以上で現代的弁証法の構築としての遡行的弁証法の試論を終えるが、以前にも述べたとおり、弁証法は形式論理学と並んで物事を実質的に思考するうえで有効、不可欠な思考法であり、とりわけ形式論理学だけでは解決のつかない社会科学分野の思考にあっては、欠かせないものである。
以上で現代的弁証法の構築としての遡行的弁証法の試論を終えるが、以前にも述べたとおり、弁証法は形式論理学と並んで物事を実質的に思考するうえで有効、不可欠な思考法であり、とりわけ形式論理学だけでは解決のつかない社会科学分野の思考にあっては、欠かせないものである。
(17)弁証法の展開過程Ⅰ:遡行
Ⅵ 現代的弁証法の構築
上例で言えば、個人的利益と公共的利益とはともに量的ではなく、質的な要素である。そして、公共的利益はしばしば保守的である。これを目下の先鋭なテーマでさらに具体化すれば、同性婚の是非をめぐる議論がある。
ちなみに、この弁証法的な公証パートナーシップ制度にあっては、パートナーは別姓を原則とするから、この制度を異性間にも適用可能とすれば、日本では現時点で依然として解決がつかない夫婦別姓婚問題にも解決がつく可能性があり、汎用性は高い。
(15)自然科学と弁証法
Ⅴ 弁証法の再生に向けて
(14)弁証法の位置づけ
現代は「科学の時代」と言われ、科学的思考が強調される反面、人間の思考を長く支配した哲学的思考は廃れていく傾向にあるが、弁証法は形式論理学と並び、科学的思考法の基礎を成す一個の哲学的方法論であり、言わば「科学哲学」の方法論である。そのようなものとして、弁証法の再生を考えていく。
弁証法を再生させるに当たり、思考方法論におけるその位置づけについて考慮しておく必要がある。その際、今日、科学的思考法の基礎として定着している形式論理学との関係において、位置づけを見定める。なぜなら、弁証法は形式論理学と互いに排斥し合う関係にないからである。
弁証法は形式論理学とは異なるとはいえ、形式論理を無視した非論理的・直観的思考によるのではなく、形式論理を踏まえながらも、より事物の実質的な価値に即した思考をする点で、実質論理学とも呼べるものである。その点で、弁証法は形式論理学のような明証性に欠けるきらいはあるが、それゆえに形式論理学より下位に落ちるわけではない。
形式論理学は、三段論法に代表されるような形式論理によって結論を導く際の最も合理的な思考方法であり、その最も純粋な形態は数学に現れる。形式論理学は、数学を基盤とする数理的思考になじみやすい。そのため、数理的思考を基礎とする自然科学全般の思考的土台となる。
しかし、自然現象も数理的思考だけではとらえ切れない。その困難さは量子物理学のようなミクロな世界に至るほどに増し、弁証法的思考を要する場面が増す。また、自然科学の中でも特に複雑な生命現象を扱う生命科学も、数理的思考の独壇場ではない。そうした自然科学における弁証法の適用領域に関しては、次節で改めて検討を加えることにする。
ところで、今日、科学と言った場合、自然科学のほかに、社会科学という比較的後発の科学分野がある。社会科学は、社会性生物である人類の社会に関する科学的な探求を目的とする学術分野であるが、人類社会という人工物の諸原理を解明するには、形式論理学だけでは不足である。
人類社会といえども、自然法則の支配を免れることはできないが、人類社会においては、しばしば形式論理を越えた価値命題が介在して、数理的思考だけでは解決できない諸問題を惹起することがある。ここに、弁証法の最大の出番がある。もっとも、社会科学的思考においても、データや数式を用いるに際しては形式論理学が適用されるが、それは手段的な意義にとどまる。
また、地球環境科学のように、自然科学と社会科学の双方に融合的にまたがり、それ自体が弁証法的な止揚の産物でもあるような総合科学も今日、重要性を増してきているが、このような文理総合科学の分野にあっては、方法論的にも形式論理学と弁証法が総合的に適用されることになる。
