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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

死刑街道をゆく日本

2012-03-30 | 時評

昨日、1年8ヶ月ぶりに死刑執行があった(民主党政権下では二度目)。昨年の日本では19年ぶりに死刑執行が1件もなく、死刑街道をゆく足取りがふと止まったかに見えたが、結局再び歩み始めることになったわけである。

ただ、これは国会の閣僚席で競馬サイトをご覧になっていた法務大臣小川某―馬主なのだから、この件ではあまり責められない―の就任当初からの“予告”どおりであるから、驚きはない。

それにしても、この年度末の在庫一掃セール的死刑執行はもちろん法相個人の独断によるのではなく、財務省の戦略に乗り消費増税に「不退転」の野田内閣が、死刑に関しては法務省の戦略に従い死刑存置の強固な国家意思を内外に示したことを意味する。要するに、「政治主導」の掛け声も虚しく、官僚制に取り込まれた民主党政権の最終的帰結なのである。

また同時に、消費増税法案の閣議決定前日の死刑執行は、税と刑という―古代以来と言ってよかろう―権力支配の二大道具のありかを強烈に示す出来事でもあったと思う。

ちなみに、1993年に3年4ヶ月ぶりに死刑執行が再開された当時の政府の根拠は古典的な「法秩序維持」であったが、今回は「裁判員制度」が挙げられたことは新しい点である。これは、やはり裁判員制度が死刑への国民動員という意義を明確に担っていることを公式に裏書きした点で重要である。

ただ、ここで改めて死刑制度の是非を云々つもりはない。それについては、既に連載『死刑廃止への招待』で縷々論じたところであるので、ここでは、死刑制度に賛成するにせよ、反対するにせよ、念頭に置いておくべき死刑をめぐる三つの重要な世界情勢を、いくらか補足しつつ繰り返しておきたい。

☆日本も加盟する国際連合では、23年前の1989年に死刑廃止条約を制定済みであること。つまり、国際社会にあっては死刑廃止は既に単なる「論」ではなく、「法」(国際法)であること。なお、同条約の批准国数は74カ国(本年3月現在)。

☆国際連合総会では、2007年度以降、三度にわたり、全世界の諸国に対し死刑廃止へ向けた死刑執行停止を呼びかける決議を賛成多数で採択していること。その賛否総数を示せば、次のとおりである(日本は全回とも反対)。

2007年:賛成 104カ国 反対 54カ国 棄権 29カ国
2008年:賛成 106カ国 反対 46カ国 棄権 34カ国
2010年:賛成 109カ国 反対 41カ国 棄権 35カ国

☆昨年度(2011年)、年間を通じて死刑執行があったのは20カ国(全世界の約1割)であり、本年3月時点で死刑制度を廃止し、または死刑執行を10年以上停止している国は計141カ国(全世界の約7割)であった(アムネスティー・インターナショナル推計)。

死刑制度に賛成するならば、こうした世界情勢がどうあろうと、我が国だけはどこまでも死刑街道をひた走り、世界で唯一の死刑存置国―「死刑ガラパゴス化」―への道をゆく覚悟はあるのかどうかが問われてくるだろう。

一方、死刑制度に反対する場合、その方向性は世界情勢と一致していることを再確認したうえで、日本の政府・メディアが一体となって一般国民に十分伝えようとしない死刑をめぐる世界情勢を周囲に伝えていくある種の使命を帯びることになるだろう。

そんな時代に、私どもは立っている。

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生活保護から社会連帯へ

2012-03-18 | 時評

生活保護受給者が過去最高を更新し続ける中、各地で一家丸ごと餓死するようなケースが続発している。こうした事象の背景に、生活保護制度自体が本質的に抱える問題性があることはほとんど議論されていない。

従来、生活保護制度をめぐっては、財政難を理由とする自治体の「水際作戦」によって申請自体を拒否され、受給できないという運用上の問題点が指摘されてきた。これは行政による権利妨害であり、憲法訴訟にも発展する。

しかし、昨今生じている問題は、申請すれば受給できる可能性の高い世帯が申請しないまま餓死してしまうケースだ。なぜこのような問題が生じるのか。

それは、生活保護という現行制度が旧式の救貧法(poor law)の性格を脱していないことから、受給することに負い目や屈辱感を生じさせるためである。この感情は一種の自己差別であるが、そうした自己差別は周囲や社会全般からの生活保護受給者に対する差別的白眼視に由来するものでもある。

一部の不正受給事例を槍玉にあげ、“生活保護に寄生する怠け者”を攻撃する一部保守系政治家・評論家らの差別的言動も、正当に受給しようとする者に萎縮効果を与えているであろう。

