ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

不具者の世界歴史(連載第23回)

2017-05-31 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

「先進」諸国の優生政策
 非人道的なT4作戦の記憶のせいで、優生思想・優生政策と言えばナチスの代名詞のごとくであるが、実際のところ、決してそうではなく、それは同時代の世界各国、中でも先進国を標榜する諸国にも広がっていた。とりわけ、障碍者に強制不妊手術を施す断種政策の隆盛である。
 実は、ナチス優生政策の出発点も政権発足初期の1933年に制定した遺伝病根絶法に基づく断種政策から始まっている。その対象者は狭義の遺伝病患者に限らず、遺伝性のない精神障碍者や性犯罪者にまで及び、これによって断種された者はナチス政権の全期間で数十万人と推計される。
 こうした断種政策を世界で初めて導入したのは1907年、米国のインディアナ州であった。その後、カリフォルニア州など大規模州にも広がり、同州では最も多くの断種が施行された。カリフォリニア州断種法も対象者に性病患者や性犯罪者を含んでいた。
 断種政策に着手したのは米独ばかりではない。今日知られているだけでも、スウェーデンをはじめとする北欧諸国からスイス、カナダ、オーストラリア、日本などがある。中でも、福祉国家のモデルとされてきたスウェーデンの事例は衝撃を与えた。
 スウェーデンでは福祉国家の土台作りに寄与したと評される1930年代の社会民主党政権が断種政策を開始した。ナチスの断種法制定の翌年のことである。当初の対象者は精神障碍者・知的障碍者など「精神的無能力者」に限定されていたが、間もなく一定の身体障碍者や少数民族などにまで拡大されていった。
 他方で、手術には原則として本人の同意を要する形に改正されたが、その同意はしばしば形式的であり、事実上は強制であった。この断種政策により、1930年代から70年代まで40年にわたって6万件以上施術され、断種がスウェーデン福祉国家の隠し玉だったことが発覚したのである。すなわち、この時期のスウェーデン福祉国家とは健常者のための福祉国家であったことになる。
 一方、日本の場合、優生思想は早くから流入していたが、政策化されたのは戦時下の1940年、国民優生法の制定を初とする。これはナチス断種法を取り急ぎ模倣したものであったが、これが戦後の48年、より本格的な優生保護法に置き換えられた。1996年に母体保護法に置き換えられたこの法律下での不妊手術は、2023年に国会が公表した調査報告書によると、少なくとも約2万5千件に上る。
 日本の特異性として、断種対象にハンセン病患者が追加されたことがある。ハンセン病はらい菌によって引き起こされる末梢神経症状と皮膚症状を主とする感染症であって、遺伝性はない。にもかかわらず、日本ではハンセン病に関する特異な謬論に基づき、強制隔離政策が90年代まで続けられたばかりか、優生保護法による断種対象にまでされたのである。
 さらに、遺伝性のない精神障碍者や知的障碍者も断種対象に加えられた。同時に、精神障碍者に関しては、戦後の経済成長政策を妨げる「生産阻害因子」として、措置入院制度をも活用した精神障碍者の精神病院収容政策が推進された結果、以前にも述べた「精神病院大国」が現出することとなった。
 この収容政策は、断種対象とならなかった精神障碍者にあっても、精神病院への無期限的入院(いわゆる社会的入院)により社会との接点が絶たれ、生殖の機会が奪われることにより、結果的な断種となることから、緩慢な断種政策とみなすこともできるだろう。

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不具者の世界歴史(連載第22回)

2017-05-30 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

ナチスの「不適格者」絶滅作戦
 19世紀末の英国で形成された優生学がナチスの絶滅作戦にまで飛躍するには、一定の時間的経過が必要だったが、その間、最初に優生学が政策化されたのは米国であった。米国ではゴルトンが存命していた19世紀末には早くも優生学の政策化が推進されている。
 手始めに、知的障碍者・精神障碍者の結婚を制限する婚姻制限政策が州レベルで立法化された。同時に、障碍者への強制不妊手術を正当化する断種法の制定も相次いだ。もっとも、遅れて欧州や日本にも広がる断種政策については次回にまわす。
 米国優生学の特徴は、人種差別と結びつけられたことであった。米国有数の優生学者であったチャールズ・ダベンポートが設立した優生記録所が米国における優生学研究の拠点となり、彼の著書・論文が多大な権威を持った。
 「人種改良学」という彼の著書名にも採用された概念が、ダベンポート優生学をまさしく象徴している。これは、公民権改革前で人種差別が常態だった米国ではたちまち「通説」となった。20世紀の二つの大戦間期の米国では、ダベンポート理論に沿って、移民制限や人種隔離のような人種差別的政策が連邦レベルでも追求されたのである。
 この理論がドイツに輸入され、ダベンポートもコネクションを持っていたナチスの政策に強い影響を及ぼしたと考えられている。実際、ナチスのアーリア人種優越政策は人種改良学的な観点に立脚していた。ホロコーストは、その極限に行き着く政策であった。ただ、ここではナチス大虐殺のもう一本の柱であった障碍者絶滅作戦に焦点を当てたい。優生学との関わりでは、こちらのほうが「本筋」だったからである。
 実は、ドイツでもナチスが政権を掌握する以前から優生学が風靡し、すでに障碍者への断種や絶滅を主張する医学者らの主張が現れていた。一方で、1918年ドイツ革命後のワイマール共和体制はリベラルで社会民主主義的な観点から障碍者福祉・教育の充実を指向したが、「大きな政府」による財政難という難題にも直面していた。
 そうしたワイマール共和体制の限界を突く形で登場したナチスが1939年に開始した障碍者絶滅作戦(T4作戦)は、改めて優生政策を極大化させ、「小さな政府」を目指す最終解決策でもあった。この政策には医師その他の専門家も参画し、極めて体系化されていたが、根拠法律を持たない社会実験的な性格の秘密作戦であった。
 絶滅対象は精神障碍者・知的障碍者が主であるが、より広い「不適格者」の概念の下、反社会分子や浮浪者、同性愛者なども含む雑多なものであった。手段は「安楽死」と呼ばれたが、その実態はホロコーストと同様のガス殺が主であり、「安楽死」はカムフラージュの標榜に過ぎなかった。
 他方、視覚障碍者のように障碍を持ちながらも労働可能な者は対象から除外されたばかりか優遇され、ナチスを支持した障碍者団体も少なくなかったのである。また、ナチス政権のプロパガンダ政策で絶大な影響力を持った宣伝大臣ゲッベルスは、先天的に左右の足の長さが異なる軽度の身体障碍者でもあった。
 「民族社会主義労働者党」を標榜し、右翼労働者政党でもあったナチスの優生政策では「労働可能性」が指標であり、障碍者全般ではなく、労働できない障碍者等が保護に値しない不適格者とみなされたのであり、保護と絶滅は両立していたのである。 
 T4作戦は41年までの二年足らずで公式には終了したが、その間の犠牲者だけでも7万人余りと推計されている。ただ、公式に作戦が中止された後も現場レベルでの非公式の絶滅が収容所や病院単位で継続されたため、実際の犠牲者数はさらに多いとも指摘されている。

