ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第41回)

2017-04-25 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(2)朝鮮半島における農地改革

 朝鮮半島における農地改革は第二次大戦後、日本の植民地統治からの解放後に本格化するが、建国が南北で異なる体制に分裂した関係上、必然的に農地改革も全く別の理念と枠組みで進められた。従って、農地改革においても分断の影響は著しい。

 その点、北朝鮮では当初から社会主義体制が樹立されたため、農地改革も社会主義的革命理念に沿って実行された。従って、これは本来「第8章 社会主義革命と農民」で扱うことが適切であったが、便宜上ここで触れておく。
 北朝鮮建国以来一貫して世襲的に支配権を維持する金一族は初代金日成の祖父の代までは小作人だったと見られ、元来農民出自であり、金一族体制はある種の農民王朝的な性格を持つ。そのためか、農業政策には建国以来、関心が高いと言える。
 ただ、ソ連の強い影響下に成立した北朝鮮農業政策の基本路線はソ連式の集団化であり、その路線に沿って急速な集団化が進められた点ではソ連や中国とも類似している。しかし、本格的な集団化の開始は朝鮮戦争休戦後、1960年代以降のことである。
 そこでは中国の人民公社制度にならった青山里方式と呼ばれる協同農場化が推進された。加えて、建国者金日成が提唱する「主体思想」を反映した「主体農法」なる食糧完全自給策が追求されるも、科学的な農法を軽視した高密度作付けや化学肥料の過剰使用などにより、元来農業適地が稀少な北朝鮮の農地は消耗が進んだとされる。こうした集団化の失敗はソ連や中国よりも深刻で、後に農村飢餓の要因ともなる。
 1994年の金日成没後も集団化の枠組み自体は不変と見られるが、その枠組み内で一定の農業改革が積み重ねられていることについては、続く章で社会主義的農業の改革を概観するに際して、中国との対比で改めて取り上げてみたい。

 これに対して、南の韓国では資本主義的枠組みでの自作農創設を目指した農地改革が積み重ねられたが、それは戦後日本のように占領下ではなく、樹立されたばかりの不安定な新興独立国によって内発的に行なわれたため、地主の抵抗や政情不安もあり、必ずしも容易に進まなかった。
 韓国の農地改革も米国の軍政下で着手されたが、韓国の米軍政は日本占領よりも一足早い1948年には終了したため、以後は最初の独立政府である李承晩政権に引き継がれた。1950年の農地改革法が根拠法律である。その基本理念は「小作禁止」ということにあり、有償土地分配を通じた自作農創設が目標とされた。
 ところが、同年に重なった朝鮮戦争は改革に水を差し、かつ戦時財源確保のために導入された臨時農地取得税は農地を取得した農民にとっては負担であった。結果、現物償還が奨励されるありさまであった。
 とはいえ、韓国の農地改革は戦争の苦難の中で実現され、従来の地主制はひとまず解体された。こうして小規模自作農の創設が成った点では日本とも共通するが、韓国では専業農家が多いこともあり、小規模農家の経営は容易でなかった。
 そこで、軍事クーデターで政権に就いた朴正煕大統領は60年代の干害による農村の困窮や高度成長下で広がった都市との経済格差の改善などを目指し、70年代からセマウル(新村)運動と呼ばれる農村振興策を打ち出した。
 これを通じて農家の所得増大を目指すとされたが、運動自体は長期政権を狙う朴大統領の全体主義的な統治の基盤強化という政治的な側面が強く、その具体的な成果については議論の余地がある。
 70年代後半頃になると、小規模農家が困窮や担い手不足から離農して農作業を第三者に委託する形態が増加している。これはある面から見れば逆行的な再小作化現象とも言えるが、農家が農地を貸し出している面をとらえれば資本主義的な借地農業の初発現象であり、受託者が資本企業化されればまさしく資本主義的借地農業制に展開していく芽を持っている。

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農民の世界歴史(連載第40回)

2017-04-24 | 〆農民の世界歴史

第10章 アジア諸国の農地改革

(1)戦後日本の農地改革

 社会主義的な農地改革が断行された諸国を除くアジア諸国の中で、最も早くに革命的な農地改革が実行されたのは、戦後日本である。しかも、それは内発的ではなく、主として米国主導の占領下で断行された「横からの革命」であったことに最大の特色がある。
 その点では、やはり戦後、ソ連軍占領下で断行されたドイツのユンカー制解体と類似した経過であるが、日本の場合は資本主義的な枠内で自作農を創設するための農地の再分配として純化されていたことも特徴的である。
 それ以前の日本の近代的農地制度は、明治維新後の地租改正を契機に急速に築かれた。すなわち、金納地租の負担に耐えられない小農民が土地を富農に譲渡して小作人に落ちていくケースが続出することで、江戸時代にはむしろ制限されていた大土地所有制が短期間で構築されたのである。
 ただ、大土地といっても狭い国土の日本では、ドイツのユンカーやラテンアメリカのアシエンダ地主のように自ら農場経営に当たるのではなく、地主は都市部に住み、小作料のみ徴収する不在地主型が多かった。
 不在・在村いずれにせよ、地主らが小作料に依存して生計を営む寄生地主制は戦前日本における農村の貧困の要因であり、戦後の占領政策においては、農地改革が最初に着手された改革策となった。占領軍による農地改革は二次にわたって実施される。
 その方法は、不在地主の全所有農地、在村地主の所有土地の相当部分を強制的に政府が買収し、小作人に廉価で譲渡するというものであったが、新憲法29条3項に「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と規定していながら、戦後のハイパー・インフレーションにより、地主からの買収は実質無償に等しくなり、結果としては社会主義的な農地改革に近い効果を持った。
 この改革は占領軍の超法規的な統治の下、1947年から50年までのわずか3年間で断行され、全土の小作地のほぼ80パーセントが小作人に分配された。これにより、従前の地主制度は解体され、戦後の日本農業は小土地家族農を軸とした自作農制に大転換されたのである。
 この過程は、あたかも明治維新後の地租改正後、急速に小農民層が没落していった過程をひっくり返し、今度は地主層が急速に没落していく結果となったので、実質においては「革命」と呼ぶに値するものであった。
 その経済的効果として、農村の生活水準は向上したが、実際のところ、農地の細分化により個々の農家の生産力には限界があり、兼業農家の増加、政府の保護政策による価格競争力の低下という構造問題を引き起こした。
 むしろ、日本の農地改革はその政治的な効果が大きく、土地を得た農民たちが持てる者の仲間入りを果たして保守化し、共産党のような革命政党の傘下を離れて互助的な協同組合にまとまり、戦後再編された新たなブルジョワ保守系政党の強固な支持基盤となったのであった。

