ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

慰安婦問題「妥結」の禍根

2015-12-30 | 時評

長年、韓日関係の最難関だったはずの従軍慰安婦問題が急展開し、「不可逆的解決」の運びとなった。妙に唐突過ぎると思えば、果たして影には米国の介在があったようで、二国間問題としては異例の米国政府による「歓迎」コメントがすぐさま出た。

歴史問題でも米国頼みであることが示された。米国がどのように介在したのかという舞台裏はいずれ判明してくるだろうが、目障りな大使館前の慰安婦像を早くどかせたい日本が米国にすがりつき、韓国を説得してもらい、韓国も米国への義理から妥協した形か。

内容的には明確な賠償ではなく、「財団」という迂回的な方法をとるもので、まさしく政治決着である。法的責任はすべて50年前の日韓条約でチャラにしたというのがその根拠になっている。

しかし、当時はまだ壮年だった当事者女性たちが名乗りを上げられず、十分に解明されていなかった事象だけに、当時の条約で戦時賠償のすべてがチャラにされたと理解するのは不当で、慰安婦問題のように事後的に判明してきた戦時損害については改めて法的賠償をするという柔軟な解決策もあったはずだ。

ただし、個人補償に関しては、個々の被害者たちが受けた損害の内容やその真偽の証明が今となっては困難であることから、技術的に難しいかもしれない(もっとも、存命者数が限られていることからすれば、一律定額賠償とすることも不可能ではないが、一般に性的被害を金銭で最終解決することは、「事後的な買春」の結果を生じさせるという問題を惹起する)。

すでに当事者や支援団体から異論・抗議が出ているように、戦時性暴力のような機微問題を当事者不在のまま政治決着させることは、将来に禍根を残すだろう。

否、政治レベルでも両政府は心底満足しているわけではなく、「不可逆的解決」の保証すらない。特に大統領直選制の韓国では明確な政権交代があり、今般「妥結」に野党勢力は参加していない以上、政権交代後も踏襲されるという確かな保証はないのである。

この点、今般の「決着」の付け方は、朴槿恵大統領の父朴正煕が1965年に国交正常化の政治判断を優先して「決着」させ、まさに今回の慰安婦問題積み残しの禍根を残した韓日基本条約のケースと似ているが―両ケースとも国内の経済事情が関連していると見られる点でも類似する―、この時は正式の条約だったことや、79年まで朴正煕独裁体制が続いたことで片が付いたのだ。

他方、「慰安婦虚構論」や「慰安婦売春婦論」をコアな支持者に抱え、慰安婦を教科書から削除させることに心血を注ぎ、慰安婦を戦時性奴隷と認定し天皇及び日本国を「有罪」とした民間国際法廷を取り上げたNHK番組に横槍を入れた“実績”を持つ首相に率いられた自民党政権も、「責任痛感」を認めさせられた今回の「妥結」内容は、内心苦渋、不満なはずである。

今年4月に検定済みの来年4月以降の中学社会科教科書では、新検定基準に基づき慰安婦記述は大幅に削除されている。政権の意図としては今回の「妥結」をもって、慰安婦問題を完全に消去しようという深謀があるのかもしれない。

交渉過程ではもちろん、セレモニーとしても誰一人当事者女性が呼ばれることのなかった今般の「妥結」は、結局のところ、日韓双方にとっての共通同盟主・米国を船頭とする呉越同舟の船出であって、真の意味での終局的な和解とは言い難い。

[追記]
2017年1月、韓国民間団体が新たに釜山の日本総領事館前に慰安婦少女像を設置したことをめぐり、日本が事実上の大使召喚の対抗措置に出たことは、日韓「妥結」の正体をさらす出来事であった。少女像設置は韓国当事者側の強烈な不満を象徴するが、日本側の態度は慰安婦問題の抹消に執念を燃やすあまりのヒステリーと言うべきもので、圧力やバッシングを恐れて自国政府の態度を傲慢かつ醜悪と批判できない日本メディアの病理も深い。

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「女」の世界歴史(連載第2回)

