである。これは生産事業機構では困難な自主管理に代わる共同決定システムと言える。この労働者代表委員及び労働者代表委員長も一定の任期をもって職員総会で選任される。
 さらに、経営委員会の活動を主として法令順守の観点から監督する機関として「業務監査委員会」が、またこれとは別に環境的持続性の観点から監督する「環境監査委員会」が常置される。これらの業務監査委員及び環境監査委員(監査業務は対等な合議にふさわしいため、委員長職は置かない)も、一定の任期をもって職員総会で選任される。
 生産事業機構に関する以上の内部構造規定は、前述した生産企業法人にもほぼ類推的に妥当し、それぞれ「経営役会」(及びその責任者たる「代表経営役」)、「労働者代表役会」(及びその責任者たる「労働者代表役会長」)、「業務監査役会」、「環境監査役会」が常置される。ぞれぞれの機関のメンバーが一定の任期をもって職員総会で選任されることもほぼ同じである。
 以上に対して、自主管理企業たる生産協同組合の最高議決機関は全組合員で構成する「組合員総会」である(ただし、組合員が500人を超える場合は総会代議人制の導入も認める)。そして総会で組合員の中から選任された理事で組織する理事会が経営責任機関となる。
 しかし、生産協同組合の場合は自主管理が基本であるから、労働者代表機関は原則として置かれず、組合員は総会を通じて直接に理事会の活動を監督する(ただし、任意の機関として「組合員代表役会」を置くことは認められる)。
 一方、生産協同組合の場合も、最低3人以上の監査役を常置すべきであるが(監査役会は設置しない)、このうち少なくとも1人は「環境監査役」でなければならない。
 なお、上述した協同労働グループの場合は数人から十数人のメンバー労働者が完全に対等な立場で運営に当たる零細企業形態であるから、およそ「機関」もなく、構成員の全員協議で自由に活動を展開することができる。ただし、この場合も監査役に当たる「常任監査人」をメンバー以外から最低1人は選任することが義務づけられる。 

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共産論(連載第10回)

2019-02-21 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(3)計画経済に再挑戦する

◇古い計画経済モデル
  ここであえて計画経済モデルに「再挑戦」するという言葉を使うのは、計画経済モデルはすでに破綻したということがなおも国際的及び国内的な常識となっているからである。
 ただし、ここで言う「再挑戦」とは、実際に破綻したソ連型集産主義の下での計画経済モデルを単純に再試行することを意味しているのではない。むしろ新しい観点と手法による新しい計画経済モデルの開発に挑戦したいのである。そのためには、まず古い計画経済モデルの観点と手法を振り返って整理しておく必要がある。 
 この古い計画経済は、専ら資本主義経済の持つ不安定さを解消するため、事前の計画に基づいて需給関係を調節し、安定な経済運営を実現しようとの観点から、―商品‐貨幣交換システムは存置したまま―国家計画機関が主導するプランに従って国有企業体を中心に生産活動を展開していくというものであった。
 しかもソ連の計画経済モデルにあっては、重工業分野を中心に「アメリカに追いつき、追い越す」ための高度経済成長を狙い、極めて高い生産目標数値を盛り込んだ長期(原則5か年)の計画に特徴があった。
 しかし、商品‐貨幣交換を軸とする経済システムの下での需給関係の混乱は、商品‐貨幣交換の連鎖の中でのアットランダムな調節―いわゆる“神の見えざる手”という名の人の見える手―によって事後的に始末されるのであって、それを事前的な計画によって統制しようとしてもかえって計画倒れの混乱が生じかねないのである。
 この点、マルクスはある私信の中で「ブルジョワ社会(資本主義社会―筆者注)の機知は、先験的に生産の意識的な社会的規制が全くなされないという事実にある」と皮肉っているのであるが、そのような社会的規制の欠如こそ、資本主義社会の「機知」ならぬ「機序」なのだ。
 しかし、商品‐貨幣交換が廃される共産主義経済システムの下では、商品‐貨幣交換を介さない需給関係の直接的な事前調節が可能となり、またそれこそが過剰生産や逆に過少生産を防止する唯一の手段ともなる。そうした意味で、計画経済モデルは貨幣経済が廃止されて初めてその真価を発揮すると言えるのである。

◇持続可能的計画経済モデル
 新しい計画経済モデルの真の新しさのゆえんは、何よりもまず生態学的持続可能性に最大の力点を置いた計画経済生態学上持続可能的計画経済(以後、持続可能的計画経済と略す場合がある)―であるというところに存する。
 現代の資本主義を特徴づける大量生産‐大量流通‐大量廃棄(大衆の消費抑制が定在化してくると必ずしも大量消費とは言えないため、大量の未消費廃棄物が排出されるという異常!)のシステムは、その高エネルギー消費という点からしても、もはや根本的に生態学的持続可能性を保証することができなくなっており、資本主義的生産様式を続ける限り、いかに高度な環境政策も、それは決定的な環境危機をせいぜい先延ばしにし、ツケを将来世代に回すだけの姑息的な効果しか持たない。
 資本主義の枠内にとどまり、資本主義的生産様式に手を着けないまま、大量生産→大量廃棄のサイクルを止めようとしても無理なのである。資本主義とは、角度を変えて見れば、廃棄するために生産するシステムである。廃棄自体が一種の再投資なのであり、この意味では資本主義とは大量廃棄を通して資本蓄積が続いていく一種の「蕩尽経済」でもある。
 そういうわけで、根元的に生態学上持続可能な経済モデルとして、一度は信用失墜したかに見える計画経済が再発見されるべく立ち戻ってくるのである。

