ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後日本史(連載第15回)

2013-07-31 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔三〕労組/社会党の切り崩し

 「戦後政治の総決算」という意味深長な中曽根政権のスローガンの中には、歴史認識のような思想的な問題にとどまらず、「55年体制」を形づくってきた自民党・財界対社会党・労組という対立軸―「逆走」の鈍化をもたらした要因でもあった―を解体するという政略的な狙いも込められていた。
 実際、中曽根政権が手がけた「三公社民営化」政策の中で標的となった国鉄と電電公社はともに大労組を擁し、社会党の有力支持基盤であった日本労働組合総評議会(総評)の屋台骨でもあった。とりわけ戦闘的な国鉄労組はしばしば大規模ストを敢行し、労働運動全体の牽引役としてその存在感を示していたから、最も主要なターゲットとされることとなった。
 一方、社会党は60年代に右派が分離して民社党を結成するなど―その背後に米国CIAの介在があったことが判明している―分解の動きが始まり、70年代後半の政治経済的閉塞期にも党勢が伸び悩んでいたところ、中曽根はこうした揺らぐ社会党にどどめの一撃を加えようとしていたのだった。
 その手始めは1986年の解散総選挙であった。この時、中曽根は憲法違反の疑いも指摘された衆参同日選に踏み切り、自民党を衆議院で300議席を獲得する圧勝に導いたのだった。対する社会党はわずか85議席の歴史的大敗であった。こうして成立した巨大与党の力で、中曽根政権は国鉄の実質的な解体を意味する分割民営化を政権最後の大仕事として推進し、やり遂げたのである。
 その効果は絶大であった。中曽根政権が退陣した2年後の89年には、総評と民社党系の全日本労働総同盟(同盟)などが合流して日本労働組合総連合会(連合)に再編された。
 この戦後労働運動史上画期的な出来事は、表面上は長く分裂していた官公労組主体の総評と民間労組系の同盟との歴史的な和解・糾合というポジティブな出来事のようにも見えるが、実際のところは国鉄労組に代表されたような戦闘的な労使対決型労組から旧同盟のような労使協調型労組への歴史的な転換を意味した。スト権を自ら凍結してしまう「物言わぬ労組」の始まりである。
 他方、86年総選挙で大敗した社会党は党勢立て直しのため、伝統的な労組系ではなく、護憲・市民運動系の土井たか子を初の女性委員長(党首)に就けた。
 折から、中曽根政権を引き継いだ竹下政権の下で、消費税の導入を巡る論議が高まり、反消費税を掲げる社会党が土井の個人人気にも支えられて再生し、竹下政権がリクルート事件の影響で退陣した後の89年参院選では自民党を過半数割れに追い込む勝利を収め、翌90年の総選挙でも140議席近くを獲得するまでに党勢を回復した。
 しかし、社会党にとってはこれが最後の一花であった。専ら土井の個人人気に支えられるところが大きかった社会党ブームは結局、自民党の支配力を打破するまでには至らず、91年の統一地方選挙での敗北を機に土井が委員長職を退くと、終わりを告げた。以後、社会党は―おそらく中曽根の目論見をも超えるスピードで―5年後の実質的な解党へ向けて滑り落ちていくのである。

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戦後日本史(連載第14回)

2013-07-30 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔二〕第一次新自由主義「改革」

 1987年まで5年近くに及ぶ久々の長期政権となった中曽根政権は、当時まだ漠然と「新保守主義」という政治的な用語で呼ばれていた路線の流れの中にあった。
 それは主として国営企業や公社・公団等の公的経済セクターの民営化と規制緩和を通じた民間資本の市場拡大を主要な政策とし、自由市場経済をイデオロギー的に追求していく反共・反社民主義的な政治経済潮流であって、79年に発足した英国のサッチャー保守党政権、81年に発足した米国のレーガン共和党政権に続き、82年には日本でも中曽根政権がこの路線の明確な体現者となったのである。
 こうした路線に基づく中曽根政権の施政方針は、20年近くを経て、あらゆる点で極めて類似する小泉政権の下では「新自由主義」なる新たなネーミングを伴って、いっそう強力に展開されることになる政策パッケージの先駆けとも言えるものであった。従って、歴史的には中曽根政権下での「改革」を「第一次新自由主義「改革」」と名づけることができるであろう。
 ここで「改革」とカッコ付きなのは、そもそも「新自由主義」とは名ばかりで、要するにその内容は19世紀以前のレッセフェール型自由主義経済と秩序維持に役割を限局された夜警国家を範とし、20世紀以降の社会権を踏まえた社会的な自由ではなく、古典的な経済的自由を追求する歴史的な反動思想の一つにほかないからである。
 こうした思潮はすでに前任の鈴木善幸首相の下で「行政改革」の形を取りながら始まっていたが、中曽根政権はそれをよりいっそうイデオロギシュに推進していくのである。
 それを象徴する施策が、日本専売公社・日本国有鉄道・日本電信電話公社の三公社民営化政策であった。これらはいずれも形態こそ異なれ、多数の労働者を抱える戦後日本の代表的な公共企業体であり、特に電電と国鉄は大労組を擁したことから、その民営化は次節で述べる労組切り崩し策の一環という底意も込められていたのであった。
 一方、中曽根政権下での規制緩和策の中でも、今日にまで至る重大な影響を残す施策は派遣労働の規制緩和である。中曽根政権は85年に労働者派遣法を制定し、人材派遣業を公認したのである。
 もっとも、当初派遣労働が認められたのは一部の専門的職種に限られていたが、それはその後の法改正によって逐次許容範囲が拡大され、小泉政権下の04年にはついに製造業にまで拡大されるに至る蟻の一穴だったのである。
 こうした労働市場における規制緩和策は、派生的にリクルート社のような人材情報サービス産業の成長を促進する一方で、同社を舞台として複数の現職事務次官のほか、中曽根政権の官房長官の収賄にまで発展した汚職事件(リクルート事件)を引き起こした。
 また85年のいわゆる「プラザ合意」後の円高不況対策という消極的な狙いからとはいえ、中曽根政権末期に導入された金融緩和策は、中曽根退任後に無規律な投機ブーム・バブル景気を発生させ、結果として90年代初頭のバブル経済崩壊とその後の長期不況の原因を作り出した。

