ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

人道的大義の陥穽

2016-12-31 | 時評

大晦日の午後、NHKが放映したカナダ映画『消えたブロガー“アミナ”』は、ブロガーの端くれとしても、様々なことを考えさせるミステリー的要素も加味された出色のドキュメンタリー作品であった。

この「アミナ事件」は発生から4年が経過しているが、それは「ダマスカスに住む女性同性愛者(レズビアン)」という標榜でシリア民主化を求めるブログを発信し、世界的に著名な存在となっていた人物「アミナ」が、実は既婚米国人男性による完全な創作だったことが発覚した「事件」である。

それだけのことなら、ネット社会にありがちな「なりすまし事件」で片が付いていたところ、問題を複雑にしたのは、架空の主人公「アミナ」がある日、政権派と見られるグループに拉致され、行方不明になったという情報が流れたことである。実は、これも件の男性がでっち上げた作り話だったのだ。

しかし、この話を信じた人道関係者や「アミナ」とネット恋愛していたカナダ女性らが“解放”に動き出し、アメリカ国務省も巻き込む騒ぎとなった。しかし、結局、事態の展開に恐れをなした男性が創作を告白し、騒動は終わった。

私の知る限り、当時日本ではこの「事件」は大きく報道されなかったと記憶する。中東情勢に関心が薄く、まだシリア内戦も初期段階だったことに加え、性的少数者がらみの話題をいまだタブー視する風潮の強い日本の特殊事情が絡む無関心だったのだろう。筆者自身、寡聞にして今回初めてその概要を知った。

しかし、この事件は事実確認を飛び越えて人道的大義にはやることの危険性を教えてくれる重要な前例である。ちょうど昨日、シリア内戦が年末駆け込みで今年三度目の停戦を迎えたところであるが、この停戦はシリアのアサド政権を擁護するロシアの荒っぽい軍事介入によるところが大きい。

同時に、アサド父子が二代半世紀で築き上げたアサド家のバース党支配体制の抑圧体系が、周辺諸国で唯一「アラブの春」を乗り切ってしまえるほど強力であることが改めて証明されたのである。戦後も、抑圧体系は機能し続けるだろう。

人道的大義に従ってアサド政権の存続を非難することはたやすいが、シリアでは反政府勢力がまとまらず、分裂していることもたしかであり、現状、アサド政権―広くはバース党―以外に、現実的な統治能力を持った勢力が存在しないのが実情である。

人道的大義は大事でないとは決して言わないが、それに駆られすぎると、シリアの戦後復興は進まない。また、第二の「アミナ事件」のような悲喜劇も起きかねない。

そうであれば、アサド政権にどんなに問題があろうと、ここ数年最大規模の難民を出してきた状況を打開するために、国際社会は三度目の正直となる停戦を支え、アサド政権の当面の存続を容認するという決断を下すしかないだろう。

ただし、そのことは、政権の組織的人権抑圧を等閑視することを意味しない。国際社会はシリアの復興を助けつつ、人権監視団のような中立的ウォッチの体制も整備する必要がある。 

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農民の世界歴史(連載第25回)