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不具者の世界歴史(連載第21回)

2017-05-29 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

優生学の形成
 障碍者を保護する時代の到来は、その反面で、管理統制を越えて障碍者を淘汰絶滅する思想を生み出した。この相反する二つの思潮は相即不離の関係にあって、保護の時代と絶滅の時代とは重なっている。すなわち、保護に値する障碍者と値しない障碍者の選別が行なわれるのである。
 こうした選別政策の理論的支柱となったのが、19世紀末に現れた優生学思想である。これは、英国の数学・統計学者フランシス・ゴルトンによって創始・提唱された疑似科学的な「理論」である。ゴルトンは進化論の祖チャールズ・ダーウィンの従弟に当たり、その理論の影響を受けていた。
 しかし、彼は従兄とは異なり、生物学を系統的に研究したことはなく、ダーウィンの理論を自己流に解釈して優生思想を創案した。その理論は極めて素朴と言うべきもので、それは彼が優生思想を確立する以前に出した主著の一つ『遺伝的天才』の中で、すでに先行して以下のように記述されている。

人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にもかかわらず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代にわたって賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出し得ることは疑いない。

 裏を返せば、障碍という能力制限的特質も遺伝によってもたらされるものであるから、そうした負の遺伝要素についてはこれを淘汰することで人類社会は改善されていくということになり、実際、ゴルトンは後にこうした意味で、優れた遺伝子を保存し、劣った遺伝子を淘汰する優生思想へと到達したのである。彼によれば、弱者保護政策は弱者を人類社会から廃絶すべきはずの自然選択と齟齬を来たすのである。
 ここには、同時代に高まりを見せていた人道思想や社会主義思想への反対という保守的な政治思潮との共振を読み取ることもできる。ただ、科学者であったゴルトンは、それを社会思想ではなく、当時を風靡していた進化論と遺伝学を組み合わせた科学理論の体裁を取って主張したところに利点があった。
 実際のところ、ゴルトンの自然選択説はダーウィン理論のあまりに形式的・皮相的な二次加工であって、同時代的にも批判者はあったが、その単純さゆえに科学的素人にもわかりやす過ぎるという危険性を内包していた。
 そのためか、ゴルトン自身は弱者淘汰のための政策的手段、中でも絶滅のような強権的手段は何ら提示しなかったにもかかわらず、優生学は科学的究明よりも政策的手段の開発へと突き進んでいくのである。ゴルトンは1911年に世を去ったが、その後の優生学は彼の想定をもはるかに越えて政治思想化していった。

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農民の世界歴史(連載第45回)

