ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第65回)

2013-03-28 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン(続き)

レーニンとスターリン〈2〉
 政策的な面でスターリンがレーニンを裏切ったと言えなくないのは、ネップを早々と廃止して農業の全面的集団化に踏み切ったことである。
 しかし、ネップは元来、農民反乱を抑えるための慰撫策の側面が強かったうえ、レーニン存命中から農民の売り渋りによる食糧難という新たな問題を抱え込んでおり、とうてい持続可能な政策ではなかったのである。
 もっとも、そこから一挙に農業集団化へ飛躍したことで新たな農民反乱を招くこととなったが、元来ボリシェヴィキの農業綱領は土地の国有化を前提とするものであったし、スターリンの農業集団化政策の中で基礎的な単位集団と位置づけられた協同組合(コルホーズ)はレーニン最後の論文の中で提示されていた協同組合構想にも十分合致する制度であった。
 農業集団化に合わせてキャンペーンを打たれた「階級敵としての富農絶滅」は農民反乱を鎮圧するための公安政策であり、実際、集団化に抵抗する農民は「富農」の烙印を押されてシベリア送りや財産没収の対象とされた。このような抑圧もレーニン時代の食料割当徴発制の時に用いられた手法の応用にほかならなかった。
 他方、1928年度から始まった第一次五か年計画も、ネップ期の21年に設置されていたゴスプランの記念すべき初仕事であった。
 こうしてみると、ネップの廃止もその時期の問題はともかく、レーニンの遺志に反するようなものではなく、レーニン政権が存続していたとしても、いずれは実施されるはずのことだったのである。
 政治路線的な面では、スターリンが当初ソ連一国でも社会主義の建設が可能だとする一国社会主義から第二次世界大戦を経てソ連中心の帝国主義的膨張へ転回していったことも、レーニンからの逸脱として論議の的となってきた。
 しかし、一国社会主義もレーニンが第一次世界大戦中の1915年に書いた論文「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」の中ですでに提起していたことであった。彼はこの論文の中で、資本主義の不均等発展の法則を立て、そこから初めは少数または一つの国だけで社会主義を建設することも可能だと論じていたのである。
 しかし、図らずもドイツ革命が連鎖的に起きたため、レーニンもドイツ革命支援の目的を込めてコミンテルンの設立を急いだのであったが、臨機応変の無原則主義者であった彼はトロツキーのように世界革命なくしてソ連の社会主義建設は進まないとまでは考えていなかった。
 スターリンはレーニンの理論を教条化することができる程度にはレーニン理論を学習していたのであって、世界革命論で理論武装したトロツキーへの対抗上、レーニンの一国社会主義論を引っ張り出してきたのである。従って、これも決してスターリンがレーニン路線から逸脱したのではなく、レーニン路線の継承なのである。 
 しかし、そこから新帝国主義へ転回していくのはさすがにレーニンとは無縁のように見える。ここにはスターリン政権初期の工業化の進展と第二次世界大戦を通じてソ連がアメリカのライバルとして急浮上していくというレーニンも予見できなかった新しい国際政治経済状況が関わっている。
 とはいえ、レーニンとボリシェヴィキを支援する各国政党の国際組織として始まり、実際レーニンの「テーゼ」を追認ばかりしていたコミンテルンは、すでにしてインターナショナリズムならぬインペリアリズムの芽となりかけていたのではないだろうか。
 最後に、本質的に実務者であったスターリンが苦手とした哲学的な基礎理論の面でも、彼は弁証法をひどく単純化して対立物の統一という原理に限局しようとしたとの批判がある。しかし、これについても、エンゲルスによる弁証法の図式化をいっそう進めて弁証法の核心を対立物の統一に見ようとしていたレーニンの未完の書『哲学ノート』をスターリンはやはり“学習”していたに違いない。
 以上の検討からして、スターリンはレーニンの背信者などではなく、実は案外忠実な相続人であったことが理解される。本来、スターリン主義とはレーニン‐スターリン主義と連記されてもよいものであったのである。
 そう理解することで、今日何かとソ連体制の元凶として非難されがちなスターリンの名誉回復ともなろうというものである。同時に、そう理解することで、レーニンをスターリンから切り離して讃美することもできなくなり、スターリンの暗部はレーニンの暗部と二重写しになってくるはずである。
 スターリンは特異な個人崇拝体制を築いたが、これも彼が神格化したレーニンの威を借りて初めて可能となったことであった。スターリンとはレーニンという死んだトラの威を借りたキツネにすぎなかったのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第64回)