◇計画の実際
 実際の計画にあたっては、温室効果ガスや各種有害物質削減目標のような具体的環境規準を踏まえた厳正な供給設定が鍵となる。
 この点、現代の資本主義経済は人々の欲求に応じて明らかに実需要を超えた物を大量に生産する「欲求(需要)の経済」であり、かつ生産物の耐用年数が意図的に短期に設定され、消費者が頻繁な買い替えを強いられる「更新の経済」でもあり、それがまたエネルギー需要―特に生産過程における―の莫大な「高エネルギーの経済」につながっている。
 これに対して、新たな持続可能的計画経済は環境的持続可能性によって規定された供給に応じて需要を調整する「供給の経済」であり、かつ一つの物をできるだけ長持ちさせる「耐用の経済」でもある。従ってまた、必要最小限のエネルギー需要で足りる「低エネルギーの経済」でもある。
 ただし、前に示唆したように、全産業分野で計画経済が実施されるわけではない。計画経済の対象範囲は基本的に環境負荷の高い産業分野ということになるが、それはほぼ鉄鋼、石油、電力、造船、機械工業などの基幹産業分野と運輸をカバーするであろう。
 これに加えて、自動車産業や家電産業のように、その生産物の消費が環境負荷的となりがちな分野も計画経済の対象範囲に含まれ、こうした分野では生産物の質と量の両面で計画的な生産に踏み込む必要がある。
 また二酸化炭素の排出量の増加傾向が目立つ運輸部門は、少なくとも陸上貨物輸送については、電気自動車または水素自動車によるトラック輸送と可能限り電化された鉄道輸送を単一の事業機構に統合化したうえ、長距離トラック輸送の制限と鉄道輸送の復権とを計画的に実行する必要がある。
 長距離トラック輸送を制限するには、とりわけ消費財の地産地消のシステムを確立することが有意義であるが、この点、次節でも触れるように、各地方圏ごとに設立される消費事業組合が地産地消システムの拠点となるであろう。
 一方、日用消費財分野では、一部の基幹的な物資を除き、計画経済の対象外として自由生産制が採られる。ただ、商品‐貨幣交換が廃される共産主義経済の下では、消費財の過剰供給が生じやすい資本主義経済の場合とは反対に、過少供給の傾向が生じやすいと想定され、相対的な物不足が生じる懸念がないわけではない。
 そこで、主食的な食品をはじめとする日常必需的な消費財については、大災害や重大伝染病のパンデミックなど非常時の備蓄をも兼ねた余剰生産物の貯蔵を各生産組織に義務付けられる。そうした限りでは、限定的な計画経済が適用される。
 以上に対して、製薬のように健康に直接関わる特殊な産業分野については、一般の経済計画とは別立てで中立的かつ科学的に厳正な治験に基づく特殊な生産計画が立てられる。また天候などの自然条件に左右される農業をはじめとする第一次産業分野についても、一般の経済計画とは別立ての個別計画となる。
 こうした地球環境の保全を最終目的とする持続可能的計画経済は、その究極においては現在の国際連合に代わるグローバルな統合体としての世界共同体を通じて地球規模で実施されるべきものであるが、その実際については最終章で改めて論ずることにする。

◇非官僚制的計画
 ところで、旧ソ連式の古い経済計画は政府機関主導による官僚制的な国家計画であったがために、机上的・非現実的計画の横行を招いたことにかんがみ、新しい経済計画は計画適用分野の企業自身による自主的な共同計画に基づいて立案される。
 具体的には、計画経済の対象範囲に含まれる業種に対応する企業から選出された計画担当役員で構成する「経済計画会議」を設置し、この機関が直接に計画立案・実施を担うのである。(※)
 この経済計画はその統一的な根拠を世界共同体が策定する世界経済計画要綱に置きつつ、科学的な環境見通しに立ちつつ、比較的短期の3か年計画を基本とし、世界共同体を構成する緩やかに自治的な各領域圏の代表機関である民衆会議で承認され、法律に準じた拘束力をもって公布・施行される規範的な指針である。ただし、法律と異なり毎年内容が検証され、必要に応じ適宜修正もされる柔軟な規範である。
 このように比較的短期かつ見直しも随時行うのは、予測不能な環境条件によって左右される経済計画の目標期間は、せいぜい3か年単位が限度と考えられ、かつ可変的な柔軟性を持たせる必要もあるからである。
 また非官僚制的計画という性格からして、経済計画会議は計画の立案から実施、実施状況の監督、検証と修正に至るまで一貫して自らが担当しなければならない。
 それを可能とするためにも、会議には調査分析センターを付置し、ここには官僚でなく、新たに養成されるプロフェッショナルとしての「環境経済調査士」(環境影響評価に基づいて経済予測・分析を行う公的専門資格)を多数配置し、補佐体制を充実させる必要がある。

※当ブログ上の先行する他連載等における記述では「経済計画評議会」と表記している場合があるが、新しい計画経済モデルにおける計画機関は民衆会議と並ぶ一種の代議機関の位置づけとなるため、「経済計画会議」と命名するほうがふさわしい。従って、他連載等における記述も、このように読み替えられたい。

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犯則と処遇(連載第34回)

2019-02-20 | 犯則と処遇

28 犯則捜査の鉄則

 「犯則→処遇」体系の下での犯則捜査は、犯則事件の真相解明のための証拠収集を目的とする捜査専従機関によって遂行されると述べたが、その際、捜査活動を規律するいくつかの規範的な原則が必要である。
 これらの原則は単に個々の捜査官が遵守すべき執務規則ではなく、捜査機関全体が組織として遵守すべき鉄則である。よって、以下の諸原則は犯罪捜査機関の内規として規定されるのではなく、犯則事件処理のプロセスについて定めた法令上に明記されるべきものである。
 そのような諸原則を列挙すると、「見込み捜査禁止の鉄則」「科学捜査優先の鉄則」「反面捜査完遂の鉄則」の三大鉄則に集約される。

