ザ・コミュニスト

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戦後ファシズム史(連載第22回)

2016-02-29 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

1:不真正ファシズムについて
 
第三部では、不真正ファシズムという戦後ファシズム現象の中心的な事例を扱う。不真正ファシズムとは、「ファシズム」ではあるが、明確にファシズムを綱領とする政党ないし政治勢力を通じた真正ファシズム体制とは異なり、明確にファシズムを綱領としない政党ないし政治勢力を通じた実質上のファシズム体制を指す用語として使用する。
 第一部でも見たように、戦前のファシズム体制は真正ファシズムが主流的であった。その二大巨頭であったイタリアとドイツを敗北・崩壊させた第二次世界大戦後もファシズムの潮流そのものは消滅することはなかったが、戦後国際秩序が表向き「反ファシズム」を掲げてきた手前、ファシズムは隠れ蓑を必要とするようになった。そうした言わば「隠れファシズム」がここで言う不真正ファシズムである。
 そして、こうした不真正ファシズムは現在型(及び未来型)のファシズム体制の主流にも連なるまさに本連載の主題である「戦後ファシズム」の中心に位置するものである。ただ、不真正ファシズムは種々の隠れ蓑をかぶることから、単なる超保守主義と真正ファシズムの中間的・両義的な性格を帯びることが多く、それをファシズムと認定することへの異論も生じ得る論争的な概念である。
 特に不真正ファシズムは民主主義を偽装する隠れ蓑として議会制を利用し、議会制の外観を維持したり、完全に適応化することさえもあるため、外部の観察者やメディアからは議会制の枠内での超保守的政権(極右政権)と認識されやすい。実際、単なる超保守的体制と不真正ファシズム体制との区別はしばしば困難であり、超保守的政権が政権交代なしに長期化すれば、何らかの点で不真正ファシズムの特徴を帯びてくることが多い。
 こうした不真正ファシズムに分類可能な体制としては、つとに第一部で見た戦前ブラジルのヴァルガス体制や第二部で反共ファシズムという観点から見たパラグアイのストロエスネル体制といういずれも南米の事例があった。
 ただ、ヴァルガス体制は政党を一切排除するという変則的な体制であり、ストロエスネル体制はコロラド党という伝統的な保守政党をベースとしながらも、軍事政権の性格を併せ持つもので、いずれも不真正ファシズムとしては必ずしも好個の事例とは言えないものであった。すでに各該当箇所で論じたこれらの事例については第三部では再言することなく、ここではより典型的に不真正ファシズムの事例とみなし得る歴史的事例を取り上げていく。

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「女」の世界歴史(連載第12回)

2016-02-24 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

④朝鮮の例外女王
 中国大陸と接しているため、中国文化及び世界観の強い影響を受ける位置にあった朝鮮の諸王朝もまた女権忌避の風潮が強かったが、例外的に新羅だけは7世紀に二人、と9世紀に一人の女王を輩出しており、この三女王が最終の李氏朝鮮王朝まで含めた全王朝史上における女王のすべてである。
 新羅三女王最初の善徳女王は実父で先代の26代真平王の長女または次女とされるが、真平王に男子継承者がなかったことから王位を継承し、史上初の女王となったとされる。
 この点、朝鮮半島南東部の小国から発展した新羅は血統に基づく身分制度(骨品制)が際立って厳格であり、王位継承者となるのは両親ともに王族に属する聖骨と呼ばれる最高位階級の者に限られた。真平王の死に際して、おそらく聖骨の者が他に存命していなかっため、伝統に反して女王の登位となったものと考えられる。
 ちなみに善徳女王には即位後、軍事的な勝利にも寄与したとされる独特の予知能力があったとも伝えられており、そうしたシャーマン的要素が女王即位の合意形成をもたらしたとも言われる。
 いずれにせよ、632年に朝鮮史上初の女王となった善徳の置かれた状況は厳しかった。当時はまだ新羅と百済、高句麗が鼎立する三国時代の末期であり、しかも百済が高句麗と同盟して新羅に攻勢をかけていたため、新羅は孤立していた。
 これに対して、新羅が頼った唐は女王の存在に否定的で、軍事的支援の条件として女王の廃位を求めてきたことから、そうした内政干渉に甘んじようとする親唐派と、拒否しようとする反唐派の対立が激化し、親唐派がクーデターに決起する。これは短期間で鎮圧されるも、善徳女王は鎮圧軍の陣中で没した。
 興味深いのは、この後、続いて真徳女王が擁立されたことである。善徳女王には王配があったが、子はなかったようで、真徳女王は善徳女王の祖父の従姉妹に当たる遠縁であり、その王位継承は善徳以上に異例的である。
 真徳女王は親唐派を打倒した反唐派によって擁立されたが、外交上は唐との同盟形成に努め、648年に羅唐同盟の締結に成功する。これに伴い、内政面でも従来貴族の連合的な性格が強かった守旧的な国制を改め、唐制にならった中央集権的な国政改革を推進した。
 善徳女王の治世15年に対し、真徳女王は7年と短かったが、その間、内政外交に手腕を発揮し、間もなく新羅が唐との同盟関係を利用して百済・高句麗を相次いで滅ぼし、新羅の朝鮮半島統一を実現する足場を築いた実績を持つ。
 真徳女王は生涯独身と見られ、その後は男性親族が王位を継ぎ、以後女王は長く途絶える。三人目にしてかつ朝鮮最後の女王となる真聖女王は統一新羅末期の887年に即位した。その父は48代景文王であり、二人の兄が相次いで王位に就いた後を継いだ。在位1年で没した次兄定康王に嗣子なく、聡明な妹が王にふさわしいとの先王の遺言に基づいて即位したとされる。
 しかし、真聖女王は兄の遺言に反して淫乱・暗愚で、複数の愛人に官職を与えて国政を壟断させたため、すでに衰退期にあった国はいっそう乱れ、反乱が続発したその10年の治世で新羅は事実上分裂してしまった。彼女は897年、自らの不徳を認めたうえ、甥に当たる長兄の庶子に譲位し、引退した。こうして、真聖の諡号にもかかわらず不徳だった女王は真徳女王とは対照的に、新羅の滅亡(935年)を準備したのであった。
 真聖女王を最後に朝鮮史上女王は二度と再び現われることはなかった。ただし、高麗王朝及び李氏朝鮮王朝では太后(大妃)が中国式の垂簾聴政を行なった例がいくつか見られるも、もとよりそれらは正式の女王ではない。

