ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

ドイツのネオ・ファシズム

2017-09-27 | 時評

24日投票のドイツ総選挙で、「ドイツ人のための選択肢」(以下、「選択」と略す)なる政党が躍進、議席数で第三党、野党第一党の地位に就いた。躍進の最も大きな要因は報道でも指摘されているように、党がイスラーム系移民の排斥を強く訴えたことにある。その意味では、同党は近年の欧州で隆盛化している反移民政党の一環とも言える。

しかし、同党の綱領では、とりわけ反イスラーム主義を強く打ち出すとともに、直接選挙による強力な大統領制への移行(議会権限の縮小)、反フェミニズム、男性兵役義務の復活など、全体としてファシズム色の滲む政策を掲げている。

ドイツでは、ナチズムへの歴史的反省から、ナチス党の復活は事実上禁じられており、より明確にナチズムに傾斜した先行政党・国家民主党の躍進は困難である。それを補填するかのように、近年はペギーダ(西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者)を名乗る反イスラーム主義政治団体が形成され、「選択」にも浸透し、連携する党員も存在する。

「選択」指導部は、表向きペギーダとの連携を禁止する活動方針を決めている。しかし、この方針はイデオロギー的な相違によるものではなく、総選挙で幅広い支持を得るための党略的な姿勢であり、方針は厳守されないだろう。そればかりか、党内にはナチ的用語を用いる者もおり、反イスラーム主義の裏にはナチスの基盤でもあった反ユダヤ主義も二重に見え隠れする。

総合的に見て、「選択」はナチスの復刻とは言えないまでも、ナチズムを迂回する形のネオ・ファシズム政党とみなす余地が十分にある。かかる政党がドイツで野党第一党となったことは憂慮すべき事態である。党がさらに躍進を続けて与党化する可能性を視野に入れれば、ドイツもファッショ化要警戒段階に入ったと言えよう。


〔追記〕
10月のオーストリア総選挙では、保守系国民党が第一党を維持した。メディアは「反移民」の主張で勝利と報じ、31歳のクルツ新首相に焦点を当てた。しかし、国民党はオーストリアの伝統的な保守政党であり、従来は社会民主党と大連立を組んでいたところ、クルツ執行部の下で右傾化を進め、連立協議では従来からオーストリアのネオ・ファシズムを代表する自由党と組もうとしている。
この国民党‐自由党連立は1999年にも成立し、当時はファッショ化を警戒したEUから制裁を受けた。当時よりもEUが拡大し、移民問題が深刻化した現在、EUが国民党‐自由党連立の再来にどのような反応を示すか、注目される。

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民衆会議/世界共同体論(連載第9回)

2017-09-22 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(4)民衆会議とソヴィエトの異同
 前回は民衆会議と議会制を対比して、民衆会議の特質を明らかにしたが、今度は旧ソ連の国名にも冠されていたソヴィエト制との対比という視点からも、民衆会議の特質を示してみたい。
 民衆会議は民衆代表機関たる会議制という点では、ソヴィエト制により近い性格を持っている。ソヴィエト制に関しては、かつて『旧ソ連憲法評注』においても、憲法を通して詳しく見たところであるが、それは本来、議会制を超えた民主的な制度として構想されたものであった。
 ソヴィエトも単なる立法機関ではなく、国家の全権を統括する総合的な統治機関であったところ、ソ連では、周知の通り共産党が指導政党として全権を掌握していたため、本来の機能を果たせば議会より民主的たり得たはずのソヴィエトが共産党の追認機関と化してしまった。
 このような歪みを正すには、一党制であろうと、多党制であろうと、民衆と権力の間に政党が介在する政党政治を排さなければならない。民衆会議はいかなる形態であれ、政党政治と無縁であることを本質とする。前に半直接代的議制と規定したことには、そうした意味も込められている。
 さらに、ソヴィエト制の場合、議会制を超えるといいながら、そのメンバーの代議員は選挙によって選出される形態に落ち着いた。仮に非政党ベースで選挙するにせよ、有権者が意中の人に集団投票する選挙という手法には必ず党派的な要素を帯びてくるので、選挙制を採用すれば、それは議会と類似のものとなるだろう。
 そこで、民衆会議は選挙制でなく、抽選制による。つまり、代議員の選出に偶然性の要素を取り込むことで、党派性の混入を防ぐのである。ただし、代議員の適格性の担保は免許制のような能力証明を通じて行われる。
 また、ソヴィエトは総合的統治機関でありながら、行政府や司法府も別個に組織され、事実上は三権分立制に近い仕組みとなっていたが、民衆会議は行政や司法の機能も民衆会議が統合的に直接担当することを徹底する。
 より究極的には、ソヴィエトがなお国家の制度を前提に国家の最高権力機関と位置づけられていたのに対し、民衆会議は国家を前提としない民衆によるより直接的な統治の機関であることは、決定的な相違点となる。