2017-05-23 | 〆農民の世界歴史

 第10章 アジア諸国の農地改革

(6)ケシ黄金地帯と内戦

 以前取り上げた南米コロンビアが世界最大級のコカイン原料コカ栽培地となっているのに照応して、アフガニスタンは世界最大級のアヘン原料ケシ栽培地となっている。とりわけ同国東部ジャララバードを中心に、国境を越えてパキスタン、イランにもまたがる地帯は、「黄金の三日月地帯」の異名を持つケシ栽培地帯として知られる。
 この地域でのケシ栽培は1950年代から本格化し、アフガニスタン内戦時代を通じて、貧農にとって最有力の換金作物として生産高も増加していった。しかし、96年に政権を握ったイスラーム原理主義勢力ターリバーンの禁止令も影響して生産高は一時減少したものの、9.11事件に起因する米軍の攻撃による2001年の政権崩壊後は、再び急速に生産高が回復している。
 特に反政府武装勢力に戻ったターリバーンの拠点がある地域に栽培地が集約される傾向にあり、ケシ栽培と麻薬取引がターリバーンの資金源となっている可能性が指摘されている。コロンビアと同様、代替作物への転換が課題であるが、元来農業適地も少ない土地柄のうえ、旱魃に悩まされ、戦乱による農地の荒廃も加わり、課題達成は容易でない。まずは内戦の完全な終結が鍵を握るだろう。
 アジアにはもう一箇所、ケシの大栽培地帯がある。それはミャンマー東部シャン州を中心にメコン河をはさみ、タイ、ラオスにもまたがる「黄金の三角地帯」の異名を持つ地帯である。
 この地域でのケシ栽培の歴史は19世紀に遡ると言われるが、本格化するきっかけは戦後、国共内戦に敗れた中国国民党残党軍がシャン州やタイ北部に流入し、現地少数民族を配下に事実上の独立国を形成、その財源に麻薬取引を据えたことにあると言われる。
 ちなみに、ミャンマー(旧ビルマ)では、ネ・ウィン将軍の「ビルマ式社会主義」体制時代に土地国有化を基調とした農地改革が断行されたが、政府の支配が及ばない国境の少数民族地帯に改革の効果は及ばなかった。
 その後、国民党残党が弱体化すると、中国が支援したビルマ共産党とそのライバルで米国が支援したシャン族軍閥クン・サーらがそれぞれビルマ政府との内戦下でケシ栽培と麻薬取引を資金源とし合ったため、80年代以降の「三角地帯」のケシ栽培は最盛期を迎え、「三日月地帯」を凌ぐまでになった。 
 しかし、ビルマ共産党は89年に解散し、クン・サーも96年にはミャンマー政府に投降した後、2002年には軍事政権によるケシ栽培禁止令により、サトウキビ等への転作も一定進んだことで生産量は減少するも、少数民族軍閥が麻薬利権を継承し、なお資金源としているとされる。この地帯でのケシ栽培からの転換も、多民族国家ミャンマーにおける少数民族紛争の根本的な解決にかかっているだろう。

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農民の世界歴史(連載第44回)

2017-05-22 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(5)西アジアの農地改革

 西アジアには多数のイスラーム諸国がひしめくが、その中でも最大人口を擁するイランは比較的農地改革が進展した国である。イランで本格的な農地改革が断行されたのは、パフラヴィ朝第二代モハンマド・レザー・シャー国王が1960年代以降に推進した上からの近代化改革「白色革命」の過程においてであった。
 従来、イランでも半封建的な大土地所有制と農奴化した貧農という構造が形成されていたところ、政府は地主から土地を買収し、それを市場価格の30パーセント程度の安値で、かつ低利長期融資で農民に売り渡すというオーソドクスな方法で改革を進めた。
 この改革の恩恵を受け、土地持ち農民となったのは当時の人口の半分に近い900万人とも言われ、相当に大きな効果を持つ改革であった。こうした日本の戦後農地改革に匹敵する大改革が断行できたのも、前近代的な絶対王政の強権支配のおかげであったのは皮肉である。
 ただ、そうした非民主的体制下での農地改革の結果は、農村における富農と小土地農民、農業労働者の新たな階級分裂であった。最下層の農業労働者は、都市部へ流出することが多かった。マルクスの潜在的過剰人口の事例である。
 パフラヴィ朝を打倒した1979年イスラーム革命は白色革命に対する反動でありながら、農地改革の成果を覆すことはしなかったが、イスラーム共和体制下では補助金農業から営利農業への転換が主流的となった。
 これに対し、東隣のアフガニスタンの事情は大きく異なる。山岳国家アフガニスタンでは大土地所有制は発達せず、イランで農地改革が始まる同時期の1960年当時でも、全作付耕地のうち自作経営地はイランの28%に対してアフガニスタンは60%であった。
 そうした中にあって、1978年の革命で成立した社会主義政権は地主階級の部族長に所有された大土地の無償接収と農民への再分配という社会主義的な農地改革を性急に断行したことで、部族長勢力の虎の尾を踏むことになった。
 これが長期に及んだ内戦へのステップとなり、アフガニスタンの耕地面積の三分の一が破壊され、荒廃したとされる。大土地所有制が希薄な好条件を持ちながら、戦乱によってアフガニスタン農業は破壊され、農民は戦士として動員、大量の戦死者を出すこととなったのであった。
 イランの西隣トルコでは、イランの白色革命に遡ること40年、オスマン帝国を解体したケマル・アタチュルクの共和革命によって近代化改革が断行されたが、オスマン時代以来の地方首長アーガによる大土地所有制にメスを入れる農地改革は西部地域に偏り、彼の早世により後手に回った。
 アタチュルクの没後、農業改革本部を通じた農地改革の試みは続くが、徹底することはなかった。かくしてトルコの大土地所有制は現代まで生き残ることになるが、これは次第に大規模投資を通じた企業的営農の形態を取って資本主義に適応化している一方、補助金に依存する小土地農民の困窮をもたらしている。

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没論理の新共謀罪法案

2017-05-18 | 時評

衆議院で可決間近となっている「テロ等準備罪」の名を冠した実質的な新共謀罪法案の趣旨説明は、改めて没論理的な思惑でもって立法が“粛々と”進むこの国の危険性を露呈している。

この法案の必要性について、政権は2020年東京五輪を睨んだ「テロ対策」として説明している。が、それならば、「テロ等」ではなく、まさに「テロ準備罪」に限定した縮小法案で足りるはずだ。なぜ「等」として、テロ以外の犯罪にも大幅に拡大するかの説明がつかない。

