ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

人類史概略(連載最終回)

2013-11-28 | 〆人類史之概略

第8章 電気革命以後(続き)

不均等発展のゆくえ
 19世紀末に始まる電気革命は、人類の生産様式のみか、生活様式そのものを根底から変革したと言ってよい。電気が、現生人類の生活様式の物質的基礎となった。電気革命とともにあった20世紀は、おそらくそれ以前のどの世紀よりも、世界を劇的に急変させた。  
 とはいえ、最初の電気革命から100年以上を経た現在でも、電気と無縁の生活者は全世界に14億人存在するとされる。ましてコンピュータと無縁の生活者となれば、いわゆる先進諸国民をも含めて、それをはるかに上回るだろう。というように、電気革命の成果は全世界にあまねく行き渡っているわけではない。
 元来、人類史は先史時代を含めて不均等に発展してきたが、電気革命以後はそうした不均等がいっそう拡大したのである。実際、24時間イルミネーションに彩られた大都市があるかと思えば、いまだ文明世界と接触を断ったままの未接触部族の密林集落も存在している。
 要するに、現生人類ご自慢の「文明」そのものが、決して地球全域で普遍的なものとはなっていない・・・。他方で、電気と石油の結合以来の生産活動の飛躍的拡大は、人類出現以前から周期的に生じていた地球温暖化の人為的要因の比重をかつてないほど高め、地球環境の持続可能性にも黄信号をともすに至っている。
 そういう岐路に立つ人類史は今後どんな方向に向かうのであろうか。考えられる三通りのシナリオがある。
 一つは、このまま永続的に電気革命の道を歩み、まさに全世界を電化するというもの。このシナリオは、20世紀末以降、資本主義がグローバルに拡散していく中、世界の資本家・経営者とそのパトロン政治家たちの支持するところである。
 このシナリオによれば、いずれ地球は昼夜を問わず電気のともった不夜城の惑星となるだろう。しかし、それは地球環境の持続可能性をいっそう危殆化させることになる。
 もう一つのシナリオは電気を捨て、電気革命以前へ立ち戻るというもの。このシナリオは、電化大国の米国内で、しかも実用コンピュータ発祥地ペンシルベニアを中心に、電気を使用しない生活を営むドイツ‐スイス系のキリスト教少数宗派アーミシュの人々がすでに実践している。
 しかし、このようなアーミシュ的生活様式を普遍化するのは無理であろう。人類は、総体としてはもはや電気革命以前に後戻りすることができない地点まで来てしまっているからである。
 三つめのシナリオは、電気革命の成果を環境的持続可能性の枠内で維持していくというもの。このシナリオは今日、世界の最も良識ある各界の人々によって提唱されているところである。
 しかし、実現の道は険しい。そもそも電気の大量消費に支えられた資本制生産様式がこのような中庸の道を容易に許すとは考えられないからである。生産様式の変革なくしては、このシナリオは結局のところ、第一のシナリオに併呑されていくだろう。
 いずれにせよ、現生人類20万年に及ぶ前半史において、現在一つの大きな分かれ道にさしかかろうとしていることは、確かなことである。(連載終了)

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人類史概略(連載第19回)

2013-11-27 | 〆人類史之概略

第8章 電気革命以後(続き)

