ザ・コミュニスト

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世界共産党史(連載最終回)

2014-08-06 | 〆世界共産党史

結語

 見てきたように、ロシアに発祥した共産党という近代政党は、20世紀を通じて全世界に拡散していった。例外は、政党政治が未発達なままの島嶼国家が多いオセアニアだけである。
 ここで一つの謎となるのは、マルクスが後半生を送り、最大の研究対象とした階級社会英国では、共産党が全く伸びなかったことである。英国共産党は1920年の結党から間もない22年の総選挙で早くも1議席を獲得したものの、その後浮沈を繰り返し、45年の総選挙で初めて2議席を獲得したのを最後に、50年以降は議席を喪失した。こうした「英国の謎」については、別連載を通じて個別に解明してみたい。
 ともあれ、共産党はまだ総本山ソ連が健在だった頃から、ばらばらに断片化していた。それはソ連共産党を中心とした「正統派」のほかにトロツキスト、毛沢東主義者の分派政党に分裂し、さらにその政治的位置も独裁政党から万年野党、議会外野党、武装ゲリラ政党に至るまで、千差万別であった。 
 そうした中、ソ連邦解体後の1998年にギリシャ共産党の呼びかけで「国際共産主義・労働者党会議」が結成され、改めて世界の主だった共産党が一堂に会する国際共産主義運動が立ち上げられた。これはコミンテルンの解散以来の国際共産主義運動の再結集であるが、一部の独裁政党を除き、参加党の多くが議会外野党もしくは少数野党という状況では、年次総会もほとんど注目されることなく、国際政治における影響力はほとんどなきに等しい。
 共産党という政党組織自体、ロシア革命の特殊な所産であり、ロシア革命とその波及力が消滅した時点で、共産党組織も効力を失ったのである。共産党という統一的な政治マシンを通じた共産主義の実現はもはや望めず、別の新たな組織と方法論の開発が必要とされている。拙見である民衆会議構想はその一例である。(了)

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世界共産党史(連載第19回)

2014-08-05 | 〆世界共産党史

第9章 ソ連邦解体後の共産党

3:朝鮮の「主体社会主義」
 朝鮮民主主義人民共和国では建国以来、朝鮮戦争を越えて南北分断状況が続く中、他名称共産党としての労働党が一党支配体制を維持してきたが、中国共産党をはじめ、ソ連邦解体後の同種支配政党が程度の差はあれ、開発独裁党路線へ進む中、独自の社会主義を純化する独異な路線を歩んでいる。
 朝鮮労働党はすでに60年代からソ連や中国とも異なる独自の社会主義思想として「主体」(チュチェ)思想を掲げ、国家イデオロギーとしていたが、それは建国者にして党創設者でもあった金日成とその子孫を最高指導者として絶対的に奉じる個人崇拝の体制を根拠づける理念であり、事実上の世襲制に基づく一族社会主義という他に例を見ないものである。
 ただ、実質的に見れば朝鮮流にモデルチェンジされたスターリン主義の亜型とも言え、徹底したイデオロギー統制と粛清・強制収容を伴う厳格な社会統制は、ある意味でスターリン主義の究極点を示している。ジョージ・オーウェルが小説『1984年』の世界で描いた「偉大なる兄」が独裁支配する全体主義国家は、朝鮮において驚くほど現実のものとなっているとも言える。
 ただ、最大の援助国であったソ連が解体した後は、経済運営で困難に直面し、次第になし崩しの市場経済化が図られる中、2010年には党規約から共産主義の文言が削除されたことで、朝鮮労働党はもはや他名称共産党でもなくなり、主体思想に基づく独自の社会主義政党として純化されることになった。
 しかし、一族支配維持のためのイデオロギー統治と体制護持を担保する核開発のような軍事が最優先され、開発独裁党路線には乗り遅れる中、後ろ盾である中国との関係も冷却し、困難はいっそう増している。

4:「緑の共産主義」の模索
 ソ連邦解体後の残存共産党の多くが、社民主義的転換か開発独裁党路線かという岐路に直面する中、第三の道として、環境主義との合流を目指す潮流も生じている。その先駆けは、ポルトガル共産党であった。
 ポルトガル共産党は30年代から74年の民主革命まで長く続いたファシスト政権の下では非合法化され弾圧される存在であったが、左派青年将校が主導した74年の革命後は革命政権に浸透して社会主義的な改革を実現させた。
 しかし、75年、革命のさらなる急進化を狙ったクーデターが鎮圧され、革命が収束した後は議会政党としての道を歩み、87年以降は環境政党・緑の党と「民主統一連合」を組んで選挙参加し、議会では統一会派「民主介入」を形成している。
 この赤‐緑連合は、共産党と緑の党という他国では理念や党運営の相違から疎遠な関係にありがちな二党が合併しないまま長く連合体制を維持する稀有の事例であるが、これとは別に、北欧では2004年に環境社会主義的な国際政党連合として「北欧緑左派同盟」がアイスランドで結成された。この国際同盟の中心政党はスウェーデン共産党を前身とする左派党であるが、核となったのはアイスランドの環境左派政党・緑左派運動である。
 この「緑左派」はもはや文字どおりの共産党を主体とする運動ではなく、環境的持続可能性を目指す社会主義という新たな理念に基づく独自の潮流と言うべきであるが、欧州議会では各国共産党が加わった統一会派「欧州統一左派/北欧緑左派同盟」を形成する形で、共産党とも拡大連合している。
 このような環境に重点を置く社会主義の新潮流は元来環境意識の高い欧州ならではのものであるが、共産党を緑色に変えるところまでは進んでおらず、共産党にとって脅威となる緑の党の台頭に対抗するため、「環境」に便乗したユーロコミュニズムの新たな生き残り戦術ではないかとの辛辣な見方を払拭できるほどの展開を見せるかどうかは未知数である。

*アイスランドの緑左派運動は、2017年総選挙で第二党につけ、同党議長カトリーン・ヤコブスドッティルを首相とする保守系及び中道系政党との大連立政権を率いることとなった。早くも政権政党となったわけだが、このような既存政党、それも保守系との雑居的連立による党本来の理念の後退が懸念される。

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世界共産党史(連載第18回)

2014-08-04 | 〆世界共産党史

第9章 ソ連邦解体後の共産党

1:社民主義的転換の波
 世界の共産党総本山であったソ連共産党が指導するソ連は1980年代、大きな壁にぶつかる。巨大化した党組織は官僚主義を極め、一個のメガ官庁のようなものになっていた。一党独裁下で党に利権が集中し、党幹部の汚職が蔓延、自慢の計画経済も官僚主義に染まり、機能不全に陥っていた。
 80年代後半から、ゴルバチョフ書記長の下で大規模な改革「ペレストロイカ」が実施され、限定的な市場経済原理の導入、最終的には党の指導性の否定にまで行き着くが、すべてが中途半端に終わり、成功しなかった。
 89年には、ソ連の衛星国東ドイツで非武装革命が成功し、冷戦の象徴であった東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」が開かれ、東ドイツ国家が消滅した。他の東欧衛星諸国にも同種の革命が波及していく中、ソ連では91年8月、ペレストロイカに反発する党内保守派がゴルバチョフの追放を狙って起こしたクーデターが急進改革派と市民の抵抗で失敗に終わったのを機に、同年末、ソ連邦が解体、それに伴いソ連共産党の命脈も尽きた。
 こうして共産党総本山が突然消滅したことの影響は大きく、他国の共産党または他名称共産党の多くも従来のマルクス‐レーニン主義を放棄し、改めて社会民主主義への転換を図り、党名変更する潮流が生じた。
 一方、一足早く社民主義的転換を図っていたユーロコミュニズムの旗手イタリア共産党は、ソ連共産党解体に先立つ91年2月、党名を左翼民主党に改称し、明確に共産主義と決別した。そして中道保守勢力との連合を経て、2007年には中道左派・民主党に再編された。
 こうした社民主義的転換を明示しない共産党にあっても、ソ連邦解体後は革命路線を放棄し、議会政治への参加を主要な活動とすることで、資本主義体制に順応していく傾向が顕著に見られる。
 そうした中、93年にソ連共産党の後継政党として再建されたロシア連邦共産党は独自の路線を歩んできた。同党はマルクス‐レーニン主義をなお放棄することなく、社会主義の復活をあえて綱領に掲げ、議会選挙を通じて党勢回復を図ってきた。その結果、95年から03年までは下院第一党の座を確保した。その後プーチン大統領率いる愛国保守政党の台頭により低落、政権獲得の可能性は乏しいものの、有力な野党であり続けている。