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戦後日本史(連載第13回)

2013-07-29 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔一〕右派・中曽根政権の登場

 ロッキード事件後の政治・経済的閉塞状況を打開する体制引き締めの任務は、1982年に鈴木善幸首相の後任となった中曽根康弘に委ねられることとなった。
 中曽根は戦前の天皇主権国家の内政・治安面の要であった旧内務官僚の出身であり、こうした出自の点でも、20年余りにわたって停滞していた「逆走」の流れを再活性化させるにはまことにふさわしい人物と言えた。
 とはいえ、「闇将軍」田中角栄の影響力はなお絶大であり、党内少数派閥の長にすぎなかった中曽根の首相就任に当たっても田中の支持が決定的であったため、政権の支配人役たる内閣官房長官には田中系の後藤田正晴を起用する異例の配慮を示した。
 しかし、その後藤田も中曽根とは肌合いが異なったとはいえ、旧内務官僚にして戦後は警察庁長官を歴任した警察官僚であったため、中曽根政権は結果的に旧内務省コンビが官邸を主導する形でスタートし、このことが「逆走」再活性化の上でも効いてくる。
 中曽根は「逆走」のアクセルを再び踏み直すに当たって、「大統領型トップダウン」を掲げて官邸の主導性を追求し、特に内閣官房の強化を図った。この点でも50年代の「逆走」始動期のワンマン宰相・吉田茂型の政治手法の復活とも言えた。
 中曽根はかねてからの確信的な改憲論者にして、防衛力増強論者でもあり、特に防衛政策に関しては防衛費をGNPの1パーセント枠に抑制する不文律をあっさりと撤廃し、その後の防衛力増強の流れに道を開いた。
 また中曽根政権は旧内務官僚出身者を閣僚に多く擁する旧内務省系政権にふさわしく、治安管理の強化にも踏み出した。中曽根政権下では、政権発足直前の82年6月に反体制的な社会運動に対する治安取締り強化方針を打ち出した警察庁長官訓示を踏まえ、それらの団体・関係者に対する軽犯罪法まで動員した検挙が活発化した。
 同時に、中曽根は「司法のオーバーラン」を口にして司法部の違憲審査権の積極行使を牽制し、70年代以降の「司法反動」をいっそう推進する構えを見せた。
 中曽根はまた「戦後政治の総決算」を政権スローガンに掲げ、歴史認識の点でも、帝国主義的過去を相対化する歴史修正主義的な立場に立ち、閣僚の靖国神社公式参拝に関する政府の憲法解釈を緩め、85年8月15日には公式参拝に踏み切った。ただし、この行動に対して78年に国交を樹立した中国(中華人民共和国)が反発すると、中曽根は以後公式参拝を控えた。
 こうした中曽根の右派的傾向は、親米を軸として内政においては「逆走」を推進していく事大主義的な親米保守の路線内にあった。実際、中曽根は当時のレーガン米大統領と親密な関係を築き、いわゆる新保守主義的な政策を共有し合いながら、日本を米国の「不沈空母」と規定して、軍事的にも対米協力を積極的に行う姿勢を示した。

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人類史概略(連載第2回)

2013-07-24 | 〆人類史之概略

第1章 絶滅した先覚者たち

絶滅人類と現生人類
 現生人類は思い上がってわれわれ現生人類を人類の最高頂点とみなしたがる。たしかに、現生人類はホモ属の中で唯一生き残り、多くの進歩を成し遂げた。だが、その前には多くの先覚者たちがいたことも事実である。
 それ自体現生人類の知的な成果である人類自身についての学問・人類学では、現生人類以前の人類を猿人→原人→旧人と分けて進化論的に説明してきた。このような進化段階論は現生人類を頂点とする進歩史観に見合うため、いまだに広く普及している。
 こうした進化段階論の科学的根拠は近年ようやく疑われるようになったが、それにしても現生人類以前の人類に「猿」「原」「旧」などの否定的な形容を与えるのは、これら過去の人類を遅れたもの、劣ったものとみなす侮蔑的な態度の現れである。こうした過去の人類は今日すべて絶滅しているが、いずれも現生人類の先覚者たちであり、現生人類の成果の基礎を築いた者たちである。
 そうしたことは今日の人類学では必ずしも否定されているわけではないが、用語には反映されておらず、相変わらず上記のような否定的な言辞が残されている。
 だが、このあたりでそうした先覚者たちへの敬意を表す意味でも、そうした否定的な言辞は整理して、既に存在しない過去の人類を「絶滅人類」と呼ぶことにしたい。「絶滅人類」には何らかの限界があり、進化の途上で消えていったのではあるが、それでも現生人類につながる足跡を人類史上に残したのである。