2015-12-29 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

〈序説〉
 
「女」の世界歴史を大きくとらえると、長い閉塞時代を抜け出し黎明期を通って近現代の伸張と抑圧が同時並存する時代へという流れを見て取ることができる。図式化すれば、(一)長い閉塞の時代→(二)黎明の時代→(三)伸張と抑圧の時代という三区分になり、かつそれしかない。この点で、男性視点による通常の世界歴史の時代区分より単純である。
 もちろん、三つの時代区分それぞれの内部にいくつかの小区分を設定することはできるが、大きな節目で分ければ三区分に包括されてしまう。それだけ、歴史時代の「女」の位置づけは限定されている。
 それ以前の先史時代の「女」の地位については証拠の乏しさから、解明されていないことが多い。仮説的には女性が家長として家中を采配し、さらには社会集団の首長を務める母権制が先史社会論として提唱され、有力化したこともあったが、現代の人類学者はほぼ否定的なようである。とはいえ、現在も一部の民族社会に残る母系制には、かつて女性の役割がずっと高かったことの痕跡が残っているとも言える。
 少なくとも、狩猟と原始的な農耕を基本とした原始共産制社会では社会の中心となる家政を預かる女性の地位は高かったと推定できる。しかし、農耕の発達により生産力が向上し、次第に後の国家のプロトタイプとなる村落のような原始権力体が発生してくると、男性の地位は増強されたであろう。特に、村落同士の戦闘が盛んになると、体格・体力で勝る男性の戦士としての役割が高まり、武力を基礎とした政治権力も発生する。
 母権制がクーデター的に男権制に転換されたというような見方はもはや時代遅れかもしれないが、大きな流れで把握すれば、女性優位的な社会から男性優位的な社会に転換されたのが、歴史時代の始まりであると見ることができる。言い換えれば、女性がいったん表舞台から排除されるところから、歴史が始まる。
 それに伴い、筋骨隆々で勇猛な「男らしい」男性が歴史を作る指導者として理想化され、「男らしくない」「女々しい」男性、特に同性愛男性もおそらく同時に半女性化され、歴史から排除されたのである。
 こうして「女」は長い閉塞の時代に入っていく。その時代を扱う「第Ⅰ部 長い閉塞の時代」では、まず世界に出現する古代国家における女性の位置づけを確認した後、イデオロギー的にも男権優位が確立されていく「女」にとっては暗黒の中世時代を鳥瞰する。

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「女」の世界歴史(連載第1回)

2015-12-28 | 〆「女」の世界歴史

序論

 筆者は先に完結した『世界歴史鳥瞰』の序論で、次のように述べたことがある。

 ・・・富/権力を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ人類社会の前半史とは、所有すること(having)の歴史であり、そこでは富であれ権力であれ、もっと所有すること(more-having)、すなわち贅沢が歴史の目的となるのである。一方で、所有の歴史は、所有をめぐる種々の権益争いに絡む戦争と殺戮の歴史でもある。
 そういうわけで、所有の歴史にあっては持てる者と持たざる者との階級分裂は不可避であり、時代や国・地域ごとの形態差はあれ、何らかの形で階級制が発現せざるを得ないのである。それとともに、戦争・殺戮の多発から、戦士としての男性の優位が確立され、社会の主導権を男性が掌握する男権支配制が立ち現れる反面、女性や半女性化された男性同性愛者の抑圧は不可避となる。
 こうして現在も進行中である人類社会前半史は、多様な不均衡発展を示しながらも、ほぼ共通して男権支配的階級制の歴史として進行してきたと言える。従って、それはまた反面として、男権支配的階級制との闘争の歴史ともならざるを得なかった。古代ギリシャ・ローマの身分闘争、中世ヨーロッパや東アジアの農民反乱・一揆、近世ヨーロッパのブルジョワ革命、近現代の労働運動・社会主義革命、民族解放・独立運動、人種差別撤廃運動、女性解放運動、同性愛者解放運動等々は、各々力点の置き所に違いはあれ、そうした反・男権支配的階級制闘争の系譜に位置づけることができるものである。

 このような問題意識を抱懐しつつも、『世界歴史鳥瞰』ではあくまでも歴史全体の「鳥瞰」に力点を置いたため、必ずしも歴史における女性の動静に焦点を当てるものとはならず、よくてジェンダー中立的な視点での叙述にとどまるか、むしろ男性視点に偏っている趣きすらあった。そこで、本連載では、先行連載の矯正の意味を込めて、女性に焦点を当てた世界歴史の鳥瞰を試みる。
 
 ところで、タイトルの「女」という語を括弧でくくるのは、この語には生物学上の女性という本来の意味に加え、男性同性愛者も包摂したい意図からである。男性同性愛者は言うまでもなく生物学的には男性であるが、しばしば男性中心の歴史世界においては女性化され、「半女性」として扱われることがあった。しかし、そうした男性同性愛者も女性以上に周縁的な存在者としてではあるが、世界歴史に関与している。そうした二重の意義を込めての「女」の世界歴史が、本連載の主題である。

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戦後ファシズム史(連載第12回)

