ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第34回)

2016-06-30 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(1)近世帝国と女帝

③スウェーデン女王クリスティーナ
 スウェーデン最初の女王であるクリスティーナはスウェーデンを大国に押し上げたグスタフ2世アドルフの娘であり、父が深く関与した三十年戦争で戦死するという国家的危機の中でわずか6歳にして即位した。
 グスタフ・アドルフが急死した時、彼には婚外子の男子がいたが、嫡子は娘クリスティーナのみであったため、クリスティーナが王位を継ぐことになったのであった。当然、幼女に政務は取れず、父の最側近者だった宰相アクセル・オクセンシェルナが実権を持った。
 オクセンシェルナは、引き続き三十年戦争を継承し、プロテスタント側盟主として、スウェーデンを最終勝利へ導いた。しかし、成長したクリスティーナは三十年戦争の要因ともなったカトリックとプロテスタントの対立の止揚を理想とし、オクセンシェルナとは対立するようになる。彼女はオクセンシェルナを次第に遠ざけ、引退に追い込んだ。
 女王は、戦勝国ながら、敗戦国を寛大に遇する宥和政策で自身の理想を追求しようとしたのだった。その点、クリスティーナは自己の信念を貫く意志の強さを持ち合わせていた。しかし、女王の柔軟対応の結果として、戦後処理を決するウェストファリア条約は円滑に成立し、講和が導かれた。近代国際法の先駆として重要な成果となった同条約には、クリスティーナの平和思想が反映されているとも言える。
 思想面では、グロティウスやデカルトらの啓蒙思想家と交流するなど、当時は支配階級女性でも異例な高い教養を持つ自由思想・啓蒙思想の持ち主であり、その宮廷には欧州の第一級知識人が出入りした。
 ちなみに、男装を好んだクリスティーナ女王は同性愛者だったと見られているが、歴史上も女性同性愛者の女王は稀有である。クリスティーナは主として政情不安への警戒から非婚を通した英国のエリザベス1世とは異なり、同性愛者として女性の役割固定化に否定的な観点から非婚を通したと見られ、その点でも当時の女性としては異例の先駆者であった。
 統治者としては、放漫財政により財政難を招くなどの失政もあったが、権力欲を持たない好学の君主であった。そのため治世初期から生前退位の意思を持ち、20年ほどの在位の後、27歳で従兄カール10世に譲位した。 
 退位後、カトリックに改宗するという異例の決断をしたが、改宗後のクリスティーナはスウェーデン女王への復位を宣言したり(後に撤回)、ポーランド国王選挙に立候補するなど、前半生とは異なる権力欲を見せ始める。しかし、いずれも失敗して以後は、ローマに住み、学問研究などの自由な暮らしを続け、当地で客死した。
 クリスティーナには偉大な父王が命をかけて築き上げたスウェーデン帝国を弱体化させたという否定的な評価もあるが、彼女から王位を継承したカール10世は改めてスウェーデンをバルト海域の大国に押し上げている。

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「女」の世界歴史(連載第33回)

2016-06-29 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(1)近世帝国と女帝

②テューダー朝の姉妹女王
 イングランドでは12世紀、ヘンリー1世の娘マティルダが女王になり損ねて以来、女王を輩出することはなかったが、16世紀のテューダー朝で初の女王を輩出した。
 テューダー朝は、ウェールズの一貴族出身の創始者ヘンリー7世が前代の封建的な内戦ばら戦争を終結させ、その息子ヘンリー8世の時代を経てイングランドを中央集権国家に再編した王朝である。
 ヘンリー8世はしばしば専制君主の象徴とみなされる強力な君主であったが、幼年でその後継者となった一人息子エドワード6世は病弱で、在位6年ほどで夭折した。ヘンリー8世には他に男子がなかったことから、後継問題に直面した。
 ヘンリーは遺言をもって王位継承順をエドワードからエドワードの異母姉メアリー、エリザベスへと定めており、すでに女王の誕生を想定していたが、エドワード6世時代の実権者だったノーサンバランド公ジョン・ダドリーはこれを恣意的に変更し、自身の息子をエドワードの遠縁に当たるジェーン・グレイと結婚させたうえ、ジェーンを後継者とする旨の遺言をエドワードに強要した。
 しかし、いよいよジェーンの即位が宣言された時、ヘンリー8世の長女メアリーとその支持勢力が決起し、これが民衆反乱に発展して、ジョン・ダドリーは失墜、息子やジェーンともども反逆罪で処刑された。
 こうして一種の革命により王位に就いたのが、英国史上初の女王メアリー1世である。メアリーの生母は前回見たスペインのイサベル1世とフェルナンド2世の娘であり、従って母方を通じてスペイン両王の孫に当たる。その関係から、彼女は強固なカトリック教徒であった。このことは、父ヘンリー8世が強引に進めたイングランドの脱カトリック・国教会樹立の宗教改革に反したため、反発と政情不安を引き起こした。
 カルロス1世の息子フェリペ2世を王配に迎えたメアリーはプロテスタント迫害政策を展開し、数百人のプロテスタントを火刑に処する弾圧を断行したため、「流血メアリー」の汚名を着ることになったが、メアリー自身は信念を持つ自立的な女性だったという評価もある。
 メアリーはスペイン王となったフェリペとも別居状態のまま、世子を残さず治世5年余りで病没したため、続いてメアリーの異母妹エリザベスが即位した。英国史上でも女王が二代続くのは、これまでのところ、これが唯一の事例である。
 エリザベスは父と愛人アン・ブーリンの間にできた婚外子であったため、姉メアリーからも憎まれ、不遇の少女時代を過ごしていたが、当時は支配階級女性としても異例の高い教養を有していた。
 統治者としてのエリザベス1世は、姉とはすべてにおいて対照的であった。宗教的には国教会派と見られるが、姉とは異なり、宗教的信念を持たず、中道的な宗教政策を採ったことが、統治者としての成功につながった。
 対外的にも、その出自から親スペインであった姉とは対照的に、私掠船を用いてスペインに対抗する海外進出を展開した。その結果が1588年のアルマダ会戦であるが、スペインの無敵艦隊を破って勝利したこの戦争は、次世紀以降、イングランドを帝国に押し上げる契機となった。
 エリザベスは結婚を匂わせながら男性側近者を巧みに操る人身掌握術にも長けており、有能な男性側近者らに補佐されながら、カリスマ的支配者として君臨したエリザベスはルネサンス型女帝の集大成的な代表格と言える。
 しかし、政情不安を警戒して生涯独身を通し、世子を残さなかった彼女をもってテューダー朝が終焉すると、以後、英国女王は名誉革命後にオランダから招聘されたウィリアム3世の共治女王となるステュアート朝メアリー2世まで途絶える。
 