2016-12-27 | 〆農民の世界歴史

第7章 ブルジョワ革命と農民

(2)フランス革命と農民反乱

 封建制が衰退しながらも根強く残っていたフランスのブルジョワ革命は、英国より一世紀以上遅れで勃発する。フランス革命は総体としてブルジョワ革命の性質を持っていたが、そこには農民革命が内包されていた。
 一連の革命の導火線となった1789年7月のバスティーユ監獄襲撃事件の報は農村にも伝わり、折からの食糧難と物価高騰に苦しんでいた農民らの不満は領主館襲撃に向かった。こうした農民反乱はフランス中部から始まり、瞬く間に全国に波及していった。
 このような動きに封建制の終焉を見て取った進歩的貴族層は、国民議会を通じて封建諸特権の廃止を決めた。しかしこうした重大な既得権益廃止の常として、一挙に進んだわけではなかった。革命第一段階の立憲革命期に実現したのは、農奴制・領主裁判権・教会十分の一税という西洋封建制における三大悪制の廃止であり、貢租については一括前払いによる免除による有償廃止という抜け道が用意されていた。
 このような半端な策では多くの農民は貢租免除を受けられず、依然として貢租を通じて農地に束縛される。そこで共和制移行が成った92年には、改めて「封建領主の合法的な領有を証明する文書が提出されない限り」という条件付きの無償廃止に修正されたが、これでもなお不完全であった。
 最終的に完全な無償廃止が実現したのは、ジャコバン派独裁期の93年のことである。有名な条文「従前の領主的貢租、定期及び臨時の封建的、貢租的な諸権利のすべては・・・・・・、無償で廃止される。」が、簡潔にその趣旨を表現している。
 こうして封建的諸制度から解放されたフランス農民はこれ以降、近代的所有権を保持する有産階級の仲間入りを果たすことになるが、それは農民の間での貧富格差の発生と、農民の全般的な保守化を結果したのである。フランス革命に反動的な形で終止符を打ったナポレオンはこうした新たな農民の権利を擁護し、ブルジョワのみならず農民層にも支持基盤を確立した。
 その点、フランス革命からおよそ半世紀を経た1848年公刊のマルクス‐エンゲルス『共産党宣言』では、「中間身分、すなわち小工業者や小商人・手工業者、農民、かれらがブルジョワジーと闘うのは、中間身分としての自己の存在を没落から守るためである。従って、かれらは革命的ではなく、保守的である。それどころか反動的でさえある。」と評されるまでになったのである。
 実際、フランス農民層は19世紀を通じて新興ブルジョワ層に加わり、ナポレオン一族支配の支持者となり、やがて来る社会主義運動・革命の潮流においては総体として反革命側に加わる素地を作ったであろう。

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農民の世界歴史(連載第24回)

2016-12-26 | 〆農民の世界歴史

第三部 農地改革の攻防

第7章 ブルジョワ革命と農民

(1)英国の社会変動と農民

 世界史上初のブルジョワ革命を経験したのは17世紀イングランドであったが、その主力となったのは、ジェントリーと呼ばれる新興地主層及びヨーマンと呼ばれる解放農奴出自の小農民であった。
 イングランドでは、15世紀末ばら戦争の結果、大封建領主らが自滅的に没落していき、16世紀までに封建制はほぼ崩壊していた。この過程はフランスのような人為的革命によるのでなく、歴史の進行における社会変動によっていた。
 その結果、封建領主に代わって、おおむねその家臣級だった中小の騎士たちが台頭して、新たな在地地主階級ジェントリーを形成するようになった。他方、農奴たちは解放されて、小土地農民たるヨーマンを形成するようになった。
 また西洋封建制においてもう一つの主役であった教会に関しては、ばら戦争を止揚して成立した16世紀のテューダー朝下、国王ヘンリー8世が自ら強力に主導した宗教改革により、修道院の所領がことごとく没収され、封建領主としての教会は終焉した。
 この教会改革をヘンリーの下で実務的に主導したのが、側近トマス・クロムウェルであった。彼は農民ではないが、貧しい職人・商人の父を持ち、苦労して一代で騎士身分を獲得した立志伝中の人物である。
 トマスは、教会改革の過程で自らも旧修道院領を取得して大地主となった。彼の姉の子孫が次の世紀に清教徒革命の立役者となるオリバー・クロムウェルである。その意味で、トマス・クロムウェルこそは、ジェントリーの元祖とも言えるのであった。
 他方、ヨーマンはジェントリーの下に位置する新興小土地農民として、16世紀テューダー朝の時代には、国王軍の主力として国家にも奉仕する体制派となるが、宗教改革の過程で派生したプロテスタントの一派ピューリタン信仰の中心ともなり、スコットランド系のステュアート朝が専制化した17世紀にはジェントリーを支えて清教徒革命という宗教的形態でのブルジョワ革命を実行したのであった。
 しかし、英国では君主制護持の気風が強く、クロムウェル家二代にわたる軍事独裁型共和制は長続きせず、王政復古となり、18世紀フランス革命に際しても、英国は反革命派急先鋒であった。
 フランスが革命に揺れていた時代、すでにブルジョワ政治革命が終了していた英国は産業革命の只中にあり、ジェントリー層は資本家へと転向していく一方、ヨーマン層はおおむね賃金労働者へと転向していき、資本主義の時代を先取りしていたのである。