Ⅴ 弁証法の再生に向けて
(13)弁証法の第二次退潮期
前回まで、弁証法の歴史をかなりの駆け足で概観してきたが、アドルノの否定弁証法を最後に、1970年代以降、弁証法を主題とする有力な哲学書自体がほとんど世に出なくなる。そして、20世紀末におけるソヴィエト連邦解体という世界史的な出来事の後、弁証法という思考法自体が急速に衰微していった。21世紀前半の現在は、その真っ只中にある。
実のところ、弁証法の退潮はソ連邦解体前から始まっており、まさにソ連自身が弁証法を体制教義化することによっても弁証法の衰退を促進していたのであるが、そのソ連がほとんど自滅的に解体消滅し去ったことにより、ソ連邦解体後の世界では、ソ連が象徴していたものすべてが否定・忘却された。弁証法もその一つである。
こうして、現代という時代は、弁証法の第二次退潮期にあると言える。弁証法の第一次退潮期は、アリストテレスが弁証法の意義を格下げして以降のことであった。この時は、アリストテレスが最も重視した形式論理学が優位となり、19世紀にヘーゲルが新たな観点から弁証法を再生するまで、弁証法の逼塞が続いた。
これに対して、第二次退潮期は、第一次退潮期に比べ、ソ連が象徴していたマルクス主義の退潮と絡んだ政治的な要因が強い。実際のところ、ソ連はマルクスの理論に対して離反的ですらあったのであるが、「ソ連=マルクス主義」というソ連の公式宣伝は、ソ連に批判的な人々によってすら奇妙に共有されていたのである。
そうではあっても、マルクス自身が下敷きとしていたヘーゲルの弁証法—言わば、近代弁証法—はマルクスと切り離して保存されてもよいはずだが、マルクス主義の退潮のあおりを受けて、無関係のヘーゲル弁証法までとばっちりを受けた恰好である。
その結果、ヘーゲル弁証法も遡及的に取り消され、再びアリストテレスの形式論理学優位の世界へと立ち戻っているのが現状である。後に整理するように、形式論理学は数学的・科学的思考法の共通的基礎であり、弁証法と矛盾対立するものではないが、形式論理学だけですべてを思考できるものでもない。
とりわけ、実験や演算が効かず、収拾のつかない価値の対立状況を来たしやすい社会的な諸問題は、形式論理学では解くことができない。そうした場合にこそ、弁証法的思考は強みを発揮する。そこで、弁証法の再生に向けて新たな思想的な革新を要するが、その際、ヘーゲルやマルクスの弁証法の単純な復活ではなく、より広い視野で現代的な弁証法の構築を構想してみたい。
Ⅳ 唯物弁証法の救出
(12)アドルノの否定弁証法
エンゲルスがいささか形式的に整理したヘーゲル弁証法の三法則は①量から質への転化②対立物の相互浸透③否定の否定の三つであるが、このうち、ソ連の独裁者スターリンは第三法則の否定の否定を「否定」した。これは、スターリンの反知性的な教条主義にとって、止揚(揚棄)を導出する否定の否定は、自身の絶対性を揺るがす容認し難い思考操作だったからにほかならない。
スターリンに限らず、およそあらゆる教条主義者は、自身が信奉する教条を絶対化するので、それを止揚されることを忌避する。止揚・揚棄された命題はもはや教条でなくなってしまうからである。その意味で、教条主義と弁証法は相容れない。
一方、スターリンとは全く異なる見地から、第三法則を否定しようとしたのがテオドール・アドルノであった。アドルノは第三法則が内包する個別性の否定と、全体—ヘーゲルの場合は絶対精神—への収斂という同一性の思考を批判し、個別性=非同一性を保存すべく、対立命題を止揚することを否定しようとした。これが彼の否定弁証法の趣意である。
系譜上はマルクス主義に属するアドルノがそこまで思い詰めたのは、自身ユダヤ人としてナチスの全盛期に亡命を余儀なくされた経験を踏まえ、啓蒙的理性が全体主義体制の道具と化し野蛮な暴力に転化したことを悲観し、その大本を全体への収斂を志向する一元主義的な弁証法的思考の欠陥に見たからであった。