電動機から電算機へ
 19世紀に始まる電気革命を大きく二期に分ければ、発電機・電動機の発明を中心とした「第一次電気革命」に対し、20世紀半ばにおける電算機の発明を「第二次電気革命」と位置づけることができる。
 第一次電気革命の主役はドイツ・米国であったが、第二次電気革命の主役は圧倒的に米国である。従って、これ以降の用具革命はほとんど常に米国が主導していく。
 最初の機械式電算機はあまり知られていないドイツ人発明家ツーゼが1938年に開発したが、より完全な最初の電算機は1946年、米国のペンシルベニア大学が開発した。これを機に、1950年には初の業務用電算機が開発され、その後も米国系企業による電算機の改良的開発が続発していく。その結果は、周知のとおりの「情報社会」の到来であった。
 発達した電算機はもはや単なる計算機ではなく、人間の脳に代行して様々な業務をこなす半有機的な頭脳機械であり、いわゆるコンピュータを「電算機」と訳すのは誤りとは言わないまでも、不正確となりつつある。おそらく中国語訳の「電脳」のほうが実態に沿うかもしれない。
 こうした電算機の発明に始まる第二次電気革命は、工業のみならず、商業のあり方をも変革し、商取引と付随業務のコンピュータ処理・オンライン化が進展し、国境を越えた敏速な取引決済が実現するようになった。
 さらに第二次電気革命の余波としてのインターネットの全世界的普及―別個の「第三次電気革命」と位置づけることもできなくない―は、世界中のコンピュータをネットワーク化することにより、20世紀末に起きた資本主義革命の世界輸出を可能とし、地球全体を資本主義一色に染める勢いを示している。いわゆる「グローバル化」とは、そうした電気革命以後における資本主義の地球規模化を示す標語である。
 グローバル化された資本主義においては、物より情報の流通が先行するから、工業と商業の区別も曖昧となり、資本を媒介する情報産業が投資銀行と並ぶ主役となる。 
 第二次電気革命はまた、労働世界にも重大な変化をもたらした。すでに18世紀の機械革命によって機械が人間の労働者に取って代えられる事態は始まっており、有名なラッダイト運動はそうした労働者の危機感を背景とした打ちこわし運動であった。
 電気革命は工場のオートメーション化、商業オフィスのオンライン化の波を作り出し、当然にも労働者の削減を結果している。今後さらにコンピュータの性能が高度化し、コンピュータのロボット化が進めば、人間の作業の大半をロボット=コンピュータが代行することも考えられる。
 そうなると、人間の労働者はいよいよ削減される。資本主義の代名詞であった賃労働が例外的なものとなる可能性もあるのだ。そうなると、人類史は言わばロボ・キャピタリズムの時代に入ることになるだろう。 

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人類史概略(連載第18回)

2013-11-26 | 〆人類史之概略

第8章 電気革命以後

電気革命と高度資本制
 18世紀に突破口が開かれた機械革命は、次の19世紀に入ってもなお途切れることなく、今日まで連続革命的に継起しているが、19世紀における画期は電気の普及であった。
 電気という物理現象自体は古代から気づかれていたと言われるが、これを単なる物理現象としてではなく、産業的な動力源として実用化し得るようになったのは、19世紀も末以降のことである。
 18世紀機械革命の象徴として登場した蒸気機関は動力源として画期的であったが、エネルギー効率の点ではいまだ後進的であった。これに対して、電気を動力源とすることはエネルギー効率を高め、生産活動をいっそう大量化・高度化する契機となったし、市民の日常生活をも大きく変革していくのである。
 電気革命初期の20世紀初頭にロシア革命を指導したレーニンは「共産主義とは、ソヴィエトプラス電化である」という言葉を残したが、これをもじれば「資本主義とは、マネープラス電化である」と定義づけすることもできるだろう。
 こうして発電機が発明されたことを契機に電気の実用が始まって以降の用具革命のプロセス全体を「電気革命」と規定することができるが、現時点の人類もそうした「電気革命以後」の時代を生きていると言える。
 電気革命は同時に、新たなエネルギー革命を伴っていた。すなわち石炭から石油への転換である。電気と石油が結ばれたことで、生産活動は量的にも質的にも飛躍していく。
 この間、用具革命の主役にも入れ替わりがあった。18世紀機械革命の主役は何と言っても英国であったが、続く電気革命の主役は英国からドイツ・米国に移っていくのである。
 電気革命においても、最初のきっかけは発電機を発明したファラデーのような英国人が作っているが、実業家としても大資本ジーメンス社の創業者として成功を収めるドイツ人発明家ジーメンスや米国の発明王エジソンが出た頃から、電気工学分野の主要な発明はドイツや米国で打ち出されていくようになる。
 その理由を確定するのは難題であるが、ドイツや米国はいずれも後発資本主義国として、英国に追いつき、追い越すことを目標として驀進していく中で、新たに登場した電気技術の開発を基軸的に追求していったことが考えられる。
 こうして19世紀末から世紀をまたいで20世紀初頭にかけての電気技術の発達は、工場の自動化を推進する大きな力となり、より効率的で集約的な大工業を可能とし、工業に基盤を置いた資本制の高度化を促進する。米国やドイツには、大規模な独占・寡占企業体が出現し、英国型の国家に後援された個人資本家の資本主義を凌ぐ今日的な法人資本主義の先駆けとなっていった。
 他方、20世紀に入ると、ロシア→ソ連をはじめ、資本主義に反発して、社会主義体制を標榜する諸国が現れたが、それは土地私有制を否定し、国家に産業労働の主導権を与えた限りで(国家社会主義)、東洋的な公地公民制の近代的な再現に近い側面があった。しかし、この体制は結果として、言わば国家が独占資本家に比定される国家資本主義に収斂していった。