道具から用具へ
 絶滅人類の最大の成果は、用具の発明である。この点、しばしば教科書的には「道具の発明」という言い方がされる。だが、単なる道具と用具とは区別すべきである。道具は特定の目的のための手段として用いられる器具のことである。従って、自然にある物をそのまま道具として使用することもできる。例えばラッコが石を貝殻を割る手段として用いるとき、かれらは道具を使用していることになる。
 これに対して、用具とは特定の目的のための最適手段として生産された道具である。単なる道具との最大の差異は、生産されるものかどうかである。従って、上記のラッコの例のように、単に自然の石を貝殻を割る手段として使用する場合、石は道具であっても用具ではない。これに対して、人類が貝殻を割るために石を加工した器具を生産した場合、それは単なる道具を超えた用具となる。
 この点で、チンバンジーが木の枝を加工して巣穴から昆虫をかき出したりする場合、この加工された枝は道具か用具かが問題となるが、一応特定の目的のための道具を意識的に作り出している以上は、用具と言える。ただし、最適手段としての加工程度が最小限である限り、本格的な用具とは区別された幼稚用具ということになる。
 絶滅人類は、こうした幼稚用具にとどまらない本格用具を発明した先覚者たちである。用具の生産は道具を様々な目的に合わせて最適化していくだけの知性の芽生えを前提とする。そうした本格用具の最初例は周知のとおり、石を加工した石器であった。石は最もありふれた加工しやすい鉱物であるから、原初の用具の原材料が石であったことは自然である。
 最初の石器製作者は、アフリカはタンザニアのオルドヴァイ遺跡などに足跡を残す最初のホモ属ホモ・ハビリスであったと考えられている。かれらが残した代表的な石器である礫石器はチンパンジー的な幼稚用具から本格用具への過渡的なものにすぎないが、人類史の出発点に石器という用具の発明があったことは間違いない。

[追記]
2015年1月、英国ケント大学の研究チームは、約300万年前に生息した初期の絶滅人類アウストラロピテクスの手骨の構造パターンの解析から、同種が何らかの用具を使用していた可能性の痕跡を発見したと発表した。これはホモ・ハビリスが最初の用具使用者だったとする従来説より50万年ほど遡る。ただ、使用された用具の種類や形状は確認されていない。

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人類史概略(連載第1回)

2013-07-23 | 〆人類史之概略

小序:世界歴史と人類史

 筆者は先ごろ、拙論『世界歴史鳥瞰』の連載を終えた。ここで主題とした「世界歴史」とは、いわゆる歴史時代の通史―筆者はそれを「文明の履歴」ととらえる―であった。それはせいぜい過去5000年の歴史にすぎない。これに対して、本連載で主題とする人類史とは、文明成立前の先史時代を含めた人類の全史を指す。
 この点、しばしば学校教育上の「世界史」では、先史時代から説き起こすことが当然のごとくに慣例となっているが、本来「歴史」には先史時代を含まない。
 とはいえ、歴史時代に先立つ先史時代は歴史時代の長い準備期間として無視することのできないプロセスである。従って、世界歴史の前段階として先史時代を含める教科書的な記述も誤りではない。その意味では、世界歴史は人類史の一部と理解することもできる。
 この場合、人類史の中に包摂される歴史時代の扱いが問題となるが、それは世界歴史をより大きな視座でとらえ直すものとなる。その大きな視座とは用具革命―「用具」の特殊な意味については第1章で述べる―である。言い換えれば、人類史とは連続的な用具革命のプロセスである。そうした意味で、人類史は世界歴史の総集編であると同時に補完編でもある。 
 ところで、その人類史とはどこからスタートするのか。非常に広く取れば、最古の人類とされるいわゆる猿人の誕生時からということになるだろう。一方、狭くは現生人類の誕生時からということになる。このような問題の常として唯一の正解というものはないだろうが、拙論では中間を取って「最初のホモ属」の誕生時からという立場を取る。
 このような立場を取ると、人類史は目下最初のホモ属とみなされるホモ・ハビリスが出現して以来、250万年程度のスパンを持つことになる。この数字は一見気が遠くなりそうな数字であるが、地球史46億年はおろか、哺乳類史2億2000万年と比べても比較的「最近」のエピソードにすぎない。「長い来歴を持つ生物」という現生人類が陥りがちな思い上がりを正すうえでも、人類史を概略的な短いエピソード風にまとめることには一定以上の意義があるかもしれない。

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議会制独裁へ

2013-07-22 | 時評

ねじれ解消は手段であって、われわれは迅速に「決められる政治」を進めていく━。石破茂自民党幹事長のこの厳かな宣言が新たな体制の性格―議会制独裁―を語っている。 

すでに通信社主催のインターネット討論会が自民党の出席拒否で中止されるなど、与党によるマス・メディアへの締め付けも強まり始めている。

こうした巨大与党と断片的野党という非対称な政治形態は、アジアではシンガポールに例がある。一応議会制民主主義の形式を伴ってはいるが、政権与党が圧倒的に多数を占めているため、野党の対抗力は事実上機能しない。そこで、議会制の下で与党主導の「決められる政治」、すなわち執行権独裁が可能となる。

ただ一院制のシンガポールとは異なり、日本の場合は二院制であり、上院相当の参議院は衆議院での与党の独裁を牽制する働きも持つ。実際、従来の「ねじれ国会」はそうした参議院の牽制機能の最大限であった。

そのねじれが単に解消されたにとどまらず、与党に絶対安定多数が与えられたことは、こうした参議院の牽制機能もいよいよ働かなくなることを意味する。

またシンガポールでは与党勢力による野党抑圧・選挙干渉も厳しいと言われるのに対し、日本では自由選挙―選挙法のがんじがらめの規制付きとはいえ―が一応成り立っている。今回の結果は日本有権者の「自由に」表出された意思の現れにほかならない。有権者が望んだ議会制独裁である。

