ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

英国労働党史(連載第9回)

2014-09-30 | 〆英国労働党史

第4章 斜陽の時代

3:「英国病」の正体
 ウィルソン首相の突然の辞任を受けて、後任首相に就いたのは、ウィルソン内閣で財務、内務、外務の要職をすべて経験したベテランのジェームズ・キャラハンであった。
 キャラハンが就任した76年は、戦後英国にとって最も苦境の年となった。半社会主義政策の柱である産業国有化は戦後直後の経済復興には効果を持ったが、次第に国際競争力の低下や資本の海外流出、技術革新の遅れなど負の側面を露呈するようになり、輸入超過の貿易赤字の要因となった。
 そうした構造的な問題が生じていたところへ、70年代のオイルショックが重なり、不況プラス物価上昇という典型的なスタグフレーションの症状も出始めた。税収減による財政赤字が頂点に達し、76年には財政破綻を来たした。
 他方、労働党が二大政党の一つとして確立される中で、最大支持基盤の労組の対抗力は増していた。特に経済不振の70年代はストライキが頻発した時期で、中でもキャラハン政権末期の78年から79年に起きた医療職を含む公共部門労組による大規模スト―通称「不満の冬」―は革命とまではいかなかったが、社会を麻痺状態に陥れる重大な効果を持った。
 こうしたことの結果、英国経済は戦後最大の危機を迎えることになったのであるが、この時期、米国や高度経済成長を経た日本などでも程度の差はあれ、同様の現象は起きていたにもかかわらず、とりわけ英国が注目されて「英国病」とまで名指されたのは、資本主義体制を維持しながら、基幹産業部門を国有化し、政府の広範な経済介入を認める半社会主義体制のゆえであった。
 こうした英国モデルは、主として戦後のアトリー、ウィルソンの両労働党政権の時代に整備されたものではあったが、二大政党の一方として対抗する保守党も、選挙対策上こうした英国モデルの骨格はおおむね維持する穏健な政策を採る傾向にあった。
 結局のところ、「英国病」の正体は、こうした労働党・保守党間の接近(コンヴァージェンス)の結果生じた中途半端な混合経済体制の症候と言える。

4:新保守主義「革命」
 「不満の冬」の79年に行なわれた総選挙では、こうした「英国病」の克服が大きな争点となった。野党保守党は史上初めての女性党首マーガレット・サッチャーを擁して対抗した。この時のサッチャー保守党は従来の穏健路線を改め、本来の保守主義に原点回帰するような公約を引っさげていた。
 結果は、保守党の政権奪回であった。勝因として広告会社をも動員した技術的な選挙戦もあったが、社会的な影響の大きかった「不満の冬」に対する労働者層をも含む大衆の不満も後押ししたことは間違いない。英国史上初の女性首相が女性参政権の確立に貢献した労働党ではなく、保守党から誕生したのも皮肉なことであった。
 こうして成立したサッチャー保守党政権は結果的に10年以上に及ぶことになる長期政権の中で、「サッチャリズム」の名で知られる一連の保守回帰政策を断行していくが、その最終目標は半社会主義英国モデルの解体にあった。
 それは労働法改正を通じた労組の封じ込めに始まり、国有企業の民営化、規制緩和、財政均衡、金融引き締め、法と秩序など、サッチャー政権退陣後の90年代以降に改めて「新自由主義」として世界に拡散した政策パッケージの先駆けであった。
 このような全否定政策は、英国経済を再び資本主義的に再構築し、経済成長を取り戻すことに成功したが、失業者はかえって増加し、財政再建も進まないなど、その政策効果は限定的であり、格差拡大、社会の荒廃などのマイナス効果も生じさせていたにもかかわらず、80年代の労働党は有権者を引きつける有効な対抗戦略を打ち出せないまま党勢は衰退し、92年総選挙まで連敗を重ねた。
 結局、労働党は97年総選挙で圧勝して政権を奪還するまで、戦後最長となる18年間にわたり野党暮らしを余儀なくされることになる。英国病の「主犯」とされた戦後労働党にとっては、長い斜陽の時代であった。

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英国労働党史(連載第8回)

2014-09-29 | 〆英国労働党史

第4章 斜陽の時代

1:アトリーからウィルソンへ
 前回見たとおり、戦後最初の総選挙で圧勝したアトリー労働党は英国式半社会主義とも評すべき数々の新施策を打ち出し、51年の総選挙で再選を狙うが、意外にも保守党に惜敗した。この敗北の主要因は、得票数で上回っていた労働党が獲得議席数では僅差で保守党に逆転されるという技術的な理由によるものであった。
 ただ、この時の保守党が採った労働党政権による「革命」の基本的成果を全否定せず受容するというソフトランディング戦術も成功要因であった。おそらく、前回総選挙で労働党を圧勝させた有権者としても、このまま労働党が長期政権となった場合に生じるかもしれないさらなる「革命」の進展にいささか不安を抱いたのかもしれない。
 いずれにせよ、この選挙の結果、チャーチルが再び首相に返り咲き、55年の引退まで在任した。労働党は55年、59年の総選挙でも連敗し、13年にわたって野党暮らしとなる。
 この間、党勢が衰えた時の政党の常として、労働党内では左右両派の対立が激化していた。55年には戦中から戦後にかけて党の顔であったアトリーが退任し、指導部の空白も生じていたが、アトリーの後任の座を制したのは、経済官僚出身の右派ヒュー・ゲイツケルであった。
 ゲイツケルは現実主義的な右派で、失敗に終わったものの、30年後にトニー・ブレア党首の時代に実現する党の社会主義的綱領の改訂まで検討したが、この時代の労働党の右傾化は時期尚早で、保守党との差を縮小させ、選挙では不利な戦術であった。結局、ゲイツケル時代の労働党は政権に返り咲くことはなかった。63年、ゲイツケル急死を受けて後任に就いたのが、アトリー内閣で商業担当大臣などを歴任し、後に二度にわたり首相となるハロルド・ウィルソンであった。