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脱パワーゲーム

2013-11-23 | 時評

特定秘密(国家機密)保護法案の与野党修正協議が大詰めを迎える中、法案への全面反対運動も起きているが、政府が弁明するように、こうした法制を持つこと自体は世界の主要国の慣わしとなっている。

世界の主要国とはつまり軍事力で担保された国際パワーゲームの参加者であり、国家機密保持とはちょうどトランプで、自分の手持ちカードは見せないというゲームのルールのようなものである。その際、表現の自由云々といった「正論」は棚上げとなる。

かつては秘密外交がむしろ常識であり、公式条約でさえ秘密にされた時代もあったが、第一次世界大戦後、少なくとも表向きは秘密外交の排除が提起され、秘密条約は認められなくなった。

それでも、公式の条約化を回避する形での秘密外交は依然として廃絶されず、程度の差はあれパワーゲームの手段として世界中で行われており、そうした非公式の秘密外交を担保するための機密保護法制も、機密指定・解除の方法等に技術的な違いはあれ、珍しくない。

これまで戦後日本がこうした法制を持たずにきたのも、政府が表現の自由の保護に特別熱心であったためではなく、従来は米国の外交的・軍事的庇護下にあって国際パワーゲームの主役の地位になかっただけのことである。戦前、日本もパワーゲームの主役だった頃には、最高刑を死刑とする「軍機保護法」のような苛烈な機密保護法制を備えていたのである。

今になって「同盟国(米国)との情報共有」という名目で機密保護法制を再び備えようとしているのは、21世紀に入って米国の覇権が揺らぐ中、ある意味では米国が日本にも一定の「自立」を求めてきている証左とも言える。その限りで、米国の承認の下、日本も再び国際パワーゲームの準主役級に昇格させてもらえる状況にあるわけである。

国際政治外交の本質が諸国家間における自国の国益確保・拡大を目的とした影響力を巡るパワーゲームである間は、秘密外交の現実は変わらないだろう。

そうした現実を変革し、「脱パワーゲーム」の恒久平和を展望することは、「理想主義」として一笑に付される。世界各国の支配層・主流国民は「現実主義」という名の思考停止にどっぷりと浸っているからである。

たしかに、理想を現実のものとするには、国家という枠組みに拠って人類が地球上に分散・対峙するという当面の体制そのものを変革するという大仕事が必要になるだろう。

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戦後日本史(連載最終回)