2:開発独裁党路線
 ソ連邦解体後の共産党(名目共産党を含む)のもう一つの身の振り方として、開発独裁党路線がある。その代表的モデルが中国共産党の「社会主義市場経済」である。
 中国共産党内では、すでに中ソ対立でソ連離れを来たしていた60年代から資本主義的モチーフを伴った経済改革を志向するグループが見られたが、文化大革命はこうした流派(走資派)に反発した最高指導者毛沢東をはじめとする保守派の反撃という一面があった。
 しかし、毛没後の70年代末、文化大革命後の国家再建過程で復権し、最高実力者として台頭した旧走資派トウ小平を中心に、市場経済原理を積極導入する経済開発に本格着手した。この路線はソ連邦解体後、いっそう明瞭になり、共産主義を事実上棚上げして、資本主義的経済発展を目指す方向を突き進んでいる。言わば「共産党が指導する資本主義」である。
 同様の路線は、共産党ないし他名称共産党が一党支配を維持している東南アジアのベトナムやラオス、アフリカのアンゴラやモザンビークといった諸国でも程度の差はあれ、採用されている。
 一方、アメリカ地域で唯一一党支配体制を維持するキューバ共産党は、革命指導者カストロの長期執権下でソ連モデルを忠実に維持していたが、2011年のカストロ引退後、遅ればせながら市場経済原理の導入を図り始めている。ただカストロ存命中の現時点ではその歩みはなお慎重に見え、世界で最も保守的な統治共産党となっている。

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世界共産党史(連載第17回)

2014-07-22 | 〆世界共産党史

第8章 アフリカ大陸への浸透

3:エチオピア革命の破綻
 アフリカ大陸で唯一、社会主義革命と呼び得る出来事を経験したのは、エチオピアであった。エチオピアは西欧帝国主義の攻勢下で一時イタリアに占領されたが、イタリア・ファシスト政権の崩壊後、いち早く独立を回復する。とはいえ、長年にわたる独裁的な帝政国家であり、状況的にはロシア革命時のロシアと類似していた。
 1970年代に入ると、少数民族の反乱や、大干ばつにオイルショック後の物価高騰などの政治経済的な情勢は悪化、反帝政デモが大規模化する中、74年に軍部の左派青年将校グループが決起し、帝政は打倒された。最後の皇帝ハイレ・セラシエは廃位され、翌年拘禁中に死亡したが、これは革命政権による超法規的処刑と見られている。
 ここまではロシア革命の経過と酷似するが、エチオピア革命の主体は共産党ではなく、上述したような左派青年将校であった。他名称共産党としては革命に先立つ72年に結成された人民革命党があったが、74年革命では脇役であった。そのため、革命政権は臨時軍政評議会(通称デルグ)を名乗る軍事政権の性格を持ったが、単純な非常時政権でもなく、75年以降、農業協同組織ケベレの設立など革命的な農地改革にも着手した。
 こうした中から、強硬派の青年将校メンギストゥ少佐が台頭し、77年までに革命政権の実権を掌握する。メンギストゥは77年から78年にかけて大々的な赤色テロを断行し、人民革命党を含む反対勢力を大量粛清して独裁体制を固めた。彼は、エチオピアのスターリンとなった。
 メンギストゥ体制はソ連型の国家社会主義を志向し、強権を発動して企業や土地の急激な国有化を進めていった。しかし、一方で少数民族を主体とした内戦が勃発しており、干ばつにも見舞われ大規模な飢餓が発生した。ただ、隣国ソマリアとの領土紛争ではソ連やキューバの支援を得て勝利を収めた。
 メンギストゥは盟主国ソ連の圧力もあり、84年になってようやく他名称共産党としての労働者党を設立し、自ら大統領に就任して形の上では民政移管を実行したが、この隠れ蓑はかえって自己の権力基盤を弱める結果となった。冷戦終結後は反政府勢力の攻勢が一挙に強まり、政権は91年5月、盟主国ソ連の解体に先立って崩壊、メンギストゥ大統領はジンバブエに亡命した。
 結局、メンギストゥ政権下では数十万単位の粛清が行われ、内戦と干ばつで100万人を超える難民が発生した。新政権はメンギストゥを人道に対する罪などで起訴、有罪死刑判決が出されているが、彼は今なお類似の社会主義独裁体制が続く亡命先ジンバブエで庇護されている。
 こうして、エチオピア革命はロシア革命と類似の経過をたどりつつも、実効的な党組織が欠如していたため、軍政の性格を脱することができないまま、スターリンの大粛清同様の惨事に飢餓難民化というアフリカ的な副産物が付加される悲劇だけを残して、破綻したのであった。

4:反アパルトヘイト闘争
 アフリカにおいて、共産党が平和的革命の中で間接的にポジティブな役割を果たした稀有の事例が、南アフリカ旧白人政権の人種差別政策に抵抗する反アパルトヘイト闘争であった。
 南アフリカ共産党は1921年に結成され、当初は白人労働者を主体とする政党であったが、コミンテルンの指示で20年代から黒人党員の組織化と黒人国家樹立を活動方針に採用する。しかし、40年代以降非現実な黒人国家樹立方針を放棄すると、反アパルトヘイト闘争の中心団体であったアフリカ民族会議(ANC)と共闘するようになった。
 白人政権が50年に共産主義者抑圧法を制定して、共産党を非合法化すると、党は公式にANCの内部で活動するようになる。その結果、白人政権はANCそのものを共産主義団体として抑圧対象とするようになり、「反アパルトヘイト=共産主義」という図式を作り出し、弾圧の口実とした。
 こうして政権側の弾圧が強まると、当初非暴力路線を採っていたネルソン・マンデラらANC指導部も武装闘争路線に転換していった。そうして結成されたANCの軍事部門ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)は共産党が主導した。特に長く同部門の参謀長を務めたユダヤ系白人ジョー・スロボ(後に共産党書記長)は、ANC急進派の理論的な指導者でもあった。
 こうした武装闘争方針への転換の結果として、ANC全体の指導者となっていたマンデラも62年に逮捕され、終身刑判決を受けて64年以降投獄を余儀なくされた。
 この間も、ANC自体は全体として中道左派的な包括団体の性格を保持するが、内部政党としての南ア共産党は結党以来の白人党員を通じて異人種間をつなぐと同時に、ANC内部の最も急進的なセクトとして、反アパルトヘイト闘争のエンジンのような役割を果たしていた。
 反アパルトヘイト闘争全体ではマンデラの存在感が圧倒的に大きかったが、90年にマンデラが釈放された後、アパルトヘイト廃止へ向けた和平交渉が進む中で、反発した白人極右政党議員らに暗殺された共産党書記長クリス・ハニは当時、黒人青年層の間では強い支持を受けており、マンデラに次ぐ人気を誇っていた。ハニの暗殺は、暗殺者の思惑に反し、その翌年に初の全人種参加選挙が実現するきっかけともなった。
 その結果、選挙戦に勝利したANCがついに政権与党に就くと、共産党もそのまま内部政党として与党入りし、閣僚も輩出した。ただ、アパルトヘイト廃止後は事実上の一党支配政党となったANCは新自由主義的な方向に流れており、内部政党としての共産党も本来の共産主義からは遠ざかり、長期政権に伴う利権腐敗の共同責任も免れない。

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世界共産党史(連載第16回)

2014-07-21 | 〆世界共産党史

第8章 アフリカ大陸への浸透

1:アフリカの共産主義
 アフリカ大陸では、オセアニアとともに共産党政権が成立した歴史がない(後述するように、他名称共産党の政権はある)。この事実は、アフリカ大陸が反共主義的であることを意味していない。アフリカの20世紀は西欧帝国主義の植民地支配に始まり、第二次大戦後も独立闘争に忙殺され、共産主義革命より独立達成が圧倒的に優先課題であった。
 しかし、その独立闘争にも共産主義は浸透していた。多くの諸国の独立闘争組織が、程度の差はあれ社会主義的志向性を持ち、マルクス主義を標榜するセクトを抱えていた。60年代以降、アフリカ諸国の独立が続くと、多くの諸国がソ連型一党支配体制の社会主義を標榜し、ソ連に接近していった。しかし、それはしばしば独裁政権や軍事政権の隠れ蓑にすぎず、重大な人権蹂躙や内戦を招くことも少なくなかった。
 そうした隠れ蓑政権の典型は、1969年の軍事クーデターでソマリアに成立した体制であった。この体制は完全な軍事政権であったが、間もなくマルクス‐レーニン主義を標榜する革命社会主義者党の一党支配の形態に移行した。しかし、その実態は独裁者バーレ大統領の属する氏族支配の隠れ蓑にすぎなかった。
 バーレ政権は同じくマルクス‐レーニン主義を標榜した隣国エチオピアとの領土紛争からエチオピアを支援したソ連を離反して親米に転向した末、冷戦終結後にはアメリカからも捨て駒とされ、折から強まった反政府ゲリラの攻勢に屈し、91年に崩壊した。その後のソマリアは内戦・無政府分裂状態のままである。
 異彩を放つのは、ザイール(現在のコンゴ民主共和国)東部で67年から88年まで存続した解放区的なマルクス主義のゲリラ国家である。これは当時のザイールのモブツ親米独裁政権に対抗して、ローラン・カビラが率いた山岳ゲリラ活動の一環であり、一時的にキューバ革命の共同指導者チェ・ゲバラが来援したが、カビラの怠惰に失望し、去っていった。
 その後、中国の支援でゲリラ国家が設立・維持されるが、その活動方法は密輸や強盗といった犯罪行為であり、結果はカビラの蓄財であった。ゲリラ国家解体後の97年に至り、カビラはモブツ政権を崩壊に追い込む革命に成功し、新大統領に就任するが、前任者に劣らない個人崇拝型の独裁体制となり、新たな内戦の中、2001年に護衛官によって暗殺された。