2015-12-25 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4:反共軍事独裁ドミノ
 冷戦期のアメリカは、いわゆる「ドミノ理論」に基づき、共産主義の拡散に対して強い警戒心を示したため、アメリカが世界戦略上重視する地域においては、軍事クーデターを背後で画策・誘発、もしくは黙認する手法で「反共の砦」となる同盟国を作出することに熱心だった。
 その結果、1950年代半ばから冷静終結期にかけて、とりわけアメリカが「裏庭」とみなす中南米と戦後旧大日本帝国勢力圏から引き継いだ東アジアを中心に、一部はアフリカや欧州、南アジアなどにも点在する広い範囲でアメリカないしイスラエルを含む西側陣営に後援された反共軍事独裁体制が続出する「反共軍事独裁ドミノ」と言うべき現象が発生した。
 これらの体制は、左派政権もしくは左傾化しているとみなされた前政権をクーデターで排除して成立した軍事独裁政権の形態をとるのが一般であるが、単に秩序回復のための中継ぎ的な暫定政権ではなく、アメリカ・西側陣営と連携して「反共」政策を体系的に執行するため、場合によっては数十年単位の長期に及び得る本格政権であることを特徴とする。
 その結果、これらの体制は反共イデオロギーを基盤に、国家権力を絶対化する全体主義傾向を強く帯びた体制となり、見かけ上はファシズムに近い色彩を示す。ただし、ほぼすべてがクーデター政権のため、その本質は大衆運動に基盤を置くファシズムではなく、共産主義勢力の鎮圧を最大目標に据えた一種の戦時体制であり、戦前日本の軍国体制に近い擬似ファシズムの特徴を持つ。
 このような形態の反共軍事独裁体制の事例は多数に上り、そのすべてを詳論するだけの頁数も力量もないので、ここでは、年表式で記すにとどめ、その中でも代表的・特徴的な六つの実例を次回以降改めて取り上げることにしたい。
 なお、下に掲げたもののうち、韓国とインドネシアの事例は、長期政権化する過程で当初の軍事政権形態から急速な経済開発を全体主義的な手法で追求する不真正ファシズム体制に転換されたと解釈できるので、続く第三部で取り上げることにする。

1954年
:グアテマラで軍事政権成立(~86年:66年~70年は形式上民政)

1957年
:タイで軍事政権成立(~73年)

1962年
:韓国で朴正煕政権成立(~79年:63年以降は民政標榜)

1963年
:ホンジュラスで軍事政権成立(~71年/72年~82年)、南ベトナムで軍事政権成立(~75年:67年以降は民政標榜)

1964年
:ブラジルで軍事政権成立(~85年)、ボリビアで右派軍事政権成立(~69年/71年~82年)

1965年
:ザイールでモブツ政権成立(~97年)

1966年
:インドネシアでスハルト政権実質成立(~98年)

1967年
:ギリシャで軍事政権成立(~74年)

1971年
:ウガンダでアミン軍事独裁政権成立(~79年)

1973年
:ウルグアイで軍事政権実質成立(~85年:81年までは形式上民政)、チリでピノチェト軍事独裁政権成立(~90年)

1976年
:アルゼンチンで軍事政権成立(~83年)

1977年
:パキスタンでジア‐ウル‐ハク軍事独裁政権成立(~88年)、タイで軍事政権再成立(~88年:80年以降は半民政化)

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戦後ファシズム史(連載第11回)

2015-12-24 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

3:反共国家南ベトナム
 
反共ファシズムは、冷戦時代、世界各地に拡散したが、中でも数奇な存在だったのは、ベトナムに現われた反共国家・南ベトナム(正式名称は「ベトナム共和国」だが、本稿では便宜上通称の「南ベトナム」と表記)である。
 ベトナムは、第一次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーブ休戦協定により、北緯17度線を境に、社会主義の北ベトナム(正式名称は「ベトナム民主共和国」だが、本稿では便宜上通称の「北ベトナム」と表記)と南ベトナムに分断されることになった。
 このうち、南ベトナムの前身は、北ベトナムの支配勢力であった共産党に反対する勢力が旧阮朝最後の皇帝バオ・ダイを元首に担いで49年に発足させた親仏派の「ベトナム国」であった。従って、それは初めから反共国家であった。
 しかし、ベトナム国はジュネーブ協定後、最大後ろ盾のフランスが撤退し弱体化したことから、インドシナ半島への共産主義勢力の拡散を懸念するアメリカのいわゆる「ドミノ理論」を受け、親米派でベトナム国初代首相でもあったゴ・ディン・ジエムが55年にバオ・ダイを追放して自ら大統領に就任し、改めてベトナム共和国として再編した。
 ジエムは、旧阮朝官僚として台頭したカトリック教徒であった。強固な反共主義者であった彼はアメリカの支援のもとに、北ベトナムと対峙する反共体制を短期間で作り上げた。その手法は政治警察を使った激しい弾圧であったが、それにとどまらず、彼は独自の支配政党を立ち上げた。
 それは正式には「人格主義労働革命党」(通称カン・ラオ党)と称され、表向きはジエムの弟で大統領顧問として絶大の権威を持ったゴ・ディン・ヌーが創始したとされる「人格尊厳論」をイデオロギーとした。
 この党は左派労働者政党のような名称を持つが、これはナチが「民族社会主義労働者党」を称したのと同様、標榜上の労働者政党に過ぎず、実態はフランスのファッショ的なカトリック思想家エマニュエル・ムーニエの影響を受けた反共政党であった。しかも、末端まで組織化されたその機能は、明らかにジエム兄弟独裁を支える大衆動員にあった。
 このようなカン・ラオ党を通じたジエム体制はベトナム版真正ファシズムと言ってよいものであったので、後ろ盾のアメリカにとっても、次第に疎ましいものとなり始めた。特にアメリカにリベラル派ケネディ政権が発足すると、その関係は微妙なものとなる。
 当初こそ、ケネディ政権は北ベトナムの連携武装革命組織として結成された南ベトナム解放民族戦線(通称べトコン)を壊滅させるべく、ジエム政権への軍事援助を強化した。反人道的・環境破壊的軍事作戦として悪名高い枯葉剤散布作戦は、ベトコンが潜むジャングルを破壊するため、ジエム政権がアメリカに提案し、時のケネディ政権が開始したものであった。
 しかし、63年、ジエム体制に反対する仏教徒の抗議運動が激化すると、政権は戒厳令を布告して、武力鎮圧を図った。僧侶の抗議焼身自殺が報道され、ジエム政権への国際的批判も渦巻く中、アメリカは南ベトナム軍内の反ジエム派を動かし、クーデターを誘発した。この軍事クーデターの渦中、ジエム兄弟は殺害され、ジエム体制はあっけなく終焉した。
 このクーデターを契機に、南ベトナムは軍部主導体制に移行する。軍部内の対立に起因する政情不安の後、65年の新たな軍事クーデターで実権を握ったグエン・バン・チュー将軍は67年以降、形ばかりの民政移管によって大統領に就任し、75年のサイゴン陥落直前に辞任・亡命するまで強権的な体制を維持する。
 チュー体制も反共主義で、体制の翼賛政治組織として「国家社会民主主義戦線」を結成したが、これは多数の政党の寄せ集めに過ぎず、この体制はベトナム内戦に対応する一種の戦時体制であり、その本質はせいぜい擬似ファシズムであった。
 こうして、南ベトナムは当初の真正ファシズムから軍部主導の擬似ファシズムへと転換された末に、結局ベトナム戦争の敗者となり、北ベトナムにより吸収・滅亡したのである。アメリカの世界戦略に沿って、反共のためだけに存在した悲劇の親米分断国家であった。