2013-03-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン(続き)

レーニンとスターリン〈1〉
 レーニン死して、後継争いを制したスターリンの時代が到来した。世上しばしば「レーニンの正しい路線をスターリンが歪めたために、ソ連体制は最終的に失敗した」と言われてきたが、このような評価は果たしてどの程度妥当するのであろうか。
 スターリンが加えた歪みとして筆頭に挙げられるのは、生前レーニンが警戒していた党官僚制を肥大化させて党と人民大衆との著しい乖離を生じさせたことである。
 しかし、党官僚制はレーニンの持論であった中央集権的党組織論から必然的に生ずるものであって、レーニンと無縁のものではあり得ない。党中央委員会を頂点とするヒエラルキー的党組織は、党が政権を担うようになればそれ自体が国家官僚制の類似物に転化することは必定であり、10月革命後のレーニン自身もそうした党官僚の頂点に立ったわけである。
 ただ、レーニンは党官僚制に対する防波堤を労働組合に求めようとしていた。彼は労組を長期的に見て「すべての労働者に国民経済を管理すること」を教える「共産主義の学校」ととらえ、実際ネップ期には労組の自立性が相対的に保障されていたのである。
 しかし、労組にそこまでの役割を期待するのは、マルクスが労組に賃労働制廃止、つまりは革命的な役割まで期待していたことと同様、過大な要請であった。まして党官僚制がすでに強固に形成されつつある中、労組も党の支配下に置かれてしまっている状況で、労組に対抗力を期待することはほぼ不可能であったと言ってよい。スターリンはそういう現実を、自らも古参の党官僚として十分に理解していたのである。
 党官僚制の問題とともに、スターリンのレーニンに対する裏切りと非難されてきたのが、有為の人材の大量喪失を招いた「大粛清」である。
 この点、今日ではレーニン時代にも前に述べたような「赤色テロ」による大量抑圧があったことが明らかになっている。ただ、レーニンの「赤色テロ」は党外の反革命勢力に向けられたものであったのに対し、スターリンの「大粛清」はまさに粛清、つまりは党内の反対派(と彼が疑った者)に向けられた内部テロであった点に大きな違いがある。
 しかし、レーニン時代にもすでに帝政ロシア秘密警察のスパイであったことが発覚した党幹部マリノフスキーに対する粛清という一件があったし、「大粛清」で多用された秘密警察―当時は内務人民委員部(NKVD)と改称されていた―を動員した裁判なしの、または略式裁判による収容所送致や銃殺といった方法は、すでにレーニン時代の「赤色テロ」でも使われていた適正手続無視の手法をスターリンが学習し、いっそう拡大・応用したものにすぎなかった。
 それにしても、レーニン存命中にはこれほど大がかりな内部粛清はあり得なかったと言われるかもしれない。現象的に言えばそうであるが、内部粛清の理論的な淵源がレーニンの「鉄の規律」という党組織論にあることは否めない。「鉄の規律」は党内の異論派への非寛容を生み出し、粛清的雰囲気を高めるのである。
 実際、「大粛清」の序曲となった1936年‐37年のいわゆる「見世物裁判」で真っ先に標的にされたのは、10月革命蜂起に反対してレーニンが一時除名を検討したカーメネフとジノヴィエフであった。彼らは当時海外に亡命していたトロツキーと結託して反ソ活動を行ったとする虚偽の自白をさせられ、銃殺されたのであるが、彼らの粛清は20年前のレーニンの意思に基づくと見ることもできる。もっとも、レーニンは彼らの党からの抹消を望んだだけで、地上からの抹消を望んだわけではなかったのであるが。
 ちなみに、この「見世物裁判」で粛清された今一人の古参幹部は、スターリンが対トロツキー闘争の過程で一時手を組んだこともあるブハーリンであったが、彼もレーニン最晩年にレーニンから弁証法に対する無理解を指摘され、後継候補から事実上外されていた。
 こうしてみると、スターリンはレーニンからも問題視されたことのある人物たちを彼なりの仕方で最終的に“始末”したのだとさえ言えるのである。
 ただ、スターリンの「大粛清」が極端な広がりを見せたことは、彼の個人的な性格によるところも大きかったのは事実である。スターリンの性格の特異性は極端なまでの猜疑心の強さにあった。スターリンは他人の些細な態度や言動の中に不忠と裏切りの臭いを嗅ぎ取るのであった。おそらくそれは晩年のレーニンが指摘した粗暴さよりは、むしろ小心さの表れと見るべきものであろう。
 そうしたスターリンの小心さが当時ヨーロッパ方面におけるドイツ、極東における日本の脅威が高まり、第二次世界大戦の足音が迫る中、彼の猜疑心を病的なまでに増幅させていたのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第63回)

