ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第303回)

2021-09-29 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(6)コモロ革命
 インド洋の東アフリカ包摂圏では、1970年代、マダガスカルに続き、周辺の小さな島国にも社会主義革命が及んでいるが、その一つは歴史的にマダガスカルとも関係の深いコモロにおける1975年の革命である。
 コモロ諸島は17世紀頃までにイスラーム系の小首長国が主要な四島に散在する社会編制が形成され、統一的な王国は樹立されることはないまま、19世紀に順次フランスの保護領という形でフランス植民地となった。
 小さな諸島ゆえに独立機運はなかなか訪れなかったが、1974年の住民投票では四島中三島で独立が支持され、翌75年7月、各島ごとの住民投票を求めるフランス側の要求を振り切って、唯一独立に反対したマヨット島を除く三島のみで独立を敢行した。
 初代大統領には、独立前の自治政府の要職を歴任してきたベテラン政治家アーメド・アブダラが就任することになったが、各々自治の気風を持つ三島間の対立関係が止揚されないままでの見切り発車であった。
 そうした空隙をついて、おそらく以前から革命を準備していたと見られる社会主義者のアリ・ソイリが独立から1か月も経過しない75年8月に決起し、アブダラ政権を打倒する電撃的な革命に成功した。
 ソイリは元来マダガスカルの出身で、農学と開発経済学の専門家として60年代にコモロに入り、そのまま定住した人物である。彼は1970年から2年間自治政府首班を務めたサイード・イブラヒムの側近として台頭し、自治政府閣僚も経験した。
 そうしたバックグランドの人物がいつどのようにして急進的社会主義者となったかは不明であるが、革命後、権力を掌握したソイリは毛沢東主義とイスラーム思想を融合させるイデオロギーを通じてコモロの統合と近代化を図ろうとした。
 その政治的なマシンとして統一国民戦線を組織していたが、手勢となる武力を持たなかったため、アフリカ各地の紛争で暗躍していたフランス人白人傭兵ボブ・デナールと彼の私兵集団を雇い入れるという安易な便法によって革命に成功したことが、後々自身の命脈を縮める結果となる。
 ともあれ、白人傭兵集団の力で小さな島国での革命に成功したソイリは、76年に大統領に就任すると、上掲イデオロギーに沿った革命政策を推進していくが、ソマリア革命におけるマルクス‐レーニン主義とイスラーム思想の融合と同様、毛沢東主義とイスラーム思想の融合という水と油の化合は成功せず、むしろイスラーム的な社会慣習の撤廃が強力に進められた。
 そのために、伝統的な権威である長老を排斥し、青少年を極端に優遇する政策が施行され、大麻を解禁し、選挙権を14歳まで引き下げるとともに、未成年者を要職に据えるといった奇策も採用した。そのうえ、ソイリは中国の文化大革命をコモロに導入することを企て、紅衛兵をモデルとした10代主体の民兵組織を創設、タンザニアによる軍事訓練を施した。
 15歳の少年が司令官を務めるこの民兵組織は反革命分子や反革命的な集落を弾圧する一種の政治警察として機能するようになり、ソイリ時代のコモロはまさしくコモロ版文化大革命のような様相を呈するに至った。
 その他、フランス統治時代に構築された行政機構の縮減・解体などの急進的な政策も、正常な行政機能を麻痺させる結果となり、早くも反革命運動を刺激したため、たびたびクーデター未遂事件に見舞われ、政情不安が収まることはなかった。
 そうした状況を見た亡命中のアブダラ前大統領は権力奪回のため、ソイリが雇ったデナールに接近、今度は自身の反革命クーデターへの支援契約を結ぶことに成功した。その結果、1978年5月、デナール率いる白人傭兵集団がクーデターを起こし、少年民兵組織以外に武力を持たないソイリ政権を短時間で打倒、ソイリは殺害された。
 こうしてコモロ社会主義革命は3年足らずで悲惨な結末を迎え、アブダラ政権が復旧、革命政策はすべて撤回され、イスラーム化政策が推進されるとともに、保守系の一党支配を通じたアブダラの長期政権が構築された。
 しかし、アブダラがソイリにならって白人傭兵に依存したことは高い代償をもたらし、以後、大統領警護隊長として居座ったデナールが大統領をしのぐ最高実力者となり、大地主としてコモロ経済をも支配するという不正常な状態が80年代末まで続いていく。
 その後の情勢はもはや革命の範疇外であるが、1989年にデナール追放を決意したアブダラ大統領は返り討ちにあって殺害されたが、フランスと南アフリカの協力を得たモハメド・ジョハル最高裁判所長官がデナール一味を追放し、ひとまず正常化を果たした。*ただし、デナールはジョハルによるクーデターを主張、フランス本国での裁判でもアブダラ殺害に関しては証拠不十分で無罪となった。

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近代革命の社会力学(連載第302回)

2021-09-27 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(5)マダガスカル革命
 インド洋の東アフリカ包摂圏では最大の島国であるマダガスカルは、中央高原から出たメリナ王国が19世紀前半に全国統一に成功したものの、同世紀末にフランスの軍門にくだり、植民地となった後、1960年にマラガシ共和国として独立した。
 初代大統領フィリベール・ツィラナナは共産主義者から穏健左派の独立運動に転じ、平和的な独立を導いた功績から「独立の父」とみなされていたが、社会民主党(PSD)を与党とするその政権運営は一貫した親仏路線であり、安定はしているものの、旧宗主国フランスの経済支配が存続するいわゆる新植民地主義の代表例となっていた。
 しかし、1960年代末の不況を契機に、こうした新植民地主義の安定性は破られた。それによって、従来は隠蔽されてきた部族対立が表面化し、1970年代に入ると、ツィラナナをはじめ、北部と西部の部族連合が独占する支配体制への南部部族の不満が表出され始める。
 一方では、首都の中産階級出自の学生の間で、ツィラナナの新植民地主義への政治的批判が高まり、反体制的な学生運動が隆起するようになった。その拠点となったのが、最高学府アンタナナリヴォ大学であった。
 こうした二系統の反作用が合流した頂点が、1971年から翌年にかけての「ルタカ」と呼ばれる一連の民衆蜂起であった。これはほぼ同時発生した学生抗議行動と農民蜂起の二つの要素から成る階級横断的な蜂起である。
 先行したのは学生抗議運動で、1971年3月にアンタナナリヴォ大学医学部生が始めた抗議行動が全学的に拡大したものであるが、その翌月、南部の農民の武装蜂起が流血鎮圧され、これを扇動したとされる南部系の政党が強制解散させられた。
 これに抗議する学生運動が大学から高校・中学まで拡大し、抗議デモが頂点に達した1972年4月には治安部隊が発砲する事態となった。混乱状況が続く中、ツィラナナはベテラン軍人のガブリエル・ラマナンツォア将軍を首相に任命、国民投票によりラマナンツォア将軍が5年任期で暫定政権を率いることが承認されると、辞職した。
 こうしてルタカは、変則的ながら民衆革命に進展することとなった。後継のラマナンツォア政権は暫定移行政権とされたが、民衆革命の動因でもあった新植民地主義からの脱却と部族対立の解消を課題としつつ、社会主義化を推進した。
 その成果として、駐留仏軍の撤退とフラン通貨圏からの離脱があるが、脱フランス化による経済不振を招く中、1975年2月、任期未了のまま、軍部急進派のクーデターにより辞職に追い込まれた。
 このクーデターを主導したリシャール・ラツィマンドラヴァ内相(大佐)は、マダガスカル伝統の村落共同体を基盤とした社会主義を志向するユートピアンであったが、大統領就任からわずか6日で暗殺された。暗殺は特殊治安部隊によって実行されたとされるが、背後関係は不明である。
 この後、短期間の内戦を経て混乱を収拾したのが、「赤い提督」の異名を持つディディエ・ラツィラカ外相であった。この種の革命指導者には珍しく海軍出身(中佐)のラツィラカは1975年6月、最高革命評議会議長に就任すると、「マラガシ社会主義革命憲章」に基づく社会主義革命を宣言し、国名をマダガスカル民主共和国に改称した。
 ラツィラカ新体制はマルクス‐レーニン主義こそ明言しなかったが、マダガスカル革命前衛団(FNDR)を唯一の合法政治組織とし、産業国有化と農業集団化を基本とする政策はソ連式社会主義と径庭のないものであった。
 アフリカにおける他の類似体制と同様、政治的にはラツィラカ大統領の強権で維持されていたFNDR体制も1980年代に失敗が明確となり、政権は社会主義の放棄とIMFの構造調整を受け入れる一方で、民主化運動にも直面する中、ラツィラカは1992年に行われた複数政党制下の大統領選挙で敗北、下野した。
 その後、1997年の大統領選挙で当選、返り咲きを果たした点ではベナンのケレクと似た軌跡をたどったが、再選を目指した2001年選挙は僅差となり、勝敗をめぐり国を二分する抗争に敗れ、事実上の亡命に追い込まれた。
 その後のポスト・ラツィラカ時代のマダガスカルではなおも政情不安が続き、経済的にも旧FNDR体制からの脱却は充分に進展しているとは言えず、最貧国の状態にある。長期的に見て、マダガスカルの社会主義革命は最も明瞭な失敗に終わったと言える。