2013-11-19 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

結論

 2009年9月の政権交代により、ある種の熱狂の中でスタートした民主党政権は、三代目野田内閣の下、消費増税策をめぐる内紛から反増税派の小沢一郎とその支持グループが集団離党するなど分裂・迷走の末、12年12月の解散・総選挙の結果、わずか57議席にとどまる壊滅的大敗を喫し、幕を閉じた。代わって、野党・自民党が前回総選挙とは正反対の地滑り的圧勝を収め、政権に返り咲いたのだった。
 政権の主は、再び安倍晋三である。この第二回安倍政権は1年で挫折した第一回政権の反省を踏まえてか、かつての愛国主義的なスローガンは封印し、長期不況からの脱却を目指す経済対策プログラムを前面に打ち出してきた。
 とはいえ、第二回安倍政権が第一次政権時よりも穏健化したわけではない。それどころか、民主党が壊滅し、日本維新の会も伸び悩んだ中、戦後史上例を見ないほどに野党が断片化し、与野党格差が広がった状況下、13年7月の参院選でも圧勝して衆参両院を制した安倍政権は巨大化した連立与党の力をもって、改憲という悲願達成へ向けて動き出そうとしている。
 さしあたりは、国家安全保障・機密保護に関する政府権力を強化して下準備を着々と進めているところである。またNHK経営委員人事に対する政府の影響力を強め、公共放送を通じたイデオロギー宣伝に乗り出そうとしているのも、そうした準備工作の一環とみなし得る。
 一方で、第一回安倍政権時には十分に展開できなかった新自由主義的な経済政策に関しては、戦後改革の重要な産物の一つである労働法制の抜本的な規制緩和―労働ビッグバン―を改めて目指しており、言わば小泉政権時の第二次新自由主義「改革」に引き続く第三次新自由主義「改革」を断行する構えを見せている。
 第一回安倍政権当時の包括的スローガンは「戦後レジームからの脱却」であったが、これは今まさに権力基盤を大幅に強化して再生した第二回政権の下、本格的に実施に移されようとしているのである。これを本連載のキーワードで表現し直せば、「逆走」のゴールへ向けたラストスパートということになろう。
 こうして3年3か月間の中だるみを経て再開された「逆走」の急流は、以前にも増して急ピッチとなることは間違いない。この激流を阻止し得るだけの力量を備えた勢力は、少なくとも議会内には存在しないと言ってよい。今や、日本の政党地図は共産党を含めて「総保守化」してしまっているからである。
 もっとも、共産党は12年12月総選挙で議席を伸ばし、一定の党勢回復傾向を示したが、これは民主党とともに壊滅した社民党支持票を吸収する形で、一定の積み増しがあったからにすぎない。その党名にもかかわらず、日本共産党の現行路線は実質上社会民主主義であって、これは本来の革命的な共産主義の理念からすると資本主義的後退・保守化を示しているのである。
 一方、12年に結党されたばかりの反原発派環境政党・緑の党も13年の参院選で初めて立候補者を立てたが、一人も当選者を出すことはできなかった。選挙戦略上の不備もあったとはいえ、あれほどの原発大事故も、緑の党に議席をもたらす追い風とはならなかった。
 こうして「赤」も「緑」も対抗力を持つことができない現在、1950年を起点とする「逆走」は半世紀以上をかけてゴールに達しようとしているのである。最終ゴールはまだ視界にはっきりととらえられているわけではないが、行く手にうっすらと浮かび上がって見えるのは、議会制の枠組みを伴いつつ、ファッショ的色彩を帯びた管理主義的かつ選別・淘汰主義的な国家社会体制である。(連載終了)

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戦後日本史(連載第29回)