2013-03-14 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン

レーニン神格化政策
 レーニンの死後、彼に対してソ連当局がとった態度は神格化と呼ぶにふさわしいものであった。そして、このようなレーニン神格化政策を主導したのが他でもないスターリンだったのである。
 彼は死の直前期のレーニンと不和になり、個人的な性格を論文の中でなじられるという屈辱を受け、内心レーニンへの反感が募っていたはずであるが、間もなく始まるであろう後継者争いに打ち勝つため、さしあたりレーニンを神格化して自らレーニンに最も忠実な弟子であることの証しを立てなければならなかった。
 生前のレーニンは明確な後継指名をしていなかったが、病床で筆記させた最後の論文の一つで、トロツキーとスターリンの名を挙げ両人の協力を要請していたことから、この二人に的を絞っていたことは間違いない。
 しかし、死の直前のレーニンがスターリンと激しく対立したことからすると、トロツキー株が上がっていたように見えた。もっとも、トロツキーの弱点は元来メンシェヴィキであり、ボリシェヴィキに正式に加入したのは、第二次革命の時であるにすぎないことにあった。
 となると、スターリンがトロツキーとの違いを際立たせる道は故レーニンへの絶対的忠誠と帰依を見せつけることであった。そこで彼はレーニンの遺体の保存措置に関する党政治局決定を主導し、レーニン廟の建設を推進したのである。そして、いち早く「レーニン主義の基礎」という論文を発表してレーニン思想の教条化にも着手した。
 こうしたレーニン神格化政策の効果は大きく、もともとレーニンに対する忠誠心にいくぶん疑問の持たれるトロツキーとの後継争いで優位に立つことに成功した。そのうえで、彼はかつて10月革命時には軍事蜂起に反対してレーニンの不興を買ったカーメネフとジノヴィエフを味方につけてトロツキーを少数派に落としておいて、1927年の党大会ではトロツキーとともにコミンテルン議長ジノヴィエフも追い落として権力基盤を固めたのである。

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原発報道は今

2013-03-11 | 時評

原発大震災から二年。事故当初の緊迫したリアルタイム報道から一変し、事故を起こした福島第一原発の状況は現在どうなっているのか、メディアは日々継続報道せず、五輪招致ニュースなどに熱中している。原発事故は、五輪招致上も看過できないマイナス要因なのに―だから報じない?―である。

時折思い出したように報じられる原発事故関連のニュースは早々と「収束宣言」を発した政府・東電の発表に頼っており、翼賛メディア化の進展ぶりは事故前と変わらない。

原発事故の要因は物理的なものと非物理的なものとが複雑に絡み合っているが、非物理的な主因として秘密主義の情報閉鎖社会ということがある。その点ではチェルノブイリ原発事故を起こした旧ソ連と同様である。両国が同一レベルの空前原発事故の当事国となったのも決して偶然ではない。その点でメディアの責任は小さくない。

だが、旧ソ連と大きく異なるのは、現代日本には検閲制度がなく、報道の自由が確保されていることである。ならば、事故当事国メディアの使命として報道の自由を行使し、過剰気味のスポーツ・芸能ニュースを削ってでも、完全な「収束」が確証されるまで原発事故情報を定番ニュースとしてこまめに内外に伝えるべきである。