拡大の理由として想定されるのは、署名のみで批准が十年以上先送りとなっている国連組織犯罪防止条約の批准条件を整備するためという点だが、これについては、新法なしでも十分批准は可能とするのが専門家の大方の見方である。

とすると、いったい政府をしてこれほど新法制定を焦らせるものは何か。おそらくは捜査・処罰権限の一挙拡大という国家的思惑である。実際、専門家たちが懸念するように、新法が制定されれば、従来の刑法体系を一変させるほどの大改変が加わることになり、国家は原則として犯罪の実行行為を待たねば人を処罰できないという法的制約から解放される。そして、それが可能なのはしかない。

そうした思惑を一般国民向けには「テロ対策」という餌で釣りつつ、拡大的な「テロ等」の矛盾を突かれると、批准・加盟自体には大きな異論のない条約を持ち出してフォローするという相互に矛盾する二段構えの理屈―細かくは政権与党が「テロ対策」、所管法務省は「条約」で役割分担しているようにも見える―で制定を急ごうというのが政権の計略のようである。

法案への賛否を聞く各種世論調査では「わからない」が相当に多い。「わからない」理由は、無関心からか無知からは不明だが、「わからない」人は少なくとも反対はしないわけで、国民がよくわからない間に法案をさっさと通過させるには絶好のタイミングであろう。

しかし、刑法体系をたった一本の法律で覆してしまう法案を没論理的な思惑だけで強引に成立させることは、将来に重大な禍根を残すことになる。せめて、「理性の府」参議院は否決する気概を示してほしいところである。

〔追記〕
期待も虚しく、参議院は否決どころか、委員会審議を打ち切る「中間報告」というウルトラ術策―緊急性という「中間報告」の要件自体も充たしているか疑わしい―を使って採決した。2017年6月15日は参議院が死んだ日付として記憶されるだろう。

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不具者の世界歴史(連載第20回)

2017-05-16 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

精神病院の発達
 障碍者を「保護」するという啓蒙的な試みの裏には、社会的異分子である障碍者を「管理」するというもう一つのコンセプトが横たわってもいた。そのことが最も如実に表れたのは、精神病院のシステムであった。
 精神障碍者は外見上健常者と差異はなく、通常は身体障碍を伴わないので、特別な処置・介助を必要としない。そのため、「保護」しやすい。一方で、精神病は当初不治の病とみなされていたため、危険分子の恒久的収容先として精神病院は都合の良い所でもあった。
 精神疾患の中でも代表的な統合失調症は19世紀半ばにフランスの精神医学者ベネディクト・モレルによって初めて近代医学的に記述されたが、有効な治療法はまだなく、薬物療法が始まるのは1930年代を待つ必要があった。そのため、精神病院は病院というよりは保護施設に近いものであった。
 精神病院に近い制度は、革命前のフランスでルイ14世によって設立されたビセートル病院や、マッドハウス(madhouse)という粗野な名称で呼ばれた英国の収容施設などがあるが、近代的な意味での世界初の精神病院はイタリアが発祥地とされる。
 特にフランス革命直前期に設立された聖ボニファチオ病院である。そこは従来の監獄に近い収容環境ではなく、開放的処遇や作業療法などの近代的な療養体制が構築された「病院」であった。フランス革命後には、近代的精神医学の祖の一人フィリップ・ピネル医師により、ビセートル病院閉鎖病棟の廃止が主導された。
 こうした欧州大陸主導の精神病院制度は間もなく英米にも伝わる一方、管理の視点も強化されていく。例えば、英国では1845年に精神異常法が制定され、精神異常と認定された者を強制収容する法的根拠となった。また1900年のイタリアでは自傷他害・公序良俗を乱す危険のある精神障碍者の強制入院を定めた法律が制定される。これは近代的な措置入院制度の先駆けであった。
 しかし、精神障碍者管理の体系を最も発達させたのは、欧米以上に近代日本であった。日本では明治維新当初、「癲狂院」の名の下に精神病院の設立が相次いだが、病棟不足から1900年には精神障碍者を自宅内に幽閉する私宅監置を制度化し、対象者を警察の管理下に置くこととした。この制度は1950年の廃止まで続いたのである。
 日本ではその後、私立精神病院の設立が続き、世界でも最も多くの精神科病床と無期限的入院患者を擁する「精神病院大国」となっていくが、これは治安管理政策とも結びついた日本式社会統制の方法であった。対照的に、近代的精神病院を発祥させたイタリアは、1978年に精神病院制度を廃止する急進的政策に踏み出していく。

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不具者の世界歴史(連載第19回)

2017-05-15 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

「障碍者」の概念形成
 今日では常識となっている「障碍者」という認識概念は、さほど古いものでない。長い間悪魔化されていた障碍者に正しい理解がなされる契機は、西洋啓蒙思想がもたらしたものだが、それに先駆けて、フランスのモラリスト、モンテーニュが進歩的な障碍者観を示していた。
 彼は親によって見世物にされた障碍児を見て思索したことを、主著『エセー』にわざわざ一章を割いて述べている。「奇形児」と題されたその章で、モンテーニュは次のように述べる。