2013-11-18 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔三〕ファシズムの予兆

 民主党政権の3年3か月間で「逆走」の流れは中断こそしなかったものの中だるみを来たす中、底流では「逆走」のマグマが鬱積していた。
 自民党はかつての革新系社会党に代わって中道保守系民主党がライバルに浮上して以来、従来よりもいっそう右に軸足を移し、右派政党としての性格を強めてきたが、2009年総選挙での大敗は、この傾向を決定的にした。
 実際、大敗の中でも「生き残り」を果たした議員の多くは党内右派の有力者たちであったから、大敗・下野による党のダウンサイジングは、かえって自民党を右派政党として再構築する機会となった。
 とはいえ、大敗・下野の影響は大きく、09年総選挙の前後には相当数の脱党者を出した。そうした面々の受け皿となった派生政党の中には、「みんなの党」のように明白に新自由主義を志向する小泉「改革」の忠実な継承勢力のようなものも見られた一方で、自民党よりもさらに右に出る極右政党も現れた。
 その一つは、元来自民党内最右派に属した石原慎太郎東京都知事(当時)を精神的指導者とする「太陽の党(旧称・たちあがれ日本)」であり、ここには石原をはじめとする国家主義・国粋主義的傾向のベテランらが結集した。
 他方において、当初は自民・公明両党の支持を背景に大阪府知事に当選したタレント弁護士の橋下徹を中心に、大阪を地盤とする地域政党としてスタートした「日本維新の会」(以下、「維新の会」と略す)のような新しいタイプの極右政党も出現した。
 維新の会は経済的には新自由主義傾向を、政治的には国家主義傾向を示す―その限りでは小泉政権をいっそう極端化したような性格を持つ―混合的な要素から明確な性格付けの難しい政党であるが、地方政治の面ではいわゆる道州制・「大阪都」構想を掲げ、知事に教育分野にも踏み込む強大な権限を付与してトップダウンの権威主義的な執行権独裁を志向する点や大衆扇動的な政治宣伝を駆使する点で、ファシズムの傾向を濃厚に持つ。 
 同党はまず大阪で旋風を巻き起こし、瞬く間に大阪府/市の地方政治を掌握し、民主党政権が行き詰まりの度を深める中、全国的にも「第三極」としての期待を集めるようになった。
 しかし維新の会は民主党政権が揺らぐ中で近づく総選挙をにらみ、自前の全国組織化ではなく、前出太陽の党と合併する道を選択したが、これは同党が来たる総選挙で伸び悩む要因となる党略上の失敗であった。
 たしかに両党の橋下・石原両指導者は国家主義的な価値観と権威主義的な政治手法を共有していたが、世代的には親子ほども離れ、橋下が新自由主義的な国家の再構築に傾斜するのに対し、石原は旧来の国粋主義に近いというイデオロギー的な齟齬が当初から認められた。
 結局、この合併は維新の会を手っ取り早く全国政党化するには役立ったが、同党の「新しさ」のイメージを損なう結果ともなったのだった。
 ともあれ、こうした極右政党の台頭とそれにも触発された自民党の右派純化路線は、政党全体の座標軸を大きく右へ動かし、ファシズムの到来を予期させるような状況を作り出した。
 ここで予期される新時代のファシズム―ネオ・ファシズム―とは、戦前の旧ファシズムとは異なり、議会政治に適応化しつつ市場経済原理を取り込み、新自由主義とも親和的であるが、本質的には旧ファシズムの系譜を引く差別・淘汰思想を蔵した国家主義的・国粋主義的な潮流である。
 維新の会はそうしたネオ・ファシスト政党の先取り的な存在であり、日本政治の今後の動向次第では本格的なネオ・ファシスト政党として改めて躍進する可能性も―分裂の可能性とともに―残されている。
 あるいはまた、民主党が外国人地方参政権の解禁に積極であることに対する反発から顕在化してきた在日韓国人排撃運動のような外国人・少数民族排斥を精神的な基盤とする別筋のネオ・ファシスト政党の出現なども可能性として想定できるような情勢が作り出されているのである。

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人類史概略(連載第17回)