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ようやく付加価値税化

2015-12-16 | 時評

16日に決定された連立与党の税制改正大綱は、日本の消費税にとっては大きな転機となる。約四半世紀になる消費税の歴史の中で初めて軽減税率制が盛り込まれたからである。

26年前に大きな反対を押して制定された当初の消費税は、およそ消費行為に広く網をかけつつ、税率を低く抑えることで負担感を分散するやり方で国民の不満をそらし、今日まで主要税制として定着させることに成功した。

これによって、日本型消費税はまさしく日々の消費にかかる消費税となったが、財政難を口実に税率がなし崩しに引き上げられていく中で、その収奪的性格があらわになり始めていた。

富裕層の驕奢的消費行為に課税するのでなく、一般庶民層の消費行為にも課税する間接税は元来収奪的性格を免れないが、生産物が生産から消費までの過程で生みだす付加価値に課税することは、大衆全般の消費力が向上した先発資本主義社会においては一定の意義がある。

しかし、このような付加価値税は、消費行為全般から広く収奪するのではなく、単価の安い食料品をはじめとする日用消費財のような付加価値の低い商品の消費については税率を軽減することが理にかなっている。

軽減税率導入に合わせて懸案のインボイス式も採用して、付加価値税としての性格が強まれば、それによって付加価値税のような間接税の反動性格が完全に払拭できるわけではないとはいえ、いくらかなりとも消費税の収奪的性格を緩和することにつながればましというものである。 

これに対し、軽減税率を適用しても、消費税が10パーセントに上昇すれば税負担全体では年間で一世帯当たり平均4万円増になるとの試算を公表して、軽減税率をまやかしであるとする反対論がある(赤旗2015.12.15)。しかし、軽減しなければ負担増はもっと増すわけで、この反対理由は疑問である。

ただ、軽減税率制に対しては、それによって生じる見込み税収減が懸念され、与党協議を難航させたが、根本的には解決できておらず、その穴埋めを別の形の庶民増税や負担増でまかなおうとする策動には注意が必要である。

この点、軽減税率に対照されるものとして、付加価値の高い一定の驕奢品に対しては10パーセントを越える税率を適用する加重税率制を設け、驕奢的消費行為にはそれなりの重税を課すことは付加価値税をより公平なものにするだろう。

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戦後ファシズム史(連載第10回)