そこで、全体への収斂という思考を断ち切り、止揚の手前で対立命題の個別性=非同一性を徹底的に保存しようとするのが否定弁証法であり、その意味では、ここでの弁証法は新たな真理を導くことなく、未知の真理を浮かび上がらせる対話問答術としてとらえられていたソクラテスの弁証法にまで立ち戻ったと言えなくもない。
ただ、ヘーゲルが確立した弁証法的思考の本義は、対立命題を全否定することなく止揚して新たな境地を開こうとする点にあり、その点において、対立命題の一方に偏る両極主義も、足して二で割る式の平均主義やつまみ食いの折衷主義も排する新たな思考を開拓したのであった。
そうした止揚を導出する定式が否定の否定、すなわち二重否定であるが、これも形式論理学的な二重否定=肯定ではなく、対立命題双方を限定的に否定すること、言い換えれば対立命題を限定的に保存することを通じて、新しい命題を導出しようとする思考法であって、必ずしも絶対的な全体に収斂する全体主義的思考とイコールではない。
アドルノの否定弁証法は全体への収斂を恐れるあまり、無限の相対主義に陥る危険がある。実際、アドルノが一時的とはいえ、ナチス政権最初期にナチス関連広報誌に寄稿するなど、ナチスににじり寄ったことがあったのも、ナチズムを限定否定する—裏を返せば、限定的に肯定する—ばかりで揚棄しない相対主義の危険な一面が露出したものかもしれない。*アドルノ自身は相対主義を批判しているが、それは反動的な偏向を含む特定の相対主義への批判である。
とはいえ、アドルノの否定弁証法は弁証法そのものを否定するものではなく、片やナチスにより野蛮と化した啓蒙的理性の弁証法、片やスターリン以後のソ連によって教条化された唯物弁証法から、弁証法そのものを救出せんとする試みの一つであったと言える。
その意味で、否定弁証法は弁証法の否定ではなく、弁証法的思考法に重大な修正を加える新たな弁証法のあり方を示したものである。しかし、弁証法の真骨頂である止揚を否定すれば、弁証法の肝に当たる部分を取り去ることとなり、弁証法の否定と紙一重ではある。そのことによって、否定弁証法はかえって弁証法の退潮に手を貸したように見えるのである。
Ⅳ 唯物弁証法の救出
(11)サルトルの実存的弁証法
ルカーチが革命渦中の中東欧からソ連式の教条化された唯物弁証法を救出しようとしたのだとすれば、西欧から同じことを企図したのがジャン‐ポール・サルトルであったと言える。サルトルは、弁証法を実存主義の中に言わば投企するという大胆な試みに出た。というのも、人間の自覚存在を追求する唯心論的な実存主義と唯物弁証法は水と油のように感じられるからである。
実際のところ、ルカーチも労働者階級が自らの社会的立場を自覚して階級意識に目覚め、主体性を取り戻すため団結して革命を導くべきことを説いたことで、弁証法に唯心論的な要素を取り込んでいたが、サルトルはより意識的にあえて唯心論を注入しようとしたとも言える。
サルトルが主著のタイトルにも使用した「弁証法的理性」は、歴史を客観的事象として外から眺める分析的理性に対して、実践的に歴史のうちに自己を参入させることによってその意味を了解しようとする理性であり、そこから、彼はアンガージュマンという実践を自らにも課していった。
とはいえ、ルカーチはハンガリー革命への参加というまさしく革命行動を実践したのに対して、サルトルのアンガージュマンはより漠然とした社会状況への参加という形で拡散しており、機会主義的で、半端な印象はぬぐえない。もちろん、そこには実際に革命的状況にあったハンガリーと、革命の波動がすでに過去のものとなっていたフランスとの状況的な相違があったこともたしかである。
