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犯則と処遇(連載第20回)

2018-12-29 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(下)

 臓器移植は死のプロセスに入ってから生じ得る問題であるが、死のプロセスに入る以前にいわゆる延命処置を拒否して自然に来たるべき死を迎えることは「尊厳死」と呼ばれ、その可否が議論されてきた。
 伝統的な見解によれば、人工的な延命処置が可能な限りはそれを続けることが医師の務めであり、医師が延命を中止して患者に死をもたらすのは殺人行為(嘱託殺人)にほかならないということになるだろう。

 しかし、自らの死に方を選択する自由を尊重する考えからすると、患者が人工的延命処置を受忍して医の倫理のために奉仕させられることは本末転倒である。そこで、意思表示がまだ可能な間に延命処置を拒否して尊厳死を望む旨の意思表明(リヴィング・ウィル)を残しておく慣習が啓発され、普及してきた。
 こうしたリヴィング・ウィルが示された患者に対して医師が延命処置を中止して死をもたらすことは嘱託殺人に当たらないという考え方が諸国で受容されるようになってきたことは、一つの進歩であろう。

 とはいえ、延命処置とは、回復の見込みがなく、いずれ確実に死を迎える患者を人工的に生かし続けることであるから、医師が延命処置を中止することが殺人行為に当たるという論理は、そもそも形式論にすぎるだろう。
 もちろん、医師は独断で延命処置を中止すべきではないが、それは医の倫理上の問題であって、法的な犯則行為の成否という次元の問題ではない。元来、無益な延命処置は死を間近にし、衰弱した患者の心身の負担を倍加するだけで医学的にもプラスにならないのであるから、無益な延命処置そのものをしないことを医療的慣習として確立すれば、「尊厳死」という問題自体が解消されていくであろう。

 より深刻な問題は、死苦を逃れるため、あるいは回復の見込みのない難病の苦しみから解放されるために死を望む患者に対して、医師が致死性薬物の注射などの方法によって積極的に死をもたらす「安楽死」の可否である。
 これは「尊厳死」と異なり、患者にまだ自力での生存可能性が残されている段階で人為的に死をもたらすことであるから、医師がまさに嘱託殺人(独断なら殺人そのもの)に問われかねないわけである。
 「尊厳死」が認められるならば「安楽死」も認められて然るべきと短絡するわけにはいかない。なぜなら「尊厳死」は死に方の自由の問題であったが、「安楽死」は死ぬこと自体の自由を認めるべきかどうかという問題だからである。
 死の自己決定という場合、それは死に方、言い換えれば死の迎え方の選択であって、死ぬこと自体の選択ではない。死ぬこと自体の選択の最たるものは自殺であるが、自殺は他殺と異なり、今日では多くの国で犯罪とみなされないとはいえ、倫理上は反価値的と認識されている。

 それでも、「安楽死」を望む人が一定存在するのは、一部の病気の末期では肉体的にも精神的にも耐え難い死苦が生じ得るからである。
  しかし今日、こうした死苦を鎮痛剤の投与や放射線照射によって緩和したり、精神療法によって精神的な苦痛を軽減したりするターミナル・ケアが進歩し普及してきた。
 とはいえ、こうしたターミナル・ケアも他の医学的処置と同様、万能ではない。ターミナル・ケアも効果なく、患者の死苦はなお激しいというやむにやまれぬ状況で、患者の依頼を断り切れず、医師が安楽死を決断したというような場合に、医師を嘱託殺人に問うべきかという究極の問いは残される。
 かの「生命の神秘化」の立場からすれば、こうした場合にあっても、当事者たる医師は訴追され処罰されねばならないのであろう。しかし、「犯則→処遇」体系の下では、件の医師は倫理的なジレンマに立たされてあえて違法な決断をしたのであって、矯正すべき反社会性向は認められない。
 ただし、医師が患者から何らかの報酬を約束されるなどして安易に安楽死を実行したような場合は、医の倫理を軽視する反社会性向が認められるので、処遇対象となり得る。

 しかし、このように個別の事情を考慮して合法性を認定するよりは、ターミナル・ケアも効果がない患者に対する最後の手段として、一定の厳格な手続きを踏んだ上で人為的に死をもたらすことを認めるほうが法的には安定であり、むしろ人道的ですらあり得る。
 このような言わば合法化された安楽死は、「安楽」といういささか安易な形容にはふさわしくなく、むしろ「平安死」と呼ぶことが望ましいであろう。
 
 「平安死」を合法化する場合、その要件と手続きは厳格に設定しなければならず、とりわけ患者本人の意思表示と公証人によるその法的な確認は絶対要件となる。また手続きの面では、捜査機関や司法機関から独立して死因の検証を行なう中立的な検視を義務づける必要がある。
 もちろん、医療現場の倫理的な混乱を避けるために、こうした「平安死」の要件と手続きについては、特別な法律に明確な文言をもって規定しておくことも絶対条件であり、不文の医療慣習に委ねてはならない。

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犯則と処遇(連載第19回)

2018-12-28 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(中)