もっとも、石破幹事長は公明党が連立与党にいる限り、与党暴走はあり得ないとも言明していた。だが、それは裏を返せば、公明党の存在なかりせば暴走もあり得るということを示唆している。与党第一党と第二党の議席数の格差からして、公明党がさほど強い発言力を保持しているわけでもないことを考えれば、公明党というブレーキに過大な期待は禁物である。

世紀の変わり目頃から始まった歴史街道「逆走」の加速化が、3年余りの民主党政権期の中だるみを経て、巨大化した安倍再政権のもと、いよいよアクセルを大きく踏み込む時代に入ったようである。

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世界歴史鳥瞰・総目次

2013-07-20 | 〆世界歴史鳥瞰

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

序論 p1 p2

第1章 東から発祥した文明
〈序説〉
一 文明の発祥 
p3
(1)文明の履歴としての歴史
(2)文字の発明
(3)都市の成立

二 古代四大文明圏の発展 p4
(1)四大文明圏の意義
(2)メソポタミア文明圏
(3)エジプト文明圏
(4)インダス文明圏
(5)黄河文明圏

三 西洋の「東方」文明 p5
(1)エーゲ文明圏
(2)クレタ文明期
(3)ミケーネ文明期

四 ギリシャ世界の盛衰 p6
(1)暗黒時代から都市国家へ
(2)アテネとスパルタ
(3)ペロポネソス戦争から衰退へ
(4)マケドニアの旋風
(5)ローマ時代へ

第2章 ローマ帝国の覇権 
〈序説〉
一 都市国家ローマ 
p7
(1)エトルリア人の先行文明
(2)都市国家への発展

二 共和制時代 
(1)共和制樹立
(2)十二表法の制定
(3)元老院と民会

三 帝国への道 p8 
(1)軍事大国化
(2)共和制の揺らぎ
(3)奴隷反乱と同盟市戦争
(4)三頭政治から「帝政」へ

四 絶頂から分裂へ p9
(1)「ローマの平和」とその揺らぎ
(2)キリスト教迫害政策
(3)寛容令から国教化へ
(4)東西分裂と西ローマ帝国の滅亡
(5)東ローマ帝国の存続と繁栄

第3章 中国王朝の興亡
〈序説〉
一 秦の統一まで 
p10
(1)春秋・戦国時代
(2)秦の台頭と統一

二 漢帝国の400年 p11 
(1)建国と新政
(2)集権化と帝国化
(3)簒奪と再興
(4)後漢の繁栄と没落

三 大唐帝国へ p12 p13
(1)魏晋南北朝時代
(2)隋から唐へ
(3)唐の支配政策
(4)開元の治と安史の乱

四 唐滅亡とその後  p14
(1)唐滅亡まで
(2)五代十国から宋へ
(3)宋金共存時代

五 古代朝鮮の展開 p15 
(1)国家形成から漢の植民まで
(2)三韓と高句麗の成立
(3)三国攻防時代
(4)統一新羅から高麗へ

六 倭王権の成立と発展 p16
(1)小国分立時代
(2)邪馬台国時代
(3)天皇王権の確立
(4)律令制とその解体

第4章 イスラーム世界とモンゴル帝国 
〈序説〉
一 イスラームの創唱 p17
(1)イラン帝国と東ローマ帝国
(2)7世紀初頭のアラブ社会
(3)最初のイスラーム革命

二 イスラーム勢力の展開 p18 p19 p20 p21
(1)アラブ・イスラーム勢力の遠征
(2)ウマイヤ朝の成立と教団の分裂
(3)アッバース朝の盛衰
(4)トルコ勢力の台頭
(5)サラディンと十字軍撃退
(6)インドのイスラーム勢力

三 モンゴル勢力の旋風 p22 p23
(1)モンゴルの由来
(2)世界征服
(3)中国王朝としての元
(4)分裂とイスラーム化
(5)ティムール帝国からムガル帝国へ

四 オスマン帝国の台頭と全盛 p24
(1)先行者マムルーク朝
(2)由来と建国
(3)版図拡大
(4)オスマン帝国の内外政策

五 高麗王朝から朝鮮王朝へ p25
(1)武臣政権と元の支配
(2)朝鮮王朝の成立と発展

六 平安朝から武家支配へ p26 
(1)平氏政権の成立
(2)幕府体制の確立と危機

第5章 ヨーロッパの形成
〈序説〉
一 独仏伊の形成 p27
(1)フランク族の台頭
(2)カロリング帝国の覇権
(3)カロリング帝国の分割

ニ イングランド・北欧の形成 p28 
(1)アングロ‐サクソン族の来住
(2)北欧バイキング
(3)ノルマン征服とその後
(4)北欧諸国の形成

三 東欧・ロシアの形成 p29 
(1)スラブ諸国の形成
(2)ロシアの形成
(3)ハンガリーの建国
(4)モンゴル・トルコの支配

四 ビザンツ帝国の盛衰 p30 
(1)ビザンツ帝国の独自性
(2)領土縮小と大シスマ
(3)十字軍と帝国転覆
(4)復旧から滅亡まで

五 西洋中世の実像 p31
(1)文明史的逆説
(2)領主支配制
(3)制度的キリスト教

第6章 ヨーロッパの巻き返し
〈序説〉
一 レコンキスタと十字軍 p32
(1)初期レコンキスタ
(2)十字軍の狂熱と打算
(3)シチリア王国の成立
(4)レコンキスタの勝利

二 「西洋近代」の黎明 p33 p34 p35 p36
(1)大航海と植民
(2)君主主権国家の成立〈1〉
(3)君主主権国家の成立〈2〉
(4)ルネサンス革命
(5)宗教改革から30年戦争へ
(6)仏宗教戦争と英国国教会

