ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第23回)

2019-03-30 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(2)地方自治が深化する

◇基軸としてのコミューン自治
 英語で共産主義を意味するコミュニズム(communism)という語は同時に比較的小さな地方自治体を意味するコミューン(commune)にも語源的に通ずるように、共産主義は本質的に地方自治を内包している。ここに国家の揚棄のもう一つの意義として、地方自治という古くて新しい問題が改めて浮上する。
 共産主義とは、政治的に見ればコミューンを基軸とする政治である。市町村のような基礎自治体に相当するコミューンは、共産主義の地方自治の基本的な最小単位である。
 実は、資本主義ブルジョア国家においてさえ、コミューン自治は地方自治の柱であるが、現代ブルジョワ国家では集権制がはびこっている。このブルジョワ的集権制は中央集権国家だけでなく、連邦を構成する州が重要な権力を保持している連邦州でもコミューン自治を脅かしているのである。

◇三層の地方自治
 共産主義における地方自治制度のあり方に絶対的な公式があるわけではないが、さしあたり三層ないし四層の地方自治を想定することができる。
 まず「基礎自治体」が基軸となることはすでに述べた。共産主義における基礎自治体はその基軸的地位にふさわしく、住宅をはじめとする日常的な暮らしに関わる生活関連行政全般と住民登録・身分証明など身分関係行政を幅広く管轄する。
 なお、共産主義社会の基礎自治体には人口規模に応じた階層的な種別は原則として存在せず、市/町/村等々名称のいかんを問わずすべて同格である。(※)
 しかし、基礎自治体が地域医療や義務教育といった普遍性の高い行政まで担うのは過重負担となるので、基礎自治体より一回り大きく、それらの分野を担える中間自治体として「地域圏」(郡)を設定する。
 一方で、基礎自治体が担うには細目的すぎる身近な民生行政(例えば放置自転車問題など)の最前線として、基礎自治体の内部に任意の最小自治単位として「街区」を設置することができるものとする。これを通じて新たな地域コミュニティーの形成を促すことも可能となろう。
 他方、広域自治体は集権化することのないよう、その任務は秩序維持や消防・災害救難、道路・河川管理のようなメンテナンス行政、また地域圏ではまかない切れない高度医療などに限定される。そのようなものとしての広域自治体を「地方圏」(道)と呼ぶ。
 ただし、地方圏よりもさらに高度な自治権(自主権)を保持する「準領域圏」―小さな領域圏に近い―によって構成される連合領域圏―その対語は統合領域圏―、あるいは領域圏の一部地域に準領域圏の地位を与える複合領域圏というバージョンも認められる。
 なお、最終章で詳しく述べるが、地方圏または準領域圏は世界共同体の超域的区分である汎域圏の民衆会議代議員選出区としても使われるブロックとなる。
 以上のように、基礎自治体―地域圏―地方圏または準領域圏の三層の各自治体は相互に対等な水平関係に立ちつつ(ただし、街区は基礎自治体の下位にある)、有機的に機能しながら共産主義的自治を展開していくのである。
 このうち街区を除く三層のレベルには、領域圏と同様にそれぞれローカルな民衆会議が設置される。これにより、地方のレベルでも役場や県庁といった一種の「政府」機構は廃止され、それらは各圏域の民衆会議に直属する純粋な住民サービス機関や地方的な政策調査機関に転換される。
 なお、街区については民衆会議でなく、免許制によらず単純にくじで選ばれた地元住民代表から成る「街区協議会」のような簡易な代議組織が設置されれば足りるであろう。

※基礎自治体の名称を日本の現行制度のように市/町/村と複数使い分けることはあってよいが、それらもすべて同格である。一方、特に人口の多いいくつかの大都市を地域圏と同格の特別都市としてくくり出すこともあってよいが、大都市を基盤とする資本主義的商業活動が廃されれば、特定都市への人口集中を解消する方向へ人口動態が変革され、大都市の数は減少すると考えられる。

◇枠組み法と共通法
 ブルジョワ国家における中央と地方の関係は、米国のように純度の高い連邦国家にあっても本質的には上下関係で規律されている。しかし、それでは地方自治を叫んだところでほとんど空文句に終わる。
 これに対して、共産主義社会における中央と地方の関係は完全な対等関係である。中央の領域圏と地方の各自治体の間には明確な役割と任務の分配がなされるからである。従って、「中央」という用語は原則として使用すべきでなく、厳密には「全土」と呼ぶべきものである。
 具体的に言えば、街区を除く各圏域の自治体は、領域圏憲章の範囲内で、独自の憲法に相当する憲章を制定すること―例えば「A道憲章」、「B郡憲章」、「C市憲章」のように―ができ、かつ各々の権限に属する事務について中央の領域圏と同様に固有の「法律」―「条例」のような劣位的法規範ではない―を制定することができる。
 とはいえ、全土的な問題は領域圏の法律をもって規律される。しかし、その場合も領域圏法が当然に優越するのではなく、地方自治を尊重しつつ全土的な制度の標準的な枠を定める「枠組み法」を基本としながら、全土統一的な共通制度を施行すべき分野については「共通法」で規律するという方式が採用される。
 このうち「枠組み法」で定められる枠組みとは、領域圏内どの自治体でも標準的に備わっているべき制度の基準である。従って各自治体はその基準を順守しなければならない一方、基準の範囲内で、または基準を超えて地方的実情に応じた独自の施策を導入することができる。
 それに対して、「共通法」にあってはそこに盛られた内容は領域圏内の全自治体が順守しなければならず、自治体独自の修正も許されない強行法的性格のものである。
 いかなる分野を枠組み法と共通法のいずれで規律するかは個別具体的に検討しなければならない問題であるが、代表的なものを挙げれば、基礎自治体の担う保育や介護、地域圏の担う地域医療などは枠組み法によるべき分野である。こうした厚生分野ではどの自治体でも等しく提供すべき標準サービスが定められるべき一方で、実情に応じ自治体独自のサービスも認められるべきだからである。
 それに対し、地球環境問題のように世界共同体が制定する法律(世界法)に基づいて授権される分野は共通法(環境法典)によらなければならない。また、市民法や犯則法のような社会秩序に関わる基本法典も、一般に統一的な共通法によるべき分野であるが、上記の連合領域圏ではこの限りでない。

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共産論(連載第22回)

2019-03-29 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(1)国家の廃止は可能だ(続)