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「上皇」の時代錯誤感覚

2017-04-22 | 時評

天皇の退位問題に関する政府の「有識者会議」の最終報告で提案された天皇退位後の呼称「上皇」には驚かされる。おそらく「有識者会議」とは正確には「有職故事者会議」の間違いだったに違いない。

まだ法案化されたわけではないとはいえ、恒例の結論先取り的なやり方からして、最終報告の線で法案化される公算は高い。もし「上皇」が誕生すれば、200年前の光格上皇以来の復古となるというのだから、時代錯誤も極まれりである。

上皇とは太の略であり、元来は天皇より上に位置する地位であった。初代の持統上皇は譲位した年少の孫・文武天皇の後見役として初めてこの職を創設し自ら就任、引き続き女帝として実権を保持していた(その経緯については拙稿参照)。これにより、不安定だった皇位継承制度を確実にしたのである。

このように上下二人の天皇が並存するような仕組みから、平安時代には院政のような二重権力支配の弊を生じたわけであるが、院政の代名詞である上皇を現代の象徴天皇制の時代に復活させる感覚は理解し難い。神権天皇制の明治憲法下ですら上皇は復活しなかったのに、象徴天皇制の時代になぜ上皇復活か。

今般の退位問題は、いかに会議の正式名称を「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」などとぼかしても、平成天皇の「定年退職」の可能性を開くための策として出てきているものである以上、院政のイメージの強い上皇はふさわしくなく、象徴天皇制に適合した策を考えるべきだろう。

最も端的なのは、特別な称号なしというものである。天皇を辞めれば平の皇族に戻る。それでは寂しいというなら、私案であるが、「先皇(せんのう)」「先皇后」という対語はどうだろう。前の天皇を「さきのみかど」と呼ぶことは古くからあったようであり、必ずしも新奇な表現ではない。まさしく先代天皇・皇后の呼称である。

もっと言えば、自ら天皇の地位を去るなら皇族ですらなくなるということが最も民主的だが、年金制度もないゆえに老後の生活問題に直面する。特別な年金や邸宅を公費で支給すれば、貴族制度の廃止を定めた憲法14条に違反する疑いも生ずるため、皮肉にも平等原則を守るために「先皇」「先皇后」は皇族として扱わねばならない。

不可解なのは、筆者の知る限り共産党のような革新野党も上皇復活論に特別な反応を示していないことである。幻の「野党連合」構想のために、天皇制をめぐる議論の矛も鈍っているなら、それは根本的な次元での時代感覚の緩みである。

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不具者の世界歴史(連載第15回)

2017-04-19 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

中近世日本の盲人組織
 中近世日本の障碍者の中で、視覚障碍者は特別な地位を持つようになっていた。いわゆる盲官の制度化である。その起源は9世紀、視覚障碍者を集めて琵琶や詩歌を教授していた自らも失明者の皇族人康〔さねやす〕親王の没後、近侍していた視覚障碍者らが盲官に任命されたことにあるとされる。その最高職を検校〔けんぎょう〕といった。
 さらに室町時代、足利一門でもあった明石覚一検校が幕府公認の盲人互助組織として当道座を創立したことで、視覚障碍者の組織化が進んだ。ただし、当道座は女性の加入を認めなかったため、女性視覚障碍者専用の座として瞽女〔ごぜ〕が組織された。
 こうした視覚障碍者の組織は楽器演奏を中心とする芸能組合的な性格が強く、欧米のフリーク・ショウほどの派手さや興行性はないものの、互助的な一種の職能組合として発達を遂げていった。特に当道座は検校を頂点に複雑な階級制をもって規律される日本的な身分制組織となる。
 ちなみに、映画『座頭市』で知られる座頭も当道座の上位階級の一つであり、まさに中世的職能組合である「座」の性格を反映した名称と言える。
 江戸時代には民衆統制の手段として、幕府は当道座を保護し、視覚障碍者の加入を奨励したため、座は隆盛を極めた。統率者たる検校の地位と権限は高まるとともに、階級の売買慣行により金銭腐敗も進んだ。また金融業務さえ認可されたため、武士相手の高利貸となる検校も現れるなど、当道座には当初の目的を越えた逸脱も見られた。
 もちろん、検校の中には本業である音楽や鍼灸で名声を博した「正統派」検校も多数いた。中でも独特の地位を築いたのは国学者となった塙保己一検校である。彼は検校となるに必要な素養である音楽や鍼灸などの本業が苦手だったため、やむなく視覚障碍者ではハンディーの多い学問の道に進み、そこで才覚が花開いた稀有の人であり、視覚障碍を持つ学者の先駆けでもあった。
 一方、瞽女は当道座のように幕府の公認を受けなかったため、地方ごとの民間芸能集団としての性格が強く、三味線演奏を中心に地方巡業の旅芸人一座として活動した。一部は地方の藩から屋敷の支給や扶持などの公的庇護を受け得た一方で、収益のためいかがわしい性的サービスに依存することもあったようである。
 いずれにせよ、こうした盲人の組織化は中世的な座の形態の限界内ではあれ、視覚障碍者が手に職を身につけ、生計を立てるための手段としてはほぼ唯一のものであった。それを幕藩体制が公認・庇護した限りでは、これも障碍者保護政策の先取りと言える側面を持っていたのである。