2:ポルトガル語圏諸国
 共産主義的な独立闘争組織が他名称共産党として独立後も持続的な成功を収めたのは、共にポルトガルから独立したアンゴラとモザンビークであった。両国は最も遅くまでアフリカ植民地の保持に執着したポルトガル本国のファシスト政権が74年の革命で崩壊したのを機に独立した。その独立闘争から独立後の政権までを一貫して担ったのは、マルクス‐レーニン主義を標榜する解放政党であった。
 アンゴラでは後に初代大統領となるアゴスティニョ・ネトらの知識人により56年に結成されたアンゴラ解放人民運動が、75年に独立を宣言した(77年、アンゴラ解放人民運動‐労働党と改称)。しかし、独立前から鼎立していた反共親米の二つの反政府ゲリラ組織との間で内戦に突入する。
 このアンゴラ内戦は米ソ代理戦の様相が強く、反政府ゲリラはアメリカやアパルトヘイト時代の南ア白人政権の支援を受け、ソ連とキューバの支援を受けるアンゴラ政府に対抗し、一進一退の内戦が冷戦終結をまたいで2002年まで続いた。この間の死者は300万人を超えるとされる。
 他方、モザンビークでは62年に結成されたモザンビーク解放戦線が75年の独立後政権党となるが、ここでも反共ゲリラ組織との間で内戦に陥る。しかしやはり南アに支援されたモザンビークの反政府ゲリラは残忍な暴力的活動が多く、支持は広がらず、こちらも100万人と言われる死者を出しながら、アンゴラより一足早い92年に内戦は終結する。
 内戦終結後の両国は共に憲法上は複数政党制を採りつつ、独立以来の解放政党が政権党の座にあるが、すでにマルクス‐レーニン主義を離れて市場経済原理の導入を通じた経済開発路線に転じ、とりわけアンゴラは油田開発を基盤に2000年代に高い経済成長を示した。
 これは、両国の支配政党がマルクス‐レーニン主義を標榜していた当時から比較的柔軟な現実主義路線を採用し、スターリン主義的な独裁者も出現しなかった幸運による。とはいえ、長年にわたる内戦の後遺症に加え、長期政権は市場経済化の中で政治腐敗を助長している。

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世界共産党史(連載第15回)

2014-07-08 | 〆世界共産党史

第7章 アメリカ大陸への拡散

3:キューバ革命とその余波
 共産党が関わった出来事で、アメリカ大陸全般に最も強い余波を引きこしたのが、1959年のキューバ革命であった。キューバはアメリカ大陸部からは外れた島国であるが、地政学上はラテンアメリカに属する。
 ラテンアメリカ諸国の中では遅れて1902年にスペインから独立したキューバは、建国当初から共産主義者やアナーキストの活動が活発な革新的気風に満ちていたが、政治経済はスペインに勝利したアメリカに掌握され、事実上の属国状態となっていた。特に30年代から50年代にかけて断続的にバティスタの親米軍事独裁体制が敷かれ、その下でキューバのアメリカ従属は頂点に達した。
 キューバ共産党は1925年に結党されたが、40年代にバティスタ政権に参加したほか、44年には人民社会党と早くも改称するなど、急進性を喪失していた。
 こうした中、フィデル・カストロやその盟友のアルゼンチン人チェ・ゲバラに指導された青年革命組織・七月二十六日運動が53年以降、失敗を繰り返しながら数年にわたるゲリラ活動の末、59年に革命に成功、バティスタ政権を崩壊に追い込んだ。
 革命政権は当初、メキシコ革命と類似の農地改革を軸とした民族主義的な急進ブルジョワ革命の性格を示していたが、次第に社会主義的になり、米国系資本の国有化を打ち出すに至ってアメリカとの対立が決定的となると、ソ連に接近した。これは米ソ冷戦の新たな火種となり、62年には戦後最大の核戦争危機(キューバ危機)を誘発した。
 カストロ政権は61年に亡命キューバ人を使ったアメリカのケネディ政権によるキューバ侵攻転覆作戦を撃退すると、正式に社会主義化を宣言し、七月二十六日運動や人民社会党などが合同して統一革命機構を組織、これを母体に65年に改めて共産党が結党され、以後、キューバはソ連型の共産党一党支配体制となった。
 キューバ革命の大きな特徴は、大規模な武装革命に伴いがちな内戦が起きなかったことである。これは革命政権が前政権の主であるバティスタやその他の高官を処刑せず海外亡命を認めたことで、かえって国内での反革命勢力の対抗的な結集を阻止し得たためと考えられる。
 このように、ゲリラ活動から革命を成功させたキューバ革命はラテンアメリカでは伝説的な範例となり、周辺諸国にも波及していく。79年にはキューバと同様戦前から長く親米独裁体制が続いていた中米ニカラグアで、ゲリラ組織サンディニスタ国民解放戦線が革命に成功した。しかし、直後からアメリカに支援された旧政権残党との間で10年に及ぶ内戦に陥った。和平後、サンディニスタ国民解放戦線はいったん政権を喪失するも、穏健な議会主義路線に転じて有力政党となり、民主的選挙で大統領を輩出するなどキューバとは異なる道を歩んでいる。
 他方、南米ではキューバ革命型の革命成功例が見られず、ソ連化の進むキューバを去ったゲバラも新天地ボリビアの革命運動に参加するが、政府軍の掃討作戦で捕らえられ、即時処刑された。そうした中、ブルジョワ寡頭支配の傾向が顕著なコロンビアで結成されたコロンビア革命軍はマルクス‐レーニン主義を掲げ、64年の結成以降、反政府ゲリラ活動を続けている。
 ただ、この組織は90年代に入ると、資金獲得の手段として麻薬組織との関係を深め、また身代金目的誘拐などの犯罪にも及び、革命組織というより犯罪組織としての傾向を強める逸脱が顕著になった。これに対し、2000年代以降、アメリカに支援された政府による掃討作戦が強化され、最高幹部が次々と殺害されるに至り、組織は弱体化し、革命の可能性は潰えている。

4:チリの左派連合
 ユーロコミュニズムの影響が強いチリ共産党は独自の展開を示してきた。チリでは戦前戦後にかけての人民戦線系政権が親米化する中で、共産党は一時非合法化・排除されたが、再合法化後も、社民主義の社会党と共闘する方針を崩さず、選挙協力体制を続けた。
 そうした中で、1970年の大統領選ではより広範な諸派を加えた人民連合を結成して、史上初めて社会党のサルバドール・アジェンデを当選させた。アジェンデは共産党員ではなかったが、マルクス主義を標榜しており、世界で初めて民主的な選挙で選ばれたマルクス主義の国家元首と目された。
 アジェンデ政権は国内反共主義者やその背後にあるアメリカの強い不信と警戒の中、急進的な農地改革や米国系銅山会社の国営化などを着々と進めていった。外交的にもキューバやソ連との友好関係を深めた。
 しかし、社会サービス分野への傾斜投資による政府支出の膨張や、アメリカによる事実上の経済制裁としての銅の国際価格操作、賃金の大幅引き上げによるインフレの進行など、外圧と経済失政の複合作用に、ブルジョワ層のサボタージュやアメリカが仕掛けたトラック業界のストライキなどが加わり、チリ経済は急速に悪化・混乱する。
 反政府デモも全土に広がり、不穏な情勢の中、内戦の危機が迫り、保守派は軍の介入を求めるに至った。こうした反共派の要望に答え、73年に就任したアウグスト・ピノチェト陸軍司令官に指導された軍部は、同年9月、クーデターを断行してアジェンデ政権を転覆した。アジェンデ大統領は軍による銃撃の中、自殺に追い込まれた。
 こうして成立したピノチェト軍事独裁政権は徹底した親米反共政策に転じ、同時期に成立した周辺諸国の軍事政権と協力して社会主義者・共産主義者と目される活動家らを大量検挙もしくは秘密裡に殺害する苛烈な弾圧作戦を展開しつつ、新自由主義的な経済政策を強権的に執行し、南米における新自由主義政策のモデルとなった。
 この間、チリ共産党は一時議会主義路線を放棄し、軍事政権に対する武装闘争を展開、86年にはピノチェト大統領暗殺未遂事件を起こした。90年の民政移管後、チリ共産党は議会主義路線に復帰し、2013年大統領選挙では再び社会党などと連合して勝利し、社会党主導のバチェレ政権(第二次)に参加している。