こうした問題の本質的な解決のためには、生活保護という悪制―あえてそう言おう―を廃止して、新たな制度に移行することである。

すなわち救貧という発想をやめ、一般福祉(general welfare)としての「社会連帯給付金制度」を創設するのである。要するに、“哀れな貧困者”を救うのではなく、人間の生活保障という点ではまことに不安定・不合理な経済システムである(!)資本主義が続く限り、誰もが直面し得る困窮事態への社会的な備えとしての制度の創設である。

その概略を覚書的に記してみると━

*一定期間継続して無収入(もしくはそれに近い僅収入)の見込みが高ければ、誰でも受給を認める。反面、申請に当たっての親族援助の問い合わせと資産調査、さらに受給開始後の生活統制はしない。

*受給期間は原則1年とし、1年ごとに受給の必要がなくなるまで更新する。申請と更新に当たっては、年齢や職歴、病歴等に照らした客観的な稼得可能性を審査し、稼得の「努力」という主観的要素は重視しない。また、求職活動・職業訓練の強制もしない。

*受給額は法定最低賃金で計算した月額の一括給付を原則とし、世帯人員や年齢、未成年子の有無・人数等を考慮して適宜加算する。ただし、日本の現行最賃は低すぎるので、これを適正額まで引き上げることが前提である。一方、医療費・教育費など使途を定めた恩恵的給付はしない。

このような制度であれば、財政的制約の中でも広く要受給者をカバーし、かつ受給者の負い目感情を緩和することができるであろう。こうした制度こそ、「絆」の真の表現ではないか。それなくして言葉だけの「絆」をいくら口にしても空虚である。

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「民族差別」としての基地問題

2012-03-18 | 時評

手土産を引っさげた政権幹部の沖縄詣でが活発化している。いつもの流儀で「振興策」、要するにカネと引き換えに基地の負担を飲ませようとするわけだ。

しかし、先般、国連人種差別撤廃委員会が、「人種(民族)差別」という観点から、普天間飛行場代替施設を名護市辺野古周辺に造る計画に懸念を表明し、移設先の地域社会の権利保全等について、具体策の説明を求める書簡を、日本政府(在ジュネーブ国際機関日本政府代表部)に送付するという一件があった。

この件について日本国内ではまともに話題にもされていないようだが、これは「差別」という言葉を聞いたとたん耳を塞いでしまう日本(本土)社会のいつもの癖であるから、別段不思議はないし、そもそも手紙一本で解決するような問題ではないこともわかり切っている。

しかし、今回の国連公式機関の小さな動きは、沖縄の米軍基地問題を考えるうえで重要な視座を提供する。

現在、沖縄の米軍施設は米軍が常時使用可能な専用施設―要するに、正真正銘の米軍施設―の面積率で見れば75パーセント近い集中状況にある。このような地域的不均衡は、どう見ても「差別」とみなさざるを得ないだろう。

こうした差別状況を放置しつつ、振興策という名の飴玉で押さえ込もうとするのは、差別分野での「同和対策」でも見られた利益を与える形の差別(利益差別)の一例である。この方法はいわゆる「政権交代」によっても変更されることのない日本支配層の常套手段となっている。

しかし、国際的にはこうしたごまかしは効かなくなり始めていることを、今回の一件は示しているのである。

ただし、一つ注文がある。それは 日本政府のみならず、米国政府に対しても国連機関は同一内容の書簡を送り付けるのでなければ公平でないということである。なぜなら、「琉球人差別」は日本防衛という大義を掲げる日米両政府の合作であるからだ。

否、むしろ沖縄米軍基地は専ら米国の国益のために存在し、日本防衛という利益は―それが認められるとしても―せいぜい結果的利益にすぎないという事実を、日本本土人もリアルに直視すべきである。そうすれば、「差別」の意味への理解もいくらかは深まるだろう。

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「安楽」への全体主義

2012-03-11 | 時評

2003年に逝去した孤高の政治思想史家・藤田省三が残した印象的なキーフレーズに“「安楽」への全体主義”がある。

藤田によれば、それは「私たちにとって少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動き」である。藤田は、こうした集合的心性を、戦後の高度成長期以降の日本社会を覆う時代精神として指摘した。

このような心性がマイナスに作用した破局的事象が、原発震災であったろう。

ここでは、原発震災を懸念する一部科学者の指摘を黙殺する形で、原発震災という「私たちにとって不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするもの」を想定することが、集団的に回避されてきた。要するに、日々電気が届けられるという「安楽」を優先して、恐るべき最悪事態の想定を意図的に避けていたのである。