他方、マス・メディアとは異なる情報源を持つ反原発・環境運動側の独自メディアも近時はデモ・集会などのイベント情報に偏り、事故情報をあまり伝えなくなっている。運動体がイベント屋と化してよいのか。情報閉鎖社会の市民にとって必要なのはイベントよりも真実を伝える正確な情報だ。

マス・メディアもオールタナティブ・メディアも、総じて「収束宣言」という世論工作にはまっているように見える。そもそも3・11はただの大震災ではなく、人類が経験したことのない「原発大震災」だったという事実自体が十分に伝えられてきたとは言えない。情報閉鎖社会は事故後も相変わらずだとしか言いようがない。

そうしたことへの反省もなく、原発事故はすでに終わった不幸な偶発事と片づけて社会全体が原発再稼動へなし崩しに動き出すならば、歴史は繰り返されるだろう。「知らぬが仏」ということわざもあるが、原子力に関する限り、「知らぬがゆえに仏」となりかねない。  

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すげない「友好国」

2013-03-10 | 時評

「保守本流」とされる懐かしい自民党政権に復帰して、米国をはじめ友好国の信頼を台無しにしたと非難される民主党前政権の「外交敗北」を立て直してくれるはずであった。ところが、どうも友好国の態度がすげない。

オバマ政権が二期目に入った米国は尖閣諸島問題での対中強硬策に同調しようとしない。米国は中国を旧ソ連に代わる新たなライバル大国として警戒しつつも、中国との新冷戦は回避したいのだ。

史上初の女性大統領が就いた韓国も対日関係より対中関係を重視し、歴史問題―竹島問題を含む―でも妥協するつもりはない。朴槿恵新大統領は保守系とはいえ、女性として慰安婦問題に象徴される歴史問題を無視できない。父・朴正煕にならい歴史棚上げで「親日」を演じて父親の独裁体制時代の記憶を蘇らせることも政権運営上プラスにはならない。

こうして、無条件で味方になってくれるような真の意味での日本の友好国は実は存在していないという現実を突きつけられているのだ。要するに、「日米同盟基軸‐親韓」という困った時にはそこに逃げ込めた冷戦時代の便利な思考が通用しなくなったのである。

東アジアには朝鮮、中国という二つの分断国家、日本とロシアの間の領土問題等々、冷戦時代の積み残しとしての残雪が残されているとはいえ、時代はポスト冷戦期、世界が流動化する中での独自外交の時代である。しかし、これは日本の苦手分野だ。民主党前政権は対米従属からおずおずと抜け出そうとしたものの、失敗に終わり、中国という竜の尾(?)も踏んでしまった。

日本の歴史的な岐路である。私見によれば、当面の事態を打開する基本的な切り札は重装軍隊でも丸腰でもない自衛隊という国防における「第三の道」によって物理的にも担保された独自の平和外交である。

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マルクス/レーニン小伝(連載第62回)

2013-03-08 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

ロシアの労働者と農民がヴェ・イ・レーニン率いる共産党の指導の下に成し遂げた10月社会主義大革命は、資本家と地主の権力を打倒し、抑圧の鉄鎖を打ち砕き、プロレタリアートの独裁を確立し、新しい型の国家にして革命の成果の防衛及び社会主義と共産主義の建設の基本的な手段であるソヴィエト国家を作り出した。資本主義から社会主義への人類の世界史的転換が始まった。
―ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法前文第一段