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「女」の世界歴史(連載第32回)

2016-06-28 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

第三章 女帝の時代

[総説]:権力の女性化
 本章では、近世黎明期に現れた専制的な女王たちを「女帝」と呼ぶが、これは正式の呼称に関わりなく、専制的な女性君主全般の総称として用いることにする。
 このような強力な女帝を輩出した国自体は限られているが、いずれも当時の有力国であり、しかも女帝の時代は当該国の全盛期もしくは次代の全盛期を準備する役割を果たしていることが特徴である。
 このように近世の入り口の段階で女帝が出現し、権力の女性化現象が生じた理由としては、中央集権国家の発達が想定される。それ以前の時代、特に封建時代は各地に割拠した領主らが武力で自衛し、抗争し合った時代であり、中央権力は弱く、文官を擁する行政機構も未発達であった。それは本質的に、武装した男性権力を必要としていた。
 しかし中央集権制が発達してくると、権力頂点の最高執権者=君主には高い権威の象徴としてのカリスマ性が要求され、かつそれで十分であるため、女性でも資格が生まれる。そのため、一定の状況下で女帝が許容されるようになったと考えられる。
 とはいえ、〈序説〉でも述べたとおり、女帝は適任の男性候補が存在しない場合の代替的存在であるにすぎず、偉大な女帝の没後に女帝が長く途絶えたり、以後は輩出されなかったケースも多い。

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(1)近世帝国と女帝

①イサベル1世とレコンキスタ
 欧州における女帝の先駆けとなったのは、ルネサンス期の有力諸国、中でもスペイン、イングランド、スウェーデンに現れた女帝たちである。
 文化革命としてのルネサンスは女権の拡大を含んではいなかったが、古いキリスト教思想を革新した文化的・精神的な改革気風は、結果的に女帝を許容したとも考えられる。そうした近世帝国におけるルネサンス型女帝の初例と言えるのは、スペインのイサベル1世である。
 イサベルはイスラーム勢力からスペインを奪回するレコンキスタ運動の拠点であったカスティーリャ‐レオン王国のフアン2世の娘として生まれたが、幼くして父王が他界すると、後継の異母兄エンリケ4世により生母ともども追放され、不遇の時代を過ごした。
 しかし、エンリケはある種の性的不能者であったと見られ、継妃フアナとの間に生まれたとされる王女フアナは母の不倫による子であると噂された。そこで、有力者らはイサベルの同母弟アルフォンソを担ぎ出そうとする動きを見せたが、イサベルはこれに反対し、エンリケ在位中の後継論争を封じ込めた。
 さらに、イサベルは自身をポルトガル王妃として政略婚させようとする動きも拒否したうえ、当時地中海方面の大国となりつつあったアラゴン‐カタルーニャ王国の王子フェルナンドとの婚姻を目指し、交渉を重ねて結婚に漕ぎ着けた。そのうえで、エンリケ死去を受けて、夫とともに共同国王の座に就いた。
 こうしたイサベルの行動のすべてが必ずしも自身の自主的な判断によるものとは言い切れないとしても、イサベルには若年の頃から、当時の女性としては異例の自立的な精神が備わっていたように見える。
 イサベルは、夫フェルナンドとともに先のフアナを王妃に迎えたポルトガル王アフォンソ5世の軍事介入を退けたうえで、カスティーリャとアラゴンが統合して建国された新生スペイン王国の集権体制の基盤作りを推進した。
 そのうえで、夫とともにレコンキスタの完成に向けた解放戦争も主導し、1492年、最後まで残ったイスラーム勢力グラナダ王国を破り、800年に及んだレコンキスタに終止符を打った。この功績から、時のローマ教皇アレクサンデル6世によって夫妻は「カトリック両王」の称号を授与された。
 個人的にも強固なカトリック教徒であったイサベルは、内政面でもカトリック厳格政策を敷き、数多くの異端審問やユダヤ教徒、イスラーム教徒ら異教徒の弾圧を実行する圧政者としての一面もあった。
 その一方で、イサベラは大航海者コロンブスの後援者となり、スペインの大帝国時代を準備する役割をも担った。彼女は夫フェルナンドに先立って没したが、夫妻の娘フアナもフェルナンドの没後に女王となる。しかし彼女は精神疾患にかかり、長い間女子修道院に収容される境遇に置かれた。
 その間、息子カルロス1世は共同国王として政務を主導し、「日の沈まない国」スペイン帝国を築き上げたのであった。ただ、保守的なスペインでは、フアナ女王の没後、女王は19世紀のイサベル2世に至るまで途絶える。

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「女」の世界歴史(連載第31回)

2016-06-27 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

〈序説〉
 
第Ⅰ部で見た女性にとっての長い暗黒時代は、おおむね中世と呼ばれる時代―「中世」区分がない諸国の歴史においても、近代に入る手前の段階―まで続いていく。
 しかし、ようやく16世紀頃から、まずは欧州で女権の黎明期を迎える。といっても、庶民階級レベルではなく、さしあたりは最高権力のレベルで、専制的な女性君主―女帝―が登場し始めるのである。この時代の欧州には歴史上著名な女帝が何人も輩出する。
 とはいえ、女帝はなお例外的存在であり、女帝の出現は女権全体の向上に直接の影響を何ら及ぼすものではなく、女帝は適任の男性候補が存在しない場合の代替的存在であるにすぎなかったという点では、古代国家に見られた例外女王の制度の延長とも言える。
 こうした女権=女性権力の許容を超えた、庶民階級をも含めた女性の権利としての女権の黎明は、いわゆる西洋近代が始まる18世紀末から19世紀を経て、20世紀初頭を待つ必要があった。
 この時代には、欧州で市民革命や社会主義革命などの大規模な社会革命が継起するが、そうした革命運動も多くは男性が主導していた。とはいえ、社会革命は女性の地位にも変動をもたらし、女権拡大運動も徐々に芽生えていく。
 その点、アジアでは全般に封建的な男尊女卑思想が根強く残り、近代に至っても女権の黎明は限定されていたが、日本を含む東アジアにおいては、西洋近代の波を受けた近代化革命・運動の過程で女権の黎明期を迎えている。
 こうした時代を扱う「第Ⅱ部 黎明の時代」では、まず近世帝国における女帝の出現を俯瞰した後、現代にもつながる近代化過程での女性の権利の萌芽をとらえる。
 他方、中世時代までは洋の東西を越え、両義化されながらも慣習的に許容されてきた同性愛(特に男色)に関しては、宗教道徳の近代的な再編によって、むしろ禁忌とされ、法律的にも取り締まりを受ける傾向が強まった。
 このような近代における反同性愛の反動現象は、女権の向上とは全く逆の方向性を取るものであるが、これについても、第Ⅱ部第四章の最終節で論及する予定である。