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世界共産党史(連載第14回)

2014-07-07 | 〆世界共産党史

第7章 アメリカ大陸への拡散

1:アメリカ共産党の活動
 アメリカ共産党の歴史は古く、コミンテルン結成直後の1919年に分裂状態で結党され、コミンテルンの指令による21年の組織統合後はコミンテルンと密接に連携し、分派闘争を繰り返しながらも主流派はソ連共産党に忠実な党として活動した。
 しかし当初海外出身党員の多かったアメリカ共産党は結党直後から政府の一斉検挙・強制退去処分を受け、地下活動を余儀なくされたが、29年の大恐慌が転機となる。共産党はにわかに活気づいた労働運動や反資本主義運動の中で支持者を増やし、大衆運動にも浸透していく。
 さらに30年代になると、コミンテルンの反ファッショ人民戦線方針に沿って、リベラル左派とも連携した。スペイン内戦に際しても、人民戦線政府を支援するため、国際旅団エイブラハム・リンカーン大隊を結成し、戦闘に参加した。
 アメリカ共産党は草創期の黒人解放運動とも連携しており、リンカーン部隊は黒人指揮官も擁するなど、人種平等に配慮されていた。ちなみにこの部隊には函館出身の日系移民ジャック・白井も参加し、戦死している。  
 第二次大戦では、反ファシズムの観点から連合国を主導するローズベルト政権に協力姿勢を示すが、戦後冷戦期には親ソ路線から政府によって敵視されるようになり、49年の幹部一斉検挙以降、数次にわたり大量検挙を受け、党は打撃を受けた。こうした政府の執拗な検挙作戦で弱体化していく過程は、戦前期の日本共産党の状況にも似ていた。
 54年には共産主義者統制法によって党は非合法化されたが、文言があいまいな同法は憲法上の問題性から実際には適用されず、党は解体を免れた。しかし度重なる摘発とFBIによる内部スパイ工作が功を奏し、最盛期には8万人に達した党員は激減していった。
 1991年のソ連邦解体は長くモスクワに忠実であった同党にとってとどめとなり、党勢縮退を決定的づけた。近年は遅ればせながら、女性の権利や性的少数者の擁護などの新しい課題にも関与し、ウォール街占拠運動のような反新自由主義運動とも連帯するなど党勢挽回に取り組むが、現在実質的に活動する党員は2000人程度と見積もられている。
 アメリカ共産党はその長い歴史を通じて、一人の大統領も輩出しなかったことはもちろん、議会に議席を持ったこともない、完全な議会外野党として維持されてきた。これは反共二大政党政治が徹底している―実は政党政治が未発達な―アメリカならではの事情によるところが大きいが、見方を変えれば、社会運動と直結した議会外野党という独自の形態での「成功例」と言えるかもしれない。

2:ラテンアメリカの共産党
 ラテンアメリカでは、ロシア革命に先立ち1910年にメキシコ革命が勃発したが、この革命は急進的なブルジョワ民主革命の性格が強かった。革命運動内部にはエミリアーノ・サパタのような急進的な革命戦士もいたが、サパタは共産主義者というよりはアナーキストであり、メキシコ革命の中で共産主義者の影は薄い。
 メキシコ共産党は革命末期の19年に結党されるも、間もなく非合法化され、再合法化された後も、ブルジョワ民主革命を確定した制度的革命党の一党支配下で革命の急進化が抑止されたメキシコ政治において、共産党が重要な役割を果たすことは決してなかった。ただ、30年代のメキシコはスペイン内戦で人民戦線政府を支援し、スターリンに追われたトロツキーの亡命を認めた。
 ラテンアメリカでは、早くに革命的な農地改革が進められたメキシコを除くと、半封建的な大土地所有制が温存され、民衆の多数が貧農、差別された先住民という社会編成が見られたことから、労働者階級に基盤を置く共産党の発達はあまり見られなかった。
 そうした中で、ペルー社会党(共産党前身)創設者ホセ・カルロス・マリアテギは農民や先住民の解放を重視する独自の共産主義を提示した。モスクワ主導のコミンテルンの路線と相容れない彼の思想は当初糾弾されたが、ラテンアメリカでは先住民族の運動とも結びついて影響力を持った。
 一方、チリでは1932年に軍の一部も加わった社会主義革命が起きるが、これを主導したのは非共産系の社会主義者たちであり、チリ共産党は蚊帳の外にあった。そのため、共産党はこの革命に反対した。
 共産党や労組にも支持されなかった社会主義革命がわずか2か月余りで挫折した後、チリ共産党は30年代から40年代にかけ、コミンテルンの人民戦線方針に沿って社会党や急進党と組んで選挙活動を行い、人民戦線系政権に参加、戦後もユーロコミュニズムに近い議会主義路線に立って、人民戦線を継承する人民連合の枠組みで政権参加する独自の展開を見せた(詳細は後述する)。

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世界共産党史(連載第13回)

2014-06-24 | 〆世界共産党史

第6章 アジア諸国共産党の功罪

3:文化大革命とカンボジア大虐殺
 共産党が成功を収めたアジアでは、それゆえに共産党が犯した歴史的な誤りも見られた。その一つは、60年代後半から70年代半ばの中国社会を混乱に陥れた「文化大革命」(文革)であった。
 これは毛沢東の晩年期に早くも資本主義への接近を示す改革派が中国共産党の実権を握ったことに端を発し、毛やその側近の保守派がこれら改革派排除を狙って仕掛けた大規模な粛清キャンペーンであり、スターリン時代のソ連で起きたような、言わば中国版大粛清であった。
 しかし、その社会的な広がりが尋常でなかった。スターリンの大粛清とは異なり、文革はその名に象徴されるとおり、単なる党内粛清ではなく、文化を根こそぎ変革するという趣旨で、一般民衆をも動員する大衆運動としても展開されたため、社会総体を巻き込んでいった。この時期には毛親衛隊として結成された紅衛兵が跋扈、横暴を極め、教育制度を含む社会的諸制度の多くが正常な機能を停止した。
 この戦後中国にとっての歴史的なトラウマを形成する大粛清は、76年の毛の死去後、党内クーデターにより毛側近「四人組」が逮捕されてようやく終息に向かったが、その全容はいまだ解明されておらず、1000万人以上とも言われる正確な粛清犠牲者数もなお不明である。
 こうした文革をよりいっそう狂信的な形で組織的に実行したのが、カンボジアで75年から79年まで政権を握ったクメール・ルージュ(カンプチア共産党)であった。クメール・ルージュが政権に就いたのは、後で述べる近隣のベトナム、ラオスでも発生したインドシナ連続革命の一環であったが、ポル・ポトに指導されたクメール・ルージュは毛沢東主義に強く傾斜していた。
 かれらは、資本主義と言わず、西洋文明そのものを否定し去り、農業を軸とした原始共産主義社会の建設というイデオロギーを奉じ、実際に都市文明を破壊し、知識人を大量殺戮した。また都市住民を農村に送り、過酷な農作業に従事させるなどし、大量の死者を出した。これはもはや大粛清にとどまらない、大虐殺の域に達していた。
 こうした極端な農本主義政策の現実的な背景として、インドシナ戦争の過程での米軍による農村爆撃でカンボジアの主産業であった農業生産が壊滅的な打撃を受けていたこともあり、米国の間接的な責任も免れない。
 クメール・ルージュ政権は79年のベトナム軍の侵攻によって終わったが、その政策は約4年の間に、当時人口600万人ほどの国で最大170万人とも言われる犠牲者を出し、特に知識人が絶滅対象となったことから、現在に至るまで、社会的な諸制度の運営に支障を来たす後遺症を残した。
 この二つの国家的悲劇は、いずれもスターリン主義のアジア的・農本主義的な発現と見ることもできる。同時に、それは各国の共産党組織に共通する激越な理論闘争、異分子排除、首領制といった非民主的な要素の極端な現れでもあったと言える。