サルトルの実存的弁証法の基本定式は、ヘーゲル弁証法を下敷きに、即自⇒対自⇒対他という三段階を経て人間が他者との関わりの中で実存し、そこから社会参加へと止揚的に導かれる諸相を想定したものであり、人間の本来的な自由を強調するものであった点、革命的なフランス人権宣言の精神を弁証法に注入したとも言える。
それは自由を体系的に抑圧するソ連体制の道具となっていた唯物弁証法を救出する手がかりにはなるであろうが、他方で、サルトルにおいて対自存在として把握される人間の本来的自由なるものは観念にすぎないとも言える。社会状況というものも、個人の意思では如何ともし難い構造—彼の言う「実践的惰性態」—と化しているとすれば、それをどう克服できるのか。
サルトルによれば、そうした反弁証法的な実践的惰性態を乗り越えるべく、共通目標を目指す集団を形成し、階級闘争を含む共同実践を行うということがその回答であり、それを「構成された弁証法」と呼んでいる。言い換えれば、実存的弁証法ということであろう。
ただ、ソ連と対峙する西欧での革命可能性が遠のいた晩年のサルトルは、生誕以前の歴史と生誕以後の履歴とによって予め有限的に狭められた選択肢を選択せざるを得ない人間は、自己という資質を抱え、それに抗いながら自由を発見するよりほかないという自由の本来的制約性を認めるようになった。これを実存的弁証法の敗北宣言とみるかどうかは、解釈の問題である。
Ⅳ 唯物弁証法の救出
(10)ルカーチの物象化論
マルクスの唯物弁証法がスターリン時代のソ連の公式教義の中ですっかり教条化していく中、唯物弁証法を救出しようとする試みが、ソ連の外部で行なわれる。その代表的な一つが、ハンガリー人ルカーチ・ジェルジの試みである。
ルカーチは、弁証法の教条化の要因をマルクスの遺稿整理者エンゲルスに突き止めている。ルカーチによれば、エンゲルスは最も本質的な相互作用である歴史過程における主体と客体の弁証法的関係に目を向けず、これを自然の認識にまで不当に拡大適用しようとしたことに問題がある。
弁証法の真骨頂は具体的かつ歴史的なものにこそあり、その意味で弁証法的方法論の適用範囲は歴史的・社会的な現実に限られる。そうした具体的・歴史的弁証法の任務は、社会の総体性を把握するための方法論であるというのが、ルカーチの趣意である。
逆に、総体性の認識を欠落することが物象化である。すなわち、主体と客体の分裂、部分と全体の分離、理論と実践の乖離といった情況であり、現実の状況としては労働者階級が主体性を喪失し、自己を疎外して客体と化すことである。
このような主体‐客体の分裂の止揚に力点を置くルカーチの理解は、唯物弁証法を再びヘーゲル弁証法に立ち戻って再構しようとする試みと言える。事実、ルカーチは『モーゼス・ヘスと観念弁証法の諸問題』という論文の中で、マルクス弁証法をヘーゲル弁証法の延長に位置づけ直そうとしている。
しかし、こうしたルカーチの試みはモスクワの代弁者たちからは睨まれる結果となった。ハンガリー共産党員で、短命に終わったハンガリー革命政権で閣僚も務めた彼は党内で強い批判を受け、コミンテルンでも非難された。そのときルカーチが浴びた非難は、「観念論的逸脱」というものだった。
しかし、この非難は的外れであった。彼が「観念論」と非難されたのは、資本主義社会で客体化という自己疎外状況に立たされている労働者階級が自らの社会的立場を自覚して階級意識に目覚め、主体性を取り戻すため団結して革命を導くべきことを説いたためである。
たしかに、こうした労働者階級の階級意識を強調する仕方は、唯心論的な趣向を帯びてはいるが、ルカーチの力点は主体と客体の分裂の止揚という一点にあったのであり、意識の問題を特大強調したかったわけではない。実際、上掲論文は青年ヘーゲル派代表者ヘスの弁証法を観念弁証法として退けている。
ただ、ルカーチの総体性は、資本主義社会という人類史的過程の全体の一部に集中しており、より広汎な「文明」という総体性には十分着目してしなかったように思われる。そうした文明総体の弁証法的把握は、革命が挫折した戦間期ドイツ哲学界から現れる。