補説:朝鮮の宦官制度
 中国王朝の影響が強い朝鮮諸王朝も、宦官の制度を備えていたとされるが、古代王朝期における宦官制度の具体的詳細は不明である。記録上は新羅の42代興徳王は王妃と死別した後、慣例に従って継室を迎えることをせず、後宮女官も近づけず、宦官だけを身近に置いたとされる。これは後宮の宦官を転用したものか、あるいは後代の宦官=内侍制度の前身であるのか定かではないが、上述のように真徳女王時代の改革以来、唐制を導入した中で、宦官の制度も活用されるようになったのかもしれない。しかし宦官が組織化された高麗王朝・李氏朝鮮王朝期を含め、朝鮮では、中国におけるように宦官が政治的な権勢を持って専横を働くような事例はほとんど見られなかった。

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「女」の世界歴史(連載第11回)

2016-02-23 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

③中国の宦官制度
 去勢された男性官吏・官僚としての宦官の制度は、先述したように、オリエントから古代ギリシャ・ローマ、さらにイスラーム世界(特にオスマン帝国)でも広く見られたが、中国王朝が歴史的に最も幅広く宦官を活用した。
 前回見たように、中国では伝統的に女権忌避が強い反面で、去勢され半女性化された男性が官吏・官僚として重用されたことは、女権忌避と宦官選好の間に何らかの内的な関連性があることを窺わせる。
 中国における去勢は元来、重罪に対する刑罰として用いられたが、これを宮刑とも呼ぶように、去勢は宮廷で労役に従事することと結び付けられていた。おそらく男子禁制の後宮付き奴隷としては去勢された男性が風紀上ふさわしいと考えられ、主に後宮に勤めたのが起源と見られるが、実際のところ、女官と宦官の間の密通は絶えなかったと言われる。
 しかし古代中国では宦官が後宮のみならず、表の宮廷でも実務官僚として力を持つようになった。その代表的な先例は秦の2代皇帝胡亥の時代に専横した趙高である。彼は始皇帝の寵臣として台頭し、始皇帝の死後、聡明な長男の扶蘇を後継指名していた遺言書を改竄して、自身が守役を託されていた暗愚の末子胡亥を擁立したうえ、丞相に就任し、胡亥を傀儡化して独裁権力をほしいままにした。秦がわずか二代で滅亡した原因を作った張本人とされる。
 秦に続く前・後の漢の時代にも宦官は権勢を持ったが、特に後漢では幼帝が多く、皇太后を戴く外戚の力が増大したことから、外戚への対抗勢力として宦官が対置されたことで、宦官集団の権勢が強まり、政治を左右するまでになった。後漢末になると、宦官集団は彼らに批判的な改革派官僚集団に対する大量粛清(党錮の禁)を二次にわたって断行した。こうした宦官勢力の専断は後漢の滅亡要因の一つとされる。
 宦官跋扈への反省から、後漢末の群雄実力者袁紹は宦官の大量処刑を断行し、宦官勢力を壊滅させた。袁紹に勝利した曹操が実質的に建国した魏でも宦官は抑制されたが、消滅することはなかった。
 唐の時代に宦官は再び活用されるようになる。玄宗皇帝の寵臣高力士はその代表例である。彼も強大な権勢を持ったが必ずしも専横的ではなく、玄宗期後半の動乱の要因でもあった楊貴妃の処刑を皇帝に直言し、受け入れさせたのも彼であった。しかし、唐末になると、後漢と同様、宦官の専横が目立ち、衰亡の要因となった。
 こうして宦官の権威が強まると、自ら志願して宦官となる自宮者も増大し、五代十国時代の十国の一つ南漢(広東地域政権)のように、人口100万人中宦官が最大2万人にまで達する極例すら現われた。こうした自宮者の増大に伴う宦官の多用は明の時代に最盛期を迎え、10万人に達したとも言われる。ちなみに明の永楽帝時代に南海大航海を指揮したムスリム出身の提督鄭和は自宮者ではなかったが、宦官であった。
 結局、中国王朝では満州族系の清の時代に至り、宦官が本来の任務であった後宮の后妃の世話をする下級職に限局されるまで、宦官の権勢が絶えることはなかった。なお、宦官が最終的に廃されたのは、辛亥革命後、1924年の軍閥馮玉祥のクーデターにより廃帝溥儀が紫禁城から宦官・女官もろとも追放された時であった。

補説:中国の同性愛慣習
 宦官制度とは別に、中国では古くから男性同性愛に対して寛容な慣習があった。実際、漢の歴代皇帝の多くが複数の男妾を持ち、彼らの中には皇帝の寵愛を背景に重用され、政治的な権勢を張る者も少なくなかった。
 中でも前漢12代哀帝は寵愛する男妾の董賢を政治的にも重用したことで知られる。男色の隠語「断袖」は、哀帝が自分の衣の袖の上で共に寝ていた董賢を起こさぬよう、董賢の寝ている側の袖を裁断させたという故事によるものである。
 こうした男色習慣は宮廷の文武官や地方豪族・商人層などにも広く見られたようであるが、皇帝も含め、彼らの多くは同時に子を持つ妻帯者で、女性の妾を持つこともあり、厳密に言えば両性愛者だったと言えるだろう。
 さらに、福建省には珍しい男性同性婚の風習があった。これは「夫」役となる年長男性が婚資と引き換えに年少男性を「嫁」として婚姻関係を結び、時に養子を育てることもあったという。ただし、これは現代の同性婚とは異なり、両男性がいずれ女性と正式に婚姻するまでの準備的な前婚のような風習だったようである。
 こうした中国古来の同性愛慣習は西洋からキリスト教宣教師が到来する明末頃から、同性愛を「反自然的」な罪悪とみなすキリスト教的価値観に影響されて廃れ始め、清の時代には同性愛行為を処罰する法律が制定されるに至るのである。

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「女」の世界歴史(連載第10回)