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民衆会議/世界共同体論(連載第8回)

2017-09-21 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(3)民衆会議と議会の異同
 民衆会議と議会には共通項も多いが、相違点はそれ以上に多い。そこで、まだ理解が浸透しているとは言い難い民衆会議の実像をより明確にするために、議会制度との異同をまとめておきたい。
 まず、周知のとおり、議会は直接選挙で選ばれたメンバーで構成される代議機関であるが、民衆会議は免許等により適格性を認証された人の中から選ばれたメンバーで構成される代議機関である。
 さらに、議会は法律の制定に関わる立法機関と位置づけられるのが通常である。これはいわゆる三権分立論によって、議会を立法権を担当する府と認識する考えによっている。この点、民衆会議もその中心的な機能が立法にあることは共通である。
 しかし、民衆会議は単なる立法機関ではなく、立法を含む全権を統括する機関である。すなわち、三権分立論にはよっていない。この点で、「独裁」というイメージを持たれる恐れがあるが、全権統括機関であることは直ちに独裁機関であることを意味せず、むしろ民衆代表機関が立法から行政・司法に至る全公権力を司る民主主義の究極的な現れなのである。
 三権分立論は特に行政に全権が集中する君主制を民主化するうえでは意義あるものと言えるが、その結果として、代表機関が立法機関に限定されることは行政・司法の民主的基盤を希薄にしている。それに対し、民衆会議は立法に限らず、行政・司法も掌握することで権力全般の民主化を実現できるのである。
 ちなみに、スイスでは議会制度の下で、議会が行政も掌握する議会統治制と呼ばれる独特の制度を採用している。つまり、スイスの行政府は議会によって選出される参事会という形で組織されるのであるが、司法については別立てとなっている。その点、民衆会議は司法をも掌握する点で、より踏み込んでいる。
 この限りでは、近年の司法改革により最高裁判所の制度が創設される以前の英国で、最高司法権が議会の上院(貴族院)に属していたことと類似するが、身分制時代の遺制である貴族院が非民主的であることと比較し、民衆会議の下に司法が置かれることは、より民主的である。
 以上をまとめれば、民衆会議は立法権を有する限りで議会とも共通するが、三権分立制によらず、全権を統括する点では単なる立法機関を超えた総合的代表機関であるということになる。

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奴隷の世界歴史(連載第19回)

