ザ・コミュニスト

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普通選挙を巡る古くて新しい疑問

2024-11-07 | 時評

今日、民主主義を標榜する諸国では、一般国民も平等に選挙権を持つ普通選挙制度が定着しているが、普通選挙制度が確立される以前、普通選挙という考えは過激思想とみなされていた。反対論の有力な根拠の一つは、一般大衆に果たして政治判断力があるのか、だった。

今日ではこれは時代遅れの古い疑問とみなされるが、今般のアメリカ大統領選挙の結果を見ると、SNSやAIが駆使される選挙過程の電子化という現代的な状況の中、改めてこの疑問が浮上してくる。

※アメリカ大統領選挙では、一般投票の結果を直接には反映しない各州選挙人を通じた間接選挙制という古風な選挙制度が護持されているが、今回は一般投票でもトランプが勝利している。

実際、部分的な政策ばかりでなく、人格識見や言動を含めた総合評価では二大候補のどちらが21世紀の第二四半期を始める合衆国大統領によりふさわしいかは明らかと思われたが、アメリカの多数派有権者は34件もの罪状により刑事陪審裁判で有罪評決を下された人物を大統領に返り咲かせた。

※2016年のヒラリー・クリントン(vsトランプ)に続いて、女性大統領を再び拒否した意外なほど保守的なアメリカ人気質も影響したと思われるが、ここではそうしたジェンダー論は保留する。

SNSやAIが駆使される電子化された選挙過程では、人格識見や品格ある言動はもはや優先的判断基準とならず、インターネットを通じた派手なプレゼンテーションに長けた扇動者が従来にも増して当選しやすいことがはっきりと証明された。

とりわけ、「嘘」が重要なプレゼン手段となったことが恐ろしい。「嘘」を活用する選挙戦略としては戦前のヒトラーとナチスという巨大な先例がすでにあるが、電子化選挙の時代には、「嘘」はより大きな効用を持つ。

候補者や陣営、支持者に加え、特定候補者の当選を望む外国政府までが繰り返し、たゆみなく電子的な手段で「嘘」を発信・拡散させれば、それが選挙過程では「真実」にすり替わり、ファクト・チェッカーたちが奮闘しても、もはや是正は効かない。カントがいかなる理由があろうと絶対的に許されないという厳格な道徳律を立てた「嘘」が、選挙過程では最も有効な戦術的手段となってきたのである。

これは、世界各国の野心的な選挙候補者・政党への激励となり、今後、世界中で模倣され、「嘘」戦術が世界に拡散するだろう。もはや、普通選挙制度は民主主義を保証しないどころか、民主主義を危うくすると断じても過言でない。

世界で最も歴史の長い民主主義の信奉者であったはずのアメリカ有権者が、事前予想の僅差ではなく、明確にアメリカン・ファシズムを選択したことが何よりの証拠である。同時に、この選択はトランプに象徴されるような資本家・経営者層が伝統的な政治献金を介さず、自ら直接に政治権力を掌握する資本至上主義をも反映している。―全く自慢にならないが、筆者はトランプ一期目の終了時点で、復権を半ば予見していた(拙稿)。

もっとも、トランプ政権は既に一期経験済みであるが、―筆者はトランプの初当選前からアメリカン・ファシズムを警告していた(拙稿)―第一期トランプ政権はまだ試運転的であったうえに、終盤ではコロナ・パンデミックという思わぬ災難に見舞われ、十分には展開できなかった。二期目は、たたき台となる右派系民間シンクタンクによる綱領文書も存在しているから(トランプは無関係を強調するが)、イデオロギー色が一期目より強まると予想される(拙稿)。

しかし本来、自由主義に基づく民主主義を支柱とするアメリカ合衆国憲法にファシズムの余地はない。但し、それは憲法が定める古典的な三権分立が機能する限りにおいてである。但し、それも大統領が就任式の宣誓文言どおり合衆国憲法を順守することが前提である。この二重の「但し」が担保される限り、アメリカではファシズムは不可能である。

ところが、一番目の「但し」は、上下両院を共和党が征する見込みとなったことで議会による大統領の監視と牽制は期待できなくなっている。司法による審査と抑制についても、すでに第一期にトランプが送り込んだトランプ政権に忠実な連邦最高裁判所・連邦下級裁判所の超保守派判事と二期目でも送るであろう同様の超保守派判事の存在により、機能しない。一番目の「但し」が崩れれば、二番目の「但し」も形骸化する。よって、アメリカン・ファシズムは現実化する余地を獲得している。

もっとも、ファシズムになっても、連続か返り咲きかを問わず、大統領任期を二期八年に制限する憲法修正第22条により、四年間の期間限定ファシズムではある。但し、これも、トランプ再選大統領が憲法を守って四年で退任した場合のことである。憲法に違反して政権に居座ったり、1951年に制定された比較的新しい修正第22条を廃止する憲法再修正を断行し、任期制限を撤廃するなら、「トランプ終身大統領」さえもあり得る。トランプ崇拝の支持者の中にはそれを望む熱狂者もいそうである。

そのようなことが起こらなかったとしても、ファシズムの四年はアメリカの自由主義・民主主義を破壊するのに十分すぎる年月である。今後、カナダや英国、オーストラリア等、よりましな英語圏への「自主亡命者」が続出するかもしれない。

繰り返せば、現代の電子化選挙過程は民主主義を保証しない。それどころか、民主主義を破壊する危険に満ちている。2024年アメリカ大統領選挙は、アメリカに限らず、選挙過程の電子化が進む日本を含めた諸外国に対しても重大な警告となった。

最後に我田引水。これからの民主主義は「嘘」戦術に左右される一般投票ではなく、代議員としての適格性を証明された代議員免許を持つ者の中からくじ引きで選ばれた代議員によって構成される民衆会議を軸としたものでありたい。

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ハング・パーラメント

2024-10-28 | 時評
節目となる日本の今般第50回衆議院総選挙をめぐっては、自公連立政権の2009年以来の過半数割れということが強調されているが、自民党を第二党に落とし、完全に下野させた2009年と、比較第一党には残した今回とでは大きく異なる。―蛇足であるが、2009年の自公連立政権大敗時の麻生内閣には石破首相も農水相として入閣していた。自公敗北に縁の深い人のようである。
 
今回は過半数を取った政党が一つもないいわゆるハング・パーラメント(hung parliament)の状態であり、しかも、野党が多岐に断片化されており、このままでは特別国会の首相選出選挙でも過半数を取れる議員がおらず、首相が容易に決まらない事態となりかねない。与野党ともに、複雑な連立工作もしくはそれに準じた閣外協力工作は必至の状況である。
 