2016-02-22 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

①古代中国の女権忌避
 東アジアは今日でも女権が弱く、女性の社会的地位は相対的に低いが、そのことは大なり小なり東アジア世界が強い影響を受けてきた中国の歴史的な女権忌避と関わっているかもしれない。中国はその長い帝政の歴史において女帝をただ一人しか出していないほど、女権忌避が徹底しているからである。
 ただし、黄河文明から派生した祭政一致制の殷王朝では、女性は卜占を担う巫女として間接的に政治的決定にも参与したほか、呪者として戦場にも出た。記録に残る最も高名な殷女性は、第22代武丁の妻婦好である。彼女は自身が将軍として大軍を率いたほか、祭祀にも関わり、祭政・軍事の各方面で活躍したと見られる。
 しかし、殷に続く周の時代になると、中国的な封建制が敷かれ、政治制度が合理化されるにつれ、卜占家としての女性の役割は終焉し、女権忌避的な風潮が強まっていったと見られるのである。
 とはいえ、皇后や皇太后など后の立場で皇帝の背後から事実上政治に関与するいわゆる垂簾聴政がなされることはあったが、これとて皇帝が幼少であるなどの場合における代行的な関与にとどまった。しかし、そうした数少ない古代中国の女性権力者は時代の画期に登場して重要な役割を果たしている。
 記録に残る最初の垂簾聴政者は全国王朝化する以前の秦の宣太后―始皇帝の高祖母―とされるが、全国王朝史上では前漢創立者劉邦(高祖)の皇后呂雉(呂后)である。
 彼女は一族への身びいきや実子である2代皇帝恵帝のライバル庶子の生母に対する残虐な処刑で悪名高いが、劉邦没後、太后として息子と二人の孫の計三代の皇帝の後見役として前漢最初期の政情不安を抑え、王朝の継続性を保証した功績がある。呂太后の治世の泰平さは彼女の悪性格を批判した司馬遷からも高く評価されているほどである。
 また時代下って北魏時代の馮太后(文成文明皇后)は、夫文成帝の後を継いだ義理の息子献文帝を殺害したうえ、献文帝の子孝文帝を擁立し、その後見役として実権を掌握した人物である。彼女も呂太后並みの強権統治家であったが、その聴政期には社会経済的な制度の整備にも尽力し、均田制や三長制など、その後、北朝から出た隋唐などの統一王朝によって継承発展されていく律令制度の基礎を築いた功績がある。
 その意味では、本来は北方遊牧民族鮮卑系の王朝であった北魏を漢化し、漢風の諸制度を整備して、北朝がやがて全国王朝にのし上がる土台を築いたのが馮太后だったとも言えるだろう。ただ、北魏自体は彼女の政策を継いだ孝文帝の行き過ぎた漢化政策がもとで国の分裂を招き、全国王朝となることはなかった。

②唯一女帝・武則天
 中国帝政史上唯一の女帝として異彩を放つのは、武則天である。彼女は初め、唐の3代皇帝高宗の皇后となり、病弱な皇帝に代わり、垂簾聴政を執った。その強権ぶりはその頃から始まっているが、自身が傍流の貴族層出身であったため、唐の支配層であった名門貴族層の排除を徹底したのであった。
 彼女が長い中国王朝の伝統に反して帝位に就いたのは男系後継者が絶えたためではなく、自らの意思によるものであった。彼女は高宗没後に実子である二人の息子中宗と睿宗を相次いで傀儡に立てた後、女帝の出現を啓示する預言書なる仏典を捏造・流布するというイデオロギー宣伝を行なったうえで、睿宗を廃位して自ら帝位に就いた。
 これをみると、彼女は相当以前から自身の帝位簒奪を計画し、その正当化のための情宣まで想定していたものと思われる。逆に言えば、それほどに中国における女帝は当時の道理に反していたということを意味するだろう。
 帝位に就いた武則天は国号を「周」(武周)に改めたうえ、皇太子に降格した睿宗に唐王室の姓である李に代えて武姓を名乗らせたことをみると、自らを祖とする「女系王朝」を作り出そうとしていたのではないかとも思われ、彼女の思考にはある種フェミニズムの要素も認められる。
 そのためにも宗教的な思想操作を必要とし、自身を弥勒菩薩の生まれ変わりとする神秘がかった「聖神皇帝」を名乗り、そのことを記した経典を納める寺院(大雲経寺)を各地に造営させるなど、道教を国教としてきた唐に代わり、仏教を国教に位置づけたが、こうした一種の「宗教改革」も自身の帝位の正当化のためであった。
 一方で、実務面では権力基盤を固めるために垂簾聴政時代から行なってきた非貴族層からの人材登用を引き続き行い、実力主義的な風潮を作り出したため、彼女の宮廷には門閥にとらわれない有能な官僚が集まってきた。
 このように、武則天の事績は擬似革命的な変革を伴うものでもあったため、守旧派の反発も強く、晩年の彼女が病気がちとなると、唐朝復活運動が起きる。最終的には側近らに迫られて一度廃位した息子の中宗を復位させ、自らは太后の地位に退いたのであった。
 709年に武太后が没した後、中宗の韋皇后が姑にならい、第二の武則天たらんとして、夫の中宗を殺害するクーデターを起こすが、これを鎮圧し、唐朝を回復させたのが睿宗の息子(武則天の孫)に当たる玄宗である。
 玄宗の前半期の治世である開元の治はしばしば唐の全盛期と称賛されるが、これを実務面で支えたのは、元は武則天によって抜擢された姚崇・宋エイの両宰相であり、唐を中興し、さらに100年以上持続させた玄宗時代は人材・政策面で武周時代に多くを負っていた。皮肉にも、唐を倒した武則天は唐の再生と持続を保証したのであった。

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戦後ファシズム史(連載第21回)

