第8章 新しい革命運動
(3)共産党とは別様に(続)
◇しなやかな結集体
革命前民衆会議は中央指導部を持たない分散的なネットワーク型組織であると述べたが、このようなネットワーク型組織はえてしてメンバーシップが緩やかになりすぎ、安易なサークル活動化をきたしやすい。
そこで、革命前民衆会議のメンバーシップはいくぶん厳正に編成し、革命前民衆会議の規約となる「民衆会議盟約」の全条項に逐条同意した人に限り(一括同意や部分同意は不可)、加盟を認める。盟約員は毎年一回盟約所定の下限金額以上の運営費を納入する義務を負う。
中央連絡委員のほか、ローカルな各圏域民衆会議連絡機関の委員は盟約員の中から―ローカルなレベルの民衆会議の場合は管内の住民であることを要する―二年程度の任期をもって抽選で選出される。
このように組織内の役職は抽選によるローテーション制とすることにより、共産党組織のように指導部メンバーが固定化され、権威主義的な党内官僚制が形成されていくのを防止できるのである。
なお、民衆会議総会に出席する権利を有する「総会代議員」は地方圏(または準領域圏)及び地域圏民衆会議の連絡委員の中から互選するが、それ以外に所定員数の一般盟約員も先着順で総会参加者となることができる。
こうした核となる盟約員の数はある程度限られるであろうが、政党の党員獲得のようないわゆるオルグ活動は展開しない。その代わりに、専従員によるインターネットを活用した触発活動を展開し、外部の自発的な共感者の拡散に注力する。
民衆会議のメンバーシップ及び組織のあり方は決してサークル活動的ではないが、一方で共産党的な「鉄の団結」でもなく、限定された盟約員を核としつつ、外延部を成す多数の自発的共感者で構成され、アメーバ状に伸縮する組織―言わば「しなやかな結集体」と表現できるようなものとなるであろう。
◇赤と緑の融合
革命前民衆会議が共産党と理念的な面で異なるのは、エコロジズム(生態系保全主義)を内在化することである。このことは第2章で見た「持続可能的計画経済」という革命後に施行される新たな計画経済の手法にも現れていた。
その点、ソ連邦解体以降、地球環境問題への関心がかつてなく高まったことに対応して、「緑の党」のようなエコロジズム政党が欧州を中心に台頭してきたことが想起される。
しかし「緑の党」は一般に共産主義には否定的であり、資本主義の枠内で環境規制を強化することを主張するにとどまり、根本的な次元で生産様式の転換に切り込もうとしない。そうした意味で、かれらの立場は単に資本主義を緑色に染めるだけの「緑の資本主義」に終始する。
これでは資本をして“エコ・ビジネス”のような便乗的利潤追求戦略に走らせるだけである。その象徴的な例が地球温暖化対策を大義名分に掲げる原発輸出政策であるが、「緑の資本主義」ではこうした資本のエコ便乗商法を本質的に批判することができない。
一方で、環境規制の強化に伴う生産量の低下ないし生産コストの増大が人員整理を結果することを恐れる労働組合は経営側と歩調を合わせて環境規制に反対しがちである。そうした労組の立場に理解を示す共産党もまた連動して反エコロジズム―「緑の党」の躍進に対する警戒心も手伝って―の立場に赴きやすい。
革命前民衆会議が目指すのは、こうした反共的な「緑の資本主義」と共産的な「反エコロジズム」との狭間にあって、エコロジズムを内在化させた新たな共産主義の再定義である。
共産主義の伝統的なシンボルカラーは「赤」であった。革命前民衆会議も共産主義を目指す以上「赤」を基調としてよいが、それに「緑」を加味する。といっても、それは赤と緑の単なるツートンカラーではなく、深層的な次元で赤と緑が融合されたアラベスクのようでなければならない。(※)
※その点、当ブログのテンプレートが赤基調に統一され、緑加味のアラベスクになっていないのは言行不一致であり、心苦しい。
◇集団的不投票運動
革命前民衆会議の主軸となる活動は、まず第一に新しい革命運動の方法となる集団的不投票運動の展開である。すなわち、世界民衆会議を拠点としつつ、連携する各国民衆会議を通じて、各種公職選挙での棄権者を漸次増やし、既存の議会や政府の正統性を弱化させ、最終的な革命につなげることである。