 前回見たように、出生前の胎児を中絶することを合法化するとしても、出生後の人を殺せば違法な殺人であることは言うまでもない。伝統的に、殺人は最も自明の犯罪行為と認識されてきたが、近年は「殺人」の概念にも変容が生じてきている。
 「殺人」と言えば、かつては殺意をもって他人を心臓死させることと決まっていたが、近年は「脳死」の概念が登場してきたため、「殺人」の定義も見直しを迫られている。
 「脳死」の概念はほとんど専ら脳死者からの臓器摘出・移植という高度医療を可能とする文脈で引き合いに出されるため、「脳死」は果たして人の死と認められるか否かをめぐって論争が提起される。

 脳死者からの臓器移植を合法化する限り、それを犯則行為として立件することはあり得ない一方、「脳死」をいずれは心臓停止に至る不可逆的な状態とみなすなら、死を心臓死か脳死かというある一時点の事象としてとらえるのでなく、脳死から心臓死までの時間的なプロセスとしてとらえる「プロセスとしての死」という発想に切り替える必要があるだろう。
 これはより明確な心臓死をもって死ととらえる伝統的な理解に比べて不安定さを残し、反対論もあり得るところである。心臓死説は脳死状態でも心臓は動いていてぬくもりもある“人”を死体とみなすことは容認できないという感情に基づいているが、これは多分にして、かの生命の神秘化と関わっている。
 しかし、脳科学の発達に伴い、人間の生命活動を実質的に統括しているのは心臓以上に脳であることが判明するにつれ、生体の司令センターたる脳の機能停止をもって人の死の重要な要素とみなそうとする考えが医学的に定着してきた。

 もちろん、病態によっては脳死を経由せず短時間または瞬時に心臓死へ至ることもあり、俗に「即死」と呼ばれる。しかし、場合によっては、脳死から心臓死まで時間的なプロセスをたどる病態もあり、そうした時間差を利用して行われるのが移植医療である。
 「プロセスとしての死」という概念によれば、脳死者からの臓器摘出は生体でなく死体からの摘出となるから、殺人に当たらないことは当然である。形としては死体損壊であるが、法の定める正当な手続きに従い、移植医療の一環として実施された限り、完全に合法的な医療行為である。
 一方、殺意をもって他人に暴行を加え、脳死状態にさせれば殺人は既遂に達するのであり、未遂ではない。しかし、脳死状態にある被害者を山林などに捨てることは死体遺棄であって、生きている人を棄てる遺棄ではない。

 こうして「プロセスとしての死」という死の規定によると、死の概念に時間的な幅が生じるので、各人がどのような死に方をするか、つまり自分らしい死に方―臓器を提供するかどうかを含めて―を選択する余地が生まれてくる。
 しかし、臓器移植を高度に推進するために、原則として近親者の同意だけで臓器移植を可能とする法制が導入されると、このことによって個人的な信条から臓器提供を望まない人の自己決定が妨げられる恐れも出てくる。

 その点、近親者の同意だけで臓器提供ができるということは、本人の生前における臓器提供拒否の意思表示を認めないという趣旨ではない以上、本人が生前に臓器提供を拒否する意思を口頭または書面で明示していた場合には臓器摘出は違法とされるべきである。
 この基本ルールは臓器移植法上明文で定められるにとどまらず、書面上の意思表示を簡便に行えるよう、「臓器提供拒否カード」を正式に発行したうえ、臓器提供拒否者登録制度を整備し、医療現場でも登録情報を迅速に検索できるように制度化することが求められる。

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犯則と処遇(連載第18回)

2018-12-27 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(上)

 刑罰制度は人の生と死の法的な定義をも司っているため、犯罪各論の領域における生命に対する罪は最も重要な位置を占めている。言うなれば、刑罰制度とは生命を司る神の代理人でもある。
 刑罰制度の生命への対し方は、実際、生命の神秘化である。明言するかどうかは別として、刑罰制度は生命を神からの授かり物とみなす。そのため、生命に対する罪は「涜神罪」―今日では多くの国で廃れている―に準じた地位にある。
 一方で、近年は生命の始まりと終わり、すなわち生と死とに対する各人の自己決定を重視する考え方も有力化してきている。この考え方は、当然にも「生命の神秘化」とは対立関係に立つ。そこから生命に対する罪のあり方をめぐっては、伝統的な刑罰制度では解決し難い種々の難問が生じてくるのである。

 まず生命の始まりをめぐっては、胎児を中絶してそもそも出生させないことを犯罪行為とする堕胎罪にまつわる難問がある。胎児はまだ人ではないが、一個の生命体であることは間違いない。そこで、その胎児を「殺す」堕胎は今日でも日本を含む少なからぬ諸国で犯罪として規定されている。
 堕胎罪とは、裏を返せば、妊娠した女性に出産を強制することである。しかし、出産は女性に肉体的な負担―時に死にも至る―を強いるばかりでなく、人生設計をも大きく左右する一大事である。堕胎罪を厳格に適用すれば、極端には、性的暴行の結果妊娠しても、女性は犯人の子を出産して母とならなければならないという冷酷な運命を課することになってしまう。