◇民衆会議体制
 
我々が賃奴として搾取されつつやっと獲得した賃金―そこからさらに消費搾取もされて―から税金を収奪し、そのうえにその税金を使って我々を戦争にも使役しようとする国家。そんな怪物は今すぐ退治すべきだという気になるかもしれない。しかし、簡単ではない。
 この点に関しては、マルクスとエンゲルス、そして彼ら以後の自称コミュニストらも、評判の芳しくないアナーキストと混同されることを恐れてか国家の廃止を明言せず、「国家の死滅」といったあいまいなテーゼでお茶を濁すのが通例であった。
 しかし、国家は生き物ではないから待っていればそのうちに衰えて「死滅」してくれるというわけにはいかない。国家を廃止するためには国家という観念そのものを手放し、国家によらない新たな社会運営の仕組みを具体的に提示しなければならない。では実際、国家の廃止はいかにして可能であろうか。
 直入に結論から言えば、真に民衆を代表する機関―これが第2章で土地問題に関連して言及された「民衆会議」である―を創設し、この機関を唯一の施政機関として位置づけることである。
 この民衆会議は議会制度とも政党組織とも異なる、代議的な構制の社会運営団体であって、特筆すべきは、後で詳しく述べるように、そのメンバーたる代議員が試験制による公式免許(代議員免許)を持つ市民の中から―投票でなく―くじ引きで抽選されることである。しかも民衆会議は「政府」ではないから、租税やそれに類する課役を強制するようなこともない。
 この共産主義独自の社会運営団体は議会・政府・裁判所という教科書でおなじみの古典的な三権分立体制も採らない。
 古典的な理解によれば三権分立は独裁防止のための権力分散システムとされるが、その実態は三頭竜のような怪物的権力体である。しかし、権力は単頭竜で十分である。従って、セクショナリズムによってヤマタノオロチのようになり果てた政府機構も全廃され、今日の中央省庁に相当する機関はすべて民衆会議に直属する一種の政策シンクタンクに転換される。
 もっとも、このような施政機関が存在するなら、なおそれは国家類似の権力体なのではないかとの反問が出るかもしれない。
 たしかに、コミュニズムは全きアナーキズムとは明確な一線を画している。およそ人間社会を維持していくうえで、強制力を備えた法という社会規範と法に基づく施政権力まで否認することはできないからである。その意味で、国家‐権力は廃止されても法‐権力までが廃止されるわけではない。
 ただし、共産主義的な法‐権力は国家という権力体を通じて上から「発動」されるのではなく、民衆会議という代議機関を通じて下から「活用」されるのである。国家の廃止の意義はこの点にある。
 伝統的な国家論においても、“国民主権”とか“人民主権”といった民主主義の理論が盛んに唱えられてきたが、それらがほとんど空理空論に終わってきたのも、国家なるものを前提とする限り、主権は国民でも人民でもなく、当の国家自体―要するに国家を掌握する政治家・官僚・軍人―に掌握されることを免れないからである。
 その点、共産主義における政治の第一原理は民衆こそ社会の主役!という「民衆主権」にあると言ってよいが、これをまたしても空論に終わらせないためにも、民衆会議を通じた国家なき社会運営の仕組みを確立しなければならないのである。

◇主権国家の揚棄
 国家の廃止はしかし、単に民衆会議の創設をもって完了するのではない。対外的な関係でも主権国家が揚棄されていかねばならない。否、むしろ、それこそが理論的には先行すべきことなのであるが、行論上、この問題の詳細は最終章で扱われるため、ここでは必要な限度で先取りしておく。
 主権国家の揚棄とは、諸民族が主権国家の檻から解放されて地球全域を束ねる「世界共同体」に包摂されていくことを意味する。ここに世界共同体とは、「地球の憲法」とも言える世界共同体憲章によって締約されたトランスナショナルな施政機構である。
 この新たな世界システムの下では、民衆は世界共同体に包摂されつつも、相対的な自主権を保持し、世界共同体憲章の範囲内で独自の憲章(憲法)によって規約された「領域圏」という単位に属するが、領域圏の保持する自主権は国家主権とは異なり、その優越性を他の領域圏はもちろんのこと、世界共同体に対しても主張することができないのである。
 従って、ここで言う「領域」は「領土」とは似て非なるものであって、領域圏の住民総体が領域圏の民衆会議を通じて自主的な施政権を行使し得る単位であり、その究極的な管轄権はあくまでも世界共同体に帰属する。
 この世界共同体(世共)は今日の国際連合(国連)のまとまりをいっそう深化させたものと考えればわかりやすいが、国連のような単なる主権国家の連合体を超えた単一の共和的な地球的施政機構としての地位を持ち、最終的に完成された段階においては、地球全域での計画経済を担うことを予定している。
 ちなみに、世界共同体は従前から提唱されている「世界連邦」とも全く異なる。「連邦」というと一個の「国家」(連邦国家)とみなされることになり、「連邦政府」(世界連邦政府)も創設されることになるであろうが、世界共同体はいかなる意味でも「国家」を認めないから、「世界連邦」とは明確に区別すべきものである。
 むしろ世共の運営―とりわけ経済協調―を今日の国連よりも分権的かつ民主的に行うために、世界を数個の連環的大地域―これを「汎域圏」と呼ぶ―に区分し、この汎域圏にも固有の民衆会議が設置されるのである。
 ともあれ、このようにして現存主権国家間の利害対立関係を世界共同体へと止揚していくことが、国家の廃止の真義である。

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共産論(連載第21回)

2019-03-28 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政


共産主義社会では我々にとってなじみの深い国家も廃される。それはなぜなのか、また国家なき社会はどのように運営されていくのか。


(1)国家の廃止は可能だ

◇エンゲルスの嘆き
 共産主義社会とは社会的協力=助け合いの社会であるから、我々の上にそびえ立って我々を国民として支配し、かつ保護すると称する国家なる権力体も廃止される。
 もう少し理屈に立ち入ると、前章までに論じた貨幣経済の廃止とは、国家の視座から見れば国家が自国領土内で通用させる公式貨幣(通貨)を鋳造・発行する独占的な権力としての通貨高権が否認されることを意味している。この通貨高権は国家主権の中では政治的な領土高権と並ぶ最重要の経済的権力であり、その否認はほぼ国家の廃止と同義となる。
 もっとも、観念上は「通貨高権を持たない国家」を想定し得ないわけではない。しかしそれはまさに観念であり、たとえて言えば電池の入っていない携帯電話のようなものである。
 それはともかく、現実問題として国家を廃止することなどできるのだろうかといぶかられるかもしれない。その点、マルクスの共同研究者エンゲルスも、人々が社会の共同事務や利害は国家とその官僚なしには管理できないと子供の頃から信じ込まされていることを嘆いていた。
 こうした「国家信奉」は、マルクスとエンゲルスの時代にようやく西欧で形成され始めた国民国家がグローバルに普及した今日、ますます強まり、国家というものは本質的に良性の制度で、我々はいずれかの国家に属する民=国民となって初めて幸せになれるのだというような確信が大衆の間にも広く深く浸透しているものと思われる。
 しかし、国民国家の下における国民とはそんなに幸せいっぱいの存在なのであろうか。以下では「国民」の実態についてもう少しリアルな目でとらえてみよう。なお、ここでは特定の現存国家を想定するのではなく、モデル化された一般的な国家制度を前提とする。

◇「税奴」としての国民
 今日の国民国家は資本主義と固く結び合い、言わば資本主義の政治的保証人の役割を果たしている。その国民国家とはいかなるものか。
 それは領土と呼ばれる領域の住民から租税―今日ではほぼ貨幣による税金―を徴収する権力体のことである。従って、「国民国家」と言いながら実際には国内在住外国人からも税金を徴収する。その一方で、外国人は国民ではないという理屈から外国人には選挙権を保障しないのが一般である。取るものは取るが与えるものは与えない―。「代表なくして課税なし」は外国人に関する限り全くの空文句なのだ。(※)
 では、税を徴収される代わりに有り難くも政治的代表者を選出する選挙権なるものを与えられるようになった国民―普通選挙制度の歴史は決して古くないとはいえ―は、果たして税金の使い方を決定する可能性を万全に与えられているであろうか。
 そもそも税金は使途限定のひも付き献金ではないからして、ひとたび徴収してしまえば国家側がそれをどう支出しようと勝手である。不正な目的に費消されることすらある。そうした“不祥事”が運悪く発覚しても関係者が厳罰に処されるようなことはほとんどない。「選挙権の行使を通じて税金の使途をチェックする」など虚しい空文句にすぎないことは、冷めた有権者ならば認識されているであろう。
 にもかかわらず、国民国家は国民を国籍という法的枠組みにくくりつけつつ、国境と呼ばれる有形無形の有刺鉄線の内側に閉じ込めている。国民国家とはその大小のいかんにかかわらず巨大な人間の檻のようなものである。それも、国家が国民を累代にわたり国家にくくりつけておいて収奪の対象とするための安定的な仕掛けなのである。
 こうまで断じれば、国民国家の側からは「国民国家こそ民に国籍を与えて国境の内側で保護してやっているではないか」と反駁されるかもしれない。しかし、日頃「国民保護」を口にする国家は、とりわけ国家存亡の危機になれば、あっさり国民を見捨てる。そうした例は大小無数にあるが、身近なところでは大災害に際しての被災者放置は内外でよく見られるし、戦争―とりわけ敗戦―に際しての棄民も珍しいことではない。
 国民国家はなぜ必要とあらば国民を見捨てるのか。答えは簡単で、国家とは国民の保護機関などではなく、しょせん税金に寄生する役人と政治家、そしてかれらの最大の顧客である資本家との利害共同体であり、とりわけ発達した資本主義国家とは「全ブルジョワ階級の共同事務を司る委員会」(マルクス)にほかならないからである。
 国家における国民とは、ひとことで言えば「税奴」であり、この意味においてもかれらはプロレタリアートなのである。前章でも述べたことだが、今日のプロレタリアートの多くは賃労働者、すなわち賃奴(元賃奴の年金生活者を含む)であるから、ここに「賃奴≒税奴」という公式が成り立つことになる。