我々が奇形と呼ぶものも神から見れば奇形ではない。神は、自らがお創りになった広大な宇宙の中に様々な形態をお入れになり、それらを一様に眺めておられる。

我々は、慣例に反して生じるものを〈反自然〉と呼ぶ。しかし、何一つとして自然に従っていないものはないのだ。普遍的かつ自然に与えられている理性が、新奇なものに対して我々が抱く誤りと驚きとを我々から追い払ってくれますように。

 16世紀人であったモンテーニュは科学的思考をまだ知らなかったが、ここでは神への信仰を媒介に、障碍者も神の多様な被造物の一つであり、それもまた「自然」であることを強調する。これは、障碍者を反自然的として悪魔化しようとする当時の蒙昧な思考へのアンチテーゼでもある。
 このような思考によれば、心身の機能に制約・欠如がある者も「自然」な人間存在として公平に扱うことができるようになる。しかし、それを「障碍者」として認識するには、近代科学を土台とする近代医学の発達を必要とした。
 医学は正常と異常を鑑別し、記述する。それに伴い、健常者/障碍者という対概念も形成されていった。これを近代統計学が後押しし、その発達は障碍者の細分類や人口統計の基礎を提供するようになっていった。
 障碍者は悪魔として排斥されたり、好奇なショウで使役される存在から、発見・保護される存在となる。ただし、そこでの「保護」のありようは病院や福祉施設への収容と特殊教育である。
 その点では、「新大陸」アメリカがリードしており、ここでは19世紀の比較的早い段階から、後にヘレン・ケラーも学ぶ視覚障碍者の学習施設パーキンス盲学校や、知的障碍者学校など、特殊教育が民間篤志家の努力で発達していった。

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農民の世界歴史(連載第43回)

2017-05-09 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(4)インド農地改革と共産党

 英国植民地からの独立以前のインド農地は、ムガル帝国時代に確立された徴税請負人(ザミーンダール)が実質的な地主となるザミーンダーリー制を基本としていたが、ムガル帝国支配が元来手薄な南部では耕作者を土地所有者と規定し、納税契約を結ぶライーヤトワーリー制が導入された。
 ザミーンダーリー制は元来準封建的な制度だったが、英国はザミーンダールの封建的特権を廃止したうえで、かれらを地主とみなし、ある程度近代的な土地所有制度に仕立てようとした。ライーヤトワーリー制は近代的な土地所有制度への過渡的制度であったが、明治日本の地租改定と同様、重い地税負担に耐えかねた農民が耕作地を手放し、結局は土地の集中化が生じた。
 こうした状況下で、連邦制のインドにおける農地改革は、英国からの独立後、基本的に州レベルで実施された。もっとも、全体の司令塔役として、独立後インドの最大政党となった国民会議に農業改革委員会が設置され、その勧告がベースとされた。
 そこでの中心課題は、旧来のザミーンダーリー・ラーイヤトワーリー両制の廃止と農民搾取の廃絶にあったが、国民会議派政権は社会主義を標榜しつつも、土地の国有化といったソ連式の農地改革には踏み込まなかった。そのため、基本的に州政府に委ねられたことと相まって、インド農地改革もまた総体として不徹底に終わる運命にあった。
 ただ、その中でも州レベルで共産党が政権党に就いた所では、農地改革の前進が見られた。先駆けはケーララ州である。1957年に政権党となった共産党は60年代にかけて中央政府との対立状況を乗り越え、議会制を通じた数次に及ぶ農地改革を漸進的に実行した。
 これに遅れて、西ベンガル州でも、1977年に政権に就いた共産党の下で、バルガ作戦と命名された農地改革が実行された。これにより、小作人(バルガダール)の解放と土地の分配が実現したのである。この政策の成功もあり、共産党は2011年まで州政権を維持した。
 しかし、こうした農地改革の成功州はむしろ例外的である。共産党も分裂状態にあり、強硬的な共産党毛沢東主義派は農地改革の遅れた諸州の農村を基盤に農民革命を謳った武装テロ活動を展開し、政府と対峙している。ここには、フィリピンと同様の状況がある。
 一方、農業技術面では、インドは緑の革命の最大の成功国とみなされている。インドは1960年代初頭の大飢饉を機に中央政府レベルで稲の研究開発を進め、70年代以降、安定した米産国として定着してきた。今後は、こうした農業技術面での成功と依然として不徹底な農地改革の前進及び農村の貧困克服をいかに結びつけるかが大きな課題である。

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農民の世界歴史(連載第42回)

2017-05-08 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(3)フィリピン農地改革と共産ゲリラ