 第一の「見込み捜査禁止の鉄則」にいう見込み捜査とは、初めから直感的に犯人を見定めたうえ、その者を有責とするに都合のよい証拠の収集に注力するような捜査手法である。
 このような捜査手法は一見すると効率的であり、結果的に的中することもあるが、そこが落とし穴であり、ひとたび犯人の見定めを誤ったときには誤審に直結する賭けのような捜査手法である。このような捜査手法の適用を禁ずるのが、本原則である。

 そこで、見込み捜査に代えて、物証演繹捜査が導入される。物証演繹捜査とは、はじめに犯人を見定めて結論先取り的に捜査するのではなく、まずは物証の検証を通じて、そこから確実に導き得る結論を立てていく捜査手法である。
 従って、この場合、初動捜査の対象は人ではなく、物である。物証を収集し、それを科学的に解析したうえで、物証から導かれる人にたどり着く手法であるから、一定以上の時間と労力を要するが、それこそプロフェッショナルな捜査専従機関にふさわしい捜査手法である。

 そこから、第二の「科学捜査優先の鉄則」が導き出される。従前から、捜査には鑑識活動が取り入れられ、科学捜査の技術も進歩しているとはいえ、鑑識は捜査の補充的な役割に甘んじていることが多く、前記見込み捜査手法の下では鑑識や鑑定結果が歪められることすらある。
 しかし、物証演繹捜査の下では、まず物証の収集が先行しなければならないから、物証の検証を本義とする科学捜査が優先される。ここで言う科学捜査とは、狭義の鑑識にとどまらず、変死体の検視、筆跡・音声鑑定、文書や電子データの分析、画像解析など、およそ科学的手法を用いて実施される捜査活動すべてを指す。

 こうした科学捜査を優先すべく、捜査専従機関には独立した科学捜査部門が設置される。これは、従来の警察機関では分立していることが多い鑑識部門と科学捜査研究部門とを統合した捜査部門であり、そこに所属する専従捜査員は採用時から一般の捜査員とは別途、科学捜査員として採用・育成される科学知識を持った特別捜査員である。
 そればかりでなく、一般の捜査員に対しても、科学捜査に関する研修を義務付け、初任時に科学捜査部門を必ず経験させるようにする。
 なお、変死体の検視は科学捜査員ではなく、法医学の知識を有する独立した専門検視員が担当することになるが、これについては後に章を改めて 言及することにする。

 さて、見込み捜査禁止の鉄則と物証演繹捜査、そしてそれを制度的に支えるものとしての科学捜査優先の鉄則に加え、ダメ押し的な原則として、三つ目の「反面捜査完遂の鉄則」がある。
 反面捜査とは、物証演繹捜査の結果、行き着いた被疑者が真犯人ではない可能性を示す証拠(反面証拠)の有無を捜査することである。

 物証演繹捜査によって導き出された被疑者が真犯人である可能性はかなり高いとはいえ、絶対的な確実性があるわけではない。事案によっては、物証が充分でないこともあり得る。そこで、被疑者の無実を示すような反面証拠の有無をダメ押し的に見究める必要があるのである。反面捜査の結果、反面証拠が存在しないことが確実となって、初めて被疑者を正式に犯人と特定できることになる。
 このような反面捜査はそのつど必要に応じて随意に行えばよいのではなく、すべての事案において必ず完遂されなければならない。そのために、すべての事案の捜査に際して反面捜査専従者を置いて、反面捜査を確実に完遂しておく必要がある。

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犯則と処遇(連載第33回)

2019-02-19 | 犯則と処遇

27 犯則捜査について

 前回、捜査→解明→処遇(+修復)という流れを持つ新たな司法処理モデルの概要を述べたが、その起点となるのは証拠収集を目的とする犯則捜査である。それは犯則行為を立証する証拠収集のための公的機関による活動という点では、刑罰制度を前提とした既存の刑事司法における犯罪捜査と同様である。

 しかし、既存の刑事司法における犯罪捜査は犯人の特定と処罰を最終目的として行なわれるのに対し、ここでの犯則捜査は犯則事件の真相解明そのものを目的として行われる。この両者は所詮大差ないようにも見えるが、実質上は相当な差異をもたらす。

 犯人の処罰を最終目的とする犯罪捜査は、刑罰制度が土台を置く応報主義のイデオロギーに貫かれている。犯罪捜査の初動で、拘禁刑の先取りとも言えるような未決の身柄拘束が多用され、また懲罰的な意味合いも濃厚な拷問がしばしば加えられたりするのも、そうした応報原理の表象なのである。
 応報原理が犯罪捜査の方向性を誤らせ、犯人を誤認したまま裁判へと進み、処罰がなされてしまういわゆる冤罪現象も、刑事司法にはほとんど付き物である。そうした弊害を防止すべく、近代的刑事司法では、何ぴとも有罪判決の確定までは無罪とみなす「推定無罪」という技巧的な法則を立ててきたが、報復感情に支えられた応報原理は、このような理知的法則をも、しばしば虚しいタテマエに形骸化させてしまう。

 それに対して、われわれの犯則処理の起点としての捜査は応報原理から解放され、次なるステップとしての真相解明に資する証拠の収集ということが明確な目的として位置づけられるので、より客観的かつ科学的な視野に立った合理的な証拠収集活動が展開される。
 そのため、「推定無罪」というような技巧的法則をあえて立てずとも、冤罪を防止できる可能性は高まると考えられる。犯人の処罰ではなく、実際に何が起きたのかを証拠を通じて再現的に解明することが犯罪処理プロセスの重要な課題となるからである。言い換えれば、誰が犯人かよりも、何が起きたかが主題である。