 女性の権利の尊重に対する意識が向上するにつれ、こうした出産を強制する刑罰への批判は高まらざるを得ず、むしろ妊娠中絶を女性の自己決定権として認める考えが優勢となる。
 もっとも、ここで言う自己決定とは、自分自身が生まれることの自己決定ではなく―それは不可能な自己決定である―、他人を産み出すことの自己決定であるから、通常の意味での自己決定とは事情を異にする。胎児は妊婦の体内で母体とほぼ一体的であり、胎児自身の自己決定は不可能であるとはいえ、妊婦に出産するかどうかの全権を与えることに反発する向きがあるのも理解できる。

 しかし、妊婦に出産を強制することの非道性ということから、結果として中絶は合法化されるべきことになる。その点で、妊娠が性的暴行による場合や出産が母体に危険を及ぼす場合のように、正当な理由がある限り中絶を認めるという折衷的な考え方も現実的な妥協点かもしれない。
 とはいえ、そもそも理由もなく思いつきで中絶しようとする妊婦などいないはずであり、「犯則→処遇」体系からすれば、通常の中絶者を生命犯として処遇すべき根拠は見出し難いから、中絶を犯則行為とみなすこと自体が不合理ということになる。
 ただし、妊婦の同意なく強制的に堕胎する不同意堕胎は、なお犯則行為として維持する必要がある。不同意堕胎は通常の中絶とは全く状況を異にし、妊婦以外の第三者がまさしく胎児を殺害することにほかならないからである。

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共産教育論(連載第28回)

2018-12-25 | 〆共産教育論

Ⅴ 職業導入教育 

(2)労働理解と職場見学、職業想像
 職業導入教育の第一歩は、そもそも働くことの意義を理解することから始まる。とりわけ貨幣経済が存在せず、労働に賃金その他の物的報酬が伴わない共産主義社会では、生活の必要から働く必要がないため、働くことの意義について十分な理解を早くから涵養しておく必要性は高い。
 そのような労働理解が職業導入教育のまさしく導入部となる。その点に関連して、精神分析学者エーリッヒ・フロムは物質的な刺激だけが労働に対する刺激なのではなく、自負、社会的に認められること、働くこと自体の喜びといった刺激もあることを指摘している。
 基礎教育課程の労働理解においても、まずはこうした物質的な刺激によらない労働意欲に関して学ぶ必要がある。この部分は、基礎教育課程における原則形態である通信教材によることが可能である。
 しかし、当然ながら、こうした抽象的な労働理解だけでは職業導入教育として不十分であり、実際に労働現場を見学し、働く人の姿を実際に見聞する体験教育も必要である。このような職場見学は「社会科見学」のような方式で、予め教育用模範労働現場として指定された職場に専任教員が生徒を引率して実施する。
 ただし、全職種についてこのような見学を実施することは、実際上も、また安全上も不可能であるので、見学できない職場については動画通信教材で補充することになるだろう。
 このように、既存の職業について見聞を通じて理解を深めることが、職業導入教育前半の大きな目的であるが、貨幣経済によらない共産主義社会では、貨幣経済下なら生計が立たないような新たな職業を自ら創造する自由も拡大される。このような職業創造への視野を養うことも、職業導入教育の課題である。
 この部分は、既存職業に関する理解を前提とした次なる発展段階であるから、基礎教育課程後半期の課題となる。ここでは、自ら創造してみたい職業についての構想を生徒に各自練ってもらい、その可能性について具体的にレポートの形でまとめるなどの自由な想像形式が採られる。

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共産教育論(連載第27回)

2018-12-24 | 〆共産教育論

Ⅴ 職業導入教育

(1)基礎教育課程と職業導入教育
 共産教育における基礎教育課程の特色は、職業導入教育が組み込まれていることである。その点、伝統的な学校制度における義務教育課程では職業導入をほとんど顧慮せず、一般教養的なリベラルアーツ教育をミニチュア化した教科学習に特化しがちなこととは異なる。
 伝統的学校教育では多くの場合、義務教育課程修了後の継続教育課程で大学進学適格者と就職適格者とを振り分け、後者については何らかの職業校を提供するといったふるい分けが行なわれるが、このような早期分断政策は学歴を基準とした知識階級制の元凶となる。
 知識階級制と無縁な共産教育はそもそも大学制度を有さず、標準13年間の基礎教育課程を修了すれば、ひとまず全員が何らかの職業に就くことを前提に組み立てられるため、職業導入教育は基礎教育課程における基本七科と並ぶ主軸的プログラムとなるのである。
 職業導入教育の目的は生徒一人一人の適性と関心に応じて、適職へと導くことにあるが、就職活動のコツを伝授するハウツー講座ではなく、労働に関する深い理解のもとに、自ら人生設計することを手助けするものである。
 そのために、基本七科の各科目と同様に、職業導入教育にも、専門の免許によって認定された専任の教員が充てられる。職業導入教員は、生徒一人一人と向き合い、カウンセリングを通じて生徒を適職へと導く橋渡しの役割を負うので、心理学や社会学の素養も必要とする。
 職業導入教育は、生徒に職業への関心が芽生え始める基礎教育課程中期(ステップ6以降)から開始し、最終段階では、職業紹介所と連携した就職支援が用意される。そのプロセスもいくつかの段階に分かれるが、これについては改めて見ていくことにする。