2017-09-19 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

旧奴隷制損害賠償問題
 先に見たように、奴隷制禁止の条約化は20世紀半ば過ぎに一応完成を見たのではあるが、そこでも積み残された問題がある。それは過去の奴隷貿易・奴隷制による被害に対する損害賠償問題である。
 奴隷禁止条約は条約制定以後の奴隷制の存続・復活を禁止する将来効を有するけれども、過去の奴隷制に対する被害救済については埒外に置いている。条約は過去を不問に付しているわけではないとはいえ、被害救済が全く行なわれないことは不正義ではないかという疑義が生ずるのは必然である。
 こうした疑義は奴隷制廃止後の19世紀からくすぶっていたが、賠償請求運動として本格的に組織されたのは、公民権運動が一段落したアメリカで1987年に設立された「損害賠償のための全米黒人連盟(N’COBRA)」が最初と見られる。この団体は過去の奴隷制への損害賠償を集団的なアイデンティティを理由に迫害された人間の基本的人権として位置づけたのである。
 こうした運動を受けて、アメリカにおける黒人政治家の草分けでもあるジョン・コニャーズ連邦下院議員は1989年以来、アフリカ系アメリカ人に対する損害賠償に関する調査委員会設置法案を発議し続けているが、アメリカ史上初のアフリカ系バラク・オバマ大統領の誕生を経ても、なお採択には至っていない。
 一方、国際的な動向としては、15のカリブ海諸国/地域によって構成されるカリブ共同体(CARICOM)が、2013年にCARICOM損害賠償委員会(CRC)を発足させたことが注目される。CARICOM諸国/地域はいずれも英・仏・蘭の旧植民地にして大西洋奴隷貿易を通じた黒人奴隷の送り先でもあり、現在はその末裔が政治的にも多数派を占める諸国/地域が多い。 
 CRC設立を主導したのは、CARICOM加盟国の一つであるセントビンセント・グレナディーンの首相を2001年から務めるラルフ・ゴンサルべスである。ただし、彼自身は黒人奴隷の子孫ではなく、英国での奴隷制廃止後、ポルトガル領マデイラ島から年季労働者として送り込まれたポルトガル人の子孫である。
 CRCはCARICOM加盟諸国/地域が共同して、旧宗主国である英・仏・蘭に対し過去の奴隷制に対する損害賠償問題を提起することを目標として設立された公式機関であり、実際に国際司法裁判所に提訴することを模索している。
 こうした賠償請求は、何世紀以上も前の名も記録されていない奴隷に対する不法行為の立証、賠償金額の算定方法といった法技術的な難題とともに、請求を受ける旧宗主国側の体面上の拒否感やそれら諸国で多数派を占める白人勢力の反発も予想され、実現への壁はなお高い。

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奴隷の世界歴史(連載第18回)

2017-09-18 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

奴隷制禁止の国際条約化
 欧米各国及びラテンアメリカ諸国における奴隷貿易・奴隷制廃止が一巡すると、国際社会において奴隷制禁止を条約化する動きが生じてくる。ようやく19世紀末のことである。
 その契機となったのは、1889年から90年にかけてベルギーのブリュッセルで開催された国際会議・ブリュッセル反奴隷制会議であった。この会議は、アフリカ奴隷貿易を公式に終焉させるための国際条約の締結交渉という明確な目的を帯びた実践的なものであった。
 この会議が生んだ歴史的な条約が「奴隷貿易並びにアフリカへの火器、弾薬及び酒精飲料の輸入に関する規約」(ブリュッセル会議条約)である。奴隷貿易と並べて火器等の輸入が規制されたのは、アフリカの地元王国が奴隷提供と引き換えに火器等を列強から輸入していたことに関わっている。
 この条約の締約国には、英・仏・独のほか、ポルトガル、スペイン、オランダ、ベルギー(王室私領地コンゴ自由国を含む)、オーストリア‐ハンガリー、スウェーデン‐ノルウェー、デンマーク、ロシア、アメリカという当時の欧米列強に、オスマントルコ、ザンジバル、ペルシャというイスラーム圏の強国も名を連ねており、国際連盟/連合のようなグローバル国際機関が創設される以前の時代にあっては、画期的な国際条約であった。
 とはいえ、この条約は執行のための措置も伴わず、強制労働、年季奉公といった形態の搾取を取り締まる規定も欠いた宣言条約の性格が強いものであったが、とりあえずイスラーム圏をも含む世界の帝国主義諸国が勢揃いして奴隷制禁止で基本合意に達したことの歴史的意義は大きい。
 この条約のグローバルな締結枠組みが、第一次世界大戦後、人類史上初となるグローバル国際機関・国際連盟の原型となったと言っても過言でない。実際、国際連盟は1926年、より実効性のある「奴隷貿易及び奴隷制禁圧規約」を締結したのである。
 さらに、国際連盟の姉妹機関として設立された国際労働機関が1930年に採択した「強制労働に関する条約」では、奴隷制以外の形態による強制労働を広く禁止することで、形を変えた奴隷制の存続を規制した。
 第二次世界大戦後の1956年、国際連盟の後継機関・国際連合は上記二つの条約の有効性を確認しつつ、より包括的な「奴隷制度、奴隷取引並びに奴隷制類似の制度及び慣行の廃止に関する補足条約」(奴隷制度廃止補足条約)を採択した。これにより、奴隷制禁止の国際条約化は一応の完成を見たのである。
 しかし、この条約にも未批准の国連加盟国が70か国近く(日本もその一つ)残されており、また締約国にあっても形を変えた現代型奴隷制が残存していることは前章でも見たとおりであり、奴隷制廃止への歴史的道程はいまだ完了したとは言えない。