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EU脱退―英国民衆の反乱

2016-06-24 | 時評

欧州連合(EU)を脱退するという過半数英国民の意思表明は、世界経済に打撃を与え、自国の将来をも危うくする軽挙妄動だ、という非難も可能である。しかし、むしろ、これは英国民衆のEUに対する反乱であった。

最大の焦点は、移住労働者問題にある。その意味では、EU脱退を問う国民投票とは、移民問題を問う国民投票とほとんどイコールであった。その内実は、先住労働者対移住労働者の利害対立である。

そもそもEUという構制は、欧州がまだ戦乱状態だった19世紀、ユゴーやガリバルディ、バクーニンなど多彩な欧州知識人が結成した「平和自由同盟」が提唱した自由主義的な「ヨーロッパ合衆国」構想を部分的に継承している。

これに対し、このような知識人主導の平和統合構想に批判的だったマルクスは、「様々な国の労働者階級の団結が、究極的に国際間の戦争を不可能にする」と論じ、「支配階級やかれらの政府に対する共同の闘争における労働者階級の国際的なきょうだい愛」を対置した。

これとは逆に、知識人と資本家の団結の結晶であるEUの現実は経済格差の著しい加盟諸国の東西で労働者階級を分断し、豊かな西側労働者階級が労働市場で敵となる貧しい東側労働者階級の移民を排斥する状況を作り出した。元来、EU消極派であった英国で「脱退」という最初の大きなリアクションが起きたことは、自然の成り行きだったとも言える。

こうした反EU‐民衆反乱の動きが他の加盟国に拡大する可能性も指摘されている。ただし、これを影で煽動しているのはもはや労働者階級政党ではなく、国家主義的な衝動を隠さない反動的諸政党である。これら諸政党はしばしば「極右」とも総称されるが、国家主義をイデオロギー的軸に、反移民を主要政策とするその正体は、ネオ・ファシズムである。

一方、西側への移民送出国となっている東欧諸国でも、中東・北アフリカ方面からの難民/移民の歴史的大量到来に対し、これを排斥する動きが活発化しており、この面から反動的なネオ・ファシスト政党が躍進し、反EUの動きが拡大する可能性がある。

労働者階級がファシズムに煽動、誘引されていく現象は、二つの大戦の戦間期とそっくりである。ただ、反移民で共通する欧州ネオ・ファシズムの高揚が、直ちに世界大戦の再現につながる可能性は低いと思われるが、少なくともEUの弱体化を促進し、欧州を再び相互に利害対立するばらばらの主権国家の群生状況に引き戻す可能性は十分ある。

しかし、知識人と資本家の連合であるEUに対置すべきは、ネオ・ファシズムの競演ではなく、労働者を主体とした民衆の連合‐民衆会議以外にない。いささか我田引水ながら、英国のサプライズは、改めてその確信を深めた出来事であった。

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戦後ファシズム史(連載第43回)

2016-06-22 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐6:カンボジアの場合
 カンボジアは1953年以来の独立国であるが、その歴史はインドシナ戦争とそれに続く長い内戦を経て大きく二分されている。現カンボジアは内戦終結後の国連暫定統治を経て再編された新生カンボジアである。
 この新体制は形式上立憲君主制であるが、その下でほぼ一貫してフン・セン首相の権威主義的統治が続いている。フン・センの政治的履歴は、それ自体がカンボジア現代史の反映である。
 彼は元来、70年代のカンボジアで大量虐殺を断行したクメール・ルージュ(カンプチア共産党)のゲリラ部隊下士官だったが、同勢力の政権掌握後の大粛清を恐れて脱走し、ベトナムへ亡命、そこで反クメール・ルージュ派のカンプチア救国民族統一戦線に合流する。ここから、フン・センの政治家人生が始まる。
 彼は同戦線で若手幹部としてすぐに頭角を現し、79年、ベトナム軍の侵攻により、同戦線を中核に樹立された新政権・カンプチア人民共和国の外相に抜擢される。さらに85年、フン・センは32歳で当時世界最年少の首相に就任する。 
 この体制の支配政党・人民革命党は当時マルクス‐レーニン主義を標榜し、ベトナムの傀儡政党の性格が強かったが、89年のベトナム軍撤退を経て、カンボジア和平が成立した91年、党はマルクス‐レーニン主義を放棄し、人民党へと改称した。
 人民党のトップは、改称前はヘン・サムリン、改称後は2015年に至るまでチェア・シムという長老政治家が務めていたが、いずれも名目的な立場にとどまり、事実上は内戦中から一貫して首相の座にあるフン・センが指導していた。
 人民党は93年の制憲議会選挙で王党派のフンシンペック党に敗れ、第二党となる。ところが、フン・センは辞職を拒否し、妥協策として第二首相の肩書きで政権内にとどまった。しかし、全権の奪回を狙うフン・センは97年、事実上のクーデターでフンシンペック党を追い落とし、翌年には単独首相に返り咲いて以降、改めて同党との連立政権の形で、実質的な人民党独裁体制を確立した。
 この体制は93年憲法で復活した王制(立憲君主制)の下で形式上多党制形態を採りつつも、内戦中から構築された人民党の支配網とフン・センの権威を利用して全体主義的な社会統制を図る管理ファシズムの性格が濃厚となっている。この点では、新生カンボジアの管理ファシズム体制も、前々回及び前回見た一部の旧ソ連諸国やエリトリアと同様、マルクス主義からの転換という経緯をたどっていると言えるだろう。
 このフン・セン新体制下では長期の内戦からの復興と外資導入による経済開発が推進され、近年は高い経済成長を示しており、開発ファシズムの性格をも帯び始めている。その点、リー・クアン・ユー首相時代のシンガポールと類似した側面も認められる。
 ただし、人民党はメディアや軍を完全に掌握する一方で、議会では圧倒的な議席を独占してこなかったことから、その支配力には一定の制約がある。2013年の総選挙で、野党カンボジア救国党が人民党と拮抗する勢力にまで躍進したことは、その象徴である。
 この人民党の党勢後退は通算で約30年に及ぶフン・セン指導体制の抑圧と腐敗に対する市民の批判を背景としていると見られるが、フン・セン自身は74歳になる2026年までは権力の座にとどまる旨を公言していることから、今後の動向が注視される。

[追記]
救国党は2017年、党首の逮捕に続き、フン・セン政権の最高裁判所から解散命令を受け、解党された。結果、有力野党不在で実施された2018年総選挙では、人民党が全議席の8割近くを得る圧勝となった。これにより今後、議会制ファシズムの性格が強まることが見込まれる。

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戦後ファシズム史(連載第42回)