2013-11-13 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

資本制の発達
 資本制が最も早くから発達したのはイタリアとされるが、その最も早い完成者はやはり英国であった。その推進力となったのは、18世紀機械革命とその下での工場制度の発達である。
 機械を配備する工場を基盤とした機械制工業は生産財と人材とを集約化した生産体制を備え、それは伝統的手工業の場であった職人工房の非能率を克服し、大量生産への道を開いた。こうして、資本制は新しい工業の発達を物質的な土台として完成される。
 このように資本制の土台に工業が存することは、今日的な「情報資本主義」の時代にあっても不変である。一見抽象的に見える情報産業も一つの「工業」であり、その根底には18世紀以来の機械革命の基礎があるからである。その意味で、しばしば聞かれる「脱工業化」という時代認識はいささか表層的である。
 とはいえ、工業だけで資本制が成り立つわけではなく、商業の飛躍的な発展も重要な要素である。それは交通機関の発達によってもたらされた。さしあたりは19世紀初頭にやはり英国で相次いだ蒸気船、蒸気機関車の発明である。これ以降、海運・陸運の時間が急速に短縮化され、物と人の移動が活発になる。かくして、資本制とは工業的土台の上に築かれ直された商業とも言える。
 資本制はまた、賃労働者という新しい階層を生み出した。賃労働者とは法的には自由民でありながら隷従的であるというアンビバレントな存在であって、ある立場から言えば「賃金奴隷」(賃奴)ということになるが、中世の農奴が真の「奴隷」ではなかったのと同様、賃労働者も真の「奴隷」ではない。
 しかし「自由な隷民」という農奴以上にアンビバレントな賃労働者の特殊性は法と現実の容易に埋め難いギャップを生じさせ、賃労働者を保護する労働法がザル法となりやすい原因を成している。
 とはいえ、表向きは労働法によって「保護」された自由な隷民である賃労働者を大量的に使用することで成り立つ資本制とは、おそらく人類史上最も洗練された形態の隷民制であり、こうした資本制を自国の基軸的な経済体制として構築し得た国家は、最も近代的な隷民制国家と言えるであろう。
 このような近代隷民制国家はやがて帝国主義へと赴く。この場合も、英国―大英帝国―が最初の範例を示したのであるが、ここでの帝国はもはやかつてのローマ帝国が体現したような古代帝国とは異なり、自由貿易の御旗の下、資本投下先として海外侵略・植民地化を企てる帝国であり、その本質は経済帝国であった。
 ただ、近代帝国もローマ帝国のような古代帝国の基盤であった軍事力という物質的土台を欠いていたわけではない。それどころか、18世紀機械革命は兵器の革新の契機ともなり、大英帝国軍は当時世界最新鋭の軍隊として、まさに七つの海を支配するうえでの強力すぎる武器となったのである。

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人類史概略(連載第16回)

2013-11-12 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

機械革命の18世紀
 18世紀は人類史にとって大きな画期であった。その大きさは紀元後最大規模と言ってよいかもしれない。すなわち18世紀、とりわけその後半期は機械革命―それは紀元前の金属器の発明に次ぐ用具史上の大革命であった―の時代であって、これ以降、現在に至るまで用具革命が連続的に継起し、技術革新の進歩自体が加速化していく契機ともなった。
 18世紀以前にも中東などでは中世から機織を効率化する糸車のような簡単な仕掛けの手動「器械」は発明されていたが、それらは生産様式自体を変革するほどに生産活動の効率化には寄与しない用具であった。生産様式をも一変させるほど効率化に寄与するより複雑な機械の発明は18世紀の西欧、それも特に英国に集中的に現れた。
 なぜ英国かと言えば、それはイタリアに発祥したルネサンスの集大成とも言うべき17世紀科学革命の中心地が英国であったことと関連があるだろう。すなわちフックやニュートンらを生んだ前世紀の科学革命が、18世紀機械革命の知的土台となったのである。中でも二大発明と言えるのは、蒸気機関と紡績機―両者が結びついて蒸気力績機となる―であった。
 蒸気機関はいち早く18世紀初頭にニューコメンが初めて本格的に開発したが、同世紀後半にはワットがより効率的かつ実用的な蒸気機関を開発した。蒸気機関はエネルギーを機械的な仕事に変換する本格的な原動機の嚆矢となり、大規模な生産活動に要するエネルギー供給に寄与した。
 蒸気機関はまた次の世紀に入ると、船舶や鉄道といった交通機関の動力源として応用化され、古代以来の商業活動にとってアキレス腱であった流通の速度を飛躍的に高め、商取引の敏速と貿易の拡大とに寄与した。
 一方、紡績機は古くからの糸車に代わり、18世紀後半にはより効率的な紡績機が次々と開発・改良され、最終的に蒸気機関を動力源とするカートライトの自動織機(力織機)につながり、いわゆる産業革命の主要舞台となる紡績業の進歩を促進した。 
 また鉄器に関しても、18世紀にはこれまた英国で石炭を使用するコークス製鉄法が開発され、鉄の大量生産に道が開かれるが、それは各種機械製品の登場ともマッチしていた。そのことは当然にもエネルギー源としての石炭の需要を高め、従来の木炭から石炭へのエネルギー革命を結果した。
 こうした18世紀の機械革命は、職人工房が担った伝統的な工業活動のあり方を変え、未熟練労働力を集約し、同一規格品の機械的量産を可能とする工場制度という全く新しい生産様式を生み出したのだった。 

