第二章 奴隷制廃止への長い歴史
リベリア―解放奴隷の帰還国家
アメリカの奴隷制廃止運動が南部で行き詰まっていた19世紀前半、アフリカ西海岸に独立国家リベリア(*)が誕生した。ラテン語の「自由」に由来する国名を持つこの国家は、アメリカの解放奴隷の故地入植によって建国された帰還国家であり、アフリカ史上初の共和制国家でもあった。
その発端となったのは、1847年の建国に遡ること31年、1816年に当時のアメリカ植民協会が企画した解放奴隷のアフリカ帰還運動にあった。その点、英国でも解放奴隷のシエラレオーネへのアフリカ帰還計画が進行していたのと並行している。
ただし、英国の計画が奴隷制廃止運動の中から生まれたのに対し、アメリカ植民協会は奴隷制所有者もメンバーに多数参加するなど、奴隷制廃止の理念は曖昧で、解放奴隷をアフリカへ「返還」するという発想が強かった点に相違がある。
この計画は1820年、早速実行に移され、90人近い解放奴隷の移民を乗せた第一回の植民船エリザべス号がニューヨークを出航した。最初に到着した場所はリベリアの隣りのシエラレオーネであったが、慣れない熱帯風土の中でたちまち伝染病が蔓延し、多数が死亡した。
続いて、翌年には二号船も到着・合流し、生き残りの移民とともにとりあえず初期植民者が出揃う。かれらはシエラレオーネより南の今日のリベリアに向かい、地元部族に半ば脅しで土地を売らせ、最初の植民地ケープメスラドを建設したのである。
当初の植民地は狭隘な岬にすぎなかったが、リベリア植民地に改称された1824年までに領域を拡張して、後にリベリア共和国の原型となるリベリア植民地が形成された。アメリカからのリベリア植民は、当初アメリカ植民協会主導で行われたが、その後も、メリーランド州をはじめ、州レベルでの植民協会が出来始め、続々と植民地が形成されていく。
1839年には複数の植民地が統合され、リベリア連合が成立していたが、1847年に至って、リベリア共和国として正式に独立する運びとなった。黒人解放奴隷主体の独璃国家としてはカリブ海のハイチに次ぐ存在である。その点、独立が20世紀後半まで持ち越されたシエラレオーネとは異なる道を歩んだのである。
新生リベリアは、その建国の経緯からアメリカ憲法を模範とした立憲共和制国家として成立し、20世紀後半まで100年以上にわたり、アフリカの中では相対的に民主的な体制を維持していくのである。
しかし、その社会の実態は最初の入植者であったアメリカ生まれの解放奴隷の子孫―アメリコ・ライベリアン―が政治経済の支配権を独占し、先住黒人部族を従属下に置くという差別構造に支えられることになった。アメリコ・ライベリアンたちは、白人がアメリカで作り上げたのと同様の社会をリベリアに作ろうとしたのだとも言えるだろう。
この非対称な社会構造に対する先住部族勢力の歴史的な不満の鬱積が、先住部族を主体とする国軍下士官らが決起した1980年の軍事革命(クーデター)とその後の軍事独裁、凄惨な内戦による国家破綻という惨事を招来するのである。
*正確には「ライベリア」が本来の発音に近いが、ここでは、日本語で慣例化された誤表記を踏襲する。