ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

政府独立調査委員会を

2017-03-30 | 時評

このところ数か月も連日のようにメディアを賑わせてきた防衛省「日報」隠匿問題、M学園国有地不当取得問題、さらに東京都の豊洲市場不明瞭移転問題などはいずれも少なからぬ登場人物が複雑な相関関係を形成していたり、行政首脳部周辺の関与も取り沙汰されたりする難題である。

そのため、市民の関心が高いわりに解明は進まない。これらのケースはいずれも明確に犯罪行為と言える要素が少ないため、捜査機関が直ちに捜査着手するような事案ではない一方で、党派性の強い議会の調査では与野党間の綱引きに陥り、うやむやに終わりやすい。市民の苛立ちは募り、次第に諦めの境地に達する。

しかし、犯罪捜査でも議会調査でもない第三の方法がある。それが表題の政府独立調査委員会である。これは特定の問題の調査のためだけにそのつど政府(自治体も含む。以下同様。)が設置する非常設型の調査委員会であるが、その調査は政府や議会から独立して中立に行なわれる。委員長をはじめ、調査委員は全員が法律家や会計士、さらには問題の内容に対応する分野の専門家で構成される。

その調査は違法行為ばかりでなく、違法でないが不当な行為にも広く及ぶ。そのため調査は基本的に任意であるが、正当な理由のない調査への協力拒否には罰則が科せられる。その点では最高執権者やその親族、政府閣僚、自治体首長らも例外たり得ない。また必要に応じて証拠提出命令及び裁判官の令状に基づく証拠保管場所への立入り調査の権限も保持する。

独立調査委員会の調査はすべて非公開で行なわれるから、「証人喚問」のようなハイライトはないが、その代わり、委員会の詳細な調査報告書は政府及び議会に提出されることはもちろん、一般公開もされ、閲覧に供される。

ちなみに、近年各方面で不祥事に際してよく見られる「第三者委員会」と「独立調査委員会」は似て非なるものである。「第三者委員会」は法律上の根拠にも独立性にも欠け、如上の強力な調査権限も持たない臨時の諮問機関的な制度に過ぎず、その設置動機もたいていは世論対策的なアリバイ作りの不純なものである。

独立調査委員会の設置は法律に基づいて行なわれるが、実際の設置は政府の判断となるため、政府が設置を頑なに拒否する事態もあり得る。そこで、例えば議会の三分の一以上の要求があれば、政府は委員会の設置義務を負うというように、低いハードルのもとに議会側の要求で設置を強制することもできるようにすることが望ましい。

このような洗練された調査制度が存在しない国は、民主主義の現代的な水準を満たしていないと疑われてもやむを得ない。さらに付け加えれば、党派的な議会調査を劇場的におもしろおかしく取り上げ、芸能仕立てにするメディア慣習は、民主主義の質を著しく劣化させていると言わざるを得ない。

コメント

農民の世界歴史(連載第37回)

2017-03-29 | 〆農民の世界歴史

第9章 アメリカ大陸の大土地制度改革

(4)キューバ革命と農民

 キューバの独立はラテンアメリカでも最も遅れ、スペインが米西戦争で敗れた後の1902年のことであった。しかしこの「独立」は形だけのものであり、実態としてはアメリカの属国に近い状態に置かれた。
 スペイン支配時代のキューバは元来、砂糖栽培プランテーションの拠点であり、19世紀には世界最大の砂糖生産地となっていた。しかし「独立」後はアメリカ資本が進出、製糖を初めとする主産業を支配するようになる。
 中でも、ユナイテッド・フルーツ社の構造搾取がキューバにも及んできた。同社は19世紀末、合併により創業され、1930年代にユダヤ系実業家によって買収された後も、主としてラテンアメリカ諸国でプランテーション栽培されたバナナを主力とする果物の販売を手がける商社的な企業であった。
 同社は20世紀初頭以降、ラテンアメリカやカリブ海域の広大な範囲を商圏に収めつつ、アメリカ政府とも密着しつつ、これらの地域をアメリカの従属下に置くうえで重要な役割を果たした準国策会社であり、言わば「東インド会社」ならぬ「西インド会社」のような存在であった。
 とりわけ1940年代、中米のグアテマラでは軍事政権と結託しつつ広大な農地を収得してバナナ栽培を支配した。しかし1951年に当選した左派軍人のハコボ・アルベンス・グスマン大統領が大規模な農地改革に着手すると、アメリカは右派軍人らを動かしてクーデターを強行、アルベンスを追放した。この策動の狙いの一つは、ユナイテッド・フルーツ社の権益護持にあった。
 一方、キューバでも1940年代から実質的な独裁者として支配した親米派フルヘンシオ・バティスタの下で、ユナイテッド・フルーツ社が砂糖栽培を支配するようになっていた。こうしたアメリカの政治経済支配への抵抗として武装蜂起したのが、フィデル・カストロらの青年革命家たちであった。
 59年の革命後、カストロ政権が最初に着手したのは農地改革であった。これにより、当時農地の70パーセントを支配していたユナイテッド・フルーツ社の権益が一挙に失われようとしたことは、アメリカを激怒させ、グアテマラの先例にならった政権転覆工作に走らせた。
 しかしカストロ政権は親ソ連に傾くことでこれを乗り切り―その過程で発生した米ソ核戦争危機については本稿論外として割愛する―、社会主義体制を確立していった。
 このキューバ社会主義体制は基本的にソ連にならったものではあったが、農地改革に関してはソ連あるいは中国のような強制的な農業集団化を志向しなかった。その代わり、農地の80パーセントは国有化され、残りが協同組合及び自作農の農地とされたのである。
 このような国営農場主体の農地改革は比較的狭小な島国で、元来から大規模プランテーションが盛んだった典型的な旧植民地キューバで社会主義的な農地改革を実行するうえでは、最も現実的な選択肢であったのだろう。ただし、国営農場は次第に限界を露呈し始める。
 中央管理された国営農場の農民は「農民」というより労働者であり、しかも低賃金であった。当然、生産性も低く、当初はソ連の援助で維持されるも、頼みのソ連が解体消滅すると、持続は困難となった。結局、93年の農業改革により国営農場は実質解体され、新たな協同組合農場に取って代えられることとなる。
 ちなみに、ユナイテッド・フルーツ社は1984年以降、社名をチキータ・ブランドと変え、経営主体を転々としながら、依然としてバナナを主力とする食糧農業資本として存続している。

