第2部 略
第5章 死と神格化
(2)忠実な相続人スターリン(続き)
レーニンとスターリン〈2〉
政策的な面でスターリンがレーニンを裏切ったと言えなくないのは、ネップを早々と廃止して農業の全面的集団化に踏み切ったことである。
しかし、ネップは元来、農民反乱を抑えるための慰撫策の側面が強かったうえ、レーニン存命中から農民の売り渋りによる食糧難という新たな問題を抱え込んでおり、とうてい持続可能な政策ではなかったのである。
もっとも、そこから一挙に農業集団化へ飛躍したことで新たな農民反乱を招くこととなったが、元来ボリシェヴィキの農業綱領は土地の国有化を前提とするものであったし、スターリンの農業集団化政策の中で基礎的な単位集団と位置づけられた協同組合(コルホーズ)はレーニン最後の論文の中で提示されていた協同組合構想にも十分合致する制度であった。
農業集団化に合わせてキャンペーンを打たれた「階級敵としての富農絶滅」は農民反乱を鎮圧するための公安政策であり、実際、集団化に抵抗する農民は「富農」の烙印を押されてシベリア送りや財産没収の対象とされた。このような抑圧もレーニン時代の食料割当徴発制の時に用いられた手法の応用にほかならなかった。
他方、1928年度から始まった第一次五か年計画も、ネップ期の21年に設置されていたゴスプランの記念すべき初仕事であった。
こうしてみると、ネップの廃止もその時期の問題はともかく、レーニンの遺志に反するようなものではなく、レーニン政権が存続していたとしても、いずれは実施されるはずのことだったのである。
政治路線的な面では、スターリンが当初ソ連一国でも社会主義の建設が可能だとする一国社会主義から第二次世界大戦を経てソ連中心の帝国主義的膨張へ転回していったことも、レーニンからの逸脱として論議の的となってきた。
しかし、一国社会主義もレーニンが第一次世界大戦中の1915年に書いた論文「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」の中ですでに提起していたことであった。彼はこの論文の中で、資本主義の不均等発展の法則を立て、そこから初めは少数または一つの国だけで社会主義を建設することも可能だと論じていたのである。
しかし、図らずもドイツ革命が連鎖的に起きたため、レーニンもドイツ革命支援の目的を込めてコミンテルンの設立を急いだのであったが、臨機応変の無原則主義者であった彼はトロツキーのように世界革命なくしてソ連の社会主義建設は進まないとまでは考えていなかった。
スターリンはレーニンの理論を教条化することができる程度にはレーニン理論を学習していたのであって、世界革命論で理論武装したトロツキーへの対抗上、レーニンの一国社会主義論を引っ張り出してきたのである。従って、これも決してスターリンがレーニン路線から逸脱したのではなく、レーニン路線の継承なのである。
しかし、そこから新帝国主義へ転回していくのはさすがにレーニンとは無縁のように見える。ここにはスターリン政権初期の工業化の進展と第二次世界大戦を通じてソ連がアメリカのライバルとして急浮上していくというレーニンも予見できなかった新しい国際政治経済状況が関わっている。
とはいえ、レーニンとボリシェヴィキを支援する各国政党の国際組織として始まり、実際レーニンの「テーゼ」を追認ばかりしていたコミンテルンは、すでにしてインターナショナリズムならぬインペリアリズムの芽となりかけていたのではないだろうか。
最後に、本質的に実務者であったスターリンが苦手とした哲学的な基礎理論の面でも、彼は弁証法をひどく単純化して対立物の統一という原理に限局しようとしたとの批判がある。しかし、これについても、エンゲルスによる弁証法の図式化をいっそう進めて弁証法の核心を対立物の統一に見ようとしていたレーニンの未完の書『哲学ノート』をスターリンはやはり“学習”していたに違いない。
以上の検討からして、スターリンはレーニンの背信者などではなく、実は案外忠実な相続人であったことが理解される。本来、スターリン主義とはレーニン‐スターリン主義と連記されてもよいものであったのである。
そう理解することで、今日何かとソ連体制の元凶として非難されがちなスターリンの名誉回復ともなろうというものである。同時に、そう理解することで、レーニンをスターリンから切り離して讃美することもできなくなり、スターリンの暗部はレーニンの暗部と二重写しになってくるはずである。
スターリンは特異な個人崇拝体制を築いたが、これも彼が神格化したレーニンの威を借りて初めて可能となったことであった。スターリンとはレーニンという死んだトラの威を借りたキツネにすぎなかったのである。