2016-02-17 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

7:トーゴの権威ファシズム
 西アフリカのフランス語圏独立諸国では、社会主義を標榜し、ないしそれに傾斜する体制が多く現出した中で、小国トーゴには反共ファシズムの性格を持つ体制が現われた。その中心人物は1967年から2005年まで大統領の座にあったニャシンベ・エヤデマである。
 独立初期のトーゴでは共に南部出身でブラジル人の血を引くオリンピオ独立初代大統領とポーランド系ドイツ人の血を引く自治政府時代の初代首相グルニツキが政治的に対立し、これに南北の部族対立が絡み、政情不安が恒常化していた。
 そうした状況下、フランス外国人部隊出身の職業軍人で、独立したばかりのトーゴ政府軍の士官として台頭していたエヤデマは63年のクーデターでオリンピオを殺害してグルニツキを擁立すると、今度は67年の再クーデターでグルニツキを追放、自ら政権を掌握した。このような二段階のクーデターで頂点に上り詰めたやり方は、ザイールのモブトゥとも類似する。
 政権に就いたエヤデマは反共かつ親仏・西側の路線を堅持し、国内的には南北融和を追求した。79年までは軍事政権の形態を維持したが、同年の形式的な大統領選挙で民選大統領に就任して以降は、文民政権の外形をまとった。
 その際、政治マシンとなったのが独裁政党トーゴ人民大会議である。この政党はアフリカ民族主義を綱領とし、エヤデマ政権はザイールのモブトゥ政権と同様に人名や地名のアフリカ化を実行したが、事実上はエヤデマの翼賛団体であり、イデオロギー的にはモブトゥの支配政党以上に内容希薄であった。
 そのため、79年の「民政移管」後のエヤデマ体制は実質上軍事政権の偽装的延長と解することも可能だが、一応「民政」の体裁を整え、後で述べるようにエヤデマ死後に息子への世襲さえ実現したことから見ると、軍事政権時代の擬似ファシズムから一種の権威ファシズム体制へ移行したものとみなしてよいかもしれない。
 エヤデマは反共を標榜していたが、実のところトーゴにおける共産主義者の活動は不活発で、エヤデマの二人の前任者も共産主義者ではなかった。エヤデマ体制ではしばしば反政府派への弾圧が行なわれたが、たいていは「オリンピオ派の陰謀」を名分としており、反仏的だったオリンピオ派残党の影響力排除と南北融和が独裁の口実となっていたものと思われる。
 しかし、冷戦時代のエヤデマ体制は東のモブトゥ体制と同様、西側によって擁護され、その人権侵害は黙視されていた。冷戦終結がこの状況を変え、内外の民主化圧力が強まるが、この先、エヤデマのサバイバル戦術はモブトゥを含むアフリカのどの独裁者よりも勝っていた。
 彼は91年にひとまず複数政党制を認めるものの、権力基盤である軍・警察を巧みに使いながら、93年、98年、世紀をまたいで2003年と三度の大統領選を制し、05年の急死まで政権維持に成功するのである。
 05年のエヤデマの死は権力の空白をもたらしたが、忠実な軍部は憲法の規定に反して大統領の息子で閣僚のフォール・ニャシンベを後継大統領に擁立した。しかし、この一種の反憲法クーデターに国際社会の非難と制裁圧力が向けられる中、フォール・ニャシンベはいったん辞任、同年の出直し大統領選で当選を果たし、正式に大統領に就任した。彼はその後も当選を重ね、現在三期目を務めている。
 この間の大統領選挙の合法性については疑問がつきまとっているが、フォール・ニャシンベは父が遺した権力基盤に支えられ、安定した政権を維持している。この世襲体制の性格をどう評価するかは難しいが、文民テクノクラート出身のフォール・ニャシンベ体制がさらに長期化するなら、現代型の管理ファシズムの性格を帯びる可能性があるだろう。

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戦後ファシズム史(連載第20回)

2016-02-16 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

6:ウガンダの擬似ファシズム
 アフリカにおける反共ファシズム体制の中でも、とりわけ反人道性が際立ったのは、ウガンダのアミン政権である。この政権は1971年から79年までの比較的短命な政権であったが、その間に当時1千万人程度の人口で最大推定50万人とも言われる犠牲者を出した。
 政権の主イディ・アミンは英国植民地軍の兵士から叩き上げた職業軍人であり、1962年のウガンダ独立後は、新政府軍の将校として順調な昇進を重ね、独立指導者で初代首相となったミルトン・オボテに重用されて、国軍総司令官にまで栄進した。
 オボテは社会主義的な志向を持ち、アミンの手を借りて66年に大統領に就任すると、強権を発動して英国資本の国有化政策などを断行し始めたことから、旧宗主国英国をはじめとする西側陣営の警戒を招いていた。そこへオボテとアミンの個人的な亀裂が加わり、71年、オボテの外遊中を狙ったアミンが軍事クーデターで政権を奪取した。
 このクーデターは当初、アミンの本性を知らない英国や西独、イスラエルといった西側陣営からは好意的に受け止められ、またオボテ政権の強権統治からの解放を期待した国民からも歓迎されたが、かれらは間もなく裏切られることになる。
 アミンはクーデターの一週間後には一方的に大統領就任を宣言し、以後79年に政権が崩壊するまで政党は創設せず、軍事政権の形態を維持したため、アミン政権の本質は軍政による擬似ファシズムであった。実際のところ、アミンは生粋の軍人で、思想性は希薄であったが、彼は個人的にヒトラーを崇拝していたとされ、実際ヒトラーばりの民族浄化政策を断行したため、政策上はナチズムに近い様相を呈したのも事実である。 
 アミンは自身が属するイスラーム教徒の部族を優遇する一方で、オボテを支持する部族など他部族に対する大量虐殺を実行し始めたうえ、政権掌握の翌年には、「経済戦争」と命名した民族迫害政策に着手する。「経済戦争」とは当時のウガンダ経済界で重きをなしていたインド系を中心とするアジア人の追放政策であり、かれらの経済的権益を剥奪することが狙いであった。この政策によって、数万人のアジア系住民が亡命を余儀なくされた。
 こうしたアミンの暴政に西側が重大な懸念を示すと、アミンはそれまでの親西側の態度を豹変させ、72年にはイスラエルの軍事顧問団を追放、カダフィ独裁下のリビアやソ連、東独などの東側陣営に急接近を図る。こうした露骨な日和見主義はアミン政権の延命を保証すると同時に、政権の命脈を縮める要因でもあった。
 政権中期の76年に起きたパレスティナとドイツの過激派の合同グループによるエールフランス機乗っ取り事件は、アミン政権崩壊の第一歩となった。イスラエルで服役中のパレスティナ人活動家の釈放を要求する犯人グループが強制着陸させたウガンダのエンテベ空港に立てこもったこの事件で、大統領として空港を管理する立場のアミンは人質救出に当たるどころか犯人を擁護するという前代未聞の対応をとった。
 事件はイスラエル軍特殊部隊の強行突入作戦で解決されたが、イスラエルの軍事行動はウガンダの主権を侵害していたことから、アミンは国連安保理の招集を求めたが、犯人を擁護したアミン政権にも非があったため、この要求は却下された。
 事件の翌年にはすでに関係が悪化していた英国とも断交したが、この事件の前後からアミンはソ連の援助を受けて軍事力の増強を図っており、このことは隣国ケニアとの緊張関係も強めていた。
 国内的にも、暴政の中で放置された経済の崩壊が国民生活を圧迫しており、粛清を恐れた閣僚の亡命も相次ぎ、アミン政権は内部崩壊の兆しを見せ始めていた。政権政党も組織されていなかったため、頼みは増強された軍だけであったが、その軍も実のところ外国人傭兵で水増しされていた。
 そうした中、78年末に蜂起した反乱軍が隣国タンザニアへ逃げ込んだことを口実に、アミンはタンザニア侵略を図ったが、これに対してタンザニア軍が反撃、反アミンの武装勢力も合流して、戦争となった。アミンはリビアの支援を受けて抗戦したが、傭兵の多いウガンダ軍からは離脱者が続出し、79年4月、アミン政権はついに崩壊した。アミンはリビア経由で最終的にサウジアラビアに亡命、2003年に客死するまでそこで過ごした。
 アミンは人肉食の噂が立つほどの暴政で同時代の国際的注目を集め、今日に至るまで悪夢として記憶されているが、彼の最大の特異性は通常、人種差別の犠牲者であるアフリカ黒人でありながら、対抗的に人種差別的な政策を大々的に展開した点にあったと言える。
 なお、アミン政権崩壊後のウガンダではオボテの帰還・復権と再度の失権を経て、86年以降、旧反政府勢力を基盤とする管理主義的な特徴を伴った現代型の真正ファシズム体制が確立され、現在まで長期政権を維持しているが、これについては後に再言する。

