16 生命犯―生と死の自己決定について(下)
臓器移植は死のプロセスに入ってから生じ得る問題であるが、死のプロセスに入る以前にいわゆる延命処置を拒否して自然に来たるべき死を迎えることは「尊厳死」と呼ばれ、その可否が議論されてきた。
伝統的な見解によれば、人工的な延命処置が可能な限りはそれを続けることが医師の務めであり、医師が延命を中止して患者に死をもたらすのは殺人行為(嘱託殺人)にほかならないということになるだろう。
しかし、自らの死に方を選択する自由を尊重する考えからすると、患者が人工的延命処置を受忍して医の倫理のために奉仕させられることは本末転倒である。そこで、意思表示がまだ可能な間に延命処置を拒否して尊厳死を望む旨の意思表明(リヴィング・ウィル)を残しておく慣習が啓発され、普及してきた。
こうしたリヴィング・ウィルが示された患者に対して医師が延命処置を中止して死をもたらすことは嘱託殺人に当たらないという考え方が諸国で受容されるようになってきたことは、一つの進歩であろう。
とはいえ、延命処置とは、回復の見込みがなく、いずれ確実に死を迎える患者を人工的に生かし続けることであるから、医師が延命処置を中止することが殺人行為に当たるという論理は、そもそも形式論にすぎるだろう。
もちろん、医師は独断で延命処置を中止すべきではないが、それは医の倫理上の問題であって、法的な犯則行為の成否という次元の問題ではない。元来、無益な延命処置は死を間近にし、衰弱した患者の心身の負担を倍加するだけで医学的にもプラスにならないのであるから、無益な延命処置そのものをしないことを医療的慣習として確立すれば、「尊厳死」という問題自体が解消されていくであろう。
より深刻な問題は、死苦を逃れるため、あるいは回復の見込みのない難病の苦しみから解放されるために死を望む患者に対して、医師が致死性薬物の注射などの方法によって積極的に死をもたらす「安楽死」の可否である。
これは「尊厳死」と異なり、患者にまだ自力での生存可能性が残されている段階で人為的に死をもたらすことであるから、医師がまさに嘱託殺人(独断なら殺人そのもの)に問われかねないわけである。
「尊厳死」が認められるならば「安楽死」も認められて然るべきと短絡するわけにはいかない。なぜなら「尊厳死」は死に方の自由の問題であったが、「安楽死」は死ぬこと自体の自由を認めるべきかどうかという問題だからである。
死の自己決定という場合、それは死に方、言い換えれば死の迎え方の選択であって、死ぬこと自体の選択ではない。死ぬこと自体の選択の最たるものは自殺であるが、自殺は他殺と異なり、今日では多くの国で犯罪とみなされないとはいえ、倫理上は反価値的と認識されている。
それでも、「安楽死」を望む人が一定存在するのは、一部の病気の末期では肉体的にも精神的にも耐え難い死苦が生じ得るからである。
しかし今日、こうした死苦を鎮痛剤の投与や放射線照射によって緩和したり、精神療法によって精神的な苦痛を軽減したりするターミナル・ケアが進歩し普及してきた。
とはいえ、こうしたターミナル・ケアも他の医学的処置と同様、万能ではない。ターミナル・ケアも効果なく、患者の死苦はなお激しいというやむにやまれぬ状況で、患者の依頼を断り切れず、医師が安楽死を決断したというような場合に、医師を嘱託殺人に問うべきかという究極の問いは残される。
かの「生命の神秘化」の立場からすれば、こうした場合にあっても、当事者たる医師は訴追され処罰されねばならないのであろう。しかし、「犯則→処遇」体系の下では、件の医師は倫理的なジレンマに立たされてあえて違法な決断をしたのであって、矯正すべき反社会性向は認められない。
ただし、医師が患者から何らかの報酬を約束されるなどして安易に安楽死を実行したような場合は、医の倫理を軽視する反社会性向が認められるので、処遇対象となり得る。
しかし、このように個別の事情を考慮して合法性を認定するよりは、ターミナル・ケアも効果がない患者に対する最後の手段として、一定の厳格な手続きを踏んだ上で人為的に死をもたらすことを認めるほうが法的には安定であり、むしろ人道的ですらあり得る。
このような言わば合法化された安楽死は、「安楽」といういささか安易な形容にはふさわしくなく、むしろ「平安死」と呼ぶことが望ましいであろう。
「平安死」を合法化する場合、その要件と手続きは厳格に設定しなければならず、とりわけ患者本人の意思表示と公証人によるその法的な確認は絶対要件となる。また手続きの面では、捜査機関や司法機関から独立して死因の検証を行なう中立的な検視を義務づける必要がある。
もちろん、医療現場の倫理的な混乱を避けるために、こうした「平安死」の要件と手続きについては、特別な法律に明確な文言をもって規定しておくことも絶対条件であり、不文の医療慣習に委ねてはならない。