コメント

農民の世界歴史(連載第36回)

2017-03-28 | 〆農民の世界歴史

第9章 南北アメリカの大土地制度改革

(3)メキシコ革命と農民

 19世紀前半、周辺諸国とともにスペインからの独立を果たしたメキシコでも、独立運動は自身もアシエンダ農場主であるクリオーリョによって主導された。独立後のメキシコ帝国初代皇帝となった軍人アグスティン・デ・イトゥルビデ(アグスティン1世)もそうした一人であった。
 もっとも、19世紀後半には債権国列強の属国状態からの自立化に貢献した先住民系農民出自のベニート・フアレス大統領が出て進歩的な改革を試みた。フアレスは畑の見張りや下僕から身を起こして法律家となった立志伝中の人物であったが、その改革政策の内実はブルジョワ民主主義的なものにとどまり、農地改革には切り込めなかった。
 そのフアレスが道半ばで急死した後は政治経済の反動化が進み、1876年にはポルフィリオ・ディアス将軍がクーデターで政権を奪取し、以後断続的に30年に及ぶ独裁体制を敷いた。ディアス体制の農地政策はアシエンダをいっそう拡張する反動的なものであった。
 彼は19世紀半ばのアメリカによる侵略戦争で領土を割譲した結果、農場を失ったアシエンダ農場主たちを慰撫するため、アシエンダ拡張を推進したが、その際、近代的な土地登記制度を制定し、先住民の伝統的な共同体農地を接収、アシエンダ農場に売却する方法で先住民の土地を収奪した。それは農民のほぼすべてが土地を喪失するほど徹底した収奪政策であった。
 これ以降、農民たちにとっては奪われた土地の回復が民族的課題となる。ディアス体制はそうした農民運動を弾圧したが、これに対し新興農場主層に出自した元ディアス支持派のフランシスコ・マデロが反旗を翻し、ディアス独裁体制打倒の狼煙を上げた。これが1910年以降、10年にわたって続くメキシコ革命の端緒となる。
 ただ、メキシコ革命における農民の立場は微妙であった。革命初期に大統領となったマデロは表向き農民寄りの姿勢を示したが、元来保守的な農場主出自であり、就任後は守旧的立場を採ったため、農民層を代表していた革命家エミリアーノ・サパタと対立した。
 実はサパタも農場主出自だったが、先住民との混血メスティーソであり、先住民への共感があり、早くから先住民の土地回復支援運動に取り組んでいた。革命勃発後は「土地と自由」の理念に基づき、農民の土地回復を謳う綱領を掲げる左派として台頭していた。
 この「土地と自由」は直接には同時代メキシコの代表的なアナーキストであったリカルド・フロレス・マゴンに影響されたものとされるが、「土地と自由」はロシアのナロードニキの理念とも重なる。サパタの思想はひとことでは規定できない複雑なものであるが、社会主義というよりはアナーキズムであり、彼が革命左派を代表した結果、メキシコ革命は総体として社会主義革命としての性格が希薄なものとなった。
 ともあれ、サパタは革命渦中で保守的なマデロ、そのマデロを打倒した反革命派に対して武装闘争を展開したが、左派排除を狙う中道派の計略により殺害されてしまう。しかし、サパタ綱領の精神は革命を収拾した中道派ベヌスティアーノ・カランサ大統領が主導した新憲法に反映されることとなった。
 カランサ政権は農地改革の支柱としてエヒード制を導入した。エヒード制は土地の無い農民と地主の間を政府が仲介し、政府が収用した農地に相続可能な耕作・収穫権を設定するという社会主義的な国有農場と伝統的農地共有制の中間のような制度であった。
 とはいえ、当初はこれとて遅々として進まなかったが、革命終息後10年以上を経た1934年に大統領に就任したラサロ・カルデナスの下で、総面積2000万ヘクタールに及ぶ農地のエヒード化が推進された。
 この制度は政府の仲介過程での汚職や不法なエヒード売買などの不正行為の元ともなり、1992年の憲法改正により実質廃止されるが、それまではメキシコ革命を終息させ、一党優位体制を確立した制度的革命党の基本政策であった。
 なお、エヒード制廃止と農地私有化は新たな農民問題を生み、再びサパタの精神が参照され、彼の名を冠した農民蜂起を呼び起こすのであるが、これについては最終章で改めて取り上げることとする。

コメント

不具者の世界歴史(連載第9回)