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皇室からの悲鳴

2016-12-23 | 時評

近年、ガラスの向こうに囲われた一家からの悲鳴が聞こえてくるようになった。従来から心身を病む皇太子妃と不登校問題を抱える皇太子夫妻の息女に加え、ついには家長たる天皇その人からも。

天皇・皇族は、その地位の特殊性から、一般市民に保障される選挙権をはじめとする公民権・市民的自由を否定もしくは強く制約されているから、言いたいことも言えず、常に動静を報じられ、老齢になっても職務から解放されることはない。

こうしたことは憲法上折り込み済みとされているが、小手先の法的理屈を抜きにすれば、天皇・皇族が基本的自由・人権を侵害されていることは否定できない。このような「天皇・皇族の人権」論は基本権の否定と引き換えに多くの世襲特権を享受する天皇・皇族の立場に鑑みれば荒唐無稽と思われてきた。

しかし、好むと好まざるとにかかわらず、現代の天皇制は、かつての神秘化された超越的なものから世俗化なものへと変貌しており、天皇・皇族は大なり小なりブルジョワ・セレブ化し、皇室は芸能的に観賞される著名人一族に近い存在になろうとしている。

解決の方法は、二つある。一つは、天皇制を維持したうえで、天皇・皇族の基本権の保障にも歩を進めること。現今の問題で言えば、天皇にも老齢または病気を理由とする退位の自由を認めることである。もう一つは、そもそも天皇制を廃止し、共和制へ移行すること。その結果、天皇・皇族も一般公民・市民としての資格を与えられることになる。

後者が最も端的な解決法であるが、そのためには憲法改正を必要とする。昨今改憲論は盛んだが、天皇制廃止を掲げる改憲論をほとんど聞かないのは、筆者の寡聞のせいだろうか。耳を澄ませてみたい。

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「領土」虚構を想う

2016-12-16 | 時評

「新しいアプローチ」云々と前宣伝が喧しかった師走の日露交渉も終わってみれば、実質的な成果なし、老獪な北の大国の術中にはまり、経済協力のみの言質を取られる結果になったようだ。今後は今回の交渉をめぐって喧々諤々の論争がなされるだろうが、どこか虚しさも感じられる。

「北方領土」と当然のごとくに刷り込まれてきたが、日本側が奪還を目指す四島、すなわちエトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイはすべてアイヌ地名であることから瞭然のように、元は北海道全域と併せてアイヌ民族の「領域圏」であった。

アイヌは国家を持たない民族であり続けたから、アイヌ固有の国家としての領有権を主張したことは一度もないが、先住の事実に変わりない。フランス革命と同じ1789年にクナシリ・メナシのアイヌが和人商人に対して起こした武装蜂起事件は、当時の幕府による四島を含む「蝦夷地」占領への重要な契機となった。

その後、第二次大戦直後、ヤルタ協定を根拠に旧ソ連軍が四島に進攻、占領し、ソ連解体後の新ロシアが継承して今日に至る。順番をつければ、アイヌ、日本人に次ぐ三番手の住人がロシア人である。現在の争いは、二番手住人と三番手住人の間でのものである。

虚しさは、ともに侵奪者たる後住者同士の領有権争いから来るものかもしれない。しかし国際法の「理論」は不法占領でも実効支配が確立されれば領土となるといういまだに粗っぽいものだ。ロシアの実効支配は、すでに半世紀を超えている。タイムリミットが近い。

「新しいアプローチ」として日露共同主権論のような新概念が提唱されれば、いくらか展望も開けたが、日露どちらからもそうした斬新な提案はなかった。ただし、救いは今般交渉では旧/現住民の権利の擁護という視点が滲んできたことである。