ここで注意すべきは、投票が罰則付きで義務付けられている諸国における運動である。この場合、棄権は犯罪行為とみなされる。しかし、たいていは罰金相当の軽罪であり、厳格な取締りもなされないのが通例であるが、仮に棄権に重罰が科せられる場合は、兵役拒否と同様の良心的不服従運動の形態となる。
一方で、いまだに公職選挙制度が存在しないか、存在しても一党支配のため選挙が形骸化している諸国では、そもそも集団的不投票運動が有効に展開できない。このような場合の民衆会議では棄権運動よりも次項の対抗的立法活動に重点を置くか、それも困難ならば海外に亡命民衆会議を結成することになろう。
ちなみに、共産党が一党支配体制を確立している諸国における民衆会議運動は、一見すると共産主義が共産主義に対峙する矛盾行為のようであるが、既成共産党の党派的共産主義と民衆会議の共産主義には齟齬があるので、対峙することは矛盾ではない。
この場合は、独裁的共産党に対し、反共の立場から外在的に攻撃するのでなく、新たな再定義された共産主義をもって内在的に対抗する運動が展開されるのである。
◇対抗的立法活動
革命前民衆会議の活動主軸の二本目は、対抗的立法活動である。対抗的立法活動とは、既存の立法機関に対抗して、民衆会議が行なう立法活動のことである。もちろん、ここで「立法」といっても、革命前の段階では正規の法令としての効力を持たない民間綱領にとどまるが、革命成就の暁には公式の法令となる、言わば法令のさなぎである。
その中心にくるのは、憲章である。憲章とは既成の国法体系上は憲法に相当する最高規範であり、実質的には憲法と呼び得るものであるが、すでに述べてきたように、共産主義は主権国家を前提としないので、社会の最高規範たる憲法は憲章(民衆会議憲章)という形態で現れることになるのである。
こうした憲章は世界民衆会議憲章―世界共同体憲章を兼ねる―を統一法源としつつ、各国民衆会議憲章が制定され、さらに各国民衆会議憲章の範囲内でローカルな各圏域民衆会議憲章が制定されるというように、圏域ごとに重層的に制定され、憲章の網の目が形成される。
憲章の制定に加え、持続可能的計画経済の仕組みに関わる経済法制の制定も、革命前民衆会議の重要な対抗的立法活動を成す。ここでは貨幣経済の廃止という人類史的な大事業が控えているため、革命後の経済社会の大混乱を回避するためにも、革命前の入念な準備が欠かせないのである。
◇政党化の禁欲
以上のような活動二本柱を超えて、革命前民衆会議も選挙参加のような政党的活動を展開すべきかどうかということが一つの問題となるかもしれない。
新たな共産主義を目指す民衆会議の方向性に基本的に賛同しつつも、資本主義の生命力は強く、簡単に自壊するようなことはないとすれば、まずは資本主義の枠内で選挙を通じて実行可能な改革を志向していくべきではないかとの慎重な提言もあり得よう。
しかし、革命前民衆会議は政党ないしそれに類する政治団体と化すべきではない。ここが既成共産党との大きな分岐点となる。前に述べたとおり、ソ連邦解体後の世界では、残存共産党の多くが議会選挙に参加し、一定の議席を保有しているが、それと同時に、そのほとんどが共産主義革命を棚上げする形で事実上放棄し、資本主義に適応する転回を遂げているのは、そうしなければ議席獲得・保持が困難だからである。
それはまた、ブルジョワ議会制度が資本主義への同化を暗黙の議席保持条件として共産党を含む全議会政党に強いるからにほかならない。このことによって、「共産」という名辞の持つ意味が蒸発し、名目化してしまうのである。革命前民衆会議がそのような残存共産党と同じ道を歩むのでは全く意味がない。そのため、革命前民衆会議が政党化して選挙参加することは厳に禁欲すべきなのである。
結局のところ、革命前民衆会議は政党ではないが、非公然の地下活動団体でもなく、革命後には公式の社会運営機構となることが予定された公然運動組織という性格を堅持していくべきことになる。