類似の先例としては、1993年の第40回衆議院総選挙がある。この時は、連立工作の結果、タケノコのように現れた新規政党の一つであった日本新党を率いた細川護熙を首班とする非自民八党派連立政権が発足したが、一年と持たず瓦解した。にわか仕立ての多党連立政権では必然である。奇しくも、1993年総選挙で日本新党から立候補、初当選したのが立民党の野田代表であった。
 
細川政権の短期挫折を当事者として渦中で目撃・体験した古参の証人ならば、にわか仕立てでなく、事前に入念な野党連合を組んで選挙に臨んでもよかったはずであるが、そうはせず、完全なハング・パーラメントを作り出してしまったのは、いささか不可解である。
 
その点、相対的に最も民意を精確に反映する比例代表選挙が基本の欧州大陸諸国では連立政権が常態であるから、連立予定の政党連合を組んで選挙に臨むことは与野党を問わず政治慣習であるが、まさに細川政権唯一の“成果”である小選挙区制を基本とする現行選挙制度は民意を精確に反映しない一人勝ち選挙であるから、事前の連合選挙は―慣例化した自公連合を別にすれば―、政治慣習とならない。それゆえ、レアケースとして完全なハング状態が生じると、たちまち政治空白が生じることになる。
 
ともあれ、自民党を完全に下野させなかった今般総選挙は、自民党が結党された1955年以降の日本の有権者が―2009年を例外として―自民党を諦め切れず、その心が世代を超えて依然自民党とともにあることを改めて示した。1955年以降に誕生した日本人は、生まれた日も、今日も、そして死ぬ日も自民党政権という人が圧倒的に多い。
 
このような主流的日本人の保守一辺倒の政治心情―「信条」ではない―は、筆者のようなマージナルな日本人にはなかなか理解し難いところであるが、原爆投下の加害国・アメリカへの変わらぬ親近感とともに、社会精神分析のよい対象たり得るだろう。
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安直な人道主義は非

2023-10-19 | 時評
ガザ地区を支配するイスラーム武装組織ハマースに対するイスラエルによる地上進攻作戦が準備される中、国内外のメディアでは、作戦の対象地域となるガザ北部からの退避を強いられる大量の避難民に関する情緒的な報道が目立ち始めている。それにつられて、イスラエルの作戦に対する批判も強まっているようである。
 
しかし、今回に限っては「イスラエルによるパレスティナいじめ」という従来の構図はあてはまらなくなっている。今回の事の起こりは、ハマースによるイスラエル民間人を狙った無差別軍事攻撃による大量殺戮(現時点での死者1400人超)と200人を超すと見られる一般市民の大量拉致にあるからである。言わば、パレスティナ側が虎の尾を激しく踏みつけ、虎を挑発したことが発端である。
 
このような事態はイスラエルの打倒とイスラーム国家の樹立を掲げるイスラーム武装勢力ながら一定の合理主義を保っていたハマースがここへ来て一挙に狂信主義的な顔をさらけ出したものであり、言わばハマースがパレスティナの地域自治勢力を脱して2010年代に中東を席巻したイスラーム国(IS)のような狂信的過激組織に飛躍したことを示している。
 
このような状況で安直な「弱い者いじめ」の構図によってイスラエルを非難することは今般のハマースの攻撃に快哉を叫ぶ反ユダヤ主義者と共振し、図らずも合流してしまう危険を内包しており、世界各国で反ユダヤ主義の蠢動を促進することになりかねないことが懸念される。
 
イスラエルの地上進攻作戦を止めるには、まずはハマース側に人質の解放を求めることが先決であろう。そのうえで、ハマースに自発的な投降と武装解除を促すことである。それらが順次実現されれば、ハマース殲滅を目的とするとされる地上進攻作戦の意味も失われるからである。
 
ただ、ハマース側もイスラエルの強力な反撃と進攻を見越して攻撃をしかけており、入念な準備の上、ユダヤ人捕囚と「自国」側のパレスティナ住民を盾に利用して迎え撃つ構えと見られるので、おそらく上掲いずれの要請にも応じないだろう。一方、イスラエル側が大局的見地に立って苦戦が予想される地上進攻作戦を自ら中止するならば結構であるが、対パレスティナ強硬派の現政権にそのような敗北主義的方針転換は期待できそうにない。
 
このような手詰まりの状況では、イスラエルに対して、地上進攻作戦に伴うガザ地区民間人の被害を極最小限度に抑制する技術的な工夫を要請できるのみである。関連して、地区南部に集中している大量避難民の保護は特定の周辺国ではなく、世界各国で分担して引き受けること以外に解決策はないだろう。
 
また、すでに今般の事変前から形骸化していた人種隔離的なパレスティナ自治区の存続を求めることも無益である。事変前、すでに人口が過密化し、人間的な生存に適しない狭隘な環境に陥っていた自治区を原状回復的に存続させても、本質的な問題解決にはならないからである。*ただし、今後想定され得るイスラエル軍によるガザ地区占領統治は恒久的なものでなく、作戦遂行のための技術的かつ作戦終了後の権力の空白の補完及び地区再建のための期間限定的なものにとどめることも要請される。
 
前回記事でも言及したとおり、これまでにないブレークスルーとなる全く新しい領域共有の構想が求められている。ただ、ここでも「思想氷河期」という思考の壁が立ちふさがるかもしれない。革新的な思想の創出が停滞し、古い教科書や先例を参照するだけの安直な思考法が世界にはびこっているからである。
 
 
[追記]
7日のハマースによる大規模軍事攻撃から半月余りを経た現在(24日)、イスラエルの空爆によるパレスティナ側死者はすでに6000人超となり、イスラエル側の確認済み死者1400人の倍返しをはるかに超えてきた。このあたりでいったんイスラエル側が攻撃を停止し、人質解放交渉を優先するという選択肢もあり得るように思われる。
 
[追記2]
イスラエルは、「戦争の第二段階」として、地上部隊の投入による限定的な地上戦を開始した。ハマース側が人間の盾として利用する人質の全面解放には応じる見込みがないことを踏まえて、作戦拡大を決断したものと見られる。これに先立ち、国連総会は27日、人道的な観点からの休戦を求める決議を採択したが、中途半端な休戦では現在の人道危機を解決できず、かえってハマース側に態勢立て直しの機会を与え、第二弾の攻撃を許す危険がある。これも安直な人道主義の戒である。
 