 ところで、既存の刑事司法制度においては、犯罪捜査は主として警察機関が担当することが世界的な主流となっている。
 しかし、警察機関とは元来、警邏及び警備を主任務とする準軍隊的な階級構造を持つ制服武装機関であって、犯罪の証拠の収集という任務に特化した機関ではない。そのため、犯罪捜査活動は刑事部とか犯罪捜査部といった名称を冠された警察の内部部局によって遂行されることが通例である。
 しかし、如上の犯則捜査を適切に遂行するためには、警察が言わば二次的任務として捜査に従事する制度はふさわしくない。犯則捜査はそれに特化した捜査専従機関によって遂行されるべきである。

 そうした捜査専従機関は警察のような準軍隊的な階級構造を持つ制服武装機関ではなく、基本的に私服の法執行機関であり、組織構造も、警察のような階級制によらず、業務の管理運営上の規律維持に必要な限りでの緩やかな職階制にとどまるものであることがふさわしい。
 このような捜査専従機関では、初めから捜査官としての適格者が採用・育成され、専従捜査官として各部署に配置され捜査活動に従事する構制が採られる。このようなプロフェッショナルな構制は、的確な捜査活動を保証するうえで寄与するはずである。

 さらに、捜査専従機関は専門性と公平性を確保するため、警察のように単独の長官が管理するのではなく、3人の合議制委員会組織によって管理する。3人の委員のうち2人は熟練した幹部捜査官の中から昇進させるが、1人は外部の有識者から任命し、外部の視点と識見を組織管理に取り入れるようにする。

 なお、このようにして捜査専従機関が遂行する犯則捜査活動から分離された警邏・警備活動は、警防団のような準公的な地域密着型の組織がこれを担うことになるが、この件に関しては、後に防犯について扱う章にて改めて詳論することにする。

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犯則と処遇(連載第32回)

2019-02-18 | 犯則と処遇

26 刑事司法から犯則司法へ

 前章まで、伝統的な「犯罪→刑罰」体系によらず、犯則行為者に対する科学的な処遇を中心に行なう新たな「犯則→処遇」という体系の概要を述べてきたが、本章から先は、そうした新たな体系による司法処理のプロセスに関する諸問題を扱う。

 その点、「犯罪→刑罰」図式の下では、捜査→訴追→裁判の三点セットのプロセスが圧倒的な主流を占めている。これは科刑の権限を裁判所(裁判官)が保持するという前提の下に、通常は警察が犯罪捜査を担当し、その結果をもとに特定された被疑者を裁判所に訴追し、審理・判決するというそれなりに合理性のある明快なプロセスであるがゆえに、近代的刑事司法制度の標準モデルとなったのだろう。

 これに対して、「犯則→処遇」体系における新たな司法処理のプロセスを図式的にまとめれば、捜査→解明→処遇(+修復)というものである。起点が証拠収集のための捜査にあることは同じであるが、捜査終了後、裁判所への訴追・審理という流れの代わりに、真相解明という独自のプロセスが現れる。

 真相解明は、既存の刑事裁判所でも審理の中心課題ではあるが、刑事裁判の最終目的は科刑にあるから、真相解明は科刑のために必要な限りで、しかも訴追を専門官僚としての公訴官(検察官)が行なう標準型では、訴えを起こす原告に相当する公訴官の主張の真否を問う形で実施される。
 それに対して、新モデルにおける真相解明は解明そのものを目的とし、処遇には及ばない。純粋に何が起きたのかという事実認定に焦点を絞って、捜査機関が収集した適法な証拠に基づいて解明するプロセスである。従って、その担当機関は裁判所ではなく、まさに真相解明そのものを任務とする特殊な合議機関―真実委員会―であることがふさわしい。

 この真実委員会による審問と審議の結果、単独または複数の犯行者が確定された場合、その者(たち)に異議がなければ、最終的な処遇審査に付せられる。
 その点、刑罰制度を前提とする刑事裁判では、最終的な科刑も審理に当たった裁判官が量刑という擬似数学的な形態をもって行なうが、「犯則→処遇」体系における処遇は科学的な観点から、より専門的な審査に基づいて行なわねばならないから、真相解明とは全く別個の処遇審査機関―矯正保護委員会―が行なう。

 ここで同時に、被害者のある犯則行為においては、被害者・加害者間で、修復というプロセスも行なわれる。これは比較的被害程度が軽微な犯則行為について、被害者・加害者間でその関係の修復が成立すれば、それ以上の処遇は課さないというある種の免除を導くものである。

 以上のような新たな司法処理モデルは、もはや刑罰の付加を最終目的とする司法制度ではないから、これを「刑事司法」と呼ぶことはふさわしくない。ただ、真実委員会や矯正保護委員会は高度の中立性を要求されるため、行政機関ではなく、司法機関の体系に属するべきである。
 従って、新モデルも司法制度の一環ではあるが、名称としては、犯則行為の処理に関わる司法という含意から、「犯則司法」と命名することにする。標語的に言えば、「刑事司法から犯則司法へ」である。

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共産論(連載第9回)