2017-03-22 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

宮廷道化師たち
 道化は現代では大衆芸能化しているが、本来の道化は単なる見世物ではなかった。特に王や貴族に近侍する一種の公務員としてのお抱え道化師(以下、宮廷道化師で代表させる)は古代エジプトやペルシャに発祥したとされ、壁画などに残されたその姿にはすでに身体障碍者と見られる者が認められる。
 道化師の役割は滑稽な言動によって人々を笑わせることにあるが、滑稽さを醸し出すには健常的で均整の取れた容姿であるよりは、醜形を含めた不具者であるほうがインパクトがあるため、宮廷道化師には成人しても著しい低身長となる小人症のような身体障碍を持つ者が少なくなかった。
 しかし、その一方、宮廷道化師は身体芸とともに音楽や詩などの文芸的素養をも要求される高度な専門職であり、時に奇矯な言動をしてみせるも、それは現代のコメディアンのように意図的な笑いを取る芸であって、身体障碍者ではあっても知的障碍者や精神障碍者では務まらない職であった。
 フランスの政治人類学者バランディエによれば、「(宮廷)道化師の性格は、醜さ、動物性、怪物性の側に属するのであるが、一方、身体の技によって彼の肉体そのものが言語となる。外見からすると、彼は正気の者とは思えない。しかし、彼は、彼一流のしかたで言葉を操る力をもち、言葉を道具としているのである」。(渡辺公三訳)
 つまり、宮廷道化師は小人症のような目に見える身体障碍のゆえに好奇の視線を浴びつつ、時には王をも茶化す不敬な話芸をもって人々を楽しませる免責特権を許された、小気味よい小悪魔的な存在だったと言える。
 こうした高度な能力を要する宮廷道化師の選抜訓練は厳正であったから、すべての身体障碍者が宮廷道化師になれたわけでないのはもちろん、宮廷道化師のすべてが身体障碍者というわけでもなかったようである。
 とはいえ宮廷道化師の地位は低く、記録も十分に残されていないが、宮廷道化師が最も古くから、しかも政治的にも重要な役割を担った中世フランスではフランソワ1世に仕えたトリブレという道化師がよく知られ、文豪ユゴーの戯曲『王は愉しむ』の題材にも利用されている。
 記録によれば脊椎側彎症だったと見られるトリブレは王の御前会議にも出席し、王に助言する政治顧問的な役割も負っていたとされ、単なる道化師を越えた重臣的存在にまで上昇していたようであるが、最後は王妃にまつわる冗談を禁ずる王命に違反したため、死罪は免れたものの、追放された。
 より成功した宮廷道化師としては、英国のヘンリー8世に近侍したウィル・ソマーズがいる。肖像画からすると小人症と見られる彼は、重臣や王妃をも安易に処刑する衝動のあった気難しいヘンリーを癒す存在として終生近侍し、その没後はヘンリーの二人の娘メアリー1世・エリザベス1世両女王の時代まで勤め上げ、無事引退している。
 こうした宮廷道化師とは別に、民間の道化師という職能もあったが、こちらは後に、曲芸を披露する軽業師などとも混淆し、近現代の見世物としての大衆芸能に発展していったと見られるが、これについては章を改めて論ずる。

コメント

不具者の世界歴史(連載第8回)

2017-03-21 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

英国王リチャード3世と身体障碍
 2012年9月、英国中世史上画期的な新発見があった。英国中部レスター市の駐車場地下から中世期の人骨が発見され、鑑定の結果、15世紀末の英国ヨーク朝君主リチャード3世の遺骨と断定されたのである。その法医学的鑑定は多岐にわたるが、本稿との関連で注目すべきは身体障碍の件である。
 リチャード3世と言えば、シェークスピアの代表作のタイトルロールとして知られてきたが、そこでも描かれているように彼は背骨が彎曲していたという伝承があった。発見された遺骨からも重度の脊椎側彎症の痕跡が認められたことで、伝承の真実性がほぼ裏付けられたのである。
 一方で、それは被服などで隠せないほどの彎曲ではなかったとも指摘されているが、リチャード3世を倒したテューダ―朝や同朝治下で活躍したシェークスピアによる誇張・脚色はあったにせよ、彼の障碍は後世にも伝えられた公然の秘密であり、身体障碍を持つ君主だったと言ってよいだろう。
 実在のリチャード3世は兄王エドワード4世が死去した後、兄の子で甥に当たる後継の少年王エドワード5世の摂政となりながら、策略をもって5世と幼い王弟ヨーク公リチャードの兄弟をロンドン塔に幽閉し、事実上のクーデターで王位を簒奪した野心的な人物である。
 その後間もなく、幽閉されていた兄弟は忽然と姿を消したことから、リチャード3世が兄の直系子孫を断絶させる狙いから二人を謀殺した疑惑がリチャード在位中から浮上していた。そのため、リチャード3世は生前から罪深い暴君との悪名が立っていたと見られる。
 リチャードの時代から100年以上後に書かれたシェークスピアの前記作品でも、そうしたリチャード3世=暴君説をベースに、リチャードをよりいっそう狡猾にして極悪非道な暴君として描写している。その際、シェークスピアは、以下のモノローグに象徴されるように、リチャードを自己の身体障碍に対する強いコンプレクスを動機として悪行を成す屈折した人格として提示するのである。

この俺は━美しい均整を奪い取られ、
不実な自然の女神のぺてんにかかり、
不細工にゆがみ、出来損ないのまま
月足らずでこの世に送り出された。
・・・・中略・・・・
どうせ二枚目は無理だとなれば、
思い切って悪党になり
この世のあだな楽しみの一切を憎んでやる。
(ちくま文庫版・松岡和子訳)