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パレスティナ自治の終焉と展望

2023-10-09 | 時評
パレスティナ・ガザ地区を支配するイスラーム武装勢力ハマースによる7日の大規模なイスラエル軍事攻撃は、パレスティナ自治の創始に至った1993年オスロ合意からちょうど30年の節目に自治を終わらせ、なし崩しの形ですでに形骸化していた同合意を事実上失効させる最終的な契機になると言えそうである。
 
今般攻撃によりイスラエル建国史上最多という民間死者を出したことで、イスラエル側が倍返しの報復的軍事行動に出ることは確実で、また元凶であるハマースを完全に解体するにはガザ地区の軍事占領も必要であろうことから、二つの自治区のうち少なくともガザ地区に関しては自治は終焉することになるだろう。
 
このような結果は、およそ抵抗運動・革命運動における強硬派がはまる逆説的な陥穽とも言える。相手に打撃を加える軍事攻撃のような強硬手段はかえって相手方の結束を促し、強烈な反撃の機会を与えるからである。その点では、アル‐カーイダによる9.11事件後、米国の報復作戦によりアル‐カーイダが事実上壊滅した状況と似ている。まさに墓穴を掘るとはこのことである。
 
実際、イスラエルではネタニヤフ首相の汚職疑惑や汚職裁判を議会が帳消しにすることをも可能にする司法改悪策を含む改憲策動に対して民衆の抗議活動が激化していたところ、今回の攻撃でこうした抗議活動は吹き飛び、かえってネタニヤフ政権への挙国一致の支持を強め、今般の軍事攻撃を抑止できなかったことへの批判は提起されたとしても、対ハマース壊滅作戦への国民的支持も確実である。
 
現ネタニヤフ政権はユダヤ教超保守派も参加する保守・極右連立政権であり、ガザ封鎖措置の継続やもう一つの自治区であるヨルダン河西岸地区へのユダヤ入植地拡大政策などにより、パレスティナ自治を形骸化させてきた元凶でもある。そのことが今回のハマースによる攻撃の背景でもあるが、ハマースの強硬策によりかえってこのような問題政権の支持基盤を強化することになる。
 
さしあたり穏健派ファタハが支配するヨルダン河西岸地区の自治は存続するが、こちらもユダヤ人入植地拡大政策による浸食によって風前の灯であるので、すでに形骸しているパレスティナ自治は両地区を通じてほぼ終焉に向かうと見てよい。その結果、イスラエルとハマース及びその周辺支援勢力との戦争が激化するかもしれない。
 
このような結果はイスラエル・パレスティナ双方での宗教反動勢力の台頭と激突によるものであるが、そもそもはイスラエル国内の狭い地区にパレスティナ人を囲い込むという隔離政策(アパルトヘイト)を内容とするオスロ合意に内包されていた無理が30年を経て明確に表出されたものであり、このような合意はノーベル平和賞に値するようなものではなかったのである。
 
今後の最も暗い展望は、今般軍事攻撃の背後にあってハマースを支援していたともされるイランに対してイスラエルが矛先を向けることで戦線が拡大し、1970年代以来の「第五次中東戦争」に発展することである。ただし、従前の中東戦争当時とは異なり、周辺アラブ諸国はイスラエルの存在を容認する方向にあることから、戦争の性格や規模は異なるものとなるだろう。
 
明るい展望は、双方に痛みをもたらす今般事変を機に、イスラエルとパレスティナの民衆同士の連携が進み、両民族が一つの領域を共有し合うような革新的な統治のアイデアが誕生することである。その点、筆者は以前、イスラエルとパレスティナの両民族が一つの領域を共有する体制(仮称:南部レバント合同領域圏)を未来的に予示したことがある(拙稿)。
 
砲弾が飛び交う現時点では空想として一笑に付されかねない私案であろうが、あらゆる戦争の最大契機となる排他的な主権国家という観念から自由になれば、こうした領域共有論も空想ではなくなるのである。さすれば、排他的主権国家内に隔離的自治区を設ける策のほうがよほど空論であったことが理解されるだろう。
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地球沸騰時代と思想氷河期

2023-07-31 | 時評
全世界に及ぶ現下の記録的猛暑に対して、国際連合のグテレス事務総長は、もはや地球温暖化ならぬ「地球沸騰の時代(the era of global boiling)」が到来したと評した。これは、気候変動の新たな段階が国際的に宣明されたものと読むことができる。
 
しかし、そうした新段階に立ち向かう思想の貧困さは、沸騰どころか氷河期のレベルにある。国連当局者も含め、世界の主流の頭の中は相変わらず、資本主義一色である。資本主義的な経済成長率が絶対的な経済指標として幅を利かせている。
 
地球沸騰への危機感と経済成長礼賛のどちらがかれらの本心なのか。間違いなく後者だろう。しかし、経済成長を礼賛しながら「地球沸騰」を大袈裟に高調するのは自己欺瞞である。まさにそうした経済成長至上思想が地球沸騰をもたらしている大本だからである。
 
「地球温暖化」の時代に風靡した「経済成長と環境保全の両立」という聞こえの良い中和テーゼも、「地球沸騰」の時代にはもはや無効である。「地球沸騰」を鎮圧するには環境に配慮した計画経済(言わば環境共産主義)への全世界的な移行以外に本質的に有効な選択肢は存在しない。
 
「地球沸騰」の新段階では、そのような決然とした考えが大きく台頭することが望まれるが、楽観はできない。本質的・根本的に思考しようとする人間の思考習慣が衰え、既成の表層的な思考で済まそうとする惰性的な思考習性がはびこっているからである。熱心な環境活動家でさえ、その大半は資本主義市場経済を信奉し、共産主義計画経済は想定もしない。まさに思想氷河期である。
 
思想氷河期はソ連邦解体以降、過去30数年にわたり拡大されてきた精神現象であるので、これを簡単に打破する方策はない。あるとすれば―決して望まれることではないが―、「地球沸騰」が一層過熱して「地球燃焼」にまで進展―すでに地中海域では燃焼中―、まさに生存危機に立たされて人々が覚醒することかもしれない。
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日本共産党―「孤高の党」で結構

2023-02-10 | 時評
日本共産党内から、党首選挙制や自衛隊合憲論、日米安保条約容認論等を提起した古参党員(松竹伸幸氏)が除名処分となった。こうした党内異論分子に対する即時除名は、日本に限らず、世界の共産党の結党以来の慣行であるから驚くに当たらない。
 