※現実には無税国家も存在し、または存在した。しかし、それは君主のような為政者によって私物化され、その私有財産によって運営される前近代的私領国家であるか、または国家が総資本家として生産・流通活動を包括的に掌握する集産主義体制であるかのいずれかである。いずれにしても、現代の国家としては異例にすぎない。

◇「兵奴」としての国民
 国民を収奪する国民国家はまた、ほぼイコール主権国家でもある。その主権国家とはいかなるものか。
 それは排他的な領土を持ち、領土そのものまたはそれに絡む経済的権益をめぐって互いに抗争し合う国家のことである。国家間抗争の究極が戦争であるから、主権国家とは戦争国家でもある。領土と主権とは一体となって戦争の掛け金となる政治的‐法的観念である。
 主権国家体制の確立に伴って、国籍と国境という概念の拘束性も強まったため、国民は国外へ一歩踏み出すにも国家の法的許可を要するようになり、国民はますます国家という檻に厳重に閉じ込められるようになった。このことにより、各国の国民たちはお互いに知り合うことが困難となり、むしろ「国益」なる大義名分のために敵対させられるようにさえなった。それは国民国家間の戦争を容易にする。
 戦争となれば、国民は国家によって兵士として動員され戦闘に従事させられる。兵士とならない国民も「銃後」で戦争に協力しなければならない。こうしたいわゆる総力戦は国民国家の下で初めて可能となった。20世紀前半の二つの大戦はその大きな“成果”である。
 総力戦に際して、国民は言わば奴隷ならずとも「兵奴」―末端兵士の地位には奴隷的束縛性が見られるが―として国家に使役される。しかも戦争の道具としての軍隊や兵器に投じられる軍事費の原資はほぼ税金であるから、税奴即兵奴であることには内的必然性がある。国民は、自ら拠出させられた税金によって戦争にも使役されることになる。(※)
 こうした兵奴化は、兵士の動員方法が徴兵制か志願兵制かにはかかわらない。志願兵制の下でも最も危険な前線に配置される末端兵士はほぼ例外なく労働者階級出身の青年たちであり、志願兵制が一種の失業対策事業の役割さえも果たしている。一方で厳重に警護された国家支配層の高官や将軍たちは戦争になってもかすり傷一つ負わず、戦況をテレビ観戦していればよいのである。
 これが“総力戦”の厳粛なる真実である。ただ、人類社会は総力戦と美化するにはあまりにも悲惨な犠牲をもたらした20世紀前半の二つの大戦にいくらかは懲りて、20世紀後半以降は総力戦に該当するような大戦はこれまでのところ引き起こしていない。
 しかし、国民国家=主権国家体制が維持される限り、いかに平和が装われても、しょせんそれは戦争状態の一時停止が続いているだけのことであり、世界から戦争の火種となる紛争は決してなくならず、局地的な戦争であればいつでもどこでも起こり得るし、実際に起きている。
 しかも、最終章で論じるように、戦争は軍需産業にとっての大きなビジネスチャンスでもある。そのために、かれらは政界に多額の献金をしてかれらの最大の顧客である主権国家を懸命に支え、時々戦争を発動してもらう必要があるのである。

※現実には軍隊を保有しない国も存在する。しかし、それらの国はほぼ例外なく財政的に軍隊を常備しにくい小国であり、代替的に大国に防衛を委託している。ちなみに、日本は憲法上は軍隊を保有しないと宣言されているが、実態として事実上の国防軍を保持していることは国際的に周知の事実である。

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共産教育論(連載第44回)

2019-03-26 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系

(2)スポーツクラブ  
 既存の学校制度においては、課外活動として各種のスポーツクラブ活動が展開されることが多い。このような学校スポーツ活動の存在とその比重は諸国によって様々であるが、資本主義社会は多くの営利的競技団を擁しながら、運営にコストのかかるスポーツ選手の育成の多くを学校スポーツ活動に負わせようとする傾向が見られる。結果として、スポーツの価値が学校教育で過大評価されがちである。  
 しかし、原則的に通信制で提供される共産主義社会の基礎教育課程には課外活動としてのスポーツクラブ活動も存在しない。基礎教育課程の必修科目である健康体育も、その項で述べたとおり、健康の維持増進を目的とした運動に焦点を当てたもので、個別の競技は扱わないのであった。  
 共産主義社会において個別の競技の技能を修得する競技体育に相当するものは、全面的に個人の関心と適性に基づき、純粋に課外教育体系に委ねられることになる。その点では、次項で見る私的学習組織と同様の扱いとなるが、純然たる趣味の習い事とは異なり、職業的なスポーツ選手の育成に関しては、相応の育成課程が用意されるであろう。
 その代表的なものとして、各種の職業競技団が直営する選手育成プログラムが想定される。これは競技団直営のスポーツクラブのようなもので、こうしたクラブの設立・運営に関しては特段の規制もない一方、それらは正規の教育機関として認可されるものでもなく、完全に私塾的な扱いとなる。  
 またアマチュアの各種競技団体が、アマチュア選手の育成プログラムを擁し、直営のスポーツクラブを設立・運営することも自由であるが、それらももちろん正規の教育機関とは別立てである。  
 このような運動系スポーツクラブ活動の他にも、将棋・囲碁・チェスなどのボードゲームやコンピューター・ゲームのような知的競技の選手を育成するクラブの設立さえも盛行するであろうが、いずれにしても、これらは私的な課外教育体系の一環であるから、基礎教育課程の施行や前回見た地域少年団活動の実施に抵触しない範囲内で、個人によって補充的に行なわれるものであることが留意される。

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共産教育論(連載第43回)