4:インドシナ同時革命
 先に述べたように、カンボジア大虐殺の実行者となったクメール・ルージュの支配は、70年代半ばにおけるインドシナ三国で起きた同時革命の一環でもあった。
 インドシナでは戦後、ベトナムがホー・チ・ミンを中心に独立すると、間もなく他名称共産党としての労働党を支配政党とする社会主義体制が樹立された。しかし、第一次インドシナ戦争の結果、南部が反共・親米の南ベトナムとして分離され、南北分断国家となると、北ベトナムは南ベトナムの解放を掲げて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を支援したことから、米国はドミノ倒し的な共産主義の拡散を抑止するという「ドミノ理論」に基づき、インドシナ半島全域への介入に踏み切る。
 この頃、近隣のラオスでも王党派と共産主義を掲げるパテート・ラオに中立派を加えた三派が内戦に突入しており、北ベトナムと米国双方がこれに介入していた。ベトナム戦争に巻き込まれたカンボジアでも70年のクーデターで親米軍事政権が樹立されると、これに反対するクメール・ルージュが勢力を拡大し、米軍に支援された政府軍との内戦に突入する。
 このような戦線の拡大から第二次インドシナ戦争とも呼ばれたベトナム戦争が、北ベトナムの事実上の勝利という形で終結し、南ベトナムの首都サイゴンが陥落すると、それに前後して、カンボジア、ラオスでも共産主義勢力が政権を掌握した。カンボジアでは先述したとおり、クメール・ルージュの大虐殺が始まるが、ラオスでは人民革命党(他名称共産党)の一党支配体制が構築された。
 南北統一後のベトナムは、労働党から改称された共産党による全国規模の一党支配体制が樹立されるが、79年には国境紛争を抱えていたカンボジアに侵攻し、クメール・ルージュを駆逐して親ベトナムの人民革命党(穏健な他名称共産党)政権に建て替えた。これによりクメール・ルージュを支援する中国との関係が悪化し、両者は軍事衝突に至った。
 こうして、ベトナム戦争後のインドシナ三国ではまさにドミノ倒し的な同時革命により共産党支配体制が樹立されていったのである。 
 その後、カンボジアでは人民革命党政権とゲリラ組織化したクメール・ルージュを中心とする反政府勢力の間で内戦が続くが、92年の和平後、憲法上は立憲君主制の下での複数政党制による議会制民主主義に移行した。しかし、共産主義を放棄し、人民革命党から改称した人民党はファッショ傾向を強めつつ、なお支配政党であり続けている。

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世界共産党史(連載第12回)

2014-06-23 | 〆世界共産党史

第6章 アジア諸国共産党の功罪

1:共産党の成功
 アジア地域は、全般に共産党が最も成功し、定着した地域と言える。その理由をひとことでまとめることは容易でないが、中央指導部を頂点とした垂直構造の権威主義的な党運営は元来権威主義的な文化を持つアジアの政治風土にマッチしたということが考えられる。
 実際、現時点でも中国、ベトナムが強固な共産党支配体制を維持しており、ラオスも他名称共産党(人民革命党)が支配する。(北)朝鮮も近年共産主義を党規約から削除するまでは、他名称共産党(労働党)が支配する体制であったが、政体上はなお共産党一党支配に準じている。
 共産党は共産主義的無神論と鋭く対立するイスラーム圏にも広く波及した。中でもインドネシア共産党はアジアで最初に結成された合法的な共産党であり、独立後の政治でも主要な勢力となった。
 共産党があまり定着しなかった中東でも、1950年代にはイラクで共産党が連合政権の形で与党となった。1967年に英国から独立した旧南イエメンでは、他名称共産党である社会主義者党が90年の南北イエメン統合まで、アラブ世界で唯一マルクス‐レーニン主義を掲げる一党支配体制を維持した。パレスチナ解放闘争では、共産党という形ではないが、マルクス‐レーニン主義を掲げる左派組織が過激な武装闘争を展開した。
 アフガニスタンでは、他名称共産党である人民民主党が1979年の革命で、親ソ政権を樹立した。しかし、この政権はその後、内紛に乗じたソ連の軍事介入下でイスラーム勢力との10年以上に及ぶ内戦に突入し、ソ連解体後の92年に崩壊した。
 議会政党としての成功例は南アジアに見られ、インド共産党(マルクス主義派)は議会で地歩を築き、一部の州レベルで長期政権を担った。南アジアの最貧国ネパールでは90年代の専制王政に対する民主化運動の過程で、分裂状態だった共産党が統一され、2008年の共和制移行後は二大政党の一つに台頭している。野党勢力としては、日本共産党も議会政治に定着している。
 アメリカの影響から反共主義の気風の強いフィリピンでは共産党は69年以降、毛沢東主義の武装ゲリラ活動を展開している。毛沢東主義はネパールでも強力で、貧しい農村を支配して武装革命闘争を展開した共産党毛沢東主義派は共和制以降後、議会主義に転じ、08年総選挙で第一党となって首相を出し、穏健な共産党マルクス‐レーニン主義派とともに連立政権を発足させた。その後も毛派は統一共産党に次ぐ共産系政党として議会政治で地歩を築いている。
 インドでも、遅れて04年に結成されたインド共産党毛沢東主義派は貧しい農村を拠点に急速に支持を拡大して武装ゲリラ活動を展開、2010年代になって政府治安部隊による掃討作戦が活発化するなど、インドの国内治安を脅かす存在となっている。
 こうしたアジアにおける共産党の成功は時に体制による弾圧を招くこともあった。その最も悲劇的な例は、インドネシア共産党に対する軍部による大弾圧である。
 先に述べたように、インドネシア共産党は独立後、民族主義・イスラーム主義・共産主義三者の融和を説く初代スカルノ大統領の下で有力な政治勢力であったが、65年に共産党に近いとされた左派系軍人の起こしたクーデター事件(9月30日事件)が軍部主流によって鎮圧された後、事件の背後にあるとみなされた共産党を壊滅させる目的から、大々的な共産党員狩りが全土で展開された。これにより共産党シンパとみなされた者を含め、100万人が殺害されたとも言われるが、今なお真相は不明である。

2:ジャパノコミュニズム
 日本共産党は、アジアの共産党中でも独自の軌跡をたどった。元来はコミンテルンの傘下にソ連共産党と密接であったが、戦後はいち早くソ連離れをしていく。戦後占領下での党員公職追放が解除された後、宮本顕治が実権を握った50年代以降は武装革命路線を放棄し、議会政治への参加を追求した。
 ハンガリー動乱、チェコ侵攻、核実験とソ連が覇権主義的な傾向を強めると、日本共産党は平和主義の立場から次第に公然とソ連批判を展開し、ソ連共産党とは明確に対立的な関係となった。その後の中ソ対立期には、中国共産党とも距離を置き、自主独立路線を採る。
 こうした議会を通じた社会主義の展望という路線はユーロコミュニズムに近いが、冷戦期のユーロコミュニズムがNATOを容認して事実上西側陣営に吸収されていったのとは一線を画し、日本国憲法9条の非武装平和主義を擁護し、非同盟中立に軸を置いた点で日本共産党独自の、言わばジャパノコミュニズムの特質を持つ。こうした路線確立の過程では、激しい分派抗争を生むと同時に、国際共産主義との連携が希薄となり、一国共産党として孤立的な存在となった。
 しかし、地域福祉活動に根差した選挙戦術によって、地方政治では確実に地歩を築き、70年代には国政でも社会党に次ぐ野党第二党に躍進した。80年代以降は退潮傾向が見られるものの、ソ連解体後も、ユーロコミュニズムの旗手だったイタリア共産党のように党名変更(事実上消滅)することもなく存続している。近年は中国共産党との関係改善・接近傾向も見られる。

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世界共産党史(連載第11回)

2014-06-12 | 〆世界共産党史

第5章 冷戦時代の共産党

3:ユーゴ共産党の独自路線
 1947年に結成されたコミンフォルムには、当初ユーゴスラビア共産党も参加していた。その指導者チトーは前章でも見たとおり、ユーゴのパルチザンの英雄であり、独立達成後は、制憲議会選挙で勝利した共産党を中核とする人民戦線政府の首相に就いていた。
 しかし、他の東欧諸国と異なり、強力なパルチザン組織によりソ連の支援を得ず独力で独立を勝ち取った民族主義志向の強いユーゴ共産党はスターリンの不興を買い、48年に早々とコミンフォルムを除名される。
 除名後のユーゴ共産党は対外的にはソ連従属の否定、対内的には市場的要素を伴った分権的な自主管理社会主義を基本路線として採択し、ソ連とは異なる道を歩むようになる。52年には共産党の一党支配も廃され、イデオロギー的な指導機関としての共産主義者同盟に組織変更されるに至った。
 このような体制はたしかにスターリン主義体制と袂を分かつ程度には異質であったが、終身大統領チトーを頂点とする権威主義的体制であることに変わりなく、その点ではスターリン型の首領指導制の亜類型であった。また共産主義者同盟もソ連共産党のような独裁政党ではないと規定されたが、複数政党制が容認されたわけではなく、事実上は同盟が政権を独占していた。
 連邦体としては、6つの民族共和国と2つの民族自治州から成る共和国連邦という点でソ連との類似性もあったが、ソ連よりも緩やかな多様性が強調された。しかし、それも多分にしてプロパガンダの域を出ず、民族的な分離独立は厳しく抑圧された。
 こうしてソ連陣営を離れて独自の道を歩み出したユーゴは国際政治面でも、東西両陣営に属しない非同盟諸国運動のリーダーとなり、非同盟中立という第三の陣営を形成した。非同盟諸国運動はフルシチョフ政権以降、ソ連離れを始めた中国をもオブザーバーに加えて、発展を見せた。
 ユーゴの分権体制はソ連型社会主義のオールタナティブとして西側では好意的に注目されたが、所詮はチトーの個人的な権威でもって結合を保っていたにすぎなかったため、スターリンの死後も命脈を保ったソ連とは異なり、80年のチトー死後のユーゴ連邦は凄惨な内戦を伴いながら崩壊の道を転げ落ちていく。