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比較:影の警察国家(連載第48回)

2021-09-26 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

[概観]

 ドイツ(以下、特に断りない限り、1990年以後の統一ドイツを指す)は、13の州と3つの州級大都市で構成された連邦国家であるため、警察制度も州警察を基本に、連邦は限定的な警察機関を擁する分権型の構制を採る。
 連邦制という点ではアメリカと類似するが、基本的に連邦と州の簡素な二元的分権であり、かつアメリカの連邦警察集合体のように複雑に林立し、かつ肥大化した連邦警察機関網は存在しない。
 ただし、一部の自治体は交通違反その他の軽微な法規違反を取り締まる小規模な自治体警察を擁する場合があり、厳密に見れば、連邦‐州‐自治体の三元的な分権体制とみなすことも可能である。
 総体として、ドイツにおける影の警察国家化は表面上さほど進展していないように見えるが、その背景として、第二次大戦前における旧ナチスドイツのファッショ警察国家体制、さらに戦後の東西分断時代における旧東ドイツの社会主義警察国家体制という二つの代表的な旧警察国家体制に対する反省が根深いことが挙げられるだろう。
 とりわけ連邦全土を管轄する中央集権的な連邦警察を創設することには長年消極的であったが、2005年に至り、連邦国境警備隊が連邦警察(Bundespolizei:BPOL)と改称された。これは、従来の国境警備隊が国境警備にとどまらず、連邦における総合的な警備警察及び海外派遣警察としても機能してきた実態に鑑み、名称変更に踏み切ったもので、任務・権限の増強は伴っていない。
 従って、新連邦警察は刑事警察及び公安警察としての任務・権限は有しておらず、警備警察に純化された警察機関であって、フランスの国家治安軍のように警察としての全権を備えた完結的な集権型警察組織ではない。
 その他、ドイツ警察の特色として、州警察とは別途、各州に重大犯罪捜査に当たる州刑事庁(Landeskriminalamt:LKA)が設置されていることである。言わばアメリカのFBIに相当するような組織であるが、FBIのような連邦機関ではなく、各州ごとに分権化されつつ、連邦に中央調整機関として連邦刑事庁(Bundeskriminalamt:BKA)が置かれる形で、ここでも二元的構制が貫徹されている。
 また、政治警察に相当する機関に関しては、連邦と州に国内保安機関としての憲法擁護庁(Verfassungsschutz)が設置されているが、犯罪捜査権を持たない機能的政治警察であり、政治的な犯罪の捜査は、州警察や上掲BKAの国家保安担当部署が行う。

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近代革命の社会力学(連載第301回)

2021-09-24 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(4)ダオメ=ベナン革命
 西アフリカのベナンは、かつて大西洋奴隷貿易で奴隷供給国として栄えたダオメ(ダホメ)王国がフランスの軍門にくだり、フランス領西アフリカの一部となった後、1960年に独立を果たしたダオメ共和国が1970年代の革命後に国名変更したものである。
 革命以前のダオメ共和国では、北部と南部に分かれた三つの主要部族がそれぞれの指導者の元で政党を結成し、三つ巴の抗争を繰り広げる典型的な部族主義が近代的な政党政治の形態をまとって続いていた。初代大統領ユベール・マガは北部の部族出身であったが、三党鼎立状態を止揚することはできないまま、63年の軍事クーデターで失権した。
 このクーデターは南部の部族出身のクリストフ・ソグロ軍参謀総長が主導したもので、いったんは政権を同じ南部の別部族出身のスル・ミガン・アピティに譲った。言わば、南部のクーデターであったわけであるが、当然にも北部が反発し、政権は行き詰まったため、ソグロが再びクーデターを起こし、今度は自ら大統領に就任するが、成功せず、67年に若手将校のクーデターで失権した。
 その後、再度のクーデターを経て、1970年には如上のマガとアピティに南部出身のジャスティン・アホマデグベを加えた三頭政治という窮余の一策が打たれたが、これも失敗する中、72年に中堅将校の主導するクーデターで、三頭体制も打倒された。
 このクーデターを指揮したマチュ―・ケレク少佐は上掲67年クーデターに参加して台頭してきた中堅将校であったが、本来は北部出身で、マガ初代大統領の引きで昇進したマガ派と見られていた。しかし、ケレクはクーデター後、マガを含む三指導者を拘束し、従前のダオメ支配体制を解体した。
 ただ、当初ケレクの政治路線は曖昧で、外来のイデオロギーには依存しないと言明していたが、1974年になって、マルクス‐レーニン主義の採択を宣言した。この宣言は唐突で、外来イデオロギーを排するとした以前の言明にも反していたが、ケレクの後年のさらなる変節を見ると、信念というより、当時アフリカでも風靡していたマルクス‐レーニン主義が権力維持にとって有利と見た日和見主義による選択であったと見られる。
 ともあれ、ケレクは新たな宣言に沿って、1975年には国名をベナン人民共和国と改め、マルクス‐レーニン主義を綱領とするベナン人民革命党による一党支配体制を樹立したのである。こうして、1972年クーデターは社会主義革命へと進展することになった。
 ちなみに、新国名のベナンとは、上掲のダオメ王国が台頭する以前、現在のナイジェリア領内で奴隷供給国家として栄えたベニン王国にちなんでいるが、この国はダオメとは歴史的に無関係であり、単に便宜的な借用にすぎない。こうした国名選択にもケレクの日和見主義がにじんでいる。
 ともあれ、この革命により従前の地域的な部族対立構造は強制終了させられ、以後は1991年に至るまで、実態としてはケレクの個人崇拝的な独裁体制が継続していくので、ある種の政治的安定は得られたことになる。
 こうして、新生ベナンは東側陣営に身を置くマルクス‐レーニン主義国家として再出発し、銀行や石油を含む産業の国有化など定番政策が打ち出されるが、80年代に入ると、経済的な失敗が明らかとなった。すると、ケレクは社会主義政策を修正し、市場経済化にシフトし、89年にはIMFの構造調整も受け入れた。
 さらに、90年代に入って一党支配体制に反対する民主化運動が高揚すると、あっさり複数政党制の復活を受け入れた。ただし、これは一党支配体制時代における数々の人権侵害に対する免責を得るための取引であったと見られる。
 そうした動機はともあれ、1991年には直接投票による大統領選挙が実施された結果、現職として立候補したケレクはソグロ元大統領の甥ニセフォール・ソグロに敗北し、下野した。
 ところが、ケレクは1996年の大統領選挙に再び立候補しソグロを破って当選、民選大統領として二期十年を全うし、ベナンの民主的な安定化を見届けたのであった。このように、第二次アフリカ諸国革命におけるマルクス‐レーニン主義の革命指導者が民主化後に民選大統領として返り咲いて成功した例は他になく、ここにもケレクの日和見主義が見て取れる。
 ただ、見方を変えれば高度に技巧的なプラグマティズムとも言えるケレクの日和見主義の恩恵により、1972年革命以後のベナンは、政情不安にさいなまれるサハラ以南アフリカ諸国で相対的に最も安定した民主化を達成できたと言えなくもないだろう。