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戦後ファシズム史(連載第19回)

2016-02-15 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

5:ザイールの民族ファシズム
 アフリカ大陸は、多数の部族に分かれた部族主義の伝統が強く、統一国家の形成自体が困難であるうえ、その国家を絶対化し、国民の全体主義的統合を図るファシズムはなおいっそう定着しにくい。また、反植民地主義からマルクス‐レーニン主義を含む社会主義に傾斜する体制が多かったことも、アフリカにおけるファシズムの希少性に影響したであろう。
 そうした中で、ザイール(現コンゴ民主共和国)はファシズム体制が30年以上続いた例外である。それを可能としたのも、やはり冷戦という世界情勢であった。ザイールはベルギーによる植民地支配の後、1960年にコンゴとして独立したが、その直後、南部が分離独立の動きを示し、ベルギーや国連の介入を招く動乱に陥った。
 このコンゴ動乱はアフリカにおける統一国家形成の難しさを露呈するものであると当時に、統一国家の維持を口実にアフリカにもファシズムが成立し得る可能性を示す出来事でもあった。それを証明した人物は、内戦の過程を通じて台頭したジョゼフ‐デジレ・モブトゥである。
 モブトゥは当初、ベルギー統治時代の実質的な現地軍であるベルギー公共軍で士官を務めた後、いったんジャーナリストに転身するが、独立直後、当時の政府により国軍参謀総長に抜擢され、政府軍の構築で重要な役割を果たすことになった。
 彼はそのような新政府軍最高実力者の立場を利用して、1960年と65年の二度にわたり軍事クーデターを起こして権力の座に上り詰める。一度目のクーデター時は翌年に民政移管を実現したが、二度目のクーデターで自ら大統領に就任して以降は97年の政権崩壊までほぼ自動的に多選を重ね、一貫して独裁権力を手放さなかった。
 モブトゥは先述のように軍出身とはいえ、訓練された真の職業的キャリア軍人とは言えず、どちらかと言えば文民に近かった。そのため、彼の支配体制も他のアフリカ諸国でしばしば見られた単純な軍事独裁政権ではなく、いちおう文民政権の体裁を持っていた。
 その際、基軸的な政治マシンとなったのが、67年にモブトゥによって設立された革命人民運動である。そのイデオロギーは中央集権と全体主義的国家統制という旧ファシズムに近いものであったが、アフリカ的な特徴として「真正さ」という標語によって象徴される民族主義が基調にあった。
 このイデオロギーは71年に国名を「ザイール」に改めて以降、「ザイール化」とも呼ばれ、地名や人名の「ザイール化」が強制された。実際、ベルギー風の首都レオポルドヴィルはキンシャサに改称され、モブトゥ自身の出生名ジョゼフ‐デジレもモブトゥ・セセ・セコに改名している。
 革命人民運動は、90年にやむなく複数政党制を導入するまで独裁政党であったが、全国民が出生により自動的に党員となるという徹底ぶりであり、単なる政党を超えた全体主義的政治動員機構として機能した。
 こうした特異な体制の持続を可能としたのが、モブトゥの一貫した反共親米姿勢である。彼は最初のクーデター当時、親ソに傾斜していた当時の実力者パトリス・ルムンバ首相の排除・処刑に加担したように、終始反共主義者を演じていた。そのため、冷戦時代の只中にあって、モブトゥ体制はアフリカにおける反共の砦とみなされ、旧宗主国ベルギーを筆頭とする西側からの経済援助が流れ込んだが、モブトゥはそれらの多くを私的に着服し、巨額の個人資産を形成していた。
 こうしたクレプトクラシー(窃盗政治)は程度の差はあれ、アフリカ諸国の独裁政権にはしばしば見られる共通した悪弊であり、必ずしもモブトゥ体制固有の特徴ではないが、モブトゥのそれは国家経済を破綻に追い込むほど常軌を逸していたため、その徹底した個人崇拝政治とともにしばしば戯画的に注目されたのであった。
 冷戦終結後、「砦」の役割も終焉し、内外から民主化圧力が高まると、モブトゥは90年に複数政党制移行を受け入れるが、大統領の座を手放すことはなかった。しかし、晩年に癌を患い、強権統治に陰りが見えてきた中、96年以降、反政府勢力が武装蜂起、97年には全土の大半が反政府勢力に制圧される中、モブトゥは辞任・亡命に追い込まれた。癌もすでに末期と見え、同年中に亡命・療養先のモロッコで死去した。
 こうして30年以上に及んだモブトゥ体制は、新たな内戦の中で終焉し、以後、再び改称されたコンゴ民主共和国を混迷に陥れる。結局のところ、モブトゥ体制も冷戦時代に林立した反共ファシズムのアフリカ版であり、冷戦終結を経て米国‐旧西側陣営にとっての存在価値が消滅した時点で、用済みとされたのである。

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「女」の世界歴史(連載第9回)