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犯則と処遇(連載第17回)

2018-12-23 | 犯則と処遇

15 過失犯について

 「犯則→処遇」体系における犯則行為とは基本的に、意図して犯則行為を実行する故意行為であって、不注意による過失行為は例外的な犯則行為である。
 そのうえ、「犯則→処遇」体系からすると、処遇の対象とすべき過失犯は、結果を容易に予見し得たのに不注意で予見せず、漫然と危険行為をし、または必要な結果回避行為を怠る重過失犯の場合であり、軽過失犯は処遇の対象外である。

 もっとも、職業上高度の注意義務が課せられている者の過失、すなわち業務上過失の場合は、軽過失犯も含め処遇対象となる。業務者は一般市民が容易に予見し得ない結果に対しても、職業上の知識経験に基づき予見し、結果発生防止のために適切な対応を取ることが可能であり、またそうすべきでもあるからである。
 なお、「業務」とは、職業的に反復継続している仕事のことであり、職業的運転手が休日にマイカーを運転する行為は「業務」とみなされない。このような場合は、私的な運転者と同様だからである。ただし、職業運転手としての技能があることを考慮すると、一般の日曜ドライバーの場合よりも重過失が認定されやすいであろう。

 いずれにせよ、過失犯は通常、反社会性向が低く、一過性のものであるから、一般的な重過失犯については「保護観察」で足りると考えられる。
 ただし、病的なほどに著しく注意を欠いた場合や、同種過失行為を繰り返す過失累犯は「第一種矯正処遇」に付する必要があろう。また業務上過失犯の場合は高度の注意義務に違反した反社会性に照らし、やはり最大で「第一種矯正処遇」が相当である。

 ところで、過失犯の中で最も多いのが、いわゆる交通事故、すなわち自動車運転過失犯である。公共交通事故を含めた交通事犯をめぐる諸問題に関しては後の章で改めて取り上げるが、「犯則→処遇」体系の下では、自動車運転過失とその他の過失とをことさらに区別することはしない。
 すなわち、非業務上の自動車運転過失については、重過失の場合に限り一般的な過失致死傷犯として、業務上の自動車運転過失については、軽過失の場合を含めて業務上過失致死傷犯として処遇される。

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犯則と処遇(連載第16回)

2018-12-21 | 犯則と処遇

14 共犯について

 前回見た未遂犯に関わる問題とともに、「犯則→処遇」体系の下で、「犯罪→刑罰」におけるのとは異なる理論的変容が生じるのは、共犯に関わる問題である。共犯は他人と共に犯則行為を確実に実行しようとする点で、失敗リスクも高い単独犯に比べて、反社会性向は初めから相当程度高いとみなさざるを得ない。

 とはいえ、共犯にも様々な類型があるが、最も反社会性向が高いのは主犯格(複数共同主犯もあり)であることも疑いない。その際、重要なことは共犯関係を主導したかどうかという点であり、共犯の態様が直接的か間接的かは関係ない。従って、例えば、Aが中心となって犯行を計画し、Bに指示して実行させた場合、Aが主共犯として処遇されることになる。
 この場合、仮にBがAの指示に反して犯則行為を実行しなかったとしても、Aは放免とならない。Bが犯行をとりやめたのはAのあずかり知らないBの独断によるもので、Aとしては自分の指示どおりに犯行がなされたものと信じていた限り、Aの反社会性向は変わらないからである。
 ただし、何も起きなかったので、未遂犯ではあるが、Aのあずかり知らない事情による不発であるから、偶発未遂にとどまる。なお、A自身がBに指示して犯行をやめさせた場合は中止犯となる。

 一方、主犯に従って犯則行為を実行する従共犯に関しては、やや細かく見る必要がある。従共犯は、主共犯の教唆や指示によって犯則行為を実行するという点で、主共犯に比べれば、反社会性向は相対的に低いと言え、多くの場合、「第一種矯正処遇」で済むであろう。ただし、犯行組織/グループ等のメンバーとして役割化している場合はこの限りでない。
 従共犯は主共犯の指示に従って犯則行為を自ら実行する場合(実行従共犯)の他に、犯行の謀議に加わる共謀犯と犯則の実行を容易にする幇助犯とが区別される。

 共謀犯は、犯行の謀議に参加し、計画に加わることである。共謀者が主犯格である場合は、まさに主共犯とみなされるから、共謀犯であるためには、従属的な立場にあることが条件となる。
 ちなみに、犯行の計画を単に知らされていただけでは共謀犯とは言えないが、公務員のように、自ら覚知した犯行を報告・告発等すべき立場にありながらあえて黙認したような場合は、不作為による共謀犯として処遇されることもある。

 これに対し、幇助犯はまさに助手のような形で犯則行為の実行を手伝うものであり、犯行への加担は最も従属的であり、殺人行為への加担のような場合を除き、「保護観察」相当の場合も少なくないであろう。
 幇助犯の典型は、例えば、AがC宅への侵入窃盗を企てていたBから頼まれて所有する道具を貸し、Bがその道具でC宅に侵入したような場合である。
 しかし、結局、Bが思いとどまり何もしなかったという場合、Aの道具貸与はBにとって何ら役に立たなかったのであるから、Aが窃盗幇助犯として処遇されることはない。