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近代革命の社会力学(連載第300回)

2021-09-23 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(3)ソマリア革命
 東アフリカのいわゆる「アフリカの角」の一角を占めるソマリアもアフリカ分割の例外ではなく、戦前戦後にかけて、北部はイギリス領、南部はサハラ以南で唯一のイタリア領として分割されていた。そのため、1960年の独立に際しては、いったん南北分離独立となるが、直後に改めてソマリア共和国として統合されるという複雑な経緯をたどった。
 ソマリア社会は他のアフリカ諸国とはやや異なり、同一のソマリ族内部がいくつもの氏族集団に分岐し、氏族ごとに結束・競合する氏族主義の社会編制を持っていた。一方で、ケニアやエチオピアといった周辺諸国にもまたがって散在するソマリ族居住地域全体の統一を目指す汎ソマリ主義という民族統一思想も独立運動の中で興隆しており、そうした氏族主義と汎ソマリ主義という相矛盾した命題が革命の動因を形成していく。
 その点、独立直後から1969年の革命までの間は、独立運動に寄与した汎ソマリ主義政党・ソマリ青年同盟(SYL)が優勢であった。とはいえ、旧イタリア領の南部系の氏族が優遇されたため、独立直後の1961年には北部氏族系の将校の反乱が勃発し、改めて南北分離の主張も現れた。
 これに対し、当時のアデン・アブドラ・ウスマン初代大統領は強固な汎ソマリ主義によって社会の統合を図ったため、近隣諸国との緊張関係を高めた。そのことが1967年大統領選挙(議会による選出)で、同じSYL党員ながら汎ソマリ主義に消極的なアブディラシッド・アリー・シェルマルケの当選を導いた。
 当時のアフリカ諸国で平和的な選挙による政権交代は稀有であり、その限りではソマリアは安定した民主国に見えた。しかし、69年、シェルマルケは護衛官の手により暗殺されてしまう。この事件は護衛官による個人的犯行とされたが、その直後に間髪を入れず大規模な軍事クーデターが起きたことから、背後関係も疑われ、深層は不明である。
 1969年クーデターはモハメド・シアド・バーレ陸軍司令官が指揮する全軍規模で決行されたが、大統領暗殺後の混乱を収拾する暫定的な目的のものではなく、より全般的な社会変革に及ぶ革命を志向していることが間もなく明らかとなる。クーデターの経緯やその後の展開を見ると、これは軍主導での社会主義革命であった。
 クーデターの核心グループは、1960年代のSYL政権がソ連に接近していた関係上、ソ連留学経験を持ち、留学中マルクス‐レーニン主義に感化されたと見られる佐官級以下の中堅将校であった。バーレ将軍は植民地時代のイタリア留学経験しかなかったが、軍幹部としてソ連軍の訓練将校と接する中で社会主義に感化されていたかもしれないものの、当初は部下の将校らに担ぎ出された形であったと見られる。
 軍部はクーデター後に最高革命評議会を設置し、国名もソマリア民主共和国に変更、科学的社会主義に基づく氏族主義の克服と近代化の推進を課題とした。そして、1976年には、軍政からの転換として、バーレ大統領を党議長とするソマリ革命社会主義者党(SRSP)を結党し、ソ連流の一党支配体制を樹立した。
 SRSPはソ連共産党を模倣した組織構造を持っていたが、マルクス‐レーニン主義とイスラームの融合というイスラーム圏ならではの野心的なイデオロギーを標榜した。しかし、そのような水と油の化合は成功せず、イスラーム主義は抑圧されることになる。
 また結党も最高革命評議会の内紛を粛清によって解決したバーレが主導したため、SRSP幹部の大半をバーレとその腹心の軍人が占め、形式上は民政へ移行しても、実態は軍事政権と変わらないものであったことも、革命の遂行には障害となったであろう。 
 SRSP体制は、氏族主義の克服をマルクス‐レーニン主義以上に汎ソマリ主義に求めた。その実践として、1977年には隣国エチオピアのソマリ族居住地域であるオガデン地方の分離独立運動を支援する口実でエチオピアに侵攻し、戦争に発展した。
 この当時、エチオピアも後述の通り、マルクス‐レーニン主義に基づく社会主義国家となっていたところ、明らかにソマリア側の侵略に端を発したこの戦争で、ソ連及び東側陣営がエチオピア側支援に回ったために敗北を喫したことに憤慨したバーレ政権は東側から離反し、一転西側に接近、アメリカからの経済・軍事援助すら取り付けたのである。
 このオガデン戦争での敗北は、革命体制を変質させる決定的な契機となった。権力に執着するバーレ大統領は次第に個人崇拝的独裁に進み、恐怖政治の度を強めた。それに伴い、氏族主義が復活し、バーレ自身の所属氏族やその同盟氏族が優遇される体制となり、マルクス‐レーニン主義は形骸と化していった。
 秘密警察機関による弾圧・粛清と腐敗した氏族主義の縁故政治を通じて辛うじて維持されていた長期独裁体制は1980年代以降、反体制運動を刺激・誘発し、80年代末には内戦状態となり、社会が解体する中、90年代初頭に反体制勢力がバーレ体制を最終的に打倒する救国革命に成功するが、この件については改めて後述する。

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近代革命の社会力学(連載第299回)