ただ、日本共産党にあっては、従来は旧ソ連や中国の動向を絡めた党のイデオロギー的な路線対立を巡っての除名が多かったところ、今回は様相が異なる。
 
松竹氏が提起した問題は、いずれも共産党が「普通の党」に転換するかどうかという党の存亡にも関わる事柄である。現在のところ、「たった一人の反乱」のように見えるが、今般の除名騒動は党内外で尾を引き、今後の国政選挙にも影響するかもしれない。
 
現在、日本共産党が革命による共産主義社会の実現という本来的な目標をもはや棚上げして「発達した資本主義社会」の議会制度に同化適応し、共産主義社会をある種のロマン的理想郷としてしか想起しない中、党の立ち位置も揺れているのは確かである。すなわち、「孤高の党」を貫くか、それとも「普通の党」に転換するか、である。
 
近年の「野党連合」戦略は、「孤高の党」を一歩抜け出して、おずおずとではあるが、「普通の党」に向きを変えようとする新戦略とも言えるが、完全に「普通」化したわけではないため、共産党と「連合」相手党双方にぎごちない躊躇があり、中途半端なものにとどまっている。
 
その点、筆者の誤解でなければ、松竹氏の提起は、とりわけ溝の深い安全保障分野について、共産党の側が「連合」相手党に大幅譲歩し、自衛隊も日米安保も容認しつつ「普通の党」となって他の野党との「連合」をしやすくしようというもので、このような党内異論は「野党連合」という党自身による新たな取り組みとその不調から、ある程度予見された副産物でもあろう。
 
こうした問題に関する私見は「孤高の党」で結構、というものである。「野党連合」も無用である。そうした政権獲得への欲望があらゆる政治組織を変節・腐敗させることは世界の経験則であり、晴れて政権党にのし上がった海外の共産党を見ても、そのことは明瞭である。
 
まして、基本政策綱領の変更は、かつて日本社会党が辿った道と同様、従来の非武装平和主義路線を放棄して現実容認に転じる道であり、その結果は実質的な党の消滅あるいは他党への吸収である。
 
革命という歌を忘れたカナリアとなった共産党が資本主義社会でどうにか生き残るには、他党とは一線を画す愚直な平和と福祉の党としての存続以外に道はないだろう。「現実主義で躍進する」は不満分子が陥りやすい幻想である。
 
ただし、党首職(日本共産党では中央委員会幹部会委員長)の在任期間はいかにも長すぎる。日本共産党に限らず、世界の共産党の多くはレーニンが定めた民主集中制という名の中央集権指導制の原理を今も固守しており、分派活動を厳禁するため、派閥形成につながりやすい党首選挙は行わず、党首の選出は事実上中央指導部による決定によるのが通例である。
 
そのため、党首職の在任期間が長期化しがちであり(しばしば終身)、志位和夫委員長もすでに在任20年を越えている。その点で、他のどの政党よりも世代交代―民主主義の要の一つ―を欠いた党運営がなされていることは、党がいかに反駁しようと否定のしようがない。*さらに言えば、党内異論分子排除の慣行も異論に対して開かれた民主的党運営とは言い難く、意見の複数性を容認した旧ソ連共産党末期のゴルバチョフ指導部より後退的である。
 
選挙制はともかく、委員長職に厳格な任期制限を導入し、一定期間を経て世代交代をしていかなければ、党の硬直化は避け難いだろう。そのことは、国政選挙の結果にも影響してくるに違いない。今般の騒動が議席ゼロへの道とならないか、老婆心ながら憂慮する。
 
 
 
※筆者はコミュニストながら、共産党を含め、国内外のいかなる既存政党・政治団体にも属していないので、本稿で示したのは完全なるアウトサイダーとしての管見である。参考拙稿:牙を抜いた共産党
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空中弾道兵器の廃絶こそ

2022-12-15 | 時評

与党が「敵基地反撃能力」の保有を軸とする防衛費の大幅増大策を決めようとしているが、以前の稿でも述べたとおり、「敵基地反撃」は観念論であり、実際にそれを憲法9条の枠内で実行することは不可能である。

辛うじて可能だとすれば、第一撃を受けた後、第二撃以降を阻止するための自衛行動として反撃する場合だけであるが、現代の最新鋭弾道ミサイルなら第一撃が領土内の陸地に命中すればそれだけでも相当な被害を生じることは避けられないうえ、第二撃以降がどこから撃ち込まれるかの予測を瞬時的確に行うことは不可能である。

そこで、そもそも第一撃を受ける以前に先制的自衛行動として「反撃」するならば、これは憲法9条が禁ずる武力行使そのものであるから、紙切れ三通で決められることではなく、正面からの憲法改正を必要とする。

改憲を歴史的宿願とする与党が相変わらず正面から改憲を提起せず、〝解釈改憲〟の手法で9条を空洞化するやり方に固執する理由は定かでないが、「敵基地反撃」はそれを文字通り実行する気なら、もはや〝解釈改憲〟という伝統の術策では対応しきれないこと明らかである。*想定されるのは、例によって同盟主・米国からの手っ取り早い政策転換の要求、あるいは9条改憲にいまだ積極的と言えない連立相方党への配慮である。

こうした事実上の超法規的改憲策動に対する「反撃」も、野党や平和運動の弱体化に伴い、風前の灯火ではあるが、そもそもの問題の発端はミサイルに代表される空中弾道兵器の脅威にある。

空中戦は現代の戦争の軸であり、伝統的な陸戦や海戦以上に民間人の犠牲者を出す非人道的な戦法である。原爆投下はその歴史的最大級の事例であるが、現代戦ではミサイルに核弾頭を載せて飛ばすだけで、敵国に破壊的な打撃を与えることが可能となっている。

核弾頭を搭載していなくとも、高速ミサイル攻撃は地上の市民に避難する時間的余裕を与えないため、被害が拡大されやすいという点で、核兵器に準じるか、少なくともそれに次ぐ非人道的な飛び道具と言える。

こうした非人道的な空中弾道兵器を廃絶することは、核兵器廃絶と同等の意義を持つことである。将来的には全世界における全軍備の廃絶こそが恒久平和の道であるが、さしあたりは核兵器とともに空中弾道兵器の廃絶を求めることこそ、現時点で唯一の被爆国の「責任」である。

敵基地反撃の技術的な方法論とか、まして防衛費増大の財源問題といった与党内のやらせ論争に引きずられて、増税か国債かなどといった矮小な視点に野党がとらわれるならば、それは与党の思う壺であろう。

 