2019-03-26 | 〆共産教育論

Ⅷ 課外教育体系

(1)地域少年団活動
 共産教育はその多くを公教育が占めているが、公教育を含めた法令に基づく正規の教育体系に含まれない教育をここでは広く課外教育体系と呼ぶことにする。従って、課外教育体系は公的な課外教育と純粋に私的な課外教育の両方にまたがることになる。
 そのうち公的な課外教育の中心となるのは、地域少年団活動である。すでに述べたように、義務教育に相当する13か年の基礎教育課程は原則的に通信制によって実施され、校舎を持った学校で子どもが集団生活を強いられることはない。
 その点で、基礎教育課程は相当に個別教育化される。これは共産主義社会の市民として共有すべき基礎的素養を身につける点では効果的であるが、反面として、基礎教育課程は社会性を備えた人間の育成には限界がある。そこでよりインフォーマルな教育として地域をベースとした「地域少年団」が導入される。
 具体的には最も重要な社会性育成期の満7歳から15歳までの子どもたちを対象に、地域で年齢混合・男女混合の少年団を編成し、訓練を受けた指導員の下、週末や祝日を利用して、月2回の割合で行う野外活動である(夏季休暇には宿泊を伴う活動もある)。
 その目的は、社会性の本格的な発達が促進されるべき年代の子どもたちを対象に、基礎教育課程では限界のある社会性教育を施すところにあるからして、該当年齢の子どもたちは、医学的な理由から参加が困難な場合を除き、全員参加を義務付けられる。
 医学的に参加可能な条件を満たす限り、障碍児も参加するため、その限りでは反差別教育の一環としての交流学習の意義も持つ。同時に、活動内容は教科学習やスポーツのような技芸でもなく、自然観察などを通じて自然環境の中で自由に遊ぶ形式で、インフォーマルながら環境教育を兼ねたものとなる。
 その実施主体は、中間自治体としての地域圏のレベルで担われる基礎教育課程とは異なり、市町村である。市町村では地区ごとに少年団を編成し、指導員を養成・配置する。少年団指導員は適性審査に合格し、全土一律の講習を修了した成人に限られる。

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共産論(連載第20回)

2019-03-22 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(5)「男女平等」は過去のスローガンとなる

◇男女格差の要因
 前回、家族の問題に言及したついでに、それと深く関連するいわゆるジェンダー問題にも触れておきたい。
 資本主義世界にほぼ共通する現象として、根強い男女間の賃金格差があることはよく知られている。理念としては「男女平等」が叫ばれる中で、それはなぜなのか。
 一つの伝統的な仮説として、家父長制的男性支配の残存を指摘するフェミニズムの理論がある。しかし、この見解は核家族化が進んだ資本主義諸国にはあてはまらなくなりつつある。核家族に「家父長」は存在しないからである。もっとも、資本企業のような生産組織内では依然として社長=家父長制のようなものが残存している可能性は排除できない。
 だがそれ以上に、資本主義が婚姻家族に労働力再生産機能を期待している限り、女=妻は“産む機械”であらねばならず、女は資本企業で男と「平等」に働くよりも、家庭に入り母として次世代労働力の生産(出産・育児)に専念することが依然として要請されているからであると説明する方が真相に近そうである。
 女性労働者は一部の例外者を除き、結婚または出産退職が予定された期間限定労働力であるか、もしくは主婦の副業たるパート労働力としての処遇となるため、男女間の賃金格差も縮小しないわけである。
 今日の“洗練された”資本主義は「男女平等」を観念としては受け入れているはずであるのに、現実には男性支配が固守されているのも、こうした資本の論理のなせるわざであると考えられる。

◇共産主義とジェンダー
 これに対して、共産主義社会では賃労働制が廃止されるから男女間の賃金格差という「問題」自体があり得ないということは別としても、共産主義はもはや婚姻家族というものに期待を寄せないのだから、女に“産む機械”としての役割を期待することもない。子を持つかどうかは、配偶者間もしくはパートナー間の人生設計上の問題であるにすぎない。
 特に公証パートナーシップの関係にあっては、夫/妻というような役割規定性さえも消失し、生計を共にする伴侶同士というだけの関係であるから、夫と子に奉仕する「専業主婦」も存在しない。従って、例えば男性パートナーMが午前中に4時間働きに出て、彼が帰宅した後、今度は女性パートナーFが午後から4時間働きに出るといった生活パターンも例外ではなくなるであろう。この場合、MとFの間に未成年子Cがいれば、MとFが交代で育児をすることもできるであろう。
 共産主義社会では、「男女平等」といったスローガンも、まだそれが虚しいうたい文句にすぎなかった時代の古典として懐古されるであろう。しかし、懐疑的なフェミニストであればこう問うかもしれない。共産主義社会にあっても、企業や団体の幹部職は依然男性優位というような社会的地位の男女格差は残存するのではないか、と。
 たしかに、この問いに現時点で明確な回答を出すことはできない。それは、先にも示唆したように、現代資本主義社会の内部に残存しているかもしれない家父長制的遺風を共産主義が一掃できるかどうかにかかっていると言うほかない。
 ただ、資本主義世界の男性が狂奔してきた貨幣獲得‐利潤追求という大目標が完全に消失する共産主義社会にあっては、男性の意識の持ち方も変容し、企業活動とは別のところに自己の道を見出そうとする男性が増えるかもしれない。このような男性的価値観の転換は、社会的地位における男女格差を解消する可能性を促進すると考えられる。

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共産論(連載第19回)

2019-03-21 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(4)婚姻はパートナーシップに道を譲る

◇婚姻家族モデルの揺らぎ
 ここで労働に絡めて家族の問題を取り上げておきたい。庶民層の家族のありようは労働のありようとも密接に結びついているからである。
 例えば、封建的農奴制の時代、農奴の家族は農作業集団であったから、それは子沢山の大家族であるほうが都合がよかった。しかし、資本主義的賃奴制の下での家族は次世代労働力を生産する「工房」であると同時に、日常の消費単位でもある。そのため、家族はもはや大家族である必要はなく、小さな核家族で十分であり、むしろ消費搾取の標的としては核家族の方が資本にとっては都合がよいとも言える。
 しかし、核家族化は必然的に少子化につながり、次世代労働力の確保という総資本にとってのゴーイング・コンサーンが失われかねない矛盾も抱え込んだ。もっとも資本企業の側でも、電動機革命・電算機革命を経て、生産性の向上によってかつてほど大量の労働力を動員する必要がなくなったとはいえ、深刻な労働力不足は賃金水準の高騰を招き、資本企業の利潤率を押し下げ、ひいては長期の不況を引き起こす。そこで経済界としても「少子化対策」を政界に要望するところとなっている。
 ちなみにプロレタリアートとは語源的には「子孫を作って国家に奉仕する者」を意味していたが、資本主義社会のプロレタリアートはそれ以上に、「子孫を作って資本に奉仕する者」を意味している。
 しかしこの「少子化対策」は決して長期的な成功を収めることはないだろう。核家族化は、同時に自由婚の普及を伴っており、両親がセットする見合い婚のような風習をほぼ根絶させたため、「結婚しない男女」が増加し、非婚率が上昇しているにもかかわらず、資本主義は古い婚姻家族中心主義を本質的に乗り越えることができないからである。
 資本主義が婚姻家族中心主義に執着するのは、前近代的な封建制の名残というよりも―保守的風土の社会ではそうした要素も幾分かは認められようが―、資本主義社会において婚姻家族は最も安心できる次世代労働力再生産工房としての意義をなお維持しているためである。

◇公証パートナーシップ制度
 これに対して、共産主義社会では賃奴制が廃止されるから、もはや婚姻家族に労働力再生産機能を期待することはない。そこで、婚姻家族に代わって労働力の再生産を重要な目的としない公証パートナーシップ制度のような新しい共同生計モデルが登場してくるであろう。
 これは、伝統的な婚姻のように「重たい」関係ではなく、当面生活を共にしたい伴侶同士の公証された合意だけで成立する結合制度であって、通常の男女間のほか、婚姻配偶者に先立たれた高齢者同士、同性同士などでも使える汎用性の高いモデルである。
 こうした婚姻家族からパートナーシップへの転換は、欧米社会では資本主義の枠内で先取り的に近年相当進展してきているが、共産主義はその方向をいっそうプッシュするであろう。