Ⅲ 唯物弁証法の台頭と変形
(9)唯物弁証法の教条化
唯物弁証法はマルクスの遺稿整理・解説者となった刎頚の友エンゲルスの手を経て、いわゆる「マルクス主義」における理論的な基軸となるが、その過程で次第に教条化の傾向を見せる。そうした弁証法の教条化の第一歩はまさにエンゲルスに始まると言える。
一般に他人の遺稿整理というのは困難な作業であり、とりわけマルクスの「悪筆」に悩まされながらの作業は至難を極めた。結果として、エンゲルスはマルクスのいち「解説者」を越えた「解釈者」とならざるを得なかったようである。
エンゲルスはマルクスの思想を「科学的社会主義」という標語のもとに総括するのであったが、その基本定式として唯物弁証法とそれに基づく歴史観である唯物史観とが据えられた。エンゲルスによる図式的なマルクス解釈はわかりやすかったため、19世紀末の労働運動・反資本主義運動の中にいち早く吸収され、風靡することとなった。
かくして、唯物弁証法はそれ本来の意義が充分に咀嚼されないまま、とみに政治思想化していくことになる。想えば、弁証法は古代ギリシャでの発祥時から政治と無関係ではなく、弁証法に関わったゼノンやソクラテスは政治犯として捕らわれ、犠牲となった。
近代における唯物弁証法も同じ宿命を負うようであった。しかし、唯物弁証法はロシアという意外な地で一つの政治体制教義として安住の地を得ることになる。ロシア革命後、ロシアを中心に樹立されたソヴィエト連邦の体制教義に納まったからである。
それはマルクスとロシア革命指導者レーニンの名を二重に冠し、「マルクス‐レーニン主義」と称されたが、実質上はレーニンを継いだスターリン体制下の教義である。
もとよりスターリンは哲学者ではなく、典型的な政治家であり、哲学的素養には欠けていた。このような政治家による哲学の消化不良にありがちなのは、ご都合主義的な単純化である。特にスターリンは、エンゲルスの弁証法三定式のうち第三項「否定の否定」を否認した。
実は、この第三項こそは単純な形式論理としての「二重否定」を超えた弁証法的止揚の言わばジャンプ台を成す部分であるのだが、これを否認するということは弁証法そのものの否認に等しい。しかし、スターリンがこれを否認したのは、まさに自身の独裁体制の「止揚」を恐れたからにほかならない。
これによって、唯物弁証法はその動的な性格を失い、ソ連という既成の体制—中でもスターリン独裁体制—を固定化し、その正当性を保証するための手段的な教条へ変形されてしまうのである。以後の唯物弁証法はこうした教条的変形からの脱出が課題となった。
Ⅲ 唯物弁証法の台頭と変形
(8)エンゲルスの唯物弁証法
マルクスの共同研究者にして終生の友でもあったエンゲルスは、マルクスとの死別後も20年近くにわたって活動し、その多くが未完ないし未出版に終わっていたマルクスの遺稿の整理と解説に当たり、マルクス思想の継承と普及に貢献した。
おそらくエンゲルスの存在なくしては、マルクスは没後、完全に埋もれた思想家に終わったのではないかと思えるほどであるが、そうしたエンゲルスの思想史的貢献の一つに唯物弁証法の定式化がある。その点、マルクスは、彼が批判的に継承したヘーゲルに似て、弁証法の定式化はあえて試みず、それを思考の前提として扱っていた。
これに対して、エンゲルスは唯物弁証法の定式化に踏み込んでいる。それによれば、唯物弁証法定式は①量より質への転化②対立物の相互浸透③否定の否定の三項にまとめられる。エンゲルス自身、この定式に逐条的な解説を施しているわけではないが、いくらか私見をまじえて解釈すれば、次のようである。
「第一項:量より質への転化」とは、量的な変化が質的な変化をもたらすという一見すると矛盾律であるが、これは例えば生体の細胞をはじめ、分子の量的な集積が質的に新たな物質を生み出すような例を想起すれば、判明する。