2021-09-21 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(2)コンゴ革命
 アフリカ諸国革命第二次潮流の先陣を切ったのは東アフリカではなく、中部アフリカから西アフリカにまたがるコンゴ共和国における1968年の革命であるが、厳密には、この革命はその5年前に遡る革命に続く二次革命であった。
 19世紀末の西欧列強によるアフリカ分割の原点とも言えるベルギー領コンゴと人為的な境界線によってまさに分割されたフランス領コンゴは1960年、ベルギー領コンゴ(コンゴ民主共和国)と統一されることなく、コンゴ共和国として独立した。
 そのフルベール・ユールー初代大統領はカトリック聖職者出身(還俗者)という稀有の経歴の持ち主であり、徹底して旧宗主国フランスに寄り添う親仏政策を採り、フランスの援助で国家開発を進めた。しかし、南部の部族を優遇する政策が北部の反発を招いたうえ、63年には一党支配制へ強引に移行しようとしたことがとどめとなり、全般的な民衆蜂起を招いた。
 この1963年8月の民衆蜂起では労働組合が中心的な役割を担ったが、最終的に軍が介入する形でユールー大統領は辞職に追い込まれた。この政変は8月13日からの3日間がクライマックスとなったため、「栄光の3日間」と呼ばれる民衆革命として銘記されている。
 ユール―に代わって政権に就いたのは、ユールー政権の閣僚でもあったアルフォンセ・マサンバ‐デバであった。マサンバ‐デバはマルクス主義の別称でもある「科学的社会主義」を掲げる社会主義者であり、革命翌年の64年に国民革命運動(MNR)の一党支配体制を樹立した。
 この時点でコンゴの体制は革命前の親仏体制から親ソ・親中・親玖[キューバ]の社会主義体制へと大きく転回し、産業国有化などの定番政策が展開された。とはいえ、マサンバ‐デバは本質的に穏健派であり、63年革命以来、発言力を増した軍部内でも親仏保守派が睨みを利かすなど、不安定な情勢にあった。
 そこで、マサンバ‐デバは体制固めのため、キューバの支援で青年層主体の民兵組織を創設したが、皮肉にもこの民兵組織が急進化・増長して政権を脅かすまでになった。他方、軍部内でも急進化した若手将校の中から、マリアン・ングアビ大尉が台頭し、政権を突き上げるようになった。
 ングアビと政権の対立は1968年に入って激化、マサンバ‐デバはングアビの拘束に踏み切るが、これに反発したングアビ支持の将校グループがクーデターを起こしてングアビを救出、返す刀でマサンバ‐デバを辞職に追い込んだ。
 この後、釈放されたングアビは国家革命評議会を樹立し、自ら大統領に就任する。翌年には、マルクス‐レーニン主義を綱領とするコンゴ労働党を結党し、国名もコンゴ人民共和国に改称し、アフリカ初のソ連型マルクス‐レーニン主義国家となった。
 とはいえ、すんなりとソ連型体制が確立されたわけではなかった。にわか仕立ての労働党は一枚岩ではなく、急進的な親中派から名ばかりのマルクス主義派まで分派に分かれており、しばしばクーデター未遂に見舞われて政情不安が収まらず、粛清を繰り返したングアビ政権は恐怖政治の度を増していった。
 経済的には最大の歳入源である石油の国家管理を実現したが、事実上は軍による管理となり、非効率と腐敗が進んだ。ソ連型の計画経済や集団農場も運営に必要な技術に欠け、経済的な混迷が深まった。
 そうした中、1977年にングアビ大統領が暗殺される。その首謀者としてマサンバ‐デバ前大統領が拘束され、処刑されたが、労働党の内部犯行説もあり、真の背後関係は不明である。こうしてングアビ体制は突然の幕切れとなったが、皮肉にも、ングアビ抜きの労働党支配体制はかえって強化され、90年代の複数政党制移行まで続いていく。
 この間、ングアビ暗殺後の混乱を国防相として収拾し、1979年に大統領となったドゥニ・サス‐ンゲソは当初、ングアビ支持の急進派将校と見られながら、現実路線に転換、安定した長期政権の下で市場経済化改革と旧宗主国フランスとの関係改善を続け、90年代の短期的な下野と二度の内戦をはさみながら、現時点でも大統領として労働党政権を率いている。
 このように、1968年革命を契機に結党されたコンゴ労働党がそのイデオロギーや政策を変えながら今日まで生き延びている点は、同時期のアフリカ諸国革命と比較しても特徴的であり、コンゴにおいては革命の効力が持続しているとも言える。

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近代革命の社会力学(連載第298回)

2021-09-20 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(1)概観
 サハラ以南アフリカ諸国における革命の潮流は現在までに都合四回隆起しているが、1950年代末から60年代前半にかけての第一次潮流に対して、それに続く第二次潮流はおおむね1960年代末から1970年半ば過ぎにかけて隆起している。
 この時期はアフリカ諸国の独立から10年程度が経過し、最初期の国造りが一段落した段階である(ただし、独立が70年代まで持ち越されたインド洋の旧フランス領諸島や大陸部の旧ポルトガル領諸国は別)。
 この時期になると、多く独立運動指導者から横滑りした初代大統領らの実力差が明瞭になってくる。中にはすでに強固な終身的支配体制を固めた者もいたが、不安定な政権運営に苦慮し、クーデターで失権した者も少なくない。
 アフリカにおける政変の特徴として、革命よりクーデターが圧倒的に多いということが挙げられるが、こうした傾向の根底には、独立後も根強い部族主義に加え、教育制度の不備ゆえ政治的に成熟した民衆の不在という共通の構造があった。
 反面、最も近代化が進んでいたエリート部門である軍部が政治的に先鋭化していく。特に旧宗主国等への留学経験を持つ若手・中堅の将校、場合によっては曹長・軍曹といった曹級の下士官によるクーデター決起が目立つ。
 そうした中にあって、いくつかのクーデター決起は、社会体制の全般的な変革に踏み込む革命に進展した。革命第二次潮流におけるモードは社会主義、特にマルクス‐レーニン主義が風靡したことも特徴的である。
 世界的にソ連の影響からマルクス‐レーニン主義が革命理論として風靡する中、アフリカでもそれが植民地支配と部族主義を超克する自立的発展に寄与すると信じられた時代である。
 その点、10年ほど先立って社会主義革命の潮流が見られたアラブ諸国において、マルクス‐レーニン主義は南イエメンという例外を除き、ほぼマイナーであり、革命の中心理論とならなかったこととは対照的であった。
 とはいえ、多くの場合、職業的革命家ではなく、思想的に洗練されているとは言い難い若手の軍将校らがマルクス‐レーニン主義を標榜していただけであり、革命政権の実態は軍事政権、言い換えればマルクス‐レーニン主義は軍事政権の隠れ蓑でもあった。
 アフリカ諸国における革命第二次潮流の地政学的な特徴としては、第一次潮流と同様に、少数の例外を除いて、東アフリカ(インド洋の島嶼地域を含む)に集中していることである。
 その要因の解明は困難であるが、西アフリカ諸国は比較的統治しやすい小国が多く、イデオロギーや統治手法に差はあれ、初代大統領による安定した支配体制が敷かれた国が少なくなかったことが想定される。
  また、革命後、反革命クーデターが当時アフリカ各地の紛争で暗躍していた白人傭兵の介在によって侵略的な形でしばしば実行され、その背後に新植民地主義を展開したい旧宗主国や白人至上主義体制を維持するため、周辺同盟国を獲得したい当時の南アフリカがあったと疑われることも特徴である。
 本章で取り上げる諸革命の中でも、1977年ベナン、1978年コモロ、1981年セーシェルにおける反革命クーデター(いずれも未遂)は、そうした事例である。
 ちなみに、コモロでは当初、革命自体も白人傭兵の助力で行われたのであるが、後に反革命派への助力に転じてクーデターを成功に導いた白人傭兵が居座り、事実上の支配層となるという数奇な展開が見られた。
 なお、この時期の革命中、エチオピア革命は古い帝政を擁した独特の歴史の上に展開を見せるので、独立した章で扱う。また西アフリカのギニア‐ビサウ革命は、西欧で最後まで植民地体制に固執したポルトガルからの独立革命という性格を持つので、これも別立てで扱う。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第24回)