旧住民の権利として墓参を含む自由往来の権利、現住民の権利としては居住継続とともに経済開発による生活水準の向上が想定されている。唯一の具体的な提案事項と言える「共同経済活動」なるものも、そのための枠組みであるべきで、四島を日露両資本の共同草刈場にしてはならない。

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農民の世界歴史(連載第23回)

2016-12-15 | 〆農民の世界歴史

第6章 民族抵抗と農民

(3)清末の義和団事変

 先に述べたとおり、19世紀半ばの太平天国はキリスト教から派生した新興宗教的な性格を持った農民反乱が半革命化したものであったが、それは一面で「滅満興漢」をスローガンとする漢民族のレジスタンスの意義も併せ持っていたと言える。このように農民反乱が民族抵抗の意義を持つのは、モンゴル系元朝を打倒し、明朝樹立をもたらした元末の白蓮教団の乱以来、新たな中国史の一部となっていた。
 しかし太平天国が鎮圧・解体された後、しばらく農民反乱は沈静化するが、体制の危機は終わらなかった。特に対外関係においては、フランス、日本との戦争に相次いで敗れ、19世紀末には列強による勢力分割に直面した。精神的な面でも、列強の侵食が進む中、キリスト教の布教活動が地方農村部にも及んでおり、入信者を増やす一方で、地元有力者や地方官吏、さらに伝統的な精神世界を重視する農民層から反発され、宣教師や信者と衝突する仇教事件が多発するようになった。
 そうした中、孔子の生誕地曲阜が所在することから儒教の聖地でもある山東省で新しい反乱の芽が生まれる。山東省にはかねてよりドイツが侵出しており、それに伴う仇教事件も頻発していたところ、そうした事件の「解決」のため自警団組織の性格を持った拳法組織が暗躍するようになり、次第に連携して義和拳と呼ばれる組織にまとまっていく。
 こうした義和拳を構成する諸組織は拳法を修練する武道団体であると同時に、多くは民間信仰的な呪術を信奉する宗教団体の性格を併せ持っていた。その点では、従前の農民反乱の精神的なバックグラウンドともなっていた白蓮教や太平天国との共通点もあったが、よりいっそう武闘的・土俗的傾向に傾斜していた。
 この山東省義和拳はいったんは列強に要請を受けた清朝当局によって弾圧されたが、沈静化することなく、かえって裏目となって山東省の外にも広がりを見せていく。特に首都北京を含む直隷省に及んだことは、重大事態であった。
 この頃には義和拳は地方官吏などの庇護の下に巨大化して義和団となっていたが、決して統一的な団体ではなく、何人かの指導者の下に組織があるだけで、統一行動は取れていなかった。それでも、この運動に参加する人の数は膨大なものに上っており、その構成も農民に限られたものではなかったので、義和団運動を純粋な農民反乱とみなすのは正確でないが、参加者の主力が農民あるいは離農した流民であったことはたしかである。
 こうして膨れ上がった義和団は政治運動というよりも、行く先々でテロ的な襲撃行動に出て、社会を混乱させる破壊活動の性格を帯びていた。しかも、元来反キリスト教運動に源流があるため、太平天国のように「滅満興漢」かつ親西洋ではなく、正反対の「扶清滅洋」をスローガンとしていた。
 そこに目を付けたのが、時の清朝最高実力者西太后であった。彼女は義和団が体制維持に有用であることに気がつくと、この運動を陰で黙認・助長した。その結果、当局の取締りを免れた義和団は1900年、北京を事実上占領し、日独の両公使を殺害した。これに乗じて清朝政府は、日本を含む列強に宣戦布告するという策に出た。その結果、事態は単なる反乱を越えて、清対列強8か国の戦争状態へと転化していく。このように民衆反乱と体制が結合したのは、中国史上初めてのことであった。
 しかしこの無謀な策は、清朝に高い代償を払わせた。8か国連合軍は共同してたちまちに北京を制圧、清朝は巨額の賠償金を負担することとなり、財政的にも破綻する。事変後も権力を維持した西太后も再考して、それまで自ら否定していた近代化改革にようやく着手しようとした矢先に死去してしまう。
 その後の清朝は、辛亥革命による終焉の道を転がり落ちていった。一方で、内容は様々ながらも宗教的に鼓舞されてきた中国的な農民反乱の歴史も終幕し、以後は社会主義運動に合流していく。とりわけ中国共産党の活動に新たな形態の農民運動の性格が加わるが、この件は後に取り上げることにする。