◇人口問題の解
 脱婚姻家族化の方向性は、図らずもかえって少子化に歯止めをかける可能性すら秘めている。例えば、登録パートナー間に生まれた子も法的には嫡出の地位を与えられるから、婚姻せずに子を作りやすくなり、かえって子作りの可能性が広がるのである。
 それに加えて、商品‐貨幣交換が廃される共産主義社会では医療・教育も完全無償となるから、家計負担を考慮した子作り抑制という現象も消滅するであろう。
 その一方で、共産主義は深刻な食糧難の要因でもある人口爆発が生じている南の地域では逆に人口増に歯止めをかける可能性がある。商品‐貨幣交換が廃されることによって、一家の働き手を殖やすという構造的貧困ゆえの多産は消滅するだろうからである。
 もっとも、人口爆発には宗教上の理由からの避妊禁忌や一夫多妻風習などの習俗的要因も介在していると言われ、そうした要因が強い伝統地域では公証パートナーシップのような新しい共棲制度は容易に普及しにくいかもしれない。それでも、少なくとも経済的要因からの多産が抑制できれば大きな前進であろう。
 過剰な楽観は許されないとはいえ、共産主義は世界が当面する人口問題―北での人口減と南での人口増―の解となる可能性を秘めていると言える。

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犯則と処遇(連載第39回)

2019-03-19 | 犯則と処遇

33 被疑者聴取の法的統制

 「犯罪→刑罰」体系の下での被疑者取調べは、世界中で自白強要による冤罪の温床となってきた。かつては自白獲得のための拷問も公然と許されていたため、拷問で命を落とす被疑者も跡を絶たなかった。かの啓蒙的人道主義者ベッカリーアが『犯罪と刑罰』を世に問うた重要な動機の一つも、当時はヨーロッパでもまだ常識であった拷問の廃絶を訴えることにあったのだった。

 ベッカリーアの提唱はおよそ200年後、拷問等禁止条約としてようやく地球規模で実現したが、未批准の諸国も残され、拷問が地上から一掃されたとはとうてい言い難い状況にある。たとえ法文上拷問の禁止が定められてはいても、「犯罪→刑罰」体系の下での被疑者取調べは犯罪者を罰するという究極目的が優先するため、早くも捜査の段階から事実上の先行的な処罰である拷問への誘惑が、自白獲得の目的を伴いつつ、発現しやすいのである。

 これに対して、われわれの犯則捜査は、見込み捜査禁止(物証演繹捜査)、科学捜査優先、反面捜査義務という鉄則に導かれるため、被疑者取調べの目的は自白の獲得にあるのではなく、物証捜査や科学捜査の過程で生じた嫌疑に対する被疑者側の弁明を聴取すること、かつ犯人しか知り得ない重要情報を取得すること、さらに犯行を否認する場合は反面捜査を徹底して冤罪を防止することに重点が置かれる。

 こうした被疑者取調べの目的からすれば、そもそも「取調べ」というそれ自体に自白追求的なニュアンスを含む用語自体がふさわしくないと考えられるため、「被疑者聴取」と言い換えることが適切である。

 このような被疑者聴取は、第一段階では出頭令状なしの任意で行なわれることになる。この場合、被疑者は聴取に応じるかどうか自己決定することができ、かつ任意の時間に退席することができる。その反面、ひとたび被疑者が任意の聴取に応じた限り、黙秘権は保障されず、黙秘することは捜査妨害に問われることになる。

 被疑者が非協力的であるなどして、任意の聴取では捜査の目的を十分に達成できないと判断される場合は、出頭令状により被疑者を召喚して聴取することになる。この場合、被疑者は聴取を受ける義務を生じる反面、黙秘権が保障され、質問に対して完全に沈黙することが認められる。
 出頭令状に基づく聴取は義務的であるとはいえ、身柄拘束そのものではなく、一日の聴取が終了すれば被疑者は任意の場所に帰所することができる。
 なお、重要情報保持者の聴取は、出頭令状に基づく場合でも、任意の被疑者聴取に準じて行なわれるので、出頭は義務的であるが、いつでも退席することができる。

 被疑者が正式に勾留された場合、出頭令状は失効し、勾留状が出頭令状と同等の効力を持つ。この場合の聴取は出頭令状に基づく聴取に準じるが、被疑者は聴取を終えても任意の場所に帰所することはできず、拘置所または留置場から身柄を出し入れすることになる。
 なお、仮留置中の聴取は許されないから、捜査機関が仮留置した被疑者を聴取するには、勾留を請求する必要がある。

 任意の聴取であれ、令状に基づく聴取であれ、被疑者は常に第三者を聴取に同席させることができるが、捜査機関はその第三者が聴取の目的を妨げるおそれのあるときは、理由を示して同席を禁止することができる。その点、たとえ法律家のような専門職であっても、例えばその者が被疑者の所属する違法組織と関わりの深い人物であれば、同席を禁止することができることになる。
 ただし、聴取を受ける被疑者が未成年者や70歳以上の高齢者、または成人の障碍者である場合は保護者(親権者や後見人、成人の親族)や適切な介助者・補助者の同席を義務づける。その同席なしに行なわれた聴取で得られた供述は証拠として一切用いることができない。

 任意の聴取の場合、被疑者はいつでも聴取を打ち切ることができるが、出頭令状や勾留状による場合でも、聴取には時間的な制約がある。この時間的制約は令状で個別的に指定するのではなく、具体的な時間数をもって法律で明示される。
 その場合も、連続的な長時間に及ぶ聴取は、たとえそれが表面上穏やかに行なわれていても、疲労により心理的な拷問に等しい効果を持つことから、例えば、一日の聴取につき、原則として1時間ごとに15分の休息をはさみ、通算で3時間に制限するといった上限設定、さらに就寝時間帯に当たる深夜・早朝の聴取の絶対的禁止が必要である。なお、休息は、被疑者が求めた場合は、いつでも認めなければならない。

 任意であれ、令状に基づくものであれ、被疑者聴取の全過程はすべて録音または録画しなければならない。録音や録画は聴取の全過程に及ばなくてはならず、供述部分のみを録音・録画した編集テープは証拠として認められない。
 聴取を受ける被疑者が未成年者や70歳以上の高齢者、または成人の障碍者である場合は、聴取の全過程を録画しなければならない。録画は供述する被疑者を正面から撮影するものとし、横や上からの撮影は認められない(従って、この場合、聴取担当者は被疑者の横から質問することになる)。
 なお、上記以外の被疑者であっても、捜査機関が必要と認める場合は、聴取の全過程を録画することができる。
 一方で、聴取担当者が被疑者の供述内容を書面にまとめる必要はなく、そうした供述調書は作成したとしても証拠価値を持たず、単に捜査上のメモにとどまる。

 捜査機関が如上の聴取の法的統制を逸脱し、不法・不当な聴取に及んだ場合、被疑者側はいつでも人身保護監に対して不服審査を申し立てることができる。申立て受けた人身保護監は事実関係を調査したうえ、申立てに理由ありと認めるときは捜査機関に対して改善を命ずる。この改善命令には、不法・不当な聴取をした捜査員を聴取任務から外すことを含む。

 それでも改善が見られない場合は、人身保護監は聴取そのものの中止を命じることができる。
 また、聴取中の拷問、あるいは拷問に近い捜査員による暴力行為その他の不法行為が認められた場合、人身保護監は関与した捜査員を裁判に付するかどうかを決定することができる。こうした特別な人権裁判制度については、改めて後述する。

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犯則と処遇(連載第38回)

2019-03-18 | 犯則と処遇

32 出頭令状について

 犯則捜査における見込み捜査禁止の鉄則とそこから導かれる物証演繹捜査、さらに科学捜査優先の鉄則からすれば、犯則捜査はまずもって物証の収集を先行させなければならない。とはいえ、収集した物証の意味を確認するためにも、関係者の供述を必要とすることはあり得るので、いずれは関係者の取調べに踏み切るべき場合がある。

