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近代革命の社会力学(連載第484回)

2022-08-31 | 〆近代革命の社会力学

暫定結語

 前回まで、近世に始まり現代に至る広い意味での「近代」の世界で続発してきた革命事象を個別に取り上げ、それら革命事象を惹起した人間の集団的な力学―社会力学―という視点から、その発生の背景や展開、余波や事後の展開等について解析してしてきた。
 それら過去500年内外の間に継起した近代革命の流れを見ると、現代の同時代に近づくにつれ、革命事象がイデオロギー性を脱し、特定のイデオロギーに基づかない民衆蜂起の形態を取ることが多くなってきたことに気づかされる。
 それに伴い、革命の力学においても、イデオロギー的に結束した職業的革命家集団が主導する典型的な革命に代わり、自然発生的なデモ行動の拡大によって体制が崩壊するパターンの革命が増加している。その結果として、民衆蜂起を契機とする政変=民衆政変と革命との事象的な差異が微妙になっている。
 このような革命事象の傾向的変化は、革命のプロセスがある意味で民主化されてきたものと好意的に評価することもできる一方、理念的な統一性を欠くため浮動的で、現体制を打倒することが一過性の自己目的化し、その後の展望に乏しく、結果として類似の体制が再現前するに終始することも少なくない。
 それとも関連して、革命が政治的上部構造の部分的改変に終わり、社会経済体制には十分切り込まないか、むしろ資本主義的市場経済化の推進というある意味では反革命的な方向に流れやすいことも、冷戦終結・ソ連邦解体以降の諸革命に見られる特徴である。
 とはいえ、職業的革命家集団主導のより徹底しているはずの革命も、革命後に革命前の体制と同等か、それを上回るような圧政を結果したり、反動化したりする事例も見られ、決して革命の理想型を示しているとも言い難いことは、フランス革命やロシア革命のような代表的な革命事象から導かれる教訓である。
 おそらく、今後は、民衆蜂起型の革命―民衆革命―が主流化していくであろう。その傾向は、情報通信技術の持続的な発達によって促進され、最終的には、一国や一地域を超えたグローバルな次元での民衆革命という歴史的に未体験の世界革命に達する可能性もある。
 その際、民衆革命の持つ理念的な不統一性や浮動性、一過性といった短所をいかに克服するかいうことが課題となるであろう。言わば、職業的革命家革命と民衆革命の間をつなぐ新たな革命の力学が発見されなければならない。
 一方で、革命というものが思念されることさえなく、大衆が脱政治化され、動員解除状態に置かれている諸国も少なくなく、それら諸国ではそもそも革命の力学が作動しなくなっている。そうした言わば「革命の反力学」の解明は本連載の論外となるので、別の機会に回すことにする。

 当連載は、2014年ウクライナ自立化革命を最終として、いったん暫定的に完結とする。その後も、まさに現時点にかけて、革命事象は世界で継起しているが、現在進行中もしくは帰趨未確定の事象であり、個別的に叙述するには時期尚早だからである。
 なお、今後しばらくは、これまで保留してきた20世紀以前のあまり注目されていないいくつかの革命事象を補遺として追加していく。

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近代革命の社会力学(連載第483回)

2022-08-30 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(5)革命の帰結
 2014年の革命は中和的な結果に収斂した一方で、ウクライナに深刻な内憂外患をもたらすことなった。その要因として、革命を通じてウクライナ民族主義が大きく台頭したことがある。
 ウクライナ民族主義はソ連邦解体以後、独立ウクライナの根底に常在していた要素ではあるが、ロシアからの自立を志向した2014年革命の原動力ともなったことで、前面に浮上してきた。とりわけ、言語政策である。
 親露派ヤヌコーヴィチ政権はロシア語その他の少数言語を地域言語として承認する多言語法を制定していたところ―その最大の眼目はロシア語の承認にあった―、2014年革命はこの法律の廃止を導き、ウクライナ語を唯一の公用語とする単一言語政策への転換が図られた。
 こうしたウクライナ至上主義は、ロシア語話者の多いクリミア半島や東部ドンバス地方の強い反発を招いた。元来、これらの地域は西部の親欧派主導による革命に否定的であったが、革命後は明確に反革命派の拠点となった。
 中でも、元来からロシア系住民が多いため、ウクライナからの分離志向が強く、自治共和国としての特別な地位が認められていたクリミアの離反は決定的となり、革命直後から分離主義勢力が蜂起し、地方庁舎などを占拠した。
 3月には、クリミア議会が革命を支持した自治共和国首相を罷免し、親露派首相にすげかえると、ロシア軍がロシア人保護を名目として軍事介入する中、ロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施され、96パーセントの賛成多数をもってロシアへの編入が決定された。
 しかし、このロシアの介入下での住民投票には公正さに疑問も持たれ、その後の併合プロセスを含め、ウクライナ中央政府と国際社会はクリミアのロシア編入を承認していない。
 一方、東部ドンバス地方はクリミア半島ほどではないが、やはりロシア語話者ないしロシア系住民の多いところで、ヤヌコーヴィチ前政権の支持基盤でもあったため、2014年革命には反発が強く、3月以降、親露派の反革命武装勢力が蜂起した。
 中でも、ドネツク州とルガンスク州の武装勢力は州庁舎を占拠して事実上の地方政権の樹立に成功、それぞれ「人民共和国」を称して実効支配を開始した。「人民共和国」といっても、実態はロシアの傀儡政権であり、最終的にはロシアへの編入を目指していると見られる。
 しかし、ウクライナ政府としても、石炭や鉄鋼などの産業基盤があるドンバス地方の分離・ロシア併合を容認するわけにはいかず、政府軍を投入して掃討作戦を展開したが、奪回できず、「ドンバス戦争」と呼ばれる長期内戦に突入した。
 一方、ポロシェンコ政権は「浄化政策」と銘打って、ヤヌコーヴィチ前政権下の高官の追放、さらには独立以前の旧ソ連共産党幹部の遡及的な追放にも及ぶ大々的な公職追放政策を断行したうえ、NATO加盟方針に傾斜した。こうした反露政策は、当然にもロシアを刺激した。
 ポロシェンコは周辺での汚職疑惑も響いて、再選を目指した2019年の大統領選では、芸能界出身のウォロディミル・ゼレンスキーに敗れたが、ゼレンスキーも対露関係の改善には成功せず、2022年からのロシアによるウクライナ侵略戦争につながっていく。
 こうして、2014年革命はウクライナに一定の民主主義を樹立したが、かえって国の地域分断と亡国危機を招き、世界情勢にも影響する地政学的な不安定要因を作出する結果となった。