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農民の世界歴史(連載第22回)

2016-12-14 | 〆農民の世界歴史

第6章 民族抵抗と農民

(2)近世朝鮮の農民反乱

 朝鮮農民は、中国農民のように歴史の節目で反乱を起こすこともなく、また中近世の日本農民のように一揆の形で抵抗を示すこともなく、中世以降は一種の奴隷制である賤民を伴う両班制下で搾取されつつも、賤民より上位の常人という階級を与えられて従順さを保っていた。
 こうした懐柔された安寧が大きく転換されるのが、李氏朝鮮王朝後期の19世紀である。その要因は、三政の紊乱と呼ばれる朝鮮王朝体制の揺らぎであった。三政とは朝鮮王朝体制を支える田政・軍政・還政(貸米)の三大政策をいうが、基軸となる田政の紊乱とは支配階級である両班が悪徳化し、帳簿操作等による農民に対する不正違法な増税搾取が蔓延したことである。
 これにより小作農はいっそう困窮し、流民化した。この時代には賤民も消滅しており、小作人は最下層階級に落とされていた。一方で、富農の中には官職買収により両班に成り上がる一族も出るなど農民の階層分裂も進んだ。国政はと言えば、19世紀に入ると王室外戚の権勢が強まる勢道政治の弊害が露呈し、社会改革は進まず、政治腐敗が深まった。
 そうした中、当初は1810年代以降、北部の平安道を拠点とする農民反乱が勃発するが、こうした反乱が19世紀半ば以降には全国規模で同時多発するようになっていった。この反乱の主力は農民であったが、中央政治から疎外された地元有力者の地主両班層である郷任と呼ばれる中間階級が反乱の指導者となることが多かった。
 これらの農民反乱の集大成的な事変が、19世紀末の東学党の乱である。これが従前の農民反乱と異なるのは、東学という新興宗教をバックグラウンドとしていたことである。東学は1860年に崔済愚が開祖として創始した新興宗教結社で、儒教・仏教・民間信仰など先行宗教の諸要素を融合した東洋的な習合宗教であった。
 東学を基盤とする新たな農民反乱の指導者となったのは、教団幹部で非両班の地方役人でもあった全琫準である。1894年、彼は農民軍を率いて南西部の全州で武装蜂起し、これを占領、一種の革命解放区とした。最終的には、時の外戚閔氏主導朝鮮王朝政府との間で全州和約を締結し(ただし、史料的根拠不明)、全州農民自治権力が樹立された。
 ここまでの経過は同世紀半ばの清朝下における太平天国と類似しているが、太平天国のように指導部が専制化することはなく、むしろ東学農民自治は民権保護機関としての執綱所を通じて地方官吏を監視する制度を備えるなど、不完全ながらも民主的な地方自治政府の色彩が強かった。
 もう一つ、太平天国と異なる点は、東学農民自治政府は鎮圧のために朝鮮政府が引き入れた清軍と自国権益保護を名目に派兵されてきた日本軍を排撃するために再決起したことであった。その結果、農民反乱は民族抵抗戦の性格を帯びたことから、この事変は全体として甲午農民戦争と呼ばれることが多い。
 並行して展開されていた日清戦争ではすでに日本の勝利がほぼ決しており、日本軍は農民軍掃討作戦に集中できた。しかし貧弱な装備の農民軍と明治維新を経て近代化されていた日本軍は真っ当な対戦相手ではなく、農民軍は短時日で撃破され、全琫準も日本軍により拘束、朝鮮政府により処刑された。
 一連の甲午農民戦争は時の朝鮮王朝内の実権者閔妃と一時的に復権した元最高実力者・興宣大院君の熾烈な権力闘争とも関連しており、大院君が甲午農民戦争に関与し、陰で煽動していた証拠が挙がっている。
 大院君としては、東学農民軍を利用して政敵閔氏と日本軍を排除しようとの思惑があったと見られるが、このように支配層の一部が同床異夢的に合流していたならば、甲午農民戦争は類似の状況下で間もなく清朝で勃発する義和団の乱にも近い性格を帯びていたことになる。