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不具者の世界歴史(連載第14回)

2017-04-18 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

芸人としての障碍者
 不具者が悪魔化された時代とまだ並行する形ではあるが、欧州では障碍者が娯楽としての見世物に動員されるような潮流が起きてくる。大衆芸能の誕生である。大衆芸能のすべてが障碍者によって担われたわけではもちろんないが、初期大衆芸能で、障碍者は重要な役を演じた。その中心は、重度身体障碍者である。
 例えば、イタリア人の結合双生児ラザルスとヨアネスのコロレド兄弟は欧州各地からトルコまでツアー活動をした。英国チャールズ1世の宮廷にも招聘されたかれらの活動はまだ大衆芸能として明確な形を取っていなかったが、かれらより少し後の世代になるドイツ出身の芸人マティアス・ブヒンガーは、障碍者大衆芸人の草分けである。
 ブヒンガーは生まれつき両手両足を欠く重度障碍者であった。そのような障碍にもかかわらず、彼は練達の手品師でもあり、カリグラファー(西洋書道家)、楽器演奏家でさえあった。彼は当初、北ヨーロッパの王侯貴族相手の芸人として活動した後、渡英し、ジョージ1世の御目見えを願うも実現せず、アイルランドに移って大衆芸能活動を開始したのである。彼はたちまち大人気を博し、時の人となった。
 ブヒンガーは重度障碍にもかかわらず、四回結婚し少なくとも14人の子を残したほか、多数の愛人との間にも婚外子を残したと伝えられるほど、私生活もまさしく派手なる芸人であった。おそらく現代まで含め、ブヒンガーは障碍者芸人として最も成功した人物である。
 こうした障碍者芸人をはじめ奇抜な見世物で大衆を沸かせるショウはフリーク・ショウと呼ばれるようになるが、フリーク・ショウの発祥地はテューダー朝時代の英国だったと言われている。その後、フリーク・ショウは資本主義の発達とともに、19世紀の英国と米国で隆盛化し、ショウ・ビジネスとして確立されていく。
 その時代のことは後に別の形で言及するが、こうしたフリーク・ショウに動員される障碍者は上述のように重度身体障碍者が多かった。これは、重度身体障碍者の外見が悪い意味で大衆の興味を引いたからにほかならない。
 その面だけを眺めれば、フリーク・ショウは現代的基準では人権上も人道上も許容できない障碍者差別的な興行と言えるが、障碍者福祉の観念もなく、まだ悪魔化の時代も去っていなかった状況下、それまではほぼ自宅に閉じ込もるか、最悪抹殺されていた重度障碍者たちにとって、大衆芸能は生き延びる手段であった。
 その意味では、フリーク・ショウは障碍者にとってはある種の「社会参加」の萌芽であり、それが隆盛化していく時代―見世物の時代―とは、障碍者を「保護」する次代への架け橋ともなるような新時代であったとも言えるのである。

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不具者の世界歴史(連載第13回)

2017-04-17 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

高貴な醜形者たち
 容姿の美醜評価は文化的な美意識の規準によるところが大きいとはいえ、当該民族集団の価値尺度に照らして明らかに醜形とまなざされる人間は、社会的には不具者に等しい扱いを受ける運命にあってきた。悪魔化の時代には、まさに悪魔とみなされたかもしれない。
 これについても、一般庶民の実例は記録に残らないため、何も語ることはできないが、ここでは歴史上記録に残された高貴な醜形者のうち、成功者と失敗者をそれぞれヨーロッパと日本の事例から二人ずつ取り上げてみよう。

 まずヨーロッパからは、いずれも大国の王妃の事例である。一人は、英国テューダー朝ヘンリー8世の四番目の王妃となったアン・オブ・クレーブスである。彼女はドイツのプロテスタント上流貴族の娘で、反カトリックの宗教改革を断行したヘンリー8世にふさわしい妃をという重臣トマス・クロムウェルの差配で嫁いできた。
 ところが、事前に宮廷画家ハンス・ホルバインに美しく描かせたアンの肖像画と食い違う醜形であったことに激怒したヘンリーにより半年で離婚となり、クロムウェルは責任を問われ処刑、ホルバインも追放という宮廷を揺るがす大醜態に発展してしまう。
 写真の発明がまだ遠かった時代ゆえの悲劇と言えるが、実際のアンはさほど醜形ではなかったとの証言、単に身勝手なヘンリーの好みに合わなかっただけという説もある。少なくともアンは性格は善良で、離婚後も死去するまで英王族として遇され、ヘンリー自身も罪悪感からかアンに所領と年金を保障して面倒を見たのであった。
 一方、スペインのボルボン朝カルロス4世の王妃マリア・ルイサ・デ・パルマは醜形を逆手に取って成功者となった。彼女も元来はさほど醜形ではなかったとされるが、度重なる出産と加齢により次第に容色が酷く衰えたとされる。
 実際、著名な宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤが手がけたマリア・ルイサの肖像画は王妃の肖像画としては異例なほど醜さを強調したものとなっている。マリア・ルイサは弱体な君主である夫に代わって宮廷を支配し、事実上女王のごとく傲慢に振舞っており、国民の評判は悪かった。
 ゴヤの筆致はそうした彼女の悪性格を率直に反映したものとも言われるが、マリア・ルイサ自身はゴヤの筆致に立腹するどころか、満足していたと言われる。自身の権勢への絶大なる自信からかもしれない。
 しかし、晩年のマリア・ルイサはナポレオンのスペイン支配に屈し、退位を強いられた夫とともに国外に亡命、フランスを経て、イタリアで客死する運命をたどった。