[付記]
与党が国防政策の法的及び財政的な大転換を本気で断行しようとするならば、憲法9条の改正発議を行って国民投票にかけるのが筋であり、今こそ自由民主党の党是である改憲に進む最大の好機となるはずである。その是非を最終的に判断するのは、国民である。

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中共支配体制の躓きの石

2022-11-27 | 時評

中国でいわゆるゼロ・コロナ政策に対する民衆の抗議行動が拡大し、盤石と思われてきた中国共産党支配体制が綻びを見せ始めたが、これはパンデミック初期には感染防止策の範として自由主義標榜諸国によってさえ追随されたロックダウン政策の持続が体制維持の躓きの石となっていることを示している。

今般抗議行動は当面のゼロ・コロナ政策による厳しい生活統制に対する民衆の不満の噴出であるが、タイミングとしては習近平国家主席・党総書記の長期執権が既定路線となり、ある種の個人崇拝体制が明瞭となったことへの異議も裏に込められていると見られる。

しかし、今般抗議行動では「自由」や「共産党退陣」のスローガンが一部で掲げられるなど、一政策や個別の政権への反対を超えた中共支配体制そのものの打倒という従来は見られることのなかったスローガンが現れていることが注目される。

今般抗議行動は1989年の天安門事件とも対比されるが、天安門事件の抗議者たちは体制そのものの転換より、党指導部に対し当時のソ連共産党のゴルバチョフ政権を念頭に体制内改革を要求するレベルにとどまり、抗議行動も主として北京に集中していたことに比しても、今般抗議行動のスローガン、地理的範囲双方の拡大には注目すべき点がある。

今後の展開としては、確率の高さの順に、〈1〉武力鎮圧(弾圧)〈2〉政策撤回(緩和)〈3〉体制崩壊(政変)の三つがあり得るが、ここでは、いささか気が早いながらも、現時点では確率的に最も低いが、当ブログの問題関心に沿う(3)体制崩壊を考えてみたい。

実際のところ、体制崩壊予測にも、確率の高さ順に、(ⅰ)党内政変による新政権樹立(ⅱ)ブルジョワ民主勢力による新体制樹立(ⅲ)共産主義的民衆統治体制への変革の三つがある。

このうち(ⅰ)は厳密には体制崩壊ではなく、体制内改革であるが、党内改革派が離脱してブルジョワ民主政党を樹立する挙に出れば、(ⅱ)の展開に重なる。

一方、過去数十年来の資本主義適応化路線の中で育った新興富裕層の中から新たにブルジョワ民主政党が台頭し、政権の受け皿となる可能性もあるが、70年を越える一党支配が続き、対抗野党が完全に排除されてきた中では、共産党離脱者の存在抜きでは困難であろう。その意味では、(ⅰ)と(ⅱ)の展開は連続性を持つ。

いずれにせよ、中国のブルジョワ民主化は西側諸国の望むところであろうが、一党支配の崩壊後に多数の政党が誕生・林立し、安定政権が樹立されなければ、辛亥革命後の中国のようにある種の内乱状態に陥り、今や中国も枢要な参加者となっているグローバル資本主義に悪影響を及ぼすであろう。

(ⅲ)は確率的に最も起きそうになく、現状でこれを密かに待望するのは世界でも筆者一人くらいのものかもしれない。実際、中国共産党が事実上の中国資本党に変貌し、共産主義の結党理念が棚上げから在庫一掃へと転換された時代状況下では望み薄かもしれない。

しかし、拙『共産論』でも論じたように、中国に代表されるような共産党支配体制の諸国にあって、真の共産主義は「共産党に対抗する共産主義革命」によってもたらされる。言い換えれば、共産党から真の共産主義を取り戻すことである。その意味で、(ⅲ)は(ⅰ)と(ⅱ)とは明確な一線を画する展開である。

現状では、今般抗議活動は近年の世界各国で頻発する未組織市民による自然発生的な民衆蜂起の一種であり、筆者が年来提唱してきた民衆会議のような結集体の体を成していないが、さしあたってはゼロ・コロナに服従しない民衆の対抗権力としての結集体の設立に至るのかどうか、注視していきたい。

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IT資本と賃奴制

2022-11-23 | 時評

勤労感謝の日という祝日は日本独自のものであるようで、国民の祝日に関する法律によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことがその趣旨とされる。元来は、宮廷行事である新嘗祭に合わせた祝日であったものを戦後、勤労感謝デーに振り替えたらしい。

「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」という文言からは、資本家・経営者もまた労働者の勤労に感謝するという趣旨を読み取ることもできる。そこからすると、ツイッター社を買収したイーロン・マスクの「長時間労働か、退職か」発話は、勤労感謝の対極にある勤労蔑視発話と言えよう。

この発話者にとって、労働者は企業の奴隷に過ぎず、長時間働かない奴隷など無用というわけである。このような発話が21世紀の先端的IT資本家の口から出たことは驚きではない。

IT業界と言えば、20世紀末以降現在に至るまで、新興業界の代名詞であり、カジュアルな「新しい働き方」でも脚光を浴びてきたが、一方で、一部を除き世界的なIT大手のほとんどは労働組合を拒否しているなど(外部記事)、その実態はまるで19世紀の資本である。

「長時間労働か、退職か」発話も、そうした19世紀的時代感覚を露骨に表す象徴的な言葉と言える。今日では、伝統的な大手資本の経営者なら―本心はともかく―、公には口にしない言葉である。

マスクならぬマルクスは、まさに長時間労働か退職かを迫られた19世紀の賃金労働者の被搾取的な働き方を評して「賃金奴隷」と言ったが、20世紀以降、労働法制の整備によって搾取に制約がかけられると、賃金労働者は奴隷的ではなくなった。それは主として労働時間削減の成果である。

とはいえ、労働者は制約された時間内での高密度な成果労働を要求され、経営管理者の業務命令や目標数値に束縛される限りでは、奴隷ではないが依然従属的であった中世の農奴に擬して、賃奴と言うべき存在であり続けている。

しかし、「長時間労働か、退職か」という発話は、そうした賃奴制を再び賃金奴隷制に巻き戻すかのような逆行的内容を備えている点で、注目すべきものがある。これに触発されて、他の資本も追随するなら、労働の世界は再び19世紀的状況に回帰していくだろう。

このような反動に対して、労働者はどう対応するのか。興味深いことに、2021年のギャラップ調査によると、調査対象となったアメリカ人の68%が労働組合を支持すると答え、1965年以来、労働組合運動に対する最も強い支持を示したという(上掲記事)。