2021-09-19 | 南アフリカ憲法照覧

(第四章)国の立法過程

法案全般

第73条

1 いかなる法案も国民議会に発議される。

2 閣僚もしくは副大臣または国民議会議員もしくはその委員会のみが、国民議会に法案を発議することができる。ただし、次の法案については、国家財政問題を担当する閣僚のみが議会に発議することができる。

(a)財政法案

(b)第214条で想定される立法[訳出者注:国家歳入の地方への配分に関する立法]を規定する法案

[第2項は2001年法律第61号第一条a項により改正]

3 第76条で言及された法案については、本条第2項a号またはb号で言及された法案を除いて、全州評議会に発議される。

[第3項は2001年法律第61号第1条b項により改正]

4 全州評議会代議員またはその委員会のみが、評議会に法案を発議することができる。

5 国民議会で可決された法案は、全州評議会によって審議されなければならないときは、評議会に付託される。全州評議会で可決された法案は、国民議会に付託されなければならない。

 本条から第四章最終の第82条までは、立法過程に関する細目的な規定が並ぶ。本条はその総則に当たり、法案の発議を中心とした原則が示されている。予算案を中心とする財政法案と歳入配分法案については財政担当閣僚にのみ発議権が与えられていること、全州評議会は州の代表院であることから、発議権は全州評議会代議員またはその委員会の専権とされていることが特筆される。

憲法修正法案

第74条

1 第1条及び本項は、次の要件によって可決された法案によって修正される。

(a)国民議会における75パーセント以上の議員の賛成、かつ

(b)全州評議会における6州以上の賛成

2 第二章は、次の要件によって可決された法案によって修正される。

(a)国民議会における3分の2以上の議員の賛成、かつ

(b)全州評議会における6州以上の賛成

3 その他の憲法条項は、次の要件によって可決された法案によって修正される。

(a)国民議会における3分の2以上の議員の賛成、かつ

(b)修正内容が以下の場合、全州評議会における6州以上の賛成

 (ⅰ) 評議会に影響を及ぼす問題に関わる場合。

 (ⅱ) 州境、州の権限、機能もしくは制度を変更する場合、または

 (ⅲ) ある州の問題を特別に扱う条項を修正する場合。

4 憲法修正法案は、憲法修正及び修正と結びつく問題以外の条項を含まない。

5 第73条第2項の定めるところにより憲法修正法案が発議される少なくとも30日前に、法案を発議しようとする人または委員会は―

(a)国民議会の規則及び命令に従い、パブリックコメントを得るため、修正提案の明細を官報で公表しなければならない。

(b)国民議会の規則及び命令に従い、その見解を得るため、州議会に提案明細を提出しなければならない。

(c)提案された修正が全州評議会で可決される必要のない修正である場合、全州評議会の規則及び命令に従い、公開討議に供するため、評議会に提案明細を提出しなければならない。

6 憲法修正法案が発議されたときは、その法案を発議している人または委員会は、公衆及び州議会から受け取ったいかなる意見書も、次の者に提出しなければならない。

(a)国民議会に上程するため、その議長

(b)第1項、第2項または第3項b号で言及された修正に関しては、全州評議会に上程するため、その議長

7 憲法修正法案は、次の時点から30日以内は国民議会の投票に付されない。

(a)法案が発議された時に国民議会が開会中であるなら、その発議の時。または

(b)法案が発議された時に国民議会が休会中であるなら、議会に上程された時。

8 第3項b号で言及された法案または当該法案の一部が特定の州もしくは複数の州にのみ関わる場合は、全州評議会は関係する州もしくは複数の州の議会によって承認されない限り、当該法案を可決しない。

9 国民議会、及び該当する場合は全州評議会によって可決された憲法修正法案は、同意を得るため大統領に回付されなければならない。

 本条は、憲法修正法案の可決条件や発議手続きを中心とした規定である。南ア憲法は議会の法律によって修正(改正)が可能な反面、修正内容ごとに要件を細かく設定することで、安易な修正に歯止めをかけている。共和国の政体を定めた第1条と憲法改正要件に関する本条第1項の改正要件が最も厳格で、基本的人権に関する第二章の改正要件がそれに次ぐ。
 また憲法修正法案の発議に際しては、事前にその提案明細を公表し、公衆や州からも意見を聴取することが義務付けられるなど、憲法改正に関する透明性と社会的な論議の機会が保障されていることも特徴である。

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近代革命の社会力学(連載第297回)

2021-09-17 | 〆近代革命の社会力学

四十二 タイ民主化革命

(4)民主化の挫折と半民主化
 タノーム政権が電撃的な民主化革命により瓦解しても、この革命は統一的な革命集団による革命ではなく、自然発生的に高揚した抗議デモに端を発しているため、受け皿となる革命政権が形成されることはなかった。
 革命後、最初の首相には非政治家であるタマサート大学総長サンヤー・タンマサックが任命されたが、これは革命の拠点がまさにタマサート大学にあり、同大学生が中心を担った「学生革命」の特徴をよく表す流れである。
 サンヤー首相は最高裁判所長官を務めたこともある法律家であり、懸案である民主的な新憲法の制定を指導することが主な課題であった。その結果、1974年に新憲法が制定されるが、国王の権限を強化したい王権主義者の介入によって王権が強化され、内閣の半分を非民選の文武官が占めることが可能とされるなど、立憲君主制はむしろ後退した。
 暫定政権の性格の強かったサンヤー政権は1975年に退陣し、その後、与党として民主党が台頭してきた。民主党は1932年立憲革命を担った人民団文官派の流れを汲む政党であり、主として中産階級を支持基盤とするリベラル保守政党である。
 しかし、民主党政権は不安定で、セーニー・プラーモートとその弟で、民主党から分離して社会行動党を結党したククリット・プラーモートの間で政権をたらい回しにする状況が1976年まで続く。
 この間、近隣では1975年のインドシナ三国同時革命(後述)により、カンボジア、ベトナム、ラオスで社会主義政権が一斉に誕生するとともに、タイ共産党も勢力を増し、山岳部少数民族と結びつく形でゲリラ戦争を拡大するなど、不穏な内外情勢が重なった。
 経済的な面でも、民主党政権は石油ショックによる景気低迷に対処できない中、76年に入ると、再び学生運動が刺激され、タイ全国学生センター(NSCT)は民主主義擁護や当時タイ市場を席捲していた日本製品不買などを掲げて、抗議活動を繰り広げた。
 一方で、左派の伸長を警戒する軍部勢力は右派自警団運動に肩入れし、左派との対立を扇動していた。そうした中、76年10月、73年革命後に亡命していたタノーム元首相が帰国したことに抗議する学生集団と右派自警団の衝突に警察が介入し、多数の死者を出した。
 事件の日付10月6日から「血の水曜日事件」と呼ばれる新たな流血事態は、73年の「血の日曜日事件」とは反対に、軍のクーデターを招いた。その結果、民主党政権は倒れ、保守強硬派の元最高裁判事ターニン・クライウィチエンが首相に任命される。
 ターニン政権は民主化を否定し、集会・言論統制や左派の弾圧を強化したため、73年民主化革命は大きく挫折することとなった。この後、77年の再クーデターによる軍事政権をまたいで、80年に就任したプレーム・ティンスーラーノン首相は非民選の軍人ながら、中和された半民主的な安定政権を88年まで維持した。
 その後、1990年代以降になって政党政治が定着するも安定せず、重要な局面で軍部がクーデター介入するタイ政治の力学は今日まで不変であり、73年民主化革命後も民主政治の安定的な定着は実現していない。