 東南アジア諸国の中で、フィリピン農地改革は困難を極めてきた。フィリピンはスペインの侵略以前、部族長の統率の下、農地は共有制を採っていた。こうした原初共産的共有制はスペイン侵略後、アシエンダ農園制に置換された。
 その点では、同じくスペイン支配を受けたラテンアメリカと類似している。しかし、フィリピンは米西戦争の結果、アメリカの手に渡り、20世紀以降、アメリカ植民地となる。新たな植民地支配下で、アシエンダは近代的プランテーションに移行するが、その基本構造は不変であった。
 そうした中、日本軍占領下でフィリピン共産党が指導する農民革命運動フクバラハップ(フク団)が結成され、抗日運動としても活動する。これは中国共産党ゲリラ軍を範とする運動であり、フィリピンにおける共産ゲリラ活動の先駆けでもあった。
 独立後のフィリピンでは先のフク団がいっそう強勢化し、議会にも進出するが、冷戦期の親米反共政策を展開したマグサイサイ大統領は国防相時代にフク団を壊滅、共産党も勢力を失った。その代替として、マグサイサイ政権及び後のマカパガル政権は農地改革に着手するも、スペイン系地主層の抵抗で骨抜きにされた。
 ある程度本格的な農地改革の実行は1970年代、戒厳令を発動して独裁体制を築いたマルコス時代を待つ必要があった。マルコスは遅ればせながら、小作農解放令を発布し、自作農創設を目指す農地改革に打って出るも、地主の抵抗力は強権的な戒厳統治すら乗り越え、またも改革の軟弱化に成功する。
 ただ、マルコス時代は「緑の革命」を通じた農業技術革新によって、米の自給体制を確立するという成果も上げた。しかし、マルコス一族及び取り巻きが特権的寡頭化していく中、農地改革のそれ以上の進展はなかった。
 他方、共産党が毛沢東主義を掲げて再建され、軍事部門の新人民軍を通じて再び農村拠点の共産ゲリラ活動を開始し、独裁政権の先兵として増強された国軍との間で内戦的状況に陥っていった。
 新人民軍は民衆革命によるマルコス政権崩壊後、90年代に穏健派の懐柔離脱により孤立させられ、弱体化したものの、なお活動中である。一方で、新興華僑も加わった地主層は半封建的な地方政治家や財閥の形態を取って支配力を維持している。
 政府による農地改革は歴代政権をまたいでなおも継続中であるが、めざましい成果は上げられないまま、旧来の地主‐小作関係は温存され、農村の構造的貧困が長期課題となっている。また一度は達成した米自給体制も限界を露呈、輸入国に回帰するなど生産体制にも課題がある。

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「9条加憲論」をめぐって

2017-05-04 | 時評

安倍首相が3日の憲法記念日に打ち出した新たな9条改憲提案は、軍の保持を禁止する現行9条2項を温存したうえで、自衛隊の規定を追加するというもので、首相が総裁を務める自民党が2012年に公表した9条2項廃止・国防軍の創設という改憲案とは大きく隔たる「9条加憲論」と呼ぶべき新提案であった。

しかしながら、改憲派集会向けビデオメッセージという形で提起された今回の提案は、内閣総理大臣としての演説・声明ではないことはもちろん、自民党総裁としての党内会議等での演説・発言ですらない、民間改憲団体に宛てた個人的なメッセージにすぎない。

つまり、一人の改憲論者安倍晋三としての私案である。本人の認識がどうあれ、公表の形式を客観的に見る限りそうである。そういう前提で、この提案をどう受け止めるかであるが、筆者はあえて是々非々としたい。

是とする条件は、9条に追加されるという自衛隊条項が、平和主義を指導原理とする自衛隊の任務や文民統制に基づく指揮系統について憲法上十分にこれを制約し、自衛隊に対する憲法的コントロールが及ぶ内容になるかどうかである。

その点、自衛隊は創設からすでに半世紀を越え、戦後日本の公式防衛組織として「定着」を見ながら、憲法に一行も規定がなく、すべてを憲法の下位法で規定する憲法上幻の組織であることにより、憲法的コントロールが効かないまま、なし崩しに権限や組織が拡大の一途をたどり、違憲状態になりかけている。

この状態を解消し、言わば「防衛立憲主義」を実現するために、自衛隊は9条2項が禁ずる陸海空軍に該当しないことを前提に、如上のような憲法上の根拠規定を適切に置くなら、ぎりぎりで賛同できる改憲案となり得るだろう。

一方、非となるのは、自衛隊条項を単純に追加するのみにとどまったり、あるいは改憲に乗じて自衛隊の任務をいっそう拡大し、自衛隊が文民統制を破って自立暴走しかねない内容が盛られるような場合である。

私案とはいえ、最長で2021年までの史上最長期政権を窺う首相が打ち出した以上、その方向での検討が進む公算は高い。感情的に反発するのでなく、具体的成案を見たうえで、理性的な討議がなされることを期待したいと思う。

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不具者の世界歴史(連載第18回)