「第二項:対立物の相互浸透」は、およそ対立物は相互に相対立する関係性によってその存在が規定される相関関係にあり、実体的に対立するのではないという関係論的存在論である。
「第三項:否定の否定」は形式論理学における二重否定—それは消極的な肯定である—とは似て非なるもので、あるものを全否定することなく、対立物の止揚により高次の措定に至るというヘーゲルにおける止揚の簡明な定式化である。
これら三項は、各々別個独立の定式なのではなく、第一項の量より質の転換の過程に対立物の相互浸透があり、その結果として対立物の止揚による新たな境地が拓かれるという動的なプロセスが表現されているとみることができるだろう。
ただ、これだけのことなら特段の独創性は認められないが、エンゲルスは唯物弁証法の適用範囲を自然界も対象に含めた一般法則として拡大しようとした—未完書『自然の弁証法』がその綱領である—ところに独創性がある。このような一般法則化は、マルクスがあえて試みなかったことである。
この点で、エンゲルスはマルクスよりも教条主義的な傾向が強く、後に弁証法の代名詞のごとくなった「マルクス主義」はマルクス自身ではなく、エンゲルスによって最初に体系化されたと言い得るのである。このことは唯物弁証法の普及に寄与するとともに、その教条化にも力を貸したであろう。
Ⅲ 唯物弁証法の台頭と変形
(7)マルクスの唯物弁証法
ヘーゲル弁証法へのヘーゲル学派内部からの内在的な反発を示したフォイエルバッハに代表されるいわゆる青年ヘーゲル派は、その影響下の学徒のうちから、ヘーゲル弁証法をいっそう深層的に批判・超克しようとする急進的な思潮を生む。その代表者がマルクスであった。
マルクスはフォイエルバッハを通じて、初めから内在批判的なヘーゲル弁証法を摂取していた。そのため、その出発点はフォイエルバッハと同様、ヘーゲル弁証法の精神優位的な観念論的性質を批判的にとらえることに置かれた。
そのうえで、フォイエルバッハと同様に物質の優位性を認めていたが、フォイエルバッハの唯物論にも、物質の把握がなお観念論的かつ無時間的であるという難点を見出す。言わば、「観念論的唯物論」である。これを超克し、より純粋な唯物論—言わば、唯物論的唯物論—を抽出しようとしたのがマルクスであったと言える。
マルクスがこのように思考したのは、フォイエルバッハの弁証法はへーゲル的な思考の方法論としての域を出ておらず、弁証法をより動的な歴史論に適用することを躊躇していると考えたからであった。そこから、マルクスは弁証法を唯物史観へと昇華させた。
実のところ、ヘーゲルも弁証法を歴史に適用して独自の史観を示していた。ヘーゲルによれば、世界の全展開は精神の営みとして生じる葛藤、さらに葛藤を克服し完成を目指していく総合の弁証法的運動の中で形成される。
より具体的には、歴史は奴隷制という自己疎外に始まり、労働を通じて自由かつ平等な市民によって構成される合理的な法治国家という自己統一へと発展する「精神」が実現する大きな弁証法的運動だというわけであるが、このようなヘーゲル史観はマルクスによれば、頭でっかちの逆立ちした思考である。
マルクスの唯物弁証法は、物質に基礎を置き、中でも生産力を歴史の動因とみなす立場から、生産力の発展に照応して歴史が展開していくことを説いた。また一つの社会の編成も、生産力をめぐる生産諸関係を土台に法律的・政治的上部構造が照応的にかぶさるという形を取る。
その点、ヘーゲルが晩年に『法の哲学』という視座から示した家族→市民社会→国家という人類社会史も、マルクスからすれば、物質的な視座を欠き、法律的・政治的上部構造にしか目を向けない片面的な体のものである。
こうして、マルクスにより唯物弁証法という新たな領野が開拓されたわけだが、このような物質優位の弁証法の創出は、弁証法を形式論理学より格下げしたアリストテレス以来、発達を遂げてきた諸科学—特に経済学—と弁証法を結合させる意義を持つ思想史上の革命とも言える出来事であった。