三 帝政ロシアの成立と発展 p37
(1)ロシアの自立
(2)ロマノフ朝の始まり
(3)帝政ロシアへ

四 明から清へ p38 p39 
(1)明と中国社会の変容
(2)清の成立
(3)最後の王朝・清

五 戦国動乱から幕藩体制へ p40 p41
(1)戦国動乱と「南蛮人」到来
(2)織豊政権と動乱の中断
(3)徳川幕藩体制の確立

六 イスラーム勢力の後退 p42 
(1)オスマン帝国の後退
(2)ムガル帝国の衰退

第7章 大英帝国の覇権
〈序説〉
一 英国の台頭 p43 P44
(1)先行者オランダ共和国
(2)革命の17世紀〈1〉
(3)革命の17世紀〈2〉
(4)スペイン継承戦争と七年戦争

二 アメリカ独立とフランス革命 p45 p46 p47
(1)北アメリカ植民地の形成
(2)アメリカ合衆国の成立
(3)アメリカ独立=革命の意義
(4)フランス革命〈1〉
(5)フランス革命〈2〉
(6)ナポレオンの独裁と失墜

三 資本主義と労働運動 P48 p49
(1)産業革命と資本主義
(2)労働者階級の誕生
(3)労働運動からパリ・コミューンへ
(4)パリ・コミューン以後

四 帝国主義の攻勢 p50 p51 p52 p53 p54
(1)近代帝国主義
(2)スペイン・ポルトガルの後退
(3)帝国主義の展開〈1〉:参入国
(4)帝国主義の展開〈2〉:対象地域(上)
(5)帝国主義の展開〈3〉:対象地域(下)
(6)オスマン帝国の縮退

五 幕藩体制から大日本帝国へ p55 p56
(1)「鎖国」体制の限界と「開国」
(2)明治維新と「近代化」
(3)帝国主義への合流〈1〉
(4)帝国主義への合流〈2〉

六 近代中国と近代朝鮮 p57
(1)清の衰亡
(2)辛亥革命
(3)朝鮮王朝の終焉

七 第一次世界大戦と英国の斜陽化 p58 p59
(1)大戦の要因と経緯
(2)大戦の特質
(3)大戦の経過と結果
(4)トルコ革命とオスマン帝国の崩壊
(5)英国の後退と米国の躍進

第8章 アメリカ合衆国とソヴィエト連邦 
〈序説〉
一 ロシア革命とソ連邦の成立 
p60 p61
(1)革命の胎動
(2)革命の経緯と経過
(3)革命の結果
(4)革命の余波〈1〉:大戦当事国への波及
(5)革命の余波〈2〉:周辺国への影響

二 ファシズムとスターリニズムの暴風 p62 p63 p64
(1)ファシズムの発生と拡散
(2)ファシズムの展開
(3)スターリニズムの対抗

三 第二次世界大戦と米国の覇権確立 p65 p66
(1)大戦の要因と経緯〈1〉
(2)大戦の要因と経緯〈2〉
(3)大戦の特質
(4)大戦の経過と結果
(5)米国の覇権確立

四 東西冷戦の時代 p67
(1)冷戦の背景と発端
(2)東西二大陣営の結成
(3)冷戦の特質

五 日本の民主化と経済発展 p68
(1)米国の日本「民主化」戦略
(2)日米同盟と親米保守支配
(3)経済発展の真相

六 諸国の独立 p69 p70 p71
(1)アジア諸国の独立〈1〉
(2)アジア諸国の独立〈2〉
(3)中東諸国の独立とイスラエルの建国
(4)アフリカ諸国の独立
(5)島嶼地域の独立と残存植民地
(6)独立後の明暗
(7)非同盟諸国運動

七 冷戦体制の完成から終焉まで p72 p73
(1)冷戦体制への抵抗
(2)冷戦体制の完成
(3)冷戦体制の行き詰まり
(4)冷戦体制の再燃そして終焉
(5)東欧革命からソ連邦解体へ
(6)中国の路線転換

補章 ソヴィエト連邦解体後の世界  
〈序説〉
一 ロシアの混乱とチェチェン戦争 p74 
(1)経済的混乱と憲法戦争
(2)チェチェン戦争

二 外観上の米国一極支配 p75
(1)湾岸戦争と繁栄の90年代
(2)「単独行動主義」とその挫折

三 「流極化」の時代 p76 p77
(1)ヨーロッパの統合
(2)中国の急成長
(3)ロシアの「復興」
(4)四極プラス2
(5)「流極化」のゆくえ

四 「流極化」の中の危機 p78 p79 p80
(1)民族紛争の噴出
(2)イスラーム過激主義の攻勢
(3)東アジアにおける冷戦の残存
(4)核兵器の拡散

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戦後日本史(連載第12回)