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近代革命の社会力学(連載第482回)

2022-08-29 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(4)民衆革命への急転と革命の中和
 ヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との連携協定への調印を見送りとしたことへの国民的反発には政権の想定を超えるものがあり、政権が方針を決定した2013年11月21日には、早くも最初の抗議行動が首都キエフの独立広場で発生した。
 これを呼びかけたのは、ティモシェンコ・ブロックの中核を成す野党の全ウクライナ連合「祖国」であったが、同月24日には2004年の民衆蜂起以来の大規模な抗議デモに発展した。これに対し、政権が30日以降、警察特殊部隊ベルクトを投入して弾圧を開始したことを受け、「祖国」その他の野党勢力が「国民レジスタンス本部」を設置した。
 この後、12月に治安部隊と抗議デモ隊の攻防が激化していく中、政権が同月17日、ロシアとの間で、ウクライナに供給する天然ガス価格の低減などを取り決めた二国間行動計画に調印したことは火に油を注ぐ結果となった。
 同月22日には、新憲法の制定を通じて新しいウクライナを建設することを目指す超党派の政治団体として、マイダン(広場)人民連合が結成された。これは未だ革命政府として整備されたものではなかったが、未然革命における対抗権力に近い組織であった。
 明けて2014年1月に入っても抗議行動が収束しない中、同月16日、与党・地域党主導のウクライナ議会は、抗議活動をより強力に取り締まる根拠法となる反抗議法を制定した。
 しかし、このような弾圧立法はかえって、さらなる抗議行動の拡大をもたらし、親欧派拠点である西部地域では多くの地方庁舎が抗議デモ隊により占拠される中、2月21日、ロシアと欧州連合の仲介により、ウクライナ政治危機の解決合意が締結された後、ヤヌコーヴィチは首都から脱出した(ロシアへ亡命)。
 これを受け、ウクライナ議会はヤヌコーヴィチの罷免とオレクサンドル・トゥルチノフの議長兼大統領代行への就任を決議した。トゥルチノフはティモシェンコ・ブロック所属であり、この新体制は事実上の革命政府となった。
 暫定政権は、2004年の未遂革命の後に施行されながらヤヌコーヴィチ政権が覆した大統領権限の縮小を軸とする憲法修正条項を復活させたうえ、2014年5月に新たな大統領選挙を実施した。
 その結果、無所属のペトロ・ポロシェンコが、革命後に釈放されたティモシェンコを破って圧勝した。ポロシェンコは裕福な実業家で、元は親露派の地域党の結成に関わりながら、ユシュチェンコ、ヤヌコーヴィチ両政権下で閣僚経験を持ち、2014年大統領選では親欧派として売り込んだ複雑な人物であった。
 このように、革命後最初の大統領選挙が意外な結果に終わったのは、革命の混乱を収束させ、平穏を取り戻すためには、急進的なティモシェンコよりも安定感のある中和的な人物を選択する国民の意思が働いたためと見られる。

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近代科学の政治経済史(連載第18回)

2022-08-27 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

ダーウィン進化論とカトリック界
 ダーウィン進化論に対するカトリック界の反応は、必ずしも明確ではなかった。これはダーウィンが英国国教会の優勢なイギリスの科学者であったことも影響しているのであろうが、『種の起源』公刊後の1869年‐70年に開催された第一バチカン公会議でも、進化論には言及されなかった。
 このような沈黙は、17世紀にガリレイを宗教裁判にかけて迫害し、その後、彼の著作を禁書とした強硬措置に比して対照的である。実際、地動説は明確に聖書の記述と矛盾するものではないが、進化論は天地創造説に抵触することを考慮しても、こうした対応はいささか不可解である。
 その点、ダーウィンの『種の起源』が出た19世紀後半には、カトリックといえども、近代科学を否定することはもはやできない段階に達しており、科学学説に対して直接に介入し、科学者を断罪するという所作を差し控えるようになっていたのかもしれない。
 とはいえ、個別的には進化論を否定するような対応がいくつかなされている。公刊翌年の1860年には、ドイツのカトリック司教会議がダーウィン進化論は聖書と信仰に反するとする声明を発している。
 また、1876年にはスペインのカナリア諸島で活動した人類学者グレゴリオ・チル・イ・ナランホが、ダーウィン進化論を擁護したかどで、カナリア諸島の司教から破門されたのは最も踏み込んだ措置であるが、これとて地方司教区レベルの対応にとどまる。
 ダーウィンの没後には、カトリック聖職者の立場で進化論を擁護した司祭や司教がバチカンからの非難や圧力を受け、著作の回収や持論の撤回に追い込まれたこともあるが、バチカンとして公式に進化論を否定する立場表明には至っていない。
 こうしたバチカンの沈黙政策の中、創造説と進化論を両立させ、神は進化を含む自然法則に従って生物種を創造したと解する有神的進化論が提唱され、プロテスタントを含め、かなりのキリスト教徒に抱懐されるようになっており、科学と信仰の対立をある程度まで止揚する思考的試みがなされている。