 取調べの第一段階はまず任意出頭を求めて完全な任意で行なう取調べであり、可能な限りこの方法で捜査を完了させるべきであるが、対象者が非協力的な場合は一定の強制下に取り調べる必要がある。このような強制的取調べは、人身保護監の発する出頭令状に基づいて行なわなければならない。
 出頭令状には、その対象者別に二種があり、一つはまさに犯則行為の嫌疑がかかっている被疑者向けの対被疑者出頭令状であり、今ひとつは被疑者ではないが捜査中の事案について重要な情報を保持していると見られる者向けの対重要情報保持者出頭令状である。

 この出頭令状が発付されると、対象者は正当な理由のない限り、令状記載の場所で捜査機関の取調べを受ける義務を生じる。しかし、出頭令状のみで身柄を完全に拘束されることはなく、取調べ後は任意の場所へ帰所することができる。ここまでは、上記二種の出頭令状に共通の効果である。
 しかし、正当な理由がないのに取調べを回避した場合の効果には相違点がある。すなわち、被疑者が正当な理由なく取調べを回避した場合は、次の段階として身柄拘束(後に述べる仮留置)の理由となるのに対し、重要情報保持者の場合は、身柄拘束の理由とはならない。ただし、たびたび正当な理由なく取調べを回避すれば、司法妨害による制裁を受ける。

 出頭令状は、被疑者が正式に身柄を拘束されれば、その時点で失効するが、そうではない場合は、捜査終了時まで有効であり、いずれの対象者も捜査機関の指定した日時に取調べを受ける義務を生じる。
 捜査が終了した時は、捜査機関はすみやかに出頭令状を人身保護監に返還しなければならない。その意味で、出頭令状は正式捜査の開始と終了を人身保護監及び対象者に対して告知する機能を果たすと言える。

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移民不要社会への転換

2019-03-17 | 時評

15日にニュージーランドで発生したモスクでの銃乱射大量殺傷事件は、これまで平和な楽園的イメージでとらえられていた国での出来事だけに、世界に衝撃を与えている。もっとも、犯人はオーストラリア国籍者ということで、外部からの攻撃とみなすこともでき、今後の捜査の進展を見る必要はある。

とはいえ、全体に平和なイメージのオセアニアという大きなくくりで見れば、この圏域にもアジア・中東等からのイスラム教徒移民の増加が目立ってきているとともに、それに対する白人至上主義者らの反発も強まっていることが窺える。

移民は先史時代以来、人類が反復してきた営為であり、人類の歴史とは移民の歴史とも言えるわけだが、21世紀になって世界的な問題となってきている大量移民の波が20世紀以前の移民と異なるのは、貧困や迫害を理由とする以上に、豊かさを要因としているという逆説的な事実である。

実際、主要な移民送出国となっているアジア・アフリカ諸国にも、20世紀末以降、資本主義的市場経済の発達により、急成長している諸国が少なくない。それにもかかわらず、移民の波が絶えないのは、稼げない者は置き去りにする資本主義が本質的に持つ「置いてけ掘り経済」の性格により、経済発展から取り残された人々の移民志向が高まっているせいである。

つまり、本国で極貧・飢餓状態にあるわけではないが、十分な収入の得られる職に就けず、より良い機会を求めて先発資本主義諸国へ移住しようとする人々の波である。

本来、人間は自身が生まれ育った場所で充足して生きていけるならば、そこから海を越えてまで移住しようとは欲しない。郷里で充足できないから、移民志向が生じる。裏を返せば、充足して生きられる社会は、移民不要社会である。隣国同士がすぐ見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が互いに聞こえるようであっても、民衆は老いて死ぬまで、互いに往来することもないという『老子』の「小国寡民」は、移民不要社会の文学的理想郷である。

そのような移民不要社会への現実的な転換は、「途上国援助」ではなくして、そもそも資本主義の揚棄を通じて、環境的な持続可能性をも考慮した共産主義計画経済を実現することによってしか成し得ないだろう。

しかし、それは一朝一夕に達成できることではないとすれば、それまでの間の暫定施策として何ができるかを考究することも必要である。

その際、伝統的な「難民」の概念を離れ、移民を「機会移民」と「避難移民」の二種に分けることである。機会移民とはまさにチャンスを求めて移住してくる人々であるが、このような移民は移民受入国側の雇用政策・人口政策上調整が必要であるので、無限に受け入れることはできず、政策的な枠を設け、家族呼び寄せも制限する。

それに対して、避難移民は故国での何らかの危難を逃れて移住してくる人々であり、優先的保護の必要性が高い移民である。このような移民は難民の厳密な要件に該当しなくとも、難民に準じた保護を与える必要があり、家族呼び寄せの権利も保障しなければならない。

こうした避難移民の受け入れが特定諸国の集中的負担とならないよう、避難移民保護条約のような国際条約を制定して、受け入れ余力のある世界各国がそれぞれ応分に受け入れの義務を負うような国際施策を実行すべきである。

しかし、繰り返せば、このような施策はあくまでも暫定的なものにとどまるのであり、究極的には移民不要社会への転換を目指すべきことに変わりない。それが大量殺傷事件のような悲劇と、このような悲劇を餌に台頭してくるファシズムとを根本から撲滅する策である。

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犯則と処遇(連載第37回)

2019-03-16 | 犯則と処遇

31 監視的捜査について

 監視的捜査とは、通信傍受や監視撮影、GPS追跡のように、秘密裏に被疑者の私的領域に干渉しつつ、その動静を監視し、捜査上必要な情報を取得する捜査手法の総称である。このような隠密的捜査手法は、被疑者聴取では否認や黙秘によって得られない深層情報を取得するためには有効な方法であるが、当然個人のプライバシーの侵害に及び、濫用の危険も高いため、相応の法的統制が要請されるところである。

 通信傍受は、被疑者の外部との通信・通話を直接に捕捉できることから、そこに犯行への関与を示す内容が含まれていれば自白に頼らなくとも犯行の立証が可能となるため、特に共犯・共謀関係が複雑な組織犯の捜査上有効性があることは否めない。

 通信傍受は、伝統的な電話の傍受のほか、近年は電子メールやチャット等のインターネットを経由する通信活動全般の傍受にまで拡大しているため、通信傍受の無制約な実施は通信の秘密に対する重大な脅威となることから、厳格な法的統制の下に置かれなければならない。    
 具体的には、犯行のために使用される蓋然性の高い通信・通話媒体を特定し、かつ傍受の期間も限定―更新は認められる―しなければならない。    
 こうした傍受の要件・方法等の事前判断は他の強制捜査手段とは異なり、単独ではなく、三人の人身保護監の合議により、令状をもって許可されるべきである。    
 さらに傍受終了後にあっても、不可避的に流入してくる犯行に関連しない私的な通信・通話の記録を消去するため、人身保護監の面前で、捜査責任者と傍受対象者またはその代理人の立会いの下での消去手続きを徹底する必要がある。

 監視撮影には、単純な写真撮影と監視カメラによる映像撮影の二種があるが、ある瞬間しか記録されることのない写真撮影に関しては、捜査機関の裁量で随時実施できるものとしてよいであろう。  
 それに対し、一定時間以上継続して対象者の動静が映像的に記録される監視カメラによる場合は考慮を要する。ここで監視カメラによる撮影とは、捜査機関が捜査のため監視カメラを特定の場所に仕掛ける方法による撮影であるが、このような撮影をするには、予め被疑事実と設置場所、設置目的について人身保護監による審査を受け、令状による許可を得なければならない。  

 ちなみに、捜査機関以外の個人または団体等が設置した監視カメラまたは防犯カメラで撮影することは、ここでいう監視撮影には当たらない。しかし、捜査機関がそうした私人の撮影した映像を証拠としてカメラ設置者から正式に取得するには、取得目的、取得する映像の性質や時間等について人身保護監の令状を要するものとすべきである。