 このようにシェークスピアがリチャード王の身体障碍と極悪人性を結びつけた背景には、前回見たようなキリスト教的な障碍者の悪魔化が投影されていた可能性がある。今日であれば、このような題材の扱い方はいかに文学作品であっても差別的とみなされるところであろう。
 現実のリチャード3世の遺骨からはまた、戦場で負ったと見られる傷害の跡が見られ、とりわけ脳内に達した頭蓋骨損傷が致命傷となったものと解析されている。このことは、リチャード3世がボズワースの戦いで、後にヘンリー7世としてテューダー朝を開くヘンリー・テューダー率いる反乱軍に敗れ、戦死した史実とも合致する。
 このことはまた、リチャードが如上の身体障碍にもかかわらず、騎乗し戦闘する武人としても機能し得たことをも裏書きするが、同時に身体障碍が戦闘上ハンディーとなり、敵兵に狙われやすかった可能性をも示唆するであろう。
 いずれにせよ、リチャード3世は中世における悪魔化の時代の身体障碍者としては最も高い地位に上り詰めた人物として注目される。同時代人にとっても、彼の身体障碍は悪魔的というより、実力で君主に上り詰めた王位簒奪者のある種凄みとして認識されていたかもしれない。

コメント

不具者の世界歴史(連載第7回)

2017-03-20 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

教義宗教の障碍者観
 前章では、不具者が神秘的に受容されていた時代を見たが、それはおおむね先史から古代にかけての時代的特徴だったと言ってよい。このある意味では不具者にとって幸せな時代を終わらせる転機となったのは、教義宗教の発達という新現象であった。
 教義宗教とは、伝統的なアニミズムあるいはそこから発展した多神教の習俗的宗教に対し、特定の開祖を持ち、体系的な教義や戒律をもって信者を教化する宗教のことであり、その代表例が中東に発祥したキリスト教やイスラーム教、アジアの仏教などである。
 これらの教義宗教は、規範性を欠き、叙事的な性格が強い多神教的宗教とは異なり、あるべき完全な人間像を提示する規範性を志向するため、心身の健常さを欠く者に対しては必ずしも好意的ではない傾向があり、それまでおおらかだった人々の障碍者観にも大きな変化をもたらした。
 ただし、宗教教義は各宗教により、また細かくは各宗教内宗派によっても差異があるため、すべてを包括して議論することは不可能であり、上掲の代表的な三大宗教もそれぞれに障碍者観は異なっている。
 とはいえ、これら宗教の名誉のために予め言っておけば、どの宗教においても初めから意図的に障碍者を差別・排斥する教義を持っていたわけではなく、むしろ後世における後付け的な宗教思想が差別の根源を成している。
 このうちキリスト教では、中世において悪魔思想と結びつき、障碍者をサタンの子とみなしたり、悪行に対する神の審判の結果などと否定的に解釈するような差別思想が普及するようになった。中でも精神障碍者はまだ「精神障碍」という医学的な把握の仕方が想定外であった時代にあって、その一見奇矯な言動が容易に悪魔化される運命を回避できなかった。
 他方、仏教では因果応報の観念が障碍者差別の要因となったと見られる。障碍は前世での悪行に対する報いといった観念からすれば、障碍者は忌避すべき存在となり、その親族にとっても恥辱的な罪業ということになりかねない。
 もっとも、前章で見たとおり、古代の神話には生まれた障碍児を遺棄するというストーリーもまま見られるので、障碍児を忌避する風潮は古来なかったわけではないようであるが、障碍に対する否定的な意味づけが発達したのは教義宗教の普及以後のことである。
 これらに対し、イスラーム教教義は趣きを異にする。イスラームは因果応報に代表されるような輪廻思想やキリスト教的な原罪思想も認めず、あらゆる事象を神の意思にかからしめるという徹底した神意予定論であることから、障碍もまた神の意思によることであり、ありのままに受容すべきものとなる。
 このようにイスラームでは障碍が悪や恥と認識されることはないとはいえ、障碍者はイスラーム的な相互扶助の義務に基づき施しを受けるべきものとされ、必ずしも完全対等な扱いを受けていたわけではない。
 こうして、イスラーム教を除く二大教義宗教の普及は障碍者にとっては受難の時代―ここでは「悪魔化の時代」と規定する―を招来することになったと言えるが、このことは障碍者が完全に排斥されたことを意味するものではない。

コメント

農民の世界歴史(連載第35回)

2017-03-15 | 〆農民の世界歴史

第9章 南北アメリカの大土地制度改革

(2)ラテンアメリカの半封建的大土地制度

 スペインとポルトガルの侵略・植民によって形成されたラテンアメリカでも、当初は黒人奴隷がプランテーション労働力として使役されたが、奴隷制プランテーションはブラジルを除けば、定着しなかった。それはスペイン領で黒人奴隷が導入されたのは先疫病などで激減した先住民奴隷の代替手段であったところ、18世紀頃になると、先住民数が回復し始めたためであった。
 そうしたスペイン領―ラテンアメリカの大半―では、アシエンダ制と呼ばれる大土地所有制が立ち現れる。これは北アメリカでは絶滅対象でしかなかった先住民(インディヘナ)を主要な労働力として使用する農場経営の形態であった。
 その起源はいったん激減したため無主となった先住民の伝統的保有地をスペイン当局が改めてスペイン入植者に恩貸地として与えた一種の封土に由来するため、アシエンダ地主は裁判権・警察権まで掌握する封建領主的な存在となった。
 従って、その構造はプランテーションよりは中世の荘園に近い旧式のものであり、農奴的な零細小作人に耕作が委ねられた小作地と農業労働者を使用する直営地とから構成されていた。ただし、地主は現地不在のことが多く、いわゆる寄生地主的である点では近代的地主制度に近い面も備えるなど、複雑で過渡的な構制を持つ制度であった。
 19世紀に独立運動を担ったラテンアメリカ生まれの白人(クリオーリョ)らの多くもアシエンダ地主であったから、彼らが築いた独立諸国においてもアシエンダ制は当然温存され、近現代のラテンアメリカ農業経済の基層を成すこととなった。それは白人系の地主階級と先住民系の農民階級というかなり鮮明な階級格差構造を諸国に形成する要因となった。
 一方、ブラジルでは先住民が広大なアマゾンの密林で文明未接触の伝統生活を送っていた特殊性から、先住民を労働力として動員することが困難であったため、19世紀末までアフリカのポルトガル植民地から移入した黒人奴隷を使役する北アメリカ型のコーヒー栽培プランテーション(ファゼンダ)が構造化された。
 ファゼンダは奴隷制がようやく廃止された後も、改めて南欧やアジアから徴募した契約労働者を使用する形態に移行してなおも持続していった。ただし、ファゼンダにおいても地主は私的な裁判権・警察権を留保する封建領主的な性格を保持していた。
 こうしたラテンアメリカの大農場は19世紀後半以降、順次近代的プランテーションに更新されていくが、その階級的構造が本質的に変わることはなかった。そのため、20世紀に入ると、いくつかの国では革命ないしは革命に近い非常措置の形で強制的に改革の手が入るようになる一方、守旧勢力やその後ろ盾に座ったアメリカの妨害・反撃により失敗に終わるケースも少なくなかった。