2:ウィルソン時代
 ウィルソンが党首に就任した翌年の64年総選挙で、労働党は僅差ながら勝利し、13年ぶりに政権を奪回した。しかし与野党伯仲状態であったため、66年に解散総選挙に打って出て、今度は議席を積み増して安定多数を得るなど、ウィルソンは選挙戦術に長けていた。
 この時期、労働党が政権に返り咲いたのは、保守党の長期政権下で貿易赤字の拡大や通貨危機などの経済不振に加え、政治的スキャンダルも続き、有権者の保守党離れが起きたことにあろう。
 難しい時期に政権に就いたウィルソンであったが、彼のスタンスはリベラルな穏健左派であり、ウィルソン政権下では、死刑廃止や中絶解禁、同性愛行為の合法化などリベラルな社会改革が進められたほか、教育面では選別主義的でない普通教育制度や市民に開かれたオープン・ユニバーシティ制度の導入などが第一次ウィルソン政権の主要な成果である。
 ウィルソンは本来は穏健派で、社会主義政策の急進化には関心がなかったが、当面する経済不振に対処すべく、ウィルソン政権はインフレ抑制のための所得政策に加え、長期的な投資と経済成長の司令塔となる経済企画官庁として経済問題省を創設したほか、産業界への政府介入を強めるなど、介入主義的な経済政策に傾斜していった。また選択的雇用税やキャピタルゲイン税などの企業・富裕層をターゲットとした新税導入にも手を着けた。
 第一次ウィルソン政権はかつてのアトリー政権ほどではないものの、同じ6年間で多岐にわたる改革を実施し、それなりの成果も上げたが、70年総選挙では意外にも保守党に敗北、下野することとなった。
 この時の敗因は必ずしも定かでないが、新税導入や政府の経済介入強化が産業界から嫌忌された可能性や、財政難から緊縮財政政策を採らざるを得なくなり、64年の選挙公約の達成率が今一つであったことなどが考えられる。
 しかしウィルソンは下野後も引き続き党首の座にとどまり、74年総選挙で労働党が僅差で勝利すると、保守党の自由党との連立工作失敗を受けて、再び首相に返り咲いた。
 第二次ウィルソン政権では、英国型福祉国家の強化を課題とし、かねてより重視していた教育や医療、住宅への政府支出が増加され、最高所得税率の引き上げなど財源強化が図られた。しかし第二次政権では北アイルランド問題が先鋭化する中、76年、ウィルソンは突如辞任した。その理由については明確でないが、ガンや初期アルツハイマー病などの健康上の問題によると見られている。
 こうして、つごう8年にわたり首相を務め、アトリーに続いて戦後労働党の一時代を築いたウィルソンの時代は道半ばで終わった。この時期すでに、労働党は長い低迷期の始まりにさしかかっていたのだった。

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旧ソ連憲法評注(連載第16回)

2014-09-27 | 〆ソヴィエト憲法評注

第五十九条

1 権利および自由の行使は、市民によるその義務の履行と不可分である。

2 ソ連市民は、ソ連憲法およびソヴィエトの法律を遵守し、社会主義的共同生活の規則を尊重し、ソ連市民という高貴な呼び名にふさわしい品位をたもつ義務をおう。

 本条から第六十九条までは、ソ連市民の各種義務に関する規定が続く。日本国憲法では国民の義務として、納税・教育・勤労の三つ―第十二条の権利濫用禁止を含めても四つ―に限定されていることと比較しても、義務規定が詳細なことがソ連憲法の特色となっている。
 義務規定の総則に当たる本条第一項にある権利・自由の行使を義務の履行と一体のものとする規定は自由主義に対立するブルジョワ保守主義の憲法思想にも相通ずる部分があり、第二項も「社会主義的共同生活の規則」などの社会主義的な用語を削除すれば、そのままブルジョワ保守憲法の条文として転用できそうである。

第六十条

自分の選んだ社会的有用活動の分野におけるまじめな労働および労働規律の遵守は、労働能力のあるすべてのソ連市民の義務であり、名誉である。社会的有用労働の忌避は、社会主義社会の諸原則と両立しない。

 義務規定の筆頭に労働義務が来るのは、搾取のない労働を基本として成り立つことを建前とする社会主義体制の特質を象徴している。一方、ブルジョワ憲法では最大の国民の義務となる納税の義務は、無税を原則とした手前、憲法上に規定されていない。

第六十一条

1 ソ連市民は、社会主義的財産を大切にし、強化する義務をおう。国有財産および社会的財産の不法領得および浪費とたたかい、人民の富を大切にとりあつかうことは、ソ連市民の責務である。

2 社会主義的財産を侵害する者は、法律により処罰される。

 生産手段の共有を建前とする社会主義体制では、社会主義的共有財産の維持・強化は労働に次ぐ義務と位置づけられていた。第一項第二文で国有財産・社会的財産の不法領得・浪費との闘争を宣言し、第二項で社会主義的財産横領の処罰をわざわざ明記しているのは、それだけそうした経済犯罪や浪費が蔓延していたことの証左である。

第六十二条

1 ソ連市民は、ソヴィエト国家の利益を守り、その力と権威の強化を促進する義務をおう。

2 社会主義祖国の防衛は、すべてのソ連市民の神聖な責務である。

3 祖国にたいする反逆は、人民にたいするもっとも重大な犯罪である。

 本条は、国家に対する忠誠義務を定めたもので、義務規定中最も問題含みの規定である。特に第一項の国益保持・強化義務は、自由な思想・表現活動を同義務違反として抑圧する可能性を含む危険を持ち、実際、そうした政治的抑圧はソ連全土で常態化していた。
 第二項の祖国防衛義務は、第五章で一章を割いて定めていた「全人民の事業」としての国防を、義務の観点から再度具体化したもので、「神聖な責務」という修辞的表現からもソ連体制が国防をいかに重視していたかが窺える。

第六十三条

ソ連軍の軍務に服することは、ソヴィエト市民の名誉ある義務である。

 前条第二項の祖国防衛義務の具体化としての兵役の義務である。良心的兵役拒否の権利を伴わない絶対的義務である。

第六十四条

他の市民の民族的尊厳を尊重し、ソヴィエト多民族国家の民族および小民族の友好を強化することは、すべてのソ連市民の責務である。

 多民族国家ソ連で諸民族が共存するうえで、民族性の尊重は次条の個人の尊重より優先する義務とされた。しかし、このように民族籍優先の発想は、結局のところ民族融和にはつながらず、ソ連解体後に噴出する民族紛争の遠因ともなったであろう。

第六十五条

ソ連市民は、他人の権利および適法な利益を尊重し、反社会的行為にたいして妥協せず、公共の秩序の維持に全面的に協力する義務をおう。

 個人の尊重規定であるが、同時に公共秩序維持への協力義務も定められており、むしろ比重は個々人の尊重より警察的な公共秩序維持にあるように読める。ソ連の管理社会的な一面を窺わせる。

第六十六条

ソ連市民は、子の養育について配慮し、社会的有用労働につけるよう子を教育し、子を社会主義社会の立派な構成員に育てる義務をおう。子は親について配慮し、親を援助する義務をおう。

 本条は第一文で子の教育義務を規定しつつ、第二文では親の扶養義務を課すという親子間での相互扶助的な義務条項である。このような規定にはロシアを中心に、中央アジアも含んだソ連圏の家族扶助的な慣習が反映されているようで、ここでもブルジョワ保守主義と共振する。
 子の教育の義務に関しては、学校教育を受けさせる義務にとどまらず、就労や社会の構成員として育成する義務まで課している点は賛否あろうが、これも家庭教育と社会的適応を重視する保守的教育思想と通ずるものがある。

第六十七条

ソ連市民は、自然を大切にし、その富をまもる義務をおう。

 自然保護の義務を市民にも課するものである。しかし宣言的な規定であり、肝心な政府レベルの自然環境保護は十分と言えず、ソ連時代の環境破壊は今日まで後遺症を残す。

第六十八条

歴史的記念物その他の文化財の保存について配慮することは、ソ連市民の責務であり、義務である。

 本条も前条と同様に、市民に文化財保存の義務を課す宣言的な条項にすぎない。

第六十九条

他国の人民との友好および協力の発展ならびに世界平和の維持および強化を促進することは、ソ連市民の国際主義的責務である。

 義務規定かつ第七章基本権カタログの最後を飾る本条が定めるのは、国際友好協力の責務である。これは冷戦時代、東側陣営盟主であったソ連の平和主義的な対外宣伝にも沿う規定であるが、実際のところは、米国を盟主とする西側陣営と熾烈な諜報戦や代理戦争を展開していたことは、よく知られている史実である。