2013-07-17 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔五〕成長の終焉と政治閉塞

 1960年以降、「逆走」のスピードダウンによる経済開発優先路線によってもたらされたいわゆる高度経済成長は、第四次中東戦争に伴う石油危機(第一次)を機に終焉した。その経済成長がマイナスに転じた1974年は、ちょうど時の田中角栄首相が不明朗な政治資金問題―いわゆる「田中金脈問題」―を指摘され、退陣した年でもあった。
 先に述べたように、田中は60年代以降の経済開発優先路線を象徴する人物でもあり、「列島改造」を掲げ、全土を徹底的に開発の対象としていく野心的な政策プログラムを展開しようとしていたが、そうした路線が生み出した金権体質に自らが染まっていたのだった。
 田中自らが主犯格となったロッキード事件は、その象徴的出来事であった。76年、前首相の逮捕という史上初の衝撃的なクライマックスを見ることになるこのアメリカ発の国際的な汚職事件は、しばしば日本側の捜査を主導した検察当局の果敢さを示す武勇談として記憶されているが、実際のところ、田中退陣後の与党・自民党内で激化していた権力闘争を強く反映していた。
 当時、反田中の急先鋒は二代後に首相となる福田赳夫であったが、田中の後任首相には、党内の「裁定」により少数派閥を率いる三木武夫が就いた。三木は元来中道政党・国民協同党の流れを汲み、「クリーン」をもって任ずる人物であった。その三木が後任に就いて政治浄化を掲げるようになったことは、田中にとって明らかに不利な情勢であった。三木が田中逮捕にゴーサインを出したことが、検察の「果敢な」行動に道を開いたのである。
 しかし、党内基盤の弱い三木内閣が長続きすることはなく、ロッキード事件後ほどなく退陣、後任には満を持して大蔵官僚出身の福田が就いた。福田は岸信介の流れを汲む党内右派の代表格と目されており、ここで久しく鈍化していた「逆走」の流れが再び本格化するかに思われたが、そうはならなかった。
 その理由は様々考えられるが、一つにはロッキード事件後に国民の政治不信が高まり、それを背景として76年には党内の一部が離党して新党・新自由クラブを結成するなど、党分裂の兆しすら見えていたことがある。また田中逮捕後も勢力を維持していた田中支持派からの巻き返しも激しく、福田内閣は腰をすえて政権運営に当たる余裕がなかった。
 結局、福田内閣も長続きせず、田中派の支持を受けた同じ大蔵官僚出身の大平正芳に首相の座を譲るが、大平内閣では党内抗争はいっそう激化した。80年には野党・社会党が提出した内閣不信任案に党内反大平派が欠席する形で事実上同調、可決させる事態となった。
 これを受けて行われた解散・総選挙の渦中、大平首相は病気で急死した。結果的に、この選挙で自民党は大勝し、大平派の鈴木善幸が首相に就任して党内融和に努めることになるが、この頃から、離党した刑事被告人の身ながら田中角栄の隠然たる党内支配力が強まり、いわゆる「闇将軍」として首相の人選にも影響力を行使するようになった。
 こうして、経済成長が終焉した74年以降は、79年の第二次石油ショックによる世界的不況にも直撃され、日本経済が下降期に入っていく中、政治的にも閉塞した状況が続く。80年代に入ると、ブルジョワ・ヘゲモニーは表面上強力に見えながらも、過去20年来の「逆走」鈍化の流れを転換し、体制引き締めを図るべき時機にさしかかっていた。

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戦後日本史(連載第11回)

2013-07-16 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔四〕「司法反動」の始まり

 1960年以降、「逆走」は長い鈍化の時代に入るが、「逆走」が完全に中断されたわけではなかったのは、一つの日頃目立たない領域においては、むしろ「逆走」が加速化していたためである。その目立たない例外的な領域とは司法であった。
 法秩序に関わる司法は占領=革命における改革の最も中心的なターゲットとされていた。その結果、司法制度全体に改革の手が入り、戦前の司法省を頂点とする行政主導的で独立性・中立性を欠いた抑圧的な司法から、最高裁判所を中心とするより独立性・中立性の高い司法へと変更されたのである。
 最高裁判所は新憲法の下、「憲法の番人」として立法・行政に対する違憲審査権という大きな権限を手にしていた。それに伴い、法曹界は保守層の「自主憲法制定」路線に対抗して、新憲法を擁護する護憲派の一大拠点となっていった。その象徴が、54年に結成された若手護憲派法律家の横断的な団体「青年法律家協会」(青法協)であった。
 この団体は60年代に入ると、多くの裁判官会員をも擁するようになり、司法部内部にも浸透して一定の潜勢力を持つようになった。それは、「逆走」が鈍化する中で高まりを見せていた革新・革命運動とも底流では結ばれた動きでもあったろう。
 青法協の影響力は元来保守的な最高裁そのものを大きく変えるまでには至らなかったとはいえ、最高裁の判断傾向にも一定の変化を与えるようになり、最高裁は60年代半ば以降、特に公務員の労働基本権を巡る裁判で、比較的リベラルな解釈を提示するようになってきた。
 こうした司法部の「左傾化」に危機感を抱き始めたブルジョワ保守層は、かれらが「左傾化」の大元とにらんだ青法協への攻撃を開始する。その最初の犠牲者は、北海道で航空自衛隊基地の建設に反対する住民が起こした行政訴訟で初めて自衛隊違憲判決を出した札幌地裁の福島重雄裁判長であった。
 自身青法協会員であった福島判事に対しては、上司に当たる札幌地裁所長から、判決前に自衛隊に対する違憲審査を回避するよう私信の形で圧力が加えられた。このように憲法で保障された裁判官の独立を侵害する明らかに憲法違反の裁判干渉をはねのけ、あえて違憲判断に踏み切った福島判事を、司法当局はその後の人事でも冷遇し続けたのである。
 以後70年代にかけて、青法協会員裁判官への脱会工作や、会員裁判官の再任拒否、会員司法修習生への裁判官任官拒否や修習生罷免などの徹底した「青法協排除」が断行されていく。
 それと平行するように、73年以降、公務員の労働基本権を巡る最高裁判決で、従前のよりリベラルな解釈が次々と覆され、こうした反動的な判決が今日まで基本判例として維持されているのである。
 実際のところ、司法領域においても、50年代の「逆コース」の影響は及んでいたのであるが、司法における「逆走」が加速を始めるのは60年代以降のことであって、こうしたいわゆる「司法反動」は後れてきた「逆コース」と言うべきものであった。
 要するに、政治経済面では鈍化した「逆走」のスピードが、その遅れを補うかのように、法秩序の面においては、逆にスピードアップしたのが、この時期であったのである。