2016-02-09 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

⑤ビザンツ帝国の女帝たち
 前回も触れたとおり、統一ローマ帝国及び東西分裂時代の両ローマ帝国では女帝は慣習上否定されていたと考えられるが、西ローマ帝国滅亡後の東ローマ=ビザンツ帝国ではわずかながら女帝を輩出した。なお、ビザンツ帝国はヨーロッパ史の時代区分的には中世にかかるが、ローマ帝国の延長という点では古代国家性を有するので、行論上ここで扱う。
 史料上明確に最初のビザンツ女帝と目されるのは8世紀末に出たイサウリア朝のエイレーネであるが、より早く6世紀の「大帝」ユスティニアヌス1世の妻テオドラ皇后は夫を支えて国政にも関与したため、彼女を共治女帝とみなす史料もある。
 テオドラは元来身分の低いダンサーだったが、初めは役人の妻となり、離婚後、ユスティニアヌスに見初められて貴賎結婚し、皇后にまで上り詰めた階級上昇の異例としても注目に値する人物である。
 ただ、彼女のケースはまさに女太閤的な例外であり、ビザンツ帝国においても女性の公的な地位は制約されており、女帝忌避はしばらくの間続く。そうした中、イサウリア朝に至り、ビザンツ帝国最初の単独女帝であるエイレーネが登場する。
 彼女はテオドラとは対照的にアテナイのギリシャ系貴族の生まれであり、初めはレオン4世の皇后となるが、夫が早世した後、幼少で帝位に就いた息子コンスタンティノス6世の後見役たる摂政として実権を握る。
 しかし成長した息子と衝突したため、軍事クーデターを起こして6世を拘束し、目をくり抜いて追放したうえ、自ら帝位に就いた。目をくり抜いたのは五体満足が皇帝の身体条件となっていたためであるが、実の息子の目をくり抜くという虐待により帝位を簒奪した彼女の権力欲は当時の人々にも衝撃を与えたらしく、エイレーネは不人気であった。
 彼女はイサウリア朝の看板政策でもあった聖像破壊運動を停止し、聖像崇拝の正統性を再確認するという重要な宗教改革を行なった。これによって長く対立していたローマ教皇との和解が達成されるはずであったが、時の教皇レオ3世はエイレーネの帝位を正統的なものとは認めず、フランク王国のカール大帝を西ローマ皇帝として認証したため、ビザンツ帝国の威信は低下した。
 最終的に、エイレーネは財務長官ニケフォロス(後の皇帝ニケフォロス1世)の新たなクーデターで失権し、結果として、イサウリア朝の幕引き役を演じることとなった。エイレーネが失敗したのはあからさまな帝位簒奪者だったことにもよるが、自身「バシレウス」という男性形で皇帝を名乗らねばならないほど、当時のビザンツでは女帝忌避的な意識が強かったことにもよるであろう。
 しかし、興味深いことに、ビザンツでは11世紀のマケドニア朝期にも女帝を二人出した。しかもゾエとテオドラ姉妹による共治女帝という世界史的にも稀有の異例である。姉妹は享楽的な皇帝として悪名高いコンスタンティノス8世の娘であり、その点でマケドニア朝直系者としての権威を有していた。
 ゾエは、彼女の義理の息子(死別した夫ミカエル4世の養子)であったミカエル5世が皇太后ゾエを幽閉するなど虐待したことへの反発から1042年に民衆反乱が起き、ミカエル5世が廃位されるというある種の革命により帝位に就くこととなった。その際、元老院から妹テオドラとの共治という条件をつけられたのであった。
 しかし、ゾエはロマノス3世とミカエル4世という二代の皇帝の后として共同統治経験を持つベテランで、妹との共治という非正規的な体制は姉妹の対立とそれに対応した両派陣営の形成という弊害を露呈したため、この異例の体制は2か月足らずで解消された。
 その後は、ゾエが三度目の結婚によりコンスタンティノス9世の皇后となり、共同統治するが、すでに高齢のゾエは1050年に死去、続いて9世も55年に死去すると、再びテオドラが高齢で復位する。だが、彼女も翌年には死去した。
 生涯独身だったテオドラには子がなく、遺言により養子のミカエル6世が後を継ぐことになった。結婚を繰り返した姉ゾエにも子はなく、結果として、テオドラはマケドニア朝直系者として最後の人物となったのである。同時に、彼女はビザンツ帝国最後の女帝であった。

補説:ビザンツ帝国の宦官制度
 ビザンツ帝国はわずかとはいえ、女帝を輩出したように、統一ローマ帝国とは異なり、東方的な要素が強かったと見られるが、同じく東方的な要素として宦官の幅広い活用がある。
 男性去勢者としての宦官の持つ意味については、宦官の大国とも言える中国の項で詳述するが、宦官の制度自体は古代オリエントやそこから影響を受けたと考えられるギリシャ‐ローマにも存在していた。
 しかし、それらの宦官が主として雑用的な任務をこなす下級役人だったのに対し、ビザンツの宦官は中国と同様、しばしば高位官僚となり、宮廷で強い権力を持った。初期の著名な例では、ユスティニアヌス1世時代にイタリア征服作戦で総司令官を務めたナルセスがある。
 彼は文官から武官に転官した点で異例だが、宦官は通常、文官であった。特に実質上の宰相格である「皇帝侍従長官」は通常、宦官をもって充てられた。マケドニア朝期には宦官の権勢が大きく、ロマノス3世とミカエル4世の時代に権勢を振るい、ミカエル5世擁立を主導した宦官でミカエル4世の兄ヨハネス・オルファノトロフォスもそうした一人であった。
 しかし、ビザンツ宦官はマケドニア朝が断絶した後の11世紀末、軍事貴族層によって樹立されたコムネノス朝の下では武官優位の風潮の中、閉塞し、次第に宦官そのものが激減していった。

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「女」の世界歴史(連載第8回)