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旧ソ連憲法評注(連載第15回)

2014-09-26 | 〆ソヴィエト憲法評注

第五十三条

1 家族は、国家の保護を受ける。

2 結婚は、婦人と男子との自発的な合意に基礎をおく。夫婦は家族関係において完全に同権である。

3 国家は、育児施設の広範な設置および発達、生活サービスおよび公共給食の組織および改善、出産手当の支給、子の多い家族への手当および特典の供与ならびに家族にたいするその他の種類の手当および援助により、家族について配慮する。

 本条は、家族の保護と自由婚、夫婦同権原則を定めた規定である。前後に自由権に関する規定が列挙されている中へ唐突に挿入される社会権条項であり、位置関係上は謎が残る。
 本条が第一項と第二項だけなら、社会権を保障する現代的なブルジョワ憲法にもしばしば見られるものだが―日本国憲法では第二十四条に相当―、第三項で育児施設の設置をはじめとする各種の家族福祉サービスの内容を憲法上具体的に定めているのは、特に女性の社会参加を促進するソ連型社会主義体制の目玉であった。
 なお、第二項は結婚を異性間のものに限定する趣旨とも読めるが、憲法制定当時は同性婚について起草者の念頭になく、むしろ婚姻当事者の「自発的な合意」という自由意志の尊重に力点があったのであろう。この点、同種の規定を持つ日本国憲法についても同様に解釈できる。

第五十四条

ソ連市民は、人身の不可侵を保障される。いかなる者も、裁判所の決定または検事の許可がなければ勾留されない。

 本条から第五十六条までは、人身の自由及びプライバシーに関する規定が続く。日本国憲法で言えば、第三十一条から第四十条までに相当するが、ソ連邦憲法の規定は素っ気ないほど簡素であり、人身の自由の保障に弱さがあったことを示唆する。
 本条は人身の自由の保障の筆頭条項として、身柄拘束の憲法的な条件を定めているが、裁判所の決定によらず、検事の許可だけで勾留できる余地を認めるのは、身柄拘束に対する事前の司法審査が万全に行なわれない危険な規定であった。

第五十五条

ソ連市民は、住居の不可侵を保障される。いかなる者も、適法な根拠なしに居住者の意思に反して、住居に立ち入る権利をもたない。

 本条は前条の人身の不可侵に続き、住居の不可侵を定めている。前条が警察・検察等による身柄拘束を想定した規定であるのに対し、本条は家宅捜索を想定した規定である。それにしても、「適法な根拠なしに」という規定はあいまいであり、少なくとも憲法上は家宅捜索に対する司法審査が義務的でないことは、問題である。

第五十六条

市民のプライバシーならびに信書、電話による通話および電信の秘密は、法律によって保護される。

 通信行為を含む広い意味でのプライバシーに関する規定であるが、保護内容は法律に一任してしまっている。その結果、実際には旧ソ連全土に張り巡らされた秘密政治警察網による盗聴や行動監視が常態的に行なわれていたことは、公然の秘密であった。

第五十七条

1 個人の尊重ならびに市民の権利および自由の保護は、すべての国家機関、社会団体および公務員の義務である。

2 ソ連市民は、名誉および尊厳、生命、健康、人身の自由ならびに財産にたいする侵害にたいし、裁判所の保護をうける権利をもつ。

 本条と次条は、受益権に関する規定である。人権擁護を国家機関等に義務づけるとともに、権利を侵害された市民が裁判を受ける権利を保障するものである。

第五十八条

1 ソ連市民は公務員、国家機関および社会的機関の行為を訴願する権利をもつ。訴願は、法律の定める手続きにより、その定める期間に審理される。

2 市民の権利の侵害をもたらす公務員の違法行為または権限をこえる行為は、法律の定める手続きにより、これを裁判所に提訴することができる。

3 ソ連市民は、国家的組織、社会団体および公務員のその職務執行のときの違法行為がもたらした損害の賠償をうける権利をもつ。

 本条は前条の人権擁護義務を前提とし、市民の訴願権と公務員に対する提訴権、国家賠償請求権を定めた規定であるが、独裁的な一党支配国家にあってこれら諸権利がどこまで実効的に確保されていたかは疑問である。

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反差別―まずは地方から

2014-09-22 | 時評

東京西部の国立市議会が19日、「ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書案」を採択した。国連人種差別撤廃委員会が8月末、人種や国籍などの差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)を法で規制するよう日本政府に勧告したことを受け、全国の自治体に先駆けてのアクションという。

このところ、地方議会議員の不祥事が相次ぐ中、久々のまともな地方政治ニュースであり、同市の問題意識の高さには敬意を覚えるが、懸念される点もいくつかある。

この意見書は、国に対して法整備を求めるものであるが、すでに自民党内では憎悪表現規制に便乗して、国会周辺のデモを取り締まる立法制定を敢行しようとするような動きが出ている。国連の勧告を逆手に採り、あざ笑うかのような便乗立法の企てである。

現在の改造安倍内閣・自民党執行部には、先般「民族浄化」を呼号する日本のネオナチ団体の代表者と写った写真が問題視された二人に加え、まさに憎悪表現の取り締まりに当たる警察を所管する国家公安委員長(大臣)が、国連勧告の一因ともなった在日コリアンを標的とする憎悪表現の中心団体として訴訟沙汰にもなっている政治団体関係者とのコネクションが報じられるなど、憎悪表現規制を真摯に検討するとはとうてい考えられないメンバーが含まれている。

反差別どころか親差別派政権が議会の安定多数を占めるという世界にも例を見ない恐るべき事態になっている時に、この意見書の真意はどこにあるのだろうか。もし、意見書を通じてやんわりと現政権を牽制する趣旨なら、それも一つの方法だが、本気で法整備を要望しているとしたら、疑問も感じる。

現状では、国に対して法整備を要望するよりも、まずは市が独自に条例を制定するほうが現実的なように思われる。幸い、地方自治法では最大で懲役二年を上限とする罰則を定める権限が自治体に与えられているので、小規模な憎悪表現規制条例を制定することは可能である。

それとともに、憎悪表現規制は刑罰だけで完結するものではなく、まだ差別を知らない小学校低学年段階からの徹底した反差別教育を通じて体得させなければ(拙稿参照)、憎悪表現者が顔を出すつど叩いて回るもぐら叩きのような結果に終わるだけである。自治体の教育裁量の範囲内で反差別教育の実践を条例化するなどの策も必要だろう。

近年は民族差別にとどまらず、このところ相次いで表面化している視覚障碍者・盲導犬に対する身体的な攻撃すら伴う排斥の動きも含め、かねてより差別が野放し状態であったこの国は今や差別者天国となりつつある。親差別派政権の登場は、そうした社会情勢を政治面でも勢いづけている。

残念ながら、現在国レベルでは真摯な反差別政策の積極的な展開を全く期待できない状態であるので、地方自治体レベル、とりわけ小回りの効く合意形成が可能な市町村自治体レベルでの反差別政策の展開が期待されるところである。

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アメリカ憲法瞥見(連載第8回)

2014-09-19 | 〆アメリカ憲法瞥見

第三条(司法府)

 本条は、三権のうち司法府に関する規定である。アメリカは連邦制のため、司法権も連邦と州で二元的に構成されるが、通常の民事・刑事裁判権は州にあり、連邦司法権は連邦法上の事件など、特定の事件の審理に限られている。そのため、司法権に関する規定はごく簡略である。