コメント

農民の世界歴史(連載第34回)

2017-03-14 | 〆農民の世界歴史

第9章 南北アメリカの大土地制度改革

(1)北アメリカの奴隷制プランテーション

 広大な未開拓地が広がっていた南北アメリカ大陸では、全般に大土地所有制が定着しやすい傾向にあった。わけてもアメリカ合衆国は元来、開拓農民として入植した白人農場主が主導して建国されたとも言ってよい国であった。これら農場ではアフリカから移入された黒人奴隷を労働力として使役することが常態化していた。
 従って、アメリカ合衆国の建国はそれ自体がブルジョワ革命の一環でありながら、フランス革命が農奴解放を実現したようには、黒人奴隷解放は実現しなかったのである。とはいえ、建国以来リベラルな気風の強い北部諸州では19世紀初頭以降、順次奴隷制廃止が実現したが、南部諸州は奴隷制維持に固執していた。
 そのわけは、先住民(インディアン)を絶滅対象とし、労働力化しなかった北アメリカにおいて、南部諸州における主産業であった綿花栽培プランテーションでは奴隷労働力が不可欠であったからである。この南部プランテーションは19世紀に入ると、先住民の虐殺・強制移住により侵奪した土地の開拓により広大化していったため、いっそう奴隷労働力に依存するようなっていたのである。
 こうした農場奴隷は中世の農奴とは異なり、農場主によって所有され、売買もされる財産としての文字どおりの奴隷であり、その点では古代奴隷制の復刻版―再版奴隷制―とも言うべきものであった。かれらは労働搾取とともに女性は性的搾取にもさらされた。そして逃亡は奴隷警邏隊により抑止、処罰されるという過酷なものであった。
 なぜこのような粗野な反動的制度が近世の「新大陸」北アメリカで発現したのかは歴史の謎であるが、奴隷主=農場主となった白人開拓民たちの多くは英国を中心とした「旧大陸」ヨーロッパの無学な貧農・中農出自の移民であったことが関係しているかもしれない。
 ともあれ、19世紀半ばの合衆国は奴隷制廃止州=自由州と奴隷制護持州=奴隷州とに事実上分裂していく。1854年のカンザス‐ネブラスカ法は両者の妥協を図り、奴隷制の存廃を州の権利に委ねたが、これに反発して結党されたのが共和党であり、それを代表する人物がエイブラハム・リンカーンである。
 リンカーン自身も、ケンタッキー州の裕福な農場主一族の息子として生まれたが、自身はリベラルな法律家として反奴隷制論者となった。そんなリンカーンが大統領に当選したことは南北分裂を決定的にした。その後の南北戦争の経過は本稿論外となるため省略するが、この内戦で北部が勝利したことはアメリカ合衆国における奴隷制廃止を決定づけた。
 とはいえ、それは法的な廃止にとどまり、突如解放され、合衆国市民の資格を与えられた黒人たちに自活の経済基盤は何もなく、かれらは旧奴隷主の農場主の下で農奴的な小作人として貧困と人種差別にあえぐほかなかった。
 かくてアメリカ合衆国の奴隷制プランテーションは終焉し、近代的な大土地制度に姿形を変える。これはさらに第二次大戦中、農業労働力不足に直面したことを契機に、隣国メキシコの契約労働者を使用する形態の集約型家族農業に形態を変えていくことになる。その流れは戦後、公民権運動による黒人の第二次「解放」を経て定着する。

コメント

玉砕体制は不変

2017-03-11 | 時評

当ブログは東日本大震災・原発事故の同年に開始したため、震災と同じく満6年を迎える。すでに満5年の節目は昨年通過し、次の節目である満10年へ向けた5年間が始まっている。

この間、政権交代をはさみ原発固執政策は変わらず、さらに続くだろう。ほんのわずかの僥倖で日本の半分が汚染し、大量避難民が生じることを免れたにすぎない大事故を経験し、なおかつ今後も大地震の予測がいくつもスケジュールされている中で、なお原発固執を続けるやり方は敗色濃厚な戦争を継続した70年前のやり方と同じである。