 また、Bは計画どおりC宅に侵入したが、Aから借りた道具は使用せず、自分の道具を使用したという場合も、Aの道具貸与はBがC宅に侵入するに当たり役に立っていない以上、Aが窃盗幇助犯として処遇されることはない。
 もっとも、この場合、Aの道具貸与がBを勇気づけたというように、精神的な面で役立った限りAは窃盗幇助犯に当たると解釈する余地もあるが、そうした精神的な幇助関係はひとえに主犯側の主観的な事情にかかるものであるから、独立した犯則行為とみなすべきではない。従って、幇助犯とは厳密には「主犯を物理的に幇助する者」と定義されるであろう。

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犯則と処遇(連載第15回)

2018-12-20 | 犯則と処遇

13 未遂犯について

 「犯則→処遇」体系の下では、犯則行為の成立に関わる理論上の問題でも、いくつかの重要な変容が生ずる。
 その一つは未遂犯に関する問題である。犯則行為に着手するも所期の結果が発生しなかった場合としての未遂犯は、「犯罪→刑罰」図式の下では、既遂犯よりも罪状が軽いとみなされやすい。このような発想は、殺人という結果の有無を偏重する応報刑論的発想の一つの帰結にほかならない。
 しかし、例えばAが強固な殺意をもってBの胸をナイフで刺し致命的な傷を負わせたが、Bは奇跡的に一命を取りとめたというように偶然の事情によって所期の結果が生じなかったにすぎない場合(偶発未遂)、「犯則→処遇」定式からすれば、偶発未遂犯は自己のあずかり知らない偶然の事情によって既遂犯となることを免れたにすぎない以上、反社会性向としては既遂犯と同等であり、処遇の上で既遂犯と区別する必要はないのである。

 処遇上既遂犯と区別すべき未遂犯とは、例えばAが殺意をもってBの胸をナイフで刺したが、ためらいがあり、強く刺さなかったため、Bは軽傷で済んだというように、故意が弱いために所期の結果が生じなかった場合(減弱未遂)である。
  減弱未遂犯も故意をもって殺人という犯則行為に着手した以上、一般的に反社会性向が低いとは言えないが、ためらいがあって故意が弱かったため目的を完遂できなかったという限りでは、病理性は低く、最大でも「第二種矯正処遇」が相当であろう。

 一方、犯則行為に着手しながらも自己の意思によって行為を中止して自ら結果発生を防止した場合(中止未遂)、「犯則→処遇」定式からすると、中止未遂犯といえども犯則行為そのものを見合わせたのでなく、いったんは犯則行為に着手した以上、軽微な反社会性向は認められ、最低でも「保護観察」に付する必要はあると言わざるを得ない。
 反面、中止行為者は単にためらうにとどまらず、故意を撤回して結果発生防止の努力をした限り、反社会罪性向の低さを示していると言える。
 そうだとすると、結果発生の有無を問わず、犯則行為に着手した後、自ら結果発生防止のための中止行為をした者は、最大でも「第一種矯正処遇」にとどめる特則が置かれるべきである。この意味で、「中止未遂犯」という概念は「中止犯」という包括的概念に吸収されることになる。

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共産教育論(連載第26回)

2018-12-18 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論

(9)障碍者包摂教育
 これまでにも随所で言及してきたように、基礎教育課程は障碍者と非障碍者を分離しない包摂教育を実施するため、前回まで見てきた基本七科は、基本的に障碍生徒もカバーする共通科目である。とはいえ、障碍生徒にはその障碍の内容や程度に応じて、基本七科を部分免除したり、療育目的で履修内容に修正を加える必要性は否めない。
 その点、知的な障碍の有無及び程度が大きな目安となる。知的な障碍がなく、視聴覚を含めた身体面の障碍にとどまる生徒は、基本七科は内容を修正する必要なく、そのまま履修することができる。ただし、身体障碍の内容に合わせて、教材面では補助ツール―例えば点字表記や音声化、手話通訳動画等―の提供を要する。
 また車椅子常用等の要介助生徒であっても、原則通信制の基礎教育課程の履修上は問題ないが、一部の通学科目では介助サービスを提供する。ただし、健康体育科目については要介助者専用コースを提供するが、身体の状態によりそれも困難な場合は免除する。
 ちなみに、聴覚障害者にとって現状では最も有力な意思疎通手段となる手話は、聴覚障害生徒に対しては、言語表現科目の付随分野として必修化し、かつ非障碍生徒も任意で履修することができるようにする。携帯端末を利用する筆談ツールが高度化し、広く普及した場合、手話が必要なくなる可能性もあるので、手話必修化は暫定的な措置である。
 一方、知的障碍生徒に対しては、基本七科全体の修正または部分免除が必要となる。その点、基本七科の中でも最も基本的な言語表現科目と数的思考科目は、知的障碍生徒でも免除されない最低限度の必修科目となる。もっとも、その内容は知的障碍の原因や程度に応じて徹底的に個別化しなければないので、非障碍者向けの教材とは相当に異なるものとなる。 
 科学基礎科目や歴史社会科目、社会道徳科目といった抽象度の高い科目については、重度の知的障碍生徒に対しては全部免除せざるを得ないであろう。生活技能科目や健康体育科目のような実技系科目については、障碍の程度に応じて修正された内容が提供される。
 こうした包摂教育では全教員が障碍者教育の基本的な知識・技能を有することが前提的な義務となるから、普通教員免許と特別支援教員免許の区別は存在しない。ただし、最も教育困難な知的障碍者教育は専門性が高いため、相応の専門知識と技能を有し、特別な免許を持つ療育教員が充てられる。