2019-02-15 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(2)貨幣支配から解放される

◇交換価値からの解放
 前節では、共産主義社会の特質として、商品生産がなされないということを論じた。商品生産がなされないということは、商品交換がおおかた例外なく貨幣交換に収斂されている現代社会では、ほぼイコール貨幣制度の廃止と同義である。
 ここで改めて驚倒する前に、貨幣制度の廃止とはいったいどんなことを意味するのかを考えてみたい。まず、それは我々が交換価値の観念から解放されることを意味する。
 例えば、10万円のパソコンがあったとする。この場合、そのパソコンには10万円相当の交換価値が与えられていることになるが、このことはそのパソコンの性能(=使用価値)が真実10万円に値するかどうかとはひとまず別問題である。もしかすると、そのパソコンは頻繁に故障するような欠陥商品かもしれない。
 貨幣制度が廃止されるならば、そのパソコンにはもはや貨幣で評価される価値=価格はつかない代わりに、直接その性能いかんによって評価されるであろう。これは使用価値中心の世界である。
 もちろん資本主義社会でも、使用価値が一切不問に付されるわけではない。10万円の交換価値にふさわしい使用価値のない商品は売れないであろうし、使用価値のない欠陥商品をそうと知りながら偽って販売すれば詐欺罪に問われるだろう。それでも、資本主義にあっては交換価値が使用価値に優先するのであって、目当ての商品の使用価値を我々が利用したければ、ともかくいったんは交換価値相当額の貨幣と交換することが要求される。これは交換価値中心に回る世界である。
 商品経済があらゆる部面に貫徹されるに至った社会では、いかなる財・サービスを取得するにも交換価値相当額の貨幣を要求されるから、カネがなければそれこそおにぎり一個も購入できず餓死することもやむを得ない帰結として、慨嘆されつつも容認されるのである。反面では、この世はすべてカネしだい、カネさえあれば何でも買えるという魅惑的な浮世でもある。
 そこからまた、カネのためなら犯罪行為も辞さない人間も跡を絶たず、窃盗、強盗、詐欺のような財産犯罪はもちろん、殺人のような人身犯罪を含めたおよそ犯罪の大半に何らかの形でカネが絡んでいるのが、資本主義的世情である。

◇金融支配からの解放
 交換価値の表象手段となる貨幣というシステムはその本性上民主的ではないから、貨幣経済とは一種の専制体制である。そのような「貨幣的専制支配」が最も端的に現れるのが金融の領域である。
 貨幣そのものの資本的化身である金融資本は融資や投資を通じて資本主義経済全般の総設計師の役割を果たす一方で、そうした総帥的役割ゆえの横暴さが資本主義の歴史を通じて見られ、その無規律で時に制御不能な行動がしばしば深刻な経済危機のきっかけを作ってもきた。
 2008年大不況の発端となった金融危機でも、人間が自ら作り出した複雑な金融システムを自ら制御できず、逆に人間が金融システムに支配され、破滅させられかねないフランケンシュタインさながらの姿がさらけ出されたのであった。
 貨幣制度の廃止は、銀行を中心とする金融資本を全面的に解体することになる点で、「貨幣的専制支配」からの解放を保証するのである。(※)
 このことは金融に起因する経済危機からの解放のみならず、より日常的な直接の帰結として、およそ借金からの解放をもたらす点において、多くの人々に朗報となるであろう。疑いもなく、借金は個人にとっても、企業体さらには国家や地方自治体のような公的セクターにとっても、破産を招く貨幣の最も恐ろしい形態だからである。
 借金は債権という法的形式をまとって、合法的な権力としても(=強制執行)、非合法な暴力としても(=暴力金融)発動される貨幣の最高の力として債務者を支配するがゆえに、恐ろしいのである。このような力からの地球全域での解放は、まさに地球人の共同利益に資するはずではないだろうか。

※金融資本のみを敵視して「金融資本主義」からの解放を一面的に主張する議論とは異なる。資本主義は金融資本を司令塔として運営されている経済システムであるから、金融=資本主義なのであって、「金融資本主義」は同語反復的である。

◇共産主義と社会主義の違い
 今日でもしばしば混同されている共産主義と社会主義の違いとは、ごく大雑把に言えば貨幣制度の有無にあると言ってさしつかえない。
 従来、社会主義は「平等な無階級社会」をめざすと宣伝していたが、貨幣はその本性上決して平等には行き渡らないものであるから―その意味でも貨幣システムは民主的ではない―、貨幣制度を維持する限り、その下での完全な所得・資産の均等化(均産化)はおよそ不可能なことなのである。
 従って、貨幣制度を廃止しないままの「社会主義」では、どのようにしても階級社会を根絶することなどできはしない。20世紀に社会主義の盟主だった旧ソ連にしても、しばしば誤解されるような「完全平等」が達成されていたわけでは全くなく、むしろすべての資本家にとっての究極的理想である出来高払いの成果主義賃金体系が構築されていたのであったし、共産党官僚特権に基づく各種役得(賄賂も含む)の介在により、一般労働者層と共産党官僚層との間には所得格差を含めた生活水準の格差が公然と発現していたのであって、その実態は端的に言って「社会主義的階級社会」と呼んでも過言でなかった。
 従って、旧ソ連社会を「完全平等社会」と事実誤認したうえで、そのような「平等」こそが旧ソ連体制の“活力”や“競争力”を喪失させ、資本主義陣営に敗北した要因であると分析するのは的を得ない。
 それと同時に、貨幣制度―より厳密には商品‐貨幣交換経済―が廃止される共産主義と、それがなお温存される社会主義とを同視・混同することも失当なのである。

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共産論(連載第8回)

2019-02-14 | 〆共産論[増訂版]

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

共産主義社会ではおよそ商品生産が廃止される。その結果、我々の生活はどう変わるのか。また共産主義社会における生産活動はどのように行われるのか。


(1)商品生産はなされない

◇利潤追求より社会的協力
 マルクスは有名な『資本論』第一巻の書き出しで、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は一個の「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品はその富の基本形態として現れる」と資本主義社会の特質を的確に描写している。
 たしかに、資本主義社会の主役は人間でなく、商品である。周知のとおり、おにぎりからケータイ、クルマ、住宅に電気、水道、ガス、さらには医療、福祉、果ては性に至るまで、ありとあらゆる財・サービスが商品として生産され、販売され、人間は商品に大きく依存して生きているのが資本主義社会の現実である。
 これに対して、共産主義社会ではこのような商品としての財・サービスの生産がなされないのである。なぜか。それは、前章で先取りして述べたように、共産主義とは社会的協力すなわち助け合いの社会だからである。
 商品という形態での財・サービスの生産は、第一義的には商品を生産する資本家がそれらを販売して貨幣に変え、富を蓄積するために行われているのであって、その実践は本質的に商業活動である。
 もっとも、商業活動の内にも助け合いという要素は認められる。例えば自動車を生産・販売する資本家は自動車を欲している他者のために生産・販売しているのであり、自動車部品を製造・納入する資本家は自動車生産に不可欠な部品を自動車生産資本家のために製造・納入している。一方、これらの資本家の下で働く労働者は資本家のために労務を提供し、見返りに資本家は賃金を支払って労働者の生活を支えているはず―近年は怪しくなってはいるが―である。
 とはいえ、資本主義的な生産サイクルの中では日頃、こうした利他的相互扶助の関係はほとんど意識に上らず、ただそのサイクルを流れる商品と貨幣のことだけが意識されているのである。言い換えれば、資本主義社会とは、第一義的に利潤追求=金儲けの社会であって、ようやく第二義として社会的協力=助け合いの要素が現れるという特徴を持っている。
 してみると、共産主義社会とは資本主義社会にあっては第二義的でしかない社会的協力という要素を表に引っ張り出してくるだけのことだとも言える。その結果、どういうことが起こるだろうか。