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近代科学の政治経済史(連載第17回)

2022-08-26 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

ダーウィン進化論と宗教界の反発
 チャールズ・ダーウィンがその著名な主著『種の起源』を公刊したのは、旧進化論者ラマルクの没後30周年に当たる1859年であった。著書の公式タイトルは『自然選択、すなわち生存競争における有利な種の保存による種の起源』という長いものであった。
 著書の全体論旨を見事に凝縮した明快なこのタイトルには、ラマルクの用不用論のような素朴な進化論を超えて、自然選択という新たな視座を提唱しつつ、かつ天地創造説のような神学的な創世論を否認し、生物種の起源に関する科学的な理論を定立せんとするダーウィンの企図が込められている。
 ちなみに、ダーウィン自身は英国では正統派の国教会教徒であり、父は彼を牧師にするため、ケンブリッジ大学で神学を学ばせた。科学の道に転身してからも、ダーウィンは無神論者ではなく、聖書の無謬性も信じていたとされるが、博物学者としての研究旅行の中で、科学と信仰の相克に悩み、事物の本質認識を不可能とする不可知論に傾斜していたようである。
 しかし、彼の研究集大成でもあった『種の起源』では、まさに種の起源について天地創造を否定するに至ったため、宗教界からの反応は概して否定的であり、ダーウィンの恩師にして、国教会聖職者・地質学者でもあったアダム・セジウィックもダーウィン進化論の論敵となった。
 また、ヴィクトリア女王の宗教顧問でもあったサミュエル・ウィルバーフォース主教もダーウィン進化論に対する強力な反対者となり、ダーウィンをナイト爵の候補者に推薦することに反対した。そのため、その学術上の業績からすればナイト爵を授与されても然るべきダーウィンは生涯、国家的栄典に浴しなかった。
 しかし、そうした公的な冷遇を超えて、ダーウィンが17世紀のガリレオのように直接に迫害を受けるようなことがなかったのは、英国国教会のある程度までリベラルな体質と、17世紀以降近代科学の先進地であった英国の自由な知的風土のゆえであろう。

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近代革命の社会力学(連載第481回)

2022-08-24 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(3)親露政権の抑圧と対露従属化
 2010年大統領選挙の結果、成立したヤヌコーヴィチ政権の性格は、2004年以前のクチマ政権の流れを汲む親露政権であり、その政策や手法は類似しており、振出しに戻る形となった。しかし、ロシア追従や権威主義的な統治手法ではクチマ政権を上回る部分もあった。
 後者に関しては、決選投票でも争ったティモシェンコ首相を議会の不信任決議で追放したばかりでなく、2011年以降、職権乱用や横罪、脱税その他複数の容疑で逮捕・起訴を繰り返し、政敵のティモシェンコ追い落としを開始した。
 ティモシェンコをめぐっては元来、経済犯罪の疑惑があったが、ヤヌコーヴィチ政権による集中的なティモシェンコ疑獄捜査は政権による政治的な動機も疑われ、ティモシェンコ自身も一連の捜査をスターリン時代の大粛清になぞらえて、ハンストで抵抗したが、結局は有罪が確定した。
 また、90年代から存在し、人権侵害で悪名高い内務省特殊部隊(ベルクト)に対してユシュチェンコ政権が課した監督制度を撤廃し、再びこれを活用して反政府派の抑圧に投入した。
 しかし、2014年の民衆革命により直接的につながったのは、対露従属政策であった。親露政権である以上、ロシアとの接近は予想されたところであったが、その対露政策は「親露」を超えて「従露」と呼ぶべきレベルに達した。―ヤヌコーヴィチがそれほどロシアに忠義を尽くしたのは、自身が民族的にウクライナ人ではなく、ポーランド・ベラルーシ系の血も引くロシア系であったことも影響しているかもしれない。
 その第一弾は、政権発足年の2010年、ロシアが安全保障上重視するクリミア半島のロシア海軍黒海艦隊の駐留を2017年の期限切れから、さらに25年間継続することを認めたことである。これは、ソ連邦崩壊後にロシアと独立したウクライナの両国間で取り決めた駐留期限を撤廃する大きな政策転換であった。
 ロシアにとっては、クリミアのセヴァストポリを基地とする黒海艦隊を2042年まで継続運用することが可能となり、ウクライナを同盟国としてつなぎ止め、NATOに睨みを利かせるうえでも大きな足がかりを得たことになる。
 より決定的な第二弾は、2013年、仮調印を終えていた欧州連合(EU)との連携協定の正式調印を見送ったことである。これは、ウクライナを含む旧ソ連諸国との連携を深めるEUを警戒していたロシアがウクライナに経済制裁を科したことを受けての対応と見られた。
 連携協定はウクライナのEU加盟を直接に目指すものではなく、より緩やかな連携関係を構築するものに過ぎなかったが、ヤヌコーヴィチ政権がロシアの圧力を受けて調印を見送ったと受け止められたことは、ウクライナ国民の民族感情を刺激する結果となった。