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老子超解:第八十一章 小国寡民

2013-07-12 | 〆老子超解

八十一 小国寡民

小さくて人口の少ない国、そこでは種々の用具があっても使わせず、民衆をして死を敬重させ、遠方に移動させないようにするから、舟や車があっても、乗る必要がなく、甲や武具があっても、見せびらかす必要もなかろう。
人々をして再び縄を結んで文字として使わせ、手製の料理を旨いと感じさせ、手製の服を美しいと感じさせ、自作の住居に安住させ、自分たちの習俗を楽しむようにさせるから、隣国同士がすぐ見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が互いに聞こえるようであっても、民衆は老いて死ぬまで、互いに往来することもなかろう。

 

 本章は通行本では最後から二番目の第八十章に当たるが、内容上は哲理篇及び政論篇の全趣旨を踏まえつつ、老子の理想の社会像を具体的に示したものとして、全篇の最後を飾るにふさわしい章である。
 ここで詩的な表現を用いて描かれているのは、「国」というよりは先史共同体に近い理想郷であって、老子の原始共産主義への傾斜をはっきりと物語っている。歴史‐社会観においても、老子の「復帰」の思想は一貫している。
 しかし、それは決して反動的な復古主義ではなく、むしろ前章までに説かれていた「無事革命」を通じて達成されるような理想郷なのである。
 具体的に見ると、老子的理想郷は自給自足の小さな農村共同体であるが、万人直耕の原始農耕社会ではない。その点では、農家思想や安東昌益などとも異なる。
 また、しばしば老子と結びつけられる「反文明」というモチーフも見られない。前段にあるとおり、老子的理想郷には舟や車、甲や武具も備わっているから、決して未開の石器時代的社会ではない。文明の利器は備わっているが、それに依存しない知足の定常経済社会こそ、老子の理想なのである。
 ちなみに『毛沢東語録』にも収録された一節において、毛は共産党委員会の委員同士の連絡を密にすべきことを説く中で本章末尾の一文を引き、連絡不通の象徴として揶揄しているが、自足的な定常経済社会同士では交換(交易)もしないから、互いに往来する必要もないのである。
 老子を揶揄した毛が建設し、大国多民の成長経済社会をいく現代中国に、老子流小国寡民を顧みる余裕はないであろう。老子は同時代的にも、現代的にも、反時代流の人なのである。(連載了)

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資本主義らしさ

2013-07-06 | 時評

日本経済もようやく資本主義らしくなってきた。アベノミクスへの賛否が今般の参院選の主要な争点だというが、アベノミクスの中身とは要するに「資本主義の純化」ということにほかならない。

円安&株価上昇で、輸出企業の業績と富裕層の資産価値を増大させ、ブルジョワ層を徹底的に伸ばすことで、経済を成長軌道に乗せようという作戦である。反面、下層中流層以下は置いて行かれる。

こうした政策は、かつて同じ党が半世紀前に打ち出した「所得倍増計画」とは対照的である。半世紀前には、国民全般の所得水準を底上げすることで経済成長を図るという作戦であったが、今度は大企業・富裕層の資産増大で成長を促す作戦である。

こうした言わば「置いてけ堀」経済はしかし、まさに資本主義本来の姿だ。資本主義は市場経済に順応できる強者をいっそう強くし、市場にとって足手まといとなる弱者を切り捨てることを厭わない。アベノミクスに反対して、「弱者に優しい資本主義」があるかのように宣伝するのは、資本主義に関する幻想を振りまくだけである。

資本主義は今、世界中に拡散し、国内的にも爛熟期を迎えようとしている。ちょうど熟し切った木の実が朽ちて落ちるように、資本主義にとっても爛熟は終わりの始まりでもある。

アベノミクスの推進は、その支持者の意図とは裏腹に資本主義の命脈を短縮することになるのだから、むやみに反対し妨害すれば、かえって資本主義を中途半端に延命することになる。「奪いたければ、しばらく与えよ」(老子)である。

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戦後日本史(連載第10回)

2013-07-03 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔三〕革新・革命運動の高揚と限界

 「逆走」のスピードダウンの意図せざる副産物として、60年代以降、左派の革新・革命運動の高揚という政治・社会現象が発現した。
 直接的には60年安保闘争を源として学生運動が活発化した。青年主体の運動によくありがちなように、学生運動は急進化して革命運動となった。その沸騰点は、世界的な学生運動の高揚が同時多発的に起きた68年であった。日本では69年初頭、急進的学生運動家らが東京大学安田講堂で機動隊と衝突した「安田講堂事件」に象徴された。
 しかし、大学進学率が低かった当時、大学生は中産階級以上の家庭から出た少数エリートにすぎず、学生運動は労働運動との結合がないまま、徒に急進的なスローガンを叫ぶ独善的な運動に走り、当局の力による鎮圧を招いた。
 そうした抑圧によっても刺激されたビジョンなき革命論は、爆破やハイジャックのような過激手法で社会不安を引き起こす派生的な過激集団を生み出し、一般民衆の支持・共感を得ることはできなかった。
 一方、60年代以降、地方自治体レベルでは社会党や共産党の支持を受けたいわゆる革新系首長を多く生み出した。67年に当選したマルクス経済学者出身の美濃部亮吉東京都知事はその象徴と言える存在であった。
 これら首長に率いられた革新自治体は国の政策よりも踏み込んだ福祉の充実や公害対策を訴え、一般民衆の支持・共感を得た。しかし一方で、こうした「革新勢力」は議会政治に順応して急進性を失い、資本主義を基本的に受容する社会民主主義的路線に収斂していった。日本共産党の穏健化もそうした流れの中にあった。
 こうした議会主義的な「革新勢力」の大衆的支持基盤となっていたのは労組であったが、日本の労組は占領期のGHQの政策転回以降、組織率が急落・低下傾向にあったことに加え、企業別の性格が強く、産別労組が未発達で横の連携がとりにくいうえ、労働界でも官公労組が指導的地位を占める官民格差が見られるなど、労働運動の広がりにも限界があった。
 それでも、当時最大の労組センターで社会党の支持基盤でもあった「日本労働組合総評議会」(総評)は、比較的高い団結力を示し、社会党を通じてブルジョワ・ヘゲモニーに対する主要な対抗勢力として無視できない影響力を発揮していた。
 このように、60年安保闘争で生じた「逆走」のスピードダウンがもたらした左派勢力の運動は60年代から70年半ばにかけていっとき高揚を見せるが、そこには後々退潮・瓦解の要因ともなる限界も内在していたのである。