 日本からは、まず大成功者として豊臣秀吉が挙げられる。秀吉の容姿に関しては様々な説があるが、「猿」という有名な蔑視的異名からしても、醜形だったと考えられる。ある程度客観的な外国人による描写でも、ポルトガル人司祭ルイス・フロイスは、秀吉の容姿について「低身長かつ醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった」と記している。
 価値尺度の異なる外国人からも、秀吉は醜形とまなざされていたことになる。ちなみに六本指とは手足の先天性形状異常である多指症を示唆するものであり、これが真実とすれば秀吉は軽度ながら身体障碍者でもあったことになろう。
 とはいえ、日本人にとってはよく周知のとおり、秀吉はこうしたハンディーをものともせず天下人となり、全国の大名にその威令を行き渡らせたのであった。彼自身、「予は醜い顔をし、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と誇ったと伝えられるように、醜形を逆手にとって成功者となったようである。
 秀吉とは対照的に失敗者となったのは、徳川家康の六男松平忠輝である。彼は武将として有能だったが、終生にわたり父家康からその容貌を理由に嫌悪されたと言われる。その容貌とは、生まれた時、「色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげ」というもので、家康はそのために忠輝を捨て子扱いしたと伝わる。
 これは脚色まじりの中近世特有の大袈裟な悪魔化描写であり、信憑性は疑問である。ただ、伊達家との姻戚関係構築のため、幼い忠輝を伊達政宗の娘と政略的な幼児婚に供したのは、ある意味で「捨て子」であった。
 ちなみに、家康は同じく疎外した次男結城秀康が梅毒の進行で鼻が欠けてしまったのを付け鼻で隠しているのを知り、「病気で体が欠損することは自然であり、恥でない。武士は外見ではない。ただ精神を研ぎ、学識に富むことこそ肝要」と諭したと伝えられる。
 これは伝説的な逸話に近いが、「見目より心」の格言にも通じる武士道的な価値基準を示している。家康が別の息子の忠輝を容貌のゆえに疎外したとすると、逸話とも矛盾するので、忠輝疎外には他の理由があったのかもしれない。
 疎外されながらも、やはりプリンスであった忠輝は越後高田藩75万石の大大名に栄進しているが、家康死去の直後、兄の2代将軍秀忠によって大坂夏の陣の際の遅参等を理由に改易されてしまう。以後は長い配流余生を静かに送り、最期を諏訪で迎えるが、享年92歳は近世異例の長寿で、家康の男女多子の中で一番最後まで生き延びたという点では、忠輝は「成功者」だったのかもしれない。

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「遡及逮捕」と無罪推定

2017-04-16 | 時評

千葉県下で外国籍の少女が誘拐・殺害された事件は、地元小学校保護者会長氏が死体遺棄で逮捕されるという衝撃的事態に発展した。ミステリードラマ顔負けの思いがけない人物だったため、注目の高さはわかるが、現時点では「死体遺棄」の容疑にとどまっている。

最近の警察の殺人事件捜査として、このように時間的には後の死体遺棄容疑でまず逮捕し、取調べを経て本命の殺人罪で再逮捕するというやり方が常態化しているようである。これは別件逮捕とまで言えないが、本来一体的な殺人・死体遺棄を分割して、後ろの死体遺棄から遡っていくというややずるいやり方である。

業界的にどう呼ぶのか知らないが、あえて言えば時間的に遡る「遡及逮捕」である。おそらく本命の殺人容疑が固まっていないので、まず簡単な死体遺棄で挙げておいて、取調べで殺人を自白させてからおもむろに殺人罪で逮捕しようという算段なのだろう。その限りでは、別件逮捕の変則版とも言える。

そもそもすでに拘束した人を(釈放せずに)「再逮捕」するというのも手品のようで不思議な日本の慣例であるが―すでに留置されている人に改めて逃亡や罪証隠滅の危険は生じないはずだから―、それをおいても死体遺棄から遡るやり方は自白偏重捜査の名残ではないかと懸念される。

だが、もっと問題なのは、死体遺棄で逮捕されただけで早くも殺人の「犯人」と断じて、報道洪水を起こすメディア総体である。このような推定無罪無視の早まった犯人視報道は日本の犯罪報道の宿痾だが、いっこうに正される気配がないのはどうしてだろうか。

こうした報道悪習が数々の冤罪事件を生み出してきた歴史は、顧みられていない。冤罪確定の時だけ一転して「さん」付けでもって名誉回復報道をしても時遅すぎ、かつ白々しい。たとえ今回は冤罪でないとしても、推定無罪は全事件において貫徹されるべき例外なき鉄則である。

〔追記〕
千葉県警は5月5日、上述被疑者を殺人とわいせつ目的誘拐などの疑いで再逮捕した。ただし、本人は当初否認、その後は黙秘しているとされる。

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「ハンバーガー外交」を

2017-04-12 | 時評

朝鮮戦争危機をメディアで煽る専門家を称する人々には辟易する。専門家というなら、なぜ軍事衝突を回避するための知恵を出さずして、戦争シナリオばかり並べてみせるのか。

思えば、第三次世界大戦化の危険もあった朝鮮戦争が休戦して60年以上が過ぎ、戦争の惨状を知る人も少なくなった。当時を知る人なら、戦争危機を煽るような真似をしないだろう。戦争を知らないから、ゲーム感覚でシナリオを描いてみせることができるのだ。これこそが、本当の「平和ボケ」症状である。

その点、トランプ大統領は選挙中、朝鮮の金正恩委員長と“ハンバーガーを食べながら”核交渉したいと言っていた。また、プーチン大統領を好感し―その是非はともあれ―、対露関係改善を目指すことも事実上の公約だったはずだ。いずれにせよ、首脳の対話で危機を解決するのは良いことである。

もっと熾烈だった米ソ冷戦時代ですら、米ソ首脳が対話で危機を回避した事例は、キューバ危機(書簡外交)をはじめ数多い。冷戦終結直後、93‐94年の朝鮮半島危機でも、当時のクリントン政権はカーター元大統領を特使として派遣し、金日成主席(当時)と直接交渉して危機を収めた。