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近代革命の社会力学(連載第296回)

2021-09-16 | 〆近代革命の社会力学

四十二 タイ民主化革命

(3)憲法要求運動から革命へ
 タノーム首相による自己クーデターで憲法が停止され、全権委任体制に入ったことは、1932年立憲革命以後における最大級の憲法の危機を意味した。これに対する反作用は、民間からの民主憲法要求運動として発現する。
 1973年10月4日に、民主憲法を要求する百人の抵抗グループ(以下、「百人グループ」)が立ち上げられたが、これは野党政治家や社会運動家、学生活動家、教職員など主として知識中産階級に属する多様なメンバーから成り、立憲体制の回復を目的とする緩やかな非暴力抵抗グループであった。
 しかし、タノーム首相はこうした運動をも敵視し、共産主義者による体制転覆謀議であるとして、10月6日以降、百人グループメンバーの検挙に踏み切った。
 これを契機として、大学生を中心とした抗議行動が拡大し、革命へと展開していくのであるが、その展開過程は急速であり、最終的にタノーム首相の辞職・亡命に至るまでわずか10日余りという短期間に凝集された電撃的な革命であった(そのため、以後の記述中の日付はいずれも10月である)。
 ちなみに、政権側はこの憲法要求運動を当初、共産主義者と結び付けたがったが、実際のところ、運動の参加者は都市部の知識中産階級であり、北部と南部の農村地帯でのゲリラ活動を中心としていた共産党の影響はほとんどなかった。むしろ、一連の抗議行動で台頭したのは、1968年設立のタイ全国学生センター(NSCT)という学生運動体であった。
 にもかかわらず、タノーム政権が憲法要求運動を共産主義者の反乱とみなして弾圧を図ったことは、かえって政権の命脈を縮める結果となった。ピークは10日に、NSCTを中心として市民連合が設立された時である。
 この市民連合は対抗権力と言えるほどに組織されたものではなかったが、以後、政権側に対して、拘束された百人グループメンバーらの釈放を求める交渉団体としての役割を担うとともに、一般市民も加えて自然発生的に拡大した民衆デモの拠点としても機能した。
 その結果、13日には40万乃至50万人というタイ史上空前規模のデモに発展するが、ここに至り、当時の国王ラーマ9世が仲裁役として登場する。国王はすでに約束されていた副首相を中心とする新たな憲法起草委員会の作業日程を明確にさせるとともに、NSCT代表とも会見し、デモの解散を要請した。
 これを受けて、民主化運動はいったん収束したかに見えたが、14日、民主化運動の収束に反対し、デモ行動の継続を求めるNSCTの急進派グループが王宮へ向けたデモ行進を敢行したことに対し、警察と軍がこれを阻止するため出動し、武力行使により多数の学生が死亡した。
 「血の日曜日事件」とも呼ばれるこの出来事は、革命の直接的な動因となった。国王がタノーム政権に事態の収拾を強く求めたことは首相への事実上の辞任要求となり、首相は他の側近閣僚らとともに出国・亡命した。
 こうして、いったんは非暴力の憲法要求運動の線で収束するかに見えた抗議行動が、予期せぬ流血事態の発生により、政権を崩壊させる革命へと急転したのであった。そうした点で、この1973年民主化革命は1932年に続く第二の立憲革命としての意義を持ったと言える。
 ただ、専制君主制を終わらせた第一革命とは異なり、第二革命はファッショ化した軍事独裁体制を終わらせ、かつ、その過程で国王が政治的仲裁者として力学的に大きな作用を示したことは興味深い点である。
 実際、これ以降、ラーマ9世は長きにわたり、政局の緊迫的な節目で仲裁役としての役割をしばしば果たすようになり、政局の如何を問わず君主が完全に名目化された西欧式立憲君主制とは異なるタイ独自の、言わば仲裁型立憲君主制を形作ったのである。

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「承認せず関与」政策:アフガン人道危機

2021-09-15 | 時評

実質上、次の日本首相を決める与党の総裁選挙を目前に控えているが、すでに始まっている「論戦」からはアフガニスタンのアの字も聞こえてこない。否、正確にはかすかに聞こえているが、現地邦人等救出のための自衛隊法改正云々など視野の狭い議論ばかりである。

目下、アフガニスタンで起きているのは、ターリバーンが政権掌握した中、全土で国民の三人に一人が食糧難にあり、厳冬を前に大規模な飢餓が発生する恐れがあると警告されている事態である。これは人道危機である。

誰が次期首相になるにせよ、来月にも発足する新内閣にとっても、この新たな人道危機にどう対処するのかは最初の重要な外交課題の一つとなるはずで、総裁選挙でも重要なテーマに据えるべきものである。

元はと言えば、傀儡政権を見捨てていきなり全軍を引き揚げたアメリカがもたらした惨事だが、用済みとなった傀儡政権や代理政権を見捨てるのは、アメリカの歴史的な常套であり、過去にはまさにアフガニスタンで、旧ソ連と傀儡社会主義政権に抵抗したイスラーム武装勢力を利用しながら、ソ連軍が撤退するとあっさり見捨てたのもアメリカである。

そうした見捨てられた勢力の中から、アメリカに矛先を向き変え、今年で20周年の9.11事件を引き起こしたアル・カーイダのようなテロ戦争組織やターリバーンのような過激復古勢力も培養されてきた。とはいえ、目下、ワクチン義務化政策に夢中のバイデン政権に全責任を押し付けても始まらない。

諸国はターリバーンを警戒し、人道支援も停止しているというが、飢餓で大量死するのを傍観するのは、不作為による殺戮と同じであり、緩慢なジェノサイドである。

一方で人道支援を再開するためにターリバーン政権を承認することは、すでに各地で人権侵害事例が報告され、1996年‐2001年の第一次ターリバーン政権当時と径庭のない抑圧的な体制を認めることになり、ジレンマではある。