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戦後日本史(連載第9回)

2013-07-02 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔一〕60年安保闘争

 1950年に始まり、10年に及ぶ「逆走」をスピードダウンさせる契機となったのは、60年安保闘争の民衆パワーであった。前述したように、岸内閣が最大使命とする日米安保条約改定は、日本が米国の戦争政策に巻き込まれることを懸念する国民の強い反対に遭い、安保改定反対闘争は空前の盛り上がりを見せたのだった。
 国会内では日本社会党が反対の中心にあった。同党は50年代を通じて着実に議席を伸ばしたが、自民党と拮抗するまでには至らず、55年体制下では政権にありつくことのない「万年野党」であったとはいえ、「逆走」を鈍化させるだけの力量は備えており、当時がこの党の全盛期でもあった。
 特に自民党が掲げる「自主憲法制定」に関しては、同党が憲法上改憲に必要とされる衆参両院での三分の二以上の議席を獲得することを阻止するうえで、社会党の対抗力は確実に効いていた。
 60年安保闘争は、こうした社会党を議会内センターとしつつ、議会外の幅広い勢力が結集して、空前の国会包囲デモに表出される民衆パワーを示した。戦前の民衆パワーの極点が1918年の米騒動だったとすれば、その42年後の60年安保闘争は戦後民衆パワーの極点であったと言えるであろう。
 しかし岸内閣はこうした民衆パワーを警察力や闇の反社会勢力まで動員して抑圧し、60年6月15日にはデモに参加していた女子学生一人が死亡する事態となった。
 結局、60年5月に衆議院で強行採決され、可決していた新安保条約(現行条約)は同年6月、参議院での審議すらないまま自動成立するという非民主的な形で実現を見た。しかしアイゼンハワー米大統領の記念すべき訪日は警備上の理由から中止となり、岸内閣は一連の政治混乱の責任を取って総辞職したのだった。
 こうして、「逆走」を完成させるべく登場した岸内閣は、日米安保改定の強行という“成果”を米国に差し出しつつも、内政面では民衆パワーの前に道半ばで挫折したのである。 

〔二〕経済開発優先路線への転換

 岸の後任となったのは、大蔵官僚出身の池田勇人であった。吉田茂の流れを汲む池田は本来リベラルとは言い難い人物ではあったが、60年安保闘争後の状況下で、当面体制維持のために何が求められているかを理解していた。
 池田内閣がぶち上げ、今日でも60年代を象徴するキーフレーズとして記憶されている「所得倍増計画」は、以後「改憲」に帰結される「逆走」のスピードを落としてでも経済開発を優先し、国民の生活水準全般を引き上げることを目指すというブルジョワ支配層の新戦略の表現でもあった。
 その裏には、60年安保闘争で表出された民衆パワーを削ぐうえでも、国民の所得水準を高め、政治への不満を逸らすという「ガス抜き」の意図も込められていた。
 こうした新戦略は、池田内閣以降、佐藤栄作内閣、田中角栄内閣の三代14年にわたって展開され成功を収め、この間に日本はいわゆる「高度経済成長」を達成したのだった。佐藤内閣時代の68年には、当時の西ドイツを抜き、資本主義陣営ではGNP規模で米国に次ぐ第二位の経済大国にのし上がった。敗戦から20年余りのことであった。
 この時期は同時に、自民党の全盛期でもあった。当時の自民党では岸の流れを汲む右派が後退し、代わって穏健中道派が党を掌握していたため、自民党自体が三分の一くらい社会民主主義に傾斜していたと言ってよかった。岸内閣時代に着手されていた社会保障制度の整備が―限界や欠陥を蔵しつつ―前進したのも、この時期であった。
 改憲は取り下げられることこそなかったが、棚上げにされた。定着しつつあった自衛隊も「専守防衛」が国是とされ、佐藤内閣時代にはいわゆる「非核三原則」が打ち出されるなど、改憲の最大標的憲法9条にも配慮が払われていたのである。
 ただ、こうした自民党の変化はどこまでも政権保持のための戦略の域を出るものではなく、本質的な変化ではなかったことはもちろん、経済開発優先路線は多くの開発利権を生み、政・財・官が癒着する構造的汚職体質の形成を促した。
 こうした社民主義の衣を被った「利権保守主義」は、70年代に入ると、現職総理大臣・田中角栄の収賄という前代未聞の汚職事件(ロッキード事件)を引き起こすまでにエスカレートし、70年代後半には国民の政治不信から自民党政治を行き詰まりに直面させることになったのである。

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