第一項

合衆国の司法権は、一つの最高裁判所、および連邦議会が随時制定し設立する下位裁判所に属する。最高裁判所および下位裁判所の裁判官はいずれも、非行なき限り、その職を保持することができる。これらの裁判官は、その職務に対して定期に報酬を受ける。その額は、在職中減額されない。

 本項は連邦司法権の所在及び連邦裁判官の身分保障に関する規定である。日本国憲法にも影響し、類似の規定がある。

第二項

1 合衆国の司法権はつぎの諸事件に及ぶ。この憲法、合衆国の法律および合衆国の権限にもとづき締結された、または将来締結される条約のもとで発生するコモン・ロー上およびエクイティ上のすべての事件。大使その他の外交使節および領事にかかわるすべての事件。海事法および海事裁判権に関するすべての事件。合衆国が当事者の一方である争訟。二以上の州の間の争訟。州と他州の市民との間の争訟。異なる州の市民間の争訟。同じ州の市民間の争訟であって、異なる州から付与された土地の権利を主張する争訟。一州またはその市民と外国またはその市民もしくは臣民との間の争訟。

2 大使その他の外交使節および領事にかかわるすべての事件、ならびに州が当事者であるすべての事件については、最高裁判所は、第一審管轄権を有する。前項に掲げたその他の事件については、最高裁判所は、連邦議会の定める例外の場合を除き、連邦議会の定める規則に従い、法律問題および事実問題の双方について上訴管轄権を有する。

3 弾劾事件を除き、すべての犯罪の裁判は、陪審によって行われなければならない。裁判は、当該犯罪がなされた州で行われなければならない。但し、犯罪がいかなる州においてもなされなかったときは、裁判は、連邦議会が法律で定める一または二以上の場所で行われるものとする。

 本項は、連邦司法権の及ぶ範囲を具体化する定である。ただし第一項で掲げられた事件類型のうち、合衆国の一州に対して他州の市民または外国の市民もしくは臣民が提起した民事訴訟については、修正第一一条で連邦司法権の対象から外された。州の主権免責を認めたものである。
 最も特徴的なのは、第三項第一文で弾劾事件を例外として、刑事陪審制度が全米において憲法上義務づけられていることである。これは独立戦争前夜、宗主国英国がしばしば植民地で陪審抜きの不公平な特別裁判を実施したことから、陪審制度の保持は独立の大義の一つだったことに由来していると言われる。従って、アメリカの陪審制度は単なる伝統的な法慣習にとどまらない革命的な意義を持っている。

第三項

1 合衆国に対する反逆罪は、合衆国に対して戦争を起こす場合、または合衆国の敵に援助と便宜を与えてこれに加担する場合にのみ、成立するものとする。何人も、同一の外的行為についての二人の証人の証言、または公開の法廷での自白によるのでなければ、反逆罪で有罪とされない。

2 連邦議会は、反逆罪の処罰を宣言する権限を有する。ただし、反逆罪を理由とした私権剥奪の効力は、血統汚損または私権を剥奪された者の生涯の間を除き、財産没収に及んではならない。

 本項は司法権そのものよりも、反逆罪という政治犯罪の定義及び処罰条件・処罰内容についての規定である。憲法にこのような刑罰法規を置いた意味は、反逆罪の規定を法律だけで改廃することを許さず、あいまいになりやすい反逆罪の構成要件を絞り込み、かつ定められた証拠によってのみ処罰しようとする趣旨である。

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英国労働党史(連載第7回)

2014-09-17 | 〆英国労働党史

第3章 英国式半社会主義

3:半社会主義革命(1)
 第二次大戦でナチスドイツが降伏し、英国を含む連合国の勝利が見え始めた1944年になると、労働党は戦争終結後を見据え、35年以来開催されていなかった総選挙の早期実施を求め、保守党との連立を解消することを決めた。来たる総選挙は単独での政権獲得を目指し、保守党と正面対決するという方針である。
 チャーチル首相は日本の降伏まで連立を維持すべきとの意見であったが、労働党の拒否姿勢や保守党内からの異論があり、チャーチルは日本降伏前の45年6月に解散総選挙に踏み切った。10年ぶりとなる総選挙で、アトリー労働党は「未来に向き合おう」をキャッチフレーズに、マルクスではなく、ケインズの理論に立脚した完全雇用や政府が資金拠出する国民医療制度の創設などを訴えた。
 対するチャーチル保守党は、こうした労働党の公約を社会主義的であるとして非難し、ナチスになぞらえるなどのネガティブキャンペーンすら展開したが、これは完全な裏目であった。総選挙の結果は保守党の惨敗、空前の393議席を獲得した労働党が史上初めて単独で衆議院の過半数を制する圧勝となった。これにより、アトリーを首班とする労働党の完全な単独政権が発足する。
 この選挙結果は多くの選挙ウォッチャーの予想を超えるものであったが、労働党の勝因は大戦で戦勝国となったとはいえ、海外投資の激減に戦争負債と英国自体は疲弊し、実質上は敗戦に等しい国力衰退が明瞭となっていた中、戦勝の功績ばかりを強調するチャーチル保守党よりも控えめなアトリー率いる労働党の革新的な公約に大衆がひきつけられたということが考えられる。
 そうした意味では、この労働党の大勝利とそれに続く大規模な社会改革をもたらした1945年総選挙は、「投票箱を通じた革命」と言うべき出来事に数えることができると言えよう。

4:半社会主義革命(2)
 かつて「揺りかごから墓場まで」という標語で評された英国型福祉国家の基礎は、45年から51年まで続いた比較的短いアトリー労働党政権の時代にほぼすべてが出揃っていたと言ってよい。
 ただ、アトリー政権の政策は単なる福祉国家政策にとどまらず、より踏み込んだ社会主義的施策を含んでいた。すなわち、銀行、石炭、鉄鋼、電気、ガス、運輸に至る基幹産業の国有化である。その結果、アトリー政権が終わった51年までに英国経済の20パーセントが国有化された。
 ソ連のような中央計画経済こそ導入されなかったが、政府は戦時統制経済のほとんどを維持することで物財と労働力の配置をコントロールできたため、アトリー労働党が重要な公約に掲げた完全雇用はほぼ達成された。むしろ労働力は不足気味で、アトリー政権期に失業率が3パーセントを越えることはほとんどなかった。この間、インフレも抑制され、生活水準も向上するなど、経済は好転していったのである。
 アトリー政権期に導入された政策の多くは、政権退陣後徐々に覆され、最終的には1980年代のサッチャー保守党政権期の「保守革命」で解体されるが、今日でも残されているものとして国民医療制度(National Health Service)がある。これは、財源の大半を健康保険ではなく、税収による一般財源でまかなう公費負担医療制度の一つで、実質的な国営医療制度である。まさに「揺りかごから墓場まで」ほぼ無料で医療が受けられる制度として、これだけは保守革命でも廃止できなかった英国のシンボルである。
 こうしたアトリー政権の施策は、アトリー自身も青年期に影響を受けたフェビアン協会の社会改良主義に基づくものであり、下野したチャーチルがますます声高に非難したほど社会主義的でもなく、まして共産主義的ではなかったけれども、生産手段の公有化を進め、経済の相当部分を国有化した限りでは、単なる福祉国家を超えた「半社会主義」と呼ぶべき独特の体制に仕上がっていった。
 奇跡的だったのは、多岐にわたった大胆な改革を51年総選挙で再び労働党が下野するまでの6年ほどでやり遂げたことであった。それを可能にしたのは、カリスマ性には欠けるが知的で、実務能力に長けたアトリー首相の手腕だけでなく、大戦直後の復興期という状況と先の見えない大衆の不安、そして社会主義がまだ魅力的な未来の選択肢とみなされていた思想状況であっただろう。