近年の首脳たちは友好国同志なら必要以上に「蜜月」を過剰演出する一方、敵対国相手となると直接対話を避け、互いに非難の応酬を繰り広げることが多い。為政者らもコミュニケーションが苦手な傾向にあるのかもしれない。

トランプの公約に良い点があったとすれば、首脳対話で解決しようとする姿勢の一端が見えていたことだが、どうもここへ来て撤回され、安易な軍事攻撃で事を済まそうとする流れが見える。早くも見えてきた政権の行き詰まり打開策だとすれば、あまりにもあざとい。

「ハンバーガー外交」、大いに結構ではないか。少なくとも、アメリカは正副大統領経験者級の特使を派遣して、説得に当たることくらいはできるはずである。

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農民の世界歴史(連載第39回)

2017-04-11 | 〆農民の世界歴史

第9章 アメリカ大陸の大土地制度改革

(6)コカ農民と山岳ゲリラ活動

 南米では儀式用途や薬用のコカの栽培が古来行なわれてきたが、スペインの支配が確立されると、労働効率を上げるため、高山病対策の効能があるコカ噛み風習が奴隷化された先住民間に植え付けられた。需要が増えることでコカ栽培も広がり、特に山岳貧困地域では栽培が盛んになった。
 中でもコロンビアは世界最大のコカ栽培地へと「発展」していくことになる。軍事クーデターが頻発しがちな南米諸国の中で古くから二大政党政が定着し、最も立憲的と評されるコロンビアがコカ大国となった背景にはやはり大土地所有の問題があった。
 コロンビアは「立憲的」であるがゆえに、大土地所有制に革命的なメスが入れられることはなかった。そのため、土地無し農民たちは未開拓の森林へ植民し、政府の権力も充分に及ばない環境の中で自給自足生活を補う換金作物としてコカ栽培が広がった。
 これはコカを麻薬のコカイン原料として買い取る麻薬組織との取引関係あってのことであるが、政府による麻薬組織撲滅作戦により組織が弱体化すると、今度は政治的なゲリラ組織が乗り出してきた。これがコロンビア革命軍(FARC)である。
 FARCは元来、キューバ革命に触発される形で1960年代初頭に結成された農民運動に出自し、マルクス‐レーニン主義に基づく革命政権の樹立を綱領に掲げていた。当初は決して大組織ではなかったFARCが90年代以降、急成長した秘訣が麻薬取引であった。
 FARCはコカ栽培農民への「課税」名目での強制献金や要人誘拐も盛んに行なって組織の資金源とし、2000年代に入ると数万人規模に膨張、政府との事実上の内戦状態に入った。
 しかし08年、結成以来のマヌエル・マルランダ最高指導者の病死を契機に弱体化し、12年以降和平交渉が進展、16年には和平合意が成立した。この功績から、時のフアン・マヌエル・サントス大統領は16年度ノーベル平和賞を受賞した。
 とはいえ、コロンビアの大土地改革は二大政党政が流動化した21世紀においても根本的には進んでおらず、ゲリラ活動を支えたコカ栽培農家の転換も課題である。
 類似の現象を経験したのが、隣国ペルーであった。ペルーでは先述したように、1960年代から70年代前半に軍事政権の枠組みでの「革命」により農地改革は進んだが、元来政府の権力が及びにくいアンデス山地の僻地は改革の恩恵に与ってこなかった。そうした中、この地域の貧農の間でもコカ栽培が広がっていた。
 これに目を付けて台頭してきたのが、センデロ・ルミノソ(輝く道;以下、SLと略す)を名乗る武装ゲリラ組織であった。この組織は軍政が終了した1980年、毛沢東主義を標榜するペルー共産党分派により正式に結成された。
 その最高指導者アビマエル・グスマンは元哲学教授という異色の履歴を持つ。SLは農民運動ではなく、コカ農村を庇護しつつ、戦略的拠点として利用しただけであったから、グスマンの個人崇拝とテロの恐怖で支配し、かえって農村を荒廃させた。
 1980年代のペルーはSLとの事実上の内戦状態であったが、90年に当選したフジモリ大統領は非立憲的な「自己クーデター」により強権を握り、SL壊滅作戦に乗り出し、92年にはグスマン拘束に成功、彼をペルー最高刑の終身刑に追い込んだ。
 2000年のフジモリ失権後、SL残党は一時的に盛り返すも、12年に残党指導者が拘束され、弱体化した。こうして、SLはFARCとは対照的に非立憲的・非平和的な手法によってほぼ壊滅された。とはいえ、山岳僻地の貧困問題の解消は未解決課題である。

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農民の世界歴史(連載第38回)