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奴隷の世界歴史(連載第17回)

2017-09-12 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

イスラーム奴隷制度の「廃止」
 19世紀を通じて欧米諸国―より広くはラテンアメリカも含めたキリスト教諸国―での奴隷貿易・奴隷制廃止が漸次進行していく一方で、イスラーム教諸国では、奴隷制度は根強く残存していた。
 聖典コーランが奴隷制度を容認している事情もあって、イスラーム圏では宗教的な観点からの奴隷制廃止運動は低調で、奴隷制廃止は近代化改革ないし革命の内圧によるか、西欧植民地支配や国際社会による外圧による場合にしか起こりにくい構造となっていたのである。 
 欧米諸国で奴隷制廃止が進展していた時代におけるイスラーム「諸国」は、ほぼオスマン帝国の版図に包含されていたから、この時代のイスラーム諸国≒オスマン帝国領であった。黒人のみならず、白人も対象としたオスマン帝国の体系的な奴隷制度及びその基底にある中世イスラーム奴隷制の概要は後に改めて見ることとするが、オスマン帝国社会、特に軍隊と宮廷は奴隷制度なくして成り立ち難い構造となっていた。
 とはいえ、オスマン帝国は19世紀後半期における欧化改革の中で、1882年の勅令をもって奴隷解放を宣言し、国際社会が初めて奴隷貿易の禁止を公式に協定した1890年のブリュッセル会議条約にも加盟したものの、結局、1922年の終焉まで奴隷慣習を完全に手放すことはできなかった。
 一方、オスマン帝国とともにイスラーム圏から同条約に署名した諸国の中で東アフリカのザンジバルは英国の保護領化された状況下で、1897年に奴隷制を廃止したのに対し、ペルシャ(イラン)は封建的なカージャール朝を転覆したパフラヴィ朝の近代化改革の一環として1929年に廃止した。
 しかしイスラーム圏全体で見ると、奴隷制廃止の進展は20世紀に入っても遅々として進まず、モロッコやスーダンなど西欧列強の植民地支配下で廃止された例が散見される程度である。特に湾岸諸国での奴隷制廃止は第二次大戦後まで持ち越される。代表的な事例を上げると、カタール(1952年)、サウジアラビア(1962年)、イエメン(1962年)、アラブ首長国連邦(1963年)、オマーン(1970年)などである。
 また前章で見た西アフリカのモーリタニアのように建て前上奴隷制を「廃止」しても社会構造上残存している事例や、内戦後リビアに出現した移民奴隷市場など、イスラーム圏には奴隷制の残存/復刻の危険性を孕む要素が潜在している。

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奴隷の世界歴史(連載第16回)