4:ユーロコミュニズム
 西側諸国の共産党では、イタリア共産党を中心にユーゴよりも一足先にソ連離れが起きていた。イタリア共産党では、1940年代にトリアッティ書記長が議会制民主主義を通じた社会主義革命への道を理論化した。実際、イタリア共産党はこの路線に基づき、戦後民主化されたイタリアで議会選挙に参加し、勢力を伸張させ、野党ながら最大政党となって国政に地歩を築き、多くの地方自治体首長も輩出した。
 こうしたイタリア共産党の議会政治での成功は、同様に議会政治が発達した他の西欧諸国にも影響を及ぼし始める。68年のソ連軍によるチェコスロバキア侵攻(プラハの春)はこの傾向を決定づけた。
 チェコでは48年の政変以降続いていたソ連に忠実な共産党支配体制が揺らぎ始め、68年には改革派のドプチェク新書記長の下、「人間の顔をした社会主義」を標語とする体制内改革が始められた。この改革は一党支配の緩和と連邦制導入、市場経済要素の導入、検閲廃止などのかなり踏み込んだ自由化改革プログラムを含んでいた。
 これに危機感を持った党内保守派と同様の改革の波及を恐れたソ連指導部や衛星諸国指導部は軍事介入を決断し、同年8月、ワルシャワ条約機構軍がチェコに侵攻、占領したうえ、親ソ指導部にすげ替えた。
 この武力による改革潰しは西側共産党のソ連離れを加速させた。イタリア共産党はこの軍事介入を公然と非難した。西側共産党では「モスクワの長女」と呼ばれるほど親ソ派であったフランス共産党でさえ、70年代以降、マルシェ書記長の下、ユーロコミュニズムに接近する。
 こうした議会制への参加を基本とするユーロコミュニズムは一方で、西側の資本主義市場経済との妥協も意味したから、この路線は次第に西側共産党を革命的な共産主義から穏健な社会民主主義への道に転向させ、最終的にはイタリア共産党のように中道政党への組織転換・事実上の消滅へと導かれていく。

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世界共産党史(連載第10回)

2014-06-11 | 〆世界共産党史

第5章 冷戦時代の共産党

1:冷戦の開始と東西共産党
 スターリンのソ連共産党を指令部とするコミンテルンは第二次世界大戦中の1943年、独ソ開戦を機にソ連が米英仏の連合国側に加わったことで解散されていたが、戦後の47年には後身組織としてコミンフォルムが結成された。これはスターリンの提唱により結成された東西欧州をまたぐ共産党の国際連絡機関であったが、その真の目的は米国に対抗するソ連を中心とする勢力圏の設定にあった。
 かくして、東西冷戦の開始にも共産党は深く関与している。単純化してみれば、冷戦とはソ連を総帥とする共産党対米国を総帥とする保守党の国際的なせめぎ合いであったとくくることもできる。事の発端は、第二次世界大戦では米国とも陣営を共にしたソ連が、東ドイツを含む東欧のソ連占領地域で、直接間接の干渉によって次々とソ連の衛星諸国を作出していったことにあった。
 このドミノ倒しのような東欧のソ連化の過程で政権を掌握したのが、各国の共産党(他名称共産党を含む)であった。それらの多くは、戦前期コミンテルンを通じたスターリンによる粛清の手が及んでおり、スターリン主義政党としての素地はすでに出来上がっていた。
 特に最初期の冷戦舞台となった東ドイツではナチス時代に禁圧されていたドイツ共産党と東ドイツ地域の社会民主党の一部が合同し、他名称共産党としての社会主義統一党が結成され、支配政党となった。同党は以後、ソ連に最も忠実な支配政党として、東独を独裁統治する。
 同様に他名称共産党が支配政党に就いたのは、ポーランド(統一労働者党)とハンガリー(ハンガリー勤労者党、後に社会主義労働者党に再編)であった。両国では、支配政党内にソ連への従属に抗する民族主義者が存在したことから、後に反ソ暴動・動乱の要因ともなる。チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアでは文字どおりの共産党が支配政党に就いた。
 戦間期に議会政治で地歩を築いていたチェコスロバキア共産党は46年の総選挙で第一党に躍進し、首相を出したが、これは共産党が民主的な選挙で政権を獲得した世界最初の事例であった。しかし連立政権であったため、48年、共産党は超法規的な手段を用いて他政党を政権から排除し、一党支配体制を確立する。
 この時期、西欧諸国の共産党にも政権に参加する動きが見られた。フランスでは対独レジスタンスで功績のあった共産党が選挙で躍進し、連立政権に参画した。ムソリーニのファシスト政権時代に弾圧を受けて解体されていたイタリア共産党もファシスト政権からの解放で重要な役割を果たし、戦後の挙国一致政府に参画するなど、イタリアの戦後民主化に足跡を残した。

2:スターリン後のソ連共産党
 戦前戦後にかけて30年近く君臨してきたスターリンは53年、死去した。大粛清によって党内の多くの人材が失われており、絶対的独裁者が去った後の常として、際立った後継候補者は見当たらなかった。
 そうした中で、ウクライナ出身のニキータ・フルシチョフが台頭してくる。党第一書記に就任した彼は56年の秘密報告で、いわゆる「スターリン批判」を展開し、スターリン時代の終焉を宣言した。ただし、この「批判」では専らスターリンの個人崇拝政治と粛清の罪悪に焦点が当てられており、スターリン時代に確立された抑圧的な共産党支配体制の基本的な変更には及ばなかった。
 とはいえ、当時は秘匿されていた大粛清の事実が明らかにされ、絶対者スターリンが公然批判されたことは、党内外のスターリン主義者に強い衝撃を与えた。この時期、スターリン主義に忠実な支配体制を構築しつつあった毛沢東の中国、ホジャのアルバニアではフルシチョフを「修正主義者」と規定する強い反批判が出され、ソ連との関係悪化につながった。
 一方で、スターリン批判は民族主義派を抱えていたポーランドやハンガリーでは反ソ暴動の導火線となった。ポーランドでは56年6月、ポーランド西部の都市ポズナンのスターリン名称金属工場で起きたストをきっかけとする暴動を機に、いったんは民族主義派として追放されていたゴウムカが政権に返り咲き、一党支配の枠内で一定の民主化に着手した。
 このポズナン暴動は、同年10月にはハンガリーに飛び火し、より大規模な反ソ動乱を引き起こした。ここでは革命的状況に発展し、反ソ的なナジ政権の成立を見るが、ソ連のフルシチョフ指導部は軍事介入で応じ、結局動乱は翌月、武力鎮圧され、親ソ派政権にすげ替えられた。かくして、ソ連共産党がスターリン後も東欧で覇権を維持しようとする強い意志が示されたのだった。
 フルシチョフ指導部は、対外的には米国との緊張緩和、国内的にも秘密警察組織の改革や一定の経済分権化などの改革を実現したが、元来フルシチョフの党内基盤は磐石でなく、農業問題での失政などもあり、64年の党内クーデターで失墜し、政権を追われた。
 代わって、党内クーデターの仕掛け人でもあったレオニード・ブレジネフが新しい共産党指導者となるが、彼は党内官僚の権化のような保守的な人物であり、以後スターリンに次ぐ18年の長期に及んだブレジネフ指導体制下のソ連共産党は安定しながらも官僚組織化の度を強めていく。

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世界共産党史(連載第9回)