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近代革命の社会力学(連載第480回)

2022-08-23 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(2)親欧政権の分裂と親露政権への交代
 2014年民衆革命の要因はひとえにその十年前の未遂革命の結果誕生した親欧政権の内部対立と分裂にあり、それなくしては革命も、また革命後の内戦とロシアの侵攻もなかったと断言できるほど、近時のウクライナの激動の引き金を引いた力動である。
 ユシュチェンコ政権は親欧保守政党「我らのウクライナ」を与党としていたが、実際のところは、ソ連邦崩壊後、資源分野のオリガルヒとして台頭してきた女性実業家ユリヤ・ティモシェンコが率いるより急進的かつ民族主義的な個人政党であるユリヤ・ティモシェンコ・ブロック(以下、ブロック)の連立で成り立っていた。
 2004年の未遂革命ではユシュチェンコ‐ティモシェンコの連携により当時のクチマ政権に再選挙を実施させ政権獲得に成功し、ティモシェンコはウクライナ史上初の女性首相にも任命された。
 しかし、ユシュチェンコ‐ティモシェンコ体制が亀裂を来たすのに時間はかからず、2005年にはティモシェンコは早くも首相を解任されたが、大衆迎合的な政治姿勢から彼女の国民的人気は衰えず、2006年、2007年の連続議会選挙でブロックは議席を伸ばし、再び首相に返り咲いた。
 しかし、ティモシェンコの第二期首相時代には天然ガス輸入価格の抑制などをめぐりロシア寄りの姿勢をとるようにさえなり、ユシュチェンコ大統領との対立は深まったが、解任されることなく、2010年の大統領選挙では自らユシュチェンコの対抗馬として立候補した。
 この選挙では、支持が低迷していた現職ユシュチェンコが第一回投票で惨敗する中、ティモシェンコは第二位につけたが、一位の親露派ヴィクトル・ヤヌコーヴィチとの決選投票に敗れ、その後、議会の不信任決議により首相を退任した。
 これにより、一転して親露派のヤヌコーヴィチ政権が成立することになったが、ヤヌコーヴィチの属する地域党は議会選挙では2006年、2007年と連続して比較第一党となっており、選挙結果に現れた「民意」においては最も支持されていた政党であった。
 このことは、2004年の未遂革命後の結果と矛盾するように見えるが、ユシュチェンコ現職の惨敗に見られるように、親欧政権の混迷に有権者が辟易し、再び親露政権の安定性に期待するようになっていたことを示すものとも言える。

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近代革命の社会力学(連載第479回)

2022-08-22 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(1)概観
 ウクライナでは、2000年代初頭のユーラシア横断民衆諸革命の一環として、2004年に不正選挙疑惑を契機とする民衆革命(未遂)を経験し、再選挙の結果、親欧派のユシュチェンコ政権が発足したが、この政権は内部対立などから間もなく分裂し、政争が激化する中、ユシュチェンコは再選を狙った2010年の大統領選で惨敗した。
 その結果、一転して親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権に交代した。ヤヌコーヴィチ政権下では、当然ながら対ロシア関係が改善されたのみならず、力関係から言ってもロシアの影響力が強まり、事実上ロシアの属国となる恐れが急激に生じた。
 そうした中、ヤヌコーヴィチ大統領の任期途中の2014年2月に再び民衆蜂起が発生し、ヤヌコーヴィチ政権は短時日で崩壊した。革命後には憲法改正が行われ、新たな大統領選挙の結果、再び親欧派政権が発足するという再逆転が生じた。
 こうした経緯から、2010年のウクライナ民衆革命は2004年の未遂革命から時間を置いた二次革命とも言えるが、2004年当時と比べ、ロシアへの従属状態からの解放を主要な目標としていた点からは、2005年のレバノン革命とも共通要素を持つ自立化革命という新たな革命の形態と言えるものである。
 ウクライナでは、2010年革命を、民衆蜂起の拠点となった首都キエフの独立広場にちなみ、「マイダン(広場)革命」と呼ぶのも、そうした対ロシア自立化を意識した呼称である。実際、この革命後は、現時点までウクライナに親ロシア派政権は出現しておらず、継続的な効力を持ち、ウクライナの歴史の方向性を決する画期となる革命であった。
 一方、ロシアにとっては、革命によりウクライナの離反と欧州志向を招き、自国勢力圏の縮小を結果したため、地政学的な観点からも革命には当然否定的であり、以後、ウクライナへの軍事的な干渉を強めていく。
 ウクライナ国内でも、クリミア半島や東部など親ロシア派の地盤では革命への反発が強く、これがロシアの思惑とも結びつく形で、クリミアのロシア編入、さらに東部地域での分離独立派の蜂起と事実上の独立政権の樹立という反応を招いた。こうした革命後の力学が現在進行中のロシア‐ウクライナ戦争につながっていくことになる。