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戦後日本史(連載第28回)

2013-11-06 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔二〕「逆走」の中だるみ

 民主党政権最初の首相に就いたのは、鳩山由紀夫であった。鳩山は55年体制最初の自民党首相となった鳩山一郎の孫に当たり、自民党議員を経て、新党さきがけ時代の同僚・管直人とともに民主党の共同創立者となった。
 ここで、安倍‐福田‐麻生‐鳩山と、政権交代をまたいで四代続けて父もしくは祖父が首相経験者という首相を輩出したのは、日本史と言わず、世界史上も異例―というより異常―であり、日本の戦後政治が議会制民主主義の衣を纏いつつ、議員職が特定の名望家系に世襲化されるブルジョワ寡頭政に近づいてきたことを示している。
 それはともかく、鳩山内閣は社民党を連立に引き込んだ関係上、一定のリベラル左派色を帯びていたが、このことが命取りとなる。鳩山内閣は沖縄の普天間基地移設問題をめぐり、自民党政権時代の日米合意で辺野古への移設が決まっていたのを覆し、県外移設の方針を打ち出したが、これは沖縄で一定の影響力を保持する社民党の主張に引きずられたに等しかった。
 当然にも米国政府及び外務省は強く反発し、外交交渉は難航、結局、鳩山内閣は県外移設を断念した。これに対し、県外移設にこだわる社民党閣僚が辺野古移設の最終的な日米合意の閣議決定への署名を拒否し罷免されたのを機に連立を離脱したことを契機に、鳩山内閣は10年6月、わずか9か月で総辞職となった。
 後任に就いたのは、党共同創立者の管直人であった。管は市民運動をバックとする小政党の出身であり、そうした経歴の首相としては史上初の異例な人物であったが、政治的には左派と右派の間を浮動する日和見で、ある意味ではイデオロギー的な軸が不明瞭な民主党を最も象徴する人物でもあった。
 管内閣は民主党が選挙公約に掲げた歳出抑制を通じた財政再建という方針を事実上覆し、自民党案に沿った消費増税の方針を突如打ち出したことで反発を買い、10年7月の参院選で与党は大敗、2年後の総選挙惨敗のきっかけを作った。
 こうして参議院では政権運営を困難にする野党主導の「ねじれ」が再び発生したところへ、管内閣は11年3月、福島第一原発事故を伴う東日本大震災という最大難局に直面する。
 管首相はとりわけ原発事故対応において、不適切な現場介入をしたとの批判を浴び、震災復旧対応でも被災者が満足する迅速な対応を打ち出せず、民主党政権への信頼を低下させるもとを作った。
 支持率が急落・低迷する中、結局、管内閣も11年9月をもって1年余りで総辞職となった。後任には野田佳彦財務相が昇格する形で就任したが、野田は政治歴や知名度では前二者に及ばず、役者不足の感は否めなかった。
 ただ、細川護熙元首相が率いた日本新党の流れを汲む野田は、信条面では保守色が強く、イデオロギー的には自民党に限りなく近い人物であった。
 実際、中国脅威論者の野田首相は、自民党政権時代にも棚上げされていた尖閣諸島領有の意思を明確にして同諸島の国有地化を実現し、その後の日中関係悪化のきっかけを作った。また消費増税の方針を管内閣以上に鮮明にし、野党自民党に歩み寄る姿勢を一段と強めた。
 結果的に、政権担当日数では野田内閣が鳩山・管両内閣を上回り、通算3年3か月間の民主党政権では最長となったが、この間、鳩山→管→野田の順で政権の保守色が順次強まり、自民党政権復活の下準備が整うのである。
 総じて言えば、民主党政権の3年3か月は「逆走」の中だるみ期間ではあったが、流れを本質的に止めることはなかった。ただ、「逆走」では従来自民党と競走関係にあり、小泉「改革」後の国家体制を承継した民主党に「逆走」を止める意思も能力もなかったのは無理からぬことではあった。