2017-04-10 | 〆農民の世界歴史

第9章 アメリカ大陸の大土地制度改革

(5)南米諸国の状況

 南米諸国も総体として大土地所有制がひしめいてきたが、農地改革の形態や進展度は国により様々である。ここではそのすべてを取り上げることはできないため、いくつかの代表的事例を挙げて概観するにとどめる。
 まず、南米地域ではメキシコやキューバのように革命を契機に国有化を軸とした農地改革が持続的に断行されたケースは見られない。例外として、南米唯一の英語圏に属する小国ガイアナで1970年代に製糖産業の国有化が実行された程度である。
 南米で比較的成功した農地改革は、端的な農地の再分配による自作農の創設というオーソドクスな形態のものである。中でも1952年から64年にかけてのボリビアは革命を契機としつつも、合法的な選挙によって形成された左派・革命的民族主義運動(MNR)の政権が農地改革を実行するという南米でも稀有の事例である。
 このMNR体制は64年にアメリカが糸を引く軍事クーデターで転覆されたが、農地改革の成果は保持されたため、その後ボリビア入りしたキューバ革命の共同指導者チェ・ゲバラの共産主義ゲリラ活動も農民層からは支持されることなく、反共軍事政権の掃討作戦渦中でゲバラが殺害される要因ともなった。
 さらに、ペルーで1968年軍事クーデターにより成立したべラスコ政権は軍事政権の枠組みながら社会主義に傾斜し、農地改革を断行した点で南米稀有の事例である。べラスコは先住民の権利を擁護するとともに、先住民=農民への農地分配を進め、「44家族国家」と揶揄された寡頭地主支配を上から解体した。
 しかし「ペルー革命」とも称された社会主義的な経済政策は成功せず、75年、病身のべラスコは軍部内右派によるクーデターにより失権した。さらに農地改革の恩恵を充分受けられなかったアンデス僻地貧困地域の農民は 後に毛沢東主義を標榜する武装ゲリラ活動の拠点とされるが、これについては次節で改めて言及する。
 一方、南米最大国ブラジルでも農地改革の動きがないではなかったが、その歩みは遅い。1960年代、クーデターで成立した軍事政権下で土地法が制定され、国家入植農地改革院が中心となって農業改革が進められたが、その重点は機械化などの合理化にあり、土地の再分配ではなかった。結果として、ブラジルでは大土地所有構造が温存されていく。
 紆余曲折をたどったのは、チリである。チリでは1960年代にまず穏健な再分配型の農地改革が開始され、70年に選挙で成立した成立のアジェンデ社会主義政権下ではより急進的な農地接収と国営農場の創設が目指されたが、アメリカが糸を引く73年の軍事クーデターはこうした社会主義化を反転させ、軍事政権は実験的とも言える市場主義改革に舵を切った。
 接収農地の返還が順次行なわれ、土地取引の自由化政策により農地市場が創設された。これに通じて、農業部門への資本企業の参入が促進されたのであった。その結果、チリ農業は世界に先駆けて農業企業を主軸としたアグリビジネスへの転換が進んだのである。
 チリでは「農民」はもはや消滅したというわけではないが、小規模農家として生き残った層を除き、農業市場化過程で農地を手放した土地無し農民は農業企業に雇われる賃金労働者に転化された。こうしてチリはまさにマルクス『資本論』が解析した農業の資本主義化プロセスの範例を示している。

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「非核諸国運動」の結成を

2017-04-08 | 時評

国連の核兵器禁止条約をめぐり、核保有五大国及びその追随諸国と非核諸国の対立が鮮明になってきている。五大国が参加しない条約は無意味との批判もあるが、条約の成否はこの際、関係ない。むしろこの機をとらえ、非核諸国は合同して非核を旗印とした「非核諸国運動」を結成すべきだ。

これは冷戦時代の産物としてすでに形骸化し切った非同盟諸国運動に代わる多国間運動として、21世紀的意義のあるものと思う。言わば、国連内野党勢力の結集である。世界を統合すべき国連が「与野党」に分裂するのは国連の失敗とも言えるが、失敗の中から未来の非核世界共同体を展望できる成功の石を拾うとすれば、非核諸国運動をおいてほかにはない。

この運動は首脳会議や外相会議などの正式な会議機能を備え、必要に応じて共同声明や国際紛争などに対する一定の平和的協調行動も取れる体制を備えることが望ましい。それらがセレモニーに終始しないためにも、各国の非核市民運動と連帯して、民衆との結合も図るべきだろう。

ところで、この運動において史上唯一の被爆国・日本はどちらの陣営に属するのだろうか。残念ながら、核兵器禁止条約の交渉への参加をボイコットした日本政府の立場は、核保有五大国の追随勢力側にあることになる。

これは公式標榜上「核廃絶」を唱えつつ、防衛政策上はアメリカの核の傘に依存するという表裏二重路線を採るからであって、その意味で日本は国としては真の意味での非核国ではなく、南太平洋非核地帯条約に参加しながらアメリカの核の傘に依存するオーストラリアなどと並び、「核傘下国」という新分類に包含される立場である。

しかし、ひとたび戦争となれば最も無防備な草の根日本国民のレベルでは、非核諸国運動とともにあるべきであろう。国策とはねじれが生じるが、憲法の平和的生存権がそれを支持する。だからこそ、改憲勢力は平和的生存権を憲法から削除しようと目論んでいるのだろう。「非核諸国民運動」も必要である。

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「自己責任」は死語に

2017-04-06 | 時評

「自己責任」なる用語はいつ頃から普及し始めたのだろうか。少なくとも、昭和の時代にはほとんど聞いたことがない。おそらく市場主義・脱福祉国家主義に傾斜した小泉政権時代の頃だろう。それにしても、曖昧模糊として徘徊する怪語とも言うべき言葉で、外国語への翻訳はほぼ不能と思われる。

もっとも、self-responsibility という英語がないわけではないようだが、定義を明確にした文献資料は見当たらなかった。それどころか、日本語の「自己責任」(jikosekinin)の英訳説明用語としている例すらあり、相当に日本独自の用語と見える。

強いて英訳すればself-help、もっと砕けばDo it yourself.ということになろうか。少なくとも、会見で大臣の責任を追及した記者を罵倒した復興大臣閣下が原発避難者に向けた際の「自己責任」はこの意味に解釈できる。すなわち、避難指示によらず自主的に避難した者たちは今後の生活を自助でまかなえというわけである。

しかし、「自己責任」は海外の渡航危険地域に自主的に立ち入った邦人が現地武装勢力に拘束・殺害された場合にまで拡大適用されるようになっている。これは明らかに用語の乱用である。思えば、このような用語の乱用も小泉政権下でのイラク人質事件が初発であった。

そもそも「自己責任」という用語が持ち出される場面に共通しているのは、人を保護・救済すべき公的責任を縮小・放棄しようとする狙いのある場合である。原発避難者の場合も、説得力を欠く一方的な安全宣言により避難指示を解除したことをもって避難者救援策を打ち切ろうとする局面で飛び出した言葉である。