藤田は、前記フレーズを「不愉快な社会や事柄と対面することを怖れ、それと相互交渉を行うことを恐れ、その恐れを自ら認めることを忌避して、高慢な風貌の奥へ恐怖を隠し込もうとする心性」とも言い換えるが、まさに原発震災への恐怖は、「技術大国」の自惚れの中へ隠し込まれていたのだ。

その結果が、前例のない―おそらく世界史上も―原発震災の現実化となって顕現したのだ。

こうした「安楽」への全体主義は、原発震災という破局経験にもかかわらず、3・11後も別の事象の形をとって続いている。その典型例が、震災がれきの処理問題である。今度は、原発震災の結果発生した放射能汚染への恐怖を口実に、各地でがれきの受け入れを拒否する動きとして現れている。

ここでは、汚染されているかもしれないがれきが、「私たちにとって不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするもの」として忌避の対象とされているのである。「安楽」への全体主義のために、がれきの処理という震災後の基本的な後始末さえも事実上解決不能な状態に置かれているのだ。

こうして、「世界が震災の苦難に耐える日本人を称賛」などといったナルシシスティックなプロパガンダとは裏腹に、「苦難」を避け、「安楽」を追求しようとするとうてい称賛に値しないことが現実に起きているのである。

藤田は、こうした「安楽」への全体主義を社会的なレベルでの「生活様式の全体主義」と規定し、政治的全体主義とはさしあたり区別したのだが、3・11以降の日本では、「維新」を掲げ、不愉快な異論を封殺しようとするファッショ勢力への急速な集合的傾斜という形で、政治的な全体主義への転形が起きかけている。

この点では、あたかも関東大震災の後、「昭和維新」を呼号するファッショ勢力が台頭し、全体主義的な戦時体制へ邁進していった戦前史と重なるところがある。

いささか飛躍かもしれないが、国内で受け入れ先の見つからない大量のがれきを海外で処理させる狙いから、再び海外侵略を高調するような議論が起きないか懸念なしとしない。

こうした「安楽」への全体主義が一掃されるためには、遠くない将来のスケジュールに入っているいくつもの大震災を重ねて経験する必要があるのだろうか。 あるいは、それによっていっそう全体主義が助長されていくのだろうか。筆者としては、後者の予測が杞憂に終わることを望む。

[追記]
震災がれきの処理に関しては、当初の試算が過大であったことが判明し、広域処理の必要性は大幅に減じた。こうした過大試算の背景として、ゼネコンを中心とした利権の影が指摘されている。そうした問題はあるにせよ、当初のがれき拒否運動は、決して試算をめぐる冷静な議論に基づくものとは言えないもので、やはり不快なものへの拒絶反応の性質の強い事象であったことに変わりない。

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21世紀のソヴィエト運動を

2012-03-11 | 時評

最近のロシアで何が起きているか。

表面的に見れば、反プーチン運動である。常に表面に見えるものばかりを追いかけるメディア上ではこの話題ばかりである。

今、反プーチン運動をしているのは、ソ連邦解体後の再資本主義化の過程で生まれたプチ・ブル中間層の青壮年たちである。言わば、プーチンの申し子とも言える層だ。大統領に返り咲いたプーチンにとってみれば、自らが育てた若者たちに反逆されている皮肉な構図になるから、注目されるのだろう。

しかし、昨年末の下院選挙の結果を仔細に見れば、最も得票率を伸ばしたのは、共産党であった。このことを「西側」メディアは十分に報じないし、分析もしない。ここにはいまだ反共的な冷戦時代の思考が生き延びているかのようだ。

旧ソ連の独裁政党であったロシア共産党が息を吹き返しているのは、ロシア社会で社会主義時代への郷愁が生じていることを物語る。

ソ連時代をよく知る高齢者にとって、政治的には抑圧されていても、労働条件や社会保障はそれなりに充足されていた時代への郷愁がある。一方で、ソ連時代を知らない若年層の間には、かつてアメリカ合衆国と世界を二分して渡り合った大国・ソヴィエト連邦への未知の憧憬がある。

だが、ソヴィエトとは本来、「体制」ではなかった。ロシア語で「評議会」を意味するソヴィエトは、議会制民主主義とは異なる新しい民衆主体の民主主義を創り出すための下からの運動であった。何世代か前のロシア人はそうした新しい運動の能動的な担い手であったのだ。

反プーチン運動を展開している層も能動的ではあるが、かれらはプーチンに代わる「リベラル」な指導者を求めているだけである。現今「リベラル」と言えば、それは市場経済を信奉する新自由主義とほぼ同義となる。

そういう遅れてきた新自由主義運動とは別に、ロシアが21世紀の新たなソヴィエト運動の発祥地となるなら、それは歓迎すべきことである。

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