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英国労働党史(連載第6回)

2014-09-16 | 〆英国労働党史

第3章 英国式半社会主義

1:第二次大戦と労働党
 1931年総選挙では労働党のマクドナルド首相率いる挙国一致内閣が支持されたものの、労働党は結党以来の惨敗に終わった。閣僚経験者の多くも落選の憂き目を見て、この後35年まで続くマクドナルド内閣は、第一党保守党が主導するものとなる。
 翌年32年には党内会派的な形で残存していた労働党源流政党である独立労働党と労働党執行部の確執が極まり、同党が離脱してまさに「独立」していくなど、党にとっては分裂の危機が訪れたが、35年総選挙が危機を救った。折から増大する失業対策が経済面での重要争点となったことで、労働党への支持が戻ったためと見られる。
 時の党首は後に首相となり、英国で半社会主義の実験を展開するクレメント・アトリーであったが、彼はこの時点では暫定的な党首にすぎないと見られていた。ともあれ、35年総選挙で労働党は154議席を回復し、V字回復したのである。
 この後、第二次大戦中は総選挙が行なわれず、45年まで10年間にわたり、保守党主導の挙国一致戦時内閣が継続される。この間、労働党は連立与党の一角を占め続け、42年にはアトリーが時のチャーチル内閣に新設された副首相として入閣している。これは、戦争が深まる中、チャーチル首相が戦争指導に専念できるよう、アトリー副首相が内政面を統括する狙いによるものであった。
 かくして、第二次大戦中の労働党は、形の上では「野党」でありながら、保守党との連立政権を通じて、国政運営の要諦を学んでいったのである。その反面、労働党は保守化を免れず、特に戦争政策では従来の平和志向的な姿勢を転換し、保守党のチェンバレン首相の宥和政策を批判し、積極的な戦争支持に回るなど、時に保守党よりも保守的な姿勢をも示すのだった。
 1930年に離党して、英国ファシスト同盟を結成するに至った准男爵オズワルド・モーズレー卿は、こうした保守化した時期の労働党の逸脱的な副産物であった。

2:アトリー時代の始まり
 上述のとおり、第二次大戦期の労働党を率いたのはアトリーであったが、彼は当初暫定的と見られた予想を超え、35年の就任から大戦をはさんで20年にわたって党首を務め、初期労働党を率いたマクドナルドに続く戦時・戦後の労働党の指導者として、大きな足跡を残した。
 アトリーは中流の事務弁護士の家庭に生まれ、自らもオックスフォード大学出身の法廷弁護士であった。ただ、彼はブルジョワや企業の弁護士とはならず、最初の仕事はロンドンでも貧しいイーストエンド地区の労働者階級の子どもを支援する団体の職員であった。この経験が元来は保守的だったアトリーの価値観を変え、社会主義への関心を深めたとされる。アトリーは08年、労働党に入党し、地方活動家となる。
 その後は研究者や行政官などを歴任し、第一次大戦への従軍後、ロンドンでも最貧困地区の区長を経て、22年総選挙で下院議員に当選、以後国政で活躍する。国政では初期労働党のリーダーだったマクドナルドの支持者として、マクドナルド政権でも有力なポストに就いた。
 しかし、彼が党指導部の前面に出てくるのは、35年に時のランズベリー党首が辞任した時であった。ランズベリーは31年総選挙で党が大敗した後、党再建に取り組んでいたが、確信的な平和主義者であり、ファシストイタリアやナチスドイツ、軍国日本の侵略行動が進み、戦争の足音が高まる中、党内からも異論に直面し、辞任を決意したのだった。
 後任には労組系有力者が選出されるものとの予想に反し、非労組系で弁護士という労働党では異色の経歴を持つアトリーが選出されたのであった。実際のところ、アトリーもかつては平和主義者であったが、この頃には立場を主戦論に変えていた。
 こうして、党内傍流から党首に就いたアトリーは、チャーチル戦時内閣をナンバー2として支え、特に内政面で手堅い行政手腕を見せたことで、戦後首相へ昇る足場を得たのであった。

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旧ソ連憲法評注(連載第14回)

2014-09-12 | 〆ソヴィエト憲法評注

第五十条

1 人民の利益にしたがい、社会主義体制を強化し、発展させる目的で、ソ連市民は、言論、出版、集会、会合、街頭および示威行進の自由を保障される。

2 これらの政治的自由の行使は、公共の建物、街路および広場の勤労者とその団体への提供、情報の広範な普及ならびに出版物、テレビジョンおよびラジオを利用できることによって、保障される。

 本条から先は自由権の規定になるが、家族の保護に関する第五十三条を除くと、自由権条項は本条を含めて6か条しかなく、ソ連憲法における自由権の扱いは素っ気ないものとなっている。このことが自由抑圧の直接の根拠ではないにせよ、自由のなかったソ連体制の象徴と見られてもやむを得ない面はある。
 自由権条項筆頭の本条が表現の自由を保障する規定である点は常道的と言えるが、第一項で「人民の利益にしたがい、社会主義体制を強化し、発展させる目的で」という限定が付されていることが、特徴的である。
 この限定は反対解釈すれば、所定の目的を持たない表現活動の自由は保障されず、場合によって処罰される可能性を示唆する。実際、ソ連では体制批判的な表現活動は抑圧された。「人民の利益」といった文言の曖昧さを含め、問題を含む条項であった。
 一方、第二項は表現活動に際して、公共の建物やマスメディアなどから便宜を受ける権利を保障するもので、表現の自由の社会権的な拡張を目指す先進的な規定と見る余地もある規定であったが、これも第一項と読み合わせれば、「人民の利益にしたがい、社会主義体制を強化し、発展させる目的」を持つとみなされた表現活動に限って便宜を受けられるという差別的な対応の根拠となり得るところであった。

第五十一条

1 共産主義建設の目的にしたがい、ソ連市民は、政治的な積極性および自主的ならびにその多様な利益をみたすことを促進する社会団体に、団結する権利をもつ。

2 社会団体は、その規約の定める任務の遂行の成功のための条件を保障される。

 本条は結社の自由を保障する規定であるが、構造上は前条と同様に、目的によって制約されている。しかも、本条は「共産主義建設の目的」と前条以上に狭く限定されている。この規定からすると、本条で保障される結社は共産主義を奉じる団体に事実上限られ、それはつまるところ、共産党の傘下ないし関連団体ということになろう。社会団体の活動に対する支援を定めた第二項の規定が素っ気なく漠然としているのも、そのためである。

第五十二条

1 ソ連市民は、良心の自由すなわち任意の宗教を信仰し、またはいかなる宗教も信仰せず、宗教的礼拝を行ない、または無神論の宣伝を行なう権利を保障される。信仰とむすびつく敵意または憎悪をよびおこすことは、禁止される。