「自己責任」をそういうエクスキューズの公用言葉だと受け止めれば、合点がいく。そうとすれば、少なくとも一般社会ではこのような怪語は使用を止め、死語にしたほうがよい。そして、「自己責任」を振りかざす無責任な公職者に対しては、公職者としての「自己責任」を取って、次回選挙で去ってもらうことである。

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不具者の世界歴史(連載第12回)

2017-04-05 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

「乱心」の徳川プリンスたち
 前述したように、日本でも精神障碍を「狐憑き」とみなすようなある種の悪魔化が広がっていたが、中世以降には主として武家法で精神障碍者を仕置き(監禁)するという一種の慣習法が現れ、これが近世江戸時代になるとしばしば大名統制の手段としても利用されるようになる。
 すなわち「乱心」(これ自体は江戸後期の用語という)は幕府が藩主を強制的に交代させたり、藩を改易したりする際の手段となり、また藩のレベルでも家臣団による一種のクーデターである主君押込の理由とされるなど、「乱心」が政治的な含意を持ち始めたことも特徴的である。
 そうした事例として、ここではいずれも徳川家康の孫に当たる徳川プリンスでありながら、「乱心」し、地位を追われた三人の大名について取り上げる。
 まずは2代将軍徳川秀忠の三男で甲府藩主徳川忠長である。彼は幼少年期には秀才をもって知られ、両親の寵愛を独占し、後に3代将軍となる同母兄家光のライバルとなった。家臣団も二派に分かれて対立したが、最終的には家光の強力な乳母春日局の家康直訴により家光後継で決着を見た。
 結局、忠長は甲府を安堵され、甲府藩主に収まるが、次第に異常な粗暴性を見せ始める。具体的には、家臣や近侍者に対する理由なき数々の残酷な虐待・殺害行為であった。
 時の将軍家光は忠長を諌め、更生のチャンスを与えるも、結局行状は改まらず、蟄居、改易、最終的に幕命による自刃という運命をたどった。この一件には忠長をライバル視する兄家光による政治的排除という解釈もあるが、長幼序関係から言っても将軍後継問題は既に決着済みであることや、家光が更生のチャンスも与えていたことに鑑み、病名はともかく、忠長の「乱心」は事実であったのだろう。
 次は、家康の次女督姫を母に持つ赤穂藩主池田輝興である。母方から家康の孫に当たる彼も元は聡明な英君であり、前領地の播磨平福でも、移封された赤穂でも政治手腕を発揮している。特に赤穂では先駆的な水道整備に尽力して名を残した。
 にもかかわらず、1645年突然発病し、正室ほか侍女ら奥女性ばかりを理由なく斬り殺すという行為に出て、わずか5日後に改易処分が下されたのである。結果として赤穂藩は後に赤穂浪士事件の元を作った浅野氏に渡ることになる。
 最後に、家康の次男結城秀康の長男松平忠直である。彼は父が安堵されていた福井藩主を若くして継いだが、藩主としての統治能力には欠け、重臣らの権力闘争を抑え切れず、1612年から翌年にかけて、いわゆる越前騒動を起こしている。
 しかし部将としては手腕を発揮し、大坂夏の陣では名将真田幸村を討ち取り、大坂城一番乗りの軍功を上げるも、論功行賞が芳しくなかったことへの不満から、反幕的態度に転じ、ついには叔父の将軍秀忠の娘でもあった正室勝姫の殺害を企てて失敗すると、今度は家臣を理由なく成敗するなどの粗暴性を見せるようになった。
 しかし、秀忠は忠直を改易とはせず、隠居を命じたうえ、九州の豊後府内藩預かりとする比較的穏便な処分を下した。論功行賞に不満を持った甥への同情もあった可能性があるが、家康直系御家門の福井藩を取り潰すことへの躊躇いもあったのだろう。
 ちなみに福井藩主の「乱心」事例はこれで終わらず、第6代松平綱昌も「乱心」で地位を追われている。彼は上記忠直の弟の子孫で、家康のやしゃごに当たる人物であった。彼もまた藩政が混乱する中、叔父から藩主を継いで間もなく、家臣を理由なく殺害するような粗暴さを見せたため、江戸に蟄居処分となった。ここでも福井藩の格式から、忠直の前例に従い、藩は改易されなかった。
 このように大名の「乱心」事例は家臣や家族など周辺者への突然の理由なき殺人という過激な暴力的形態を取ることが多く、武士の行動心理を含め、その正確な病態や病名に関しては精神病跡学的な検証の余地が残されているだろう。

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不具者の世界歴史(連載第11回)