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戦後日本史(連載第27回)

2013-11-05 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔一〕民主党政権の成立

 安倍内閣が1年で挫折した後、後任に就いたのは、福田赳夫元首相の息子で、安倍と同じ派閥に属しながら穏健派の福田康夫であった。最右派安倍の後任により穏健な福田が座ったのは、安倍内閣への国民的警戒感が07年参院選大敗を招いたことに配慮したある種の微調整が働いたせいであっただろう。
 けれども、福田内閣も07年参院選で作り出された「ねじれ」を乗り切ることはできず、1年余りで退陣、後任には麻生太郎が就く。
 母を介して戦後の「逆走」の流れに先鞭をつけた吉田茂の孫に当たる麻生は元来、宮沢喜一元首相の流れを汲む比較的リベラルな派閥に属していたが、イデオロギー的には明らかに安倍と近い関係にある右派であり、小泉・安倍両政権下でも総務相や外相の要職を歴任していることから、森首相以来四代続けて首相を出した最右派かつ最大派閥の後ろ盾を得ていた。
 08年9月に発足した麻生内閣が最初に直面したのは、いわゆるリーマン・ショックを契機とする金融危機と世界同時不況であった。「百年に一度」とも評され、1929年大恐慌の再来も懸念される中、麻生内閣は緊急経済対策を打ち出すが、焼け石に水のごとくであった。
 ここで小泉政権時代に突破口が開かれた非正規労働の拡大がマイナスに効いてくる。08年末から翌年頭にかけては危機の中で解雇された派遣労働者を中心とする大量の失業者が事実上ホームレス化し、人道団体の仲介で政府や東京都が一時的な宿泊所を提供する「派遣村」が出現するなど、危機的状況に陥った。
 出口の見えない経済危機の中、麻生内閣は首相自身のジョーク交じりの失言癖もマイナスに作用して支持率が落ち込み、野党側からは衆議院解散要求が出るが、敗北を恐れる連立与党は解散に踏み切れなかった。
 解散時期を先延ばしにした末に09年7月、麻生首相がついに解散・総選挙を決定するも、結果は予想を超えた自民・公民連立与党の歴史的な惨敗であった。自民党は獲得議席が半減以下となり、結党以来初めて衆議院でも第一党の座を野党・民主党に明け渡すこととなった。
 こうして09年9月、戦後初めて実質上完全な形の政権交代が実現し、地滑り的勝利を収めた民主党が政権に就く。新政権は与党第一党民主党を筆頭に、社会民主党―自民・民主両党と連立を組んだ日和見政党は同党唯一である―、国民新党を加えた連立政権としてスタートした。
 この連立組み合わせからも、早々から施政方針が大きくぶれるこの政権の雑多な性格がみてとれるが、辛うじて性格づけするとすれば、新政権は中道保守・右派に中道左派が相乗りした総中道政権であったと言えるであろう。となると、99年来急進化していた「逆走」の流れは、さしあたりよどむことになりそうであった。

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