2016-02-08 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

③ローマ帝国の女性実力者たち
 古代ギリシャの後継者となる古代ローマにおける女性の地位は、ギリシャとは異なり、いささか微妙なものであった。ここでも、女性は公式には政治から締め出されていたが、上流階級の女性たちは様々なチャンネルを通じて非公式に政治的影響力を行使することがあった。
 そうした傾向はローマが帝国化し、その政治が世俗化・複雑化するにつれ、次第に高まる。そのきっかけを作ったのは、初代皇帝アウグストゥスであった。彼の妻リウィア皇后はアウグストゥスの生前から助言者として政治にも関与していたが、皇帝の死後、連れ子のティベリウスを2代皇帝として擁立したうえ、ティベリウス時代の初期には皇帝生母として強大な力を持った。
 リウィアは86歳の長寿を全うし、死後に神格化されたが、彼女の真似をして悲劇的な死を遂げたのが暴君ネロの生母小アグリッピナであった。彼女も夫である4代皇帝クラウディウスの生前から政治的な影響力を行使したが、やはり連れ子のネロを皇帝に擁立し、その初期の治世では後見人として強い発言力を持った。
 暴君ネロの初期治世が意外なほどの善政であった背後には小アグリッピナの手腕があったとも評されるが、それゆえにかえって自立し始めたネロの反感を買い、ついには息子ネロの謀略にかかって暗殺されてしまうのである。
 統一ローマ時代後期で、歴史に残る女性実力者の存在が目立つのは、紀元193年から235年にかけてのセウェルス朝時代である。帝国史上初めてアフリカ属州‐東方系の王朝となったセウェルス朝は初代セプティミウス・セウェルス帝の妃ユリア・ドムナをはじめ、政治的な実力を持つ女性を多く輩出している。
 このように、皇后等として事実上の権力を行使する女性は存在したものの、ローマ帝国では統一時代及び東西分裂後の両ローマ帝国の時代を通じ、女帝を輩出することはなかった。ローマ帝国には後のゲルマン諸王朝が女子の王位継承権を否定するために援用したサリカ法典のような法制はなかったにもかかわらず、女帝は慣習上タブーとされていたと見られる。
 実のところ、ローマ帝国には「皇后」に相当する正式の称号も存在せず、先のリウィアを初代とする「アウグスタ」が一応それに該当したものの、この称号とて皇帝の正妻すべてに授与されたものではなかった。しかも、帝政自体がまだ共和制時代の名残をとどめるプリンキパトゥス(元首政)から皇帝の権力が強化されたドミナートゥス(専制君主制)へと変化するにつれ、「皇后」の発言力も低下していったようである。

④女装皇帝の悲劇
 古代ローマには古代ギリシャのように、哲学的にも把握された少年愛の明確な慣習はなかったようであるが、事実上の少年愛は存在した。皇帝の中にも、少年(青年)を愛人とする者が見られ、こうした貴人の「男色」は容認されていたようである。
 しかしセウェルス朝3代皇帝ヘリオガバルスのように、皇帝自身が女装して男色に耽るとなると、大問題であった。彼は元来セウェルス朝外戚でシリアの神官王一族出身のシリア人であったが、ネロと並び暴君として有名なカラカラ帝がクーデターで殺害された後、カラカラの伯母でもあった祖母ユリア・マエサが首謀した逆クーデターによって14歳で帝位につけられた簒奪者であった。
 こうした経緯から、政治の実権はユリア・マエサとその娘で皇帝生母ユリア・ソエミアスの手に握られた。ヘリオガバルス時代の悪政として、出身地シリアの太陽神エル・ガバルをローマの最高神として位置づける「宗教改革」を断行したことが挙げられるが、こうした宗教政策の背後にも、ユリア母娘が介在していたことは確実である。
 しかし、このような非正規的な体制は少年皇帝の放縦を結果した。ヘリオガバルスは本来大罪であるウェスタ巫女を犯し、婚姻を強行したほか(短期で離婚)、女色を好む一方で自身が女装して男娼となり、多くの男性と性関係を持ち、男性奴隷の「妻」となるなど身分をわきまえない逸脱行為が見られたとされる。
 キリスト教化される前の性愛に寛大なローマといえども、皇帝の無軌道な行動は目に余ったようである。ついに祖母ユリア・マエサが皇帝廃位を決断し、別の孫アレクサンデル・セウェルスに立て替えようとした。最終的にヘリオガバルスと息子をかばい続けたユリア・ソエミアスは近衛軍団のクーデターによって殺害され、二人の遺体は市中引き回しの末、テヴェレ川に遺棄された。
 去勢も望んでいたとされるヘリオガバルス帝はある種の「女」帝であったと言えるかもしれないが、基本的に男権主義の気風が強いローマでは史上最低の奇行の皇帝として汚名を残すこととなってしまったのである。

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核特権体制の破綻

2016-02-07 | 時評

「(称)水爆実験」「ミサイル(称人工衛星)」と、このところ立て続く北朝鮮の軍事的示威行動は、戦後世界秩序の要である核拡散防止条約体制の破綻をまざまざと示している。

核拡散防止と言えば聞こえがよいが、その実態は第二次世界大戦の主要な勝者であった五つの大国にだけ核武装の特権を容認するという虫のよいものだ。しかも、その執行方針は一貫しておらず、支離滅裂である。

例えばインド、パキスタンは北朝鮮と同様、条約を無視して公然と核武装しているが、両国に対しては核放棄へ向けた圧力はかけられていない。またイスラエルの核武装は公然の秘密でありながら、査察を受けることなく、事実上黙認されている。

このような状況で、北朝鮮にだけ核放棄を強く要求しても、説得力を持たないことは明らかである。国際社会は定型化された非難と制裁を繰り返すのではなく、このことを強く認識する必要がある。

いまや、選択肢は二つに絞られる。すなわち、五大国が共同して今すぐ核放棄へ向けたプロセスを開始するか、さもなければ、世界のすべての国に核武装の権利を平等に認めるか、である。

どちらにせよ、脱‐核拡散防止体制であるが、前者は文字どおり核廃絶のプロセスであり、核開発を企てる諸国に対して最も説得力のある選択肢である。後者は地球を核兵器で埋め尽くす人類滅亡へのカウントダウンの選択肢である。

どちらを選択するのか、まさにとしての、動物としての人間の決断が問われる岐路である。

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戦後ファシズム史(連載第18回)