2017-09-11 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

「苦力」労働制への転換
 19世紀前半から欧米諸国での奴隷制度廃止の動向が広がるにつれ、奴隷労働力を補填する何かが必要とされるようになった。というのも、奴隷労働力が主に投入されていたプランテーションでの集約労働そのものの需要は何ら変わっていなかったからである。
 そこで新たに編み出されたのが、主として中国人やインド人のようなアジア系移住労働者を使役するシステムであった。かれらは奴隷そのものではなかったが、多くは騙されたり、拉致された末に過酷な労働に従事させられた者たちで、実質上は奴隷と同様であったから、「苦力」(クーリー)と称された。
 こうした奴隷⇒苦力への転換を象徴する人物として、ジョン・グラッドストンがいる。後の英国首相ウィリアム・グラッドストンの父でもある彼はカリブ海域で多くのプランテーションを経営する奴隷所有者であったが、1833年奴隷廃止法により奴隷を解放せざるを得なくなるや多額の補償金を得たうえ、いち早くインド人苦力に置き換えを図ったのである。
 こうした苦力労働者の徴用・輸出は専門のブローカー業者が差配し、組織的に行なわれたので、奴隷貿易とパラレルな関係において、苦力貿易のシステムがグローバルに構築された。このような労働システムを作り出したのも、奴隷制度廃止に大きく寄与した英国であった。
 最初の本格的な苦力船は1806年、中国人を乗せてカリブ海の英国植民地トリニダード(現トリニダードトバゴ)に向かった。これを皮切りに、世界の英国植民地に中国人苦力が送り込まれた。さらにアヘン戦争後の南京条約は中国人苦力の輸出に拍車をかけ、米国もこれに続いた。
 米国では、カリフォルニア州を中心に10万人を越す中国人苦力が送り込まれたと見られる。かれらは主に鉄道建設に投入され、特に米国産業革命の大動脈となる大陸横断鉄道の建設がその代表事例である。人道的批判を受けたカリフォリニア州は、1879年の州憲法で中国人苦力労働を「奴隷制の一形態」と認め、その恒久的廃止を明記した。
 一方、インド人苦力の使役も同時期に盛んとなったが、これも英国が先鞭をつけ、世界中の英国植民地で活用された。ことに今日ではインド洋の観光リゾートとして知られるモーリシャスは1829年以降、50万人を越すインド人苦力が継続的に送り込まれた「苦力の島」でもあり、往時の苦力収容施設アープラヴァシ・ガートは現在、世界遺産に登録されている。
 インド人苦力は自発的な移住労働者が多かったと見られているが、その渡航船の環境は劣悪であり、虐待や女性への性暴力がはびこり、現地での労働条件も過酷であった。英本国では人道的な見地からの批判が高まり、苦力労働は1916年に禁止されるに至った。
 奴隷的な苦力労働は20世紀初頭には消滅するが、外国人労働者を底辺労働に投入する慣行自体は現代まで引き継がれており、その実態はしばしば奴隷的である。その意味で、苦力労働は前章でも見た現代型奴隷制の一種である隷属的外国人労働の原型とも言えるものであった。

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民衆会議/世界共同体論(連載第7回)

2017-09-08 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(2)半直接的代議制
 民衆主権に根差す民衆会議制度は、「半直接的代議制」という仕組みで構制されると述べた。普通「直接」とは、直接民主制のように、民衆が代表者を介さずまさしく直接に政治的決定に参加する場合に援用される用語であって、代議制にこの用語をかぶせるのは形容矛盾だというのが、現時点での政治常識であろう。
 たしかに、メンバーを選挙する形の議会制の場合は、一般有権者から投票により代表を託された議員が政治的決定に従事するということから、そうした媒介性は間接民主主義の象徴とみなされている。そして、議会制を代議制の代名詞とみなす政治常識から、代議制とは本質上間接的なものだと思われているのである。
 しかし、発想を変えてみたい。代議制であっても、選挙によらず一般民衆が代議員として参加できる制度があり得るのではないか、と。選挙によらないという場合、別機関による任命制とすることも考えられるが、任命制代議機関はその任命機関の事実上の下部機関と化し、民主的ではなくなる。
 そこで、代議員を抽選(くじ引き)で選出するという制度のほうが、より民主的と考えられる。抽選という方法は安易に思えるかもしれないが、所詮は資金力で決まる選挙とは異なり、無資力であっても政治参加の意欲があれば誰でも代議員(議員)となることができるという意味では、選挙制よりはるかに「直接的な」制度である。
 とはいえ、抽選制の導入が躊躇されるのは、当選が偶然性に左右されるため、適格性に疑義のある者が当選しやすくなるという不安が残るためであろう。しかし、選挙のプロセスでも適格性に関する厳密な事前審査がなされるわけではなく、選挙された議員がその「資質」を問われる事態がしばしば発生するので、この点は程度問題と言える。
 ただ、適格性を確実に保証するためには、抽選の応募条件を厳格に絞り込むか、代議員を免許制としたうえ、一定の試験を経た免許取得者の中から抽選するという方法が想定される。このうち、前者は条件の設定いかんによってはエリート支配に陥る恐れもあるため、後者の免許制のほうがより民主的な方法として推奨できる。
 このように、一般民衆が選挙を介さず、抽選により代議員となって直接に政治的決定に関わる仕組みは、全員参加の「直接」そのものではないとしても、半直接的代議制と呼ぶことは可能であり、そうした仕組みに基づいて構制される代議機関が民衆会議なのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第6回)

