第2部 略
第4章 革命から権力へ
(5)最高権力者として(続き)
上意下達政治
為政者としてのレーニンの統治スタイルは上位下達のワンマン政治であった。このやり方は革命家時代からの彼の習慣であって、党内権力を確立してからの彼はいつも一人で決め、起草した文書を「テーゼ」と名づけて定言命法的に通達し、機関決定を迫るのであった。これは要するに、レーニンの指導への服従命令を意味していた。
こういうワンマン・スタイルが如実に表れたのが、2月革命直後に帰国した際に示したかの「4月テーゼ」であった。この時はさすがに党内から反発が出て大いに紛糾を来たしたことはすでに見たとおりだが、それでも彼は異論派をねじ伏せて自らの「テーゼ」を貫徹したのである。
このような手法は為政者となっても本質的に変わらなかったが、それは必然的に側近政治につながり、レーニンと彼の取り巻きで構成された党指導部の専制が党の基本的な運営スタイルとして定着していく。
レーニンが確立し、その後世界の共産党の党運営の鉄則となったいわゆる民主集中制も、所詮は党指導部独裁、それも多くの場合、最高指導者の個人的独裁のイチジクの葉として機能してきたにすぎない。その点では、ブルジョワ保守系政党の方がより民主的な党運営を行っていることも珍しくない。
レーニンは従来、あまり「独裁者」と呼ばれてこなかったが、彼はまぎれもなく独裁者であり、こう言ってよければ社会主義の衣を着た新ツァーリですらあった。にもかかわらず、彼が独裁者呼ばわりされることを免れているのは、その統治期間が短かったことに加え、後継者スターリンの長期にわたった独裁ぶりが度外れに悪名高いがために、前任者の独裁が霞んでしまったからにすぎなかった。
その二代目スターリンは能吏タイプの党専従活動家としてレーニンの信任を得、若くしてレーニン側近となってその統治スタイルを着実に“学習”し、身につけていったのである。ただ、彼が党内権力を掌握するためには、レーニンの発病というチャンスがめぐってこなければならなかった。