九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)
核兵器科学の発達
日本の広島・長崎への原爆の実戦使用は世界に衝撃を与えたが、その衝撃効果は核兵器廃絶とは真逆に、核開発の拡大的連鎖反応をもたらし、世界への核兵器の拡散を結果した。
まず連合国内でマンハッタン計画から外されていたソ連が計画のインサイダーからの漏洩情報を利用して核開発を急ぎ、1949年に核実験を成功させた。さらに連合国のイギリスやフランスも続き、東側陣営では中国も1964年に核実験に成功、結果として国際連合の五大国すべてが公認の核兵器保有国となった。
一方、核兵器の先発国となったアメリカでは戦後、原子爆弾を上回る爆発力を有する核爆弾の研究開発が進められ、マンハッタン計画にも参加したアメリカの化学者ハロルド・ユーリー(1934年度ノーベル賞受賞者)が1931年に発見した重水素の核融合反応を利用した水素爆弾が開発された。
ただし、この水素爆弾は純粋のものではなく、併用される原子爆弾を起爆しつつ、その核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用し、重水素や三重水素の核融合反応を誘発することにより、対日使用された原爆の数百倍もの爆発力を発揮させるという原理によるものであった。
アメリカは1952年、南太平洋のエニウェトク環礁で人類初の水爆実験を実施、史上初の水爆の起爆実験に成功した。しかし、この水爆は大型過ぎて、実戦使用不能のものであったところ、1953年にはソ連がリチウムを利用した小型水素爆弾の実験に成功したと自称宣言した。
これに触発され、アメリカはその翌1954年に、ビキニ環礁、エニウェトク環礁の二つの環礁で実施した一連の水爆実験により、実戦使用可能な小型水素爆弾の起爆に成功した。この時、日本の遠洋漁船第五福竜丸が被ばくする事故が起き、日本は原爆・水爆双方の被爆国となった。
こうして、核兵器開発に奉仕する物理・化学の体系―核兵器科学―が確立されていく。1955年には科学の平和利用を訴えるラッセル‐アインシュタイン宣言が発せられたが、理念的な効果以上のものはなかった。
核兵器の原理がひとまず確立された1960年代以降は、核兵器の一層の小型化と可動化、特にミサイルなどの弾道兵器に登載する核弾頭技術の開発に焦点が移ると、核兵器科学は精密工学の性格を帯びていく。
核兵器政治経済の確立
核兵器科学が精密工学となれば、科学者のみならず、科学技術系資本の関与が不可欠となる。それにより、核兵器産業と言うべき新たな産業分野が誕生する。その先駆けとして、マンハッタン計画にも、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックのような技術系大手が参画していたことは先述した。
その点、1961年にアメリカ陸軍出身のアイゼンハワー米大統領が退任演説で「軍産複合体」の形成に異例の警告を発したが、こうした複合体は核開発に特化したものではないとはいえ、核兵器のハイテク化は軍産複合体―大学を含めれば軍産学複合体―の存在を不可欠の基盤とする。
アイゼンハワーは現役軍人時代には原爆の対日使用に否定的な進言を行ったが、戦後の米大統領としては米ソ冷戦下で核兵器による大量報復戦略を展開し、アメリカの核戦略の先駆けを成した張本人であり、まさしく軍産複合体の形成を助長するという言行不一致を示している。
その後、1960年代以降、核兵器が可動的な弾頭型になるにつれて、ロッキードやボーイングのような航空産業の参入も求められ、軍産複合体は多様化していく。今日では、世界の20ほどの企業が核兵器製造企業として特定されているが、協力ないし下請け企業も含めればより多数に上るだろう。
もっとも、ソ連やそれを引き継いだロシア、現在も社会主義を標榜する中国のような旧/現社会主義圏では、核兵器開発を政府系科学技術機関が担うことが多く、軍産は複合というより融合しているが、これも広い意味での軍産複合体に含めてよいだろう。
こうした軍産複合体を上部構造的に統制しているのは言うまでもなく政治であるが、戦後の国際政治は冷戦下ではもちろん、冷戦終結後も、核兵器の抑止力を安全保障の究極的な担保としている現実に変わりなく、核廃絶は理念にとどまっている。
その意味で、第二次大戦後の世界秩序そのものが言わば核兵器政治経済によって担保されていると言って過言でないが、その原理的な基盤となっているのは「死の科学」としての核兵器科学である。その是非はともかく、核兵器科学は近代科学の集大成的な結晶でもあり、現代科学の最先端の一端を成していると言える。