◇無償供給の社会
 一番重要な変化は、あらゆる財・サービスが商品ではなく、「モノ自体」として生産・供給される結果、それらがすべて無償で、つまりタダで取得できるようになることである。
 このことは、現代人にとっては一つの文化革命と呼ぶに値する激変であろう。おにぎり一個の取得にすら交換手段としての貨幣を必要とする我々は、あらゆるモノをタダで取得できることに後ろめたさをすら覚えるかもしれない。
 冷静な人ならば、そうなると財・サービスの供給が統制的な配給制になるのではないかという懸念を持つかもしれない。たしかに日常必需的な消費財に関しては、後で再び論じるように、独り占めや需要者殺到を防ぐために取得数量の制限をする必要があり、その限りで一種の配給制的なシステムとなるであろう。
 しかし、資本主義の下においても、需要の急増により品薄が生じた場合には取得数量を制限するなど、在庫切れを防止するための対策を講じる必要がある。従って、このでは相対的な違いにすぎないと言えよう。
 一方で、例えばマイカーのような物になると、共産主義の下では画一的な量産体制から需要者による個別的な注文生産の形に変わり、需要者の好みの型や色、デザインに応じた職人的な生産方式が可能となるであろう。
 それに対して各種事業所や交通機関などの業務に供せられる事業用自動車については、後述する経済計画に従い量産体制が採られつつ、やはり無償で納入・更新されていく。同じことは、例えば自動車生産工場で使われる機械設備のような生産財の生産・供給についても妥当する。

◇文明史的問い
 このように、共産主義的生産体制の下では、生産される財・サービスからその商品形態が剥ぎ取られ、およそ貨幣交換に供せられることがなくなるため―部分的には個人間での物々交換の慣習は残存するであろうが―、商取引が消失し、商業活動全般が(原則的に)廃される。その代わりに、言わば「巨大な社会的協力」のシステムが立ち現れるのである。
 ここで、一つの文明史的疑問が提起されるかもしれない。すなわち商取引は資本主義以前の先史時代から人類が営々と継続してきた活動であるのに、それを人為的に全廃してしまうことなど可能であろうか、と。
 おそらく、これはマルクスよりもブローデルが提起した資本主義の文明史的基層を成す「物質文明」という視座に関わる問いであろう。本論考でこの遠大な問いに正面から取り組む余裕はないが、一つ言えるのは、ここでもやはり生態学的持続可能性という人類社会の存立条件を巡る基本的認識が、この問いに対する回答を左右するであろうということである。
 資本主義に象徴されているのは、富を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ社会である。そのような社会では、もっと所有すること(having-more)、すなわち贅沢が理想の生活となる。しかし、このような社会は、環境的持続可能性とはもはや両立しないことは明白である。
 それに対して、もっと所有することや贅沢ではなく、よりよく在ること(being-better)、すなわち充足が理想の生活となる社会があり得る。もっとも、そのような社会にあっても人間社会を維持していくためには物質的生産活動は不可欠であるから、物質文明が完全に放棄されるようなことはあるまい。とはいえ、来たるべき新たな物質文明はもはや富の追求を第一義とするようなものではなくなるであろう。

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共産教育論(連載第36回)

2019-02-12 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(2)高度専門職学院の概要
 生涯教育制度の一環としての高度専門職学院の設置主体は、公私両様である。公的な設置主体としては、領域圏立のものと広域自治体立のもの、大都市立のものがある。また私立もあるが、いずれであれ、法令上の設置基準を満たしていることが高度専門職学院の標榜基準となる。
 高度専門職学院での教育目標は、その名のとおり、各種専門職となるうえで必要不可欠な素養及び技能を集中的に修得することにある。そのため、既存の大学とは異なり、一般教養科目はなく、一年次からすべてが実習を含む専門科目で構成される。
 修学年限は学院の種別ごとに差異があってよいと思われるが、高度専門職に必要な基礎的素養及び技能を修得するうえで、少なくとも3年は必要であろう。しかし、4年を越えるのは生涯教育課程における集中的な専門教育という観点からは長すぎ、4年制が最長限度かと思われる。
 ちなみに、資本主義社会においてはとかく高額な学費が進学の障壁となる高度専門職教育であるが、貨幣経済が廃される共産主義社会では私立系のものも含め、すべて無償であるから、そもそも学費自体が発生しない。結果、その門戸は大幅に拡大されることになる。
 高度専門職はその専門技術性と社会的責任性の高さゆえに、ほとんどの職域において資格制または免許制が採られ、それらの取得には学科試験が課せられる。しかし、高度専門職学院が受験準備のための予備校と化さないためにも、資格/免許試験は高度専門職学院の学生であれば、90パーセント以上が70パーセント以上の正答率で合格できる基礎的な内容とする。
 高度専門職は、その関門となる資格/免許の取得そのものよりも、取得後の継続的研鑽のほうがはるかに重要性が高いので、専門職資格/免許はおおむね10年程度の有効期限を持たせた更新制を採るべきであり、専門職学院はそうした継続的研鑽を目的とする一年の短期必修プログラムを提供する。
 従って、例えば医師免許取得者は10年の有効期限経過前に、免許更新に備えて一時休職し、再びいずれかの医学院の継続研鑽課程に入学し、研鑽教育を受けたうえで、免許更新試験に合格しなければ、有効期限切れとともに医師免許を喪失することになる。