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共産教育論(連載第25回)

2018-12-17 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論

(8)社会道徳
 社会道徳科目は、共産主義社会の成員としての基本的な道徳について学ぶ科目である。当科目は付随的な特別科目ではなく、基礎教育課程における基本七科の一つとして位置づけられる科目である。
 共産主義的道徳教育の最大重点は、反差別教育である。貨幣経済によらない共産主義社会は全成員の無償の社会的協力を通じて運営されていく社会であるから、互いに異質な者同士が排斥し合うのでなく、協力し合う社会慣習の涵養が不可欠だからである。
 そこで、「人間をその先天的または後天的に獲得された特徴・属性のゆえに劣等視してはならない」という道徳規範を基礎教育課程の全体を通じ、その発達度に応じて徹底的に体得させていかなければならない。このことはまた、いじめの防止にも効果的と考えられる。なぜなら、対象生徒の自殺を招くような深刻ないじめとは子どもの領分における差別行為にほかならないからである。
 反差別教育の方法論として、生徒に事物を弁別し、差別化する思考法が未発達な基礎教育課程の初等段階では、通学による交流体験を中心として実施する。この段階では、主として障碍生徒と非障碍生徒との交流を中心に、互いの共生をごく自然なこととして体験させることが目指される。
 中等段階に進むと、少数民族などより抽象度の高い被差別当事者との交流体験を取り入れ、ゲスト当事者の話を傾聴し、質疑応答するといった教科学習的な方法が採り入れられる。同時に、通信でも、差別の意味やその要因を考察する教材が提供される。
 終盤段階では、反差別教育の総まとめとして、人種差別や性差別といった差別をめぐる論争的なテーマについて、歴史的な考察を踏まえて、反差別的価値観を各自が確立することを手助けする通信教材が提供される。
 社会道徳科目の二本目の柱は、高度情報社会で不可欠となっている情報倫理である。情報倫理では、生活技能科目で学ぶ情報技能を前提に、情報ネットワークを正しい目的で利用するための倫理について学ぶ。インターネットを通じた差別言説の流布やいじめといった現象も惹起されているように、反差別教育と情報倫理教育は内的関連性を有する。
 社会道徳科目の三本目の柱は、性倫理である。これはいわゆる性教育と重なるが、そこでは両性平等や性的自己決定といった人権に加え、意図せぬ妊娠や性感染症、成人による性的捕食の犠牲など、未成年の安易な性体験の危険性を教え、性急な性体験を抑止することが教育の眼目であり、早期の性体験を前提とした避妊の技術教育であってはならない。
 このように当科目は独立した基本科目として位置づけられることから、専任の教員が充てられる。同時に、交流体験も多く導入されることから、外部ゲストを招聘する機会も多い点が当科目の特質となる。

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犯則と処遇(連載第14回)

2018-12-15 | 犯則と処遇

12 教育観察について

 「教育観察」は、少年に対する保護観察の性格を持つ独立の処遇である。従って、その対象者は「矯導学校編入」に相当しない犯則行為をした少年が中心となるが、その他にも、重大な非行をした13歳未満の少年で「特修矯導学校編入」相当でない10歳以上の者、10歳未満でそもそも「矯導学校編入」に付し得ない者も対象者に含まれる。

 いずれにせよ、「教育観察」にあっては成人に対する保護観察とは異なり、教育に重点が置かれることから、その実務機関は一般の保護観察所とは別に設けられる「少年観察所」である。
 「少年観察所」は一般の保護観察所に併設してもよいが、組織・運営は分離されていなければならず、「少年観察所」に配属されて「教育観察」の実務に当たるスタッフは、少年問題に精通した者が充てられる。

 「教育観察」の対象者は非行傾向の弱い少年であるから、「教育観察」における処遇は、矯正のプロセスを省略して更生のためのサポートをすることが中心となる。
 具体的には、本人へのカウンセリングのほか保護者への助言も行う。ただ、家庭環境の調整などをするには、該当少年を「未成年者福祉センター」へ委託保護しつつ「教育観察」を行う必要もあるだろう。
 一方、重大な非行をしたが「矯導学校編入」には付し得ない13歳未満の年少少年を対象とする場合は、「教育観察」の枠内で一定の矯正的なプログラムを課することも必要となる。こうした場合、対象者を少年鑑別所に短期間宿泊させて集中的に処遇する「宿泊処遇」も考えられる。