2017-05-03 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

“エレファント・マン”ジョゼフ・メリック
 フリーク・ショウの祖国と目される英国のヴィクトリア朝時代、数奇な運命をたどった一人の障碍者が現れた。20世紀の映画『エレファント・マン』の題材ともなったエレファント・マンことジョゼフ・メリックである。
 メリックは1862年、英国中部のレスターで、労働者階級から衣料品店主となった下層中産階級の父のもとに生まれた。メリックが11歳の頃に他界する生母は軽度の身体障碍者であったが、働ける状態であった。
 出生時には特に異常のなかったメリックは2歳が近づいた頃から顔面に腫脹が発生、手足も肥大化し、全身のバランスを失するような姿態に変形していった。当時の医学水準では彼の病気を正確に診断することはできなかったが、今日では原因不明の過誤腫症候群として位置づけられるプロテウス症候群とする説が有力化している。
 いずれにせよ、当時の英国庶民階級が難病医療を受けることは至難であり、メリックも症状を放置したまま成長する。公立学校を終えると、当時の庶民階級子弟の例にならい働き始めるが、すでに人間の容貌とは思えないほどに腫脹が進行しており、生業としていた行商人の仕事も客が寄りつかず、ほぼ不可能な状態であった。
 簡易宿泊所や親類の家を渡り歩いた末、彼は自らレスター市に保護申請し、救貧院に入所が認められた。救貧院とは近世の英国に見られた就労困難者を収容する保護施設であり、対象者は多種多様であったが、当時は就労機会のほとんどなかった障碍者が多く、事実上の障碍者施設であった。
 だが、その劣悪極まる居住・衛生環境に耐えられなくなったメリックは著名なフリーク・ショウの興行師に自らコンタクトを取り、その紹介で別の巡回興行師のマネージメントの下、フリーク・ショウの芸人となったのである。腫脹で異常肥大したメリックの容姿から、「半人半象」を意味するエレファント・マンの芸名はこの時に誕生した。
 しかし、芸人エレファント・マンの生活も長くは続かなかった。英国では数百年の長い歴史を持つフリーク・ショウであったが、時代は19世紀末、人道主義的思潮もあって、フリーク・ショウを取り締まる動きが出てきたのだ。そのあおりで、メリックの所属するショウにも閉鎖命令が下され、彼はオーストリア人興行師に売られたが、欧州でも振るわず、解雇されてしまう。
 こうして失業者として英国に戻ったメリックは、芸能活動中に彼を診察したことがあり、数少ない友人ともなる外科医フレデリック・トレヴェスの計らいでロンドン病院に入院することができた。以後、ここが彼の終の棲家となる。
 無一文の彼の入院費用をまかなうための寄付金を募るロンドン病院理事長の新聞投稿がきっかけで、英国上流階級からの支援が得られるようになった。多くの貴族や著名人の面会者が彼のもとを訪問した記録が残るが、その中には時のエドワード王太子妃アレクサンドラ(後のエドワード7世妃)すらいた。
 実際、この時期の彼は上流階級の仲間入りを果たしたかのように、病院を住処としつつも、観劇や田園での避暑なども楽しんている。上流階級による慈善活動が社会慣習化し始めた時代の風潮もメリックに味方していた。
 メリックの生涯で、この頃が最も幸せな時期であったろうが、これも長くは続かなかった。1890年4月、彼が病室で死亡しているのを回診の医師が発見した。検視の結果、腫脹で肥大化した頭部を抱えるようにして就寝する習慣ゆえの頚椎脱臼による事故死と判定された。
 こうしてあっけなく終わったメリックの27年の短い生涯は、不具者の世界歴史が見世物の時代から保護の時代へと大きく動く転換期に当たっていた。彼の短くも数奇な人生は、それ自体が一個の歴史である。

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不具者の世界歴史(連載第17回)

2017-05-02 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

“シャムの双子”バンカー兄弟
 啓蒙の18世紀に続く19世紀は、資本主義の発展とも相まって、障碍者や動物を使った反啓蒙的とも言える見世物フリーク・ショウのビジネス化が急速に進む。中でも、資本主義が隆盛化した英米である。そうした中、障碍者の中には芸人として成功を収める者も出てきた。
 例えば、結合双生児チャンとエンのバンカー兄弟である。兄弟は1811年、中国系タイ人として漁師の家に生まれた。兄弟は腹部付近で正面並列に近い形で結合していたおかげで、かなりの運動能力を保持していた。
 そのことに目を付けたタイ在住のスコットランド人商人によってスカウトされた兄弟は、18歳の頃から欧米でフリーク・ショウの芸人として活動を始めた。この時、「シャム(タイ)の双子」という芸名を名乗ったことから、結合双生児の不適切な俗称「シャム双生児」が誕生した。
 兄弟は10年ほど活動した後、1839年以降は米国のノースカロライナ州に移住して奴隷付きのプランテーションを購入、米国市民権も取得した。芸人から奴隷農場主となった。そのうえで、バンカー姓を名乗って、二人それぞれが米国人姉妹と結婚、家庭生活を営み、それぞれ10人以上の子をもうける大家族を築いた。
 幸せな大家族の運命に影が差したのは、バンカー兄弟の成長した息子たちも従軍した南北戦争である。かれらが暮らすノースカロライナは南部連合軍側であったから、戦争での敗北は一家の暮らしを直撃した。
 そのため、バンカー兄弟は再び芸能活動に復帰しなければならなかったが、二番煎じは以前ほどの成功をもたらさなかったようである。とはいえ、兄弟はその尊敬される人柄と大家族のおかげで、それなりに安定した晩年を送ることができた。
 しかし、チャンのほうが次第に健康を害したうえ酒に溺れるようになったあおりで、結合したエンにも影響が及ぶ中、1874年、先に病死したチャンの数時間後にエンも他界し、兄弟はほぼ同時に62年の生涯を終えたのであった。
 こうして、結合双生児という重度障碍をもって生まれながら芸人として成功し、米国に移住して農場主となったバンカー兄弟は19世紀米国的な意味で社会的成功者と言えるであろう。これもまた、「アメリカン・ドリーム」の一つのあり方だったのかもしれない。
 ちなみに、バンカー兄弟の子孫は兄弟の没後も今日に至るまで繁栄しており、職業軍人や学者、実業家、政治家、作曲家など多彩な分野で活躍していることも特筆すべきことである。
 バンカー兄弟と同時代、あるいはそれ以降に活動したフリーク・ショウの障碍者の芸人は多く、「親指トム将軍」の芸名で活動した小人症のチャールズ・ストラットンとその妻となる同じく小人症のラヴィニア・ウォレン、小頭症のエルサルバドル人姉妹マキシモとバルトラ、20世紀に入っても英国人の結合双生児デイジーとヴァイオレットのヒルトン姉妹などがある。
 フリーク・ショウは英国では一足早く取り締まりが始まるが、米国のフリーク・ショウに対しては、ブンカー兄弟没後の19世紀末から人道的な批判も出されるようになるものの、州レベルで法的な規制が始まるのはおおむね1930年代以降のことであった。