Ⅱ 弁証法の再発見
(6)ヘーゲル弁証法への反発
ヘーゲル弁証法は、アリストテレス以降2000年近く忘却されていた弁証法を観念論的に蘇生させたものと言えるが、これに対しては反発も現れた。そうしたアンチテーゼはヘーゲルを継承するヘーゲル学派とヘーゲルを否定する反ヘーゲル学派の双方から出現する。まさに、弁証法的展開である。
反ヘーゲル学派の代表者は、キェルケゴールである。彼はヘーゲルの抽象的思考に対して反発した。ヘーゲルは現実世界において常に自らの否定性の契機に直面する有限者たる人間は、その否定性を弁証法的論理において止揚する方法で超克し、より真理に近い存在として自らを昇華していくことができるとしたが、キェルケゴールにとって、こうしたとらえ方は量的な抽象論にすぎない。
彼によれば、有限なる人間存在が直面する否定性とそれに由来する葛藤や矛盾は、ヘーゲル的な抽象論によって解決されるものではない。有限的主体が自らの否定性に直面したとき、それを抽象的に止揚しようとするのではなく、その否定性とあえて向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙していかねばならないのである。
このような思考をキェルケゴールはヘーゲルの抽象的思考に対立する具体的思考として提示し、「逆説的弁証法」(質的弁証法)と名づけた。言わばヘーゲル弁証法を逆立ちさせたわけであるが、そこから、一般的・抽象的な観念としての人間ではなく、個別的・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象とする実存主義の祖となるのであった。
このような個別的実存と弁証法との関係性については後にサルトルがより洗練された弁証法的解決法を示すことになるが、ここでは踏み込まず、さしあたりキェルケゴールをヘーゲル弁証法への実存主義的アンチテーゼとみなしておく。
他方、ヘーゲルを継承する立場からも、内在的な批判が現れる。その代表者は、ルートヴィヒ・フォイエルバッハである。彼もまた部分的にはキェルケゴールと共有し、ヘーゲルが抽象的な精神を主体とみなし、そうした観念的主体の自己展開の過程を通して歴史や世界をとらえる方法に疑念を抱いた。
しかし、彼はキェルケゴールのように、有限的な存在が避けられない「死に至る病」=絶望の超克を自己放棄的な信仰に求めるのではなく、むしろそのように自身の内部の苦悩を疎遠な外部の絶対者たる神に委ね、投影するような所為を自己疎外として退け、現世的な幸福論を対置したのであった。
Ⅱ 弁証法の再発見
(5)ヘーゲル弁証法②
ヘーゲル哲学を支える思考法としての「ヘーゲル弁証法」は、必ずしも主著『精神現象学』の主題ではないが、そこにおける思考の方法として大展開されているため、同書はヘーゲル弁証法の樹立書と目されている。その特徴をひとことで言うならば、二元論の超克ということに尽きる。
ただし、対立する二項を妥協的に接合する折衷主義でも、二項の最大公約数を抽出する平均主義でもなく、かといって第三項を単純に追加するのでもない、対立する二項から内在的に新たな項を導出するような高次の思考法である。
ある命題(定立)とその反対命題(反定立)を俗に言う「良い所取り」によって折衷するという思考法は一時的な対立の緩和には役立つが、まさに対立の一時的休戦にすぎない。そこで、より進んで対立命題の最大公約数を抽出するという平均主義は、命題が数学的に割り切れる性質のものであるならば、いちおうの解決をもたらすかもしれないが、そうでなければ、割り切れない結論として対立は未解決である。
そこで、二項対立を超克するべく、新たな第三項を導入しようとするのは自然な思考の流れであろうが、その際に、定立/反定立命題とは異なる第三項を外部から追加するなら、最初の二項対立が三項鼎立に転化する。これで最初の二項対立は相対化されたとしても、新たに三つ巴の戦いとなりかねない。