近年の労組は経営側にすっかり飼い慣らされて社内機関化し、労組組織率は低下傾向を辿り、労働運動も斜陽化、5月1日のメーデーも恒例イベントと化している中、資本主義総本山のアメリカで労働運動復調の兆しがあるというのは興味深い。

ただ、労働運動の活性化と労使対決は、20世紀への巻き戻しである。現今の反動的状況下ではそれもやむを得ないかもしれないが、「勤労感謝」の精神を労使が共有することはより重要である。だが、それが真に可能となるのは、資本主義ではなく、まさに労使共産の体制下においてである。

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辞職ドミノと本質回避

2022-11-12 | 時評

改称統一教会関連や「死刑のハンコ」発言での大臣辞職が続き、野党は鬼の首でも取ったようなはしゃぎようであるが、そうした辞職ドミノの中で、本質的な問題が回避されている。

一つは、改称統一教会を含めた宗教団体の選挙介在という問題である。公職選挙過程で宗教団体が組織票集めに大きな役割を果たし、見返りとして政策にも影響を及ぼすことは、政教分離の精神を空洞化させる宿弊である。

こうした宗教介在選挙の実態については国会に特別調査委員会を設置し、国政調査権を行使すべきであるが、現状、相当数の議員(特に連立与党系)が何らかの宗教団体の支援を受けていると見られる中では、タブー化されているテーマである。

改称統一教会被害者救済法案も重要ではあるが、それで幕引きとするなら、宗教介在選挙という大元の本質問題は巧妙に隠蔽されることになる。救済法案をそうした隠蔽の遮蔽物として利用してはならない。

もう一つは、「死刑のハンコ」発言に象徴される機械的死刑執行慣例である。実際、日本は現在でも毎年死刑執行を続ける数少ない国の一つであるが、死刑執行命令の権限を持つ法務大臣は政治家であって法曹ではないため、命令発出に際して法律的な視点からの最終チェックを自ら実施する態勢になっていない。

そのため、大臣は法務省事務方が選び出した死刑囚について執行命令書に機械的にサインするだけで、まさに「死刑のハンコ」である。辞職した法務大臣は本当のことを言ったまでであるが、気の毒にも、それが禍いとなった。

たとえ本当のことでも、死刑制度は野党でさえこれを正面から議論することを避けている日本の巨大なタブーの一つであるから、不用意に口走ってはならなかったのである。

しかし、大臣辞職で幕引きとすることで死刑執行をめぐる問題、ひいては死刑制度存続の是非という本質問題は封印されたことになる。これも、与野党総ぐるみでの本質回避行動と言える。

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日和見主義の悲喜劇

2022-10-20 | 時評

某国では史上最長期政権記録の持主への国葬が執行されたが、英国では史上最短期政権の記録が達成される見通しである。先月就任したばかりのリズ・トラス首相が在任2か月足らずで辞任することになったためである。

その要因は、当初公約に掲げていた大型減税・ミニ予算について、市場や世論からの反発を受けてほぼ全面撤回したことで与党・保守党内に大混乱を引き起こし、党内から辞任要求を突き付けられたことであった。要するに、公約を短期間で180度転換したことで身内からも不信任を招いたのであった。

変わり身の早さは職業政治家に共通の特性だが、近年の政治家は定見を欠くがゆえに、その時々の状況によって態度を転々と変える日和見主義者が世界的に増大しているように見える。

このような日和見主義は冷戦終結後、「イデオロギーの終焉」教義に伴い、イデオロギー闘争より日々の市場や世論調査の数字に踊らされたあからさまな権力闘争が政界の日常となって以降、諸国の政界の潮流となっている。

英国史上三人目の女性首相となったトラス氏も、中道リベラルの自由民主党から保守党に転向した上、保守党内でも欧州連合(EU)残留派から脱退派に転向、脱退派のジョンソン前政権で重要閣僚に抜擢され、二人の先人女性より若い40代にして首相の座を射止めたのであるから、日和見主義の大勝者と言える。

ところが、今回は勝因のはずだった日和見主義が命取りとなった。日和を見るにしても、あまりに度を越せば、味方の信すら失うということであろう。

トラス氏は初の英国女性首相マーガレット・サッチャーを崇敬し、強く意識しているとされるが、冷戦期のサッチャー氏の時代の保守党は「反共保守」を掲げていればブレずに済んだ。しかし、冷戦終結後の保守党はその軸が揺らいだうえ、EU脱退をめぐり党内が分裂し、党自体が日和見主義的に揺れている。

ロックダウン違反の不祥事をめぐって党内から突き上げを受け、先月辞任に追い込まれたばかりのジョンソン前首相の返り咲きさえ取り沙汰されているのも、そうした日和見保守党の実態を示している。―追記:ジョンソン氏は党首選挙への立候補見送りを発表した。

昨今、選挙された政治代表者に一任するという選挙政治自体が劣化し、消費期限切れを迎えている中、選挙政治の最古老舗である英国の政治が今後どう壊れていくのか、注目に値する。

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健康保険証廃止の不条理

2022-10-13 | 時評

13日に発表された2024年秋をめどとする健康保険証廃止と個人識別票(俗称マイナンバーカード)への統合という政府の新方針にはすでに多くの批判や反発、困惑が噴出しているようであるが、それも当然、まったく道理に合わない不条理な策だからである。

マス・メディア各社は、この新方針について、「(カード所持の)実質義務化」という誤導的なフレーズを躍らせて、これまで不所持だった人を取得に走らせようとしているが、「実質義務化」というのは、成り立たない話である。

個人識別票そのものの取得は任意とされながら、健康保険証を国民全員から取り上げたうえ、個人識別票を所持していない限り、健康保険に加入し、保険料も全納しているのに、法的には義務でない個人識別票を所持していないというだけで保険診療を拒否し、全額実費請求することは不可能だからである。

仮にそのような処理を許すならば、そうした診療拒否は違憲・違法となることは明白であるので、結局のところ、あくまでも個人識別票を所持しようとしない人には、特例として何らかの資格証明手段を認める補足対策が必要になるだろう。

タイトルでは「不条理」と抑制的に記したが、運転免許証のような経済的権利に関わるものを一体化するならまだしも、一律的に保険証を廃止し、生命・健康に関わる健康保険を盾に取って、個人識別票取得率100パーセントを達成しようとすることは、「非道」と言って過言でない。

政府が全体主義的な信条に基づき、個人識別票の全員所持を義務付けたいのであれば、大本である法律(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律)を改正して、法的にも個人識別票の所持及び携帯を義務付け、不所持には懲役刑を含む刑事罰を科せばよい。なぜそうはせず、健康保険を盾に取るような姑息な奸策に走るのだろうか。