 以上の「教育観察」は少年の成長に応じた教育的な更生サポートを内容とするものであるから、予め期間を定めるには適しない。従って、その終了時期は「教育観察」に当たる「少年観察所」が対象者の更生の度合いを見て判断する。
 ただし、2年を超えて「教育観察」を継続するときは、改めて司法機関の許可を得なければならない。この場合、司法機関は継続観察の要否を審査したうえ、上限となる年限を明示して許可する。これによって「教育観察」が不当に長期にわたることを防ぐことができるのである。

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犯則と処遇(連載第13回)

2018-12-14 | 犯則と処遇

11 矯導学校について

 「矯導学校」とは、重大な非行をした少年に対して矯正プログラムと一般の学業とを両立的に課す寄宿制の特殊な学校である。従って、「矯導学校編入」は「犯則→処遇」体系の下における少年に対する処分としては、重いものとなる。
 「矯導学校」で矯正に従事するのは、矯正員ではなく、教員養成校を通じて養成された教員である。ただ、この職は矯正に関する専門的な知見を必要とするため、一般の教員とは別枠で「矯導学校教員」の免許制度を創設する必要がある。

 「矯導学校」は対象者の特性に応じて、非行傾向は強いが病理性は弱い者を対象とする「一般矯導学校」と病理性が強い者を対象とする「特修矯導学校」の二種に分かれる。
 いずれであっても、「矯導学校」における教育は、各生徒の状況に応じて徹底した個別教育メソッドで行われる。とりわけ後者の「特修矯導学校」は成人の場合における「第三種矯正処遇」に相当するもので、そこでは臨床心理士や医師も加わった治療的な対応もなされる。

 こうした「矯導学校」は「学校」ではあるが、個別教育の趣旨を徹底させるため、学年制は採らず、おおまかに「初等」「中等」「高等」の3コースに分ける。「高等コース」の後には「続高等コース」を設け、場合によっては20歳を超えて継続教育ができるようにする。
 そこで、司法機関が対象者を「矯導学校編入」に付するときは、対象者の学習能力や知的水準も考慮したうえで、学校種別とコースとを決定する必要がある。

 「矯導学校編入」の期間に関しては、成人矯正の場合以上に少年の発達に応じた短期集中処遇が必要であるから、「一般矯導学校」では6か月以上3年以下、矯正に時間を要する「特修矯導学校」でも2年以上5年以下とする。
 こうした処遇期間は司法機関による処遇決定の段階では定めず、矯導学校側が上述の年限内で、対象者の改善の度合いや帰住先の家庭環境などを勘案して修了の時期を判断する。
 さらに「矯導学校」を修了した後、原則として2年間、「特修教導学校」の場合は4年間を「修了後観察期間」とし、担任教員が修了者に対する家庭訪問や面接を通じたアフターサポートを行う。また、帰住先の家庭環境が良好でない場合は、「未成年者福祉センター」への委託保護も行う。

 「矯導学校編入」が可能な下限年齢については例外的な非行の早発化という現象も考慮に入れ、10代の最少齢である10歳からとしておいてよいであろう。
 ただし、13歳未満の年少少年の「矯導学校編入」は病理性が強く、「特修矯導学校編入」が相当な場合に限る。従って、「矯導学校」の初等コースは「特修矯導学校」のみに設置されることになる。
 なお、「矯導学校」に在籍可能な上限年齢は特に設けないが、満24歳頃までを一応の目安とする。

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犯則と処遇(連載第12回)

2018-12-13 | 犯則と処遇

10 少年の処遇について

 少年は身体的にも精神的にも成長途上にあり、人格的な可塑性に富んでいるため、犯則行為をした少年に対しては、成人と異なる処遇を必要とする。
 ただ、「犯則→処遇」体系の下では、犯則行為者への処分全体が、成人を含めて「処遇」概念の下に統一されるため、少年処遇の適用年齢に関しては、社会の実情に合わせながら、より柔軟化することが可能となる。

 その際の視点として、現代社会では義務教育制度の施行によって、おおむね18歳未満の者は学校課程に在籍していることが圧倒的な状況においては、18歳未満の者は成人と明確に区別し、学業とも両立し得るような少年処遇の絶対的適用年齢とするのが社会の現実に合っている。

 その点、18歳は過渡的年齢であって、18歳を未成年とする法制下でも、18歳の多くは学生であるが、一部は有職者が含まれている。そこで、18歳についてはケース・バイ・ケースで考慮すべきであろう。
 一方、18歳を成人とする法制下では、原則として成人としての処遇が与えられることになるが、知的障碍や発達障碍が認められ、少年処遇の適用が相当な者はこの限りでない。
 このように、障碍のために成長が遅れており、少年に準じて扱うほうが適切な成人には「少年」としての処遇を適用する余地を認める必要がある。そのためにも、少年処遇の適用年齢の上限は、23歳程度にまで拡大される。

 こうして柔軟化された少年処遇の種別は、基本的に「矯導学校編入」と「教育観察」の二種類である。これに成人と同様に、対物的処分としての「没収」を加えて三種類とみなすこともできる。

 はじめの「矯導学校編入」は成人の「矯正処遇」に対応する処遇であるが、成人の「矯正処遇」との違いは、矯正と学業とを両立させたプログラムが適用されることである。一方、「教育観察」は少年版保護観察と言うべきものであるが、ここでも成人の「保護観察」に比べてより「教育」に重点を置く点に違いが認められる。