原発固執政策を正当化する際には、必ず日本のエネルギー自給率の低さが持ち出されるが、そのような目先の経済的利益と人間の生命や環境の価値とを比較考量するという発想が全く欠けている。これは国土の狭隘さを持ち出して、「大東亜共栄圏」の名の下に日本領土を飛躍的に拡張しようとした侵略の論理と類似の発想である。そうした視野の狭い国家プロジェクトが破綻した場合の損害の測り知れなさはまさに視野に入らないのだ。

一度始めた大国家プロジェクトは止める勇気も知恵もない―。これが、戦前・戦後を通じた日本支配層の体質のようである。破局の予感を持たないわけではないが、その時は国民総玉砕すればよいという安易な終末論があるとしか思えない。不変の玉砕体制である。なぜそのような発想になるのか、単に無責任なのか、それとも玉砕を美風とする観念によるのか。

おそらく両方なのだろう。個が弱く、互いに持たれ合う体質のため責任を持って決断する主体も存在しない一方、いよいよ最期という時にみんなで玉砕することは日本人らしい終わり方だ、と。

そんな玉砕体制はご免こうむりたいと思う者にとっては、今後このまま日本に居続けるべきか、それとも海外に移住すべきかという至難の人生決断を迫られる5年間になりそうである。

コメント

不具者の世界歴史(連載第6回)

2017-03-08 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

盲目の吟遊詩人たち
 人類が神話に包まれていた時代にあって、記録に残りにくい被支配者層の障碍者の存在性の中で、唯一そのありようを垣間見せるのは視覚障碍者である。特に古代ギリシャにその実例が見られる。
 古代ギリシャにおける最高の芸術家であった吟遊詩人は、その多くが盲人であったとされる。中でも巨匠ホメロスである。ホメロスについては、その生存年代すら不詳とされ、実在性を疑う説も強く、その存在自体が伝説的であるが、伝承は一様にホメロスを盲人としている。
 そもそもギリシャ・東欧圏には「吟遊詩人は盲人である」というある種の定式が存在していたようであり、そうした定式の根拠になったのは、実際に視覚障碍者が生計の手段として吟遊詩人となることが多かったという社会的事実であったと考えられる。
 吟遊詩人とは卓上で詩を書く文学者としての詩人とは異なり、旅をしながら詩に節をつけて歌って聴かせる一種の楽師であり、旅芸人でもあった。ギリシャ語で吟遊詩人を意味するアオイドスの原意が歌手であるのは、そのことを示唆する。従って、アオイドスは全盲でも就くことのできる数少ない職業であったはずである。
 そうした社会的事実を基礎に、吟遊詩人=盲人の定式が生まれると、今度はそれが神秘化され、盲人には特殊な能力があるとみなされるようになった。実際、アリストトレスは視覚の喪失と記憶力とを結びつけている。たしかに吟遊詩人にとって、記憶は重要な能力であり、古代ギリシャでは盲目であることは詩人の絶対条件であるとみなす考えすらあった。
 一方で、視覚の喪失は予知能力やより深遠な洞察力といったある種の超能力と結びつけられることもあり、全盲の予言者もいた。また原子論で知られる哲学者デモクリトスがより洞察力を高めるべく自ら目を潰し失明したと伝えられるのも、そうした超能力論を信じた末の自傷行為だったかもしれない。
 ところで、盲人が吟遊詩人となる実例は日本にもあり、琵琶法師がよく知られている。その起源は琵琶の伴奏で経文を詠ずる中国の盲僧(盲僧琵琶)にあるとされるから、中国では視覚障碍者が僧侶となる習慣があったと見られる。
 こうした盲僧琵琶が日本に伝えられると、当初は地鎮祭や竈祓いなどで経文を詠ずる神仏混淆的な儀礼で活動したが、こうした宗教儀礼では盲僧が醸すある種の神秘性が大いに発揮されたのであろう。
 一方では、宗教性を喪失した世俗的な物語を弾き語りする潮流も生まれた。こうした「語りもの」という新ジャンルは経文を詠ずる宗教的な盲僧琵琶と比べ低級とみなされ、「くずれ」とも蔑称されたが、やがてここから平家物語を朗吟して回る平家琵琶が生まれる。
 こうして旅芸人化した琵琶法師は中世の日本において視覚障碍者が生計を立てられる数少ない職業の一つとして確立され、近世日本の独特な盲人階級制度である検校制度にも結びついていくが、これについては稿を改める。

コメント

不具者の世界歴史(連載第5回)