2016-02-02 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐6:パキスタンのイスラーム軍政
 戦後の南アジアでは、中軸国のインドが非同盟中立を旗印に独自の社会主義的な路線を歩んだため、米国の息は元英領インドとして一体的ながら、インドとは対立的なイスラーム系の隣国パキスタンにかかることとなった。
 パキスタンでは1947年の建国以来、親英米路線が既定となっており、54年に禁止された共産党の力は弱かった。従って、反共主義を前面に押し出す政権は70年代までは存在しなかった。
 潮目が変わるのは、67年にズルフィカール・アリ・ブットを中心に人民党が結党されてからであった。人民党は共産主義政党ではないが、短期間でパキスタンにおける代表的な左派政党となった。ブットは60年代には外相も経験したベテランの政治家であり、反インドのナショナリストでもあった。彼は71年のバングラデシュ独立戦争とそれに続く第三次印パ戦争での敗北という国難の中で、大統領に就任した。
 71年から73年までは大統領、73年以降は首相として政権を率いたブットは左派色を前面に出し、主要産業の国有化、農地改革、労働者の権利拡大など左派の定番的な政策を次々と打ち出した。その一方で、インドに対抗するため、中国の協力を得て核開発にも先鞭を着けた。このようなブット政権は左派ナショナリズムの性格を帯びていた。
 しかし、ブットの性急な政策的路線転換に反発が強まり、野党の抗議行動により混乱が広がる中、77年の総選挙では人民党が圧勝するも、混乱はかえって拡大し、騒乱状態に陥った。ここで、ムハンマド・ジア‐ウル‐ハク陸軍参謀総長に率いられた軍部がクーデターを起こし、ブット政権を転覆したのであった。
 ジア将軍はブットによって重用されてきた軍人であり、そうした人物が裏切りの形で選挙により成立した左派政権を転覆した経緯は、南米チリのピノチェト将軍による73年クーデターにも類似していた。ジアは戒厳司令官として全権を掌握し、ブットを政治裁判にかけ処刑した。それに続いて左派に対する不法な手段による弾圧が断行された点でも、チリの経緯と似ている。
 この77年クーデターに米国が関与した証拠はないが、クーデターの翌年、隣国アフガニスタンで親ソ派の社会主義革命が発生したことで、パキスタンは米国にとっての反共基地の意義を持つことになった。実際、ジア政権は軍諜報機関(統合諜報局)を通じてアフガニスタンの反革命武装勢力ムジャーヒディーンを援助しつつ、その見返りとして米国からの経済援助を受け、経済成長を軌道に乗せることにも成功した。
 国内的には、イスラーム法(シャリーア)を初めて本格的に導入して、イスラーム主義政策を追求した。ただし、最期まで擬似ファッショ的な軍事政権の形態を維持したジア政権はいわゆるイスラーム原理主義というよりも、イスラーム法を全体主義的統制の手段として利用したもので、その意味ではイスラームが擬似ファシズムと結びついた最初の例と言えるかもしれない。
 経済政策はジアにとって二次的関心の対象にとどまったが、ブット時代の社会主義的な政策は漸次的に撤回され、政権後期の84年布告をもって民間資本の開放、市場経済化への道筋がつけられた。
 80年代半ばに入り、民主的な総選挙の実施への要求が高まると、84年に信任投票を実施したうえ、翌85年には政党によらない官製選挙を実施し、傀儡的な文民首相を任命したが、88年には罷免した。同年、11年ぶりとなる総選挙が布告されたが、その実施前の88年8月、ジアは飛行機事故により不慮の死を遂げた。
 予定通り実施された88年総選挙では、故ブットの娘ベナジル・ブットが率いる人民党が圧勝し、べナジルがパキスタン及びイスラーム圏初の女性首相に就任するという一種の革命的な様相を呈した。
 こうしてジア軍事政権は大統領の不慮の死を機に終焉したが、その負の遺産はアフガン内戦終結後、パキスタン領内に流入した旧ムジャーヒディーン残党の過激化、そして現在もかれらを援助しているとされる軍統合諜報局の隠然たる権力として残されている。

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戦後ファシズム史(連載第17回)

2016-02-01 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐5:タイの反共軍政時代
 冷戦期における反共ファシズムは、戦後の米国が東における勢力圏として想定してきたアジアにも及んだ。先行して扱った南ベトナムはその最も初期の例であるが、インドシナ半島にもまたがるタイの反共軍政も歴史が古く、しかも長期間に及んだ。
 タイでは、第一部でも見たように、戦前から戦後にかけてすでに反共擬似ファシズムの性格を帯びたピブーンの独裁体制が見られたが、元来は立憲革命派であり、ある程度民主化への展望も持っていたピブーンが1957年の軍事クーデターで失墜した後には、明瞭な反共軍事政権が立ち現われた。
 57年クーデターの首謀者は、元来ピブーンに重用されながら不正選挙を機に袂を分かったサリット・タナラット将軍であった。ただ、健康問題を抱えていた彼は直ちに首相とならず、短期間の傀儡政権を経て、58年にCIAの後援のもと、再クーデターを起こして首相に就いた。
 サリットは単純明快な反共主義者であり、共産党やその支持者への弾圧を強化するとともに、超法規的かつ残酷な方法で刑法犯を見せしめにするなど、強権的な社会統制を導入した。同時に、インドシナにまたがる地政学的位置を最大限利用し、米国の後ろ盾を得て、上からの経済開発を推進した。戦後タイの経済成長は、タイ史上最も苛烈と評されるサリット軍政の時代に始まったと言える。
 しかし、持病のあったサリットは63年に急死、後任にはタノーム・キッティカチョーン将軍が副首相から昇格した。タノームは、57年のクーデターに参加し、58年には短期間首相も務めたサリット側近であり、タノーム政権は前政権の延長にすぎなかった。
 ただ、前任者と違っていたのは、タノームは健康で、政権維持に長けており、69年の総選挙をはさんで73年まで10年間首相の座を譲らなかったことである。この間、インドシナではベトナム戦争(及びカンボジア・ラオスにも及ぶインドシナ包括戦争)が進行しており、これにタノーム政権が全面的に反共・米国側で協力したことも、政権長期化の外的要因となった。
 しかし、軍政の長期化は政治腐敗と人権抑圧への不満を呼ぶとともに、インフレの亢進といった経済状況の悪化も重なり、73年、空前規模の民衆デモが流血化する最中(血の日曜日事件)、タノームは辞任、国外亡命に追い込まれた。
 この後、いったん民政移管されたが、民主主義の歴史がほとんどないタイでは、民政は長続きしなかった。76年にタノーム元首相が強行帰国したことへの大学生の抗議集会に治安当局が流血介入し(血の水曜日事件)、翌77年以降再び軍政の復活を許すこととなった。
 しかし、新たな軍事政権を率いたクリアンサク・チャマナン首相は政権に執着せず、80年に退任、新たにプレーム・ティンスーラーノン国防相が首相に昇格した。プレームは軍人ながら穏健で、国王ラーマ9世の厚い信任の下、漸進的な民主化を推進した。
 プレーム政権も軍事政権の範疇に含まれるが、閣内には文民も取り込み、定期的な総選挙も実施したため、「半民主主義」とも評される軍民融合政権の性格を持った。従って、プレームの退役をはさみ88年まで続いた政権は反共擬似ファシズムではなく、むしろ長期間かけて反共擬似ファシズムから脱却する民主化移行政権と位置づけるほうが正確であろう。
 こうして、タイの反共擬似ファシズムは冷戦末期88年の完全な民政移管をもっていちおう終了するのであるが、長い軍政時代に政治的な実力と経済的利権を蓄えた軍部の力はそがれておらず、冷戦終結後も今日に至るまで、激しい党派対立を繰り返す政党政治に介入する形でたびたびクーデターを起こし、軍事政権を形成する慣行は続いている。

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