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比較:影の警察国家(連載第66回)

2022-08-21 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐4:海上保安庁の国境警備隊化

 陸(及び陸の延長としての空)の警察である警察庁に対して、言わば海の警察庁として海上保安庁がある。ただし、海上保安庁は国土交通省の外局として設置されており、警察庁とは政府部内の系統を異にしている。
 元来、戦前は海上保安活動も海軍が実施していたところ、戦後の日本軍解体に伴い、1948年に旧運輸省外局として設置されたのが海上保安庁であり、歴史上は1954年設置の警察庁より数年古い。
 そうした創設の経緯から、海上保安庁は非軍事的な文民警察組織として機能するが、陸の警察と異なり、都道府県は海上保安活動に関与しないことから、海上保安庁を頂点にその地方支分部局として管区海上保安本部が各地に配置される純粋の「国家警察」として機能する点が、陸の警察とは大きく異なる。
 また、自衛隊が防衛出動または治安出動する事態に際しては、内閣総理大臣命令に基づき、防衛大臣の指揮下に置かれる場合がある点も、陸の警察との相違点である。その限りでは、海上保安庁は部分的に軍事的な性格も帯びている。
 そもそも、敗戦後に現行領域まで縮小された日本領土は外国との間に陸上の国境線を持たず、外国との境界線はすべて海上にあることから、海上保安庁は単なる海の警察を超えた事実上の国境警備隊としての任務を帯びているとも言える。
 そうした国境警備隊的な性格は、20世紀末以降、強化されてきている。重要な転機となったのが、1999年の能登半島沖領海に北朝鮮船籍と見られる不審船が侵入した事件である。この事件では、海上保安庁の対処能力の限界から、海上自衛隊に初の海上警備行動が発令される事態となった。
 この事件の教訓から、海上保安庁巡視船の射撃能力の強化、さらには海上保安官による致死傷結果を招く危害射撃の免責条件の緩和といった対策が講じられたことにより、海上保安庁の国境警備隊化が進んだ。
 この傾向は、続いて2001年にも再発した同じく北朝鮮船籍の工作船が九州南西海域に侵入した事件に際し、強化された海上保安庁巡視船との銃撃戦の末、対象工作船が自爆し、乗組員が死亡するという事態で現実のものとなった。
 その後、尖閣諸島周辺海域をめぐっても、近年、中国側のカウンターパートである中国海警局の船舶による示威行動が多発するに至り、これへの対処も海上保安庁の重要任務となる中、海上保安庁の国境警備隊化は一層進行していると考えられる。
 こうした海上保安庁の強化策は陸の警察にも一定の影響を及ぼしていると見え、2001年には警察庁も警察官の武器使用基準の緩和(第一次的な拳銃使用・無警告射撃の容認等)に踏み切っている。

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近代革命の社会力学(連載第478回)

2022-08-19 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(4)革命自治体制の制度と政策

〈4‐1〉民主的連合主義
 ロジャヴァ・クルド革命によって樹立された革命自治体制の制度は2014年制定のロジャヴァ憲法によって規定されているが、その内容は現時点の世界の諸憲法の中でも先進的で、中でも「民主的連合主義」と規定された統治システムはユニークなものである。
 この仕組みにおいては、ロジャヴァ自治域がスイスの州名称にちなむカントンと呼ばれる行政区に分けられ、各行政区には選挙制の地区評議会と市民評議会とが設置される。
 地区評議会はカントンの中核機関であり、男女各一名ずつ選出された共同議長の下、カントンにおける行政及び経済運営に関する決定権を持つ。市民評議会はカントンにおける社会的・政治的権利の増進を担う啓発的機関である。
 ただし、カントン全体をとりまとめる行政府としての執行評議会及びクルド人以外の少数民族も参加するシリア民主軍の政治部門かつ自治域全体の立法機関としてシリア民主評議会が存在している。
 執行評議会はカントン間の調整や自治域全体の外交・軍事を担当し、かつ中央省庁を管轄する機関で、ここでも男女各一名ずつの共同議長制を採る。
 執行評議会は革命の中心を担った民主統一党が主導しているが、その他の諸政党も参加しており、複数政党制に基づいている。しかし、西欧流の議会制とは異なり、与党が主導する政府ではなく、合議制執行機関である。
 こうした「民主的連合主義」の制度は、地域の諸勢力の均衡とトルコの侵攻による自治域の縮小に応じて流動的で、現時点ではカントンがより広域の地域圏に包括され、地域圏には単独の首相が置かれるなど、「連合主義」の基本がやや型崩れし、西欧型の連邦制に近いものに変化してきていることが注視される。

〈4‐2〉協同経済体制
 ロジャヴァ・クルド革命をユニークに特徴づけるもう一つの要素は協同経済体制である。これは協同組合と私企業を組み合わせたある種の混合経済体制であるが、旧ソ連型の中央計画経済ではなく、私有財産と起業の自由は保障され、カントンごとの地区評議会が経済を管轄する分権型の経済体制である。
 しかし、自治域の全財産の三分の二は公有化され、協同組合が広範に活用されており、特に農業生産の大部分は協同組合による協同農場で行われる。また全生産活動の三分の一は労働者評議会の管理下にあるなど、自主管理社会主義に近い制度が施行されている。
 一方、通商に関しては、石油、小麦や綿に代表される農産物の輸出とそれによる関税収入が自治域全体の主要財源となっている。域内の直接税や間接税は存在しなかったが、一部のカントンでは所得税制を導入している。
 こうした協同経済の成果として、ロジャヴァ自治域内の賃金や生活水準は、長期の内戦により疲弊し大量難民化が生じているシリア国内の他地域に比べて高いレベルにあるが、これも、シリア内戦の帰趨とトルコの動向に依存した地政学的な情勢と自治体制の持続的な存続可能性いかんにかかる。