2016-06-21 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐5:エリトリアの場合
 東アフリカの小国エリトリアは1993年にエチオピアから分離した新興独立国家であるが、この国では30年に及んだ独立戦争で功績のあったイサイアス・アフウェルキ初代大統領による強固な全体主義体制が続いている。
 イサイアスは元来、マルクス主義系のエリトリア独立運動組織・エリトリア解放戦線(ELF)に参加、60年代の中国に留学し、毛沢東思想やゲリラ戦について研修して帰国後は、若くして軍事部門幹部となる。しかし、ELF内部の路線対立が激化する中、70年代にELFから分派したエリトリア人民解放戦線(EPLF)の創設に参加し、87年に同組織トップの書記長に就任した。
 EPLFが創設された時点では、エリトリア民族主義とともにマルクス‐レーニン主義も掲げる左派民族主義的な武装組織であり、独立戦争相手のエチオピアもまたマルクス‐レーニン主義を標榜する軍事独裁政権というマルクス主義標榜勢力同士の戦争であったが、その背後にはエリトリアを支援する中国とエチオピアを支援するソ連の対立があった。
 最終的に、EPLFは91年、エリトリア全域の制圧に成功し、独立を勝ち取った。その後、国連が支援する住民投票を経て、93年、正式に独立国家エリトリアが成立した。その際、EPLFがそのまま支配勢力として政権を樹立し、イサイアスが初代大統領に就任した。
 政権樹立後のEPLFは「民主主義と正義のための人民戦線」に改称したうえ、脱マルクス主義化によりイデオロギー色を薄めた包括的翼賛政党へと変質していき、速やかにイサイアス独裁のマシンとなった。その点で、この体制は一部の旧ソ連諸国とも類似する成立過程をたどった管理ファシズムの一類型と言える。
 エリトリアは発足後間もない98年から、旧所属国エチオピアとの国境紛争に端を発する再戦争を経験し、2000年の停戦後もエチオピアとの緊張関係から、軍事費がGDPの20パーセントを占め、18歳以上の健康的なすべての男女に厳格な兵役を課す国民皆兵体制を維持している。その点では、軍国的な戦前型ファシズムに近い性格をも持っている。
 他方で、兵役と結びついた国家奉仕という名分での強制労働を通じたインフラ整備や鉱山開発などの手法により、豊富な天然資源を基盤とする経済開発にも注力し、高い経済成長を達成するなど、イサイアス体制には開発ファシズムの性格も見て取れる。
 こうした体制は外国メディアの入国を認めない徹底した報道統制と治安機関による監視や超法規的処刑といった人権抑圧によって支えられており、逃亡者への厳罰にもかかわらず、過酷な兵役・労役を忌避して地中海を渡る難民を数十万規模で出すなど、その人権状況は世界的にも最悪部類に属すると評されている。
 にもかかわらず、元来関係の深い中国資本や日本を筆頭とする先進諸国の援助にも支えられ、現時点では独立運動英雄としてのイサイアス大統領のカリスマ的な権力に揺らぎは見られず、その体制は存続していくと見られる。

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戦後ファシズム史(連載第41回)

2016-06-20 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐4:旧ソ連諸国の場合
 1991年のソ連邦解体により、連邦国家ソ連を構成していたロシアを含む15の共和国はすべて独立することとなった。それら15の共和国は、その出発点においては、旧ソ連体制の非民主性を反映して、権威主義的な性格を免れなかった。
 しかし、その後の15共和国の歩みは大きく分かれてきている。一つはいち早く西欧的な議会制を確立したバルト三国(リトアニア・ラトビア・エストニア)、ある程度まで西欧的な議会制へ移行した諸国(モルドバ・アルメニア・グルジア・ウクライナ・キルギス)、逆に権威主義が維持された諸国(トゥルクメニスタン・アゼルバイジャン・ウズベキスタン・カザフスタン・タジキスタン・ベラルーシ・ロシア)である。
 最後のグループ諸国―そのうちロシアについては別途取り上げるため、本稿では除外する―は、程度の差こそあれ、長期執権を握る強力な指導者を擁する管理ファシズムの傾向を持っている。それらの指導者の多くは旧ソ連時代の共産党官僚・エリートとしての出自を有しており、標榜上はマルクス主義からの転向組である。
 政党的な基盤を持たないベラルーシの体制を除けば、いずれにおいても全体主義的な支配政党を基盤に置いた統治が行なわれているが、明白にファシズムを掲げる政党はなく、いずれも不真正ファシズムの体制と見てよい。
 またいずれも旧ソ連時代には開発が遅れた地域を構成していたことから、独立後の各体制は経済開発を政策の軸とする傾向があり、これまでのところ、一定以上の成功を収めているという点では、開発ファシズムの性格を併せ持つとも言える。 
 そうした中でもファシズムの性格が特に濃厚なのは、トゥルクメニスタンとベラルーシである。前者では独立前の1990年から大統領の座にあったサパルムラト・ニヤゾフによる徹底した個人崇拝体制が2006年まで続いた。
 その体制は地方の図書館や病院の廃止、年金廃止などの教育・福祉政策の撤廃・縮小や西洋芸術の禁止、巨大モニュメントの建造などに象徴される奇矯なものとなり、国際的な批判を浴びたが、国内では秘密警察による徹底した監視により統制されていた。
 06年のニヤゾフ急死後は、子飼いの側近だったグルバングル・ベルディムハメドフが後継者となり、ニヤゾフ時代の奇矯な政策を修正しているが、トゥルクメニスタン民主党の実質的な一党支配構造は固守されており、むしろより合理化された管理ファシズムの傾向を強めている。
 一方、地政学上は欧州に属するベラルーシでは、94年の大統領選挙で当選した親ロシア派のアレクサンドル・ルカシェンコが形式的な選挙による多選を重ねる形で、現欧州では唯一とも言える独裁体制を維持している。
 ルカシェンコも元共産党員であるが、大統領としては無所属であり、議会でも無所属系議員が圧倒的多数を占めるが、かれらはすべて大統領支持派であるため、事実上の政権与党集団が存在しているに等しい。
 ルカシェンコ体制は社会主義的な経済政策も含めて、旧ソ連時代の政策の多くを継承している点では、旧ソ連の延長体と言える側面もあるが、ルカシェンコは個人的にヒトラーや反ユダヤ主義への親近感を表明するなど、イデオロギー的には戦前の旧ファシズムに近い性格も帯びている。
 ルカシェンコ体制は近年、国家連合を組むロシアとの関係悪化に伴う経済危機を背景に、西欧への接近やある程度民主化された選挙の実施などの改革傾向を見せているものの、全体主義体制の根幹に変化は見られない。
 以上の二か国に加え、カザフスタンも、個人崇拝型の合理化されたファシズム体制に数えられる。ここでは、ソ連時代末期にソ連共産党の「改革派」幹部として台頭した初代大統領ヌルスルタン・ナザルバエフが独立以来、一貫して大統領職にあり、豊富な天然資源を背景とする高い経済成長を主導している。
 ナザルバエフは当初無所属であったが、1999年に翼賛与党・オタン(06年にヌル・オタン:輝ける祖国)を結党し、複数政党制の外形の下で、事実上の一党支配体制を確立してきた。この体制は、ロシアのプーチンとベラルーシのルカシェンコの両体制を混合したような同型の体制と言える。実際、この三国は親密な関係にあり、2014年には三国を中心とするユーラシア経済連合を結成した。
 アゼルバイジャン、ウズベキスタン、タジキスタンについては詳論する余裕がないが、アゼルバイジャンは、やはり旧ソ連共産党幹部のヘイダル・アリエフとその息子イルハムの二代にわたる世襲の権威主義体制である。独立後イスラーム勢力との内戦を経験したタジキスタンでは、内戦を収拾したエモマリ・ラフモン(元共産党員)の権威主義的な体制が続く。
 ウズベキスタンは表面上多党制の形態を取っているものの、実態は初代大統領として1990年以来、元ソ連共産党幹部イスラム・カリモフによる全体主義的な支配が続いており、これも管理ファシズムの一類型に含め得る。