臨時政府の樹立を発表しながら、実質的な元首となるはずの宗教指導者も政府首班も姿を現さない異常な状況は、飢えた国民を人質に取って国際承認を得るための無言の戦術なのかどうか不明であるが、彼らなりに何らかの国際社会のレスポンスを求めているのかもしれない。

ターリバーンと価値観を共有できる諸国はごくわずかであるが、このような人道危機に際しては「価値観外交」は失当である。価値観を共有できずとも、「承認しないが関与する」という現実的な対応が求められるだろう。

ちなみに、ターリバーンが女性閣僚を排除したということが特別に問題視されているが、他国を非難できるほど数多くの女性閣僚を擁する諸国は少ない。日本の与党総裁選の女性候補者も、女性閣僚の比率基準は設けないと明言なさった。女性軽視の価値観は共有できるのではないだろうか。


[付記]
国際連合は13日、12億ドル(約1300億円)超の人道支援を決めたが、アフガニスタン国内は極度の通貨不足に陥っているため、米国が凍結したアフガニスタン中央銀行の在外資産約100億ドル(約1兆円)の凍結解除が必要とされる。解除ができないならば、代替として相応の追加支援が必要となる。

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近代革命の社会力学(連載第295回)

2021-09-14 | 〆近代革命の社会力学

四十二 タイ民主化革命

(2)反共ファシズム体制の破綻
 前回も見たように、タイでは、立憲革命の後、人民団武官派の流れを汲む職業軍人の支配体制が確立され、軍部が大きな政治セクターとして台頭することになった。この傾向は、戦前から戦後にかけてタイ政治を主導したピブーンの失権によっても変わることはなかった。
 むしろ、少なくとも外形上は立憲革命で樹立された立憲君主制を擁護していたピブーンに対し、彼を追放した後継者らは、立憲君主制の枠を超えて独裁政治を展開しようとした。その嚆矢がまさにピブーンをクーデターで追放したサリットであったが、サリット亡き後を継いだタノームも同様である。
 サリットが実権を掌握した1958年からタノームが1973年民主化革命で追放されるまでの14年間は一続きの軍事独裁統治の一時代と言ってもよいが、この時代のイデオロギー的な軸は反共主義にあった。
 その点、タイでも1930年結党の共産党が活動していたが、長くマイナー政党であったところ、1952年に当時のピブーン政権は共産主義者取締りの根拠となる反共法を制定し、広汎な定義規定によって、反体制派を包括的に検挙できる弾圧法として整備していた。
 しかし、このような禁圧はかえってタイ共産党をゲリラ活動に走らせることとなり、1960年代を通じてタイ共産党は地方農村部を拠点に勢力を伸ばし、65年以降、反体制武装勢力として人民戦争を挑むようになる。
 外部環境的にも冷戦の本格的な展開が見られた時期であり、タイの軍部勢力は終始、親西側の立ち位置を維持した。特にタノーム政権期、周辺のインドシナ半島ではベトナム戦争(及びカンボジア・ラオスにも及ぶインドシナ包括戦争)が同時進行しており、これにタノーム政権が全面的に反共・米国側で協力したことも、政権長期化の外的要因となった。
 そうした中、タノーム首相は1971年、大きな一歩を踏み出した。この年、首相は事実上の自己クーデターを発動して憲法を停止し、議会を強制解散、政党活動も禁止するという強権行使に出た。そのうえで、翌年には首相に絶対権力を付与する暫定憲法を公布した。
 これはナチスの全権委任法にも似た独裁憲法であり、ここに至って、体制はファシズムの性格を濃厚にした。この暫定憲法では国王の専制こそ認めないが、政府の専制を許容しており、1932年立憲革命の精神も没却されたに等しかった。
 ナチス体制をはじめ、ファシズム体制の長期的な成功要因としては経済政策の成功が大きな要素となるが、タノーム政権にはその要素が欠けていた。1970年代には、いっときブームとなったベトナム戦争特需が終わり、輸入超過による財政赤字の拡大に、基軸農産品である米の国際価格の下落が重なり、不況に陥った。
 タノーム首相による全権委任体制に入った72年になっても状況は改善しないどころか、インフレーションが亢進し、食糧価格の高騰により労働者階級の暮らしが逼迫した。このことは当然にも労働運動を刺激し、ストライキを頻発させることになる。
 これに対し、タノーム政権が愛国的なナショナリズムを煽るため、外資規制や外国人の職業制限などの排他的政策を打ち出し、海外資本やタイ経済の大きな担い手でもあった華僑系資本の規制に乗り出したことは、逆効果となった。
 こうして、タノームの反共ファシズム体制は体制は政治面では体制の強化を導きながら、経済面ではマイナスとなり、下部構造的には破綻に向かっていた。このことは、翻って民主化運動の高揚を刺激し、上部構造の動揺にも作用していくのであった。

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近代革命の社会力学(連載第294回)

2021-09-13 | 〆近代革命の社会力学

四十二 タイ民主化革命

(1)概観
 タイでは1932年立憲革命の後、革命を主導した人民団の武官派が文官派を抑えて支配権を確立し、その中から台頭したプレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)が1938年以降、四年の中断をはさみ、戦後にかけて通算15年にわたり、ファシズムに傾斜した統治を行った。
 しかし、1957年総選挙での不正をめぐり、腹心サリット・タナラット元帥の離反とクーデター決起を招いて失権し、日本へ亡命した。政権を掌握したサリットはいったんは自身の側近であるタノーム・キッティカチョーン将軍に首相を任せ、出国したが、翌年、タノームの要請により帰国して革命評議会を樹立し、1959年には自ら首相に就任する。
 1963年まで続いたサリット政権は当初こそ「革命」を公称したものの、その内実は反共を旗印とした強固な軍事独裁統治であり、反体制派への弾圧と髪型や音楽など社会習俗・文化に至るまでの厳格な全体主義的統制を基調としていた。
 一方で、経済的には、欧米や日本からの借款を基盤にインフラストラクチャーの整備を進めるいわゆる開発独裁の先駆けをなし、戦後タイにおける最初の資本主義的経済成長を主導した。その結果、中産階級の台頭が見られた。
 1963年にサリットが持病の悪化により死去すると、側近のタノームが再び首相に就き、その後73年まで10年にわたり、サリットを継承する軍事独裁統治を行った。このタノーム独裁政権を打倒したのが、ここで取り上げる1973年における民主化革命である。
 この革命はその主体が圧倒的に学生であったため、「学生革命」と呼ばれることもあるが、そうした広い意味での知識青年層による革命という点では、1959年のキューバ社会主義革命以来、1960年代を越えて70年代前半頃にかけて世界で見られた青年層の反乱現象の東南アジアにおける劇的な発現であった。
 特に学生が主体となって時の独裁体制を倒し、独裁者を亡命に追い込んだという経緯の点では、1960年韓国民主化革命と類似しており、なおかつ、革命後、目標の民主政治の長期的な確立に成功せず、ほどなくして軍部のクーデター介入により独裁統治に反転してしまう不幸な結末の点でも類似していた。
 とはいえ、いったんは成功した1973年のタイ民主化革命は、タイにおいて今日まで断続的に続いている軍部を中心とした権威主義的支配層に対する民主化運動の先駆けとなるとともに、東南アジアにおける類似の開発独裁体制に対抗して、80年乃至90年代に遅れて発現した民主化運動/革命の先駆けとなったことも間違いない。