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農民の世界歴史(連載第21回)

2016-12-12 | 〆農民の世界歴史

第6章 民族抵抗と農民

(1)近代セルビアの農民出自王朝

 19世紀に入ると、東方の諸国では農民反乱に民族抵抗の色彩が高まっていく。その傾向は必ずしも普遍的なものではなかったとはいえ、その中でも持続的な成功を収めた例として、15世紀末以降オスマン帝国の支配下に置かれていたバルカン半島セルビアの民族蜂起が注目される。
 オスマン支配下のセルビア人は比較的寛容な帝国の異民族政策に沿い、中世以来のセルビア正教を保持しつつ、農村部で自治を認められ、多くが農民、特に養豚で暮らしていた。しかし、第二次露土戦争敗戦後の帝国衰退の中、セルビアの地方支配者であるイェニチェリ軍団の圧政が強まると、セルビア人の蜂起が始まる。
 このセルビア蜂起は19世紀初頭に二次にわたって発生したが、第一次蜂起を率いたのがカラジョルジェ・ペトロヴィチであった。彼は貧しい養豚農家の生まれで、青年時代は富裕なトルコ人家庭の使用人として働いていた。その後はオーストリアの傭兵を経て、豚商人に転じた。
 1804年、農民らによるイェニチェリ軍団への抵抗が始まると、カラジョルジェはこれに参加、抵抗が次第にセルビア全土に及ぶ独立運動に転化する中で、指導者にのし上がっていった。第三次露土戦争とほぼ並行したこの第一次蜂起は成功せず、13年までにオスマン帝国軍により鎮圧された。
 しかし間もなく1815年、第二次蜂起が開始される。これを率いたのは、第一次蜂起ではさほど重要な役割を果たさなかったミロシュ・オブレノヴィッチであった。彼も父方はモンテネグロ人の貧農出身の豚商人であり、オブレノヴィッチ姓は民族革命家として高名だった異父兄の実父(母の前夫)の名にちなんだものだった。
 17年にカラジョルジェを暗殺した彼は戦闘よりも現実主義的な交渉能力に長けており、セルビア人勢力に対して優勢だったオスマン帝国と交渉してその宗主権内での自治公国の地位を獲得したうえ、自ら初代セルビア公におさまった。オブレノヴィッチの非立憲的な専制統治には批判も強かったが、彼の強力な指導によりセルビア公国の基盤は固まり、ここから近代セルビアの歴史が拓かれたことも事実である。
 以後のセルビアではオブレノヴィッチ家とそのライバルで第一次蜂起の指導者であったカラジョルジェの子孫であるカラジョルジェヴィッチ家が交互に支配することとなるが、19世紀末の独立王国化を経て、1903年の軍事クーデターによりカラジョルジェヴィッチ朝が確定し、ユーゴスラビアへの改称後、45年の社会主義共和制移行までセルビアを統治したのである。
 この近代セルビアを王朝支配した両家はいずれも農民出自である点、周辺バルカン諸国を含めたヨーロッパでは稀少な例であるが、ここにはセルビアにおける農民を主力とする民族抵抗の歴史が色濃く反映されていると考えられる。
 同時に、その出自からも畜産に依存した近代セルビアは、20世紀初頭、復権したカラジョルジェヴィッチ朝の下で親露政策に転換すると、それまで従属的同盟下にあったオーストリア‐ハンガリー帝国からの禁止関税の報復措置を受け、同国との間で通称「豚戦争」を起こしたことが第一次世界大戦の経済的伏線ともなった。

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