これは想像の域を出ないが、政府も罰則付きで個人識別票の所持を義務付けることの憲法違反性を認識しているためではないか。そこで、個人識別票を事実上の健康保険証にすりかえれば所持率を100パーセント近くまで持っていけると打算した。そして、「実質義務化」のフレーズの後押しで、これまで不所持だった半数近い人々が取得に走り出すことも狙う。政府に従順な順応性の高い国民性のことも計算に入っているのだろう。

では、そうまでして政府が個人識別票所持率100パーセントを達成したい理由は何か。旧民主党政権時の導入理由である行政効率だけではなかろう。やはり顔まで含めた国民一人一人の個人情報の一元的な取得・管理への野望があり、さらには「実質義務化」にあえて背き、不所持の抵抗を続ける反抗分子のあぶり出しも容易になる。

要するに、社会保険、徴税から交通、治安に至る広汎な行政目的で総合活用できるのが個人識別票制度であり、所持率100パーセントを達成することで得られる統治利益は計り知れない。

ちなみに、個人識別票を所管する総務省は治安を司る警察庁とは旧内務省の〝同窓〟関係にあり、個人識別票情報を治安目的で密かに共有し合うことは技術的に可能であり、法的にも上掲法律の施行令では少年法や破壊活動防止法、暴力団対策法、組織犯罪対策法等々の治安目的による特定個人情報(番号を含む個人情報)の提供はすでに認められているところである。

筆者は先行連載『近未来日本2050』の中で、2050年の日本の状況について、ファシズム体制が樹立され、そこでは警察支配社会の中、「外出時における顔写真付きマイナンバーカードの常時携帯・呈示義務も課せられ、違反に対しては反則金が課せられるだろう。」と予言したが(拙稿)、どうやら、こうしたディストピアは2050年より前倒しで実現しそうな雲行きである。

 

[補足1]
筆者は、社会保障番号制度や電子保険証の制度化には反対しない。年金を含めた社会保障サービスの統一的かつ総合的な提供は国民の利便性を増すからである。新方針に追随する一部の御用識者の中には、「諸外国ではすでに導入済み」などと〝解説〟する向きもあるが、そもそも国家が顔写真を含めた個人情報を一元的に取得・管理することは自由を抑圧する全体主義的施策であるから、マトモな諸外国では個人識別票のような制度自体を導入していない。個人識別票と社会保障限定での電子的な利便向上策を混同する議論は反啓蒙的とさえ言える。

[補足2]
本文で述べたとおり、カード不所持者を保険診療から排除するような「実質義務化」は無理筋であるから、何らかの補足対策は打たざるを得ないと想定されるが、仮にそうはならなかった場合、信条からあくまでも個人識別票を所持しない人々は保険診療も受けられず、あえて言えば非国民的な無権利状態に置かれる。それでも信条を貫くには、何らかの結集が必要であろう。例えば、集団訴訟行動を展開するとか(日本の行政追随司法には期待できないが)、商業医療保険を活用するなど個人的な対抗策を集団的に研究するなどである。

 

[追記]
各界からの批判を受け、首相はカード不所持者に対しては「資格証明書ではない制度」による保険診療の提供を認める方針を示したが、これが現行保険証に相当するような簡易な証明制度を創設する趣旨ならば、カードの100パーセント取得の目論見は達成できなくなるであろう。となると、最終的には、カード不所持者が何らかの形で所持者より不利に扱われるような策―例えば、医療機関窓口での本人確認に時間を要し、診察順を後回しにされるなど―が持ち出されてくるはずであるが、個人識別票の取得自体を任意とする限り、そうした不平等な取り扱いは不当な差別になるだろう。

[追記2]
政府は、本年4月から、個人識別票と一体化されていない保険証による保険診療の受診料を引き上げる方針を発表した。このような正当理由を欠く制裁的な加重料金制度は不当な差別であり、憲法14条に反することは明らかであるが、将来の保険証制度廃止後の措置として個人識別票を所持しない人に対する不平等な扱いの一端が見えてきたと言える。

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擬態するファシズム

2022-09-28 | 時評

25日のイタリアの総選挙で、戦前の独裁者ベニト・ムッソリーニが率いた旧国家ファシスト党の直系に当たる政党「イタリアの兄弟」―「同胞」と訳すのが定訳のようであるが、イタリア語党名Fratelli d'Italiaのfratelli(複数形)は男性の兄弟というニュアンスが強いので(意味的には兄弟姉妹を包括する)、あえて「兄弟」と訳す―が第一党に躍進した(以下、「兄弟」と略記)。

欧州でファシスト政党に直接源流を持つ政党が第一党となるのは戦後初めてのことであり、衝撃的と言える事態である。その点、イタリアでは、つとに2018年の総選挙でポピュリスト系の右派政党「五つ星運動」(以下、「五つ星」と略記)が躍進し、同党を柱とする右翼連立政権が成立したが(拙稿)、連立内の内紛から短命に終わった。

その後、コロナ・パンデミックとロシアのウクライナ侵略戦争に伴う経済危機の中、不安定な連立政権が続いた末の結果が、ファシストの躍進である。「五つ星」はファシスト党とは別筋から出たイタリア・ファーストを旗印とするファースティスト政党であったが、今度はファシスト直系政党の躍進であり、イタリアの右傾化が一層明瞭となった。

もっとも、「兄弟」は現在では単なる保守系右派を標榜し、実際、今般も他の保守系政党と連合を組んでの勝利である。といっても、下院400議席中119議席、上院200議席中65議席を押さえる躍進であり、連立政権の首相に同党の女性党首ジョルジア・メローニが任命される公算が高い。

問題は、同党の現在標榜が真実かどうかである。メローニ氏はファシズムの過去との絶縁を強調しているが、党は反移民政策の強化(海上封鎖)や反同性愛などの差別政策を公然掲げ、「五つ星」のファースティズムを超えた強硬路線を示している。

その点、現代ファシズムについて論じた以前の拙稿でも指摘したように、ファシスト党の後継政党であった「イタリア社会運動」が公式にファシズム路線を放棄し、「国民同盟」に「党名を変更、最終的に新保守系政党「頑張れイタリア」へ合流・吸収されたところ、こうした保守系への吸収に反発するメローニ氏らが2012年に再結成した党が「兄弟」である。