2014-05-29 | 〆世界共産党史

第4章 スターリン時代の共産党

3:人民戦線の樹立と挫折
 スターリン時代のコミンテルンが打ち出した社会民主主義排撃―社会ファシズム論―の誤りは、ドイツ共産党がナチスの政権掌握を結果的にバックアップするという矛盾を露呈したことで、明らかになった。
するとコミンテルンは一転、反ファシズムのための連携―人民戦線―に方針変更した。この方針にいち早く反応したのが、スペイン共産党であった。スペインでは36年1月、共産党と社会党その他の左派政党が選挙協定を結び、同年2月の総選挙で勝利、人民戦線連立内閣を組閣した。
 これに対して、危機感を募らせた保守層・軍部は同年7月、スペイン領モロッコ駐留部隊の決起を契機に人民戦線政府の倒壊を狙った大規模な武装反乱を起こした。以後、反乱軍側をナチスドイツやイタリアのファシスト政権が肩入れし、スペインはピカソの絵画『ゲルニカ』に象徴される凄惨を極める内戦に突入していった。
 人民戦線は元来「反ファシズム左派」という一点でしか一致がなく、分裂していたことから、内紛が多く、反乱への対処も足並みが乱れた。ソ連はこうした不安定な構造の人民戦線政府を統制することに躍起で、効果的な軍事援助がなされない一方、自国軍部を掌握できない戦線側は劣勢に立たされた。
 そうした苦境を支援するため、コミンテルンでは義勇軍として国際旅団を組織して送り込んだが、職業軍人で構成された軍部の大半が左袒した反乱軍を圧倒することはできず、3年余り続いた内戦は反乱軍側勝利に終わり、反乱軍指導者として台頭していたフランコ将軍の軍部ファシスト体制が樹立された。フランコ政権は人民戦線派を大量処刑し、共産党は非合法化される。
 同時期に成立したフランスの人民戦線政権(共産党は閣外協力)はスペインのような軍事反乱には直面せず、議会政治の枠内で通貨政策や労働政策の分野で一定の成果も見せたが、スペイン内戦への対応をめぐり強力な支援を主張する共産党と中立を主張する連立与党の中産階級政党との溝が深まり、スペインの人民戦線政府より先に崩壊した。
 同様の人民戦線政権が比較的長続きしたのは、大陸を越えた南米チリのそれであった。大統領共和制を採るチリでは38年以降、人民戦線系の大統領が三代にわたり続いたが、東西冷戦の開始後、南米の共産化を恐れるアメリカの圧力により、48年にチリ共産党が非合法化されたことをもって人民戦線政権時代は終焉した。
 ちなみに、中国では37年、一度は決裂していた共産党と国民党が盧溝橋事件を機に抗日共闘を目的として再び連携した(第二次国共合作)。通常これは人民戦線のうちに数えないが、ファッショ的な傾向を帯びた軍国日本による帝国主義的侵略に対抗するイデオロギーの違いを超えた連携という点では、中国版人民戦線―まさに文字どおりの戦線―と言える面があった。しかし、この「合作」は欧州の人民戦線以上に危ういものであり、日中戦争中から早くも両党の衝突は始まっており、戦後には本格的な内戦へと転じていく。
 コミンテルンの人民戦線方針自体も39年、世界を驚愕させた電撃的な独ソ不可侵条約の締結をもって失効した。ここにも、思想的な軸が一定しないスターリンの日和見な―よく言えば状況判断に優れた―性格が見て取れよう。

4:対独レジスタンス
 ナチスドイツは独ソ不可侵条約以後、ソ連の事実上の黙認を得て欧州諸国を広範囲に侵略していくが、ナチスドイツの侵略を受けた欧州諸国の共産党は、その貢献度に相違はあれ、対独レジスタンスに挺身していく。中でもユーゴスラビア共産党が組織したパルチザンはその成功例である。
 ユーゴスラビアはナチスドイツだけでなく、枢軸同盟に参加していたイタリア、ハンガリー、ブルガリアの総攻撃を受けて解体占領され、枢軸勢力による過酷な分割統治下に置かれた。これに対して、チトーの率いる共産党を中心とするパルチザンが組織され、41年以降、武装抵抗活動を開始した。このパルチザンは独自の海軍・空軍部門まで備えた本格的な軍事組織であり、ほぼ独力で解放戦争を戦い、目的を達成、そのまま政権を掌握した。
 同様のレジスタンス運動は隣接するアルバニアにも波及し、ここでもエンヴェル・ホジャを指導者とするアルバニア共産党が結成され、ユーゴスラビアのパルチザンの支援を得ながら、解放を達成、政権を掌握した。
 ギリシャでも、共産党を主要な核とする対独レジスタンス組織として民族解放戦線が組織され、自力での解放を達成した。しかし、ギリシャのレジスタンス組織はユーゴ、アルバニアとは異なり、スターリンの意向に従い政権掌握には至らなかったが、戦後、政府との内戦に陥り、これが東西冷戦の契機として利用されることとなった。
 一方、ナチスドイツの東欧侵略の橋頭堡となったチェコスロバキアでは戦間期、ドイツと同様に共産党が議会政治に野党として地歩を築いていたが、ドイツによる解体・占領後は非合法化され、弾圧された。難を逃れた共産党員は対独レジスタンスに参加したが、ここでは自力での解放には至らず、ソ連の占領の下で「解放」されるにとどまった。
 ポーランドなどナチスに蹂躙された他の東欧地域でも共産党は対独レジスタンスに加わるが、自力で解放するには至らず、連合国の勝利後、ソ連による軍事占領下での「解放」というプロセスの中で、ソ連の傀儡政党として政権に就けられるケースが多かった。このことが、戦後東西冷戦の伏線ともなっていく。
 他方、「モスクワの長女」フランス共産党は、独ソ不可侵条約締結後「反ファシズム」を取り下げ、「反仏帝国主義」を打ち出すなど、相変わらず忠実な長女の役を担っていたが、フランスがナチスドイツに侵略されると、対独レジスタンスを開始し、ド・ゴール将軍の抵抗運動とも連携しながら、解放に貢献した。

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世界共産党史(連載第8回)

2014-05-28 | 〆世界共産党史

第4章 スターリン時代の共産党

1:スターリンの党支配
 ソ連共産党では、党創設者レーニンが1924年に早世し、トロツキーとの跡目争いを制した側近のグルジア人スターリンが後継者の椅子に座った。こうした経緯からみても、ソ連共産党には指導部を民主的に選出する気風が当初から乏しかったことは明白である。
 そうした非民主的な党運営をいっそう推し進めたのが、スターリンであった。彼は革命前からの古参党幹部であり、レーニン側近として早くから頭角を現していたが、その性格は官僚であり、実際スターリン時代に確立される党内官僚制を自ら体現する人物であった。
 彼は実務能力や権力闘争には長けている反面、思想的には凡庸であり、共産党の党理念を深化させるような貢献は何一つしなかった。その代わり、彼は共産党の独裁支配をいっそう強固にするとともに、自らの権力基盤を固めるため、秘密警察を使った大量粛清に走った。権力掌握後、追放した政敵トロツキーを遠く亡命先のメキシコまで追跡し、刺客を送り込んで暗殺した。
 トロツキーの非業の死は、スターリン主義と対立するトロツキストの有力分派を生み、各国共産党内部での粛清を伴う激しい党内抗争の火種となっていく。
 こうした暗殺をも辞さない公安・諜報機関に依拠する権力装置の土台はすでにレーニン時代に出揃っており、スターリンはレーニンのやり方をいっそう極端化したものであった。その点で、レーニンとスターリンとを峻別し、スターリンがレーニンの正しい路線を歪めたとの評価は公平とは言い難い。
 スターリンはまた、西欧主要国でいっこうに社会主義的な革命が発生しない現実に鑑み、インターナショナリズムよりもナショナリズムの追求に舵を切り、折から巻き込まれた第二次世界大戦の対ドイツ戦では、国民の愛国心を強力に鼓舞して軍国体制を築き、自らの独裁固めにも巧みに利用した。
 スターリンは1953年に死去するまで、大戦をはさんでおよそ30年にわたり独裁体制を維持したが、この間、ソ連が急速な工業的発展を見せ、軍事的にも強勢化して米国と肩を並べる大国に浮上したことも事実である。
 スターリン時代に確立された強固な一党支配に基づき、国家に資本を集中させてある程度計画的に生産活動を推進する国家資本主義による上からの集中的な経済開発は、遅れた農業国を比較的短期間で工業国に押し上げるうえでは、一つのモデルともなったのである。
 しかし、それは本来民主的で、平等な共産主義社会の実現とは程遠い、特権的な党官僚が支配する警察国家体制を代償として固定化することになり、ソ連やその影響下にある諸国を抑圧的な監視社会に導いていった。そのことは、共産党のイメージを大きく汚すことにもなった。 

2:スターリン主義の波及
 コミンテルンの創設以来、世界の共産党はロシア共産党改めソ連共産党を事実上の司令塔として結成・運営されるようになっていくが、そうした統制はスターリン時代にいっそう強まる。「革命の輸出」ならぬ「スターリン主義の輸出」である。
 最初に明確な波及現象が見られたのは、世界で二番目の社会主義国となっていたモンゴルであった。モンゴルの支配政党・人民革命党は民族主義者と社会主義者の合同政党であったことからしても、当初は比較的柔軟な路線を採ったが、スターリン政権発足後、ソ連の干渉が強まり、国教の地位にあったチベット仏教弾圧や農業集団化などスターリン路線に沿った強権統治が始まる。
 そして、1936年にモンゴルの事実上の最高実力者となったチョイバルサンは「モンゴルのスターリン」の異名を取るほどスターリンと歩調を合わせ、自らも秘密警察を使った粛清で独裁体制を確立していった。彼はスターリン死去の前年に没したが、まさにスターリンと同時期に並び立った小スターリンであった。
 スターリン主義の影響は西欧諸国の共産党にも及ぶ。中でもフランス共産党は「モスクワの長女」と称されるほどにスターリン主義に忠実であった。その指導的人物は1930年から64年まで30年以上党書記長の座にあったモーリス・トレーズである。
 一方、戦間期のドイツ共産党は議会政治で一定の地歩を築いていたが、当時スターリン支配下のコミンテルンでは革命を放棄し、穏健化した社会民主主義をファシズムと同視する「社会ファシズム論」なる敵視政策により、排撃する方針であったことから、社民党が強力だったワイマール体制下のドイツ共産党はこうした社会ファシズム論の実践機関となった。
 その結果、ドイツ共産党は反社民党という一点では、台頭してきたナチス党とさえ手を組む矛盾に陥り、ナチスによるワイマール立憲体制破壊とナチス体制の樹立に図らずも手を貸し、自らもナチスにより弾圧・解体される結末を迎える。
 こうして、スターリン主義の影響はコミンテルンを介して各国共産党に波及していき、成功した共産党組織をスターリン流の首領的指導者が君臨支配する権威主義的な党として性格づけていく。

