哲理篇
一 宇宙の四大
何か混沌とした物があり、天地より先に生じていた。音もなく茫漠とし、独立不変、周行してとどまることもない。それこそ天下の母体と言うべきである。私はその名を知らないが、仮に道という。強いて真に名づければ大という。大であればここから果てしなく広がり、果てしなく広がれば遠ざかり、遠ざかればまたここへ還ってくるのだ。
かくして道は大、天も大、地も大、人も大である。域中(大宇宙)にはこの四つの大があり、人はその一つに位置を占める(にすぎない)。人は地を範とし、地は天を範とし、天は道を範とし、道は自然を範とするのである。
通行本では第二十五章という位置づけになるこの章には、老子の世界観が簡潔に集約・総括されている。それゆえ、本連載ではあえて冒頭に移置した。
老子は道・天・地・人をもって宇宙を組成する四つの要素=四大[しだい]に数えている。こうした四大思想は、中国伝来の木・火・土・金・水の五行思想と大きく異なるものである。
四大の筆頭に来る「道」は老子最大のキーワードであるが、これを「タオ」と読んで老子=タオイズムという公式を立てる欧米現代思想流の解釈には与しない。
といって和訓で「みち」と読むと、老子が「道」という語で言わんとするところからかけ離れてしまうので、以後、本連載では特に断らない限り、「道」と斜体で表記したうえで「トウ」と音読みすることにしたい(行論上、「みち」と訓む場合はその旨を明示する)。
かかる道とは何かということに関しては、これから随所で様々に語られていくが、老子は言葉に固定的な定義なるものを与えないため、道について定義づけることは不可能である。そもそも「道」という語自体、仮の名づけにすぎないというのである。
ただ、本章で述べられているところからすると、道は天地より先行する何か混沌・茫漠とした物であって、それは天下の母体であるという。
この点で想起されるのは、「物質」を意味する英語matterがラテン語で「母」を意味するmaterの派生語であるmateriaに由来するという事実である。老子の「道」を、まさにこのような母なる物、言わば大文字で始まるMatterと通約してみると、そのイメージが把握できるかもしれない。
このような大文字のMatter=道にあえて現代的な知見をあてはめるならば―必ずしも正しい方法論とは言えないが―、初期宇宙のようなすべての物の始原を指し示すものと言えるかもしれない。
従って、四大の最上位に位置するのは道なのであって、この点でも中国思想伝来の天を頂点とする世界観とは異なっている。
ただ、本章末尾で道は自然を範とすると述べられており、これなら窮極的な第五の要素として「自然」が考えられているようにも読めるが、「無為自然」という道家思想のキーワードにもかかわらず、老子は「自然」という語をめったに用いないので、この箇所は「道=自然」という定式化が生じた後世になって注解的に書き加えられた可能性もある。
こうした道を頂点とする四大の階層序列の中で、人は最下位の位置づけである。このことは、老子が人間を軽視していることを意味しない。それどころか、後に見るように、老子にはある種ヒューマニズムのモチーフが認められる。
しかし、老子は人間を「世界‐内‐存在」(ハイデガー)どころか、より広汎に「宇宙‐内‐存在」として把握しようとしている。その意味で、老子は人間中心主義を拒否し、最終的には道に同ずることを人間存在の理想のあり方とするのである。