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不具者の世界歴史(連載第16回)

2017-05-01 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

マリア・アンナと家重
 18世紀は世界史上の啓蒙的な画期点と言える百年であったが、不具者の世界歴史においても、なお悪魔化の時代を引きずりながら、特に支配者階級の障碍者のありように変化が現れ、保護され、尊重された障碍者が出ている。その中でも、異彩を放つ事例をヨーロッパと日本から一人ずつ取り上げてみたい。

 ヨーロッパでは、オーストリア帝国皇女マリア・アンナである。彼女は、著名な啓蒙専制君主マリア・テレジアの次女であり、フランス王家に嫁ぎ、革命で処刑されたマリー・アントワネットの姉にも当たる。
 長女だった姉が夭折したため、弟のヨーゼフが誕生するまでは一時的にオーストリア皇位継承者であった時期もあるマリア・アンナは生来病弱であり、成長するにつれて背骨の彎曲が進行したため、身体障碍者となっていった。
 そうした事情から、生母マリア・テレジアの愛情を受けることができず、むしろ父の神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの庇護の下に学芸の道に励むようになった。中でも当時はまだ草創期だった自然科学への関心である。特に鉱物や昆虫のコレクションを持ち、後にフランツ・ヨーゼフ1世が創立した自然史博物館のコレクションの基礎となった。
 その他、マリア・アンナは考古学的な発掘調査に私財を投ずるなど、19世紀以降に隆盛化する西洋近代科学の先取り的な事業にも着手するなど、まさに啓蒙時代の宮廷パトロンとしての役割を果たした。
 ただ、こうした知的な貢献は当時の時代意識には合致しておらず、世間の風当たりは強く、生母、さらには弟のヨーゼフからも冷遇された。特にマリア・テレジアの没後、帝位に就いた弟のヨーゼフ2世は姉を宮廷から修道院へ追いやった。
 しかし、かえってマリア・アンナはこの機をとらえ、病院の整備や貧困者救済などの社会福祉活動を新たに始め、こうした分野でも近代的な社会事業の先駆者となり、民衆の支持を得た。
 晩年は車椅子生活だったマリア・アンナは生涯独身のため、フランス革命勃発の年1789年に没した時、その全遺産は、最終的に姉を受け入れた弟帝の計らいで修道院に寄贈された。

 他方、時代は一世代ほど遡るが、いわゆる鎖国により西洋啓蒙思想からは遮断されていた日本でも、18世紀には言語障碍を持つ将軍徳川家重が出ている。家重は享保の改革で知られる8代将軍徳川吉宗の長男である。
 家重の障碍の内容については諸説あるが、脳性麻痺説が有力である。彼が健常的な弟たちを押さえて将軍に就けた事情については、能力より長幼序を優先した封建時代の思想に由来するとも考えられる。しかし、父吉宗が幕閣内や他の息子の間にもくすぶっていた廃嫡論を排して家重への継承を主導した背景には、家重の知的な能力を問題視していなかったことも考えられる。
 より想像をたくましくすれば、洋書輸入規制の一部緩和を実行するなど、歴代将軍の中でも最も「啓蒙的」であり、小石川養生所の設立など福祉政策にも関心のあった吉宗は、あえて障碍者将軍を誕生させるという進歩的決断をしたのかもしれない。
 実際、家重が側近を通じてながら職務を全うし得た点からすると、知的障碍を伴わない構音障碍者だったとも考えられる。ただ、言語障碍はかなり重度であったようで、彼の言葉を聞き取れるのは幼少期から近侍した側用人の大岡忠光のみであったいうのはよく知られた説である。
 その他、家重には原因不明ながら頻尿の持病もあり、外出時の対策として江戸城から将軍家菩提寺の上野寛永寺へ出向く道中に多数の専用便所を設置していたとされるほどの重症だったようであり、言語障碍と合わせ、肉体的なハンディは大きかったと見られる。
 それでも、家重は父吉宗の威信と改革の遺産を背景に、会計検査制度の刷新や財政経済改革をさらに進めるなどの成果を残した一方、家重の治世では享保改革以来の増税策に起因する百姓一揆の頻発などの混乱も起きた。特に岐阜の郡上藩で発生した郡上一揆では異例の幕府上層部の処分を決断を示したのも家重である。
 しかし、障碍者将軍ゆえか、幕府を軽んじるような風潮も一部に見られ、京都では蓄積していた幕府の朝廷抑圧への反発もあって尊王論が蠕動し始める。その結果、1759年には京都で尊王論者が摘発される宝暦事件のような事案も発生している。
 このような不穏事象はあったものの、家重の治世は大岡ら側近者の手腕もあって比較的安寧のうちに、嫡子家治への継承を実現した。その点、幕府の公式史書『徳川実紀』にあっても、「万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院殿(吉宗)の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」との肯定評価がなされていることは注目に値する。
 しばしば家重に対してなされてきた俗世の暗愚評には、現代ですらつきまとう障碍者=無能力者というバイアスが内包されていたのかもしれない。

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