 最後にGPSによる追跡は、対象者の現在位置を確認するにとどまり、その動静や通信内容を直接に捕捉するものではないから、監視的捜査の中では相対的にプライバシー侵害の危険が低いものである。
 とはいえ、対象者に知られずして追跡するためには、人身保護監の令状を要するとすべきである。なお、GPS追跡と通信傍受を組み合わせるような場合は、それぞれについて個別の令状を要する。

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共産論(連載第18回)

2019-03-16 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(3)純粋自発労働制は可能か

◇人類学的問い
 前節では労働の義務化を前提とする議論を展開したが、本来の共産主義的理想から言えば、労働は義務化せず、完全に自発的な無償労働のシステムを構築できればそれに越したことはない。
 果たして未来の発達した共産主義社会―資本主義を知らない世代が人口の大半を占めるに至った状況―では、そうした純粋自発労働制が確立されるであろうか。仮に完全無償の純粋自発労働制を地球規模で確立できれば、それは人類という種にとって新たな進化の段階を迎えたことを意味するのかもしれない。
 現時点での一般常識的な労働観によれば、人間は何らかのインセンティブもしくは制裁―生活できなくなるという事実上の制裁も含めて―なくしては労働しようとしないだろうと言われている。これに対して、精神分析学者エーリッヒ・フロムは物質的な刺激だけが労働に対する刺激なのではなく、自負、社会的に認められること、働くこと自体の喜びといった刺激もあることを明言し、人は仕事なしには狂ってしまうだろうと論じている。
 いったいどちらが真理なのであろうか。おそらく真理は両論の交差するあたりにあるに違いない。

◇3K労働の義務?
 フロムが指摘する自負、社会的認知、労働自体の喜びを確実にもたらしてくれるようないわゆる人気職種は、たとえ物質的な報酬なしでも余りある充足感を得られるため、純粋自発労働制の下でも相変わらず人気を保ち、人手不足の心配はまずないであろう。
 それに対して、一般に不人気ないわゆる3K職種はどうであろうか。こうした職種はやはり物質的な刺激、つまり報酬なくしては深刻な人手不足を引き起こすのであろうか。
 一つの仮説として、社会的認知度が低く、労働自体の喜びをもたらさないような仕事であってもそれに従事している当人たちは自負や使命感をもって仕事をしているということも考えられる。そうだとすると、純粋自発労働制の下でもそうした3K仕事はなお人を引き寄せ、深刻な人手不足には陥らないとも予測できる。しかし、これは楽観的にすぎる予測かもしれない。
 そもそも現代資本主義は人がやりたがらない仕事を特定の者―たいていは低学歴者や失業者、外国人労働者―に押し付ける構造を持っている。例えば清掃や建設労働、工場での危険な作業、介護等々である。もしも純粋自発労働制の下でこうした分野での人手不足が決定的になれば、我々が資本主義の下で平然と黙認していた3K仕事押し付けの構造がくっきりとあぶり出されてくることになる。
 考えてみれば、3K仕事ほど社会を維持していくうえで不可欠のものが多い。そうした公共性の高い仕事を特定の層に押し付けるのは現代型奴隷制と呼んでもさしつかえなく、道徳的にも正当化できるものではない。
 すると、発達した共産主義社会の純粋自発労働制の下でも、そうした公共性の高い3K仕事は通常の労働の枠から外し、全社会成員の義務として課せられることになるかもしれない。これはあまり嬉しくない報せであろうが。

◇職業創造の自由
 
 しかし朗報もある。それは、純粋自発労働制の下では各人が自ら新たな職を創造できる可能性が広がるだろうということである。
 現在でも「自称」の職業は多々あるが、それだけで生計が成り立つものは極めて少なく、我々はしょせん既成の職業のいずれかに自分をあてはめることしかできない。それも大部分は賃労働者、わけても株式会社の従業員たる「会社員」以外になかなか選択の余地がないのが現実である。これが、資本主義が誇る「職業選択の自由」の真実である。
 これに対して、共産主義社会では生計のための収入を得られる職業に就かねばならないという至上命令から解放されることが、職業創造の可能性を押し開くのである。こうした職業創造は「生まれたばかりの共産主義社会」でやむを得ず労働が義務とされている間でも、労働時間が大幅に短縮され、副業に就く余地が広がることによって可能となるだろう。
 こうして、そもそも職業の概念が革命的に変わる。資本主義の下での職業とは生計を立てるために報酬を得て反復継続する仕事のことであるが、共産主義社会における職業とは自らが「職業」とみなして現に従事している合法的な仕事一切を意味することになる。
 一般の常識・通念に反して、実に資本主義こそは大多数の人間をあの賃奴に押し込めてしまう、歴史上最も画一的な社会システムだったのだ、という事実に人々はいずれ気がつくであろう。

◇超ロボット化社会  
 もう一つ、朗報を付け加えておこう。それは、共産主義社会は労働のロボット化を最高度に推し進めるだろうということである。  
 このような超ロボット化は、資本主義社会では大量失業を招きかねない悲報として受け止められるかもしれない。実際、産業革命期に機械の導入により職を失うおそれのあった職人や労働者が機械打ち壊し行動に出たラッダイト運動ならぬ反ロボット化運動が起きてもおかしくない。  
 資本主義社会では人件費を極限節約したい資本家・経営者にとって都合のよい手段でしかない超ロボット化も、純粋自発労働制の共産主義社会では、労働時間を短縮しつつ、必要な生産力を確保するための技術的な切り札として、大いに推進されるはずである。
 とりわけ、3K仕事に多い単純労働の相当部分をロボット作業で代替することができれば、3K労働の義務化という悲報は聞かなくてすむし、複雑労働のロボット化まで進めば、人間は労働からいっそう解放されることになる。  
 ただ、そうした複雑労働までこなせる次世代的人工知能内蔵ロボットの開発には多額のコストを要するところ、これも貨幣経済によらない共産主義社会であれば、金銭的コストに制約されず、青天井で技術開発を推進することができるのである。

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共産論(連載第17回)

2019-03-15 | 〆共産論[増訂版]

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(2)労働は全員の義務となる?:Are all the member of society obliged to work?

◇労働の義務と倫理
 
共産主義社会では貨幣経済‐賃労働制が廃され、労働とは無関係に各自の需要を充たすための財・サービスが取得できるとなると、もはや人々は労働そのものから退いてしまわないか―。
 実はこれこそ共産主義における最大のボトルネックとなる問題であって、マルクスが共産主義の初期段階における労働システムとして労働証明書の制度を提起した隠れた理由でもあったと思われるのである。「資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」の労働者たちは、資本主義時代の経験から、生活の必要に迫られて労働する―逆に生活の必要に迫られなければ労働しない―という選択的強制労働の世界に慣れ切ってしまっているからである。
 しかし、労働証明書のようなシステムも実用性がないとすれば、共産主義の少なくとも初期には労働を罰則付きで全社会成員に義務付ける必要があるかもしれない。そうすると、やはり共産主義社会は強制無賃労働の収容所群島ではないか、との非難が集中しそうである。
 とはいえ、考えてみれば、資本主義にあっても労働は義務とは言わないまでも最重要の倫理―勤勉―とされているはずである。これをマックス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理観と結びつけたが、プロテスタンティズムが優勢ではない社会でも事情は変わらない。例えば、日本国憲法27条1項は「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」と定め、勤労の権利性とともに義務性をも併記している。
 ところが、資本主義的“勤勉”の世界にあっては、生活の必要に迫られる限りにおいて労働(賃労働)が事実上強制される一方、必要に迫られないならば―例えば親族から莫大な遺産を相続した場合―、労働せず遊び暮らしても何の咎めもない。
 そうすると、資本主義社会における勤勉の倫理など、しょせん資本が必要とする労働力を提供すべき一般大衆に向けた勤労奉仕の動員命令にすぎないのではなかろうか。
 それに対して、共産主義社会の初期において―やむを得ず―課せられる労働義務は経済的動員命令ではなく、共産主義の本質が社会的協力(=助け合い)にあることに由来する全員の社会的義務―全員といっても基本的には中核的労働世代、具体的にはおおむね20歳から60歳までの者に課せられるだろう―である。
 その点で、ケインズが資本主義のエートスである「貨幣愛」と対比して、共産主義のエートスを「社会への奉仕」と表現したのは、やや奉仕性を強調しすぎるきらいはあるものの当たっていなくはない。