[追記]
ウズベキスタンのカリモフは2016年に死去、カザフスタンのナザルバエフは2019年に大統領を退任した。いずれも後継者は前任者の側近であり、基本的な体制に変化はないが、指導者のカリスマ性は希薄化するかもしれない。なお、退任後も「国家指導者」名義で実権を保持していたナザルバエフは、2022年1月の反政府抗議デモの事態収拾に乗じた政変で失権したと見られる。

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「東京六月政変」に想う

2016-06-16 | 時評

東京都の舛添知事の辞任劇は、非常に後味の悪い政変であった。その理由を考えてみると、この政変は徹頭徹尾、メディア主導の大衆煽動の過熱の中で、ほとんどクーデター的に起きたからのようだ。

知事の問題行動は明らかであるが、これまでに指摘されている限りでは、その内容に汚職に相当するような重大性はなく、まさに海外でも注目されたキーワード「せこい」に象徴される姑息な公私混同が中心であり、即時辞任に値するものではなかった。

ただし、知事が議会の調査に対して非協力的で、あくまでも疑惑を糊塗しようとするなら、辞職勧告ないし不信任による失職に値したかもしれない。だが、そうしたプロセスをたどる前に、参院選を控える政党の思惑も絡み、辞職の結論が導き出されてしまった。結果として、疑惑解明の可能性は遠のき、その点では知事にとっても果実が得られた形である。

過熱を作り出したメディアの連日の糾弾報道や、自己の知識や憶測をテレビ局掛け持ちで得々として語って回る「ハシゴ・コメンテーター」たちも酷いものであったが、それによって作り出された「都民の怒り」を利用して、不透明な水面下での辞職過程を導いた政党の謀も醜い。

ただ、知事に対する非難がこれほど高まったのは、元来、「頭が切れ、有能で弁の立つ庶民的な知事」というついこの間までメディアが維持していた舛添像が虚像だったからである。虚像を信じていた人ほど裏切られた想いが怒りに変わる。

テレビ知識人から政界へ進出していった舛添氏は、1990年代から高まったテレビ主導の政治(テレ・ポリティクス)の申し子のような人物であった。政治資金問題などはメディアがその気になって調べればすぐにわかることなのに、記者クラブ制の下、日頃は翼賛報道に徹する大手メディアは、知事の虚像を守ることに貢献してきた。

そうしてメディア主導で作られ、守護されてきたイメージが、たった一本の報道をきっかけに一変してしまったのである。ただ、なぜ今この時期に?という疑問は残る。

ここから先は筆者の推測になるが、東京都が来年4月から都有地を在日韓国人の教育を行なう東京韓国学校の増設用地として貸与する方向で協議開始する旨を発表したことに伏線があったようだ。この件で、すでに都には多くの批判・抗議が寄せられていたという。(仮に貸与先が日本の学校法人だったら、どのような反応だっただろうか。)

この唐突に見える発表は、「都市外交」を掲げる舛添知事が就任後間もなく行なった訪韓、朴槿恵大統領との会談の中で、韓国人学校の整備について支援を要請されたことが契機になっていると見られている。

これは反韓派にとっては許し難い「特権」付与と映り、保守系メディアを動かしての「クーデター」となったのではないか。マス・メディアがこの件に一切触れないことも、こうした推測の消極的根拠となる。もちろん行動に隙のあった知事にも問題はあり、問題発覚当初の開き直り対応も墓穴を掘ったのではあるが。

いずれにせよ、テレビで名を売った「人気者」が当選するというテレ・ポリティクスの流れが変わらない限り、形は違えど、当選後に虚像が崩れる政治家は今後も跡を絶つことはないだろう。

ここでも、民衆自身が名実共に政治の主人公となる民衆会議制度の効用を主張したいところであるが、当記事で繰り返しの展開は避ける。

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「女」の世界歴史(連載第30回)

2016-06-15 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

⑤女性戦士ジャンヌ・ダルク
 イタリアの愛国者とも言うべきトスカーナ女伯は出自上貴族階級であったが、フランスの愛国者ジャンヌ・ダルクは農民階級から出て、しかも戦場で戦士として戦闘参加もしたという点において、例外中の例外であった。
 ジャンヌ・ダルクの父ジャックはフランス北東部ロレーヌ地方はドンレミ村の土地持ち農民にして徴税人という中農的な存在であった。そのような当時のフランスではごく普通の庶民家庭に生まれたジャンヌがどのようにして専門的な戦闘能力を体得したのかは、謎である。
 少なくとも、神秘的な「神の啓示」だけで説明が付くものではなく、おそらくジャンヌの戦闘能力については伝説的な過大評価が含まれているのかもしれない。元来、彼女は当時英仏百年戦争で窮地に陥っていたフランスの敗北を予見したある種の預言者として登場し、当時の国王シャルル7世の知遇を得た。
 戦場でのジャンヌの活躍については、様々な伝説があるが、実際の戦闘行為そのものよりも、宗教的・精神的な鼓舞の面で貢献していたものと思われる。その点では、同じような働きをしていたイスラーム教創始者ムハンマドの妻アーイシャに通ずる一面もある。
 しかし、当時の封建軍隊ではまさしく紅一点の女性戦士の立場は弱く、後の異端審問で問題とされたように、ジャンヌは男装で通していたが、これは男性兵士からの性的暴行被害を避けるための策だったと見られている。
 英仏戦争におけるフランスの最終勝利がすべてジャンヌの功績というわけではないが、彼女が参加して以降、戦局が変わり、フランス優勢に傾いたことはたしかである。この功績により、彼女と一族は貴族に列せられた。
 にもかかわらず、愛国者ジャンヌは最終的には祖国に裏切られる形になった。ジャンヌがフランス国内で激化したシャルル7世と反シャルルのブルゴーニュ派との間の内戦にシャルル派側で参加し、ブルゴーニュ派に捕らわれた時、シャルルは釈放の努力をせず、ブルゴーニュ派がかねて通じていたイングランドへ引き渡されるのを阻止できなかったからである。
 こうして敵イングランドの手に落ちたジャンヌは異端審問の結果、異端者として火刑に処せられ、短い生涯を終えた。この審問は結論先取り的なある種の茶番劇であり、イングランドに屈辱を与えた不可解なフランス人少女を見せしめにすることが狙いであった。
 ジャンヌ救出のために何もできなかったことを後悔したらしいシャルル7世は、ジャンヌの刑死後、20年以上を経て、フランスで復権裁判を支援し、彼女の名誉回復を図っている。
 ジャンヌのような事例は、後にも先にも、欧州ではもちろん、世界的に見ても稀有であり、全くの奇跡的存在であったが、それを可能としたのはフランスの亡国危機という非常事態であったのだろう。