〈4‐3〉女性科学理論と実践
 ロジャヴァ自治体制全体の特徴として、先進的なジェンダー平等主義があるが、それは域内全統治機関メンバーの40パーセントを女性に割り振るクウォータ制、執行評議会やシリア民主評議会を含めた政治機関における男女共同議長制などに現実化されている。
 そればかりでなく、各地域に女性の権利を擁護する一種のコミュニティセンターとして「女性の家」が設置され、社会政策の面でも女性に焦点を当てた施策が実施されている。
 こうした取り組みは、単に啓発的な政策のレベルのみならず、女性を単に抑圧された性別として評価することを超えて、社会の原動力としてその活動を民主的社会の柱に位置づけるジネオロジー(jineology):女性科学と呼ばれる理論に基づいている。
 ジネオロジーは、クルド語で女性を意味するジン(jin)から派生した造語で、クルドの女性解放運動の中で形成された独自の理論であり、イスラーム教徒が多数を占める中でのクルド人の先進性を示すものである。

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近代革命の社会力学(連載第477回)

2022-08-18 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(3)革命自治体制の樹立と地政学的展開
 前回見たように、2012年7月に始まるロジャヴァ地方でのクルド革命は、シリア政府軍の戦略的撤退の結果、ほぼ不戦勝の形でひとまず成功し、同年8月初旬には、クルド人民防衛隊(YPG)が制圧した各都市ではクルド人政治組織が自治を行う旨の発表がなされた。
 ただし、この発表はアラブ系左派系政党の連合組織である「民主的変化のための全国調整委員会」名義で行われた。この組織はその名称にもかかわらず、事実上はシリア政府の協調組織と見られており、そうした組織による自治容認の声明は、シリア政府の意向を代弁したものと考えられる。
 政府軍の戦略的撤退の方針と併せてみると、これはシリア政府がロジャヴァのクルド人自治を黙認したとも取れるところであり、実際、これ以降、ロジャヴァ地方は面的にもYPGの支配下に置かれていった。
 こうして、情勢が比較的安定する2014年まで、ロジャヴァ地方は軍事組織であるYPGによる事実上の軍政下にあったが、同年1月、YPGは正式に自治体制―北東シリア自治体(Rêveberiya Xweser a Bakur û Rojhilatê Sûriyeyê)―の樹立を宣明し、ロジャヴァ憲法を制定、同憲法に基づき各行政区域(カントン)の民衆自治組織による施政が開始された。
 とはいえ、ロジャヴァを含むシリア北部にはイラク側からイスラーム過激組織・イスラーム国(IS)が侵入、勢力を広げ、2014年9月にはクルド革命発祥地であるコバニがISに包囲されたが、イラクのクルド人自治区軍ペシュメルガとの共同作戦によって撃退した。
 この作戦では、アメリカ軍も共通敵ISに対抗するため、空軍を投入してYPGを支援しており、ロジャヴァ自治革命体制はIS及びシリアのアサド体制双方と敵対するアメリカからも事実上の承認を受けたことになる。
 ちなみに、このコバニ包囲戦を機に、YPGを軸としてアラブ系やキリスト教徒系も加わった新たな合同民兵組織・シリア民主軍が結成され、2017年9月にはISが「首都」を自称していたラッカを攻撃してISを駆逐する成果も上げた。
 より複雑なのは自治を黙認しつつも要衝奪回の意図は放棄していないシリア政府との関係で、2015年にロジャヴァ地方に属する都市ハサカで政府軍との武力衝突が生じたが、これはロシアの仲介を得て鎮静化された。
 続いて2016年以降は、ロジャヴァ革命がトルコ国内のクルド人勢力に波及することを恐れるトルコが数次の侵攻作戦を開始し、国境沿いに数百キロに及ぶ「安全地帯」と称する実質的な占領地を切り取ったため、クルド自治体制の支配領域は縮小を余儀なくされた。
 こうして、ロジャヴァ自治体制はシリア北部の複雑な地政学に直面し、その帰趨は予断を許さないが、トルコへの対処の過程で、シリア政府軍の支援を求め、シリアもこれを応諾して以来、アサド体制との協調関係が生じており、この限りでは革命性を喪失し、アサド体制の一部に取り込まれつつある。
 一方で、トルコの侵攻作戦に際してアメリカが和平工作に動くなど、アサド体制と敵対するアメリカの支持も引き続き受けながら、アサド体制の後ろ盾であるロシアともパイプを持つなど、対外的にも「非同盟」に似た複雑な関係性に置かれている。

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近代革命の社会力学(連載第476回)