2015-12-11 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

2:パラグアイの反共ファシズム
 戦後、連合国内部のイデオロギー的分裂から米ソ東西対立が生じると、反共陣営の盟主となったアメリカの「裏庭」的な勢力圏として、中南米にアメリカを後ろ盾とする反共独裁政権が続々と成立する。
 ただ、反共の一方で、表向きは反ファシズムも掲げるアメリカの手前、それらの反共体制の多くは、真正ファシズムではなく、擬似ファシズムの性格を持つ軍事独裁や非ファシスト政党を通じた不真正ファシズムの形態をまとった。
 その点、アルゼンチンのペロン体制は戦前型ファシズムの特徴が濃厚だったために、アメリカの支持を得られず、そのことが持続しなかった要因の一つともなったが、アルゼンチンの隣国パラグアイで1954年から89年まで35年にわたって続いたストロエスネル独裁体制は、親米的な反共ファシズムの先駆的かつ象徴的な存在となった。
 ドイツ系のアルフレド・ストロエスネルは職業軍人の出身で、戦前戦後にかけて対ボリビア戦争や内戦で功績を上げ、若くして昇進を重ねたエリート将校であった。51年には30代で陸軍司令官となり、54年に軍事クーデターで政権を奪取して大統領に就いた。
 これだけなら、戦後の中南米ではよく見られた反共軍事政権と違わないが、ストロエスネル体制が35年も持続したのは、軍部のみならず、19世紀以来の歴史あるコロラド党をもう一つの権力基盤として利用する不真正ファシズムの体制をとったからだった。
 コロラド党は1887年に結党され、20世紀初頭にかけては連続的に政権を担ったこともある愛国的な右派政党で、それ自体は綱領上のファシスト政党ではなかった。
 しかし、1904年以降、中小地主や商人階級に基盤を置くリベラル保守系の自由党に政権を握られ、永年野党に甘んじた後、40年に親ナチス派軍人イヒニオ・モリニゴの独裁政権下で実質的な政権党として復帰すると、47年には自由党や共産党との内戦に勝利し、一党支配体制を樹立していた。
 元来、パラグアイはドイツ移民が多く、南米で最初のナチ党支部が結成されるなど、ナチズムが早くから流入し、親ナチスのモリニゴ政権下では、特にドイツ移民を通じたナチズムの浸透が顕著であった。
 1940年から内戦をはさんで戦後の48年まで続いたモリニゴ政権は標榜上無党派ながら実質上はコロラド党を支持基盤とする政権であり、戦時中は親枢軸国の立場を採ったため、ストロエスネル体制を先取りする不真正ファシズムの特徴を一定備えた体制であった。
 そうした伏線の延長上に、実質的な党内クーデターの形でストロエスネルが登場してくる。政権を握ったストロエスネルは反共以外に強烈なイデオロギーを持たない比較的プラグマティックな独裁者ではあったが、反共思想は強烈であり、共産主義者やそのシンパとみなされた者は殺戮された。その犠牲者は当時人口500万人にも満たなかった同国で推計数千人規模に上った。
 その他、彼は政策的な強制移住に抵抗する先住民族に対する民族浄化作戦を展開し、74年には国連からジェノサイドとして非難されるなど、南米では最もナチス張りの政策を追求した。
 さらに、自らもドイツ系移民のストロエスネルが思想的に共鳴するナチスの戦犯を庇護し、その中にはアウシュヴィッツで医師として人体実験に従事し、「死の天使」の異名も取ったヨーゼフ・メンゲレも含まれていた。また政権を追われたペロンにも一時的な庇護を与えた。
 ストロエスネルは国家予算の多くを軍や治安機関に割り振る極端な警察国家体制を志向する一方で、経済開発にも注力するアジア的な開発ファシズムの傾向も見せ、西側先進国からの借款事業を推進した。特に日本とは59年に移住協定を締結した縁から、その経済援助は際立って多く、苛烈なファッショ体制の長期化に手を貸した日本の責任は免れない。
 しかし、80年代に入ると、ようやくストロエスネル体制の組織的人権侵害に目を向け始めた後ろ盾のアメリカからも見放される中、89年2月、側近のアンドレス・ロドリゲス将軍が主導するクーデターにより政権は崩壊、ストロエスネルはブラジルへ亡命した。
 こうして冷戦初期に成立し、冷戦終結直前に終焉したストロエスネル体制は、まさしく冷戦の産物なのであった。以後のパラグアイは大統領に就任したロドリゲスの下で民主化プロセスを経て、政情不安を経験しながらも、正常化されていく。
 ただ、ストロエスネルの政治マシンを脱したコロラド党自体は存続し、政権交代した2008年から13年までを除き、一貫して大統領を輩出し続けており、最大優位政党としての地位を維持している。

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戦後ファシズム史(連載第9回)