2017-03-07 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

障碍者王ツタンカーメン
 人類が神話に包まれていた時代にあって、実在の障碍者はどうだったのであろうか。残念ながら、庶民層の障碍者の存在性は記録に残りにくいものだが、支配者層となると記録がある。例えば、古代エジプトの少年王として著名なツタンカーメンである。
 ツタンカーメンに関しては、歴代エジプト王(ファラオ)の中でも異例の10代での急死の死因をめぐり諸説が提起されてきたが、21世紀に入るとミイラに対する医学的調査が進み、いくつかの新発見があった。
 一つは歩行障碍の可能性である。これはツタンカーメンの骨の検査から、彼の左足に重症のケーラー病(足舟状骨の血行障害から骨が壊死する疾患)の痕跡が発見され、足の変形と痛みから生前の王は歩行障碍に苦しんでいた可能性が出てきた。副葬品として出土した大量の杖も、儀仗ではなく、医療用杖であった可能性が高いとされる。
 それ以外にも、ツタンカーメンに関しては発作転倒を繰り返しやすい側頭葉てんかんや重篤な貧血、骨壊死を引き起こす遺伝性の鎌状赤血球症の可能性を指摘する所見も出され、これらも合併していたとすれば、少年王はかなり重度の障碍者・病者であった可能性も出てくる。
 そうした身体条件にもかかわらず彼が王に即位できたのは、能力より血統が優先考慮される世襲君主制の結果である。実際、もっと後世の諸国の君主制においても障碍者君主は輩出されている。
 ただ、古代エジプト王制では王家の純潔を守るという大義から兄妹間等での近親結婚が繰り返されたことで、先天性病者・障碍者が誕生する確率はいっそう高かったと考えられる。実際、ツタンカーメンは父アクエンアテンと同父母姉妹の夫人との間に生まれた子であったことが、ツタンカーメン生母のミイラのDNA調査から判明している。
 ちなみに父のアクエンアテンに関しては、その胸像やレリーフに描かれた王の体型に関し、長すぎる指、極端な面長・尖顎、腹部脂肪の膨張など独異な特徴が指摘されてきたが、従来は宗教改革者であった王自身も指導したアマルナ改革の一環としてのアマルナ美術の芸術的誇張と解釈されてきた。
 しかし近年、それらの体型的特徴を医学的観点からとらえ直し、遺伝性のマルファン症候群の兆候としてとらえ直す説が提起されている。また、アクエンアテンについても息子のツタンカーメンと同様、側頭葉てんかんの可能性を指摘する説もある。
 アマルナ美術は伝統的な様式美よりも自然主義・写実主義による傾向が強いとされていることからすれば、アクエンアテンはあえて自身の病気ないし障碍を隠さず、むしろそれを芸術的表現に混ぜ込ませることで、大改革を推進する自身の神秘化のために利用したとも考えられるところである。
 一方、ツタンカーメンの障碍が同時代的にどうとらえられていたかは不明だが、年少ゆえに父王のようなカリスマ性を持ち得ず、側近者に操られていたとはいえ、黄金マスクで飾られた少年王のミイラには同時代人の神秘化された敬愛が投影されているようにも見える。 

コメント

不具者の世界歴史(連載第4回)

2017-03-06 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

荘子の不具者観
 前回は神話の中の障碍者像を見たが、神話と思想の境界で独特の不具者観を示しているのが、中国古典『荘子』である。この書では、筆者とされる荘子の原典に最も近いと言われる「内篇」に収められた「徳充符篇」の中で不具者を話の中心に据えた逸話風の論が集中的に展開されている。
 ちなみに「徳充符篇」の一つ前の「人間世篇」でも、第七段で「支離疏(しりそ)」なる障碍者の逸話が見える。「支離疏」は人名というよりは、「身体的に支離滅裂な人」という趣意で、意訳すれば重複障碍者のことかと思われる。
 そのいささか比喩的に誇張された身体描写によると、彼は「顎がへその辺に隠れ、両肩は頭頂部より高く、頭髪のもとどりは天をさし、内臓は頭の上にきて、両腿は脇腹に当たっている」というまさに重度の身体障碍者である。
 「支離疏」は軍務や土木の徴発を免除され、病人への穀物や薪の施しも受けているが、自身は裁縫で生計を立て、米のふるいわけもこなして十人を養えるという今日的に言えば自立した障碍者である。逸話は、こうして身体的に不完全な者でも世間の害を受けず、身を養って天寿を全うできるのだから、その心の徳が不完全な者はなおさらのことだと結ぶ。
 この逸話を含む「人間世篇」はより世俗的な処世の秘訣を論じる節であるので、こうした自立した身体障碍者像を引き合いに出しつつ、健常的だが心の徳のない者でも安泰に生きていけるのだという励ましである。
 これに続く「徳充符篇」では、一歩進んで障碍者ながら有徳者の理想像がいくつも紹介されている。その典型例は、「徳充符篇」第五段に見える「闉跂支離無脤(いんきしりむしん)」と「甕盎大癭(おうおうたいえ)」の逸話である。「闉跂支離無脤」は背と足の曲がった三つ口の人、「甕盎大癭」とはごつい瘤だらけの人という趣意で、人名というより、前者は口蓋裂と身体障碍の合併者、後者はおそらく顔面腫瘍の障碍者像を示したものと思われる。
 荘子によると、前者は衛の霊公に、後者は斉の桓公に道(老荘哲学における「道(タオ)」)を説いたところ、両公はすっかり気に入り、それからは五体満足の普通の人を見ると、首が細く、弱弱しく見えるようになったという。その理由として、両障碍者は内面の徳がすぐれているため、外見の変異などは忘れられてしまうのだといい、世人は忘れてよい外見を忘れず、忘れてならない内面を忘れているが、これを真の物忘れというとして、世人の外見優位の価値観を痛烈に批判している。
 この逸話を含む「徳充符篇」とはまさに内面の徳が充実している人間のあり方を説く節であり、そうした人間の理想像として外見上は醜いと差別されがちな障碍を持つ有徳者の姿を逸話の形で紹介、説示しているのである。
 同様の趣旨から、「徳充符篇」では刑罰としての体刑によって身体障碍者となった者(兀者)の逸話が複数紹介されている。いずれも荘子最大の論敵である孔子を越えるような有徳者として描かれているが、第一段で紹介される王駘はその典型例であり、彼は「仮象でない真実を見究め、現象的事物に動かされることなく、事物の転変を自然の運命とわきまえ、現象の根本にわが身を置いている」超越者―老荘思想における理想者―として描写されている。
 さらに第四段では、「世界中をびっくりさせるほど」の醜男だという衛の人・哀駘它(あいたいだ)の逸話が見える。彼はそれほどに容姿醜悪でありながら、いっしょに住み込んだ男たちは彼を慕って離れようとしないし、一般には醜男に見向きしないであろう女たちですら、「他人の妻になるより、彼の妾になりたい」と父母にねだるというほどの人気者だという。
 また哀駘它はぼんやりして自己主張せず、他人に同調するだけなのに人望厚く、魯の哀公は彼を宰相に起用しようとまでしたが、彼は固辞して去っていった。こうした哀駘它の人物像として、逸話は孔子の口を借りるという筆法で、心の徳が外に現れない平衡感覚の体得者として説明している。
 このように、荘子はしばしば障碍者や容姿醜形者を有徳者として、ほとんど神秘化に近いほど理想化させた短い逸話を通じて論を展開することを好んだが、ここには外見より内面の徳に優位性を置く内面性の哲学・倫理学としての荘子思想の特色が認められる。
 しかし、これは同時代の古代中国にあっても必ずしも世間常識とは合致していなかったからこそ、荘子はとりわけ外面に儀礼的に表出される礼節の徳を強調する儒学―その視界に不具者はとらえられていない―に対抗する批判哲学として自論を展開しようとしたものと思われるのである。
 ちなみに、荘子思想をもその源流の一つとするとされる道教に傾倒していたと言われる日本の飛鳥時代の女帝・斉明天皇には建皇子〔たけるのみこ〕という言語障碍児の孫がいた。天皇は皇子の心が美しいことから溺愛し、彼が8歳で没した時は悲しみが深く、激しく慟哭したといい、皇子を偲ぶ歌も残している。
 公式史書『日本書紀』に記録されたこのエピソードも、荘子思想との直接的な関連性はともかくとして、幼い障碍児と女帝の心の交流を題材とした内面性の哲学・倫理学の表出例として読み解くことができるかもしれない。