補説:魔女狩り
 イングランドがジャンヌに課したのは被告の性別を問わない異端審問裁判であって、魔女裁判ではなかった。欧州で魔女の概念が生じたのは、ちょうどジャンヌが生きた15世紀前半頃とされるが、ジャンヌ存命中はまだ魔女狩りは本格化していなかった。
 ただ、当時の男性たちの通念からすると異例尽くめの神秘的で不可解な女性ジャンヌに対する裁判には魔女裁判的な要素もあったと言えるかもしれない。
 悪魔と契約して妖術を用い、禍をもたらす者という意味での「魔女」概念が確立し、該当者の告発と裁判が欧州で組織的に行なわれるようになったのは、続く16世紀から17世紀の時代にかけてであった。
 この時代は西洋史上、中世を過ぎ、近世に入ってきた頃であり、ルネサンスと科学的な思考が芽生え始めた時代である。そういう時代に迷信的な魔女狩りが隆盛となったのは一見不可解ではあるが、合理主義と非合理主義の共存現象自体は、「科学の時代」とされる現代でも続いていることである。
 魔女は定義上イコール女性ではなかったのだが、特に女性、中でも貧しい女性が狙われたのは、男性主導によるキリスト教会制度の確立に伴い、キリスト教における女性蔑視の思想が高まったことによるものと考えられる。
 ただし、実際の魔女狩りによる犠牲者数については、研究の進展により、従来想定されていたよりも少ない推定が主流化し、おおむね数万人であり、地域による差異も顕著であったと考えられるようになっている。また、同時代のアジアなどでは見られなかった現象である。
 とはいえ、魔女狩りは女性の暗黒時代の到達点とも言える象徴的なジェンダー弾圧事象であったが、同時に、その終息が女権にとっての近代的な黎明期の出発点ともなったのである。

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「女」の世界歴史(連載第29回)

2016-06-13 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

④トスカーナ女伯の戦い
 封建制の時代、女性が内戦に関与することは時にあったが、外戦となるとさすがに稀有である。そうした中で、イタリア北部カノッサを本拠に、神聖ローマ皇帝の侵略に抵抗したトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサは例外的な存在であった。
 彼女は今日でもイタリア北部ロンバルディアにその名を残すゲルマン系ランゴバルド人を祖とするトスカーナ辺境伯家の出身であったが、幼少期に父を暗殺により失った後、母の再婚相手ロートリンゲン公ゴドフロワ3世の息子で、後の下ロートリンゲン公ゴドフロワ4世と幼くして婚約、後に結婚した。
 当時、堕落・腐敗したローマ教皇庁の権威が失墜していたことに付け入り、実力をつけ始めたドイツ王にして神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征に乗り出していた。これに対し、イタリアの実力者だったゴドフロワ3世は抵抗し切れず、家族を捨てて本拠ロートリンゲンに逃亡した。
 その結果、マティルデは母とともにハインリヒ3世に捕らわれてしまう。その間、跡取りの兄が急死したことから、マティルデがトスカーナ伯相続人となった。間もなく、ハインリヒ3世死去に伴い釈放され、しばらく平穏な生活を送った後、義父ゴドフロワ3世の死去を受けた69年にゴドフロワ4世と正式に結婚した。
 しかし、結婚生活は幸せなものではなかった。生まれた男児をすぐに失ったばかりか、政治的にも教皇支持派のマティルデに対し、夫はハインリヒ3世を継いだ神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を支持していた。夫妻は間もなく別居状態となった。
 ゴドフロワ4世は76年に暗殺されたが、この件にマティルデ自身が関与していたという説もあるほどである。いずれにせよ、マティルデが軍権も持った強力な女性領主として台頭してくるのは、夫の暗殺後、単独の女伯として大所領を手にしてからである。
 当時のローマ教皇グレゴリウス7世は「グレゴリウス改革」として知られる一連の教会改革によって教会の権威の回復に努めつつ、父の遺志を継いでイタリア支配を図るハインリヒ4世との激しい叙任権闘争を展開していた。
 この間、マティルデは終始一貫してグレゴリウスを支持し続けた。それを象徴する事件が、1077年、ハインリヒ4世がマティルデの居城カノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世による破門措置の解除を請うため、城門で裸のまま断食と祈りを続けたという「カノッサの屈辱」であった。この件で、マティルデはグレゴリウスを庇護するとともに、赦免の仲介役も務めたとされる。
 しかし、ハインリヒ4世の謝罪はうわべだけのもので、カノッサ事件後、イタリア遠征を再開した。これに対し、マティルデは教皇派を束ねて武力抵抗した。その結果、いったんは所領の大半を喪失する敗北を喫したが、間もなく反攻に転じ、1095年頃までに皇帝軍をイタリアから撃退した。
 1111年には、ハインリヒ4世を継いだ息子のハインリヒ5世との間で和議が成立、ハインリヒはマティルデに「皇帝代理兼イタリア副王」の称号を授与した。これによって、マティルデにイタリアの実質的な最高実力者の地位が認められたのであった。
 こうして生涯を教皇防衛戦争に捧げたマティルデは1115年、相続人なくして死去した。その結果、彼女の遺産の所領は教皇領と皇帝領とに分割されたうえ、諸都市は自治都市として事実上独立し、後のルネサンス諸都市へとつながっていく。
 さらに、マティルデ死後の1122年には、長年にわたった叙任権闘争に終止符を打つ「ヴォルムス協約」が成立し、曖昧さを残しながらも、叙任権は教会に留保され、皇帝は俗権のみ掌握するという一種の政教分離原則が確立されたのである。