2017-09-07 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(1)民衆主権論
  本章では、民衆会議/世界共同体論において、最初の出発点となる民衆会議に込められた理念から説き起こすことにする。民衆会議とは、国家なき統治において中核を成す社会運営団体である。それは名のとおり、民衆が主人公となる会議体である。
 この規定中にすでに現れているように、民衆会議は民衆が主人公という民衆主権の理念を支えとしている。その点、ブルジョワ民主主義では国民主権、プロレタリア民主主義では人民主権など、何らかの意味で「民」が「主」であることを強調する理念が従来から提起されてきたが、いずれも空疎な美辞麗句に終わっている。
 国民主権はリップサービスとして主権者を国民一般と規定しておきながら、実態としては資本と富裕層を主権者としつつ、一般民衆は選挙の投票マシンとして周縁化し、政治的決定から極力遠ざける階級的な政治制度の遮蔽幕である。
 一方、人民主権は労農プロレタリアート―平たく言えば一般民衆―が主権者たることを“革命的に”高調しながら、実態としては共産党その他の支配政党指導部が独占的主権者であり、一般民衆は政治参加すら許されない「人民無権利」の悪いジョークとなってしまった。
 民衆主権はそうした空手形の空論を排して、政治の主導権を実際に民衆の手に渡すことを追求する実践的な理念である。従って、見かけ上は類似概念ながら国民主権論や人民主権論とは相容れず、どちらからも敵視される“危険な”概念となるだろう。
 ただし、民衆主権がいわゆる直接民主主義と結びつくものでないことは、前章でも論じたとおりである。民衆主権は民衆がより直接に参加可能な代議制を要請する。こなれない用語ながら、これを「半直接的代議制(または代表制)」と呼ぶことにする。

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奴隷の世界歴史(連載第15回)