◇職業配分のシステム
 ここで、労働を義務化すると画一的な職業配分がなされ、職業選択の自由が奪われるのではないかとの懸念があるかもしれない。
 しかし、この「職業選択の自由」という資本主義的テーゼがまた曲者である。「自由」とはいうものの労働市場で主導権を握っているのは常に資本側(経営側)であるから、前節でも指摘したとおり、資本主義経済とは好況時でも一定の失業を伴う「失業の経済」であり、また求職者の志望や適性・技能と労務内容の齟齬によるいわゆるミスマッチも茶飯事となる。
 これに対して、共産主義社会では労働を義務化すると否とにかかわらず、職業紹介所の役割が強化され、計画的な職業配分のシステムが構築されることになるが、そのことが直ちに画一化につながるわけではない。むしろ資本主義社会における職業紹介のように、単に求人票を集めて求職者に紹介するだけの形式的なあっせんにとどまらず、各人の志望や適性・技能を十分に勘案しつつ、心理テストなども活用した科学的なカウンセリング型の職業紹介が実現するからである。
 このシステムにおいて、中核的労働世代の社会成員は全員が地域の職業紹介所に登録され、紹介所を通じてできる限り住居から近傍の範囲内で適職を見出せるように工夫されるから(職住近接)、今日のような「通勤地獄」も解消されよう。
 なお、労働を罰則付きの義務とする場合、例えば一定期間以上全く就労していない登録者は職業紹介所から就労しないことに正当な理由があるかどうかを調査されるといった必要最小限度の介入措置の導入はやむを得ないかもしれない。
 その一方、第6章で見るように、成人向けの「多目的大学校」といった制度を通じて職業訓練が充実するから、いわゆるニート化や長期失業は防止できると考えられる。

◇労働時間の短縮
 このような計画的な職業配分システムが導入されることによって、労働時間の大幅な短縮も可能となる。資本主義の下では賃下げの口実とされかねないワークシェアリングが、そうした特別な言い回しも不要なほどに基本的な労働形態として定着するだろうからである。
 こうして、各人が現在よりもずっと短い時間働く―たとえ義務付けられるとしても―代わりに、各自の趣味や“夢”の実現に充てることのできる自由時間を獲得するほうが、生活のために事実上強制される労働に追いまくられるよりもはるかに「自由」の多い社会だと言えないであろうか。

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共産教育論(連載第42回)

2019-03-13 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(8)芸術学院/体育学院
 総説の箇所でも記したとおり、高度専門職学院は、一定の職業経験を持つ人を対象とする生涯教育の一環としての専門教育に属する教育課程であるところ、わずかな例外として、音楽・美術等のアーティストを養成する芸術学院や各種スポーツ競技を専業とするアスリートを養成する体育学院がある。
 こうした分野は、その性質上早期教育が不可欠なため、これらの専門職学院は職業経験を募集条件とはせず、基礎教育課程修了者であれば、職業経験を問わず入学可能とされる。その意味では、この類型の専門職学院は生涯教育の体系からは外れることになる。
 もっとも、芸術やスポーツは生来の適性や才能によるところが大きいため、必ずしも専門職学院の修了は成功の絶対条件ではない。むしろ、個人の指導者が運営する教室やクラブのほうが多くの優れたアーティストやアスリートを輩出する可能性すらある。
 こうした民間の指導組織は次章で見る正規教育体系の外部にある課外教育体系の一環として、正規教育制度とも並存するものであり、芸術・スポーツ分野ではむしろこうした課外教育体系こそが中核的となるかもしれない。 
 その点、旧ソ連を盟主とする冷戦時代の東側陣営がしばしば推進していたように、芸術家や五輪アスリートの特権エリート養成を通じて西側に対する文化的優位性をアピールする「国威発揚」政策は、真の共産主義社会の採る道ではない。
 真の共産主義はそうした文化宣伝政策とは無縁であり、共産主義的専門教育としての芸術学院/体育学院といえども、それらは専門教育制度の特種的な一環にすぎず、特権エリート養成機関としての特別な地位が与えられるわけではないことに留意されなければならない。
 ちなみに、芸術学院/体育学院は、芸術や体育の認定指導者を養成する課程も併設するが、これらは例えば第一線を退いたアーティストやアスリートがその職業経験を後進の指導に活かすための生涯教育としての意義を持つ。その限りでは、芸術学院/体育学院も生涯教育機関としての性格を帯びていると言える。

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共産教育論(連載第41回)

2019-03-12 | 〆共産教育論

Ⅶ 専門教育制度

(7)教育学院/社会学院
 教育学院は、その名のとおり、教育専門家の養成を任務とする高度専門職学院である。教育専門家の代表例がいわゆる教員であることは共産主義社会でも同様であるが、共産主義社会の教育は原則的に通信制を基本とした一貫制基礎教育課程であることは、まさに当連載で記したとおりである。
 その結果として、教員の役割・性格が伝統的な学校教員のそれとは大きく異なることになる。すなわち、より個別教育型かつ科目担当制となるうえに、小中高のような学校種別ごとの教員免許制ではなくなり、一貫した単一の教育免許制となる。
 しかも、障碍児統合教育のため、一般教員も障碍児教育の知見と素養を要するため、障碍児教育専門の教員免許が存在するわけではないが、重度障碍児の療育の従事するためには、教員免許に加えて、一定の認定資格を要する。
 また、基礎教育課程に必修で職業導入教育が取り入れられることから、職業導入教育専任教員の免許が創設される。職業導入教育専任教員にはカウンセラーとしての素養と技能も要するため、通常の教員とは別立ての養成が必要となる。
 さらに、保育が義務化され、基礎教育課程の前段階としての性格が強まることに対応し、保育専門家としての保育師も、教育学院において養成される高度専門職に昇格する。
 一方、社会学院は、社会学の実践に従事する専門家の養成を任務とする高度専門職学院である。社会学そのものは学術研究センターでの研究分野の一つであるが、社会学実践家の代表例は社会事業調整士である。
 社会事業調整士とは英語圏で言うソーシャルワーカー(social worker)の共産版と呼ぶべき専門職であり、社会内にあって社会的保護を必要とするあらゆる市民に対して、必要かつ有益な社会サービスの受給に結びつけるための調整活動を行なう専門家である。
 資本主義社会におけるソーシャルワーカーは政府や役場との連絡役程度の役割に限局されがちなのに対し、共産主義社会は政府や役場に相当する機構を擁しないため、いわゆる社会福祉も民間で自主的に行なう必要があるが、社会事業調整士は社会学の素養に基づき、そうした民間での自主的福祉活動の中心を担う専門職として重要性を増すのである。
 社会学院で養成される専門職として、今一つ重要なのは児童福祉士である。これはその名のとおり、児童の福祉的保護を専門とする児童専門のソーシャルワーカーに等しいものである。児童福祉士は主に未成年者福祉センターに配置されて、保護者からの相談業務を含む児童の福祉に関する包括的な業務に当たる。

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