2017-04-04 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

心を病む君主たちの苦難
 現代では為政者の在職要件として心身の状態が執務に適することを法で定めることが多いが、前近代にあっては世襲の君主制が圧倒的に多く、そこでは執務能力より血統が優先されたため、精神疾患を発症した君主を廃位することは容易でなかった。
 中世ヨーロッパではしばしば精神障碍に苦しむ大国君主が現れたが、いずれの治世も困難を極め―逆に、国難が精神疾患の発症・増悪にも作用したかもしれない―、国の歴史を大きく変える契機となっている。ここでは、そうした四人の君主を取り上げる。
 まずは「狂王」の異名を持つフランスのヴァロワ朝第4代シャルル6世である。シャルルは12歳ほどで即位したが、20歳を過ぎた頃から精神疾患の症状を示すようになった。年代記にはその異常な言動が多く記録されているが、自身がガラスでできているとか、自分を聖ゲオルギオスであるなどと錯認する妄想、自身や王妃の名前や顔を失念するといった記憶喪失、被害妄想による下僕への暴力などが見られる。
 シャルルの症状は改善と悪化の波を繰り返しながら、結局40年以上在位したが、当然執務は取れず、宮廷はブルゴーニュ派とアルマニャック派の二大派閥に分裂し、熾烈な権力闘争から事実上の内乱に陥った。
 それに付け込んでフランス王位を主張し介入してきたのが百年戦争の相手イングランドであり、時のイングランド国王ヘンリー5世はフランスを破ってシャルル6世の娘を娶り、フランス王位を認めさせることに成功した。
 ところが、ヘンリー5世は間もなく世を去り、後を継いだのが幼少の息子ヘンリー6世であったが、このヘンリー6世も精神疾患に苦しんだ。ヘンリーは温和な平和主義者であったが、30歳を過ぎた頃から統合失調症と見られる症状を示すようになり、内に閉じこもり、周囲の状況に反応できなくなった。
 ヘンリーの症状にも波があったが、彼もまた母方の祖父に当たるシャルル6世と同様、中断をはさみ40年に及ぶ長い治世の中で指導力を発揮できず、ランカスター派とヨーク派の内戦が激化した。政治の実権はマーガレット王妃に握られた末、英仏戦争にも敗れ、自身も内戦渦中で敵のヨーク派の手に落ち、廃位のうえ最期はロンドン塔に監禁され、死亡した。
 他方、大帝国を築く直前のスペインでは、「狂女フアナ」の異名を持つフアナ女王が知られる。彼女はスペイン王国の基礎となったカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の結婚で生まれたまさにスペイン誕生の所産であった。
 女王はハプスブルク家出身のブルゴーニュ公フィリップを王配としたが、美男子をもって知られた夫の浮気を契機に精神疾患の症状を示すようになり、夫の急死後に症状は悪化、夫の埋葬を許さず、棺を馬車に乗せて国内を流浪するような常軌を逸した行動を示したため、父により修道院に幽閉され、死去するまで40年以上を過ごした。
 ただ、フアナとフィリップの息子カルロス1世は1516年以降、母の存命中から共治の形で実質的に政務を取っており、強力な手腕を持つ彼の治下で「太陽の沈まない」スペイン大帝国が築かれることになる。
 このカルロス1世に始まるアプスブルゴ(ハプスブルク)朝スペインは17世紀まで続いていくが、その最後の王が1世と同名のカルロス2世であったことは歴史の皮肉であった。このカルロス2世には重複障碍があった。
 残された肖像画からも極端に顎の長いカルロス2世は先端巨大症と見られるほか、精神障碍に知的障碍も合併していたと考えられている。時の人はこうしたカルロスの重複障碍を悪魔化して「呪われたもの」と冷たくまなざしていたが、それを理由に廃位することはできなかった。
 カルロスはまともに執務できず、3歳で即位した彼の治世の大半を母のマリアナ王太后が摂政として政務に当たった。彼は二度の結婚によっても世子を残すことはできなかったため、死の直前の遺言により、ブルボン朝フランス国王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップに譲位するとした。これにより、フィリップがフェリペ5世として即位し、以後のスペインはボルボン(ブルボン)朝となる。
 しかし、このフランス主導の王位継承に異を唱えた本家のハプスブルク朝オーストリアは反仏派のイギリスやオランダを引き入れてスペイン‐フランスに対し、戦争を発動する。これが北アメリカをも舞台に1714年まで続いたスペイン継承戦争である。

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不具者の世界歴史(連載第10回)

2017-04-03 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

精神障碍という観念
 今日では、いわゆる心の病を指す用語として普遍的に用いられる精神障碍という観念は身体障碍と比べても、各文化によりその把握の仕方に相当の違いが見られる。例えば中国では伝統医学(中医)において、古代から精神疾患を身体疾患と関連づけた一つの病として治療の対象とした。
 また律令制では精神障碍者の犯罪行為に特別の規定が置かれ、日本初の律令法典・大宝律令及びそれを継いだ養老律令にも精神障碍者による犯罪の減免に関する規定が存在するなど、意外にも近代を先取りするような処遇が定められていた。
 古代ギリシャにおいては、西洋医学の祖ヒポクラテス名義の著作に精神疾患に関する記述が見られるとともに、社会的にも精神疾患を神がかったインスピレーションの表出としてポジティブに見ようとする傾向があった。
 こうしたギリシャ的観念は古代ローマにも継承されたが、キリスト教はここでも悪魔化を行なっている。すなわち精神障碍を悪魔に取り憑かれた状態と解釈し、医学より道徳の問題として把握して精神障碍者を迫害の対象とするようになった。正確な統計はないものの、中世ヨーロッパで隆盛化する異端審問や魔女裁判では少なからぬ精神障碍者が誤審の犠牲になったと想定される。
 この時代も精神障碍に対する「治療」が否定されていたわけではないが、それはヒポクラテスに始まる古代ギリシャ医学の「四体液説」をベースとした非科学的な理論に基づくものにとどまっており、また多分にしてキリスト教的な解釈が加えられていた。
 こうして教義宗教の発達は精神障碍に関しても悪魔化を助長したが、イスラーム教ではいささか事情が異なる。イスラーム圏ではギリシャ医学が取り入れられるとともに、独自の医学理論が発達し、8世紀初頭のバクダッドを皮切りとして中東各地に精神医療施設が開設された。
 それらは近代的な意味での病院ではなかったとはいえ、施設では薬物療法のほか、水浴療法、音楽療法、作業療法など近代的精神医療を先取りするような取り組みがなされ、中世イスラーム圏は精神医療の先進的地域となったのである。
 ちなみに、日本では律令制が崩壊した平安時代頃より精神障碍を「狐憑き」とみなして加持祈祷の対象とする傾向が全国的に広まり、また中世以降、精神障碍者を「仕置き」するような慣習法も現れた。ある意味では近代先取り的だった古代より後退したとも言えるが、この背景には神仏習合的な独特の形で発達した日本仏教の影響が伺える。
 なお、広義の精神障碍には知的障碍も包含されるが、知的障碍という概念把握の歴史は浅く、17世紀以降のことであり(後述)、それ以前の知的障碍者はその程度に応じて愚か者や半人間ないし動物扱いされ、重度者は施しの対象とされるばかりであった。

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