第六章 グレコ‐ロマン奴隷制
古代ローマの剣闘士奴隷
古代ローマの奴隷制度の中でも際立った特色を持つのが、剣闘士奴隷である。剣闘競技の起源は不明であるが、当初は要人の死に際して追悼儀礼の一環として実施される宗教的な意味合いが強かったものが次第に世俗化され、観戦競技化したとされる。
世俗化した剣闘士試合は公職選挙に合わせた政治的な意味合いも帯びるようになり、カエサル以後の帝政ローマ時代には皇帝自身が主催するようになった。それに伴い、剣闘士の養成所や剣闘士の資格・等級の整備なども進み、ほとんど国技となる。
剣闘士は初期の儀礼時代には戦争捕虜となった外国人・異民族兵士が充てられたと見られるが、次第に興業化するにつれ、選手補充のため、身体能力の高い奴隷を徴募したり、懲罰目的で罪人から選抜したりするようになった。
中でもバルカン半島の先住民族トラキア人の剣闘士奴隷は多く、共和政ローマを揺るがす奴隷反乱を起こしたスパルタクスもトラキア人であった。「トラキア剣闘士(トゥラケス)」という剣闘士の種別が設定され、トラキア人以外の剣闘士をトラキア風の衣装で試合に出すようになるほど、トラキアは剣闘を象徴する代名詞だった。
徴募された奴隷らはまず、訓練生として剣闘士養成所で体系的かつ過酷な訓練を受けた。訓練生は逃亡防止のため厳重に監視され、専門的な訓練士が施す日々の訓練も自殺者を出すほど過酷を極めるものであった。選手として完成すると、興行師が主宰する剣闘士団に所属して試合に出場した。
当初の剣闘試合は「助命なし」というむごいものであったが、帝政初代皇帝アウグストゥスがこれを禁じ、原則として死亡前に試合終了とされるようになる。ただし、例外として罪人出自の剣闘士だけは死亡するまで闘わされた。
とはいえ試合では真剣を用いたまさしく真剣勝負であったため、重傷や死亡の危険が試合ごとにつきまとった。そうした危険の報酬として剣闘士にはかなりの額が支払われ、等級の高い剣闘士には褒美として贅沢な住居も与えられた。
無事生き残って引退した剣闘士は養成所の訓練士になれたほか、運と才覚があれば解放され自由民の興行師として一財産作ることもできたが、剣闘士の社会的評価は低く、解放されてもローマ市民権は与えられず、自由民中最下位の階級にとどめられた。
このような剣闘は帝政期にその頂点を迎え、試合も残酷さを増していった。帝政ローマが混乱期を迎えた「3世紀の危機」の時代には剣闘試合での死亡率が飛躍的に高まったとされるが、これは奴隷制自体が奴隷獲得の困難から行き詰まり、罪人や不良奴隷を剣闘士に採用することが増加したためと見られる。
ローマにキリスト教が普及すると、異教風習の名残と見られる剣闘に批判が向けられるようになり、帝国の東西分裂後、404年に西ローマ帝国のホノリウス帝の命により闘技場が閉鎖された。そのおよそ70年後、西ローマ帝国は滅亡している。ある意味で、古代ローマの歴史は剣闘と共にあったといえるかもしれない。