2017-09-05 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

アメリカ内戦と奴隷解放宣言
 19世紀前半のアメリカでは、奴隷制廃止の進む北部と奴隷制に固執する南部の亀裂が深まっていたが、1850年代は南部の奴隷諸州の力が連邦レベルで拡大する反動期であった。
 前にも見た奴隷の逃亡を抑止するための1850年の逃亡奴隷法に加え、1854年のカンザス‐ネブラスカ法では、カンザスとネブラスカの両準州の創設に当たり、奴隷制を認めるか否かを開拓住民の判断に委ねることとされた。これは事実上、奴隷制の拡大を認めるに等しい大きな後退であった。
 さらに57年には、連邦最高裁判所がアフリカ系の子孫はアメリカ市民権を得ることはできず、連邦議会は連邦領土内で奴隷制を禁ずる権限を有しないとする判決を下した(ドレッド・スコット対サンフォード判決)。司法部も奴隷制擁護の立場を鮮明にしたことになる。
 これに対して、急進的な奴隷制廃止活動家ジョン・ブラウンは武装反乱のような直接行動を訴え、59年、奴隷州の中心であったバージニア州で連邦武器庫を襲撃し、反乱を企てるが失敗し、処刑されるという事件も発生した。
 こうした騒然とした対立状況の渦中で登場したのが、共和党初の大統領となったエイブラハム・リンカーンであった。リンカーンは弁護士からイリノイ州議会議員や連邦下院議員を経験した奴隷制廃止論者としてカンザス‐ネブラスカ法やドレッド・スコット対サンフォード判決に対して明確に反対の論陣を張った。
 リンカーンはブラウンのような急進論者とは異なり、漸進的な奴隷制廃止を唱える中道派の中心人物であったが、奴隷制諸州にとっては急進も中道も大差はなく、忌避すべき人物であることに変わりなかった。
 そういうリンカーンが1860年大統領選挙に勝利すると、南部奴隷諸州は次々と連邦離脱の動きを示した。妥協の試みは失敗し、南部11州は同盟してアメリカ連合国を結成したことから、アメリカはこれまでのところ史上唯一の内戦(南北戦争)に突入していく。
 その渦中で、リンカーン大統領は有名な「奴隷解放宣言」を発した。戦争は北部の勝利に終わり、戦後の65年、憲法修正13条が追加され、ここに奴隷制の完全な廃止が実現したのであった。
 これにより、黒人奴隷の解放は進んだが、南部では黒人に公民権は保障されず、日常生活域も分離する人種隔離政策に形を変えて黒人差別の構造が存続していく。これが転換するのは、奴隷制廃止運動に代わる公民権運動を経た1964年の連邦公民権法の成立以降のことである。
 南北戦争から100年がかりであり、公民権法を推進したケネディ大統領も、奴隷制廃止に尽力したリンカーン大統領と同様に暗殺される運命をたどったことも偶然ではないかもしれない。

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奴隷の世界歴史(連載第14回)

2017-09-04 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

ルーマニアのロマ族奴隷廃止
 英国と米国における奴隷制度廃止にはさまれる形で19世紀半ば、東欧のルーマニアで少数民族ロマ族奴隷制の廃止が実現している。意外に知られざる出来事である。
 ロマ族とは、エジプト出自という誤解から「ジプシー」とも呼称されてきた中東欧の少数移民集団であるが、その真の出自はインドと見られている。出インド・欧州移住の経緯については諸説あるが、すでに中世には集団的移住が確認されており、その歴史は古い。
 ロマ族は移動生活を主体としていたため、「流浪の民」とも言われ、欧州各地で差別迫害にもあったが、ルーマニアではロマ族を奴隷化する慣習が形成されていた。これは中世におけるワラキアとモルダビアの両公国成立以前からの古い慣習であった。今日でも欧州でもロマ族の代表的な居住地となっているのがルーマニアであることからしても、ルーマニアにおけるロマ族奴隷制の広がりと歴史の長さが窺えるところである。
 ルーマニアのロマ族奴隷は職工や砂金採集、農業労働に始まり、家事労働まで幅広く下層労働に従事させられた。かれらは支配層の貴族や修道院、国家によって所有され、所有者によって売買されたり、懲罰にかけられたりした点では一般的な奴隷制度と同様であった。ただ、ルーマニアの奴隷制は自治組織によって管理され、奴隷自身がその指導者を選出することができるなど、一定の自治権が保障された点に特徴があった。
 こうした奴隷制に対しては、18世紀後半、ルーマニアにも到来した啓蒙主義の潮流の中で廃止の機運が生まれる。当初は自らも奴隷主層であった正教会内部の改革派が廃止の声を上げたが、19世紀に入ると、後にルーマニア首相となる革命派ミハイル・コガル二チェウの主導により、1843年、モルダビアで奴隷制廃止が成立した。これに続き、ワラキアでも廃止され、56年までに20万人を越えるロマ奴隷が解放された。
 とはいえ、ルーマニアにおけるロマ族は解放後も差別にさらされ続け、構造的差別とそれに起因する貧困問題が未解決のままである点では、アメリカの黒人問題と類似する点が見られる。

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