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共産教育論(連載第35回)

2019-02-11 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(1)高度専門職教育
 専門教育という場合、広義には前章で見た専門技能学校を通じた専門技術教育も包含されるが、本章で取り上げるのは、医療、法律、教育関係に代表されるような高度専門職の教育制度である。
 資本主義の初期においては、しばしば低収入にあえぐこともある知識中産階級にすぎなかった高度専門職は、現代資本主義社会になると、その多くが高年収を保障された特権階級として、今日的な知識階級制の中では支配階級を成している。そうした地位を担保しているのが、高等教育学歴である。
 しかし、貨幣経済が廃される共産主義社会では、高度専門職といえども、無償労働である。高収入が目当てで高度専門職を目指すといった動機はあり得ないことになる。それに代わり、高度専門職を志望する動機は高度な使命感や責任感となるから、高度専門職教育もそうした動機に対応した制度として設計されなければならない。
 共産主義的教育制度にあっては高度専門職教育も、既存の大学/院に象徴されるようなエリート選抜型の高等教育の形を取らず、やはり生涯教育体系の一環を成す。しかし、高度専門職の社会的責任の高さに照らし、多目的大学校のような全入制ではなく、一定のアドミッションを伴う特別な専門学院が用意される。
 高度専門職学院のアドミッションは、性質上早期教育が必要な芸術/体育学院という例外を除き、何らかの職に少なくとも3年以上継続的に就いた経験を共通的な募集条件とする。高度専門職の社会的責任の高さは、他分野での職業人としての経験によって裏打ちされるべきことが理由である。
 ただし、前職がいかなる職業であってもよいというわけではなく、転職志望する高度専門職と何らかの関連づけができる前職が高い評価を受けることになるだろうが、結果として、高度専門職者は芸術/スポーツ分野という例外を除き、全員が他分野からの転職者ということになる。
 それに加えて、アドミッションでは形式的な点数評価に集約される学科試験は課さず、複数回にわたる入念な面接を通じた適性及び人格識見の総合評価が合否基準となる。高度専門職の社会的責任は知識の集積より以上に、適性と人格識見によって支えられるからである。

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犯則と処遇(連載第31回)

2019-02-09 | 犯則と処遇

25 反人道犯罪について

 これまで見てきた「犯則→処遇」体系にあっては、法と道徳が混在した「犯罪」という観念から脱し、「犯則」という純粋に法的な概念に置き換えたうえで、犯則行為者に対する科学的な処遇を導くことが目指されるのであるが、このような体系の下でもなお、「犯罪」として残されるもの―言わば、「最後の犯罪」―がある。それが、人道に反する罪(反人道犯罪)である。

 反人道犯罪の代表的かつ究極的な事例は今なおナチスドイツが犯したホロコーストであるが、その具体的な定義は現行の国際法によって定められている。
 現行国際法上は、国際刑事裁判所規程において、ホロコーストのようなジェノサイド(大虐殺)とそれ以外の人道に対する罪とを区別しつつ、以下の定義が規準となっている。
 なお、私見によれば、人道に対する罪の極点と言うべきジェノサイドを人道に対する罪とわざわざ区別する必要性はなく、いずれも反人道犯罪として包括するほうが明快である。


第六条 集団殺害犯罪

この規程の適用上、「集団殺害犯罪」とは、国民的、民族的、人種的又は宗教的な集団の全部又は一部に対し、その集団自体を破壊する意図をもって行う次のいずれかの行為をいう。

(a)当該集団の構成員を殺害すること
(b)当該集団の構成員の身体又は精神に重大な害を与えること
(c)当該集団の全部又は一部に対し、身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に課すること
(d)当該集団内部の出生を妨げることを意図する措置をとること
(e)当該集団の児童を他の集団に強制的に移すこと

第七条 人道に対する罪

この規程の適用上、「人道に反する犯罪」とは、文民たる住民に対する攻撃であって広範または組織的なものの一部として、そのような攻撃であると認識しつつ行う次のいずれかの行為をいう。

(a)殺人
(b)絶滅させる行為
(c)奴隷化
(d)住民の追放または強制移送
(e)国際法の基本的な規則に違反する拘禁その他の身体的な自由の著しい剥奪
(f)拷問
(g)強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力
(h)政治的、人種的、国民的、民族的、文化的または宗教的な理由、性に係る理由その他国際法の下で許容されないことが普遍的に認められている理由に基づく特定の集団または共同体に対する迫害
(j)人の強制失踪
(j)アパルトヘイト犯罪
その他の同様の性質を有する非人道的な行為であって、身体または心身の健康に対して故意に重い苦痛を与え、または重大な傷害を加えるもの

 
 これらの反人道犯罪は、一般的な殺人等とは本質的に異なり、単なる法違反としての反社会的行為ではなくして、その核心は、人間性そのものへの敵対にある。それは人類共通の法に違反する行為であると同時に、それを越えた人倫に反する行為として把握される。
 このような普遍的な性格からしても、反人道犯罪は民際的な司法手続きによって審理される必要がある。現行国際法体系上は国際刑事裁判所で審理されるが、このような常設の裁判所でルティーン化された審理をするよりも、各反人道犯罪案件ごとに公平に人選された検事団及び判事団から成る非常置の特別法廷を設置して審理するほうが、公正さを確保できるだろう。

