第2部 略
第1章 人格形成期
(4)弁護士資格取得
農場経営失敗
父イリヤの死後、ウリヤーノフ一家の長となっていた母マリアは、子どもたちの政治活動には干渉しなかったが、大学を追われ、復学許可の運動も実を結ばなかったレーニンの将来に関してはかなり心配していたようで、彼女は1888年5月、サマラ県アラカエフカ村という所に農場を購入する。
母は長男アレクサンドルのようにだんだん革命思想に傾いていきそうなウラジーミルに地主の道を示したわけだが、元来外国留学の希望を持っていた彼には満足できない道であった。レーニンは当局に二度留学の許可を申請したが、いずれも却下された。当局はレーニンのような「危険分子」のロシア人青年が外国で反露的活動を組織することを警戒していたものと見られる。
納得のいかない地主稼業に成功するはずもなく、「地主レーニン」は5か月で挫折した。母もあきらめた模様で、購入した農場は小作人に貸しておいて、一家は10月にはサマラ市内へ転居した。
しかし、5か月間の農場経営体験はレーニンに農村問題への関心を掻き立てる役割は果たしたと見え、彼は後にサマラで農村の実態調査を集中的に行ったほか、ナロードニキ系の活動家ともコンタクトをとるようになった。こうした経験は、革命家レーニンが労働者と貧農の同盟という独自の労農革命論のアイデアをはぐくむうえでも糧となったと考えられる。この点は、農村体験を持ったことがなかったマルクスとレーニンとを分ける大きな分岐点ともなるのである。
司法試験合格
復学も留学もかなわず、地主にも納まり切らなかったレーニンがどうにか収入の道を得るために残されていたのは、司法試験に合格して弁護士資格を取得することであった。
しかし、そのためにも当局の許可を必要とする身であったから、彼はまたしても母の力に頼ることになった。そして母が上京のうえ、文部大臣にまで嘆願した結果、一年後にようやく受験の許可が下りたのである。このように、レーニンの母マリアは長男アレクサンドルの一件以来、子どもたちの救出・復権のために駆け回る猛母であった。レーニンもこの母に何度も助けられたのである。
さて、受験許可が下りたといっても、大学中退者のレーニンは大学法学部の全科目を独習し直さなければならなかった。ここではしかし、レーニンの「学校秀才」ぶりがフルに発揮される。彼はペテルブルク大学の校外生として受験に臨み、1891年秋、一番の成績で合格を果たしたのだった。こういう詰め込み式猛勉強は、秀才レーニンの得意技であったようだ。当時のロシアでは帝国大学が実施する国家検定試験が即司法試験であったため、これによりレーニンはとりあえず弁護士補の資格を取得することができた。
この点でも、父から弁護士となることを期待されたマルクスがどうにか大学を卒業はしたものの、中途で法学から哲学の道に逸れ、弁護士資格の代わりに哲学博士号を取得したこととは対照的であった。本質的に学究肌であったマルクスに対して、レーニンはより実務的な人間であったと言えるかもしれない。
このことは、積極的に党派を形成せず、権力も求めず、無産知識人を貫いたマルクスと、やがて自らの党派を形成し、権力の座に就くレーニンの生き方の決定的な違いにもつながっていくであろう。