これらの思考法は対立命題を基本的に固定したまま対立の緩和・解消を目指す点では、「悟性的」であるが、「総合」というプロセスを欠いている点で思考法としては不全であるから、根本的な対立の解消にはつながらない。
その点、ヘーゲルは対立する命題が互いを批判吟味する中で相互媒介によって交差しつつ、最終的に対立を止揚するという思考法を提唱する。止揚によって立ち現れるものは第三項ではあるが、最初の二項と無関係に創出された第三項ではなく、最初の二項が内部的に保存されているような第三項である。
このような思考法は折衷主義や平均主義のように対立回避的な妥協ではなく、対立を通じて相互に結びつき、対立の最終的な止揚に至るという点では対話的であり、2000年前のソクラテス式問答法を再発見したものとも言えるかもしれない。ただ、ヘーゲルは実際に他者と問答するのではなく、自己の脳裏でこうした問答法的な思考を実践しようとする点で近代的な弁証法ではある。
ヘーゲルは、こうした思考法を思考法そのもの、あるいは新たな「論理学」の体系として提示したのではなく、彼の言うところの「絶対知」を導出するための思考過程として実践したのである。簡単に言えば、弁証法的思考の反復継続を通じて最終的に到達する最高次の学的知こそが、哲学的な絶対知だというのである。
Ⅱ 弁証法の再発見
(4)ヘーゲル弁証法①
アリストテレスによって弁証法が論理学より下位のいち推論法に格下げされて以来、実に2000年近くにわたって弁証法は事実上忘却されたままであった。それを2000年の眠りから覚まさせたのは、ドイツの哲学者ヘーゲルである。
ヘーゲルはカントの観念論が隆盛であった近世ドイツで、カント哲学の研究と習得から始めて、その観念論の克服を目指していた。その過程で、彼は後に弁証法をヘーゲル流の仕方で再発見したのだと言える。その概要は彼の主著でもある『精神現象学』に収められている。
ヘーゲルがアリストテレスによって格下げされた弁証法を再発見したのは、彼がアリストテレス流の形式論理学とその土台となっている形式主義的・概念操作主義的な「体系的知」—それは近代科学への道でもある—とは別に、事物の自然な本質規定の認識に到達するような「学的知」を導く思考過程に関心を向けたからであった。
このような問題意識はおそらく、カント哲学における認識と「物自体」の不一致という欠点を克服し、宗教的意識にも関連する絶対知への到達を試みようとするところから生じた。大胆に言えば、ヘーゲルはアリストテレスを遡って、プラトンのイデア論を近代哲学的に改めて再解釈しようとしたのである。
ただし、プラトンがイデアの把握の道を弁証法より以上に幾何学に求めようとしたのに対して、ヘーゲルは改めて弁証法に焦点を当て、弁証法を通じてヘーゲル流のイデア=絶対知へと到達しようとしたのである。そうしたヘーゲルの思考の道程そのものが一冊の書としてまとめられたのが『精神現象学』であるが、様々に研究されてきたこの書の内容をここで逐一紹介することはできない。
ここで触れておきたいのは、『精神現象学』には二重の含意があるということである。一つは『精神現象学』の実質的な内容である。すなわち、そのタイトルどおり、「精神の現象」について扱った言わば精神の哲学としての内容である。
もう一つは、この書で適用されている弁証法的思考法そのものである。これはしばしば「弁証法的論理学」とも呼ばれるが、先に述べたとおり、ヘーゲルはアリストテレス流の形式論理学に対抗する形で「学的知」への到達を目指したので、「論理学」を冠するのは妥当と思われない。
この二つの含意のうち、ヘーゲルが主題的に扱ったのは前者であり、後者の弁証法的思考法は必ずしも主題ではないのであるが、晩年の主著『法の哲学』に至るまで、ヘーゲル哲学を支える思考法として維持されていくものを「ヘーゲル弁証法」と規定することにする。