(1)レーニン死去

早かった死期
 
レーニンは大規模な内戦・干渉戦がようやく終息に向かった1920年に50歳を迎えた。まだ老いる年齢ではなかったが、体制の基盤が固まるのに反比例してレーニンの健康は衰えていく。
 彼は22年4月、18年の暗殺未遂事件の際の銃撃で肩に打ち込まれた銃弾の摘出手術を受けたが、その直後の5月と12月に二度にわたって脳梗塞と見られる発作を起こした。
 その年末にはかの「グルジア問題」をめぐってグルジア人のスターリンと対立し、「レーニンの遺言」として知られる最後の論説の中で、スターリンの性格を「粗暴」と評し、党書記長からの解任を検討するが、実現しなかった。
 スターリンとの対立は翌年もう一度発生する。今度は病状が悪化したレーニンを政治活動から遠ざけ、党中央で治療管理する方針を決めたスターリンがクループスカヤ夫人に対しレーニンに政治活動をさせないよう求めたことを妻への暴言と受け止めたレーニンが激怒し、スターリンに謝罪か絶交かを迫ったのだ。
 レーニンの病状を考えると、彼の態度は過剰反応とも言えるものであったが、このエピソードにはレーニン夫妻の一心同体的な絆の深さが表れている。レーニンが壮健だった頃の二人は苦難に直面すると、散歩や山歩きをして支え合うような間柄であった。そこにはマルクス夫妻とも似た関係が見られた。
 それだけにレーニンは自分を遠ざけようとするスターリンの政治的な野心を嗅ぎ取った以上に、妻に対するスターリンのぞんざいな物言いを自らに対する侮辱と受け止めたものと見られる。
 この一件の後、23年3月、レーニンは三度目の発作を起こしてついに言語機能を喪失し、事実上政治生命を絶たれた。これはレーニンの病状が一時的でも回復するようなことがあれば解任が現実のものとなったかもしれないスターリンにとっては幸いなことであった。
 翌24年1月、四度目の発作を起こして意識を失ったレーニンは、同月21日、息を引き取った。53歳での死はマルクスよりも10歳以上若かったが、その後の取り扱いはマルクスと雲泥の差があった。
 レーニンの葬儀は荘重な国葬として執り行われたうえ、党政治局の決定により遺体は永久保存措置を施され、特別に建設されたレーニン廟に納められ、今日に至るまで一般公開されている。
 旧都ペテルブルクはソ連邦解体後にほぼ旧名のサンクト・ペテルブルクに戻されるまで、レーニンにちなむレニングラードと改称されていた。彼の郷里シンビルスクもレーニンの本姓ウリヤーノフにちなむウリヤーノフスクと改称され、こちらは現在でもそのままである。

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アディオス、チャベス

2013-03-08 | 時評

「21世紀の社会主義」の旗手、ベネズエラのチャベス大統領が世を去った。「21世紀の社会主義」はチャベス個人と密接に結びついていたので、彼の死と共に事実上終わるだろう。

「21世紀の社会主義」を嫌悪してきたアメリカとその同調者であるベネズエラの資本家・富裕層は安堵しているだろうが、かれらも「21世紀の社会主義」の本質を正確に洞察しているとは言えない。

「21世紀の社会主義」は結局のところ、チャベス体制とその影響を受けた二、三のラテンアメリカ諸国にしか広がらなかったので、一般化はしにくいのだが、その中身を見る限り、ソ連型国家社会主義の中途半端な復刻版であった。経済的には旧来の産業「国有化」政策を軸とするが、旧ソ連ほど「国有化」は徹底されない。

それでも、こうした復刻政策は、中国や近隣の社会主義「大国」キューバでさえ市場主義へ傾斜していく中、チャベス個人のカリスマ的性格とも相まって、世界の注目を引いてきたことはたしかである。

また、「21世紀の社会主義」は武装革命でなく、選挙を通じた「投票箱による革命」として始まった点で新たな革命の方法としても注目されたが、革命後の展開は全く民主的とは言えないものであった。

政治的な観点から見れば、「21世紀の社会主義」はラテン的反米ポプリスモの流れを汲むもので、南米伝統の強力な大統領制を利用した独裁政治の一形態であった。とりわけ大統領に立法権まで付与する「授権法」はナチス的制度の復刻でさえあった。

簡単に言えば、チャベスとは、レーニンとヒトラーを半分ずつ掛け合わせたような、混沌とした21世紀のハイブリッド型革命家であり、彼の体制はソ連体制とナチス体制を半端に掛け合わせた「国家‐民族社会主義」とでも呼ぶべき混合体制であったと言えるだろう。

かくして、マルクスがヘーゲルの言葉として引用した「すべての世界史的事実と世界史的人物は言わば二度現れる」に付け加えた有名な言葉「一度目は偉大な悲劇として、二度目は惨めな笑劇として」が想起されるのである。

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