 問題は、このような反人道犯罪を犯した人物の処遇如何である。その点、国際刑事裁判所規程では、最大で終身刑を上限とする自由剥奪刑という伝統的な「犯罪→刑罰」体系に沿った処遇が定められているが、これでは、一般的な犯罪との区別がなく、人倫に反する行為としての反人道犯罪の性格を曖昧にする。
 反人道犯罪は、通常の犯罪を越えた集団的な反人倫事象であるからして、一般的な刑罰では不足である。同種事象の再発防止を完璧なものとするためにも、より強力な根絶処分を要する。こうした根絶処分には、致死的処分と僻地での終身労役処分の二種がある。

 具体的には、主唱者、計画者及び実行指揮者並びに実行管理者は、生きて復権することを許さないためにも、致死的処分に付する必要がある。それに対して、末端実行者は致死的処分を要しないが、終身間の僻地労役処分に付する。
 ただし、改悛の状が著しい実行管理者は終身間の僻地労役処分に減軽する一方、改悛の状が認められない末端実行者は主唱者等並みに致死的処分に付する。
 致死的処分の執行方法は、熟練射手による銃殺とする。おそらくは、この方法が最も瞬時的に対象者の生命を停止できる“人道的な”処分だろうからである。僻地での終身労役処分は、それ自体が反人道的な奴隷労働と化さないよう配慮しつつも、一般労働より厳しい現業労働を課する。

 さらに、反人道犯罪は個人的な犯罪ではなく、集団的な犯罪であるからして、必ずその司令塔たる組織なり団体なりの集団が存在する。こうした反人道犯罪を主導した集団(複数の場合あり)は、強制解散及び資産没収並びに再建禁止の処分に付する。
 なお、対象となる集団が軍その他の公的機関である場合も例外ではなく、当該公的機関は解散等の処分に付されるが、公的機関の場合は、然る後に、全く別の構制で再編・再建されることは認められる。

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犯則と処遇(連載第30回)

2019-02-08 | 犯則と処遇

24 思想暴力犯について

 特定の思想・信条を持つこと、あるいはそうした思想・信条に基づいて表現活動をすることを犯罪とみなすことはしないという原則は民主主義の鉄則として承認されつつあるが、国家権力は非寛容さを本質とするため、この鉄則が完全に守られている国は稀少であり、世界で多数の「良心の囚人」がなお獄中にある。

 「良心の囚人」を輩出しないための究極的な策は国家権力の廃止と国家権力によらない社会運営の仕組みを構築することにあるといって差し支えないが、たとえ国家権力を廃止したとしても、「犯罪→刑罰」体系が残される限り、犯罪的と指弾されるような思想・信条の持主を何らかの刑罰規定に仮託する形で「良心の囚人」に仕立てることはできるかもしれない。
 これに対して、「犯則→処遇」体系によれば、単に特定の思想・信条に基づいて何らかの平穏な表現活動をしたというだけで矯正や更生のための処遇を必要とするということは想定できないから、いっそうクリアに「良心の囚人」は否認されるのである。

 一方、近年は特定の思想・信条を実践するために暴力行為に出て積極的に社会不安を作り出すことを「テロリズム」と名指して、厳格な取締り対象にしようとする政策も世界的に共有されるようになっている。
 たしかに「テロリズム」の実践者である「テロリスト」は、何らかの暴力行為に関与する以上、平和的な「良心の囚人」とは異なる。そうだとしても、「テロリズム」とは本質上法的に定義不能な概念である。諸国では相当に苦心して「テロリズム」の法的定義を試みている例もあるが、完全に成功しているものはない。

 「テロリズム」という概念はしょせん政治的な名辞であって、特定の犯罪事象を「テロリズム」と名指すこと自体が一つの政治的な行為なのである。
 ちなみに、近年は「サイバーテロリズム」のように、インターネットを通じて電子的攻撃を仕掛けるような行為まで「テロリズム」と名指すことが一般化しているが、このような概念の拡張は語源的にテラー(terror:恐怖)に由来するテロリズム(terrorism)の語義からもはみ出す政治的な拡大解釈である。

 このように論ずることは、一般に「テロリズム」と名指される事象を放置すべきことを意味するのでないことはもちろんである。一定の社会とその機構を破壊することを目的とするような暴力行為は、破壊活動として取り締まりの対象とされる。
 この種事犯の多くは組織的に実行されるが、社会秩序全般を破壊するという点では、通常の組織犯とは異なる対策が必要となり、特別法としての破壊活動取締法が必要となる。

 破壊活動取締法では、特に破壊活動を計画・実行する組織の活動規制に重点が置かれ、司法的な手続きを経ての強制解散や資産没収、再結成の禁止などの措置が盛り込まれる。さらには、破壊活動団体の監視や情報取集などの未然防止策も必要である。
 こうした措置は、思想・信条の自由、さらには結社の自由を侵害する恐れと隣り合わせであるので、司法手続きは特に公正に実施されなければならない。

 破壊活動に限らず、およそ何らかの思想・信条に基づき暴力行為に出る者を「思想暴力犯」と呼ぶことができるが、こうした思想暴力犯の処遇に関しては、その犯行動機に何らかの政治的または宗教的な信念が直接に関わっていることから、微妙な留意点がある。
 それは、対象者にいわゆる「転向」や「改宗」を強制ないし誘導するような処遇は許されないということである。そのため、思想暴力犯に対する矯正処遇に当たっては、対象者の思想・信条の内容と手段として選択された犯則行為とを切り離し、手段として選択された犯則行為に焦点を当てた処遇を課さなければならない。

 そうすると、結果として、その処遇内容は一般的な暴力犯に対する処遇と重なり合ううところが多いだろう。ただし、思想暴力犯は反社会性向は認められても、病理性は認められない者がほとんどであるから、第三種矯正処遇に付すべき場合はほぼないと考えられる。

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