コメント

「地球第一党」で対抗

2017-03-01 | 時評

ついに日本でも排外主義政党の誕生である。報道によると、先月26日、「ジャパン・ファースト(日本第一主義)」を掲げ、日本の国益・日本人の権利護持を呼号、在日コリアンら旧植民地出身者とその子孫の特別永住資格の廃止、移民受け入れ阻止、外国人への生活保護廃止などの政策を打ち出す新党・日本第一党が発足した。

海の向こうでは、一足先にトランプ政権が「アメリカ・ファースト」を連呼している。トランプ政権は形の上ではアメリカにおける伝統的な保守政党である共和党ベースの政権であるが、その主流派からも逸脱している政権は実質上「米国第一党」政権と呼ぶべきものと言える。

その他、欧州でも「自国第一主義」を掲げる政党は近年、モードとなっている。いずれも主張は似通っており、人種差別的な排外主義と偏狭な自国(民)優先主義である。ロシアのプーチン大統領の翼賛的政党「統一ロシア」も、実質は「ロシア第一党」の性格が強い。

近年の中国もかつての非同盟国際連帯を離れ、自国の「核心的利益」を追求する姿勢が強い点では、対外的には「中国共産党」ならぬ「中国第一党」体制に移行してきていると言ってよいだろうし、事実上の鎖国体制下で核開発に驀進する「主体主義」の朝鮮もまた然りである。こうした反米日的「自国第一主義」がまた、米日の「自国第一主義」を反転刺激する契機ともなっている。

このままいくと、これら主義の唱導者らが望むとおり、世界の主要国で「自国第一党」政権のオンパレードとなるのかもしれない。しかし、その行き着く先は? 「自国第一」ではそもそも外交は成り立たず、最終的に戦争で決着となるだろう。実際、トランプ政権は史上最大級の軍事費増大をぶち上げている。他の同類たちも例外なく軍備増強論である。

「自国第一」の最終極点は第三次世界大戦である。懲りない三度目の世界戦争となれば、今度こそ破局的な核戦争であろう。人類滅亡も映画の中の話ではなくなる。もちろん、「自国第一党」の幹部連は「御身第一」でVIP専用核シェルターに逃げ込み、生き延びる算段であろうから、幹部連とその子孫だけが生き延び、最終決戦に臨む。最後はその中の一強の子孫だけが生き残る。ただし、ほぼ自給自足で生きる絶滅危惧種の人類としてであるが。

映画的なシナリオを描くとすれば、「自国第一主義」の末路はこんな様子であろう。だが、希望がなくはない。「米国第一党」政権は、多くの米国民によって抗議され、反対されている。次の選挙でトランプが再選するかどうかは不透明である。一方、報道によれば、日本第一党の党員数は結党時点で約1600人、結党大会出席者は約270人という。初物にしては多いと見るか、少ないと見るか、いずれにせよ、大ブームとは言えまい。

こうした「自国第一党」の蠕動に対しては、ネガティブな批判にとどまらない「地球第一党」で対抗したい。批判する側も中途半端な形で「国益」とか「国境」といった概念を弄んでいては、勇ましくも単純な「自国第一党」に本質的に対抗することはできない。国家というそれ自体排他的な国民収容所制度を思想的に超克し、地球を束ねる世界共同体を構想する必要がある。

一方で、国境を越えた地球規模での金儲けに邁進する「グローバル資本主義」(グローバリゼーション)を運命として受容することも、反グローバル化運動を反転刺激し、「自国第一主義」というガスを発生させる要因となる。今世紀初め頃に盛んだった左派色の強い反グローバル化運動が退潮したのと入れ替わる形で現今の「自国第一主義」潮流に取って代わったことは必然である。

なお、「地球第一党」はそのような政党を実際に結党するという趣意ではない。「自国第一主義」潮流に対する一つの対抗視座の提示である。それは政党のようなそれ自体偏狭な徒党を組むことによってはとうてい実践することのできない包摂的視野を要する思考枠組みと言ってよいものだからである。

コメント