2 ソ連における教会は国家から分離され、学校は教会から分離される。

 かつて西側ではソ連は無神論の総本山と目され、そのことが信仰者の間に強い反ソ主義者を生む原因でもあったが、少なくとも憲法上は信仰の自由と無信仰の自由とを同等に保障する体裁が採られていた。ただ、第一項第一文でわざわざ「無神論の宣伝を行なう権利」に言及されていることは意味深長である。ここでは宣伝を行なう主体は国家でなく、ソ連市民とされているが、無神論を教義とする体制の本音を滲ませた箇所とも受け取れる。なお、第一項第二文は宗教的な憎悪表現の禁止を定めており、これ自体は先進的な規定であった。
 第二項は政教分離と教教分離を定めている。ソ連初期にはロシア正教会への弾圧政策が採られたこともあったが、晩期にはそうした宗教弾圧姿勢を改め、ブルジョワ憲法的な政教分離政策に転換していた。ただし、それは学校の非宗教性まで要求する徹底した分離であった。

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旧ソ連憲法評注(連載第13回)

2014-09-11 | 〆ソヴィエト憲法評注

第四十八条

1 ソ連市民は、国家的および社会的なことがらの管理ならびに法律と全国家的および地方的な意義をもつ決定の討議と採択に参加する権利をもつ。

2 この権利は、人民代議員ソヴィエトおよびその他の選挙制の国家機関を選挙し、これらに選挙され、全人民的な討議および投票ならびに人民的監督に参加し、国家機関、社会団体および社会的自主機関の仕事、ならびに労働集団の集会および居住地の集会に参加することができることにより、保障される。

 本条と次条は広い意味での参政権に関わる規定である。順序としては、社会権と自由権の間に挟まる形で規定されており、社会権より劣後していることは特徴的である。
 狭義の参政権を保障する本条第二項で、参政権の行使は投票に限らず、国家機関ないし公共的機関の仕事に就くこと(公務就任権)、職場や地域の集会に参加することなど多様な形で保障されているように見えるが、実際のところ共産党独裁体制では公職選挙は出来レースであり、各種集会も党公認の官製集会にすぎず、実質的な参政権は確保されていなかったと見られる。

第四十九条

1 ソ連のすべての市民は、国家機関および社会団体にたいして、その活動の改善を提案し、その仕事の欠陥を批判する権利をもつ。

2 公務員は、定められた期間に市民の提案および申請を審理し、それにたいする回答を行ない、必要な措置をとる義務をおう。

3 批判を理由とする迫害は、禁止される。批判を理由に迫害をした者は、責任をとわれる。

 本条は、人民主権原理の表れとして、請願権よりは直接的だがイニシアティブほど直接的ではない、独特の提案・批判権を定める規定である。第三項で批判を理由とする迫害の禁止を注意的に定めているとはいえ、支配政党たる共産党への批判はタブーであり、実際上ソ連の体制批判者は陰に陽に抑圧されていたことは、よく知られている。

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「ネオナチ写真」が意味するもの

2014-09-10 | 時評

安倍改造内閣の女性閣僚と女性与党幹部が日本のネオナチ政党(議会外政党)のリーダーと写真に写っていた問題は、ネオナチについて周知されていない日本国内ではケアレスミス程度の扱いであるが、海外ではそれだけで政治生命を絶たれるであろう単なるスキャンダルを超えた重大な意味を持っている。

当人らは「知らなかった」と抗弁するが、公人が共に写真に納まる相手に頓着しないというのは、言い訳にならない。全く個人的な秘蔵写真ならいざ知らず、公開される可能性のある写真で一緒に写る相手の吟味は当然である。もし本当に知らなかったのだとしても、ネオナチの来客と間接的な人脈はあったという事実までは否定できない。

ナチズムを最凶とするファシズムは、保守勢力の反動化によって呼び込まれる現象であり、まさに知らないうちに政界に忍び込み、増殖していくものである。このことは、ネオナチのような派生的亜種に限らず、本家本元ナチスも同様であった。

昨今、日本では保守勢力の反動化著しく、安倍政権はそうした傾向を象徴する政権であるが、比較的色を薄めていた改造前に比べ、改造内閣・与党執行部は反動色を鮮明にしたことで、おそらく戦後最凶右派政権の陣容となった。逆走の戦後日本史はまた一つ新たな段階に踏み込んだと言えよう。

もう一つの新しい特徴は、そうした反動化の前面に女性たちが登場していることである。今般改造内閣の目玉は史上最多5人の女性が入閣したことである。それだけとれば「進歩的」とも言えるが、問題は5人の顔ぶれだ。過去の言説からみて、5人中「ネオナチ」写真大臣を含む少なくとも3人は明らかに右派、1人も準右派で、イデオロギー的に安倍首相とも近い。

実はこうした女性の右傾化は日本だけの現象ではなく、フランスでも議会政党である極右国民戦線の現党首は女性であるし、ノルウェーでも現在連立与党入りしている右翼政党・進歩党の党首は女性である。しかし、日本における女性の右傾化はかなり際立っているように思える。

こうした女性たちは、女性でありながら反フェミニズム言説に与するなど、女性の解放そのものには関心がなく、男性的論理を血肉化することで、日本の男性優位社会における例外女性としての地位を確保しようとしている。右傾化もそうした彼女たちの立身戦略と言えるのかもしれない。

しかし、そうして結果的には“男女共同参画”での保守反動化が進むことで、ネオナチのようなものが呼び込まれ、増殖していく危険も高まる。このまま進めば、向こう10年以内にネオナチ政党の議会進出が現実のものとなるかもしれない―。そんな脅威を感じさせるネオナチ・ショットであった。

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アメリカ憲法瞥見(連載第7回)

2014-09-06 | 〆アメリカ憲法瞥見

第二条(行政府)

第二項

1 大統領は、合衆国の陸軍および海軍ならびに現に合衆国の軍務に就くため召集された各州の民兵団の最高司令官である。大統領は、行政各部門の長官に対し、それぞれの職務に関するいかなる事項についても、文書によって意見を述べることを要求することができる。大統領は、弾劾の場合を除き、合衆国に対する犯罪について、刑の執行停止または恩赦をする権限を有する。

2 大統領は、元老院の助言と承認を得て、条約を締結する権限を有する。但し、この場合には 元老院の出席議員の三分の二の賛成を要する。大統領は、大使その他の外交使節および領事、最高裁判所の裁判官、ならびに、この憲法にその任命に関して特段の規定のない官吏であって、法律によって設置される他のすべての合衆国官吏を指名し、元老院の助言と承認を得て、これを任命する。但し、連邦議会は、適当と認める場合には、法律によって下級官吏の任命権を大統領のみに付与し、または、司法裁判所もしくは各部門の長官に付与することができる。

3 大統領は、元老院の閉会中に生じるいっさいの欠員を補充する権限を有する。但し、その任命は、つぎの会期の終りに効力を失う。

 本項は、合衆国大統領の権限に関する規定である。これによると、大統領の主要な権限は軍事と外交―筆頭は軍事―であることがわかる。一見強大に見える大統領であるが、間接選挙で選ばれる大統領の権限は意外なほど限られており、米国の国政は議会中心主義に基づき、連邦議会が主導している。