2015-12-10 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

1:アルゼンチンのペロニスモ
 強力な独裁的指導者を戴くファシスト政党を通じた真正ファシズムは基本的には戦前型のファシズムであり、スペインやポルトガルのようにファシズム体制が戦後の冷戦時代まで延命された場合にあっても、それは戦前ファシズムの持ち越しにすぎなかった。
 そうした中で、1946年に成立したアルゼンチンのペロン政権は、戦後に戦前型ファシズムが改めて誕生した例外事象であった。後にペロニスモとして知られるようになるこの体制の指導者フアン・ペロンは職業軍人の出身であり、戦時中に軍人政治家として台頭し、労働福祉長官から副大統領を歴任した。
 軍事史を専攻する理論派将校であった彼は戦前、イタリア駐在武官を務めた際に、ムッソリーニのファシズムに強い影響と感化を受けて帰国、特に労働福祉長官在任中には、労使協同型の全体主義的な労働政策の遂行で手腕を発揮した。
 戦時中のアルゼンチンは標榜上の中立国であったが、ペロン自身は思想的に共鳴するファシズム枢軸同盟側の支持者であり、大戦末期の44年に副大統領として事実上の最高実力者となると、枢軸国寄り姿勢が鮮明となった。
 こうしたことから、当然にも戦後はアメリカから敵視され、アメリカが後援する軍事クーデターで一時身柄を拘束されるも、すでに人気政治家となっていた彼を支持する大衆の声に後押しされ、釈放、政界復帰を果たしたのだった。
 そして、46年の大統領選(間接選挙)で当選し、一気に頂点に立った。政権に就いたペロンは、与党として正義党を結党し、権力基盤とした。ただし、他政党を禁止することはなく、表向き多党制は維持されたが、野党は抑圧を免れなかった。
 大統領としての彼の政策は、反共を基軸に、大衆煽動的手法を駆使しながら、労使協同型の労働者保護、外資国有化や貿易の国家統制などの経済管理を強化する戦前型ファシズムの路線に即したある意味では守旧的なものであり、まさに戦前型ファシズムの戦後復刻であった。
 その証しとして、ペロン政権は戦犯追及を逃れてきた旧ナチス幹部を組織的に多数庇護し、アルゼンチンをナチス戦犯の一大避難拠点としたが、これはその後、南米各国に成立する反共独裁政権がナチス戦犯を同様にかくまう悪しき先例となった。
 ペロンは51年の大統領選で野党への露骨な選挙干渉により、再選を果たしたが、ペロン政権が長続きすることはなく、55年の軍事クーデターであっけなく崩壊したのである。このことは、ペロンが軍部を掌握し切れていなかったことを示す。その点では、後にもう一度返り咲いたことも含め、ブラジル・ファシズムの指導者ヴァルガスと類似していた。
 55年クーデター後、正義党は禁止されるが、ペロン支持勢力は極右の分派を出しながらも、総体としては左派色を強めていく。このような展開は、ペロンなきペロニスモがファシズムとしては事実上終焉したことを意味していたであろう。
 ペロン派と反ペロン派の党争はその後もアルゼンチン政治の不安定要因となり、73年にはフランコ体制下のスペインに亡命していた高齢のペロンが呼び戻され、大統領選で再び返り咲きを果たしたペロンのカリスマ性に政情安定化が期待されたのだったが、老ペロンは翌年急死し、ペロン体制の再現はならなかった。
 この後のアルゼンチンは大統領職を継いだ副大統領イサベル未亡人の短命政権を経て、76年の軍事クーデターにより擬似ファシズムの性格を持つ反共軍事政権が成立し、左翼の大量殺戮に象徴される「汚い戦争」の暗黒時代に突入するが、これについては改めて後述する。

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晩期資本論(連載最終回)

2015-12-09 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(3)

「労働時間の社会的に計画的な配分」がなされるという共産主義社会においても、剰余労働はなお必要とされるが、その性質・目的は資本主義的剰余労働とは大きく異なる。

剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでもなければならない。・・・・・・・・・・・一定量の剰余労働は、災害にたいする保険のために必要であり、欲望の発達と人口の増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的拡張のために必要なのであって、この拡張は資本主義的立場からは蓄積と呼ばれる。

 剰余労働は「資本主義制度や奴隷制度などのもとでは、それはただ敵対的な形態だけをもち、社会の一部分のまったくの不労によって補足される」が、「資本はこの剰余労働を、生産力や社会的関係の発展のためにも、またより高度な新形成のための諸要素の創造のためにも、奴隷制や農奴制などの先行諸形態よりも有利な方法と条件のもとで強制するということ」を、マルクスはいくぶん皮肉を込めつつ、「資本の文明的な側面」とネガ‐ポジティブに表現する。

・・・・資本は、・・・・・・・・・・・・・社会のより高度な形態のなかでこの剰余労働を物質的労働一般に費やさせる時間のより大きな制限と結びつけることを可能にするような諸関係への物質的手段と萌芽とをつくりだす。なぜならば、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいでは、総労働日が小さくても大きいことがありうるし、また総労働日が大きくても相対的に小さいことがありうるからである。

 つまり、問題は剰余労働の時間的長さではなく、生産性であるから、資本主義の発展に伴い、生産性が高まれば、労働時間の短縮と生産性の向上を結びつけることができ、それがポスト資本主義の道を用意するというのである。

年齢から見て、まだ、またはもはや、生産に参加できない人々のための剰余労働のほかには、労働しない人々を養うための労働はすべてなくなるであろう。

 冒頭でも見たとおり、保険財源や拡大再生産のための剰余労働は共産主義社会でもなお存在するとはいえ、不労者を扶養するための剰余労働は、子どもや老人のような労働不適格者のためにする労働を除いてなくなるだろうというのである。

じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。

 逆言すれば、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働せざるを得ない状態は、「必然性の国」である。「必然性の国」でも、生産力の拡大によって「自由の国」に近づくが、「自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである」。すなわち―

社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめ、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。

 この状態はすなわち共産主義的生産様式に移行した段階を示している。これもポスト資本主義の一つの到達点ではあるが、マルクスによれば、「しかし、これはやはりまだ必然性の国である」。

この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花開くことができるのである。労働日の短縮こそは、根本条件である。

 マルクスが展望するポスト資本主義の最終到達点とは、このように、人間が最小限の労働時間で自発的に労働するような社会であった。マルクスはこれを「真の自由の国」という抽象的な言葉でしか語っていないが、あえて名づければ「高度共産主義社会」であろうか。

☆総括☆
以上で、晩期資本主義時代における『資本論』全巻再読の試みは終了する。この書はマルクスの他のほぼすべての著作と同様に、未完の書であり、完結篇も続編も存在しない。ただ、マルクスの没後およそ三十年―『資本論』第一巻出版からちょうど五十年―を経た時、マルクス主義を標榜する体制としてロシアを中心とするソヴィエト連邦というものが現われた。共産党が支配したその体制下での生産様式について、マルクスは生きて分析することはもちろんなかったが、もし存命中にこれを目撃していれば、必ずや関心を寄せ、『資本論』続編を書いたはずである。しかも、合理的に推測して、そこでの論述はネガティブなものとなったはずである。なぜそう言えるか、については、可能であれば、別連載にて解き明かしてみたい。(了)

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晩期資本論(連載第79回)

2015-12-08 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(2)

 マルクスは、ポスト資本主義の到達点をどのように考えていたか。これについては、意外にも、第一巻の第一章という早い段階で先取り的に触れられていた。「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」というのが、それである。マルクスは明示しないが、これを共産主義社会の一定義とみなしてよいだろう。

ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。

 ロビンソンとはデフォーの有名な冒険小説の主人公ロビンソン・クルーソーのことである。よく知られているように、ロビンソンは船の難破で無人島に漂着し、たった独りでの自給自足生活を始める。「ロビンソンの労働」とは、そうしたロビンソンの自給自足を前提とした種々の有用労働のことである。すなわち―

彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占め、どれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。

 こうした「ロビンソンの労働」とは、分業制によらず、また交換を前提としない生活の必要に応じた純粋に個人的な労働ということになる。冒頭で見た共産主義社会では、こうした「ロビンソンの労働」の規定が個人的でなく、社会的に再現されるという。

その生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それはかれらのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。

 共産主義社会にあっても、再生産は行なわれる。従って、再生産問題を扱った第二巻で分析に用いられた生産手段生産部門(部門Ⅰ)と消費手段生産部門(部門Ⅱ)の区別は共産主義社会にも基本的に妥当するだろう。

彼(ロビンソン)の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭(である)。

 商品生産をしないロビンソンが実際に財産目録をつけたとすれば、このように労働時間を軸とした一覧表となったであろう。さしあたり彼の生産物はすべて自家消費のためのものであるが、共産主義的生産においては社会成員への分配が予定される。
 その際、マルクスは「商品生産の場合と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう」として、労働時間を基準とする分配方法を仮説的に提示している。

労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役だつ。人々がかれらの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。

 このように、マルクスは労働時間を直接に基準とする生産・分配の仕組みを構想していた。つまりマルクスの計画経済は「労働時間の社会的に計画的な配分」を軸とするものであり、後のソ連が実行したような経済開発計画のようなものではなかったのである。
 最終的にマルクスは、労働時間が表象された一種の引換給付券的な有価証券である労働証明書の制度を提案しているのであるが、その実際的な問題点については別連載『共産論』中の記事で触れてあるので、ここでは割愛する。

およそ、現実世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうる。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。

 ロビンソンの労働や共産主義的分配関係に関する言述で繰り返されていたように、マルクスは人間と諸物の関係が単純で透明なものになることが、物神崇拝的な認識から自由になる道であると考えていた。ロビンソン的自給自足はその究極であるが、「物質的生産過程を、自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御におく」共産主義的計画経済も、そうした単純化・透明化を社会的な次元で達成する一つの方法として把握されている。

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晩期資本論(連載第78回)

2015-12-07 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(1)

 『資本論』は全巻を通じて資本主義の構造分析の書であるため、資本主義の後に来るべき経済体制については、主題として展開していない。しかし、マルクスは所々で、ポスト資本主義体制の展望を抽象的な覚書きの形で述べている。特に、第一巻末では資本主義からポスト資本主義への転化が生じることを弁証法的定式によって示している。

資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である、しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。

