四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ
(6)コモロ革命
インド洋の東アフリカ包摂圏では、1970年代、マダガスカルに続き、周辺の小さな島国にも社会主義革命が及んでいるが、その一つは歴史的にマダガスカルとも関係の深いコモロにおける1975年の革命である。
コモロ諸島は17世紀頃までにイスラーム系の小首長国が主要な四島に散在する社会編制が形成され、統一的な王国は樹立されることはないまま、19世紀に順次フランスの保護領という形でフランス植民地となった。
小さな諸島ゆえに独立機運はなかなか訪れなかったが、1974年の住民投票では四島中三島で独立が支持され、翌75年7月、各島ごとの住民投票を求めるフランス側の要求を振り切って、唯一独立に反対したマヨット島を除く三島のみで独立を敢行した。
初代大統領には、独立前の自治政府の要職を歴任してきたベテラン政治家アーメド・アブダラが就任することになったが、各々自治の気風を持つ三島間の対立関係が止揚されないままでの見切り発車であった。
そうした空隙をついて、おそらく以前から革命を準備していたと見られる社会主義者のアリ・ソイリが独立から1か月も経過しない75年8月に決起し、アブダラ政権を打倒する電撃的な革命に成功した。
ソイリは元来マダガスカルの出身で、農学と開発経済学の専門家として60年代にコモロに入り、そのまま定住した人物である。彼は1970年から2年間自治政府首班を務めたサイード・イブラヒムの側近として台頭し、自治政府閣僚も経験した。
そうしたバックグランドの人物がいつどのようにして急進的社会主義者となったかは不明であるが、革命後、権力を掌握したソイリは毛沢東主義とイスラーム思想を融合させるイデオロギーを通じてコモロの統合と近代化を図ろうとした。
その政治的なマシンとして統一国民戦線を組織していたが、手勢となる武力を持たなかったため、アフリカ各地の紛争で暗躍していたフランス人白人傭兵ボブ・デナールと彼の私兵集団を雇い入れるという安易な便法によって革命に成功したことが、後々自身の命脈を縮める結果となる。
ともあれ、白人傭兵集団の力で小さな島国での革命に成功したソイリは、76年に大統領に就任すると、上掲イデオロギーに沿った革命政策を推進していくが、ソマリア革命におけるマルクス‐レーニン主義とイスラーム思想の融合と同様、毛沢東主義とイスラーム思想の融合という水と油の化合は成功せず、むしろイスラーム的な社会慣習の撤廃が強力に進められた。
そのために、伝統的な権威である長老を排斥し、青少年を極端に優遇する政策が施行され、大麻を解禁し、選挙権を14歳まで引き下げるとともに、未成年者を要職に据えるといった奇策も採用した。そのうえ、ソイリは中国の文化大革命をコモロに導入することを企て、紅衛兵をモデルとした10代主体の民兵組織を創設、タンザニアによる軍事訓練を施した。
15歳の少年が司令官を務めるこの民兵組織は反革命分子や反革命的な集落を弾圧する一種の政治警察として機能するようになり、ソイリ時代のコモロはまさしくコモロ版文化大革命のような様相を呈するに至った。
その他、フランス統治時代に構築された行政機構の縮減・解体などの急進的な政策も、正常な行政機能を麻痺させる結果となり、早くも反革命運動を刺激したため、たびたびクーデター未遂事件に見舞われ、政情不安が収まることはなかった。
そうした状況を見た亡命中のアブダラ前大統領は権力奪回のため、ソイリが雇ったデナールに接近、今度は自身の反革命クーデターへの支援契約を結ぶことに成功した。その結果、1978年5月、デナール率いる白人傭兵集団がクーデターを起こし、少年民兵組織以外に武力を持たないソイリ政権を短時間で打倒、ソイリは殺害された。
こうしてコモロ社会主義革命は3年足らずで悲惨な結末を迎え、アブダラ政権が復旧、革命政策はすべて撤回され、イスラーム化政策が推進されるとともに、保守系の一党支配を通じたアブダラの長期政権が構築された。
しかし、アブダラがソイリにならって白人傭兵に依存したことは高い代償をもたらし、以後、大統領警護隊長として居座ったデナールが大統領をしのぐ最高実力者となり、大地主としてコモロ経済をも支配するという不正常な状態が80年代末まで続いていく。
その後の情勢はもはや革命の範疇外であるが、1989年にデナール追放を決意したアブダラ大統領は返り討ちにあって殺害されたが、フランスと南アフリカの協力を得たモハメド・ジョハル最高裁判所長官がデナール一味を追放し、ひとまず正常化を果たした。*ただし、デナールはジョハルによるクーデターを主張、フランス本国での裁判でもアブダラ殺害に関しては証拠不十分で無罪となった。