第三項

大統領は、随時、連邦議会に対し、連邦の状況に関する情報を提供し、自ら必要かつ適切と考える施策について審議するよう勧告するものとする。大統領は、非常の場合には、両議院またはいずれかの一院を召集することができる。大統領は、閉会の時期に関し両議院の間で意見が一致しないときは、自ら適当と考える時期まで休会させることができる。大統領は、大使その他の外交使節を接受する。大統領は、法律が忠実に執行されることに留意し、かつ、合衆国のすべての官吏を任命する。

 本項は、大統領と連邦議会の関係性に関する規定である。ここでも、大統領は自らの施策について審議するよう議会に勧告できるにとどまり、直接に法案を提出することはできない。また議会の召集・解散権もなく、ただ非常時の召集権と閉会時期について両議院の合意がない場合の休会の権限しか持たない。結局、合衆国大統領とは最高行政官にすぎず、国政全般を統括する「大統領」ではない。日本語における「President=大統領」という定訳は、実態と合致していない。

第四項

大統領、副大統領および合衆国のすべての文官は、反逆罪、収賄罪またはその他の大罪及び非違行為につき 弾劾の訴追を受け、有罪の判決を受けたときは、その職を解かれる。

 正副大統領をはじめとする合衆国文官に対する連邦議会の弾劾裁判権に関する規定である。これも議会中心主義の現れであり、特に大統領に対しては、議会の持つ究極的な牽制権である。実際に本項に基づいて弾劾・解職された大統領は現時点では存在しない。

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アメリカ憲法瞥見(連載第6回)

2014-09-05 | 〆アメリカ憲法瞥見

第二条(行政府)

 立法府に関する第一条に続く第二条は、行政府に関する規定である。大統領制の米国では行政府は大統領が単独で指揮する。大統領の下に閣僚及び閣僚級行政官をメンバーとするcabinetは存在するが、これは英国や日本のような議院内閣制の内閣とは全く異なり、大統領を補佐する助言機関にすぎないもので、憲法上にも規定が存在しない。

第一項

1 行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する。大統領の任期は四年とし、同一の任期で選任される副大統領とともに、つぎの方法で選出される。

2 各々の州は、その立法府が定める方法により、その州から連邦議会に選出することのできる元老院議員および代議院議員の総数と同数の選挙人を任命する。但し、元老院議員、代議院議員および合衆国から報酬または信任を受けて官職にあるいかなる者も、選挙人に選任されることはできない。

3 選挙人は、各々の州で集会して、無記名投票により二名に投票する。そのうち少なくとも一名は、選挙人と同じ州の住民であってはならない。選挙人は、得票者と各々の得票数を記した一覧表を作成し、これに署名し認証した上で、封印をほどこして元老院議長に宛てて、合衆国政府の所在地に送付する。 元老院議長は、元老院議員および代議院議員の出席の下に、すべての認証書を開封したのち、投票を計算する。 最多数の投票を得た者の票数が選挙人総数の過半数に達しているときは、その者が大統領となる。選挙人総数の過半数に達した者が二名以上あり、かつ、得票数が同数の場合は、代議院は直ちに無記名投票により、 その中の一名を大統領に選出しなければならない。過半数に達した者がいないときは、得票者一覧表の中の上位得票者五名の中から、同一の方法で代議院が大統領を選出する。但し、この方法により大統領を選出する場合には、投票は州を単位として行い、各州の議員団は一票を投じるものとする。この目的のための定足数は、全州の三分の二の州から一名または二名以上の議員が出席することを要し、大統領は全州の過半数をもって選出されるものとする。いずれの場合にも、大統領を選出した後に、選挙人の投票の最多数を得た者が、副大統領となる。但し、その場合に同数の得票者が二名以上あるときは、上院は無記名投票でその中から副大統領を選出しなければならない。

4 連邦議会は、選挙人を選任する時および選挙人が投票を行う日を定めることができる。投票日は合衆国全土を通じて同一の日でなければならない。

5 出生により合衆国市民である者、または、この憲法の成立時に合衆国市民である者でなければ、大統領の職に就くことはできない。年齢満三五歳に達していない者、および合衆国内に住所を得て一四年を経過していない者は、大統領の職に就くことはできない。

6 大統領が罷免され、死亡し、辞職し、またはその職権および義務を遂行する能力を失ったときは、副大統領が、大統領の職務を行う。連邦議会は、大統領と副大統領がともに罷免され、死亡し、辞職し、または執務不能に陥った場合について、法律により、いかなる官吏に大統領の職務を行わせるかを定めることができる。この官吏は、執務不能の状態が解消される時または大統領が選出される時まで、大統領の職務を行う。

7 大統領は、その職務に対して定期に報酬を受ける。報酬額は、その任期中増額または減額されない。大統領は、その任期中、合衆国または州から他のいかなる報酬も受けてはならない。

8 大統領は、その職務遂行に先立ち、つぎのような宣誓または宣誓に代る確約をしなければならない。「私は、合衆国大統領の職務を忠実に執行し、全力を尽して合衆国憲法を維持し、保護し、擁護する ことを厳粛に誓います(確約します)。」

 本条項は正副大統領の選出法を中心に、大統領の地位について規定している。米国大統領は建国時から州ごとに任命された選挙人を通じた間接選挙制によることでは今日まで不変であるが、第三号に定める具体的な選挙方法については修正第一二条及び二〇条をもって全面改正されている。改正の中核は、大統領二名連記・副大統領次点制を正副大統領個別投票制に改めたことである(詳細は修正条項の稿で後述する)。

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英国労働党史(連載第5回)

2014-09-03 | 〆英国労働党史

第2章 初期労働党の成功

3:マクドナルド政権
 1922年総選挙で初めて100議席を突破した労働党は、続く23年総選挙では191議席に伸ばした。保護貿易か自由貿易かが主要争点となった23年総選挙では保護貿易を主張した保守党に対し、労働党は自由貿易を主張した。結果、保守党は議会多数党の地位を失ったことで、翌年、ついに労働党に組閣の大命が下った。
 こうして党首に復帰していたマクドナルドを首班とする史上初の労働党内閣が発足した。しかし、議席数では衆議院の三分の一にも届かない超少数内閣であったため、自由党の閣外協力を得ながらも法案成立には苦慮し、本来の社会主義的施策の実現は望めず、唯一の成果は自治体に低所得者向け賃貸住宅建設の補助金を出す住宅法くらいのものであった。ただ、外交面では第一次大戦の敗戦国ドイツの賠償責任を軽減するドーズプランの受け入れをフランス政府に飲ませるという重要な成果も上げている。
 超少数内閣では長期政権は望めなかったとはいえ、マクドナルド内閣は左翼雑誌上で内乱を扇動した疑いを持たれた共産主義者キャンベルの起訴取り下げを決定したことで、議会の信任を失い、わずか9か月で総辞職に追い込まれた。続く総選挙では保守党が地滑り的勝利を収めて政権に復帰した。労働党は得票率では前回選挙を上回ったものの、40議席減らす後退となった。
 しかし次の29年総選挙で労働党は287議席を獲得し、初めて議会第一党に躍進する大勝利となった。この選挙は女性も含めた普通選挙制の下で行なわれた史上初の選挙でもあった。そのため、再び政権に復帰したマクドナルド首相は英国史上初めての女性大臣を任命するなど、1929年は英国女性にとって記念すべき年となった。
 議会第一党とはいえ、自由党がいくらか盛り返したことで、今度もまた議会多数派を握ることのできなかった第二次マクドナルド内閣は、不運なことに政権発足早々アメリカ初の世界大恐慌にも見舞われることになった。与党内は財政削減をめぐって紛糾し、急速に悪化する雇用情勢に有効な対策を示せなかった。
 そうした中、マクドナルド首相は31年、保守党・自由党も含めた挙国一致内閣の樹立に踏み切るが、これをめぐり労働党内は分裂、マクドナルド首相らが除名されるという異常事態となる中、首相は分派を形成して総選挙に臨み、労働党にとって初の分裂選挙となった。
 結果、挙国一致内閣は総体として勝利したものの、労働党は200議席以上も減らし、わずか46議席にとどまる壊滅的惨敗となった。それでも政権としては「勝利」したマクドナルドは、引き続き35年まで挙国一致内閣の首相を務めるが、主導権は多数党の保守党に握られた。