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「市民連合」と「民衆会議」

2016-06-08 | 時評

市民連合と野党連合が政策協定を締結。草の根政治運動が廃れ、市民社会が政治的な砂漠と化していた近年の日本では珍しい動きである。それだけでも小さな変化の兆しとして好意的に注目したいが、やはりぬるさは否めない。

柱は、「戦争法」廃止と立憲主義の回復に置かれている。この方向は間違っていないと思うが、要するに失われたものの回復が目的であり、まだ存在しないものを創るのではないということ。

これは野党連合との協定という手法に見られるように、既成選挙政治の枠に沿い、これまたゆるい野党連合の支持基盤になろうという企てである。それは、既成選挙政治にまだ期待をかける運動手法である。

反動改憲の足音が迫る状況下では、民主党改め民進党中心政権に再チャレンジ機会を与えるのも一つの方策かもしれないが、全体としての結果は前の民主党中心政権期とそう変わらないだろう。民進党は明確な理念がなく、軸のぶれやすい日和見主義的性格を前民主党から引き継いでいるからである。

ましてや、今度は共産党と連携するというこれまでになく大胆な策である。連携の先に想定される「民共連立」は、自公連立と同じように運ぶとは思えない。より成立しやすい社民党との民社連立政権ですら短期で失敗した前民主党である。

草の根と政党政治が直結してしまうことも、海千山千の政党政治家に使い捨てされる危険と隣り合わせである。市民連合自らが草の根代議機関になり切るほどの対抗力を示さないならば、拙構想における民衆会議とはまだまだ遠い距離がある。

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戦後ファシズム史(連載第40回)

2016-06-07 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐3:ウガンダの場合
 ウガンダでは1970年代、擬似ファシズムの形態ながらアミンの暴虐な独裁体制下で多大の犠牲を出したことは以前に見たが(拙稿参照)、アミンがタンザニアの軍事介入によって打倒された後も、ウガンダでは混乱が続いた。
 一度はアミンによって追放されていたオボテ大統領が復帰するも、アミンさながらの暴虐に走り、81年以降は内戦状態となる中、85年には軍事クーデターで再び政権を追われた。翌年、この混乱を収拾したのは、ヨウェリ・ムセヴェニに率いられた反政府ゲリラ国民抵抗軍であった。
 ムセヴェニは元マルクス主義者にして、第一次オボテ政権時代の情報機関員も務めたが、アミンのクーデター後、タンザニアに逃れ、反アミン闘争に没入した。79年のアミン打倒作戦にも参加したが、第二次オボテ政権とは対決し、反オボテ闘争を開始する。
 86年に武力で全土を制圧した国民抵抗軍(国民抵抗運動)が樹立した体制は革命政権の性格が強く、各地区に設置された抵抗評議会が地方の政治経済を担う機関とされ、政党ベースでの選挙参加を禁ずるある種の草の根民主主義の形が取られていた。
 そうした体制下で、ムセヴェニは世界銀行やIMFの構造調整政策をいち早く取り入れて、長年の独裁と内戦により崩壊状態にあったウガンダ経済の建て直しと経済開発に取り組み、ウガンダを安定化させることに成功した。
 このように、国民抵抗運動体制には政党によらない民主主義の実験とも見える一面があったが、一方で北部を中心になお完全には鎮圧できない反政府勢力への対抗上、体制は次第に統制的な治安管理体制を取るようになっていく。
 その頂点に立つムセヴェニ大統領は革命10周年の96年まで大統領選挙を行なわずに統治した。96年の選挙で圧勝したムセヴェニはその後も5年ごとに多選を重ね、今日に至るまで30年に及ぶ政権を維持している。
 この間、2005年以降ようやく複数政党制が導入されたが、国民抵抗運動は議会において圧倒的な多数を占めており、政権独占状態は不変である。
 ムセヴェニの国民抵抗運動体制は、親米欧かつ新自由主義的な構造調整にも積極的なことから、ムセヴェニはアフリカの新世代指導者として称賛され、国際的な非難を受けることは少ないが、少なくとも初期の草の根民主期を除けば、90年代以降の実態としては、開発ファシズムの傾向も伴った管理ファシズムの性格を強めていると言える。
 また90年代後半以降は対外的な介入戦争にも加わり、とりわけザイールのモブトゥ・ファシスト政権の打倒やその後に発生した第二次コンゴ戦争に関与するなど、侵略主義的な傾向も見せ始めた。
 近年になると、NGOの活動の制約や、公共秩序法による集会の自由の制限、さらにはアフリカでは成功例とされるエイズ対策に仮託した同性愛者厳罰法などの管理主義的な立法が累積されてきている。
 政権の長期化に伴う汚職も深刻化しているが、全体主義的管理体制が独立以来混乱続きのウガンダに相対的な安定をもたらしていることも事実であり、体制が大きく揺らぐ気配は現状では見られない。

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戦後ファシズム史(連載第39回)