 この簡潔な定式には、自分の労働にもとづく自給自足的な私有世界が否定されて、資本主義が成立するも、今度はその資本主義から自己否定的に生産手段の共同占有を基礎とする生産体制が発生することが言い表されている。そのような自己否定が生じるのは、以前にも引用したように、「生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達」した時である。マルクスは続けて、次のような時間軸を示している。

諸個人の自己労働にもとづく分散的な私有から資本主義的な私有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べ物にならないほど長くて困難な過程である。

 これを裏返せば、資本主義は「事実上すでに社会的生産経営にもとづいている」ということになる。実際、マルクスは第三巻で、特に所有と経営が分離される株式会社の制度をもって社会的所有への過渡的形態とみなしていた。

それ自体として社会的生産様式の上に立っていて生産手段や労働力の社会的集積を前提している資本が、ここでは(株式会社では)直接に、個人資本に対立する社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとっており、このような資本の企業は個人企業に対立する社会企業として現われる。それは資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。

 上掲の弁証法的定式で言われていた「否定の否定」とは、このように株式会社制度の段階に達した資本主義のことであった。言い換えれば、「これは、資本主義的生産様式そのもののなかでの資本主義的生産様式の廃止であり、したがってまた自分自身を解消する矛盾であって、この矛盾は、一見して明らかに、新たな生産形態への単なる過渡点として現われるのである」。

労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働の対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。

 労働者たち自身の協同組合工場とは、「労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形で」運営される自主管理工場のことであり、マルクスはこの形態を株式会社からさらに一歩進んだ生産形態、資本と労働の対立が廃止されるポスト資本主義体制に向けた最初のステップとみなしていたようである。

このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのようにして自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。

 マルクスはこのように、労働者たちの自主管理工場も、資本主義的工場制度からの発展形態と規定し、その際に信用制度が重要な触媒となることを強調して、次のように総括する。

資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。

 しかし、その後の歴史の流れを見ると、マルクスが展望したように、「多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだんと拡張されて行く」ということにはならず、協同組合企業は未発達のまま、株式会社企業も次第に経営者専横型の権威主義的な生産形態として確立されるようになっている。
 株式会社形態からポスト資本主義へというマルクスの弁証法的展望はいささか楽観的に過ぎた面はあるが、マルクスも株式会社形態の限界性についてクギは刺していた。

・・・株式という形態への転化は、それ自身まだ資本主義的なわくのなかにとらわれている。それゆえ、それは、社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を克服するのではなく、ただこの対立を新たな姿でつくり上げるだけである。

 従って、さしあたり労働者の協同組合企業という次のステップに進むにはただ待つのみでは足らず、そこには何らかの人為的な変革という政治行動が必要とされるであろう。それはマルクスの言葉によれば、「民衆による少数の横領者の収奪」である。

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露土戦争は否

2015-12-02 | 時評

またしても、露土戦争か━。先月のトルコによるロシア軍機撃墜事件をめぐり、ロシア‐トルコ間で軍事的な緊張が高まっている。共に帝国時代には何度も交戦してきた両国だけに、露土戦争の再発可能性は決して大げさな憶測ではない。

しかも、NATOや米国がトルコの自衛権を尊重するなどとして、トルコの撃墜行動を擁護する動きを見せているのは、戦争危機を煽る危険な行為である。いまだに冷戦時代やそれ以前の軍事的同盟思想が残されているのだ。

今のところは、軍事的報復を選択しないロシア側の比較的自制された対応のおかげで戦争危機が抑止されているように見える。ロシアがこのような態度をとるのは、平和主義だからではなく、仮に戦争となった場合、NATO加盟国であるトルコに対する勝算が立たないからという戦略的な理由もあるだろう。もし、これが冷戦時代であれば、第三次世界大戦の危機さえ招来しかねない重大事態である。

旧ソ連時代にはNATOの対抗同盟としてワルシャワ条約機構の盟主だったのも今は昔、現在のロシアには真の同盟国がない。旧ワルシャワ条約機構加盟諸国も、今やその条約署名地ポーランドも含め、みなロシアから離反し、NATOやEUに走っている。旧ソ連構成諸国で今もロシアと独立国家共同体を結成する中央アジア諸国は言語・文化的にはトルコに近い親トルコ圏である。

しばしば協調行動をとる中国もロシアの忠実な同盟国とは言えず、戦争まで共にする強固な中露同盟の可能性も乏しい。となると、万一露土戦争が起きても局地戦にとどまり、世界を二分する第三次世界大戦に発展する可能性はあるまい。これは冷戦終結の成果面である。

とはいえ、共に強大な軍隊を持つ露土両国間の戦争にNATO軍が加勢すれば、相当な戦禍が生じる大規模な戦争にならざるを得ないだろう。そのような戦争は回避しなければならず、第三国が戦争を煽るような挑発的言動も慎むべきである。

同種事態の再発防止のためには、中立的な国際調査委員会による公正な真相解明とともに、事件の引き金ともなったシリアへの錯綜した軍事介入というロシアも一枚噛んでいる守旧的な問題解決手法を見直すことも考える必要がある。

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