4:周辺左派政党との関係
 初期労働党はこうして二度にわたる政権を経験しながらも、31年総選挙で壊滅的な敗北を経験するが、総合的に評価すれば正式の結党から25年ほどの新興政党としては十分に成功したと言えるだろう。
 成功の積極的な要因として、非教条主義的で、自由貿易のような非左派的な主張も辞さず、危機に際しては反対党の保守党とも組む柔軟性があった。こうした柔軟路線を実務面で指導したのが二度にわたり首相を務めたマクドナルドであったが、その柔軟すぎる政治姿勢は党内からもしばしば裏切り者呼ばわりされるほどであった。
 しかし、そればかりでなく、労働党は他国の類似政党のように共産党と母体を共有せず、共産党とは初めから別個政党として先行的に設立・発展したことから、英国では共産党が伸びず、左派票を共産党と奪い合うことがなかったという消極的要因も大きい。
 英国共産党は労働党より遅れて1920年にコミンテルンの影響下に結成され、22年総選挙では1議席を獲得したが、同党はコミンテルン方針に従い労働党との連携を拒否していたため、両党間で選挙協力が行なわれることはなかった。ただ、第一次マクドナルド内閣の命取りとなったキャンベル事件が露呈したように、党内には共産党シンパも伏在していたと見られ、キャンベル起訴の取り下げもそうした党内からの圧力を受けてのことであった。
 しかし、マクドナルド首相ら党指導部はモスクワの影響力が浸透することを恐れ、共産主義とは明確な一線を画し、キャンベル事件後は意識的に党の穏健化を進めた。そのため、下野中の26年に起きたゼネスト―多くの共産党員が支持した―にも反対した。
 一方で、労働党は1927年以来、協同組合党と選挙協力関係を結んでいる。協同組合党は英国独自の政党で、共産党とは全く異なり、様々な協同組合組織が結集して1917年に結党された中道左派政党であり、元来労働党とも近い位置にあった。
 同党は当初、独自に候補者を立てたが、18年総選挙で初めて当選者を出して以来、労働党の支援を受ける左派系小政党として伸び、27年の正式の選挙協力協定以来、実質上労働党の傘下政党に近い立場で確立されていく。

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英国労働党史(連載第4回)

2014-09-02 | 〆英国労働党史

第2章 初期労働党の成功

1:労働党誕生まで
 労組合法化以降の労働組合は、議会政治への関与を希求するようになる。しかし選挙制度改革で選挙権の範囲は徐々に拡大されていたとはいえ、まだ完全な普通選挙制は導入されておらず、当初は既成二大政党のうちリベラルな自由党の地盤を借り受けるしかなかった。
 そうした自由党に支援された労働系候補が初めて当選者を出したのは1874年総選挙であり、共に炭鉱労働者出身の2人の衆議院議員が誕生した。これに対し、自由党相乗り選挙に飽き足らないグループは独立労働党を立ち上げ、1895年総選挙で独自候補を立てるも、結果は惨敗であった。普通選挙制が未実現の状況では、自由党の枠を超えた労働党の議会進出には大きな壁があった。
 独立労働党の党首はスコットランド生まれで炭鉱労働者出身のケア・ハーディであったが、彼は総選挙惨敗の結果を受け、より広範な左派勢力の結集を構想した。そうした中、1899年、労働組合会議(TUC)は独自の労働系候補者を支援する統一選挙組織結成を図り、翌年に労働代表委員会を立ち上げた。
 この組織はまだ政党ではなく、先のフェビアン協会などの非労働系左派も参画した寄り合い所帯のグループであったため、単一の指導者はいなかったが、後に史上初の労働党政権を首相として率いることになるスコットランド人のラムゼイ・マクドナルドが書記に選出された。この体制で最初の選挙戦となった1900年総選挙では資金不足から15人の公認候補しか立てられなかったが、ケア・ハーディを含め2人が当選した。
 転機となるのは、29人の当選者を出した1906年総選挙であった。躍進の要因は、その三年前、労働代表委員会と自由党との間で結んだ密約にあった。密約は30の選挙区で競合候補者を互いに出さないという内容で、これによって共倒れを防いだのだった。
 この躍進を受け、労働代表委員会は正式の政党化を決定、ここに労働党が誕生する。初代党首にはハーディが就き、マクドナルドが党議員団長に就任した。
 このように、草創期から現代に至っても労働党指導者にスコットランド出身者が少なくないのは、往年の独立国からイングランドの周縁地として従属的地位に置かれていたスコットランドでは労働者階級が早くから凝集していたことで、労働党の有力地盤を形成してきた事情による。

2:政権獲得への道
 新生労働党にとって最初の選挙戦となった1910年1月の総選挙では議席を40に増やし、同年12月の総選挙でさらに2議席積み増した。こうして保守‐自由二大政党政に食い込む第三極として順調に成長していった労働党にとって最初の試練は、内部から発生した。それは折からの第一次世界大戦への参戦方針を巡る内紛であった。
 マクドナルドやハーディらは反戦派であり、マクドナルドは14年に英国が参戦し、党主流派が参戦支持に回ると、党議員団長を辞任した。戦時中の労働党は08年にハーディの後任として党首に就任していたアーサー・ヘンダーソンが指導することとなり、彼は時のアスキス自由党内閣に入閣を果たした。史上初の労働党系大臣であった。この自由‐労働連立政権の経験は、党分裂の危機を招きながらも、後の労働党政権の予行演習となった。
 労働党の強みの一つは、教条主義を排した初代党首ハーディの性格を反映し、大陸諸国の類似政党や共産党のように党内のイデオロギー対立に基因する分派抗争が少なく、柔軟性に富んでいることにあった。そのため大戦中の党内対立も、戦後すみやかに修復された。
 党にとって政権獲得への地ならしとなったのは、18年の選挙法大改正であった。かつてのチャーティスト運動の主要な要求事項を実現したこの改正により、男子普通選挙制とともに一定条件を満たす30歳以上の女子にも選挙権が与えられたことで、有権者数は労働者階級にも飛躍的に拡大されたのである。
 他方、戦時対応をめぐる対立から大戦後ロイド‐ジョージ派とアスキス派とに分裂していた自由党は22年総選挙で惨敗し、結果として労働党がついに142議席を獲得して保守党に次ぐ議会第二党かつ野党第一党に躍進したのである。これは英国史上の大転換点であり、以後、英国議会政治は200年続いた保守‐自由二大政党政から保守‐労働二大政党政へと変遷していくことになる。

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