ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第46回)

2013-01-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(2)第一次ロシア革命と挫折(続き)

弾圧と亡命
 体制側は06年4月、取り急ぎ憲法を制定し、革命の幕引きを図ろうとしていた。この憲法は同時代の大日本帝国憲法とも類似した欽定憲法であり、一応二院制的な国会が開設されたものの、立法の最終的な裁可権はあくまでも皇帝に留保されるという保守的かつ非民主的な内容のものであった。
 この憲法発布の四日後に開会した第一国会は、2月‐3月期に実施された選挙の結果、先述したようにブルジョワ政党のカデットが第一党の座を占めたとはいえ、過半数には届かず、第二党には1901年に結党されたナロードニキ系社会革命党(エス・エル)からさらに分かれたより穏健なトルドヴィキがつけていた。
 ところが、このトルドヴィキがその出自にふさわしく社会主義的な農地改革法案を提出したことから国会は紛糾し、農民運動の激化を恐れた政府は7月、第一国会を二か月余りで強引に解散してしまった。
 ちなみにボリシェヴィキは国会外からこの法案への支持を表明していたが、これも農民勢力との同盟を目指すレーニンの戦略に基づいていたことは言うまでもない。
 明けて07年1月‐2月期に行われた第二国会の選挙では、レーニンの方針転換により党は選挙参加の道を選んだ。その結果、第二国会は同じく選挙参加を選択したエス・エルを含む革命派が躍進し、カデットは大敗した。このような選挙結果を体制側が容認するはずはなかった。
 時の首相ピョートル・ストルイピンは6月、非常措置を発動して社会民主党議員らを拘束したうえ、再び国会を解散した。そのうえで選挙法を改悪して再選挙を実施した結果、11月に開会した第三国会では穏健自由主義派のオクチャブリスト党が第一党となり、体制の目論見どおり保守的な国会を実現したのである。
 こうして、第一次ロシア革命は辛うじて立憲革命という性格を残しつつも挫折に終わったのであった。以後は公安畑出身のストルイピン首相の下、革命派に対する徹底的な弾圧が展開されていく。
 レーニンはすでに反革命反動化の波が高まりつつあった前年夏に妻クループスカヤとともにロシア帝国支配下の自治領であったフィンランドへ移っていたが、そこにもレーニンを重要政治犯として指名手配していた帝政ロシア当局の手が迫ってきていた。
 夫妻はフィンランド人農民の案内で凍った海を決死で歩いて渡り、船でいったんスウェーデンへ脱出し、そこからベルリン経由で―論敵ローザ宅で一泊した―ジュネーブへ帰り着くという007張りの脱出劇を演じなければならなかった。
 一方、ペテルブルク・ソヴィエトが挫折した後、逮捕されたトロツキーはシベリアへ終身流刑に処せられていたが、間もなく脱走に成功し、ウィーンへ逃れた。

(3)哲学への接近

反経験批判論
 第一次ロシア革命の挫折は、ボリシェヴィキを含む革命派を動員解除状態に置いてしまった。帝政ロシア当局の激しい弾圧―1906年から10年までに政治犯として死刑判決を受けた者5735人、うち執行された者3741人という数字もある―もさりながら、精神的なアノミーも激しかった。ボリシェヴィキからも脱落者が相当数出たようである。
 そういう一種の価値観の崩壊情況を前にして、レーニンは哲学的レベルまで掘り下げつつ巻き返しを図る必要があると考え始めたようで、彼はそれまで本格的に取り組んだことのなかった哲学―1905年からボリシェヴィキに参加するようになっていた友人の作家マキシム・ゴーリキーに宛てた書簡によると、レーニンは哲学分野の素養が不足しており、公に哲学的所見を述べることを差し控えていたという―に接近していくのである。
 当時彼の周辺ではオーストリアの物理学者兼哲学者エルンスト・マッハの影響を受けたボグダーノフやルナチャルスキーらのいわゆる「経験批判論」が有力化してきていた。そのため、唯物論者をもって任じるレーニンからすれば、主観主義的かつ反唯物論的なそうした党内思潮を鋭く牽制しておく必要を感じ取ったようである。その結果誕生した遅ればせの哲学書―かつレーニンのほとんど唯一の哲学的主著―が1905年に出した『唯物論と経験批判論』であった。
 この著作は「一反動哲学についての批判的覚書」という副題を伴うことからもわかるとおり、レーニンが「反動的」とみなした経験批判論者―とりわけボグダーノフ―への反駁書であり、しかも「覚書」とあるように試論にとどまる。
 しばしばエンゲルスの『反デューリング論』と並び称せられることもあるこの著作の主調は、客観的真理の絶対化と客観的真理に対する人間の認識能力への素朴な信頼、そして「意識は存在の反映である」とする機械的反映論であって、エンゲルスの著作と同様、すぐれてドグマティックな書である。
 このような唯物論哲学のレーニン流ドグマ化は、それが政治的なものに適用されたときには、客観的真理を体現するとみなされた体制の絶対化と客観的真理の認識能力に秀でていると自任する党指導部の優越性とが論理的に帰結されるであろう。
 実際のところ、レーニンのこの著作は彼の指導体制を揺るがしかねない新たな党内抗争が持ち上がってきた中で、抗争とも絡めて執筆されたものであった。このように、レーニンの旺盛な執筆活動はほとんど常に彼自身の権力闘争における浮沈状況と密接に連動していた。

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