2022-08-16 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(2)クルド人勢力の糾合と決起
 「国を持たない民」であるクルド人は、トルコやイラクのほか、シリアでも少数民族として北東部のロジャヴァ地方に集住してきた。とはいえ、アラブ系主体のシリアではクルド人は異分子であり、歴史的に迫害・差別を免れなかった。
 特に深刻なのは、シリア国籍が与えられず、無国籍状態に置かれているクルド人が多かったことである。無国籍では外国人と同様の扱いであり、社会サービスの多くも受けられず、無権利状態で放置されるからである。
 このような法的・社会的な被差別状況は、クルド人をしてそもそもシリア国民という意識を希薄にし、シリア革命の早い段階から、クルド人勢力に独自行動の道を歩ませるという作用をもたらした。
 シリアのクルド人勢力としては、「アラブの春」に先立つ2003年に発足したクルド民主統一党(PYD)が既存していた。この党はトルコ国内で長年武装闘争を続けてきたクルディスタン労働者党のシリア分派として結党されたもので、当然ながらトルコ側政党の影響下にあった。
 PYDは2004年にロジャヴァ地方の中心都市カーミシュリーで発生した民族衝突事件を機に固有の自警団的民兵組織としてクルド人民防衛隊(YPG)を創設していたが、本格的な武装蜂起はシリア革命開始後のことである。
 一方、PYDとは別に、クルド民族主義者により、シリア革命渦中の2011年10年にクルド民族評議会(KNC‎‎)が結成された。この党は多数の政党の寄り合い組織であったうえに、トルコ政府寄りと見られており、PYD支持者からは多くの批判を受けた。
 KNCはシリア国民評議会にも参加していたが、クルド人自治をめぐり国民評議会主流派のアラブ人勢力との間に溝があった一方、PYDとの対立も激化したため、イラクのクルド自治区の指導者マスード・バルザニの仲介を得て、2011年6月、同自治区の首府アルビールにて、PYDとKNC‎‎の糾合とクルド最高委員会の創設が合意された。
 このアルビール合意は、一つの転換点となった。ロジャヴァ地方でも2011年3月以降、民衆の抗議行動は始まっていたが、小規模なものにとどまっていたところ、同年7月、如上最高委員会の指揮下に編入されたYPGが決起し、まずトルコ国境の町コバニを占領したのに続き、主要都市を点状に制圧・占領していった。
 こうして充分な兵力を擁しないYPGの軍事行動が円滑に進んだのは、自由シリア軍と対峙するシリア政府軍がロジャヴァ地方から戦略的に撤退していったためであり、言わば不戦勝であったが、結果として、武装組織によりつつ、ほぼ無血の革命が達成されることになった。

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近代革命の社会力学(連載第475回)

2022-08-15 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(1)概観
 「アラブの春」の一環としてのシリア革命は未遂に終わったが、革命過程で、シリア北部のロジャヴァ地方では少数民族クルド人が2012年7月に武装蜂起し、政府軍も反政府軍・自由シリア軍をも排して独自の革命自治体を構築することに成功した。
 このロジャヴァ・クルド革命はシリア革命の副産物ではあるが、革命を担ったのは、クルド人の連合組織及びその軍事部門であり、シリア革命そのものとは独立した力学から派生した一種の地方革命である。
 シリアにおける少数民族として長く迫害・差別されてきたクルド人主体の革命という点では民族革命としての色彩も強いが、シリアからの完全な独立を目指すものではなく、あくまでも地方自治の枠内のものである。
 しかし、長引く内戦によりシリア政府のロジャヴァ地方への実効支配は及ばなくなっており、現時点でのロジャヴァ地方は事実上の独立状態にあり、シリア政府もまた事実上現状を容認し、協調関係にあるという点では、メキシコのチアパス州におけるサパティスタ自治体制と類似の状況にある。
 理念的な面でサパティスタと直接のつながりは認められないが、ともに民族解放組織を基盤としながら、直接民主主義的な要素を取り入れ、協同経済を志向するアナーキズム系社会主義に傾斜した独自の政治経済システムを営む点で、共通項も認められる。
 ただし、ロジャヴァ・クルド革命では政党の結成が先行したため、自治体制も基本的に選挙に基づく代議制システムによっており、政党なき直接民主主義を実践しているサパティスタ自治体制に比べれば、直接民主主義的な要素はより希薄で、西欧的な代議制民主主義に近い。
 また、サパティスタ自治体制はすでに連邦政府との内戦も終結し、30年近く持続しているのに対し、ロジャヴァ自治体制は依然終結しないシリア内戦の流動性に加え、隣接するトルコが長く紛争関係にある国内の少数民族クルド人とロジャヴァ自治体制の連携を警戒し、2016年以来、たびたび侵攻、一部地域を占領しているため(拙稿)、支配領域の縮小を余儀なくされている。
 それゆえ、今後の持続性については予断を許さないが、現時点において、ロジャヴァ自治体制は、サパティスタ自治体制と並び、地球上で最も先端的な理念と制度を備えた持続的な脱国家的革命体制として注目すべき存在となっていることは確かである。

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近代科学の政治経済史(連載第16回)

2022-08-14 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ

近代科学は17世紀の最初期に地動説をめぐり宗教政治に巻き込まれ、抑圧されたが、19世紀以降は、進化論が大きな論争の的となる。地動説が天文・物理学分野のパラダイム転換をもたらす画期的な科学理論だったとすれば、進化論は生物学分野におけるパラダイム転換をもたらす画期的科学理論であったが、それは聖書における天地創造説と直接に対立するため、相克関係はより深刻なはずであった。