そうした経緯から見て、「兄弟」は今なおファシズムの理念に忠実であり、単なる保守系右派の標榜は世間を欺く擬態に過ぎないという厳しい評価が導かれる。言わば、「擬態ファシズム」である。その意味で、内外のメディアが「兄弟」を形容する極右政党という指称はミスリーディングである。

その点、筆者は、戦後のファシズムの特徴として、議会制を利用して隠れ蓑に隠れた状態で存続する態様を「不真正ファシズム」と呼び、次のように記した(拙稿)。

不真正ファシズムは民主主義を偽装する隠れ蓑として議会制を利用し、議会制の外観を維持したり、完全に適応化することさえもあるため、外部の観察者やメディアからは議会制の枠内での超保守的政権(極右政権)と認識されやすい。実際、単なる超保守的体制と不真正ファシズム体制との区別はしばしば困難であり、超保守的政権が政権交代なしに長期化すれば、何らかの点で不真正ファシズムの特徴を帯びてくることが多い。

ファシストが議会制を隠れ蓑として有効に利用するには、単なる保守系右派に擬態するという戦略が必要となる。「兄弟」の躍進は、そうした戦略を巧みに展開した結果であろう。

実際のところ、「兄弟」の祖党である戦前の旧ファシスト党も総選挙で第一党に躍進して独裁への足掛かりを得たし、史上最凶ファシズムであったドイツのナチスも総選挙で第一党に躍進し、当初は保守系政党との連立政権からスタートしており、選挙はファシスト政党にとって戦前から大きな武器である。

といっても「兄弟」の議席は単独過半数には遠い数字であり、イタリア人の大半が同党になびいたわけではない。イタリアの不安定な連立政治の慣習からして、組閣しても短命で終わる可能性もあるが、これが突破口となって欧州各国で同類政党の躍進が続けば、欧州連合というファシズムの防壁(拙稿)が倒壊することが懸念される。

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英国君主制の行方

2022-09-09 | 時評

在位70周年96歳のエリザベス2世英国女王の死去は、英国君主制にとって転機となるかもしれない。70年と言えば、存命中英国民の多くにとって人生のすべてであり、戦後英国史のすべてに近くもあり、女王はそうした総戦後史の生き字引でもあった。

元来、エリザベス2世は18世紀に成立したドイツ系王家ハノーヴァー朝(20世紀初頭にウィンザー朝に改名)の系統であるが、70年も在位すれば、「エリザベス朝」と呼んでもよい独自の存在性があったと言える。

同時に、女王は政治的権能を喪失した「君臨すれども統治せず」の象徴君主として、16‐17世紀の同名の専制女王エリザベス1世とは対照的に、党派的言動を控え、愛嬌を振りまく存在を維持した点で、現代の残存君主制のモデルとしても、君主制護持のイデオロギー装置の役割を果たしてきたとも言える。

代わって自動的に70年ぶりの男性国王に即位したチャールズ3世は、王太子時代から、不倫離婚や物議を醸す言動など、母の前女王とは対照的に、評判の芳しくない人物である。そうなると、英国民の君主制に対する見方にも変化が生じるかもしれない。

もっとも、英国民の君主制支持は相当に根強く、チャールズ新国王が不評判だからといって、君主制廃止論は隆起しそうにないが、新国王は自身の直系子孫にしか王族の地位を認めない王室スリム化論者とも言われる。その真意は不明だが、王室が縮小されれば、将来的に継嗣断絶による君主制廃止ということもあり得るだろう。

そもそも君主制はそれをいかに〝スリム化〟したところで、法の下の平等という近代的法則と本質的に両立しない旧制であるが、象徴君主制は民主主義とも辛うじて窮屈に同居できるだけに、革命による廃止の標的となりにくく、これまでのところそうした実例もないが、家系断絶による自然消滅ならあり得る。

そうした意味では、英女王の死没は、英国君主制を超えて、世界の君主制の将来に関わる出来事となるかもしれない。その点、日本では一足先に皇室のスリム化が進んでおり、皇位継承を男子に限定する規定と合わせ、終焉も一足早いかもしれない。

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新興宗教に支配された支配層

2022-08-10 | 時評

改名統一教会への恨みが動機とされる安倍元首相の射殺事件以来、改名統一教会と政治の関係が連日取り上げられているが、このような集中豪雨的報道は、重要なことをかえって覆い隠してしまう恐れがある。それは、日本支配層が各種の新興宗教団体によって支配されているという半ば公然の事実である。

現在は改名統一教会が集中的な槍玉に上がっているが、日本の選挙過程では政党末端組織や各種業界団体と並び、各種新興宗教団体が組織票集めに暗躍していることは、少しでも選挙過程を知る人にとっては基礎知識のうちであろう。改名統一教会は、その一つにすぎない。

とはいえ、一つにすぎないというには改名統一教会が支配層に深く浸透していたことが判明し、波紋を広げていることは理解できる。しかも、その教義・教理には相当「反日的」な要素が含まれているとされながら、愛国・反韓派の多い保守系右派層に食い込んでいたという皮肉な矛盾も興味深い。

この矛盾は、かれらが「押し付け憲法」の元凶とみなすアメリカ合衆国に追従する親米右派と重なっていることとも関連がありそうである。敵視すべき相手と手を組むというのは一見奇妙な行動であるが、改名統一教会及びアメリカ合衆国に共通する政治イデオロギーでもある反共主義との関連からの奇な〝同盟〟なのかもしれない。

とはいえ、現在の統一教会問題狂騒曲には無理な音符がある。新興宗教といえども、憲法上の信教の自由は享受するから、改名統一教会との「関わり」だけで大臣の就任資格を認めないとするような処遇は、信条による差別を禁ずる憲法に違反することになるだろう。信条と大臣資格を直結させることはできない。

その点、統一教会は改名前から深刻な社会問題を引き起こしており、政治との関わりについてもつとに知られていたにもかかわらず、安倍氏生前は一切報道せず、今さら気づいたようなフリをして報道洪水を起こすメディアの姿勢やその意図にも大いに疑問はある。

政治との不適切な関係性を真摯に問題にするなら、漠然とした「関わり」ではなく、改名統一教会の反社会的活動に直接関与したり、それをかばい立てするような対応を政治家として行った場合に限られるだろう。

それと日本支配層が新興宗教に支配されていることを批判するのは別問題である。宗教支配は政治から合理的な判断力を奪い、非合理的・非啓蒙的な判断で国政を誤らせることにつながる日本政治の宿弊である。その点、言わば国定新興宗教でもあった国家神道に誤導された戦前にも通ずるものがある。

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