2016-06-06 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐2:エジプトの場合
 エジプトでは、ナセルに率いられた自由将校団による1952年の共和革命後は、アラブ社会主義を掲げたナセルの親ソ社会主義体制が敷かれたが、ナセルが1970年に急死した後は、革命の盟友でもあった後継者サダトの下で脱社会主義化が図られる。 
 サダト政権はイスラエル国家の承認という画期的な外交政策の転換に踏み切ったが、政権としては過渡的で不安定な性格が強かったところ、サダト大統領は81年、イスラーム原理主義者の一将校により暗殺された。
 その非常事態下で登場したのが、ホスニ・ムバーラクであった。彼は空軍パイロットの出身で、若くして空軍司令官となり、73年の第四次中東戦争における功績から、75年以来、サダト政権の副大統領の座にあった。
 ムバーラクは以後、2011年、「アラブの春」の一貫としての民衆革命で政権を追われるまで、エジプト共和制史上最長の30年にわたって大統領として権力を維持した。
 この間のムバーラク体制は、サダト暗殺事件後の非常事態宣言を恒常的に維持し、常時非常大権を掌握しながら、全体主義的な社会管理を徹底するというものであった。とりわけ、サダト暗殺にも関与したイスラーム原理主義勢力に対しては封じ込めを徹底した。
 統治のマシンとしては、サダト時代の与党として設立された国民民主党が利用された。この党は元来、ナセル時代の与党・アラブ社会主義同盟が社会主義色を薄めて再編された中道左派政党であったが、ムバーラク時代にはムバーラクのマシンとして、各界に根を張る支配政党に作り変えられていた。
 従って、この党も本来的なファシズム政党ではないが、ムバーラク体制下における実態としては、全体主義的な包括政党の性格が濃厚であり、その点でムバーラク体制は不真正ファシズム型の管理ファシズムであったと考えられる。
 ムバーラク体制は外交上は親米(対イスラエル宥和)の立場を堅持し、冷戦終結後は湾岸戦争やアフガン戦争でも対米協力を行い、米国を後ろ盾につけて体制保証としていた。国内的には、秘密警察を活用した抑圧を敷く一方で、サダトの脱社会主義化路線を継承して経済開発を進め、80年代前半には高い経済成長を示した。
 2000年前後から、新自由主義政策の施行により民営化など市場主義的な改革を推進し、再び経済成長を軌道に乗せるが、一方では長期政権に伴う腐敗の蔓延や自身を含む一族の蓄財が体制を内部から腐食させていた。
 そうした中、チュニジアに発した民衆革命「アラブの春」は磐石と思われたムバーラク体制にも波及してきた。2011年1月末以降、エジプトでも民衆デモが拡大し、これを強権的に弾圧することを断念したムバーラクは2月、大統領辞職を表明した。
 こうしてムバーラク体制は幕を閉じ、翌年実施された史上初の直接大統領選挙では、長年の野党ムスリム同胞団系のムハンマド・ムルシーが選出された。市民殺害などの罪で起訴された高齢のムバーラクは、終身刑判決を受け、収監された。
 この流れを再び覆したのは、2013年、イスラーム主義的な改憲を強行しようとして反発を招いていたムルシー政権を軍事クーデターで打倒したアブドルファッターフ・アッ‐スィースィであった。当時国防相だったスィースィは治安回復を名目に大量処刑・拘束を断行し、形式的な民政移管プロセスを経て、2014年に大統領に選出された。
 スィースィはムバーラク時代に立身した職業軍人であり、スィースィ政権の性格はムバーラク体制の継承者である。ただし、ムバーラク時代の与党国民民主党は解体されており、現時点でスィースィは標榜上無所属である。
 そのため、スィースィ政権の性格はなお不確定であり、ファシズムというより管理主義的な擬似ファシズムと言えるかもしれない。ただ、長期政権化すれば、新たな包括与党が結成され、第二の管理ファシズムが明確に出現する可能性はある。

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「女」の世界歴史(連載第28回)

2016-06-03 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

③戦国日本の女性城主たち
 封建的な社会体制において、どこよりも激しい内戦状態を経験した日本の戦国時代にあっても、女性城主として主体的に内戦に関与する者たちがいた。おそらく記録に残らない例まで含めればかなりあると見られるが、ここでは記録されている著名な例をやや箇条的に見てみる。
 まず最も初期の例として、赤松政則の後室だった洞松院がある。彼女は室町時代守護大名で、管領として強大な権力を持った細川勝元の娘で、弟の政元の差配により尼僧から還俗して、嘉吉の乱で一度没落した播磨守護大名赤松氏を中興した赤松政則に嫁いだ。
 しかし、男子を産めず、年少の娘婿赤松義村の後見人として、事実上の城主格となる。以後、洞松院は20年以上にわたり、自ら文書を発給し、単なる城主を越えた女性戦国大名として自他共に認めていたようである。
 だが、成長した義村と対立し、家臣の浦上氏と組んで義村を暗殺した。このような策動は、洞松院の没後、浦上氏に下克上され、赤松氏が衰亡する要因を作った。
 次いで、織田信長台頭期になると、信長の叔母でもあったおつやの方がいる。彼女は、武田、織田両氏に両属する美濃の中小国人領主である岩村遠山氏に嫁いだが、子どもを残さなかった夫の死後、信長庶子勝長を養子とし、後見役として事実上の岩村城主となる。
 彼女は、当時勢力争いをしていた武田信玄と自身の甥信長との間に入って、微妙なバランスを維持した。しかし、武田方から攻め込まれると、信長を裏切って武田方武将と再婚したことから、信長に岩村城を落とされた際、残酷に処刑される運命をたどった。
 おつやの方の同時代には、今川氏親正室の寿桂尼も活躍した。彼女は公家出身ながら、夫の死後、二人の息子氏輝、義元、さらに孫の氏真の各代にわたって後見役として実権を保持し、女性戦国大名とみなされていた。
 彼女は特に行政的な手腕に優れていたようで、夫が病床にあった頃から、今川氏家政を指導し、息子義元の時代を頂点とする今川氏の全盛期を演出した。それは外交上、武田氏との連合関係によって保証されていたが、寿桂尼の没後は武田氏との関係が断絶、孫の氏真の失政などもあり、武田‐徳川氏の侵攻を受けて没落することとなった。
 もう一人の同時代人に、遠江発祥の国人領主井伊氏の女性当主井伊直虎がいる。彼女に関する史料は乏しいものの、宗家が今川氏の攻勢により存亡危機にあった時、一度は出家した身から還俗し、男性名直虎を名乗って、当主となったとされる。
 直虎は「女地頭」の異名をとるほど、領国経営で手腕を発揮するとともに、今川、武田の両雄の狭間にあって、何度も本拠井伊谷城を奪われながら、そのつど奪回・復権してみせた。彼女は、当時台頭していた徳川家康と結ぶ先見の明もあったことから、井伊氏は弱小ながら徳川譜代に昇進し、近世には彦根藩を領する譜代大名筆頭に列した。
 以上の例は、いずれも当主幼少等の事情から家系継続のため中継ぎ的に登場した女性城主たちであったが、九州の有力武将家立花氏のぎん千代は7歳にして正式に立花家女性当主となった稀有の例である。当時の立花氏は九州の有力大名大友氏の配下の城督という方面司令的立場にあった。
 ぎん千代は動乱状態の九州にあって、自ら女性軍団を組織したと言われるほど、戦士的な性格もあったようである。彼女は短命ながら、立花氏を主家大友氏から独立させるうえで貢献した。不仲だった婿養子の夫宗茂は関ヶ原の戦いで西軍につきながら赦免され、旧領で復権した唯一の大名となり、立花氏は近世柳河藩の大大名に栄進した。
 こうした女性城主の最後を飾るのは、豊臣秀吉側室の淀殿である。よく知られているように、浅井氏から秀吉に「保護」されて側室となった彼女は、秀吉死後、実子秀頼の後見役として、事実上の大坂城主格となる。彼女の生は徳川時代初期にまでまたがるが、形としては、戦国時代型の女性城主である。
 淀殿の政治手腕については賛否があるが、少なくとも、権力を確立しつつあった徳川氏に対して挑発的な姿勢を貫いたことは、幕府の豊臣討伐を早める契機となったであろう。
 その点では、城主ではなかったが―晩年を過ごした京都新城の城主と見る余地はある―、秀吉正室の高台院が交渉力に長け、豊臣家滅亡後も徳川氏から丁重に遇され、兄と甥は秀吉から与えられた木下姓のままそれぞれ西日本の小大名として存続を許されたのとは対照的である。

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