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比較:影の警察国家(連載第47回)

2021-09-12 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

2:市警察と郷土巡視隊

 見てきたように、中央集権性が極めて強いフランスの警察制度であるが、近年は市長が管轄する自治体警察としての市警察(Police Municipale)が増加し、こうした市警察を持つ自治体は3000以上に達し、所属する警察官総数も2万人を超えている状況にある。
 なお、首都パリ市の場合は国家警察の部門としてのパリ警視庁が存在するため、市独自の警察は持ってこなかったが、2021年に、市警察官と同等の権限を持つ保安監視官3000人以上を擁する抑止・保安・警備局(Direction de la Prévention, de la Sécurité et de la Protection:DPSP) が事実上の市警察として創設された。
 こうした市警察は市長の監督下にあるものの、米英の自治体警察のように、完全な権限を備えた自己完結的な警察組織ではなく、国家警察や国家治安軍の管轄権を損なうことなく、防犯や公序良俗、公共安全のために職務を遂行することがその中心任務であり、実際の活動においても、国家警察や国家治安軍と連携することが多く、全体として補完的な警察組織と言える。
 そのため、市警察は非武装警察であり、市警察官は銃器を携行せず、特定の状況下や夜間などに限り、市長の要請に基づき県の許可により武装することが多いが、近年は治安管理の強化策として、日常的に銃器を携行する市警察も増加し、市警察の武装警察化も進んできている。
 一方、農村部では、市長の管轄下に郷土巡視隊(garde champêtre)が組織されている場合もある。この制度の歴史は古く、フランス革命時代の1791年から1958年まで、農村では設置が義務付けられ、言わば農村警察としての役割を果たしてきた。
 その任務は、農村部での治安維持全般であるが、特に農村部特有の森林監督や密猟監視が重要であり、そのため、市警察よりも広範囲な武装が認められた武装警察としての性格を持つ。
 フランスが長く農業国であった時代は郷土巡視隊が実質的な自治体警察として機能してきたが、1960年代以降、都市化の進展により減少していき、要員数も全国で千人未満まで減少している。
 こうした市警察及び郷土巡視隊に関しては、2014年にこれらを新たな地方警察組織に統合・再編する立法提案もなされており、将来的には統廃合される可能性があるが、そうなると、二つの国家警察組織に加え、地方警察という二段構えの警察国家化が進展する可能性もあるだろう。

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近代革命の社会力学(連載第293回)

2021-09-10 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(4)独立の達成と混迷
 1971年3月26日に始まったバングラデシュ独立戦争はパキスタン軍と東パキスタン側の独立反対組織双方による凄惨なジェノサイドを伴った。年末まで続いた戦争の過程での犠牲者数は、バングラデシュ政府の公式見解では300万人とされるが、より低く見積もる推計によっても20万人は下らないというから、まさに大虐殺のレベルであった。
 このような民族浄化戦争の様相を呈したのは、パキスタン軍とその協力組織が東パキスタンのヒンドゥー教徒のベンガル人の絶滅を計画的に企てたためと見られる。実際のところ、東パキスタンのベンガル人のうちヒンドゥー教徒は少数派であるが、パキスタンはインドとの敵対関係から、インドのヒンドゥー教の影響が東パキスタンに及んでいると睨んでいた。
 しかし、それ以外にも、宗派を問わず、独立革命にイデオロギー的な鼓舞をしているとみなされた知識人は虐殺の標的とされたほか、女性に対する組織的な性暴力も見られるなど、バングラデシュ独立戦争におけるジェノサイドは民族浄化作戦の典型を示していた。
 パキスタンが独立運動の背後関係を疑っていたインドは当初、直接の介入を避け、国際社会の支援介入を要請していたが、色よい反応は得られず、一方で国境を接する東パキスタン側から大量の難民が押し寄せる状況を黙視できず、71年12月、直接的な支援介入の軍事作戦を開始した。
 このインドの参戦はインド‐パキスタン間での三度目の武力紛争となったが、優勢なインド軍の介入により、それまで徹底した民族浄化作戦を通じて優位に立っていたパキスタン軍がにわかに劣勢となり、12月16日、パキスタン側は正式に降伏を宣言した。これによって、9か月近くに及んだ戦争が終結し、東パキスタンはバングラデシュとして独立を果たしたのである。
 独立後の初代大統領には、臨時政府の大統領に就きながら戦争中はパキスタンの獄中にあった人民連盟のムジブル・ラーマンが帰還して就任したが。しかし、彼はすぐに辞任し、首相として「民族主義・世俗主義・民主主義・社会主義」を基調とする新憲法の制定を主導、73年の独立後最初の総選挙で人民連盟を圧勝に導いた。
 しかし、74年には大規模な飢饉に見舞われ、政治的にも急進化した左派の反乱など、政情不安を制御できなかったため、ラーマンは1975年1月に改めて大統領に就任して戒厳令を布告、人民連盟以外の政党を禁止するという権力集中体制を敷いた。
 しかし、以前からの政治腐敗や縁故主義への批判に加え、革命当初に逆行するような権力集中体制は反発を呼び、体制内からムジブル・ラーマンを排除する新たな革命の芽が生じてきた。それが形を取って現れたのが、75年8月のクーデターであった。中心となったのは、独立抵抗組織を基盤に結成されたばかりの軍部の少壮将校と一部の文民であった。
 彼らは事前の計画に従い、1975年8月15日、首都ダッカにて、ムジブル・ラーマンとその家族を暗殺した後、計画者の一人である文民のカンデカル・モシュタク・アーメッド前商務相が大統領の座に就いた。
 これは形式上クーデターであるが、独立革命の指導者でもあったムジブル・ラーマンの排除と体制転換を狙った点で、二次革命と言える実質を持っていた。しかし、アーメッド政権も安定せず、同年11月には新たなクーデターにより失権、その後も二転三転の混迷状況に陥る。
 ようやく安定を見たのは、独立戦争の英雄でもあったジアウル・ラーマン将軍が政権を掌握した1976年以降のことである。彼は人民連盟に代わるバングラデシュ民族主義党を結党し、保守的かつ権威主義的な統治で政情を安定させたが、彼も1981年に暗殺され、翌年以降、クーデターで政権を掌握した側近のフセイン・モハンマド・エルシャド将軍の独裁政治が続く。
 このように、バングラデシュでは独立後、民主政を確立することに失敗し、軍部の政治介入が頻繁に起こる傾向を生じた。文民政治が定着するのは、1990年に民主化運動によりエルシャドが辞職に追い込まれて以降のことである。
 これ以降は独立革命の範疇を超え出るので本稿の論外となるが、民主化が進んだ90年代以降のバングラデシュは、75年の暗殺を免れたムジブル・ラーマン遺子(長女)のシェイク・ハシナとジアウル・ラーマン未亡人のカレダ・ジアという二人の遺族女性政治家が二大政党の指導者として勢力争いを繰り広げるという異色の女性政治の時代となる。

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