 なお、寡少価値物品の万引きのような軽微な犯則行為や、犯則行為には該当しない非行により補導された少年に対しては、司法のルートに乗せない福祉的な保護対応がなされる。そうした保護対応を担う専門福祉機関として、「未成年者福祉センター」が用意される。

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共産教育論(連載第24回)

2018-12-11 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論 

(7)健康体育
 健康体育科目は、健康の維持・増進を目的とした運動について学ぶ科目である。個々の競技の実習を中心とした競技体育と対照された意味で「健康体育」と名づけられる。
 その点、伝統的な学校教育における体育科目は多種の競技を総花式に教える競技体育を中心としているが、これは個々の生徒の適性や関心を無視した競技の押し付けであるばかりか、個々の競技の技能も上達しない無駄の多い教育方法である。
 基礎教育課程では、各人の適性や関心に大きく依存する音楽や美術などの芸術系教科を基本七科から除外するのと同じ理由から、競技体育は除外し、課外教育体系や個人的な習い事に委ねる。そのほうが、各人が適性と関心を持つ競技に専念できる点でも、効率的である。
 そうした趣旨からしても、基礎教育課程における健康体育科目は、病気やけがを予防するための体操やトレーニングを中心とした「運動実技」と、その前提として基礎的な運動生理を理解する補助領域としての「運動生理」とから構成される。
 「運動実技」は基礎教育課程初等段階から、生徒の身体的な発達度に合わせて内容を変えつつ、全課程に配分される。また身体的な発達に関する科学的な男女差を考慮し、中等段階以降では男女別コースで実施される点、他の科目にない特徴となる。
 抽象性が高いため、基礎教育課程の中等段階後期終盤(ステップ8以降)以降に開始される「運動生理」はおおむね通信制で提供されるが、運動機能測定のような通学制で実施される実習を含む。「運動実技」はその名のとおり「実技」であるから、通学制で提供される。
 こうした当科目の性質に応じて、基礎教育センターにはトレーニングルームを備えた室内運動場のほか、「運動生理」の実習用として種々の機材をそろえた運動機能測定室も設置される。
 なお、当科目は生徒の障碍の有無や内容によっては全面免除したり、機能訓練を兼ねた特別なカリキュラムが用意される場合もあり、個別性の強い科目となる。

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共産教育論(連載第23回)

2018-12-10 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論

(6)生活技能
 生活技能科目は、日常生活における基本的な衣食住に関わる知識と技能を学ぶ科目である。共産主義社会では各人の生活体験に根ざす判断力が重視されるため、日常生活の基本技能を学ぶ生活技術教育は一般教科と同等の重要性を持つ。
 全般に、資本主義下でもたらした技術革新は利便性を偏重し、自分の手で何かを作ったり、直したりする体験を子どものうちから奪った結果、人間はその本来の創造性を失いつつあるように見える。一方で、利便性を促進する機械化・自動化の波を押し戻すことは、共産主義革命といえども無理であり、日常的に使用する機械を正しく安全に操作する訓練も重要である。
 そうした観点から、伝統技能と先端技術が複合された社会における生活人としての素養を涵養することが、当科目の目的と言える。その目的に沿って、当科目は衣食住に関する伝統的な技能を学ぶ「伝統技能分野」と情報機器の扱いに関する「情報技能分野」とに分けられる。
 前者の「伝統技能分野」では、衣食住に関わる日常的な生活技能全般を学ぶ。具体的には家事・育児・介助や簡単な日用大工仕事、さらに清掃などである。ここでは、男子=技術・女子=家庭といった性別役割論に基づくカリキュラムは採用されず、かつ将来家庭を持つ/持たないにかかわらず、およそ生活人としての基礎的な生活技能の習得が目指される。
 この分野は内容的には盛りだくさんであるが、基礎教育課程の初等段階では清掃や簡単な物作りなど子どもとしての生活技能から始め、中等段階以降、次第に家事・育児など独立した生活人としての生活技能へと発展させていく。
 一方、「情報技能分野」は社会道徳科で学ぶ情報倫理を除いた情報の技術的側面に関する総合分野であり、コンピューターの仕組みとその基本的な操作法など情報機器の機械的な技能及び情報ネットワークの安全かつ正当な利用に関する基本的な技能を学ぶ。 
 ちなみに、プログラミングの知識と技能も「情報技能分野」の対象範囲であるが、プログラミングに特化したカリキュラムを組むのではなく、それもコンピューターの仕組みに関する総合的な理解の一環としての位置づけとなる。
 基本七科中、最も実学的要素の強い当科目でも、基礎教育課程全般を貫く課題探求型の内発的教育が妥当し、生徒は一斉に同じ課題をこなすのではなく、自ら関心のある課題を発見し、自ら実習するという方法論が採られる。
 なお、当科目の実習に関しては、設備の必要上、一部は通学制で提供されるが、三次元動画を活用した通信教材を導入すれば、当科目もおおむね通信制で実習することができる。「情報技能分野」は生徒各自に支給される専用端末自体が教材である。

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