旧進化論者ラマルクの不遇

 今日単に「進化論」と言えば、英国の博物学者チャールズ・ダーウィンが提唱した自然選択説を指すが、このような新しい進化論の登場には、フランス革命期の博物学者ジャン‐バティスト・ラマルクが提唱した用不用説が先行していた。
 ラマルクは「生物学」という用語そのものの創案者でもあり、従来、生きとし生けるものすべてを神が創造したと思念する天地創造説(創造論)が支配的で、生命体を科学的な究明対象とすること自体タブーであった状況を打破した革新的な科学者であった。
 ただし、ラマルクの進化論とは、生物がよく使う器官は発達し、使わない器官は退化するという用不用の獲得形質が子孫に遺伝すると論じる素朴な理論であった、このような古い進化論はダーウィンの進化論によって現在では克服され、失効している。
 ラマルク自身は神を創造主とするキリスト教信仰を捨ててはいなかったが、用不用論にも創造論に抵触する面があるため、創造論者からの攻撃を受けることになった。中でも時の皇帝ナポレオンが熱心な創造論者であったため、ラマルクを迫害し、彼が創刊した気象学の学術誌まで廃刊に追い込まれた。
 ラマルクはまた、プロテスタントながら同じく創造論者の生物学者で、ナポレオンからも重用されてフランス科学界の重鎮となっていたジョルジュ・キュヴィエからも攻撃を受け、晩年は研究活動もままならず、貧困状態に置かれた。
 ちなみに、キュヴィエ自身は生物の変遷を創造論と矛盾しないよう天変地異の影響で説明する天変地異論者であった。天変地異論も今日では克服されているが、キュヴィエは実証的な古生物学や比較解剖学の祖としては名を残す科学者で、皮肉にもその業績はダーウィンの進化論に影響を及ぼしたと言われる。
 ラマルクは地動説のガリレイのように宗教裁判にかけられることこそなかったが、カトリック保守主義のフランスでは不遇をかこつこととなった。その点、19世紀生まれの新進化論者ダーウィンは、異なる時代と環境に恵まれていた。

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近代革命の社会力学(連載第474回)

2022-08-12 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(11)革命の総体的挫折:アラブの冬
 「アラブの春」は事象全体の収束時期を特定することが困難であるが、それは「アラブの春」が総体として挫折し、一部の諸国では現時点でも終結のめどが立たない内戦に陥ったためである。とはいえ、遅くとも2015年までにはほぼ全域で革命としての過程は挫折的に収束し、政治的には冬の時代に入ったと見てよいようである。
 内戦に至らずさしあたり安定的に収束したエジプトでも、2013年の軍事クーデターでムルシ―政権が転覆された後は、クーデター首謀者でもあったアブドルファッターフ・アッ‐スィースィ将軍が多くの政党にボイコットされた2014年の大統領選挙で95パーセントを超える得票で当選すると、以後、旧ムバーラク政権に類似した権威主義体制が復活した。
 また、唯一の成功例とされるチュニジアでも、2019年に当選したカイス・サイード大統領が2021年以降、新型コロナウイルス対策等をめぐる首相との対立を背景に、議会を停止し、独裁統治を開始するなど、革命前の権威主義体制への回帰事象が見られる。
 「アラブの春」は、その広範囲な継起性から見て、1989年に始まった中・東欧の連続革命に匹敵するドミノ革命事象と言えるが、ルーマニアを除けばほぼ無血のうちに成功した中・東欧革命とは対照的な結果に終わった。
 そのような相違が生じた要因として、アラブでは政権と革命勢力の対話・協議を通じた体制移行ができなかったことが大きい。これは、独裁とはいえ、共産党または他名称共産党によるワンパーティーの集団的独裁が主流であった中・東欧地域とは異なり、アラブ地域では単独のワンマン独裁が主流で、独裁者の政権への固執意思が著しかったという構造的な相違がある。
 また革命の主体となった民衆の側でも、第二次大戦前にある程度の民主主義の歴史的な経験があった中・東欧地域とは対照的に、アラブ地域では独立の前後ともに民主主義の経験を欠いており、民衆蜂起が民主的な体制樹立に向かわず、暴動や武装蜂起に転じたケースが多く、当局による武力鎮圧を招いた。
 一方、「アラブの春」ではその約20年前の中・東欧革命当時には存在しなかったインターネット、中でもSNSが活用され、「怒りの日」などと銘打たれた特定の象徴的な日付で大規模な抗議行動を動員するという手法で大衆運動のうねりを作り出したことが注目され、以後、世界中の大衆抗議行動の新たな先例ともなった。
 このように先端的な情報通信ネットワークを通じた大衆動員はある意味で手軽に民衆蜂起を現出させることができる反面、未組織の大衆による理念を欠いた一過性の蜂起に終始しやすいという問題点も浮き彫りにした。そのことは、平和的な体制移行の協議に結びつけることを困難にした技術的な要因を成してもいるだろう。
 連絡手段と言えば原始的な伝言くらいしかなかった―電話は盗聴、信書は郵便検閲される恐れがあった―中・東欧連続革命の時代のほうが平和的に革命を成功させることができたというのは皮肉であるが、この事実は先端的情報通信の無効性ではなく、革命運動におけるその有効な活用法を再考する契機となるかもしれない。

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