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世界共産党史(連載第7回)

2014-05-22 | 〆世界共産党史

第3章 東洋の共産党

3:日本共産党の結成
 日本ではマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』が1904年に幸徳秋水と堺利彦共訳で発表されたが、当局の出版統制は厳しく、直ちに発禁処分となり、幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を謀ったとして処刑された1910年の大逆事件以降は太平洋戦争終了後の民主化まで禁書とされるなど、共産主義思想の抑圧は戦前日本支配層の根本施策であった。
 そうした厳しい環境の中、堺利彦らを中心に1922年、日本共産党(第一次)が結成され、間もなくコミンテルン支部として認証された。しかし草創期の日本共産党はまとまりが悪く、抑圧の中を生き延びるだけの結束力に欠けていたため、綱領も定められないままわずか2年でひとまず解散となった。
 他方、当局側もロシア革命後の状況を踏まえ、25年には明白に共産主義思想・運動に取締りの照準を定めた治安維持法を制定し、思想統制の強化に努めた。そうした抑圧の増す環境下で、26年に党は再建された。この第二次党は第一次党より純粋な共産主義者の党を目指し、27年にはコミンテルンの指導で準綱領的なテーゼ(27年テーゼ)が策定された。そこでは、党の焦眉の義務は革命よりも大日本帝国の中国侵略・戦争準備に反対する闘争にあると規定された。このことは、日本共産党が反戦平和の党としての性格を強く帯びていく契機となった。
 とはいえ、治安維持法下ではあくまでも非合法政党であることに変わりなく、地下組織ではなく政党として存続していくためには、党員は他の左派系合法政党に加入して宿借りをするほかなかった。その結果、28年の第一回普通選挙では共産党推薦の候補者が当選するなど、合法的選挙の枠内で一定の成果を見せ始めた。
 この事態に敏感に反応した当局は、同年、共産党員を中心に合法政党であった労農党員まで含むおよそ1600人を一斉検挙する大弾圧を加えた(3・15事件)。これを突破口として翌年には、共産党員約5000人が検挙され、党は事実上壊滅状態となった(4・16事件)。この後の日本共産党はやみくもなテロ戦術による武装闘争路線をしばらく迷走することになる。

4:朝鮮共産党の苦難
 朝鮮の共産党は日本以上に厳しい制約下に置かれた。朝鮮共産党は日本統治時代の25年、コミンテルン支部としてソウルで極秘に結成されたが、翌年、日本の帝国主義支配に反対する大規模なデモ行動計画「6・10万歳運動」が未然に摘発されたことをきっかけに朝鮮総督府の大弾圧を受けた。
 検挙を免れた党員らは民族主義者との連携を目指し、27年に共産主義者と民族主義者の連合組織として「新幹会」を創設する。当時日本の統治下にあった朝鮮では共産主義革命どころではなく、まずは日本からの独立達成が先決であったことから、こうした連合はタイムリーなものであった。
 ただ、この組織はモンゴルの人民革命党のように正式に合同政党化することはなく、分権的なネットワーク型運動組織にとどまっていた。そのうえコミンテルンが28年、弾圧と分派闘争により朝鮮共産党組織は消滅したと一方的に認定したことから、コミンテルンが公式に認証する朝鮮共産党組織は存在しないことになり、事実上解体し、これに伴い新幹会も31年に解体された。
 この後、朝鮮共産党は半島地域よりは取り締まりがいくぶん緩やかだった満州や日本の支部組織レベルでしばらく存続するが、それらもコミンテルンの画一的な「一国一党」方針により順次現地国の共産党組織に吸収されていった。
 こうして、朝鮮共産党は宗主国日本の徹底した弾圧政策とコミンテルン―実態はソ連―の画一的な統制方針とによる外部的制約にさらされ、いったんは消滅していったのであるが、実質的には満州にまたがる半島北部で日本からの独立を目指すゲリラ活動(抗日パルチザン)という民族主義的な形態をまとって潜在していくとも言える。

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世界共産党史(連載第6回)

2014-05-21 | 〆世界共産党史

第3章 東洋の共産党

1:草原の国の革命党
 1919年のコミンテルン結成後、欧州各国に共産党が結成されていくが、ロシア共産党のように革命に成功して政権党に就いたものは、ごく短期間革命政権を担ったハンガリー共産党を除けば、一つもなかった。そうした中、マルクスも予想しない意外な場所に成功した革命党が現れた。モンゴルである。この草原の国は1924年、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義国家となるのであった。
 ロシアからモンゴルへという革命の波及は飛躍のようにも見えるが、そこには十分地政学的な伏線があった。モンゴルは長く中国清朝の支配下に置かれていたところ、1911年の辛亥革命で清朝が倒れたのを機に、外モンゴル地域がいったん独立を回復した。これは中華民国と帝政ロシアも加わった15年のキャフタ条約で、「自治」という後退した形で承認された。
 しかし、1917年のロシア革命後、中華民国が外モンゴルの支配回復に乗り出し、自治を廃止した。それも束の間の21年、今度は折からのロシア内戦における反革命白軍派武装勢力が侵入し、圧政を敷いた。ここから、モンゴルは図らずもロシア内戦に引き込まれることになったのだった。
 この過程で21年、ロシア革命に触発された民族主義者と社会主義者の二つの革命結社が合流してモンゴル人民党を結成した。この党が中心となり、ロシア赤軍の援助の下、21年にロシア反革命派軍閥支配からの独立革命に成功したのだった。
 その結果成立した革命政府は活仏ボグド・ハーンを元首とする立憲君主制であったが、ハーン死後の24年、社会主義共和国へ移行した。人民党はコミンテルンの助言に従い人民革命党と改称して以降、共和国の支配政党となり、曲折を経て親ソ政策の忠実な履行者として、モンゴルをソ連の衛星国の地位に導いた。
 このように、人民革命党は独立革命から社会主義化まで主導するという稀有な一貫性を示した。この党はソ連共産党同様の独裁政党に就き、マルクス‐レーニン主義を党是とするようになっても共産党を名乗ることはなかった。それは民族主義者と社会主義者の合同という沿革による制約であった。
 こうした他名称共産党の実例は、後に中・東欧の幾つかの国でも、共産党を名乗らない合同政党結成の先例となるとともに、中・東欧にもモンゴル型衛星諸国が樹立される先例をも作ったのだった。

2:中国共産党の結成
 コミンテルンは東洋の大国・中国にも共産党を産み落とした。すなわち1921年、陳独秀や毛沢東ら北京大学のマルクス主義者を中心に、公称でも57人というわずかな人数で共産党が結党された。
 当時の中国では、孫文の民族主義政党・国民党がボリシェヴィキの影響を少なからず受け、コミンテルンに接近していた。そのため、全くのマイナー政党だった中国共産党はコミンテルンからも国民党との協力を要請された。北京軍閥政府への対抗策として実現した24年の第一次国共合作はそうした両党連携の最初の試みであった。
 しかし、孫文を継いだ軍人の蒋介石は反共主義であり、27年には上海でクーデターを起こし、共産党と国民党内の容共派を排除したことで、国共合作はひとまず崩壊する。その後、中国領土の侵略を進める大日本帝国との戦いの中で、国民党との合作が再び試みられるが、結局、中国ではモンゴルのように民族主義者と共産主義者が合同政党を結成することはなく、このことが後々国共内戦と大陸・台湾の分断につながっていく。
 さて、中国共産党はコミンテルンの産物ではありながら、次第に独自の路線を歩み始める。その中心となったのが毛沢東であった。他の共産党幹部とは異なり、ソ連留学経験を持たなかった彼は、中国民衆が圧倒的に農民で占められている現実に鑑み、労働者より以上に農民の利益を基盤に、農村を革命根拠地とする独自の理論を抱懐していた。
 毛はこの持論に基づき、制圧した農村根拠地で地主・富農の土地を接収し、貧農に分配する土地革命を実施していくが、こうした毛の実践は当初、親ソ派の党主流からは異端視され、32年から33年にかけて、毛はいったん党指導部を事実上追われることになるのであった。

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